小説(転載) インセスタス Last Incest 明日 2/7
官能小説
2
「いつか醒めるから夢なんだよ」
──そんな声を、心地よい微睡みの中で乃絵美は聴いた。今はもうタイトルすら
忘れてしまったけれど、子供の頃本当に大好きだった絵本。それはひとりの女の子
が妖精に連れられて夢の国へ行くというお話だった。そこは子供の楽園で、ほしい
ものや、ねがいごとががなんでも叶う世界。女の子はそこで無我夢中で遊ぶのだっ
た。三日月の上でブランコをしたり、ミルキーウェイを泳いでみたり。でも最後に
──女の子が遊び疲れて、銀色の葦の野原に座り込んでしまったその耳元で、今ま
でずっと見守っていた小さな妖精は言うのだった。「さぁ、もう時間だ。水色の太
陽が金色の海から浮かんでくる。君はお家に帰らなきゃ」。
いやだよ、もっとここにいたいよ──そういう女の子に妖精は笑って首を振り、
呟くのだ。「──いつか醒めるから夢なんだよ」
そして妖精がぱちんと指を鳴らすと、世界はくるんと一回転して、女の子の視界
は真っ白な光に包まれる。そして彼女がおそるおそる目を開くと、そこはいつもの、
ひなたの匂いのする柔らかいベッドで、女の子は自分を覗き込む、少し小じわのあ
るその顔に気づくのだ。
「ほらお寝坊さん、もう起きる時間ですよ!」
─January.27 / Libraly─
「あ……」
どこかで本当にぱちんと指を鳴らす音がしたような気がして、乃絵美は、はっ、
と気だるい微睡みから目覚めた。一瞬、自分がどこにいるのか分からなくなって、
きょろきょろとあたりを見回すと、そこはごく見慣れた場所だった。少し薄暗い照
明、渋い色をした木のテーブル、そのテーブルの上に積まれた本、本、本。
図書室だ。今日の書架整理は乃絵美の当番で、だから少し前からここで本を片づ
けていたのだった。ちょっとひと休みしようと椅子に腰に下ろしていたら、どうや
らいつの間にかうとうとと寝入ってしまったらしい。
乃絵美は妙に気恥ずかしくなって、赤みのさした顔で周囲を見回した。だだ広い
教室の中には乃絵美以外の呼吸は聞こえない。ふう、とひと息つくと、乃絵美はあ
る大事なことに気づいて、ふと教室の壁掛け時計を見やった。4時30分。かちか
ちと秒針が音を立てて進む。
(よかった、まだ30分くらいある)
ほっと息をはいて、乃絵美は念のために自分の左手首の小さな腕時計──去年、
誕生日に正樹にもらったものだ──の時間も確認した。うん、きっかりと4時30
分。お兄ちゃんと待ち合わせしているのは5時だから、それまでもう少し頑張らな
きゃ。
とん、と背もたれに軽く身を預けながら、乃絵美は昨夜のことを思った。安らか
な、本当に安らかな夜だったと思う。お兄ちゃんと一緒に買い物をして、それから
お父さんも一緒に、3人でお鍋を囲んで──たぶん、今まで何千回くり返してきた、
それはほんのささいな日常なのだろうけど、今の乃絵美はそれが本当に特別な時間
に思えた。
お兄ちゃんが笑うだけで。何気ないひと言をかけてくれるだけで──あふれるよ
うな気持ちが胸に広がっていく。たぶん、これが恋というものなんだと思う。むず
がゆさと、嬉しさと、そして確かな誇らしさがないまぜになったような、そんな、
気持ち。
それは本当に、涙が出るくらい幸せな感覚で──。
「──────」
乃絵美は思う。自分は、悪いことをしているのだろうか? 罪を犯しているのだ
ろうか? この安らかな想いに包まれる代償に自分は、取り返しのつかない罪を?
けれど、けれどしょうがない──と、乃絵美は思う。好きになってしまったのだ、
わたしは、あの人を、お兄ちゃんを。その気持ちに嘘はつけないし、そしてそれは
もう、隠すことはできない。
す、と自分の右頬に触れてみる。昨日菜織にはたかれた跡はもう、すっかりと痛
みはひいていたはずなのに──なぜだか鈍い痛みがした。「卑怯者」という言葉が
ナイフになって、胸をかすめるような。
卑怯者、なのかもしれない。たぶんきっと、お兄ちゃんを好きな人たち──菜織
ちゃんやサエちゃん、それに真奈美ちゃん──にしてみれば、自分は、本当に許せ
ないことをしたのかもしれない。
でも、でも、と乃絵美は思う。でも仕方がなかったのだ、この胸の奥から、とめ
どなく溢れてくるこの感情はもう、どんな言葉やルールでももう、押さえつけるこ
とはできない。どんなに罵倒されても、なじられても、もう仕方がない。卑怯者で
もいい。──神様、それでもわたしは、あのひとが誰よりも、
「好き、なんです」
──その呟きは静かな教室に不意によく響いて、乃絵美ははっと我に返った。き
ょろきょろとあたりを見回す。大丈夫、誰もいない。乃絵美はほうと息をつくと、
顔を上げた。時計の針はもう、4時35分を回っている。
(あ、急がなきゃ)
部活が早く引けると思うから、終わってなけりゃ手伝ってやるよ、朝、そう正樹
が言っていたのを思い出す。でも、これくらいは自分でやらなければ。もう頼って
ばかりいては駄目だ、と乃絵美は思う。なぜなら自分はもう、守られるだけの妹で
