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小説(転載)  インセスタス Incest.2 ショーペンハウエルのハリネズミ 3/3

官能小説
04 /30 2019
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 望んでいる?
 人は皆、インセストを望んでいると井澄は言う。愚にもつかない話だったが、な
ぜか正樹には頭ごなしに否定できない響きを、その言葉の中から感じた。
 あのときの乃絵美の表情。なにかを求めるような、苦しそうな、悲しそうな瞳。
 そして俺は──
 ──俺は、どうなのだろう?
 正樹の動揺をよそに、あるいは、と井澄は続けた。
 常の彼からは信じられないくらい、饒舌だった。頬が上気している。
「あるいは、それが特権だったからだろう」
「特権?」
「レヴィ=ストロースは、禁忌は禁忌それ単体のみでは論じることは出来ない。必
ずそれに付随する特権とともに考えねばならない──と言った。まさしく同感だよ。
知っているか? 古代──エジプトやインカの帝国は、王族の血統を神聖なものと
して崇めていた。血統崇拝だな。これだけならなんら珍しい例ではないが、彼らは
その神聖な純血を保つために、兄妹婚を神聖なものとし、王族のみの神事として独
占した。インセストは彼らにとっての特権となり、民間においては禁忌となった。
やがてそれら諸王朝は荒廃し──その禁忌だけが残った」
「…………」
「分かるか? まず特権がある。インセストを独占するという目的があって、禁忌
はそれを守るすべとして後から作られた。今はその禁忌ということだけが愚にもつ
かないモラリズムの中で生きているが、本来は──」
「井澄ッ」
 正樹はたまらずに口をはさんだ。
 止めなくてはならない。これ以上聞いていたら、俺は──
 俺は、狂ってしまう。
「…………」
 我に返ったように井澄は顔を上げた。
 その瞳に、熱病に似た色が浮かんでいる。
 あのときの、乃絵美のような──
「どうした、お前らしくもない。何を熱くなって……」
「──別に、何があったわけでもないさ。僕はいつもこんなことを考えている」
「お前の言うことも分かるさ。だがそれは全部物語や神話──それにずっと古代の
ことだろう? 今は今の法があるし、確実にその──そういうコトはモラルに反し
てる」
「…………」
 井澄は押し黙って地面を見つめ、不意に顔を上げて呟いた。
「だからこそ、じゃないのか?」
「え?」
「禁忌だからこそ──モラルに反しているからこそ、人は求めるものじゃあないの
か。人がまず、求めなければそもそも禁忌になどならないだろう」
「そりゃあ……そうかもしれないけど」
「君は──どうして僕に話を聞きに来たんだ?」
「え?」
「君が今どういう事情の中にいるのか僕は知らないし、知りたくもないよ。だがこ
こにいて僕の──僕なんかの話を聞きたがるんだ、多少の想像は出来る。まあ──
そういうことだろう」
「…………」
 そうだ、正樹は思った。
 俺は、どうしてここに来たのだろう。ひとりになりたかったはずなのに。気が付
いたら、ここに来ていた。井澄がいるかもしれないと期待していた。彼の口から、
何かを聞きたかった。
「君は僕に、否定してほしかったんだろう。インセストは病だ。生物として異常だ。
モラルの敵だ。もしそんな感情が芽生えているのなら、どうにかして取り除くべき
だ──とでもね。だがお生憎様だ。もう一度言おう。インセストは本来、禁忌でも
なんでもない。人間の心の奥底から沸き上がる、誰にでもある欲望の衝動だよ。そ
れに身を任せることは人間として何ら──」
「やめろ!」
 正樹は怒鳴った。
 そうだ、俺はこいつに否定してほしかったんだ。偶然あの本のことを井澄に訊ね
てから、何もかもが狂ったような気がする。まるで関係はないはずなのに、こいつ
が全ての元凶のような気がしていた。
 だから、来たんだ。こいつの口から否定してほしかったんだ。
 妹は、妹だ。それ以外の何者でもない、と。
 それなのに、こいつは──。
「俺は……そんなつもりなんて……」
 正樹は立ち上がった。
 なおも言い募ろうとする正樹を冷ややかに見つめて、ぽつりと井澄が言った。
「どうあれ、君はここに来た」
 諭すように。

