小説(転載) インセスタス Incest.3 決壊 3/3
官能小説
7
─January.25 / Noemi's room─
薄いもやのようなものがゆっくりと晴れていくような感覚を覚えながら、乃絵美
は瞼を開いた。
視界はまだフィルターがかかっているように不鮮明だったが、意識は徐々に形を
為していく。最初に目に入ったのは部屋の白い天井だった。
(こんなに高かったっけ……)
ぼんやりと思う。遠近感が、まだしっかりしていないのかもしれない。
思考もまだ、あやふやだ。自分はどうしたのだろう。たしか、キッチンで倒れて、
それで──。
冷たい、闇の中に落ちて。
「…………」
ゆっくりと記憶が甦ってくる。
あのとき──暗い微睡みの中で震えていたとき、誰かに、抱き上げられたような
感覚がした。凍てついた世界から救いあげてくれたぬくもり。──息づかい。16
年間、肌越しに感じてきた安心感。
いつか失う日が来ることに、ずっと怯えていたもの。そして、それは必然である
べきだったはずなのに。
乃絵美の頬を、涙がつたった。
どうして? どうしてそんなに優しくするの? わたしは、わたしは──拒絶さ
れたのに。なのにどうして、温めてくれるの? 触れてくれるの? どうして、希
望を持たせたり──
乃絵美はゆっくりと首を動かして、ドアの方を見た。少し、頭が痛い。けれどそ
んな痛みはまるで気にならずに、ナイトテーブルに寄りかかって目を閉じている青
年に視線を向ける。すぐ脇の時計は午前4時を過ぎていた。あれからまる半日はた
ったのだろう。その間きっと正樹は──ずっと傍についていてくれたのだ。
けれど、今の乃絵美にはその優しさが、胸に痛い。たとえどれだけ優しさをくれ
ても、いたわりをくれても、それは兄の妹に対する親愛にすぎないのだ。そんなも
のが、ほしいのじゃなかった。うまく言葉に出来ないけれど、乃絵美が欲しいのは
もっと違ったもの。
(欲張りだ……わたし……)
小さな拳をきゅっと握りながら思う。決して手に入れられないことを代償に、誰
よりも正樹の傍にいることを許されたはずなのに──それでもまだ足りない。抱い
てはいけないはずの想いに胸を焦がして、それがために正樹を困惑させて。──拒
絶されて。
──どうしちゃったんだろう。
わたしは、どうしちゃったんだろう。ずっと好きだった。だけどその想いはいつ
か自分の胸の奥で静かに消えていく日が来るはずだった。それなのに今は──
──今は、熱病に冒されたように、全身を駆けめぐっている。
失いたくない。奪われたくない。
「……ずっと一緒にいたいよ……」
ふらつく体をささえて、ゆっくりと身を起こす。さっきは気にならなかったのに、
じん、と頭が痛む。
正樹を見る。静かな寝息。あれからずっと傍にいてくれたのだとしたら、相当疲
労が溜まっているに違いない。その口元に視線を向ける。あの夜、自分が触れた場
所。
触れたい。触れてほしい気持ちと同じくらいに、わたしもお兄ちゃんに触れたい。
ごくり、と喉がなる。
ベッドから降りると、地面が大きく揺れた気がした。ふらつく足。じんじんと痛
む頭。省みると、自分はまだワイシャツのままだった。汗と雨水で濡れている。け
れど、不思議と不快感は感じない。全身を流れる灼けるような熱がすべてを蒸化し
てしまうような気がする。
「お兄ちゃん」
乃絵美は呼びかける。
たった数十センチの距離が、遠い地の果てのように思える。
二歩。
右足と左足を一歩ずつ踏み出すだけ。それだけで触れられるのに。ひどく遠い。
震える足で、一歩。
じん、と痛みが走る。
ぺたん、と膝をつく。じん、じん、と響く痛み。
ゆっくりと手を延ばす。指先は、ちょっと揺れていた。暖かな頬に触れる。吐息
を、てのひらに感じる。
「……お兄ちゃん」
ごめんね、という最後の呟きはかすれて声にならなかった。
だけど、触れたい。もっと強く、お兄ちゃんを感じたい。それがおかしなことだ
としても、わたしは。
じん。
わたしは──あなたを──
じん。
たとえ──
──それが許されないことだとしても。
触れあう唇。
8
ずっと──触れていた。