はないのだから。
ん、と小さく声をあげて乃絵美は立ち上がった。そして整理途中だった机の上の
本の山の方に向き直る。背表紙を一度全部揃えて、それから乃絵美は丁寧にテーブ
ルの上の本をより分けていった。バルザック、ランボー、ヘッセ、スタンダール、
ジョンソン、サッフォー、ラブレー、コクトー、アリストファネス──新旧詞話ば
らばらになった本を乃絵美は静かに分類していく。3時くらいから始めていたから、
整理はもうあらかた終わっていて、あとはこの西洋書架の棚を整理するだけだった。
このペースならもう20分もすれば終わるだろう。
「──?」
不意に、見慣れぬ装丁が視界に飛び込んできて、乃絵美は一瞬動きを止めた。今
まで少し低い椅子の上に置いてあったから気づかなかったのだろう。灰色の鞄の上
に、古い装丁の本が一冊置かれている。褪せた皮のような表紙に、寄り添って眠る
少年と少女が描かれた、どこか印象的な感じのする本だった。そのタイトルには流
れるような筆記体で、誰かの名前だろうか、アルファベットが踊っている。
「E──」
読み上げようとした乃絵美の声と、がら、と引き戸が開く音がしたのはほぼ同時
だった。乃絵美はびくりと肩を震わせて音のした方向に振り向いた。べつだん悪い
ことをしているのでもなかったが、なんだか妙にばつの悪い感じがする。
教室に入ってきたのは、見覚えのある顔だった。きつそうな両目を縁なしの眼鏡
で覆っている(少し神経質そうな人だな、というのが乃絵美の第一印象で、第二以
後もずっとそうだった)、図書委員の井澄先輩。
「あ、ご苦労様です」
自分がぼうっと立っていたことに気づくと、乃絵美ははっと我に返ってぺこりと
お辞儀をした。そんな乃絵美を一瞥すると、井澄は無言のまま乃絵美の見やってい
た本とバッグを手に取った。どうやら井澄の荷物だったらしい。
なんとなく、広い室内に奇妙な沈黙が流れた。乃絵美は井澄の持ついかにも厭人
的な雰囲気に呑まれていただけだが、井澄の方はこういう態度が地なのだろう。
(その無愛想さがどうやら女子の一部には「たまらない」らしいのだが──現に夏
紀がそうなのを乃絵美は知っている──そのあたりの異性の好みのほどは乃絵美に
はよく分からない。まぁ、乃絵美にしてみれば、「お兄ちゃんみたいな人」という
のが幼い頃からの異性の理想ではあったので──)
しかし、意外にもその沈黙を破ったのは井澄の方が先だった。
「独りで?」
一瞬、何のことを訊かれているのか分からなかったが、すぐに今日の書架整理の
ことだと気づいて、乃絵美は慌てて答えた。
「はい、その、江崎先輩が今日お休みだったので──」
書架整理は図書委員の通常としては二人一組のローテーションでやることに決ま
っている。けれども今日は乃絵美と一緒にやるはずだった先輩が風邪でダウンして
しまったので、独りでやることになってしまったのだった。といってもずれた本を
直す程度のことだし、普段からあまり利用者のいない図書室ということもあったの
で、面倒な作業ではあるが、そう重労働というほどのものでもなかったが。
「そうか」
乃絵美の答えにさして興味もなさそうにうなずくと、井澄は踵を返して教室から
出ようとした。そのとき、井澄の手にしていた本の隙間から、ぱさりと何か紙のよ
うなものが落ち、乃絵美は慌てて呼び止めた。
「あの、なにか落ちました」
「──ああ」
乃絵美は駆け寄って、床に落ちていた──それは萌葱色の栞だった──紙を拾う
と、井澄に手渡した。その瞬間、ふと井澄の表情が変わったような気がした。それ
はいつもの冷徹な表情ではなく、一瞬、ほんの一瞬だが──彼のなまの感情が垣間
見えたように乃絵美には思えた。
「? あの……?」
押し黙った井澄を見やって、乃絵美が不安混じりに問いかけると、
「そうか、伊藤──というんだったな、君は」
ぽつりと、今思い出したかのように井澄が答えた。その切れ長の目が、乃絵美の
制服のネームプレートに、静かに注がれている。
「あ、はい。伊藤──乃絵美です」
図書委員を始めてもう2年になろうというのに、後輩の名前をろくに覚えていな
いというのも、実にこの先輩らしいと乃絵美は思った。おそらく、本質的にこの人
は他人を必要としない人なのだろう。『顔も頭もいいのに、性格がアレじゃね。乃
絵美のお兄ちゃんの方がよっぽどポイント高いよ──』クラスメートの誰かがそう
噂していたのをふと思い出す。(そのあと井澄シンパの夏紀の逆鱗に触れて授業が
始まっても言い争いをしていたが)でも、今の井澄の表情は、そんな印象とはやや
かけ離れた、どこかせっぱつまったようなそんな雰囲気を持っていた。
「じゃあ、伊藤正樹の?」
「は、はい、伊藤正樹は──兄、です」
お兄ちゃん、と答えようとして乃絵美は言い直した。そういえば、目の前のこの
先輩と正樹はクラスメートだと、いつか正樹から聴いたことがある。けっこう、親
しい関係なのだろうか? ふと、自分の知らない正樹の生活を見る思いがして、乃
絵美は少し気になった。
けれど、そう返した時の井澄の表情は、なんとも不思議なものだった。どう表現
