小説(転載) インセスタス Last Incest 明日 1/7
官能小説
「結局、世界のすべてを敵に回してしまったわけだ──」
苦笑まじりに、デュアンはそう呟いた。
「僕もよほどの馬鹿だし、ユージニー、君も相当なものだと思う。いくら愛を貫い
たとしたって、じっさい、死んでしまったら元も子もないのにね」
その言葉にくすりと笑って、ユージニーは返した。
「でも、アジアの神のように、わたしたちの主は生まれ変わりを認めていないのだ
から──今この時は二度と訪れないでしょう? わたしは自分に嘘はつきたくない
し、そのことで後悔したくはないんです」
「それで、結果命を落とすことになったとしても?」
「それで、結果命を落とすことになったとしても──です」
小鳥のさえずりのように柔らかな、けれど強い意志の響きを込めて、ユージニー
は答えた。
遠くで馬蹄の音がする。追手はもう、すぐそこまで迫っているのだろう。ユージ
ニーの頬にそっと手を触れながら、デュアンは嘆息するように呟いた。
「どうして、僕は君を好きになってしまったんだろう──君は、僕の妹なのに?」
「どうして、わたしは貴方を好きになってしまったのかな──貴方は、わたしの兄
さんなのに?」
二人は顔を見合わせて、そして小さく笑った。見上げると、ビロードのような黒
い空に細い上弦の月が浮かんでいる。そして、また馬蹄の音が迫る。今度はずっと、
大きく。
「もう時間だね」
とデュアンは言った。うなずくユージニーの吐息に、ほう、と梟の鳴く声が重な
った。
「ああ、ブッディストに改宗しておくんだったな──! そうすれば来世こそ、君
と結ばれることが出来たかもしれないのに」
「髪を剃り上げた兄さんなんて、想像できないから、いいですよ」
悪戯っぽい笑みを浮かべて、ユージニーはデュアンの手を取った。そして、静か
に一歩を踏み出す。眼前には、オークセンの澄んだ湖水が広がっている。
「死んだ後のことなんて分からないけれど──でも、最期の時をこうして一緒に迎
えられたことだけは、わたし、幸せです」
白い頬にわずかな赤みをさして、ユージニーは言葉を接いだ。
「わたし、思うんです。貴方だから、わたしは貴方を愛したんです。貴方だから。
たとえ貴方が血の繋がった兄でも、同じ女の子に生まれていたとしても、ううん、
こうして人として生を受けていなかったとしてさえ──貴方が貴方であるかぎり、
きっとわたしは貴方を愛していたと信じます。……ありがとう、デュアン兄さん。
わたしの愛しいひと。貴方に出逢えて、貴方を愛するわたしでいられて──本当に、
幸福でした」
デュアンは答えた。小さな掌を握りしめる手に、しっかりと力を込めながら。
「ありがとう、ユージニー。僕の愛しいひと。主の御心には反するけれど、来世っ
て奴が本当にあるといいね。そうしたら今度はもっと普通に出逢って、普通にお互
いを好きになろう。そしてのんびりと、静かに時を過ごそう」
その声に、ユージニーはもう言葉ではなく、ただ静かに微笑みを返した。そして、
馬蹄が森の土を荒々しく踏みつけるその音が耳に響く、ほんのわずか前に──
二人は、飛んだ。
ジェスリー・ラインコック 「ユージニー」
Last Incest 明日
0
例えば、人間の繁殖が無限に枝分かれする一本の樹木のようなものだとして──
その樹木を根本へ根本へと遡っていけば、一体どこへ行き着くのか? 何度も読み
終えたその本を閉じながら、井澄潤は考える。
おそらく、それは原初のインセストなのだろう。人間という種が、たったひとつ
がいの交合からその全てを始めたと規定するならば、その最初の“枝分かれ”は、