「──それだけで、もう、答えは出ているじゃないか?」

 そう呟くと、井澄は正樹から視線をそらし、灰色に染まった冬空を見上げた。
 フレーム越しに見えるその瞳には、もういつも通りの、何とも取れない色が浮か
んでいる。
 正樹は脱力したように腰を下ろした。
「…………」
 俺は──。
 やっぱり俺は──を──?
 肩を落とす正樹に、井澄は複雑な視線を向けていた。
 同情だろうか。それとも──共感? 灰色の瞳は沈んだように、暗い。
「……なあ」
 メリーゴーラウンドのように回る思いを振り払うように、正樹が訊いた。
「あの本のラストって……どうなるんだ? ふたりは──」
 兄と妹は、恋をまっとうできたのだろうか?
 だが、返ってきた言葉は──

「死ぬよ」

 残酷なほど、簡潔だった。

「デュアンとユージニーの兄妹は、死ぬ。最後は妹が兄の子を孕んでいるのを領主
が知って──兄を殺そうとするんだ。ふたりは手をとって逃げて、ついに湖畔近く
の崖にまで追いつめられて──
 ──湖に身を投げて、自殺した」


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「あの……それじゃ、お世話になりました」
「無理しない方がいいわよ。もう少し、休んでいったら?」
「あ、いえ。……お家の方を、手伝わないといけないので……」
「そう? じゃ、お大事に。……本当に、無理しちゃダメよ」
「はい」
 失礼します、と行って乃絵美は保健室を出た。
 あったかくして寝なさい、という保健医の声に疲れた微笑を返して、乃絵美は保
健室の引き戸を閉めた。ぱたん、という扉が壁に触れたときのわずかな音が、いや
に大きく無人の廊下に響いた。
 まるで、夢の中にいるような気がする。
 足取りも、どこかおぼつかない。
 少し横になって、だいぶ楽にはなったものの、鈍い痛みは相変わらずだった。頭
もどこか、靄がかかっているようにぼうっとしている。
(疲れてる……のかな)
 そういえば、昨日はろくに寝ていなかった。
 せっかく作ったお弁当も、まるで喉に通らなかった。心配する夏紀に「なんでも
ないよ。ちょっと、疲れてるだけ」。そう微笑を返すたびに、罪悪感のようなもの
がのしかかってくるような気がした。
(なんでもないわけ、ないのに)
 そう思うたびに、涙が出るくらい苦しくなる。
 どうしてこんなことになってしまったんだろう? 乃絵美は、思う。
 乃絵美にとって、兄は──正樹は、男性そのものだった。病気がちで、家にこも
りきりだった乃絵美は、同世代の男の子はほとんど、正樹しか知らない。乃絵美の
中で、男性という言葉と、正樹という名前は、何の疑問もなくイコールで繋がるも
のだったろう。
 乃絵美にとって、正樹は理想の兄であると同時に、理想の男性像で、理想の恋人
像でもあった。
(いつか、お兄ちゃんみたいな人と……)
 というほのかな想いは、ずっと、乃絵美の中で温められてきた。
 けれど、その想いは、本当は乃絵美の心の最も深いところで、“みたいな人”と
いう言葉を否定していたのかもしれない。「いつかお兄ちゃんと」。いつか。
 どうして駄目なんだろう?
 どうして、お兄ちゃんを好きになっちゃいけないんだろう?
 そんな倫理の枠さえなければ、どれだけ楽だろう?
 好きな人が、好き。それでいのに。どうして? 血が繋がってるからだろうか。
それは、お兄ちゃんとわたしが、誰よりも近いことを、1番傍にいる人だってこと
の、証なのに。1番傍にいる人を好きになっちゃ、いけないの? わたしは、自分
の躰に、お兄ちゃんと同じ血が流れてることが、幸せで、嬉しくて──だから──
 だから、狂ってなんかいない。
 なのに、なんでこんなに苦しいんだろう?
「…………?」
 気が付くと、廊下の窓を打ち付ける音がした。
 校庭の灌木が、ぴたぴたと音を立てている。
 さっきまで青かった空はすっかりと灰色に染まり、大粒の雨が、降り出していた。
 まるで、涙のように。
(──雨)
 ふと、正樹の顔が浮かんだ。
 正樹のことだ、きっと傘など用意していないだろう。
 無意識に正樹の教室へ向かおうとした足を、乃絵美は静かに止めた。今、正樹の
顔を見たら。声を聞いてしまったら。
 どうなってしまうか分からない。
 胸をさいなむ熱が、吹き出してしまうかもしれない。
 今は少しでも、時間が欲しい。
 それでどうなるのか──それは、分からないけれど。
「ごめんね、お兄ちゃん」
 乃絵美は呟いて、重い足取りのまま、階段の方に向かった。
 窓の向こうでひときわ大きく、雨音が鳴った。



