小説(転載) インセスタス Incest.3 決壊 1/3
官能小説
「重要なのはその表現の仕方であって、それによって表現されたものなのではない。
──もしそれで人間を解放することができるのならば、わたしは獣姦でも、近親相
姦でさえも、すべて奨励してもいいと思う。殺人をも含めて、それ自体が間違って
いるとか、悪いというものは何もない。間違っているのは、自己を表現することを
怖れることなのである」
ヘンリー・ミラー
Incest.3 決壊
1
降りしきる雨がまるで細かな刃物のように、乃絵美の肢体を切り裂くように打ち
つける。
全身の服がもう──下着までも──水分が染み込み、鉛のように重かった。枷で
拘束された囚人のように重く、ふらつく足取りで乃絵美は歩いている。
もうどれだけ歩いたろうか?
気が付くと、自分の家の前にいる。無意識に、足は慣れた方向へと歩みを進めて
いたらしい。けれど乃絵美はそのことには何の感慨も持たず、無言のまま裏手に回
ると勝手口のノブに手をかけ、中へと入った。
パタン、と閉まるドア。静寂。どうやら父親はまた、店を開けずに留守にしてい
るらしい。
「……っ……う、う……」
──嗚咽。
麻痺していた感情が一気に吹き出してくる。
瞼の奥から涙が溢れ、口からは吐息とともに喘ぎに似た嗚咽が、止まらない。
抱き合っていた。
あのときたしかに正樹の手は菜織の背に回され、菜織の手は正樹の腰に回されて
──ふたりは寄り添っていた。愛を確かめあうように。恋人のように。
(お兄ちゃんたちは、わたしの理想なんだから)
何度となく、自分は正樹にそう言ってきた。だけど今となっては、その想いは乃
絵美の胸をしめつける鎖でしかない。遠目にも見栄えのするふたり。パラドクスに
似たこの想いは、ふたりの姿を何年も見てきた乃絵美だからこそ──心をさいなむ
ほどに強かった。
そして、菜織の肩越しに見た正樹の、あの瞳。視線が交錯したのはただの一瞬で、
正樹は苦しげな瞳で乃絵美を一瞥したあと、振りきるように目を逸らした。
拒絶。
乃絵美は、拒絶されたのだった。
足を踏み出そうとした乃絵美を、正樹は確かにあのとき拒んだ。いつも優しかっ
た兄の瞳に、別の感情がゆらいでいた。それは困惑で、あるいは恐怖で、拒絶で、
そしておそらくは──嫌悪。
嫌悪!
そう思い至ったときに、乃絵美の全身に震えが走った。
がたがたと、肩が揺れる。寒さのためじゃない。じっさい、体は灼けるように熱
い。それでも震えは止まらなくて、嗚咽も止まらなくて、手で肩を必死に押さえて
も、瞼をぬぐってもぬぐっても、涙が溢れてくる。嫌われた! ただそれだけの想
いが、乃絵美の心を駆けめぐっている。それは、恐怖だった。世界の全てが暗闇に、
大地が足元から消え失せてしまうことに似た怖れ。
もう、手をさしのべてくれる人はいない。髪を、頬を、優しく撫でてくれる人も。
もう縁日で鼻緒が切れて転んでも──助け起こしてくれない。笑いかけてくれない。
あたたかな瞳で、見つめてはくれない。だって、おにいちゃんはわたしをきらいに
なってしまった。
乃絵美の思考はもはや、ぐちゃぐちゃになっていた。感情のカオス。矛盾だらけ
の思考のはずなのに、乃絵美の混沌とした心は、それを否定できない。
「……うっ……」
乱れた息のまま、乃絵美はぺたりと、勝手口のドアにもたれかかるように、座り
込む。ぐっしょりと濡れた服からは、ぽたぽたと水滴が垂れ落ちて床を濡らした。
「やだ……」
震えが止まらない。