すればいいのだろう? それは少し戸惑うような、それでいて哀れむような、ある
いは慈しむような──そんな幾つもの感情が一瞬にして錯綜した、表情。
そして井澄は深くひとつ、大きく息をつくと、
「そうか、君が──」
と、もう一度呟いた。
3
「ようし、じゃあ今日はもうあがれ! 2年は撤収作業、1年はグランド整備しと
け。解散!」
田山の太い声がグラウンドに響いて、いつもより少し早く部活の終わりが告げら
れた。クールダウンを兼ねてゆっくりとトラックを流していた脚を止めると、正樹
はふうと大きく息を吐いた。見上げれば淡色の空。凍りついたように白い太陽が、
雲のきざはしから顔を見せている。
ゆっくりとスポーツバッグの置いてあったベンチまで歩みよると、正樹はふと、
その上にかけてあったはずのタオルが消えているのに気づいた。練習前、たしかに
バッグの上に引っかけていたはずなのだが。
「? どこへやったっけな──?」
という呟きにかぶさるように、正樹の背後で作ったような猫なで声がして、
「伊藤先輩、このタオル使ってください!」
綿の柔らかい感触とともに、きゅっと首が絞められた。
「うわ」
背中に当たる柔らかい感触をあわてて引き剥がすと、正樹はぼやき混じりに言っ
た。
「て、ミャーコちゃん、なにするの」
「えっへっへ。一度こーゆーのやってみたかったんだよ~」
振り向いた先で、器用に編まれた2本のお下げをぴこぴこと揺らして笑っていた
のは、案の定美亜子だった。苦笑しながらも、その悪びれない表情に正樹は少し安
堵する。(どうして“安堵”したのか、自分でもよく分からなかったけれど)
「ん、でもあんまり期待してた反応じゃなかったナ~。もしかしてこういうシチュ
エーションは慣れっこ?」
「んな、まさか」
正樹は苦笑して(でも、ミャーコちゃんの変な行動にはもう慣れっこだけどな、
とは内心しっかり思ったが)首を振った。そのまま首にからまったままのタオルに
手をやると、吹き出す汗をぬぐう。
そんな正樹を美亜子は好奇心いっぱいの瞳で見やっていたが、
「でも、変わったねェ」
やがて、少し感慨深そうに、そう呟いた。
「なにが?」
「んー、正樹くんの走り方、っていうか。いやいや所詮は素人のタワゴトなのです
がね?」
「──どんなふうに?」
どうせまたなにか妙な答えを用意しているんだろう、と半ば予想しつつも、正樹
は訊ねた。しかし意外にも、美亜子は指を形のいいあごの下のあたりに当てて、
「んー」と考えこむような仕草をすると、少し真面目な顔つきになって答えた。
「うん、なんてゆーか、キレイになったと思う」
「キレイ? なにが?」
「だからぁ、走り方、ってゆーのかな? 前はなんかこう、「うおおーッ!」って
感じに前に突き進んでるカンジだったけど、さっきの見てたら、んー、なんてゆー
かなぁ、こう、「すーっ」って走っているカンジがしたよ」
「すー?」
「そう、すーっ」
言いながら、美亜子は胸の前で手をすべらせた。
「うーん、分かるような分からないような」
苦笑して正樹はタオルを顔から放すと、首に引っかけてバッグのチャックを締め、
地面に置いた。それを待っていたかのように美亜子がちょこんとベンチに腰を下ろ
す。
それから少しの間、沈黙が流れた。空の高いところでは風の流れが早いようで、
幾すじもの白い雲がゆったりと南の方へと移ろってゆく。
その様子をただぼんやりと眺めながら、思い出したように美亜子がぽつり、と呟
いた。
「もう卒業だねェ」
ベンチに腰かけたまま、所在なげに脚をぶらぶらさせながら。いつもはただ子供
っぽいだけのその仕草も、その横顔だけはなぜだか今日は少し大人びているように、
正樹には見えた。
「あと2ヶ月もしたらみんな、ばらばらになっちゃうんだねー」
「……そうだね」
呟きながら、でもさ、と正樹は続けた。
「でも、菜織と冴子は桜美だし、ミャーコちゃんは桜美駅前の専門学校に通うんだ
ろ? たしかに今みたいに毎日は会えなくなるかもしれないけどさ──冴子が言っ
たみたいに、結局このメンツはずっと変わらないんだと思うよ」
正樹の言葉に美亜子は、ん、とうなずいて、それから少し考え込むような仕草を
したあと、囁くように口を開いた。
「でも、正樹くんは、どーするの?」
「え?」
「正樹くんは、これからどーするのかなって。城南の推薦断ったって話、もーかな
り噂になってるよ? て、まーそれを広めたのは主にワタクシの仕業なワケですが」
てへへ、と美亜子は口元を笑みくずしたが、すぐにまた少し真面目な顔つきに戻
って、正樹の次の言葉を待った。
「俺は──」
言葉を続けようとして、正樹は先を失ったように口ごもった。自分は、何と答え
ようとしているのだろう? 自分は、本当はどうしたいのだろう? 言葉は鎖がか
かったように重く、正樹はただ沈黙を美亜子に返した。
強い風が吹いた。中庭の木々が大きく揺れ、その葉擦れの音がいやに強く耳に響
いた。何が本当に大切なことなんだろう──もう一度、正樹は思う。なにが本当に、
自分の中で?
