小説(転載) 気付かないけど、傍に 8/8
官能小説
気付かないけど、傍に
8
さっきから蝉がうるさかった。
源太の家もそうだったけれど、直美の家も近くに林があるからな。もっとも、ここの近くにある林は、森と言っても良いくらいのもので。小学校の時、夏休みの自由研究なんていうと、虫取り網を片手に分け入ったものだ。
「また、来てやって下さいね」
「はい」
夏の暑い最中に、きっちりネクタイを締めて。けれど、これぐらいしか礼儀を表現する方法を知らない俺は。窮屈な襟首を気にせずに、直美の家を後にした。
隣を歩いている由悠も、終始無言のままだった。
出ていった時のまま。掃除もせずにそのままだという直美の部屋は、とても綺麗に片付いていた。女の子の部屋らしく、幾つか置かれた人形よりも。大きな本棚一面に置かれた演劇の本が、俺に重くのしかかっていた。
毎日、夜遅くまで、一生懸命練習していたという直美。
必死に練習した成果を、結局、ほんの少しだけ発揮する事も二度と無いんだと思うと。ひどく、馬鹿みたいに思えて。そんな馬鹿さ加減が、いかにも直美らしくて。本棚一面の演劇の本を見ているうちに、目頭が熱くなっていた。
急にいなくなってしまった実感がなかなかわいてこない源太は、家族もそうみたいだった。いつも遊びに行った時のように出された麦茶を飲みながら。寂しそうに笑うおばさんが、何故か今も目蓋に焼きついて離れずにいる。
源太の奴は、どうせ今でも爽やかな笑顔を振り撒いてるんだろうし。直美の奴は、怯えた目でおどおどしてるんだろう。まあ、俺がいなくても、直美の事は源太に任せておけば安心出来るしな。
「気付かなかったよね…」
「そうだな」
熱を持ったアスファルトが揺らいでいて、その中を排気ガスを散らして車が走っていく。左右を確認して道を渡りながら、街路樹に止まった蝉の声をうるさく感じていた。
「死、ってこんなにも傍にあるんだね」
「ああ」
「いつ死んじゃうか、分からないんだよね。だから、だから。やりたい事を後回しにしないで、自分に正直に生きないと…死んじゃってからじゃ、遅いもんね」
それには応えず、由悠の頭に手を乗せてひっぱり寄せてやった。予想しなかった行動らしく、バランスを崩れて倒れ込んできた由悠がべったりとひっつく。肌に浮いた汗同士がすれあって、不意に、外気の温度に気付いてみたりする。
「暑いよう、お兄ちゃん」
「俺は今、お前を引き寄せたいんだ」
かなり恥ずかしい事を言った気がする。
由悠の照れ具合を見ていれば分かるけれど。それよりも、自分で自分の言った妙な台詞が。気になって仕方が無かった。言わなければ良かったと後悔しても、既に遅い。
「私は…」
はにかんだように笑った由悠が、腕を絡めてくる。
それはそれで、かなり恥ずかしいと思うけれど。ここで逆らうと、さっきの自分の言葉に追い討ちをかけられる気がして。何も言えなかった。
「よし、今から家に帰ってさっそく励むぞ」
「ば、ばかな事大きな声で言わないでよね」
「何がだ? 俺は演劇部の練習に励むと言っただけだぞ」
頬を大きく膨らませた由悠が、俺のほっぺたを掴んでねじり上げた。痛くも何とも無いが、かなりくすぐったいな。これは。
「じゃ…やるか?」
「ばかあ! それより、今日は部活があるんでしょ?」
「そういやそうだな」
「私も…演劇部に入るよ」
由悠の笑顔の下に、色々な思いが見えたけれど。俺はそれには触れなかった。俺だってまだ、あいつらの事をどう受けとめていいのか分からないし。何より、自分の感情を上手く説明する事なんて出来無い事だから。
「ねえ、お兄ちゃん」
なんだ? と言いかけた時、唇が塞がれて返事が出来無かった。不意うちに戸惑っていると、にへらと子供っぽい笑顔を浮かべた由悠が、言っていた。
「傍にあって気付かなかったもの、まだあったよ」
「そう、だな」
由悠の事がこんなに愛しかった事だとか。大好きな人がずっと傍にいた事にも。俺は全然気付いていなかった。他にも、もっと気付いていない事があるんだと思う。
でも
それでいいんじゃ無いか、と俺なんかは思う。
鬱陶しく鳴き続ける蝉の声に空を見上げると。真っ青な空に、巨大な入道雲がそびえ立っていた。その白くて堂々としたでかさを見ているうちに、なんだか俺は、気分が晴れていた。