どんなプリミティブな形であるにせよ──インセストの業でしかありえない。そう、
突き詰めれば誰しもが皆──インセストの子なのだ。結局は。
そして──井澄潤は思う。
そして、その仮定を──人はインセストより始まるという、その仮定を真とする
ならば。インセストという行為そのものは、あるいは原初への回帰といえるのかも
しれない。人間という種が、何百万年だか営々と築きあげてきた社会やら、モラル
やら、文化やらをすべてかなぐり捨てる、本能への回帰。求愛に垣根など必要なか
った時代への、ひたすらな回帰。だからこそ、人はインセストを怖れるのだろうか。
愛欲が原初へと立ち戻ることによって、人類社会が再び、とうに脱却し踏み台にし
てきたはずの、原初の闇へと引き戻されることを、怖れるのだろうか。
く、と喉を鳴らして、井澄潤は笑った。
ああ、何をそんなもったいつけた理屈をひねっているんだろう。物事の経緯や真
意に、いったいどれだけの価値があって、それが何の役に立つというのだろう。
──自分にとってもっとも近しい者を、ただひたすらに、愛してしまった。
ただ、それだけのことなのだ。最も近い者を最も愛することが、なぜ罪に問われ
るのだろう? むしろそれはより自然な行為に思えるし、“愛してしまった”とい
うこと以外、答えなどどこにもない。だのになぜだろう。こんなにも世界はインセ
ストを認めず、疎外し、消し去ろうとする。
補正なのだ、やはり。インセストを原初の回帰と規定するならば、それを阻もう
とする力──がむしゃらに前に進もうとする、停滞すること、後退することが何よ
りの悪と信ずる──はおそらく、そんな世界の補正なのだろう。
「結局、世界の全てを敵に回してしまったわけだ──」
「ユージニー」の一節を小さく呟きながら、井澄潤はもう一度笑った。
だから、決めねばならない。
その想いが本当に確かなものなのならば、決めねばならない。
どうしてインセストに至ったのか、そんなことを問題にするのではなく──
本当に、──を、愛しているのなら──
彼女を遠ざけることによって、世界から守るのか。
それとも、どこか遠く、誰の手も届かない遠くへ逃げ──世界から隠れるのか。
あるいは。
「──世界と、戦うのか」
ただ、それだけを。
1
鈍色に黒ずんだ空が、まるで膿んだ傷跡のように、ぽっかりと口をあけている。
だのに、昏い雲間から降りゆく雪は、汚れを知らないかのように、眩しく白く、優
しく舞っていた。ひらひらと地上へ降りてゆく白い精は、やがて静かに、ゆっくり
と世界を覆う。空はただ、ひたすらに、灰黒い。
さく、さく、とシューズが小さな音を立てた。吐息が白く染まり、空へと立ち昇
ってゆく。世界はこんなにも白く包まれているというのに──正樹は思う──どう
してこんなに、心は枷がかかったように重いのだろう。
未練、なのだろうか。割り切ったはずだったのに──陸上よりも乃絵美の傍にい
ることを、あのとき誓ったはずなのに、心はこんなにも揺れている。
体中が波打つような感覚。──まるで、世界が違った。あれが、“歴然”なのだ
ろう。「10秒と11秒の間を行ったりきたりする世界」と、あとわずかで、「9
秒の壁に手が届く10秒の世界」との間に隔たる、厳然としてそこにある“歴然た
る差”。おそらくそこでは、流れている空気すらも違うのだろう。体中を構成する
すべての要素が、粒子になって風に溶け込んでいくような世界。その世界に立って
あの人は──笑っていた。余裕の笑みでも、あざけるような笑いでもなく、ただ何
かを懐かしむような、そんな、微笑。あえてそれに言葉を与えるなら、なんだろう
──ああ、それはきっとおそらく、
(──本当に“歴然”だったかい?)