呼吸を忘れるくらいに長く。やがて、包まれる体。肩に、背に、暖かな手の感触
がある。
「──おに、ちゃん、目、覚め──」
唇を離して声を上げようとする乃絵美を、正樹はそっと抱きしめた。
気がつくと、体が震えていた。乃絵美の体だけではなく、正樹のそれも。その震
えを止めようとするように、お互いの温もりを分け合うように、正樹が乃絵美を抱
く手に力を込める。
「──どうして」
ぽつり、と頭上で呟く声。
顔を上げると、正樹がじっと乃絵美を見つめていた。困惑を少し残した、揺れる
瞳。
「どうしてだ、乃絵美? ──どうして?」
「ごめ……なさい」
「あやまるな。──あやまるなよ」
抱きしめる手が震える。
「わから、ない……」
正樹の胸に頬をうずめて、乃絵美は答えた。
「わからない。どうしてなんて──わたしだって……」
「…………」
「でも……嫌なの。お兄ちゃんが遠くにいっちゃうって、他のひとのところにいっ
ちゃうって、そう考えただけで胸がくるしくて……わたし……」
嗚咽まじりに、言う。
正樹のシャツを掴みながら、乃絵美は顔を上げた。
涙に濡れた瞳で、それでも正樹をしっかりと見つめる。
「わたし……」
熱に浮かされたような声。
正樹の唇が動いた。音にならない声。言うな。それ以上は。言ったら、言ったら
もう──
「わたし……お兄ちゃんが好きだから」
──もう、戻れない。
「…………」
細い、けれど確かな告白の言葉が耳を打ったとき──正樹はぎゅっと強く、乃絵
美の肩を抱きしめた。
どれだけこの言葉を怖れてきたことだろう?
どれだけこの言葉を待っていたことだろう?
分かってたんだろう、きっと。乃絵美の気持ちも。自分の気持ちも。たぶん、ず
っと知っていた。だけど、その想いを認めたくなかった。気持ちが言葉になること
が──
「……怖かったんだ……」
耳元で。かすれる声で。
「こわ……い?」
「だって、こんな感情、普通じゃない。乃絵美、兄妹なんだよ、俺たちは。兄妹な
んだ。なのに──」
「でも──」
「でもじゃない!」
乃絵美の肩を掴むようにして、正樹は叫んだ。
「駄目なんだよ。駄目なんだ。どんなに好きでも、駄目なんだよ──分かるだろ?」
「……分からないよ……」
「なんでだよ、簡単なことだろう?! 馬鹿!」
「馬鹿だよ! わたし馬鹿だもん! そんなにたくさんのことなんて分からない!
わたしはお兄ちゃんのことが好きだもん、他のことなんて分からないよ……!」
乃絵美が涙まじりの声をあげた。
細い二本の腕が、きつく正樹のシャツを掴む。
「それしか……分からないよ……」
正樹の白いシャツに、ぽた、ぽた、と雫が落ちた。シャツを握りしめる小さな手
が震えている。
「どうして? どうして駄目なの? ずっと一緒にいたのに──だからこれからも
ずっと一緒にいたいだけなのに! もっとお兄ちゃんを近くに感じたいだけなのに
……!」
堰を切ったように、乃絵美の唇から感情が溢れだしてくる。
胸の奥にずっとしまっていたはずの想いが膨れ上がって──決壊する。
ずっと、兄への思慕だと思っていた。それだけのはずだったのに、そうじゃない
と気づいたのはいつからだろう。歯車はどこでずれはじめたのだろう。気づくこと
すらないまま一生を終えるはずだった感情。ほんの少しの神さまの悪戯。真奈美が
転校しなかったら? 柴崎拓也とすれ違いがなかったら? 正樹が城南大からスカ
ウトされなかったら? ──昨日、雨が降らなかったら?
けれど──もう遅い。もう。気づいてしまった。分かってしまった。
「乃絵美……」
正樹が声を洩らした。
「俺は……」
かすれる喉。何を言おうとしているのか、自分でも分からない。
初めてだった。乃絵美がここまで感情を露わにすることは。感情が決壊するほど、
想いを溜めて、ずっと──苦しんでいたんだろう。たった独りで。
答えはもう、出ているじゃないか? ──あのとき井澄は言った。
そう、自分は笑い飛ばせなかった。乃絵美の気持ちをなだめて──元の道へと戻
してやることが、できなかった。ただ困惑して、怖れて──。
どうしてできなかったんだろう?
