小説(転載) インセスタス Incest.3 決壊 2/3
官能小説
4
どれだけ足が重くとも、帰路は永遠ではない。
菜織に借りたグレーの傘の柄の部分を弄びながら、正樹はロムレットの前に辿り
着いた。エントランスの前に立つ。顔を上げるとくすんだ磨りガラスが填め込まれ
たドアのちょうど目線の部分に、
TIME FOR REST(準備中)
と描かれた木札がかかっていた。父親は外出でもしているのか、店を空けている
らしい。乃絵美も店番に立っていなかった。どこかホッと息をつきながらも、刑の
執行を僅かの時間猶予された囚人のような気分で正樹はドアノブに合鍵をさしこみ、
ゆっくりと開けた。
カラカラン、とベルが鳴る。
照明のスイッチに手を延ばして薄暗い室内に灯をともすと、正樹はカウンターの
部分に荷物を置いて、傘立てに二本の傘を放り込んだ。閉めたばかりのドアに、横
なぎの雨が打ちつける。
室内に音はない。
が、カウンタからダイニングに続く廊下の奥に僅かな光が洩れている。乃絵美が
勝手口から入ったのだろう。父親は正樹に似ず几帳面な性格だから、付け忘れて外
出したとも考えにくい。キッチンに、乃絵美がいるのだ。夕食でも作っているのか
もしれない。
ごくり、と喉が鳴った。
どんな顔をすればいいのか。何と声をかければ?
僅かな逡巡の後、結論はすぐに出た。普段のように、いつものように接すればい
い。ここ二、三日のことはシャツのボタンをかけ間違えた程度の、感情がちょっと
迷い道に入っただけなのだ。ずれたボタンはまたかけ直せばいい。時間が必要だと
しても、自分が毅然とさえしていれば、ふたりは必ず元に戻れる。
(乃絵美を守ってあげてね。正樹はお兄ちゃんなんだから)
お兄ちゃんなんだから。
遠い日の花火のように懐かしい声が、正樹の胸で鳴る。母親の声。膝の上で眠っ
てしまった乃絵美の髪を優しい掌で撫でつけながら、隣でその寝顔を覗きこんでい
た自分に、母さんはそう呟いた。可愛い寝息をたてながら頬をうずめる乃絵美に目
をやりながら、正樹はしっかりとうなずいたのを覚えている。思えば、それが母さ
んと交わした最後の言葉だったような気がする。
乃絵美は、自分が守らなければ。
正樹にとってそれは何よりも大切なことだった。母さんとの約束。それだけじゃ
ない。静かに寝息をたてる乃絵美を幼い自分はどれだけ愛しく大事に思ったか。乃
絵美を、いつも笑顔でいさせたかった。涙なんて決して流させたくはなかった。そ
のためには自分は何でもするつもりだった。
だから、こんなことで泣かせちゃいけない。苦しめてはいけない。
自分にそう信じ込ませるように、正樹はぴちっと自分の頬を軽く叩くと、
「乃絵美?」
意を決してカウンタの奥に声をかけた。
靴箱に無造作に濡れたスニーカーを押し込んで、廊下に上がる。
「大丈夫なのか? たく──傘もささないで……」
キッチンにさしかかり、覗き込むようにして壁に手をつく。
その手が──硬直した。
突然の光景。無造作にキッチンに転がった、影。乃絵美がうつぶせになって、床
に倒れている。ぐっしょりと濡れたエルシアの制服から水滴が垂れ落ち、フローリ
ングの床に小さな池を作っていた。乃絵美はぐったりと、動かない。ただでさえ白
い端正な顔が、さらに青白く生気を消していた。
「の──えみ……」
硬直。それから解放されるのには半秒ほど必要だった。弓から放たれた矢のよう
に正樹は駆け寄ると、ぐったりとした乃絵美の肢体を抱き上げた。
「乃絵美、乃絵美!」
口元に耳を近づける。ささやかな呼吸音がして、正樹は一瞬安堵の息をもらした。
が、すぐにそれをうち消す。乃絵美はびっしりと汗をかいていた。頬に触れると、
灼けるように熱かった。かたかた、と目に見えて分かるくらいに、乃絵美は震えて
いた。目もまだ開かない生まれたての仔犬のように、儚く。
「……ちゃ……」
乃絵美の唇が上下して、音を刻んだ。空気に溶けてしまいそうなほどに細く。
「……お兄ちゃん」
その声は、どんなナイフよりも鋭く正樹の胸を抉った。お兄ちゃん。乃絵美を守
ってあげてね、お兄ちゃん。なのにそのお兄ちゃんは乃絵美に何をした? 乃絵美
が冷たいフローリングの床で全身をずぶ濡れにして、頬を上気させながら苦しげに
震えている。誰のせいだ? 誰の!