そうか、まだ君もこのていどの差を、本当に“歴然”だと思っているんだね──
という、かつての自分を懐かしむような笑みだったのかもしれない。
片桐隆史。
日本人が9秒の世界へと到達できるのだとしたら、彼以外にはありえない、とま
で謳われた屈指の国産スプリンター。けれども、結局彼は一度も9秒への壁を越え
ることはできず、世界の表彰台に立つこともなかった。片桐と世界の間にはきっと
正樹が片桐に感じるよりも遥かに深い──それはおそらく絶望的な──差が、歴然
たる事実としてあったのだろう。「歴然、でした」と言った正樹に対して少し見せ
た、あの微妙な表情は、
「歴然? こんなものが?」
という、自嘲にも似たものだったのかもしれない。
絶望的。そう、おそらくそれは絶望的なまでの差なのだろう。正樹が片桐に感じ
る歴然と、その片桐が世界に感じた、長大すぎる“歴然たる差”。ほんの一握りの
人間だけがその地平に立つことを許され、わずか100メートルの曲線に絶対的に
君臨するその世界。
遠すぎる。
それはきっと、あまりにも、遠い、世界だ。
「…………」
──だのに、と正樹は思う。
だのに、全身が痺れるくらいに疼いている。どれだけの可能性が残されているの
か──きっとそれは笑うしかないくらいに絶望的な数字なのだろうが──分からな
い。だのに、その世界へと辿り着きたいと思っている自分がいる。こんなものでは
ないはずだ、と両脚が叫んでいるような気がする。未知の感覚を、遠い地平を、全
身が求めているような──そんな、渇望。
(走りたい、速く──もっと速く!)
いつから、こんなにも強くそれを願うようになったのだろう。走り去るあの電車
の影を追いかけようとしたあの日から? けれど、初恋の淡い想いが時の流れの中
に静かに埋没していくのと同時に、走ることへの渇望もゆっくりと燻っていったよ
うな気がしていた。どこかで線を引いていたのだろう。どれだけ速く走ることが出
来たとしても、過去へ逆送することは出来ないのだし、時計の針は、戻せない。
結局、指向性を失った情熱は、空回りするだけだった。後一歩、が足りない自分
を、「まぁ上出来だろう」という中途半端な余裕で覆い隠していた。そう、なにも
かも中途半端なままで。
ちく、と不意に左肩の下あたりが痛んだ。シャツの裏地にこすれたのだろう、ま
だ新しい傷口が、自分の存在を主張するように、ちく、と皮膚下を刺激する。
小さな爪痕。
それはたしかに、昨日の夜のことが幻でない証だった。中途半端、だったのだろ
うか? 正樹は思う。城南を捨て、乃絵美を選んだことは、中途半端な選択だった
のだろうか? 片桐隆史に完膚無きまでに敗れて、心はこんなにも揺れている。天
秤は左右に激しく揺れて、もうまるで判別がつかなかった。そんな軽い思いで、選
択したのだろうか? 自分は? 乃絵美を、──妹を、抱いたことを?
「────」
粉雪の降り散る視界の先に、小さな人影を認めて、正樹はふと立ち止まった。息
が洩れ、そしてそれはまたたく間に霞になって、ふうっと空に立ち昇っていく。
それこそ雪のように真っ白な傘を所在なげにさしていたその少女は、正樹の足音
に気づいたのか、ゆっくりとうつむいていた顔を上げた。
その表情をなんと形容すればいいのだろう、──正樹は思う。その笑顔に、どん
な言葉を返せばいいのだろう? 混じりけのない、本当にただひとつの想いに貫か
れた、まっすぐな笑顔。想いの前に言葉はあまりにも無力で、正樹はただ、その名
を呼ぶことしかできなかった。
「乃絵美」
その呼びかけに、乃絵美はもう一度、零れるように口元をほころばせた。随分待
ったのだろう、白い頬にはうっすらと赤みがさしている。
「待っててくれたのか?」
「うん、お兄ちゃん、傘忘れていったから、──困ってるだろうな、って思って」