そのロジックの解は──驚くくらいに簡単だった。
真奈美が遠くに行ってしまったとき。なにもかも空虚になっていたあのとき──
自分を癒してくれた小さな笑顔。自分はどう思ったろう。何よりも大切に。そして
──決して手放したくないと感じた笑顔。
そう、答えはとっくに出ていたんだ。ただそれを認めたくなかっただけで。今の
日常を、穏やかな毎日を壊したくなかった──それだけで。
「お前の気持ちは──嬉しい」
出した答えは、何よりも単純だったけれど。
「けど──その気持ちに答えることは出来ない」
9
「どう──して?」
乃絵美がいやいやをするように頭を振った。
その頬が上気している。感情の高ぶりと、下がりきってない熱が乃絵美の体を内
から焦がしている。
「疲れてるんだよ、お前は。……きっと俺も。少し頭を冷やせば、すぐ分かること
なんだ。どうしようもないことだって、あるんだよ」
「誤魔化さないで……」
涙声。
かち、かちと鳴る時計の音が、いやに大きく聞こえる。
「……誤魔化してない」
「誤魔化してるよ。お兄ちゃん、どきどきしてるよ。胸が鳴ってるのが、分かるよ」
乃絵美は正樹の胸に手を当てて、言った。もういっぽうの手で、正樹の手を自分
の胸に導く。
「わたしも、どきどきしてる。このどきどきは、嘘じゃないよ──」
「…………」
「これが“本当”だよ、お兄ちゃん」
「やめろ……」
乃絵美の手を握りしめて、正樹は声を上げた。語尾が震えている。力を込めすぎ
たのか、あっ、と乃絵美が声をあげた。
「やめろ、乃絵美。やめろ──」
「……お兄ちゃん。いた……」
「どうしたいんだよ、お前は? どうしたいんだ……」
乃絵美の肩を揺さぶる。
「俺は、俺は嫌なんだよ。お前が傷つくのは、嫌なんだ。俺とお前がずっと一緒に
いるっていうのは、そういうことなんだぞ? 俺がお前を受け入れるだけじゃない。
お前も俺を受け入れるんだ。体も、心も、ぼろぼろに傷つくんだぞ──」
「…………」
「俺は、お前に幸せになってほしい。誰よりも幸せに。こんなところで、つまずい
てほしくないんだ」
「つまずきなんかじゃないよ!」
乃絵美は叫んだ。
「そんなこと……あるわけない」
「乃絵美……」
「……お兄ちゃん、嘘ついてる」
「ついてないよ」
「ついてるよ……!」
乃絵美はきっと顔を上げた。
「お兄ちゃん、なにも分かってない……!」
「分かってるさ」
「嘘だよ……」
「分かってる。俺も──」
「俺も……お前が好きだから」
「…………」
その言葉に、乃絵美は目を大きく見開いて、やがてまた涙を溢れさせた。
その肢体をそっと抱き寄せて、髪を撫でながら正樹は言う。
「お前が好きだから。だから、お前を苦しめたくない。傷つけたくないんだよ」
「…………」
「……な?」
無言のまま、乃絵美は正樹の胸に頬をうずめた。
「どうしようもないことだってある。お互いが傷つくしかないことだって──先に
は苦しみしか待っていないものだって、あるんだ。お前には──お前には、そんな
思いをさせたくない」
「……いよ」
「………?」
「ずるいよ……そんな言葉」
「…………」
シャツを掴む乃絵美の手に、きゅっと力が込められる。
「じゃあ、わたしの気持ちはどうなるの? どこへ行っちゃうの? わたしはお兄
ちゃんが好きで──お兄ちゃんもわたしを好きって言ってくれた。なのに、どうし
てそれを忘れなきゃいけないの? どうして──」
「仕方──ないだろう」
「仕方なくないよ。好きなんだよ。好きなまま、気持ちを凍らせなきゃいけないん
だよ? そっちの方がずっと苦しいよ。どんな傷より、ずっと痛いよ。お兄ちゃん
は苦しくないの? それでいいの?」
「違う──」
正樹は叫んだ。
「違うんだよ。お前が想ってくれてる気持ちと──俺が想っている気持ちは、きっ