今ならば思える、それは間違いなく乃絵美で、あの子が笑顔でいてくれるなら、
自分はきっとなんでもするだろう。でも、その想いとは別の、胸のどこかで──陸
上に対するなにかがずっと燻っている。ベクトルを違えたふたつの感情。
「…………」
「ん……あ、そうだ!」
押し黙った正樹を見て、美亜子は慌てて話題を変えるようにわざとらしく咳払い
をした。
「忘れてた、忘れてた。正樹くんに伝えなきゃいけないコトがあったんだった」
「俺に?」
そ、と呟いて、美亜子はよっと身を翻しながら器用な仕草でベンチから降りた。
「菜織ちゃん、校舎裏のところで待ってるって」
「菜織が?」
「うん。けっこー深刻そうなカンジだったよ。──ほらほら、これはアレなんじゃ
ないですか? 俗に言う告白というヤツなのではー?」
「妙なコト言うなって。……分かった。行ってみる」
うっしっし、と笑う美亜子を小突くと、正樹は足元のバッグを拾って、裾の埃を
払った。両脚はまるで鉛のように重かったが、逃げるわけにはいかない。いつまで
も、中途半端なままでは、いられない。軽く唇を噛むと、正樹はバッグを握る手に
力を込めた。
「もう行く?」
美亜子の問いに正樹は、
「そうするよ。待たせるのも何だしね」
「そっか。……じゃ、バイバイ、正樹くん。また明日ね」
「ミャーコちゃんも。また明日な」
そう言うと、正樹は踵を返して、中庭から校舎の方へと歩いていき、やがて渡り
廊下の中へと消えた。その後ろ姿をじっと見やりながら、美亜子はやがて嘆息に似
た息をついた。
「なーにやってんのかなー、あの二人は。さっさとくっついちゃえばいいのになぁ」
もう一度ベンチに腰を下ろして、両脚をぶらぶらさせながら、美亜子は呟いた。
あの二人の仲が、このところどうもしっくり来ていないのは、傍目にも明らかだっ
た。正樹と菜織はべつだん彼氏彼女という間柄でもなかったから、無駄なおせっか
いといえばそうなのだが、彼女や冴子などはそう遠くないうちに二人はそうなるも
のだと思っていたし──むしろやきもきしていたくらいだ、多少の心の痛みととも
に。ま、それは主にサエだけどね──だからこのところの二人の足踏みにはなんと
も歯がゆいものがあったりするのだった。
「菜織ちゃんも、完全無欠の絶好のポジションにいるんだから、さっさと捕まえち
ゃえばいいんだよー。世話が焼けるんだよねー、ホント」
キューピッド役というのも肩が凝る、と美亜子は思い、今朝の菜織のちょっと切
羽詰まったような表情を思い出して少し吹き出した。目を真っ赤に腫らして(これ
から告白するというのに)、どこか思い詰めたような顔で、「ごめんミャーコ、ち
ょっと頼まれてくれないかな?」なんて言うのだ。そりゃあ緊張するのは分かるけ
ど、菜織だったらもう、結果は決まっているようなものではないか。それこそ、ル
ール無視の大ハプニングでも起きないかぎり。
「9回裏、2死からの大逆転! ってワケには、やっぱいかなかったなぁ……」
さっきの正樹の様子を思い出して、美亜子はちょっと笑う。菜織が呼んでるとい
う用件を伝えるだけだったのに、危うく変なことを口走るところだった。よかった、
よかった。まぁ少し胸は痛むけど、さしたるほどでもない──と、思う。やっぱり
あの二人はお似合いだし、そういう関係になってしかるべきなんだろう。さて、首
尾良くそうなったら、最初になんて言ってからかってやろうか。
「また明日、かぁ……」
ぽつりと美亜子は呟いて、流れていく雲を見上げた。目には見えないけれど、時
間もああやって流れているんだろうな、と思う。雲がいつまでも同じ形ではいられ
ないように、なにもかもがいつかは、変化の時を迎えなければならない。
でももうちょっと、と美亜子は思う。
「もうちょっと、この時間が続けばいいのになぁ」
と。
※
「え、と──」
どこか思い詰めたように押し黙った井澄を前に、乃絵美は困惑したように視線を
左右にさ迷わせた。井澄は何かを考え込むように強く唇を噛みしめていたが、やが
て視線を逸らし、少し落ち着きを取り戻したように表情を緩ませた。
そして、呟くように言った。
「ジェスリー・ラインコックは──」
「え?」
「ラインコック──さっき君が見てた、この本の作者の名だよ。彼は1902年1
月29日、21歳でこの世を去った。泥酔して冬のテムズ河に転落し──溺死した
んだ」
戸惑う乃絵美をよそに、井澄は続けた。
「彼がそうなるまで酒を飲んだ理由──ああ、彼は下戸で知られていたんだ──に
は諸説ある。新作が思うように進まず、執筆に苦悩していた、だとか、いや、原稿
はすでに完成していたが、契約していた出版社にその出来を酷評されたのだ──と
かだ。だが、最も有力な説はそのどれでもない」
ゆっくりと、まるで自分自身に語りかけているように、井澄は言葉を接いでいく。
そして、その言葉を静かに、噛みしめるように、呟いた。
「──その日は、彼の姉の結婚式だった」
おそらくはそれが、唯一にして最大の理由だろう、と。そして、両目を細めるよ
うにして乃絵美を見やった。真冬だというのに、なぜだかひどく蒸し暑い感覚を乃
絵美は覚えた。
何を言っているんだろう? 先輩は突然、何を話し始めたのだろう? だがその
困惑は、熱病に浮かされたような井澄の視線に音も立てずに吸い込まれてゆく。
知っている、と思った。
自分はこの目を知っている。理性ではなく、感覚のどこかが乃絵美にそう告げた。
そう、自分はこの目を知っている。そしてそれはまるで、鏡を見ているような感覚
で──
「でも……」