寒いはずなのに、肢体が灼けるように熱をもっていた。
「やだよう……」
最後の呟きとともに、乃絵美はゆっくりと前のめりに倒れて、意識は闇に吸い込
まれた。
2
無言のまま、正樹と菜織は氷川神社へと登る石段の前で立ち止まった。
正樹の手には件の白い傘が握りしめられている。
けれど正樹はそれをさそうとはせず、だたじっと右手で掴んだままだった。右手
に閉じた白い傘、左手で菜織のグレーの傘をさしながら相合い傘で歩いているふた
りに通行人は奇異の視線を向けたが、正樹はまるで気にしていないようだった。と
いうより、そんなことに神経を向けている余裕がなかったというべきか。
ゆっくりと石段を登りながら、菜織は何か言いたげにちらりと正樹を横目で見や
った。
幼なじみ特有の直感力で、
(なにか、あった)
とすぐさま察したのだろう。だが当の正樹はどこか沈んだ瞳でじっと前を見つめ、
口を開こうとはしない。その視線の先には氷川神社への境内へと続く門がある。が、
視線はそこに向いていても正樹はその実何も見てはいないのだということを菜織は
知っている。
正樹がこんな暗い、沈んだ目をしたことは後にも先にも一度しかない。
7年前──正樹と菜織のもうひとりの幼なじみだった鳴瀬真奈美が、父親の都合
で突然海外転勤になり日本を離れてしまったときのことだ。真奈美は正樹の初恋の
相手だった。あのときの正樹は、見ているこっちの胸がしめつけられるほど暗く沈
んでいた。落ち込みのどん底にあった。菜織はあの手この手で正樹の顔を上げさせ
よう、笑顔を取り戻そうと躍起になっていたのを思い出す。
今の正樹の表情は、あのときにそっくりだった。
視線を落としてみる。正樹の手に握られた白い傘。その柄の部分に、筆記体で持
ち主の名前が彫られている。
Noemi Itoh.
伊藤乃絵美。
菜織は考える。それが意味するものは何か? さっき、戯れというにはあまりに
真剣な表情で、正樹は菜織を抱きよせた。困惑する菜織の背後で、息を飲むような
声がした。続いて、水音。ぱしゃんという何かが落ちる音にかぶさって、誰かが駆
け去った足音。菜織の背に触れていた正樹の手は僅かに震えていて、菜織が振り返
ったときには、道端には白い傘がぽつんと残されていた。
正樹はどこか強ばったような表情で菜織から離れると、小声で「悪い。なんでも
ない」とあやまり、数歩を踏み出して身をかがめると、その白い傘を掴んで、
『──帰ろう』
そう言った。
帰る? この傘の持ち主が乃絵美で、さっき駆け去った人影もまた乃絵美だとし
たら、正樹はなぜ追いかけないのだろう? このふたりの兄妹の間が今ぎくしゃく
していることは、菜織も知っている。正樹の口からも聞いたし、言葉にせずとも正
樹の表情で見てとれた。でも、こんなことは初めてだった。この雨の中を、身を切
るような冷雨の中を、傘もささずに駆け出していった妹を放っておくようなことを、
今まで一度として正樹はしただろうか。
『でも──』
と呟いた菜織に正樹は首を振って、
『いいんだよ』
ぽつりと言った。いいんだよ。いいんだよ。──なにがいいのか。正樹が乃絵美
をどれだけ大切に思っているか、菜織はよく知っている。下の兄弟のいない菜織に
とってはそれが羨ましくもあり、微笑ましくもあった。ふたりの仲睦まじい兄妹仲
はある意味菜織の理想の(それに引き替え、ウチの兄貴ときたら、という苦笑まじ
りの)兄妹像で──ちょうど、乃絵美が正樹と菜織のふたりを理想の恋人像と思っ
ていたように──だから、菜織にしてみれば正樹と乃絵美の間にこんなことがあっ