さいなむ声を振り切るようにして、ためらわずに正樹は乃絵美の制服に手をかけ
た。乱暴ともいえる手つきで上着をぬがす。白いワイシャツは水を含み、半透明に
なっていた。白い双丘が透けて見えたが、正樹は一瞬のためらいの後ワイシャツの
ボタンを半分ほど外した。早鐘のように上下していた乃絵美の小さな胸が、ゆっく
りと落ち着きを取り戻していく。
肢体を拭いてやりたかったが、さすがにそこまではできない。濡れたスカートも
脱がすと、正樹は乃絵美の肢体を両手に抱きかかえ、立ちあがった。壊れ物を扱う
ようにそっと、歩き始める。気を失った人間は驚くほど重いというが、あれは嘘だ。
正樹は思った。乃絵美は驚くくらいに軽かった。このまま腕の中から消えてしまっ
ても不思議はないくらいに。儚いほどに。
「乃絵美」
階段を上りながら、正樹は呟いた。
それ以上言葉が続かない。2階の廊下へと登り、体で押すようにして乃絵美の部
屋のドアを開け、掛け布団をめくって乃絵美を横たえるまで、誇張ではなく呼吸す
ら正樹は忘れていた。乃絵美を見る。あのとき母親の膝で穏やかな寝息をたててい
た乃絵美が、今は苦しげな息をもらしている。青白い顔。けれど、美しかった。病
的な、それはあるいは一種魔的な美だったかもしれないが、乱れた濡れ髪が、色を
失った唇が、まるで月明かりだけを糧にして暗闇の中に咲く竜胆の花のように映っ
た。
どきり、と胸が鳴った。
こんなときに、俺は何を考えているんだ。その感情を振り払うようにして正樹は
部屋を出、タオルを取るために1階へと降りた。意味もなく自分の唇に指で触れる。
昨日の夜、この唇に、たしかに──
「──ッ」
舌打ちして、正樹は乱暴に洗面所のドアを開けた。誰に対して、何について苛立
っているのか、自分でも分からないままに。
5
夢の中で、乃絵美は泣いていた。
記憶の砂時計がゆっくりと逆転し、セピアに染まった情景がカレイドスコープの
ように整然と浮かんでは消える。心景のフィルムが静かに逆回転していくような感
覚。
キスしたとき、とまどった顔で私を見ていたお兄ちゃん。
まっすぐゴールだけを見つめながら、風のようにテープを切るお兄ちゃん。
エルシアに合格したとき、まるで自分のことのように喜んでくれたお兄ちゃん。
初めて料理を作ったとき、本当は食べれたものじゃないはずなのに、「美味しい」
と言って笑ってくれたお兄ちゃん。
友達との約束を断っても、倒れてしまったわたしを、ずっと看病してくれたお兄
ちゃん。
記憶のかけらが雪のように降り積もる。そうだ。昔から、ずっと昔から──わた
しはお兄ちゃんのことが大好きだった。
乃絵美は微睡みの中で想った。思えば、自分の記憶はいつも正樹のそれと共にあ
った。心の中のアルバムに、正樹の映っていないものなど、おそらく一枚もない。
生まれてきたときからずっと一緒にいた兄妹。一番近くにいてくれた男性。なのに、
どうしてその人を好きになっちゃいけないんだろう?