沸き上がる不安感を必死に抑えながら、乃絵美は反駁の声をあげた。
「でもそれは、おかしいです」
姉の結婚が弟の自殺の要因になったと、井澄は言う。けれどそれは祝福こそすれ、
そんな悲劇の要因になるべきではけしてないはずだ。まだ結婚というものに神聖な
イメージを持っていた乃絵美にとって、断片的ながら、井澄の言葉はにわかに首肯
しがたいものがあった。 ・・・・
「ラインコック姉弟が、世間一般でいう、ごく普通の姉弟であればね」
井澄は答えた。その視線にふと、哀憐に似た感情が漂ったように、乃絵美には思
えた。
「ジェスリー・ラインコックはまだ物心つかぬ頃に、伝染病で両親をもろともに亡
くした。父親は移民だったから、寄るべき係累も少なく、彼は母方の祖父母のもと
で育てられた。その後長じるまで、幼いジェスリーの母親代わりになったのは、三
歳年上の姉、クローディアだった」
一言一言、区切りをつけるように井澄は続けた。
「ジェスリーにとって、クローディアは姉であると同時に母親であり、盲目的なま
での思慕の対象だった。いや、クローディアは彼にとって、女性そのものであった
と言ってもいいだろう。彼はその短すぎる作家人生で3冊の本をこの世に残したが、
その全てはクローディアに捧げられている」
そう呟いて、井澄は右手に手にしていた古い本をそっと胸の前で開いた。静かに
ページがめくられていき、やがて色褪せた紙の中央に、小さく文字が穿たれている
ページに差し掛かった。そこにはたった一行、曲がった釘のような古いラテンの文
字で、こう書かれていた。
『Amor Soror.(最愛の姉に)』
──と。
「いつか醒めるから夢なんだよ」
──そんな声を、心地よい微睡みの中で乃絵美は聴いた。今はもうタイトルすら
忘れてしまったけれど、子供の頃本当に大好きだった絵本。それはひとりの女の子
が妖精に連れられて夢の国へ行くというお話だった。そこは子供の楽園で、ほしい
ものや、ねがいごとががなんでも叶う世界。女の子はそこで無我夢中で遊ぶのだっ
た。三日月の上でブランコをしたり、ミルキーウェイを泳いでみたり。でも最後に
──女の子が遊び疲れて、銀色の葦の野原に座り込んでしまったその耳元で、今ま
でずっと見守っていた小さな妖精は言うのだった。「さぁ、もう時間だ。水色の太
陽が金色の海から浮かんでくる。君はお家に帰らなきゃ」。
いやだよ、もっとここにいたいよ──そういう女の子に妖精は笑って首を振り、
呟くのだ。「──いつか醒めるから夢なんだよ」
そして妖精がぱちんと指を鳴らすと、世界はくるんと一回転して、女の子の視界
は真っ白な光に包まれる。そして彼女がおそるおそる目を開くと、そこはいつもの、
ひなたの匂いのする柔らかいベッドで、女の子は自分を覗き込む、少し小じわのあ
るその顔に気づくのだ。
「ほらお寝坊さん、もう起きる時間ですよ!」
─January.27 / Libraly─
「あ……」
どこかで本当にぱちんと指を鳴らす音がしたような気がして、乃絵美は、はっ、
と気だるい微睡みから目覚めた。一瞬、自分がどこにいるのか分からなくなって、
きょろきょろとあたりを見回すと、そこはごく見慣れた場所だった。少し薄暗い照
明、渋い色をした木のテーブル、そのテーブルの上に積まれた本、本、本。
図書室だ。今日の書架整理は乃絵美の当番で、だから少し前からここで本を片づ
けていたのだった。ちょっとひと休みしようと椅子に腰に下ろしていたら、どうや
らいつの間にかうとうとと寝入ってしまったらしい。
乃絵美は妙に気恥ずかしくなって、赤みのさした顔で周囲を見回した。だだ広い
教室の中には乃絵美以外の呼吸は聞こえない。ふう、とひと息つくと、乃絵美はあ
る大事なことに気づいて、ふと教室の壁掛け時計を見やった。4時30分。かちか
ちと秒針が音を立てて進む。
(よかった、まだ30分くらいある)
ほっと息をはいて、乃絵美は念のために自分の左手首の小さな腕時計──去年、
誕生日に正樹にもらったものだ──の時間も確認した。うん、きっかりと4時30
分。お兄ちゃんと待ち合わせしているのは5時だから、それまでもう少し頑張らな
きゃ。
とん、と背もたれに軽く身を預けながら、乃絵美は昨夜のことを思った。安らか
な、本当に安らかな夜だったと思う。お兄ちゃんと一緒に買い物をして、それから
お父さんも一緒に、3人でお鍋を囲んで──たぶん、今まで何千回くり返してきた、
それはほんのささいな日常なのだろうけど、今の乃絵美はそれが本当に特別な時間
に思えた。
お兄ちゃんが笑うだけで。何気ないひと言をかけてくれるだけで──あふれるよ
うな気持ちが胸に広がっていく。たぶん、これが恋というものなんだと思う。むず
がゆさと、嬉しさと、そして確かな誇らしさがないまぜになったような、そんな、
気持ち。
それは本当に、涙が出るくらい幸せな感覚で──。
「──────」
乃絵美は思う。自分は、悪いことをしているのだろうか? 罪を犯しているのだ
ろうか? この安らかな想いに包まれる代償に自分は、取り返しのつかない罪を?
けれど、けれどしょうがない──と、乃絵美は思う。好きになってしまったのだ、
わたしは、あの人を、お兄ちゃんを。その気持ちに嘘はつけないし、そしてそれは
もう、隠すことはできない。
す、と自分の右頬に触れてみる。昨日菜織にはたかれた跡はもう、すっかりと痛
みはひいていたはずなのに──なぜだか鈍い痛みがした。「卑怯者」という言葉が
ナイフになって、胸をかすめるような。
卑怯者、なのかもしれない。たぶんきっと、お兄ちゃんを好きな人たち──菜織