「ん、ああ……」
その時になって初めて、正樹は自分の全身がかなり降る雪にまかせていたことに
気づいた。粉雪とはいえ、髪やコートにまとわりつく白い結晶は、もうずいぶんと
体を濡らしている。
「悪いな、わざわざ」
「ううん」
と呟いて、乃絵美はそっと自分の傘をさしだした。無言でそれを受け取って、正
樹は自分の傍らに乃絵美を招き入れた。寄り添う瞬間、少し目が合って、すると乃
絵美は照れたように「えへへ」と視線を下に逸らした。
ふと思った。これがあの日の、あるべきことだったんだろう。
あの雨の日、神様の予定としては、兄妹はこうやって仲直りするはずだったのだ
ろう。あのキスのことはまぁ、ちょっとした気の迷いという奴で片づけられて、二
人はなんの問題もなく、きちんと舗装された道に立ち戻るはずだったのだろう。だ
けど、今日はもうあの日じゃない。数量的にはきっと、人生の中でもたかだか2万
分の1くらいにすぎないだろう、たった1日──“昨日”という日が、多分兄妹の
すべてを変えた。
「それと、ほら、約束──したし」
「約束?」
「うん。今日、お鍋にしようって。だから、一緒にお買い物、したかったから」
「なんだ、そういう魂胆か。俺を荷物持ちにしようっていう腹なんだな」
軽く乃絵美の額を小突くと、乃絵美は「ちがうよー」とくすぐったそうに笑った。
正樹も小さく笑みを返して乃絵美の髪をくしゃっと撫でると、
「ありがとな、乃絵美」
と呟いた。
乃絵美は「え?」という顔をして、正樹の顔を見上げた。
「ううん、違うよ。お礼を言うのはわたしの方だよ」
わたわたと、乃絵美が言う。その姿がたまらなく愛しくて、正樹は思わずそっと
乃絵美の頬を指でなぞった。どれだけ、大事に思ってきたことだろう。この小さな
妹を、どれだけ? その妹が、自分を好きだと言ってくれた。自分にその体を委ね
てくれた。本当にそれは、どれだけ幸せなことだろう? 世界のどんな恋人同士が、
これだけの喜びを感受できるだろう? 誰よりも愛したこの子が、誰よりも自分を
好きでいてくれる、この喜びを?
「ごめんな」
そう呟いて、正樹は乃絵美をそっと抱き寄せ、唇に触れた。それはほんの一瞬で、
人気のない校舎からはもう、見咎められることはないはずだったので。それでも乃
絵美は顔を真っ赤に上気させて、それを隠すようにうつむいた。正樹のコートを掴
む手に、きゅっと力が込められる。
その仕草に目を細めながら、正樹は思った。ごめんな、ごめん。俺はまだ迷って
る。でも、絶対答えを出すからな。今度は絶対、中途半端じゃなく。
「じゃ、行くか?」
その迷いを強くうち払うように、正樹は言った。「うん」とまだ赤い頬のまま乃
絵美はうなずいて、歩みを合わせるように二人は歩き出した。さく、さく、と二人
分の雪を踏む足音が、耳に響いた。
雪はまだ、当分やむことはなさそうで──
──その校舎の影で、氷川菜織はどっと崩れ落ちるように雪のつもった地面に膝
をついた。両膝に痛いほどの冷気を感じたが、そんなことはまるで気にならなかっ
た。そんなことよりも今頭を駆けめぐっているのは、今見た、ほんの一瞬の光景だ
った。そう、一瞬のこと。でもそれはたしかに、恋人同士の甘い仕草だった。間違
っても兄が妹にするものではない、愛しい相手に対する、たしかなキス。
右手がじんじんと痛い。でも、そんなものよりずっと激しい痛みが、菜織の胸を
苛んでいる。
ああ、なんだかんだいって、自分はまだどこかで信じていたのだろう。乃絵美の
告白を受けても、自分はまだどこかで、それを受け入れることが出来なかったのだ
ろう。
でも今は違う。
今なら信じられる。二人はたしかに、互いを求めあって、そしてそれを受け入れ
たのだ。兄と妹ではなく、恋人同士になることを選択したのだ。