ていいはずがなかった。仲違いすることぐらい、それはあるだろう。だけど病弱な
乃絵美を1月の冷たい雨の中に放り出すような兄貴では、断じて正樹はなかった。
なかったとしたら。 ・・・
そうしてしまうだけの、正樹にそうさせるだけのなにかが、ふたりの間に起きた
のだ。
「菜織?」
訝しげな正樹の声に、菜織はふと我に返った。
気が付くと境内をすぎ、母屋の前に辿りついていた。
「あ、ごめん。ぼうっとしてた」
苦笑すると、菜織は傘から出て玄関前のひさしの下に入り、くるりと正樹の方を
向いた。
「その傘、持ってっていいから。あ、でもちゃんと返しにきてよ」
「──ああ。悪いな」
正樹が手に持っている白い傘の存在など、まるでないかのような会話。違和感を
覚えながらも、菜織はあえて続けた。本当はなにがあったのか。正樹が乃絵美との
ことで、何を悩んでいるのか。訊きたいことは山ほどあったが、正樹の顔を見てい
ると、どうしても7年前の情景が重なってしまう。
「じゃ……」
「ね」
きびすを返そうとした正樹を、菜織は呼び止めた。
正樹が振り向く。
「私に話すことは、もう──ないの?」
正樹は僅かに眉根を上げたが、静かに首を振った。
「いや、なにも」
呟くように言う。
菜織はもちろん、その言葉が嘘であることを知ってはいたが。
3
雨足はいっそう早くなったようだった。
ゆるやかだが、風は横凪ぎに吹いているようで、傘の下をくぐるようにして雨粒
がコートや制服のズボンを打った。足取りは重い。スニーカーがもうたっぷりと水
を含んでいる。そして、それだけではない何かがまるで正樹の足にのしかかってい
るように感じる重さ。
このまま家に帰って、全てが元通りになるとは、とうてい思えない。
乃絵美はもう、家に帰っているだろう。びしょ濡れに濡れて。それを思うと正樹
の胸はちくりと痛んだ。ちゃんと家に帰っただろうか。体を壊してはいないだろう
か? 自分のした仕打ちなのに、という自己嫌悪の痛みとともに。
しかし、ああすることで千言の言葉をつくすより、正樹の拒絶の意志は乃絵美に
伝わったはずだった。いや、それは誤魔化しにすぎないのかもしれない。言葉にす
ることが怖かったのだ、自分は。言葉で否定しまうことが。第一、何と言えば?
お前の気持ちは嬉しいけど、俺達は兄妹なんだ。だからお前の想いを受け止めるこ
とは、俺にはできない──とでも?
もし、俺達が兄妹じゃなかったら──。
その言葉の裏には、隠せぬそういうニュアンスがどうしても滲み出る。兄妹じゃ
なかったら? 兄妹じゃなかったら、俺は乃絵美を受け入れるのか? その逡巡は
乃絵美にも伝わるだろう。だから、あんなことを、自分はした。言葉で乃絵美を拒
絶するのが怖くて、菜織をだしに使って。
いや、それすら言い訳にすぎないのかもしれない。
自分は、否定してしまうこと自体が、怖かったのかもしれない。「俺はお前を受
け入れることはできない」そう言葉にしてしまうことそのものが、怖かったのかも
しれない。だから、偶然とはいえあんな曖昧な形で乃絵美を拒絶したのではないか。
本当は、俺は、乃絵美を──乃絵美の想いを、
受け入れたいのかもしれない。
「……ッ!」
錯綜する思考を振り切るように、正樹は雨の中を駆け出した。
体が無意識にストライドを大きく取る。水たまりを跳ね、街路樹をすり抜け、正
樹は走った。
叫び声をあげたかった。何もかも忘れて、どこまでも走っていきたかった。
(答えはもう、出ているじゃないか?)