──乃絵美は思う。
兄妹は、きっとこの世で一番近い存在なのかもしれない。
父とも、母とも、結局は半分の繋がりしかない。自分の肉体の半分を父からもら
い、もう半分を母からもらったとするならば。でも、兄妹は違う。同父同母からま
さしく「血を分けあって」生まれた兄妹というのは──まったく別の存在でありな
がら同時にまったく同じもので出来ている。まるで、神さまがあつらえたかのよう
に。
錯綜する思考とともない、記憶はゆっくりと逆行していく。逆転した砂時計から
砂がひと粒ずつ落ちるごとに、夢の中の乃絵美の背も少しずつ縮んでいく。
(ごめんなさい、ごめんなさい……)
あれは、いつのことだったろう。
たしかなのは、あのときはまだ正樹も乃絵美も、ランドセルを背負っていたとい
うことだ。あのとき、たった一度だけ、そう、本当にたった一度だけ──正樹が乃
絵美を突き放したことがある。いつも優しかったお兄ちゃんの笑顔は暗く、乃絵美
を見る目もどこか冷たかったあの日。乃絵美の何気ないひと言に、正樹は爆発した。
「うるさい! お前になにが分かる! あっちへ行け!」
子供の頃は察する由もなかったが、そのとき正樹は折しも真奈美との突然の別れ
を──幼い胸が失うことの悲しみを経験したばかりのことだった。けれど、まだき
っと10歳になるならずだった乃絵美にとってみれば、そんな理由は察するべくも
ない。
──あっちへ行け!
あっちへ行け。あっちへ。言葉が弾丸になって胸を撃ち抜くような感覚。突然地
面が消え失せたような不安。
やはりそれはきっと──恐怖だったのだろう。その証拠に、あのとき幼い乃絵美
の肩は震え、頬はとめどなく涙で濡れていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……!」
すがりついて、泣きじゃくっていた。
「ごめんなさい、お兄ちゃん。ごめんなさい。嫌いにならないで……!」
そう叫ぶ乃絵美を、正樹は困ったような、自分の言葉が考えていた以上に幼い妹
の胸を抉ってしまったことに戸惑うような──そんな表情ですがりつく乃絵美を静
かに抱きとめていた。「言い過ぎた、ゴメンな」。耳元で言う。優しく髪を撫でる
手。
あのときは、正樹は許してくれた。
でも、今度は?
もしかしたら、今度こそ──
ゆっくりと、逆行していた記憶が立ち戻っていく。
不安と、恐怖と、寒さとで、全身が震えているのが分かる。が、不意に、乃絵美
は全身を覆う悪寒がゆっくりと薄らいでいくのを感じていた。
微睡みの中でぼんやりと、自分の体重が軽くなっていくような感覚。
誰かに、抱きあげられているような感じがする。思考は薄もやがかかったように
不鮮明だったが、乃絵美はたしかにこの温もりを知っていた。絶対的な安心感。今
まで、どれだけこの温もりに守ってもらっていたことだろう?
「…………」
夢の中のことなのか、それとも現実か判断できないまま、乃絵美の唇が音を刻ん
だ。けれど、それはかすれて声にならずに──空気の中に溶け、乃絵美の思考はま
たゆっくりと闇の中へ埋没していった。
6
乃絵美をベッドに寝かせた後、その額に濡らしたタオルを当ててやりながら、正
樹も昔を思い起こしていた。
ずっと昔、真奈美と別れたあの日──正樹の胸にはぽっかりと穴が空いてしまっ
たようだった。おそらく、初恋だったんだろうと自分でも思う。自分でも驚くくら
いに、あの突然の別れは自分の胸に影を落とした。追いつけなかった悔しさ。何も
伝えることのできなかったもどかしさ。自分が世界で1番だらしなく、情けない人
間に思えた。
──あのとき、少しでも早く走ることができていたら──。
陸上を始めた理由に、あのときのことが関わっていなかったといえば嘘になる。
今考えれば赤面してしまうくらいに、あのときの自分はどうしようもなかった、
と正樹は思う。陸上に出会うまで──自分はどれだけ荒れていたろうか。乃絵美と
菜織がずっと自分の傍にいてくれなければ、今の自分はなかったかもしれない。で