そんなことが、許されていいのだろうか? そんなのは、ルール違反じゃないの
だろうか? 菜織の全身を、寒気に似た震えが駆けめぐった。外気のせいだけでは
ない、何かが。
震える肩を必死に押さえようとして、菜織はようやく、自分が泣いていることに
気づいた。こんなの、ひどすぎる。こんなの──。
──雪はまだ、当分やみそうにはなかった。
苦笑まじりに、デュアンはそう呟いた。
「僕もよほどの馬鹿だし、ユージニー、君も相当なものだと思う。いくら愛を貫い
たとしたって、じっさい、死んでしまったら元も子もないのにね」
その言葉にくすりと笑って、ユージニーは返した。
「でも、アジアの神のように、わたしたちの主は生まれ変わりを認めていないのだ
から──今この時は二度と訪れないでしょう? わたしは自分に嘘はつきたくない
し、そのことで後悔したくはないんです」
「それで、結果命を落とすことになったとしても?」
「それで、結果命を落とすことになったとしても──です」
小鳥のさえずりのように柔らかな、けれど強い意志の響きを込めて、ユージニー
は答えた。
遠くで馬蹄の音がする。追手はもう、すぐそこまで迫っているのだろう。ユージ
ニーの頬にそっと手を触れながら、デュアンは嘆息するように呟いた。
「どうして、僕は君を好きになってしまったんだろう──君は、僕の妹なのに?」
「どうして、わたしは貴方を好きになってしまったのかな──貴方は、わたしの兄
さんなのに?」
二人は顔を見合わせて、そして小さく笑った。見上げると、ビロードのような黒
い空に細い上弦の月が浮かんでいる。そして、また馬蹄の音が迫る。今度はずっと、
大きく。
「もう時間だね」
とデュアンは言った。うなずくユージニーの吐息に、ほう、と梟の鳴く声が重な
った。
「ああ、ブッディストに改宗しておくんだったな──! そうすれば来世こそ、君
と結ばれることが出来たかもしれないのに」
「髪を剃り上げた兄さんなんて、想像できないから、いいですよ」
悪戯っぽい笑みを浮かべて、ユージニーはデュアンの手を取った。そして、静か
に一歩を踏み出す。眼前には、オークセンの澄んだ湖水が広がっている。
「死んだ後のことなんて分からないけれど──でも、最期の時をこうして一緒に迎
えられたことだけは、わたし、幸せです」
白い頬にわずかな赤みをさして、ユージニーは言葉を接いだ。
「わたし、思うんです。貴方だから、わたしは貴方を愛したんです。貴方だから。
たとえ貴方が血の繋がった兄でも、同じ女の子に生まれていたとしても、ううん、
こうして人として生を受けていなかったとしてさえ──貴方が貴方であるかぎり、
きっとわたしは貴方を愛していたと信じます。……ありがとう、デュアン兄さん。
わたしの愛しいひと。貴方に出逢えて、貴方を愛するわたしでいられて──本当に、
幸福でした」
デュアンは答えた。小さな掌を握りしめる手に、しっかりと力を込めながら。
「ありがとう、ユージニー。僕の愛しいひと。主の御心には反するけれど、来世っ
て奴が本当にあるといいね。そうしたら今度はもっと普通に出逢って、普通にお互
いを好きになろう。そしてのんびりと、静かに時を過ごそう」
その声に、ユージニーはもう言葉ではなく、ただ静かに微笑みを返した。そして、
馬蹄が森の土を荒々しく踏みつけるその音が耳に響く、ほんのわずか前に──
二人は、飛んだ。
ジェスリー・ラインコック 「ユージニー」
Last Incest 明日
0
例えば、人間の繁殖が無限に枝分かれする一本の樹木のようなものだとして──
その樹木を根本へ根本へと遡っていけば、一体どこへ行き着くのか? 何度も読み
終えたその本を閉じながら、井澄潤は考える。
おそらく、それは原初のインセストなのだろう。人間という種が、たったひとつ