井澄の声がする。乃絵美の悲しげに見開かれた瞳が、脳裏の奥で花火のように爆
ぜた。
──もしそれで人間を解放することができるのならば、わたしは獣姦でも、近親相
姦でさえも、すべて奨励してもいいと思う。殺人をも含めて、それ自体が間違って
いるとか、悪いというものは何もない。間違っているのは、自己を表現することを
怖れることなのである」
ヘンリー・ミラー
Incest.3 決壊
1
降りしきる雨がまるで細かな刃物のように、乃絵美の肢体を切り裂くように打ち
つける。
全身の服がもう──下着までも──水分が染み込み、鉛のように重かった。枷で
拘束された囚人のように重く、ふらつく足取りで乃絵美は歩いている。
もうどれだけ歩いたろうか?
気が付くと、自分の家の前にいる。無意識に、足は慣れた方向へと歩みを進めて
いたらしい。けれど乃絵美はそのことには何の感慨も持たず、無言のまま裏手に回
ると勝手口のノブに手をかけ、中へと入った。
パタン、と閉まるドア。静寂。どうやら父親はまた、店を開けずに留守にしてい
るらしい。
「……っ……う、う……」
──嗚咽。
麻痺していた感情が一気に吹き出してくる。
瞼の奥から涙が溢れ、口からは吐息とともに喘ぎに似た嗚咽が、止まらない。
抱き合っていた。
あのときたしかに正樹の手は菜織の背に回され、菜織の手は正樹の腰に回されて
──ふたりは寄り添っていた。愛を確かめあうように。恋人のように。
(お兄ちゃんたちは、わたしの理想なんだから)
何度となく、自分は正樹にそう言ってきた。だけど今となっては、その想いは乃
絵美の胸をしめつける鎖でしかない。遠目にも見栄えのするふたり。パラドクスに
似たこの想いは、ふたりの姿を何年も見てきた乃絵美だからこそ──心をさいなむ
ほどに強かった。
そして、菜織の肩越しに見た正樹の、あの瞳。視線が交錯したのはただの一瞬で、
正樹は苦しげな瞳で乃絵美を一瞥したあと、振りきるように目を逸らした。
拒絶。
乃絵美は、拒絶されたのだった。
足を踏み出そうとした乃絵美を、正樹は確かにあのとき拒んだ。いつも優しかっ
た兄の瞳に、別の感情がゆらいでいた。それは困惑で、あるいは恐怖で、拒絶で、
そしておそらくは──嫌悪。
嫌悪!
そう思い至ったときに、乃絵美の全身に震えが走った。
がたがたと、肩が揺れる。寒さのためじゃない。じっさい、体は灼けるように熱
い。それでも震えは止まらなくて、嗚咽も止まらなくて、手で肩を必死に押さえて
も、瞼をぬぐってもぬぐっても、涙が溢れてくる。嫌われた! ただそれだけの想
いが、乃絵美の心を駆けめぐっている。それは、恐怖だった。世界の全てが暗闇に、
大地が足元から消え失せてしまうことに似た怖れ。
もう、手をさしのべてくれる人はいない。髪を、頬を、優しく撫でてくれる人も。
もう縁日で鼻緒が切れて転んでも──助け起こしてくれない。笑いかけてくれない。
あたたかな瞳で、見つめてはくれない。だって、おにいちゃんはわたしをきらいに
なってしまった。
乃絵美の思考はもはや、ぐちゃぐちゃになっていた。感情のカオス。矛盾だらけ
の思考のはずなのに、乃絵美の混沌とした心は、それを否定できない。
「……うっ……」
乱れた息のまま、乃絵美はぺたりと、勝手口のドアにもたれかかるように、座り
込む。ぐっしょりと濡れた服からは、ぽたぽたと水滴が垂れ落ちて床を濡らした。
「やだ……」
震えが止まらない。
寒いはずなのに、肢体が灼けるように熱をもっていた。
「やだよう……」