8
さっきから蝉がうるさかった。
源太の家もそうだったけれど、直美の家も近くに林があるからな。もっとも、ここの近くにある林は、森と言っても良いくらいのもので。小学校の時、夏休みの自由研究なんていうと、虫取り網を片手に分け入ったものだ。
「また、来てやって下さいね」
「はい」
夏の暑い最中に、きっちりネクタイを締めて。けれど、これぐらいしか礼儀を表現する方法を知らない俺は。窮屈な襟首を気にせずに、直美の家を後にした。
隣を歩いている由悠も、終始無言のままだった。
出ていった時のまま。掃除もせずにそのままだという直美の部屋は、とても綺麗に片付いていた。女の子の部屋らしく、幾つか置かれた人形よりも。大きな本棚一面に置かれた演劇の本が、俺に重くのしかかっていた。
毎日、夜遅くまで、一生懸命練習していたという直美。
必死に練習した成果を、結局、ほんの少しだけ発揮する事も二度と無いんだと思うと。ひどく、馬鹿みたいに思えて。そんな馬鹿さ加減が、いかにも直美らしくて。本棚一面の演劇の本を見ているうちに、目頭が熱くなっていた。
急にいなくなってしまった実感がなかなかわいてこない源太は、家族もそうみたいだった。いつも遊びに行った時のように出された麦茶を飲みながら。寂しそうに笑うおばさんが、何故か今も目蓋に焼きついて離れずにいる。
源太の奴は、どうせ今でも爽やかな笑顔を振り撒いてるんだろうし。直美の奴は、怯えた目でおどおどしてるんだろう。まあ、俺がいなくても、直美の事は源太に任せておけば安心出来るしな。
「気付かなかったよね…」
「そうだな」
熱を持ったアスファルトが揺らいでいて、その中を排気ガスを散らして車が走っていく。左右を確認して道を渡りながら、街路樹に止まった蝉の声をうるさく感じていた。
「死、ってこんなにも傍にあるんだね」
「ああ」
「いつ死んじゃうか、分からないんだよね。だから、だから。やりたい事を後回しにしないで、自分に正直に生きないと…死んじゃってからじゃ、遅いもんね」
それには応えず、由悠の頭に手を乗せてひっぱり寄せてやった。予想しなかった行動らしく、バランスを崩れて倒れ込んできた由悠がべったりとひっつく。肌に浮いた汗同士がすれあって、不意に、外気の温度に気付いてみたりする。
「暑いよう、お兄ちゃん」
「俺は今、お前を引き寄せたいんだ」
かなり恥ずかしい事を言った気がする。
由悠の照れ具合を見ていれば分かるけれど。それよりも、自分で自分の言った妙な台詞が。気になって仕方が無かった。言わなければ良かったと後悔しても、既に遅い。
「私は…」
はにかんだように笑った由悠が、腕を絡めてくる。
それはそれで、かなり恥ずかしいと思うけれど。ここで逆らうと、さっきの自分の言葉に追い討ちをかけられる気がして。何も言えなかった。
「よし、今から家に帰ってさっそく励むぞ」
「ば、ばかな事大きな声で言わないでよね」
「何がだ? 俺は演劇部の練習に励むと言っただけだぞ」
頬を大きく膨らませた由悠が、俺のほっぺたを掴んでねじり上げた。痛くも何とも無いが、かなりくすぐったいな。これは。
「じゃ…やるか?」
「ばかあ! それより、今日は部活があるんでしょ?」
「そういやそうだな」
「私も…演劇部に入るよ」
由悠の笑顔の下に、色々な思いが見えたけれど。俺はそれには触れなかった。俺だってまだ、あいつらの事をどう受けとめていいのか分からないし。何より、自分の感情を上手く説明する事なんて出来無い事だから。
「ねえ、お兄ちゃん」
なんだ? と言いかけた時、唇が塞がれて返事が出来無かった。不意うちに戸惑っていると、にへらと子供っぽい笑顔を浮かべた由悠が、言っていた。
「傍にあって気付かなかったもの、まだあったよ」
「そう、だな」
由悠の事がこんなに愛しかった事だとか。大好きな人がずっと傍にいた事にも。俺は全然気付いていなかった。他にも、もっと気付いていない事があるんだと思う。
でも
それでいいんじゃ無いか、と俺なんかは思う。
鬱陶しく鳴き続ける蝉の声に空を見上げると。真っ青な空に、巨大な入道雲がそびえ立っていた。その白くて堂々としたでかさを見ているうちに、なんだか俺は、気分が晴れていた。
コメント