もあの頃はもちろんそんな分別はなくて、何くれと自分を気にかけてくれるふたり
が疎ましかった。
いつだったろう、そんな自分に乃絵美が言ったのは。
「お兄ちゃん、ダメだよ。お兄ちゃんがそんな顔してたら真奈美ちゃんだって……」
多分、ひどい顔をしてたんだろう。乃絵美が見ていられないくらいに。けれど、
あのときの自分はその乃絵美の気づかいが疎ましくて仕方なかった。
「真奈美ちゃんだって、なんだよ」
「え?」
「お前になにが分かるんだよ!」
「……おにいちゃん、……あの……」
「うるさい! あっちへ行け!」
理不尽な怒り。それは分かってた。でも、あのときの自分は苛立ちをなにかにぶ
つけたかった。案の定、乃絵美は雷にうたれたように萎縮し、全身を強ばらせた。
うつむく小さな顔。そうだ、あっちへ行ってくれ。俺をひとりにしてくれ。今は
なにも考えたくないんだ。
けれど──。
「…………」
絨毯を、ぽたぽたと雫が染みを作っていくのを見て、俺はハッと顔を上げた。乃
絵美が泣いていた。小さな肩を震わせて、嗚咽に耐えるように。
「あ──」
「ごめ……なさい……」
唇が上下して、言葉を紡ぎ出す。
「ごめんなさい、ごめんなさい……!」
なんだよ、どうしてあやまるんだよ──。たぶん、あのときの自分は相当混乱し
ていたに違いない。理不尽な怒りをぶつけてしまったのは自分なのに。戸惑いをよ
そに、乃絵美は泣きじゃくりながら、体をあずけてくる。
シャツを掴んで、全身で引きとめるように。
「……ならないで……!」
──すがるように。
「嫌いにならないで、お兄ちゃん。嫌いにならないで……」
嫌いにならないで。なんて弱い言葉だろうと思った。そして、今さら驚くほどに
──あずけてくる乃絵美の肢体の軽さに気づく。肩の細さ。声の儚さ。消えてしま
いそうなくらいの──。
後悔の念が胸の奥から吹き出してくる。自分はこの小さな妹をずっと守っていく
と誓ったのではなかったか。それなのに、今の自分はどうだ。過ぎたことにいつま
でも囚われて、くよくよして──。乃絵美にも、菜織にも、心配ばかりかけて。
なぜ気づいてやれなかったんだろう。正樹がろくに食事も取っていなかったよう
に、乃絵美だって心配で満足に食事も、睡眠も、取っていないんだということに。
そして自分以上に、乃絵美にとってそれは体を蝕むのだということに。この折れ飛
んでしまいそうな乃絵美の儚さと軽さは──自分のせいだということに。
「ごめんな……」
嗚咽をあげる乃絵美の小さな白い首を優しく抱きとめながら、正樹は呟いた。
「言い過ぎた……俺。ごめん」
乃絵美の部屋の柱時計の長針がかちり、と動いて、正樹はハッと回想の海から現
実へと引き戻された。
ベッドの上の乃絵美を見やる。上気していた頬は幾分穏やかになり、手を当てて
みると熱もずいぶんと引いたようだった。タオルを替えてやりながら、正樹は自嘲
の溜息をもらした。
──結局、あのときから俺は何も変わってない。
自分では乃絵美を守ってやっているつもりだったのに、あのときと同じように、
傷つけて、苦しませている。
「ごめんな……」
ぽつりと呟く。
白い頬をなぞる。小さかったあの頃のような、どこかあどけなさを残したその頬
は、正樹の指にささやかな弾力を返した。
かすれた唇が、ゆっくりと震える。
刻まれる音。
「……おにいちゃん……」
寝言のようだった。その証拠に、瞼は閉じられて、胸は規則的に上下している。
「……ちゃんと、いるよ」
呟きを返して、正樹はゆっくりと椅子に腰を下ろした。少し離れた場所で、乃絵
美に目をやる。
「おにいちゃん、なのにな……」
拳に、無意識に力が入る。
喉の奥から、こぼれ出すように、呟く。
「なのに、なにしてんだろうな……俺」
どれだけ足が重くとも、帰路は永遠ではない。
菜織に借りたグレーの傘の柄の部分を弄びながら、正樹はロムレットの前に辿り
着いた。エントランスの前に立つ。顔を上げるとくすんだ磨りガラスが填め込まれ