と違う。俺は男だ。好きな女の子なら触れたいし、キスしたいし、──抱きたい。
自分のものにしたい。お前を傷つけることしか考えてない。お前が純粋に想ってく
れてる気持ちとは──違うんだよ!」
「違わない。違ってない──」
乃絵美は必死に頭を振った。
「わたしだって、お兄ちゃんを感じたい。お兄ちゃんにキスしてほしい。お兄ちゃ
んのものになりたい」
かちり、と時計の音。
「──お兄ちゃんに、抱かれたいよ」
空気は──不思議なくらい、澄んでいた。
自分はどんな顔をしていただろう? 困惑? 歓喜? 分からない。ただ分かっ
ているのは、決意に似た乃絵美の表情と、耳に届いたその言葉。
母親の膝の上で小さな寝息をたてていた妹が、今ひとりの少女として自分を見つ
めている。
白い、綺麗な顔。
自分の心の中のおびえや、戸惑いを、静かに溶かしてくれるような。
どんなに苦しくても、痛くても、健気に微笑んでいるだろう、妹。
「馬鹿だよ……お前」
ようやくそれだけ、正樹は言葉にした。
それ以外、言葉が出てこなかった。どうしようもないくらいに胸が苦しかった。
全てを理解したうえで、それでも正樹を選択した乃絵美。涙が出そうなくらいに、
痛みが走る。
自分が、追いつめた。ここまで乃絵美を、妹を──追いつめた。
「馬鹿だよ……」
もう一度、言う。今度は自分に。馬鹿だ、俺は。
それでも乃絵美を抱きたいと思い始めている俺はもっと、どうしようもないくら
いに──馬鹿だ。
「……うん」
自分に向けられた言葉と取ったのか、乃絵美が少し笑った。
「馬鹿……だもん。……わたし」
もう一度。
今度はずっと、ずっと深く。お互いの想いを交換しあうくらいに深く。
──重なる唇。
─January.25 / Noemi's room─
薄いもやのようなものがゆっくりと晴れていくような感覚を覚えながら、乃絵美
は瞼を開いた。
視界はまだフィルターがかかっているように不鮮明だったが、意識は徐々に形を
為していく。最初に目に入ったのは部屋の白い天井だった。
(こんなに高かったっけ……)
ぼんやりと思う。遠近感が、まだしっかりしていないのかもしれない。
思考もまだ、あやふやだ。自分はどうしたのだろう。たしか、キッチンで倒れて、
それで──。
冷たい、闇の中に落ちて。
「…………」
ゆっくりと記憶が甦ってくる。
あのとき──暗い微睡みの中で震えていたとき、誰かに、抱き上げられたような
感覚がした。凍てついた世界から救いあげてくれたぬくもり。──息づかい。16
年間、肌越しに感じてきた安心感。
いつか失う日が来ることに、ずっと怯えていたもの。そして、それは必然である
べきだったはずなのに。
乃絵美の頬を、涙がつたった。
どうして? どうしてそんなに優しくするの? わたしは、わたしは──拒絶さ
れたのに。なのにどうして、温めてくれるの? 触れてくれるの? どうして、希
望を持たせたり──
乃絵美はゆっくりと首を動かして、ドアの方を見た。少し、頭が痛い。けれどそ
んな痛みはまるで気にならずに、ナイトテーブルに寄りかかって目を閉じている青
年に視線を向ける。すぐ脇の時計は午前4時を過ぎていた。あれからまる半日はた
ったのだろう。その間きっと正樹は──ずっと傍についていてくれたのだ。
けれど、今の乃絵美にはその優しさが、胸に痛い。たとえどれだけ優しさをくれ
ても、いたわりをくれても、それは兄の妹に対する親愛にすぎないのだ。そんなも
のが、ほしいのじゃなかった。うまく言葉に出来ないけれど、乃絵美が欲しいのは
もっと違ったもの。
(欲張りだ……わたし……)
小さな拳をきゅっと握りながら思う。決して手に入れられないことを代償に、誰
よりも正樹の傍にいることを許されたはずなのに──それでもまだ足りない。抱い