ちゃんやサエちゃん、それに真奈美ちゃん──にしてみれば、自分は、本当に許せ
ないことをしたのかもしれない。
でも、でも、と乃絵美は思う。でも仕方がなかったのだ、この胸の奥から、とめ
どなく溢れてくるこの感情はもう、どんな言葉やルールでももう、押さえつけるこ
とはできない。どんなに罵倒されても、なじられても、もう仕方がない。卑怯者で
もいい。──神様、それでもわたしは、あのひとが誰よりも、
「好き、なんです」
──その呟きは静かな教室に不意によく響いて、乃絵美ははっと我に返った。き
ょろきょろとあたりを見回す。大丈夫、誰もいない。乃絵美はほうと息をつくと、
顔を上げた。時計の針はもう、4時35分を回っている。
(あ、急がなきゃ)
部活が早く引けると思うから、終わってなけりゃ手伝ってやるよ、朝、そう正樹
が言っていたのを思い出す。でも、これくらいは自分でやらなければ。もう頼って
ばかりいては駄目だ、と乃絵美は思う。なぜなら自分はもう、守られるだけの妹で
はないのだから。
ん、と小さく声をあげて乃絵美は立ち上がった。そして整理途中だった机の上の
本の山の方に向き直る。背表紙を一度全部揃えて、それから乃絵美は丁寧にテーブ
ルの上の本をより分けていった。バルザック、ランボー、ヘッセ、スタンダール、
ジョンソン、サッフォー、ラブレー、コクトー、アリストファネス──新旧詞話ば
らばらになった本を乃絵美は静かに分類していく。3時くらいから始めていたから、
整理はもうあらかた終わっていて、あとはこの西洋書架の棚を整理するだけだった。
このペースならもう20分もすれば終わるだろう。
「──?」
不意に、見慣れぬ装丁が視界に飛び込んできて、乃絵美は一瞬動きを止めた。今
まで少し低い椅子の上に置いてあったから気づかなかったのだろう。灰色の鞄の上
に、古い装丁の本が一冊置かれている。褪せた皮のような表紙に、寄り添って眠る
少年と少女が描かれた、どこか印象的な感じのする本だった。そのタイトルには流
れるような筆記体で、誰かの名前だろうか、アルファベットが踊っている。
「E──」
読み上げようとした乃絵美の声と、がら、と引き戸が開く音がしたのはほぼ同時
だった。乃絵美はびくりと肩を震わせて音のした方向に振り向いた。べつだん悪い
ことをしているのでもなかったが、なんだか妙にばつの悪い感じがする。
教室に入ってきたのは、見覚えのある顔だった。きつそうな両目を縁なしの眼鏡
で覆っている(少し神経質そうな人だな、というのが乃絵美の第一印象で、第二以
後もずっとそうだった)、図書委員の井澄先輩。
「あ、ご苦労様です」
自分がぼうっと立っていたことに気づくと、乃絵美ははっと我に返ってぺこりと
お辞儀をした。そんな乃絵美を一瞥すると、井澄は無言のまま乃絵美の見やってい
た本とバッグを手に取った。どうやら井澄の荷物だったらしい。
なんとなく、広い室内に奇妙な沈黙が流れた。乃絵美は井澄の持ついかにも厭人
的な雰囲気に呑まれていただけだが、井澄の方はこういう態度が地なのだろう。
(その無愛想さがどうやら女子の一部には「たまらない」らしいのだが──現に夏
紀がそうなのを乃絵美は知っている──そのあたりの異性の好みのほどは乃絵美に
はよく分からない。まぁ、乃絵美にしてみれば、「お兄ちゃんみたいな人」という
のが幼い頃からの異性の理想ではあったので──)
しかし、意外にもその沈黙を破ったのは井澄の方が先だった。
「独りで?」
一瞬、何のことを訊かれているのか分からなかったが、すぐに今日の書架整理の
ことだと気づいて、乃絵美は慌てて答えた。
「はい、その、江崎先輩が今日お休みだったので──」
書架整理は図書委員の通常としては二人一組のローテーションでやることに決ま
っている。けれども今日は乃絵美と一緒にやるはずだった先輩が風邪でダウンして
しまったので、独りでやることになってしまったのだった。といってもずれた本を
直す程度のことだし、普段からあまり利用者のいない図書室ということもあったの
で、面倒な作業ではあるが、そう重労働というほどのものでもなかったが。
「そうか」
乃絵美の答えにさして興味もなさそうにうなずくと、井澄は踵を返して教室から
出ようとした。そのとき、井澄の手にしていた本の隙間から、ぱさりと何か紙のよ
うなものが落ち、乃絵美は慌てて呼び止めた。
「あの、なにか落ちました」
「──ああ」
乃絵美は駆け寄って、床に落ちていた──それは萌葱色の栞だった──紙を拾う
と、井澄に手渡した。その瞬間、ふと井澄の表情が変わったような気がした。それ
はいつもの冷徹な表情ではなく、一瞬、ほんの一瞬だが──彼のなまの感情が垣間
見えたように乃絵美には思えた。
「? あの……?」
押し黙った井澄を見やって、乃絵美が不安混じりに問いかけると、
「そうか、伊藤──というんだったな、君は」
ぽつりと、今思い出したかのように井澄が答えた。その切れ長の目が、乃絵美の
制服のネームプレートに、静かに注がれている。
「あ、はい。伊藤──乃絵美です」
図書委員を始めてもう2年になろうというのに、後輩の名前をろくに覚えていな
いというのも、実にこの先輩らしいと乃絵美は思った。おそらく、本質的にこの人
は他人を必要としない人なのだろう。『顔も頭もいいのに、性格がアレじゃね。乃
絵美のお兄ちゃんの方がよっぽどポイント高いよ──』クラスメートの誰かがそう
噂していたのをふと思い出す。(そのあと井澄シンパの夏紀の逆鱗に触れて授業が
始まっても言い争いをしていたが)でも、今の井澄の表情は、そんな印象とはやや