たドアのちょうど目線の部分に、
TIME FOR REST(準備中)
と描かれた木札がかかっていた。父親は外出でもしているのか、店を空けている
らしい。乃絵美も店番に立っていなかった。どこかホッと息をつきながらも、刑の
執行を僅かの時間猶予された囚人のような気分で正樹はドアノブに合鍵をさしこみ、
ゆっくりと開けた。
カラカラン、とベルが鳴る。
照明のスイッチに手を延ばして薄暗い室内に灯をともすと、正樹はカウンターの
部分に荷物を置いて、傘立てに二本の傘を放り込んだ。閉めたばかりのドアに、横
なぎの雨が打ちつける。
室内に音はない。
が、カウンタからダイニングに続く廊下の奥に僅かな光が洩れている。乃絵美が
勝手口から入ったのだろう。父親は正樹に似ず几帳面な性格だから、付け忘れて外
出したとも考えにくい。キッチンに、乃絵美がいるのだ。夕食でも作っているのか
もしれない。
ごくり、と喉が鳴った。
どんな顔をすればいいのか。何と声をかければ?
僅かな逡巡の後、結論はすぐに出た。普段のように、いつものように接すればい
い。ここ二、三日のことはシャツのボタンをかけ間違えた程度の、感情がちょっと
迷い道に入っただけなのだ。ずれたボタンはまたかけ直せばいい。時間が必要だと
しても、自分が毅然とさえしていれば、ふたりは必ず元に戻れる。
(乃絵美を守ってあげてね。正樹はお兄ちゃんなんだから)
お兄ちゃんなんだから。
遠い日の花火のように懐かしい声が、正樹の胸で鳴る。母親の声。膝の上で眠っ
てしまった乃絵美の髪を優しい掌で撫でつけながら、隣でその寝顔を覗きこんでい
た自分に、母さんはそう呟いた。可愛い寝息をたてながら頬をうずめる乃絵美に目
をやりながら、正樹はしっかりとうなずいたのを覚えている。思えば、それが母さ
んと交わした最後の言葉だったような気がする。
乃絵美は、自分が守らなければ。
正樹にとってそれは何よりも大切なことだった。母さんとの約束。それだけじゃ
ない。静かに寝息をたてる乃絵美を幼い自分はどれだけ愛しく大事に思ったか。乃
絵美を、いつも笑顔でいさせたかった。涙なんて決して流させたくはなかった。そ
のためには自分は何でもするつもりだった。
だから、こんなことで泣かせちゃいけない。苦しめてはいけない。
自分にそう信じ込ませるように、正樹はぴちっと自分の頬を軽く叩くと、
「乃絵美?」
意を決してカウンタの奥に声をかけた。
靴箱に無造作に濡れたスニーカーを押し込んで、廊下に上がる。
「大丈夫なのか? たく──傘もささないで……」
キッチンにさしかかり、覗き込むようにして壁に手をつく。
その手が──硬直した。
突然の光景。無造作にキッチンに転がった、影。乃絵美がうつぶせになって、床
に倒れている。ぐっしょりと濡れたエルシアの制服から水滴が垂れ落ち、フローリ
ングの床に小さな池を作っていた。乃絵美はぐったりと、動かない。ただでさえ白
い端正な顔が、さらに青白く生気を消していた。
「の──えみ……」
硬直。それから解放されるのには半秒ほど必要だった。弓から放たれた矢のよう
に正樹は駆け寄ると、ぐったりとした乃絵美の肢体を抱き上げた。
「乃絵美、乃絵美!」
口元に耳を近づける。ささやかな呼吸音がして、正樹は一瞬安堵の息をもらした。
が、すぐにそれをうち消す。乃絵美はびっしりと汗をかいていた。頬に触れると、
灼けるように熱かった。かたかた、と目に見えて分かるくらいに、乃絵美は震えて
いた。目もまだ開かない生まれたての仔犬のように、儚く。
「……ちゃ……」
乃絵美の唇が上下して、音を刻んだ。空気に溶けてしまいそうなほどに細く。
「……お兄ちゃん」
その声は、どんなナイフよりも鋭く正樹の胸を抉った。お兄ちゃん。乃絵美を守
ってあげてね、お兄ちゃん。なのにそのお兄ちゃんは乃絵美に何をした? 乃絵美
が冷たいフローリングの床で全身をずぶ濡れにして、頬を上気させながら苦しげに
震えている。誰のせいだ? 誰の!