がいの交合からその全てを始めたと規定するならば、その最初の“枝分かれ”は、
どんなプリミティブな形であるにせよ──インセストの業でしかありえない。そう、
突き詰めれば誰しもが皆──インセストの子なのだ。結局は。
そして──井澄潤は思う。
そして、その仮定を──人はインセストより始まるという、その仮定を真とする
ならば。インセストという行為そのものは、あるいは原初への回帰といえるのかも
しれない。人間という種が、何百万年だか営々と築きあげてきた社会やら、モラル
やら、文化やらをすべてかなぐり捨てる、本能への回帰。求愛に垣根など必要なか
った時代への、ひたすらな回帰。だからこそ、人はインセストを怖れるのだろうか。
愛欲が原初へと立ち戻ることによって、人類社会が再び、とうに脱却し踏み台にし
てきたはずの、原初の闇へと引き戻されることを、怖れるのだろうか。
く、と喉を鳴らして、井澄潤は笑った。
ああ、何をそんなもったいつけた理屈をひねっているんだろう。物事の経緯や真
意に、いったいどれだけの価値があって、それが何の役に立つというのだろう。
──自分にとってもっとも近しい者を、ただひたすらに、愛してしまった。
ただ、それだけのことなのだ。最も近い者を最も愛することが、なぜ罪に問われ
るのだろう? むしろそれはより自然な行為に思えるし、“愛してしまった”とい
うこと以外、答えなどどこにもない。だのになぜだろう。こんなにも世界はインセ
ストを認めず、疎外し、消し去ろうとする。
補正なのだ、やはり。インセストを原初の回帰と規定するならば、それを阻もう
とする力──がむしゃらに前に進もうとする、停滞すること、後退することが何よ
りの悪と信ずる──はおそらく、そんな世界の補正なのだろう。
「結局、世界の全てを敵に回してしまったわけだ──」
「ユージニー」の一節を小さく呟きながら、井澄潤はもう一度笑った。
だから、決めねばならない。
その想いが本当に確かなものなのならば、決めねばならない。
どうしてインセストに至ったのか、そんなことを問題にするのではなく──
本当に、──を、愛しているのなら──
彼女を遠ざけることによって、世界から守るのか。
それとも、どこか遠く、誰の手も届かない遠くへ逃げ──世界から隠れるのか。
あるいは。
「──世界と、戦うのか」
ただ、それだけを。
1
鈍色に黒ずんだ空が、まるで膿んだ傷跡のように、ぽっかりと口をあけている。
だのに、昏い雲間から降りゆく雪は、汚れを知らないかのように、眩しく白く、優
しく舞っていた。ひらひらと地上へ降りてゆく白い精は、やがて静かに、ゆっくり
と世界を覆う。空はただ、ひたすらに、灰黒い。
さく、さく、とシューズが小さな音を立てた。吐息が白く染まり、空へと立ち昇
ってゆく。世界はこんなにも白く包まれているというのに──正樹は思う──どう
してこんなに、心は枷がかかったように重いのだろう。
未練、なのだろうか。割り切ったはずだったのに──陸上よりも乃絵美の傍にい
ることを、あのとき誓ったはずなのに、心はこんなにも揺れている。
体中が波打つような感覚。──まるで、世界が違った。あれが、“歴然”なのだ
ろう。「10秒と11秒の間を行ったりきたりする世界」と、あとわずかで、「9
秒の壁に手が届く10秒の世界」との間に隔たる、厳然としてそこにある“歴然た
る差”。おそらくそこでは、流れている空気すらも違うのだろう。体中を構成する
すべての要素が、粒子になって風に溶け込んでいくような世界。その世界に立って
あの人は──笑っていた。余裕の笑みでも、あざけるような笑いでもなく、ただ何
かを懐かしむような、そんな、微笑。あえてそれに言葉を与えるなら、なんだろう
──ああ、それはきっとおそらく、
(──本当に“歴然”だったかい?)