かけ離れた、どこかせっぱつまったようなそんな雰囲気を持っていた。
「じゃあ、伊藤正樹の?」
「は、はい、伊藤正樹は──兄、です」
お兄ちゃん、と答えようとして乃絵美は言い直した。そういえば、目の前のこの
先輩と正樹はクラスメートだと、いつか正樹から聴いたことがある。けっこう、親
しい関係なのだろうか? ふと、自分の知らない正樹の生活を見る思いがして、乃
絵美は少し気になった。
けれど、そう返した時の井澄の表情は、なんとも不思議なものだった。どう表現
すればいいのだろう? それは少し戸惑うような、それでいて哀れむような、ある
いは慈しむような──そんな幾つもの感情が一瞬にして錯綜した、表情。
そして井澄は深くひとつ、大きく息をつくと、
「そうか、君が──」
と、もう一度呟いた。
3
「ようし、じゃあ今日はもうあがれ! 2年は撤収作業、1年はグランド整備しと
け。解散!」
田山の太い声がグラウンドに響いて、いつもより少し早く部活の終わりが告げら
れた。クールダウンを兼ねてゆっくりとトラックを流していた脚を止めると、正樹
はふうと大きく息を吐いた。見上げれば淡色の空。凍りついたように白い太陽が、
雲のきざはしから顔を見せている。
ゆっくりとスポーツバッグの置いてあったベンチまで歩みよると、正樹はふと、
その上にかけてあったはずのタオルが消えているのに気づいた。練習前、たしかに
バッグの上に引っかけていたはずなのだが。
「? どこへやったっけな──?」
という呟きにかぶさるように、正樹の背後で作ったような猫なで声がして、
「伊藤先輩、このタオル使ってください!」
綿の柔らかい感触とともに、きゅっと首が絞められた。
「うわ」
背中に当たる柔らかい感触をあわてて引き剥がすと、正樹はぼやき混じりに言っ
た。
「て、ミャーコちゃん、なにするの」
「えっへっへ。一度こーゆーのやってみたかったんだよ~」
振り向いた先で、器用に編まれた2本のお下げをぴこぴこと揺らして笑っていた
のは、案の定美亜子だった。苦笑しながらも、その悪びれない表情に正樹は少し安
堵する。(どうして“安堵”したのか、自分でもよく分からなかったけれど)
「ん、でもあんまり期待してた反応じゃなかったナ~。もしかしてこういうシチュ
エーションは慣れっこ?」
「んな、まさか」
正樹は苦笑して(でも、ミャーコちゃんの変な行動にはもう慣れっこだけどな、
とは内心しっかり思ったが)首を振った。そのまま首にからまったままのタオルに
手をやると、吹き出す汗をぬぐう。
そんな正樹を美亜子は好奇心いっぱいの瞳で見やっていたが、
「でも、変わったねェ」
やがて、少し感慨深そうに、そう呟いた。
「なにが?」
「んー、正樹くんの走り方、っていうか。いやいや所詮は素人のタワゴトなのです
がね?」
「──どんなふうに?」
どうせまたなにか妙な答えを用意しているんだろう、と半ば予想しつつも、正樹
は訊ねた。しかし意外にも、美亜子は指を形のいいあごの下のあたりに当てて、
「んー」と考えこむような仕草をすると、少し真面目な顔つきになって答えた。
「うん、なんてゆーか、キレイになったと思う」
「キレイ? なにが?」
「だからぁ、走り方、ってゆーのかな? 前はなんかこう、「うおおーッ!」って
感じに前に突き進んでるカンジだったけど、さっきの見てたら、んー、なんてゆー
かなぁ、こう、「すーっ」って走っているカンジがしたよ」
「すー?」
「そう、すーっ」
言いながら、美亜子は胸の前で手をすべらせた。
「うーん、分かるような分からないような」
苦笑して正樹はタオルを顔から放すと、首に引っかけてバッグのチャックを締め、
地面に置いた。それを待っていたかのように美亜子がちょこんとベンチに腰を下ろ
す。
それから少しの間、沈黙が流れた。空の高いところでは風の流れが早いようで、
幾すじもの白い雲がゆったりと南の方へと移ろってゆく。
その様子をただぼんやりと眺めながら、思い出したように美亜子がぽつり、と呟
いた。
「もう卒業だねェ」
ベンチに腰かけたまま、所在なげに脚をぶらぶらさせながら。いつもはただ子供
っぽいだけのその仕草も、その横顔だけはなぜだか今日は少し大人びているように、
正樹には見えた。
「あと2ヶ月もしたらみんな、ばらばらになっちゃうんだねー」
「……そうだね」
呟きながら、でもさ、と正樹は続けた。
「でも、菜織と冴子は桜美だし、ミャーコちゃんは桜美駅前の専門学校に通うんだ
ろ? たしかに今みたいに毎日は会えなくなるかもしれないけどさ──冴子が言っ
たみたいに、結局このメンツはずっと変わらないんだと思うよ」
正樹の言葉に美亜子は、ん、とうなずいて、それから少し考え込むような仕草を
したあと、囁くように口を開いた。
「でも、正樹くんは、どーするの?」
「え?」
「正樹くんは、これからどーするのかなって。城南の推薦断ったって話、もーかな
り噂になってるよ? て、まーそれを広めたのは主にワタクシの仕業なワケですが」
てへへ、と美亜子は口元を笑みくずしたが、すぐにまた少し真面目な顔つきに戻
って、正樹の次の言葉を待った。
「俺は──」
言葉を続けようとして、正樹は先を失ったように口ごもった。自分は、何と答え
ようとしているのだろう? 自分は、本当はどうしたいのだろう? 言葉は鎖がか
かったように重く、正樹はただ沈黙を美亜子に返した。
強い風が吹いた。中庭の木々が大きく揺れ、その葉擦れの音がいやに強く耳に響
いた。何が本当に大切なことなんだろう──もう一度、正樹は思う。なにが本当に、
自分の中で?