さいなむ声を振り切るようにして、ためらわずに正樹は乃絵美の制服に手をかけ
た。乱暴ともいえる手つきで上着をぬがす。白いワイシャツは水を含み、半透明に
なっていた。白い双丘が透けて見えたが、正樹は一瞬のためらいの後ワイシャツの
ボタンを半分ほど外した。早鐘のように上下していた乃絵美の小さな胸が、ゆっく
りと落ち着きを取り戻していく。
肢体を拭いてやりたかったが、さすがにそこまではできない。濡れたスカートも
脱がすと、正樹は乃絵美の肢体を両手に抱きかかえ、立ちあがった。壊れ物を扱う
ようにそっと、歩き始める。気を失った人間は驚くほど重いというが、あれは嘘だ。
正樹は思った。乃絵美は驚くくらいに軽かった。このまま腕の中から消えてしまっ
ても不思議はないくらいに。儚いほどに。
「乃絵美」
階段を上りながら、正樹は呟いた。
それ以上言葉が続かない。2階の廊下へと登り、体で押すようにして乃絵美の部
屋のドアを開け、掛け布団をめくって乃絵美を横たえるまで、誇張ではなく呼吸す
ら正樹は忘れていた。乃絵美を見る。あのとき母親の膝で穏やかな寝息をたててい
た乃絵美が、今は苦しげな息をもらしている。青白い顔。けれど、美しかった。病
的な、それはあるいは一種魔的な美だったかもしれないが、乱れた濡れ髪が、色を
失った唇が、まるで月明かりだけを糧にして暗闇の中に咲く竜胆の花のように映っ
た。
どきり、と胸が鳴った。
こんなときに、俺は何を考えているんだ。その感情を振り払うようにして正樹は
部屋を出、タオルを取るために1階へと降りた。意味もなく自分の唇に指で触れる。
昨日の夜、この唇に、たしかに──
「──ッ」
舌打ちして、正樹は乱暴に洗面所のドアを開けた。誰に対して、何について苛立
っているのか、自分でも分からないままに。
5
夢の中で、乃絵美は泣いていた。
記憶の砂時計がゆっくりと逆転し、セピアに染まった情景がカレイドスコープの
ように整然と浮かんでは消える。心景のフィルムが静かに逆回転していくような感
覚。
キスしたとき、とまどった顔で私を見ていたお兄ちゃん。
まっすぐゴールだけを見つめながら、風のようにテープを切るお兄ちゃん。
エルシアに合格したとき、まるで自分のことのように喜んでくれたお兄ちゃん。
初めて料理を作ったとき、本当は食べれたものじゃないはずなのに、「美味しい」
と言って笑ってくれたお兄ちゃん。
友達との約束を断っても、倒れてしまったわたしを、ずっと看病してくれたお兄
ちゃん。
記憶のかけらが雪のように降り積もる。そうだ。昔から、ずっと昔から──わた
しはお兄ちゃんのことが大好きだった。
乃絵美は微睡みの中で想った。思えば、自分の記憶はいつも正樹のそれと共にあ
った。心の中のアルバムに、正樹の映っていないものなど、おそらく一枚もない。
生まれてきたときからずっと一緒にいた兄妹。一番近くにいてくれた男性。なのに、
どうしてその人を好きになっちゃいけないんだろう?