最後の呟きとともに、乃絵美はゆっくりと前のめりに倒れて、意識は闇に吸い込
まれた。
2
無言のまま、正樹と菜織は氷川神社へと登る石段の前で立ち止まった。
正樹の手には件の白い傘が握りしめられている。
けれど正樹はそれをさそうとはせず、だたじっと右手で掴んだままだった。右手
に閉じた白い傘、左手で菜織のグレーの傘をさしながら相合い傘で歩いているふた
りに通行人は奇異の視線を向けたが、正樹はまるで気にしていないようだった。と
いうより、そんなことに神経を向けている余裕がなかったというべきか。
ゆっくりと石段を登りながら、菜織は何か言いたげにちらりと正樹を横目で見や
った。
幼なじみ特有の直感力で、
(なにか、あった)
とすぐさま察したのだろう。だが当の正樹はどこか沈んだ瞳でじっと前を見つめ、
口を開こうとはしない。その視線の先には氷川神社への境内へと続く門がある。が、
視線はそこに向いていても正樹はその実何も見てはいないのだということを菜織は
知っている。
正樹がこんな暗い、沈んだ目をしたことは後にも先にも一度しかない。
7年前──正樹と菜織のもうひとりの幼なじみだった鳴瀬真奈美が、父親の都合
で突然海外転勤になり日本を離れてしまったときのことだ。真奈美は正樹の初恋の
相手だった。あのときの正樹は、見ているこっちの胸がしめつけられるほど暗く沈
んでいた。落ち込みのどん底にあった。菜織はあの手この手で正樹の顔を上げさせ
よう、笑顔を取り戻そうと躍起になっていたのを思い出す。
今の正樹の表情は、あのときにそっくりだった。
視線を落としてみる。正樹の手に握られた白い傘。その柄の部分に、筆記体で持
ち主の名前が彫られている。
Noemi Itoh.
伊藤乃絵美。
菜織は考える。それが意味するものは何か? さっき、戯れというにはあまりに
真剣な表情で、正樹は菜織を抱きよせた。困惑する菜織の背後で、息を飲むような
声がした。続いて、水音。ぱしゃんという何かが落ちる音にかぶさって、誰かが駆
け去った足音。菜織の背に触れていた正樹の手は僅かに震えていて、菜織が振り返
ったときには、道端には白い傘がぽつんと残されていた。
正樹はどこか強ばったような表情で菜織から離れると、小声で「悪い。なんでも
ない」とあやまり、数歩を踏み出して身をかがめると、その白い傘を掴んで、
『──帰ろう』
そう言った。
帰る? この傘の持ち主が乃絵美で、さっき駆け去った人影もまた乃絵美だとし
たら、正樹はなぜ追いかけないのだろう? このふたりの兄妹の間が今ぎくしゃく
していることは、菜織も知っている。正樹の口からも聞いたし、言葉にせずとも正
樹の表情で見てとれた。でも、こんなことは初めてだった。この雨の中を、身を切
るような冷雨の中を、傘もささずに駆け出していった妹を放っておくようなことを、
今まで一度として正樹はしただろうか。
『でも──』
と呟いた菜織に正樹は首を振って、
『いいんだよ』
ぽつりと言った。いいんだよ。いいんだよ。──なにがいいのか。正樹が乃絵美
をどれだけ大切に思っているか、菜織はよく知っている。下の兄弟のいない菜織に
とってはそれが羨ましくもあり、微笑ましくもあった。ふたりの仲睦まじい兄妹仲
はある意味菜織の理想の(それに引き替え、ウチの兄貴ときたら、という苦笑まじ
りの)兄妹像で──ちょうど、乃絵美が正樹と菜織のふたりを理想の恋人像と思っ
ていたように──だから、菜織にしてみれば正樹と乃絵美の間にこんなことがあっ
ていいはずがなかった。仲違いすることぐらい、それはあるだろう。だけど病弱な