今ならば思える、それは間違いなく乃絵美で、あの子が笑顔でいてくれるなら、
自分はきっとなんでもするだろう。でも、その想いとは別の、胸のどこかで──陸
上に対するなにかがずっと燻っている。ベクトルを違えたふたつの感情。
「…………」
「ん……あ、そうだ!」
押し黙った正樹を見て、美亜子は慌てて話題を変えるようにわざとらしく咳払い
をした。
「忘れてた、忘れてた。正樹くんに伝えなきゃいけないコトがあったんだった」
「俺に?」
そ、と呟いて、美亜子はよっと身を翻しながら器用な仕草でベンチから降りた。
「菜織ちゃん、校舎裏のところで待ってるって」
「菜織が?」
「うん。けっこー深刻そうなカンジだったよ。──ほらほら、これはアレなんじゃ
ないですか? 俗に言う告白というヤツなのではー?」
「妙なコト言うなって。……分かった。行ってみる」
うっしっし、と笑う美亜子を小突くと、正樹は足元のバッグを拾って、裾の埃を
払った。両脚はまるで鉛のように重かったが、逃げるわけにはいかない。いつまで
も、中途半端なままでは、いられない。軽く唇を噛むと、正樹はバッグを握る手に
力を込めた。
「もう行く?」
美亜子の問いに正樹は、
「そうするよ。待たせるのも何だしね」
「そっか。……じゃ、バイバイ、正樹くん。また明日ね」
「ミャーコちゃんも。また明日な」
そう言うと、正樹は踵を返して、中庭から校舎の方へと歩いていき、やがて渡り
廊下の中へと消えた。その後ろ姿をじっと見やりながら、美亜子はやがて嘆息に似
た息をついた。
「なーにやってんのかなー、あの二人は。さっさとくっついちゃえばいいのになぁ」
もう一度ベンチに腰を下ろして、両脚をぶらぶらさせながら、美亜子は呟いた。
あの二人の仲が、このところどうもしっくり来ていないのは、傍目にも明らかだっ
た。正樹と菜織はべつだん彼氏彼女という間柄でもなかったから、無駄なおせっか
いといえばそうなのだが、彼女や冴子などはそう遠くないうちに二人はそうなるも
のだと思っていたし──むしろやきもきしていたくらいだ、多少の心の痛みととも
に。ま、それは主にサエだけどね──だからこのところの二人の足踏みにはなんと
も歯がゆいものがあったりするのだった。
「菜織ちゃんも、完全無欠の絶好のポジションにいるんだから、さっさと捕まえち
ゃえばいいんだよー。世話が焼けるんだよねー、ホント」
キューピッド役というのも肩が凝る、と美亜子は思い、今朝の菜織のちょっと切
羽詰まったような表情を思い出して少し吹き出した。目を真っ赤に腫らして(これ
から告白するというのに)、どこか思い詰めたような顔で、「ごめんミャーコ、ち
ょっと頼まれてくれないかな?」なんて言うのだ。そりゃあ緊張するのは分かるけ
ど、菜織だったらもう、結果は決まっているようなものではないか。それこそ、ル
ール無視の大ハプニングでも起きないかぎり。
「9回裏、2死からの大逆転! ってワケには、やっぱいかなかったなぁ……」
さっきの正樹の様子を思い出して、美亜子はちょっと笑う。菜織が呼んでるとい
う用件を伝えるだけだったのに、危うく変なことを口走るところだった。よかった、
よかった。まぁ少し胸は痛むけど、さしたるほどでもない──と、思う。やっぱり
あの二人はお似合いだし、そういう関係になってしかるべきなんだろう。さて、首
尾良くそうなったら、最初になんて言ってからかってやろうか。
「また明日、かぁ……」
ぽつりと美亜子は呟いて、流れていく雲を見上げた。目には見えないけれど、時
間もああやって流れているんだろうな、と思う。雲がいつまでも同じ形ではいられ
ないように、なにもかもがいつかは、変化の時を迎えなければならない。
でももうちょっと、と美亜子は思う。
「もうちょっと、この時間が続けばいいのになぁ」
と。
※
「え、と──」
どこか思い詰めたように押し黙った井澄を前に、乃絵美は困惑したように視線を
左右にさ迷わせた。井澄は何かを考え込むように強く唇を噛みしめていたが、やが
て視線を逸らし、少し落ち着きを取り戻したように表情を緩ませた。
そして、呟くように言った。
「ジェスリー・ラインコックは──」
「え?」
「ラインコック──さっき君が見てた、この本の作者の名だよ。彼は1902年1
月29日、21歳でこの世を去った。泥酔して冬のテムズ河に転落し──溺死した
んだ」
戸惑う乃絵美をよそに、井澄は続けた。
「彼がそうなるまで酒を飲んだ理由──ああ、彼は下戸で知られていたんだ──に
は諸説ある。新作が思うように進まず、執筆に苦悩していた、だとか、いや、原稿
はすでに完成していたが、契約していた出版社にその出来を酷評されたのだ──と
かだ。だが、最も有力な説はそのどれでもない」
ゆっくりと、まるで自分自身に語りかけているように、井澄は言葉を接いでいく。
そして、その言葉を静かに、噛みしめるように、呟いた。
「──その日は、彼の姉の結婚式だった」
おそらくはそれが、唯一にして最大の理由だろう、と。そして、両目を細めるよ
うにして乃絵美を見やった。真冬だというのに、なぜだかひどく蒸し暑い感覚を乃
絵美は覚えた。
何を言っているんだろう? 先輩は突然、何を話し始めたのだろう? だがその
困惑は、熱病に浮かされたような井澄の視線に音も立てずに吸い込まれてゆく。
知っている、と思った。
自分はこの目を知っている。理性ではなく、感覚のどこかが乃絵美にそう告げた。
そう、自分はこの目を知っている。そしてそれはまるで、鏡を見ているような感覚
で──
「でも……」
沸き上がる不安感を必死に抑えながら、乃絵美は反駁の声をあげた。
「でもそれは、おかしいです」
姉の結婚が弟の自殺の要因になったと、井澄は言う。けれどそれは祝福こそすれ、
そんな悲劇の要因になるべきではけしてないはずだ。まだ結婚というものに神聖な
イメージを持っていた乃絵美にとって、断片的ながら、井澄の言葉はにわかに首肯
しがたいものがあった。 ・・・・
「ラインコック姉弟が、世間一般でいう、ごく普通の姉弟であればね」
井澄は答えた。その視線にふと、哀憐に似た感情が漂ったように、乃絵美には思
えた。
「ジェスリー・ラインコックはまだ物心つかぬ頃に、伝染病で両親をもろともに亡
くした。父親は移民だったから、寄るべき係累も少なく、彼は母方の祖父母のもと
で育てられた。その後長じるまで、幼いジェスリーの母親代わりになったのは、三
歳年上の姉、クローディアだった」
一言一言、区切りをつけるように井澄は続けた。
「ジェスリーにとって、クローディアは姉であると同時に母親であり、盲目的なま
での思慕の対象だった。いや、クローディアは彼にとって、女性そのものであった
と言ってもいいだろう。彼はその短すぎる作家人生で3冊の本をこの世に残したが、
その全てはクローディアに捧げられている」
そう呟いて、井澄は右手に手にしていた古い本をそっと胸の前で開いた。静かに
ページがめくられていき、やがて色褪せた紙の中央に、小さく文字が穿たれている
ページに差し掛かった。そこにはたった一行、曲がった釘のような古いラテンの文
字で、こう書かれていた。
『Amor Soror.(最愛の姉に)』
──と。
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