──乃絵美は思う。
兄妹は、きっとこの世で一番近い存在なのかもしれない。
父とも、母とも、結局は半分の繋がりしかない。自分の肉体の半分を父からもら
い、もう半分を母からもらったとするならば。でも、兄妹は違う。同父同母からま
さしく「血を分けあって」生まれた兄妹というのは──まったく別の存在でありな
がら同時にまったく同じもので出来ている。まるで、神さまがあつらえたかのよう
に。
錯綜する思考とともない、記憶はゆっくりと逆行していく。逆転した砂時計から
砂がひと粒ずつ落ちるごとに、夢の中の乃絵美の背も少しずつ縮んでいく。
(ごめんなさい、ごめんなさい……)
あれは、いつのことだったろう。
たしかなのは、あのときはまだ正樹も乃絵美も、ランドセルを背負っていたとい
うことだ。あのとき、たった一度だけ、そう、本当にたった一度だけ──正樹が乃
絵美を突き放したことがある。いつも優しかったお兄ちゃんの笑顔は暗く、乃絵美
を見る目もどこか冷たかったあの日。乃絵美の何気ないひと言に、正樹は爆発した。
「うるさい! お前になにが分かる! あっちへ行け!」
子供の頃は察する由もなかったが、そのとき正樹は折しも真奈美との突然の別れ
を──幼い胸が失うことの悲しみを経験したばかりのことだった。けれど、まだき
っと10歳になるならずだった乃絵美にとってみれば、そんな理由は察するべくも
ない。
──あっちへ行け!
あっちへ行け。あっちへ。言葉が弾丸になって胸を撃ち抜くような感覚。突然地
面が消え失せたような不安。
やはりそれはきっと──恐怖だったのだろう。その証拠に、あのとき幼い乃絵美
の肩は震え、頬はとめどなく涙で濡れていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……!」
すがりついて、泣きじゃくっていた。
「ごめんなさい、お兄ちゃん。ごめんなさい。嫌いにならないで……!」
そう叫ぶ乃絵美を、正樹は困ったような、自分の言葉が考えていた以上に幼い妹
の胸を抉ってしまったことに戸惑うような──そんな表情ですがりつく乃絵美を静
かに抱きとめていた。「言い過ぎた、ゴメンな」。耳元で言う。優しく髪を撫でる
手。
あのときは、正樹は許してくれた。
でも、今度は?
もしかしたら、今度こそ──
ゆっくりと、逆行していた記憶が立ち戻っていく。
不安と、恐怖と、寒さとで、全身が震えているのが分かる。が、不意に、乃絵美
は全身を覆う悪寒がゆっくりと薄らいでいくのを感じていた。
微睡みの中でぼんやりと、自分の体重が軽くなっていくような感覚。
誰かに、抱きあげられているような感じがする。思考は薄もやがかかったように
不鮮明だったが、乃絵美はたしかにこの温もりを知っていた。絶対的な安心感。今
まで、どれだけこの温もりに守ってもらっていたことだろう?
「…………」
夢の中のことなのか、それとも現実か判断できないまま、乃絵美の唇が音を刻ん
だ。けれど、それはかすれて声にならずに──空気の中に溶け、乃絵美の思考はま
たゆっくりと闇の中へ埋没していった。
6
乃絵美をベッドに寝かせた後、その額に濡らしたタオルを当ててやりながら、正
樹も昔を思い起こしていた。
ずっと昔、真奈美と別れたあの日──正樹の胸にはぽっかりと穴が空いてしまっ
たようだった。おそらく、初恋だったんだろうと自分でも思う。自分でも驚くくら
いに、あの突然の別れは自分の胸に影を落とした。追いつけなかった悔しさ。何も
伝えることのできなかったもどかしさ。自分が世界で1番だらしなく、情けない人
間に思えた。
──あのとき、少しでも早く走ることができていたら──。
陸上を始めた理由に、あのときのことが関わっていなかったといえば嘘になる。
今考えれば赤面してしまうくらいに、あのときの自分はどうしようもなかった、
と正樹は思う。陸上に出会うまで──自分はどれだけ荒れていたろうか。乃絵美と