そうか、まだ君もこのていどの差を、本当に“歴然”だと思っているんだね──
という、かつての自分を懐かしむような笑みだったのかもしれない。
片桐隆史。
日本人が9秒の世界へと到達できるのだとしたら、彼以外にはありえない、とま
で謳われた屈指の国産スプリンター。けれども、結局彼は一度も9秒への壁を越え
ることはできず、世界の表彰台に立つこともなかった。片桐と世界の間にはきっと
正樹が片桐に感じるよりも遥かに深い──それはおそらく絶望的な──差が、歴然
たる事実としてあったのだろう。「歴然、でした」と言った正樹に対して少し見せ
た、あの微妙な表情は、
「歴然? こんなものが?」
という、自嘲にも似たものだったのかもしれない。
絶望的。そう、おそらくそれは絶望的なまでの差なのだろう。正樹が片桐に感じ
る歴然と、その片桐が世界に感じた、長大すぎる“歴然たる差”。ほんの一握りの
人間だけがその地平に立つことを許され、わずか100メートルの曲線に絶対的に
君臨するその世界。
遠すぎる。
それはきっと、あまりにも、遠い、世界だ。
「…………」
──だのに、と正樹は思う。
だのに、全身が痺れるくらいに疼いている。どれだけの可能性が残されているの
か──きっとそれは笑うしかないくらいに絶望的な数字なのだろうが──分からな
い。だのに、その世界へと辿り着きたいと思っている自分がいる。こんなものでは
ないはずだ、と両脚が叫んでいるような気がする。未知の感覚を、遠い地平を、全
身が求めているような──そんな、渇望。
(走りたい、速く──もっと速く!)
いつから、こんなにも強くそれを願うようになったのだろう。走り去るあの電車
の影を追いかけようとしたあの日から? けれど、初恋の淡い想いが時の流れの中
に静かに埋没していくのと同時に、走ることへの渇望もゆっくりと燻っていったよ
うな気がしていた。どこかで線を引いていたのだろう。どれだけ速く走ることが出
来たとしても、過去へ逆送することは出来ないのだし、時計の針は、戻せない。
結局、指向性を失った情熱は、空回りするだけだった。後一歩、が足りない自分
を、「まぁ上出来だろう」という中途半端な余裕で覆い隠していた。そう、なにも
かも中途半端なままで。
ちく、と不意に左肩の下あたりが痛んだ。シャツの裏地にこすれたのだろう、ま
だ新しい傷口が、自分の存在を主張するように、ちく、と皮膚下を刺激する。
小さな爪痕。
それはたしかに、昨日の夜のことが幻でない証だった。中途半端、だったのだろ
うか? 正樹は思う。城南を捨て、乃絵美を選んだことは、中途半端な選択だった
のだろうか? 片桐隆史に完膚無きまでに敗れて、心はこんなにも揺れている。天
秤は左右に激しく揺れて、もうまるで判別がつかなかった。そんな軽い思いで、選
択したのだろうか? 自分は? 乃絵美を、──妹を、抱いたことを?
「────」
粉雪の降り散る視界の先に、小さな人影を認めて、正樹はふと立ち止まった。息
が洩れ、そしてそれはまたたく間に霞になって、ふうっと空に立ち昇っていく。
それこそ雪のように真っ白な傘を所在なげにさしていたその少女は、正樹の足音
に気づいたのか、ゆっくりとうつむいていた顔を上げた。
その表情をなんと形容すればいいのだろう、──正樹は思う。その笑顔に、どん
な言葉を返せばいいのだろう? 混じりけのない、本当にただひとつの想いに貫か
れた、まっすぐな笑顔。想いの前に言葉はあまりにも無力で、正樹はただ、その名
を呼ぶことしかできなかった。
「乃絵美」
その呼びかけに、乃絵美はもう一度、零れるように口元をほころばせた。随分待
ったのだろう、白い頬にはうっすらと赤みがさしている。
「待っててくれたのか?」
「うん、お兄ちゃん、傘忘れていったから、──困ってるだろうな、って思って」
「ん、ああ……」
その時になって初めて、正樹は自分の全身がかなり降る雪にまかせていたことに
気づいた。粉雪とはいえ、髪やコートにまとわりつく白い結晶は、もうずいぶんと
体を濡らしている。