乃絵美を1月の冷たい雨の中に放り出すような兄貴では、断じて正樹はなかった。
なかったとしたら。 ・・・
そうしてしまうだけの、正樹にそうさせるだけのなにかが、ふたりの間に起きた
のだ。
「菜織?」
訝しげな正樹の声に、菜織はふと我に返った。
気が付くと境内をすぎ、母屋の前に辿りついていた。
「あ、ごめん。ぼうっとしてた」
苦笑すると、菜織は傘から出て玄関前のひさしの下に入り、くるりと正樹の方を
向いた。
「その傘、持ってっていいから。あ、でもちゃんと返しにきてよ」
「──ああ。悪いな」
正樹が手に持っている白い傘の存在など、まるでないかのような会話。違和感を
覚えながらも、菜織はあえて続けた。本当はなにがあったのか。正樹が乃絵美との
ことで、何を悩んでいるのか。訊きたいことは山ほどあったが、正樹の顔を見てい
ると、どうしても7年前の情景が重なってしまう。
「じゃ……」
「ね」
きびすを返そうとした正樹を、菜織は呼び止めた。
正樹が振り向く。
「私に話すことは、もう──ないの?」
正樹は僅かに眉根を上げたが、静かに首を振った。
「いや、なにも」
呟くように言う。
菜織はもちろん、その言葉が嘘であることを知ってはいたが。
3
雨足はいっそう早くなったようだった。
ゆるやかだが、風は横凪ぎに吹いているようで、傘の下をくぐるようにして雨粒
がコートや制服のズボンを打った。足取りは重い。スニーカーがもうたっぷりと水
を含んでいる。そして、それだけではない何かがまるで正樹の足にのしかかってい
るように感じる重さ。
このまま家に帰って、全てが元通りになるとは、とうてい思えない。
乃絵美はもう、家に帰っているだろう。びしょ濡れに濡れて。それを思うと正樹
の胸はちくりと痛んだ。ちゃんと家に帰っただろうか。体を壊してはいないだろう
か? 自分のした仕打ちなのに、という自己嫌悪の痛みとともに。
しかし、ああすることで千言の言葉をつくすより、正樹の拒絶の意志は乃絵美に
伝わったはずだった。いや、それは誤魔化しにすぎないのかもしれない。言葉にす
ることが怖かったのだ、自分は。言葉で否定しまうことが。第一、何と言えば?
お前の気持ちは嬉しいけど、俺達は兄妹なんだ。だからお前の想いを受け止めるこ
とは、俺にはできない──とでも?
もし、俺達が兄妹じゃなかったら──。
その言葉の裏には、隠せぬそういうニュアンスがどうしても滲み出る。兄妹じゃ
なかったら? 兄妹じゃなかったら、俺は乃絵美を受け入れるのか? その逡巡は
乃絵美にも伝わるだろう。だから、あんなことを、自分はした。言葉で乃絵美を拒
絶するのが怖くて、菜織をだしに使って。
いや、それすら言い訳にすぎないのかもしれない。
自分は、否定してしまうこと自体が、怖かったのかもしれない。「俺はお前を受
け入れることはできない」そう言葉にしてしまうことそのものが、怖かったのかも
しれない。だから、偶然とはいえあんな曖昧な形で乃絵美を拒絶したのではないか。
本当は、俺は、乃絵美を──乃絵美の想いを、
受け入れたいのかもしれない。
「……ッ!」
錯綜する思考を振り切るように、正樹は雨の中を駆け出した。
体が無意識にストライドを大きく取る。水たまりを跳ね、街路樹をすり抜け、正
樹は走った。
叫び声をあげたかった。何もかも忘れて、どこまでも走っていきたかった。
(答えはもう、出ているじゃないか?)
井澄の声がする。乃絵美の悲しげに見開かれた瞳が、脳裏の奥で花火のように爆
ぜた。
コメント