菜織がずっと自分の傍にいてくれなければ、今の自分はなかったかもしれない。で
もあの頃はもちろんそんな分別はなくて、何くれと自分を気にかけてくれるふたり
が疎ましかった。
いつだったろう、そんな自分に乃絵美が言ったのは。
「お兄ちゃん、ダメだよ。お兄ちゃんがそんな顔してたら真奈美ちゃんだって……」
多分、ひどい顔をしてたんだろう。乃絵美が見ていられないくらいに。けれど、
あのときの自分はその乃絵美の気づかいが疎ましくて仕方なかった。
「真奈美ちゃんだって、なんだよ」
「え?」
「お前になにが分かるんだよ!」
「……おにいちゃん、……あの……」
「うるさい! あっちへ行け!」
理不尽な怒り。それは分かってた。でも、あのときの自分は苛立ちをなにかにぶ
つけたかった。案の定、乃絵美は雷にうたれたように萎縮し、全身を強ばらせた。
うつむく小さな顔。そうだ、あっちへ行ってくれ。俺をひとりにしてくれ。今は
なにも考えたくないんだ。
けれど──。
「…………」
絨毯を、ぽたぽたと雫が染みを作っていくのを見て、俺はハッと顔を上げた。乃
絵美が泣いていた。小さな肩を震わせて、嗚咽に耐えるように。
「あ──」
「ごめ……なさい……」
唇が上下して、言葉を紡ぎ出す。
「ごめんなさい、ごめんなさい……!」
なんだよ、どうしてあやまるんだよ──。たぶん、あのときの自分は相当混乱し
ていたに違いない。理不尽な怒りをぶつけてしまったのは自分なのに。戸惑いをよ
そに、乃絵美は泣きじゃくりながら、体をあずけてくる。
シャツを掴んで、全身で引きとめるように。
「……ならないで……!」
──すがるように。
「嫌いにならないで、お兄ちゃん。嫌いにならないで……」
嫌いにならないで。なんて弱い言葉だろうと思った。そして、今さら驚くほどに
──あずけてくる乃絵美の肢体の軽さに気づく。肩の細さ。声の儚さ。消えてしま
いそうなくらいの──。
後悔の念が胸の奥から吹き出してくる。自分はこの小さな妹をずっと守っていく
と誓ったのではなかったか。それなのに、今の自分はどうだ。過ぎたことにいつま
でも囚われて、くよくよして──。乃絵美にも、菜織にも、心配ばかりかけて。
なぜ気づいてやれなかったんだろう。正樹がろくに食事も取っていなかったよう
に、乃絵美だって心配で満足に食事も、睡眠も、取っていないんだということに。
そして自分以上に、乃絵美にとってそれは体を蝕むのだということに。この折れ飛
んでしまいそうな乃絵美の儚さと軽さは──自分のせいだということに。
「ごめんな……」
嗚咽をあげる乃絵美の小さな白い首を優しく抱きとめながら、正樹は呟いた。
「言い過ぎた……俺。ごめん」
乃絵美の部屋の柱時計の長針がかちり、と動いて、正樹はハッと回想の海から現
実へと引き戻された。
ベッドの上の乃絵美を見やる。上気していた頬は幾分穏やかになり、手を当てて
みると熱もずいぶんと引いたようだった。タオルを替えてやりながら、正樹は自嘲
の溜息をもらした。
──結局、あのときから俺は何も変わってない。
自分では乃絵美を守ってやっているつもりだったのに、あのときと同じように、
傷つけて、苦しませている。
「ごめんな……」
ぽつりと呟く。
白い頬をなぞる。小さかったあの頃のような、どこかあどけなさを残したその頬
は、正樹の指にささやかな弾力を返した。
かすれた唇が、ゆっくりと震える。
刻まれる音。
「……おにいちゃん……」
寝言のようだった。その証拠に、瞼は閉じられて、胸は規則的に上下している。
「……ちゃんと、いるよ」
呟きを返して、正樹はゆっくりと椅子に腰を下ろした。少し離れた場所で、乃絵
美に目をやる。
「おにいちゃん、なのにな……」
拳に、無意識に力が入る。
喉の奥から、こぼれ出すように、呟く。
「なのに、なにしてんだろうな……俺」
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