「悪いな、わざわざ」
「ううん」
と呟いて、乃絵美はそっと自分の傘をさしだした。無言でそれを受け取って、正
樹は自分の傍らに乃絵美を招き入れた。寄り添う瞬間、少し目が合って、すると乃
絵美は照れたように「えへへ」と視線を下に逸らした。
ふと思った。これがあの日の、あるべきことだったんだろう。
あの雨の日、神様の予定としては、兄妹はこうやって仲直りするはずだったのだ
ろう。あのキスのことはまぁ、ちょっとした気の迷いという奴で片づけられて、二
人はなんの問題もなく、きちんと舗装された道に立ち戻るはずだったのだろう。だ
けど、今日はもうあの日じゃない。数量的にはきっと、人生の中でもたかだか2万
分の1くらいにすぎないだろう、たった1日──“昨日”という日が、多分兄妹の
すべてを変えた。
「それと、ほら、約束──したし」
「約束?」
「うん。今日、お鍋にしようって。だから、一緒にお買い物、したかったから」
「なんだ、そういう魂胆か。俺を荷物持ちにしようっていう腹なんだな」
軽く乃絵美の額を小突くと、乃絵美は「ちがうよー」とくすぐったそうに笑った。
正樹も小さく笑みを返して乃絵美の髪をくしゃっと撫でると、
「ありがとな、乃絵美」
と呟いた。
乃絵美は「え?」という顔をして、正樹の顔を見上げた。
「ううん、違うよ。お礼を言うのはわたしの方だよ」
わたわたと、乃絵美が言う。その姿がたまらなく愛しくて、正樹は思わずそっと
乃絵美の頬を指でなぞった。どれだけ、大事に思ってきたことだろう。この小さな
妹を、どれだけ? その妹が、自分を好きだと言ってくれた。自分にその体を委ね
てくれた。本当にそれは、どれだけ幸せなことだろう? 世界のどんな恋人同士が、
これだけの喜びを感受できるだろう? 誰よりも愛したこの子が、誰よりも自分を
好きでいてくれる、この喜びを?
「ごめんな」
そう呟いて、正樹は乃絵美をそっと抱き寄せ、唇に触れた。それはほんの一瞬で、
人気のない校舎からはもう、見咎められることはないはずだったので。それでも乃
絵美は顔を真っ赤に上気させて、それを隠すようにうつむいた。正樹のコートを掴
む手に、きゅっと力が込められる。
その仕草に目を細めながら、正樹は思った。ごめんな、ごめん。俺はまだ迷って
る。でも、絶対答えを出すからな。今度は絶対、中途半端じゃなく。
「じゃ、行くか?」
その迷いを強くうち払うように、正樹は言った。「うん」とまだ赤い頬のまま乃
絵美はうなずいて、歩みを合わせるように二人は歩き出した。さく、さく、と二人
分の雪を踏む足音が、耳に響いた。
雪はまだ、当分やむことはなさそうで──
──その校舎の影で、氷川菜織はどっと崩れ落ちるように雪のつもった地面に膝
をついた。両膝に痛いほどの冷気を感じたが、そんなことはまるで気にならなかっ
た。そんなことよりも今頭を駆けめぐっているのは、今見た、ほんの一瞬の光景だ
った。そう、一瞬のこと。でもそれはたしかに、恋人同士の甘い仕草だった。間違
っても兄が妹にするものではない、愛しい相手に対する、たしかなキス。
右手がじんじんと痛い。でも、そんなものよりずっと激しい痛みが、菜織の胸を
苛んでいる。
ああ、なんだかんだいって、自分はまだどこかで信じていたのだろう。乃絵美の
告白を受けても、自分はまだどこかで、それを受け入れることが出来なかったのだ
ろう。
でも今は違う。
今なら信じられる。二人はたしかに、互いを求めあって、そしてそれを受け入れ
たのだ。兄と妹ではなく、恋人同士になることを選択したのだ。
そんなことが、許されていいのだろうか? そんなのは、ルール違反じゃないの
だろうか? 菜織の全身を、寒気に似た震えが駆けめぐった。外気のせいだけでは
ない、何かが。
震える肩を必死に押さえようとして、菜織はようやく、自分が泣いていることに
気づいた。こんなの、ひどすぎる。こんなの──。
──雪はまだ、当分やみそうにはなかった。
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