てはいけないはずの想いに胸を焦がして、それがために正樹を困惑させて。──拒
絶されて。
──どうしちゃったんだろう。
わたしは、どうしちゃったんだろう。ずっと好きだった。だけどその想いはいつ
か自分の胸の奥で静かに消えていく日が来るはずだった。それなのに今は──
──今は、熱病に冒されたように、全身を駆けめぐっている。
失いたくない。奪われたくない。
「……ずっと一緒にいたいよ……」
ふらつく体をささえて、ゆっくりと身を起こす。さっきは気にならなかったのに、
じん、と頭が痛む。
正樹を見る。静かな寝息。あれからずっと傍にいてくれたのだとしたら、相当疲
労が溜まっているに違いない。その口元に視線を向ける。あの夜、自分が触れた場
所。
触れたい。触れてほしい気持ちと同じくらいに、わたしもお兄ちゃんに触れたい。
ごくり、と喉がなる。
ベッドから降りると、地面が大きく揺れた気がした。ふらつく足。じんじんと痛
む頭。省みると、自分はまだワイシャツのままだった。汗と雨水で濡れている。け
れど、不思議と不快感は感じない。全身を流れる灼けるような熱がすべてを蒸化し
てしまうような気がする。
「お兄ちゃん」
乃絵美は呼びかける。
たった数十センチの距離が、遠い地の果てのように思える。
二歩。
右足と左足を一歩ずつ踏み出すだけ。それだけで触れられるのに。ひどく遠い。
震える足で、一歩。
じん、と痛みが走る。
ぺたん、と膝をつく。じん、じん、と響く痛み。
ゆっくりと手を延ばす。指先は、ちょっと揺れていた。暖かな頬に触れる。吐息
を、てのひらに感じる。
「……お兄ちゃん」
ごめんね、という最後の呟きはかすれて声にならなかった。
だけど、触れたい。もっと強く、お兄ちゃんを感じたい。それがおかしなことだ
としても、わたしは。
じん。
わたしは──あなたを──
じん。
たとえ──
──それが許されないことだとしても。
触れあう唇。
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ずっと──触れていた。
呼吸を忘れるくらいに長く。やがて、包まれる体。肩に、背に、暖かな手の感触
がある。
「──おに、ちゃん、目、覚め──」
唇を離して声を上げようとする乃絵美を、正樹はそっと抱きしめた。
気がつくと、体が震えていた。乃絵美の体だけではなく、正樹のそれも。その震
えを止めようとするように、お互いの温もりを分け合うように、正樹が乃絵美を抱
く手に力を込める。
「──どうして」
ぽつり、と頭上で呟く声。
顔を上げると、正樹がじっと乃絵美を見つめていた。困惑を少し残した、揺れる
瞳。
「どうしてだ、乃絵美? ──どうして?」
「ごめ……なさい」
「あやまるな。──あやまるなよ」
抱きしめる手が震える。
「わから、ない……」
正樹の胸に頬をうずめて、乃絵美は答えた。
「わからない。どうしてなんて──わたしだって……」
「…………」
「でも……嫌なの。お兄ちゃんが遠くにいっちゃうって、他のひとのところにいっ
ちゃうって、そう考えただけで胸がくるしくて……わたし……」
嗚咽まじりに、言う。
正樹のシャツを掴みながら、乃絵美は顔を上げた。
涙に濡れた瞳で、それでも正樹をしっかりと見つめる。
「わたし……」
熱に浮かされたような声。
正樹の唇が動いた。音にならない声。言うな。それ以上は。言ったら、言ったら
もう──
「わたし……お兄ちゃんが好きだから」
──もう、戻れない。
「…………」
細い、けれど確かな告白の言葉が耳を打ったとき──正樹はぎゅっと強く、乃絵
美の肩を抱きしめた。
どれだけこの言葉を怖れてきたことだろう?
どれだけこの言葉を待っていたことだろう?
分かってたんだろう、きっと。乃絵美の気持ちも。自分の気持ちも。たぶん、ず
っと知っていた。だけど、その想いを認めたくなかった。気持ちが言葉になること
が──
「……怖かったんだ……」
耳元で。かすれる声で。
「こわ……い?」
「だって、こんな感情、普通じゃない。乃絵美、兄妹なんだよ、俺たちは。兄妹な
んだ。なのに──」
「でも──」
「でもじゃない!」
乃絵美の肩を掴むようにして、正樹は叫んだ。
「駄目なんだよ。駄目なんだ。どんなに好きでも、駄目なんだよ──分かるだろ?」
「……分からないよ……」
「なんでだよ、簡単なことだろう?! 馬鹿!」
「馬鹿だよ! わたし馬鹿だもん! そんなにたくさんのことなんて分からない!
わたしはお兄ちゃんのことが好きだもん、他のことなんて分からないよ……!」
乃絵美が涙まじりの声をあげた。
細い二本の腕が、きつく正樹のシャツを掴む。
「それしか……分からないよ……」
正樹の白いシャツに、ぽた、ぽた、と雫が落ちた。シャツを握りしめる小さな手
が震えている。
「どうして? どうして駄目なの? ずっと一緒にいたのに──だからこれからも
ずっと一緒にいたいだけなのに! もっとお兄ちゃんを近くに感じたいだけなのに
……!」
堰を切ったように、乃絵美の唇から感情が溢れだしてくる。
胸の奥にずっとしまっていたはずの想いが膨れ上がって──決壊する。
ずっと、兄への思慕だと思っていた。それだけのはずだったのに、そうじゃない
と気づいたのはいつからだろう。歯車はどこでずれはじめたのだろう。気づくこと
すらないまま一生を終えるはずだった感情。ほんの少しの神さまの悪戯。真奈美が
転校しなかったら? 柴崎拓也とすれ違いがなかったら? 正樹が城南大からスカ
ウトされなかったら? ──昨日、雨が降らなかったら?
けれど──もう遅い。もう。気づいてしまった。分かってしまった。
「乃絵美……」
正樹が声を洩らした。
「俺は……」
かすれる喉。何を言おうとしているのか、自分でも分からない。
初めてだった。乃絵美がここまで感情を露わにすることは。感情が決壊するほど、
想いを溜めて、ずっと──苦しんでいたんだろう。たった独りで。
答えはもう、出ているじゃないか? ──あのとき井澄は言った。
そう、自分は笑い飛ばせなかった。乃絵美の気持ちをなだめて──元の道へと戻
してやることが、できなかった。ただ困惑して、怖れて──。
どうしてできなかったんだろう?
そのロジックの解は──驚くくらいに簡単だった。
真奈美が遠くに行ってしまったとき。なにもかも空虚になっていたあのとき──
自分を癒してくれた小さな笑顔。自分はどう思ったろう。何よりも大切に。そして
──決して手放したくないと感じた笑顔。
そう、答えはとっくに出ていたんだ。ただそれを認めたくなかっただけで。今の
日常を、穏やかな毎日を壊したくなかった──それだけで。
「お前の気持ちは──嬉しい」
出した答えは、何よりも単純だったけれど。
「けど──その気持ちに答えることは出来ない」
9
「どう──して?」
乃絵美がいやいやをするように頭を振った。
その頬が上気している。感情の高ぶりと、下がりきってない熱が乃絵美の体を内
から焦がしている。
「疲れてるんだよ、お前は。……きっと俺も。少し頭を冷やせば、すぐ分かること
なんだ。どうしようもないことだって、あるんだよ」
「誤魔化さないで……」
涙声。
かち、かちと鳴る時計の音が、いやに大きく聞こえる。
「……誤魔化してない」
「誤魔化してるよ。お兄ちゃん、どきどきしてるよ。胸が鳴ってるのが、分かるよ」
乃絵美は正樹の胸に手を当てて、言った。もういっぽうの手で、正樹の手を自分
の胸に導く。
「わたしも、どきどきしてる。このどきどきは、嘘じゃないよ──」
「…………」
「これが“本当”だよ、お兄ちゃん」
「やめろ……」
乃絵美の手を握りしめて、正樹は声を上げた。語尾が震えている。力を込めすぎ
たのか、あっ、と乃絵美が声をあげた。
「やめろ、乃絵美。やめろ──」
「……お兄ちゃん。いた……」
「どうしたいんだよ、お前は? どうしたいんだ……」
乃絵美の肩を揺さぶる。
「俺は、俺は嫌なんだよ。お前が傷つくのは、嫌なんだ。俺とお前がずっと一緒に
いるっていうのは、そういうことなんだぞ? 俺がお前を受け入れるだけじゃない。
お前も俺を受け入れるんだ。体も、心も、ぼろぼろに傷つくんだぞ──」
「…………」
「俺は、お前に幸せになってほしい。誰よりも幸せに。こんなところで、つまずい
てほしくないんだ」
「つまずきなんかじゃないよ!」
乃絵美は叫んだ。
「そんなこと……あるわけない」
「乃絵美……」
「……お兄ちゃん、嘘ついてる」
「ついてないよ」
「ついてるよ……!」
乃絵美はきっと顔を上げた。
「お兄ちゃん、なにも分かってない……!」
「分かってるさ」
「嘘だよ……」
「分かってる。俺も──」
「俺も……お前が好きだから」
「…………」
その言葉に、乃絵美は目を大きく見開いて、やがてまた涙を溢れさせた。
その肢体をそっと抱き寄せて、髪を撫でながら正樹は言う。
「お前が好きだから。だから、お前を苦しめたくない。傷つけたくないんだよ」
「…………」
「……な?」
無言のまま、乃絵美は正樹の胸に頬をうずめた。
「どうしようもないことだってある。お互いが傷つくしかないことだって──先に
は苦しみしか待っていないものだって、あるんだ。お前には──お前には、そんな
思いをさせたくない」
「……いよ」
「………?」
「ずるいよ……そんな言葉」
「…………」
シャツを掴む乃絵美の手に、きゅっと力が込められる。
「じゃあ、わたしの気持ちはどうなるの? どこへ行っちゃうの? わたしはお兄
ちゃんが好きで──お兄ちゃんもわたしを好きって言ってくれた。なのに、どうし
てそれを忘れなきゃいけないの? どうして──」
「仕方──ないだろう」
「仕方なくないよ。好きなんだよ。好きなまま、気持ちを凍らせなきゃいけないん
だよ? そっちの方がずっと苦しいよ。どんな傷より、ずっと痛いよ。お兄ちゃん
は苦しくないの? それでいいの?」
「違う──」
正樹は叫んだ。
「違うんだよ。お前が想ってくれてる気持ちと──俺が想っている気持ちは、きっ
と違う。俺は男だ。好きな女の子なら触れたいし、キスしたいし、──抱きたい。
自分のものにしたい。お前を傷つけることしか考えてない。お前が純粋に想ってく
れてる気持ちとは──違うんだよ!」
「違わない。違ってない──」
乃絵美は必死に頭を振った。
「わたしだって、お兄ちゃんを感じたい。お兄ちゃんにキスしてほしい。お兄ちゃ
んのものになりたい」
かちり、と時計の音。
「──お兄ちゃんに、抱かれたいよ」
空気は──不思議なくらい、澄んでいた。
自分はどんな顔をしていただろう? 困惑? 歓喜? 分からない。ただ分かっ
ているのは、決意に似た乃絵美の表情と、耳に届いたその言葉。
母親の膝の上で小さな寝息をたてていた妹が、今ひとりの少女として自分を見つ
めている。
白い、綺麗な顔。
自分の心の中のおびえや、戸惑いを、静かに溶かしてくれるような。
どんなに苦しくても、痛くても、健気に微笑んでいるだろう、妹。
「馬鹿だよ……お前」
ようやくそれだけ、正樹は言葉にした。
それ以外、言葉が出てこなかった。どうしようもないくらいに胸が苦しかった。
全てを理解したうえで、それでも正樹を選択した乃絵美。涙が出そうなくらいに、
痛みが走る。
自分が、追いつめた。ここまで乃絵美を、妹を──追いつめた。
「馬鹿だよ……」
もう一度、言う。今度は自分に。馬鹿だ、俺は。
それでも乃絵美を抱きたいと思い始めている俺はもっと、どうしようもないくら
いに──馬鹿だ。
「……うん」
自分に向けられた言葉と取ったのか、乃絵美が少し笑った。
「馬鹿……だもん。……わたし」
もう一度。
今度はずっと、ずっと深く。お互いの想いを交換しあうくらいに深く。
──重なる唇。
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