「雨……か」
 井澄と別れ、さして集中も出来なかった自主トレを終えて部室に戻ると、空はす
っかり分厚い雲に覆われて、雫のような雨がひたひたと地上を濡らしていた。ぽつ、
ぽつという間隔が次第に狭まっていったかと思うと、ざざあっという音のつながり
とともに、滝のような雨が地面を打ち出した。
「……参ったな」
 首の裏を手をやって、正樹。今朝はからりと晴れていたし、予報でも降雨確率は
10パーセント程度だったから、傘の用意などしていない。置き傘は……と思った
が、どうやら誰でも考えることは同じらしく、普段は四、五本の傘が無造作に置い
てある傘立には、一本の傘もなかった。
 乃絵美は、まだ校内にいるだろうか?
 正樹は思った。用意のいい乃絵美なら、きっと傘を持っているだろう。声をかけ
て、一緒に帰るか。
(いや)
 その考えを、正樹はすぐに振り払った。
 もう少し、時間を置いた方がいい。今はきっと、自分も、乃絵美も、気が高ぶっ
てるのだろう。時間を置いて、ゆっくり話し合えば──きっと。
「しょうがない」
 意を決して、濡れて帰る決心をかためたとき、
「正樹?」
 背後で、正樹を呼ぶ声がした。
 振り返ると、トレンチコートにグレーの傘を持った菜織が、きょとんとした顔で
正樹を見つめていた。
「どうしたの、こんな時間まで? 自主トレ?」
「ん? ああ」
「傘──ないの?」
「まあな」
 正樹の言葉に、菜織はくすっと笑った。
「じゃ、入ってく?」


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「で、ミャーコったらね……」
 いつもの帰路を、いつもの歩調で、いつものように何てことのない会話をしなが
ら帰っていく。菜織の口調は普段と同じように快活だった。春の風のように。まる
で変わらない。
 だけどその声が、正樹の耳にはどこか遠くに聞こえる。
 ひとつの傘に入って、右肩と左肩を触れ合わせているのに、どこか遠くに。
 ぼんやりと雨空を眺めながら菜織の言葉に相槌を打っていると、いつの間にか菜
織はしゃべるのをやめていて、複雑な表情で正樹を見上げていた。
「……なんだ?」
「やっぱ、聞かせてよ。今日の正樹、見てられない」
「え?」
 ととぼけた声を出しながらも、はっとした表情は、菜織には隠せない。
 それを敏感に察したのか、菜織は諭すような表情で笑った。
「ね?」
「…………」
「…………」
 無言のまま、雨音と足音だけが、響く。
 校門前の坂を下りきったところで、
「……進路のこと?」
 ぽつっと、菜織が囁いた。
「ん……」
 囁き返しながら、正樹。
「それも、あるかな」
 呟くように言う。
 ふたりはいつの間にか大通りの方にまで出ていて、語尾は過ぎる車のクラクショ
ンにかき消された。


          $


 三度目の交差点を曲がるところで、乃絵美はふと立ち止まった。
(やっぱり、戻ろう)
 正樹が、心配だった。
 もしかしたら、部活の誰かしらに入れてもらっているかもしれない。でも、正樹
のことだ。濡れるのを覚悟で、飛び出してきているかもしれない。
 さっきから、ひどく雨足が早くなっている。
 季節は冬だ。雪になってもおかしくないこの季節に、体を冷やしてしまうことが
どれだけ危険か、病気がちな乃絵美は嫌というほど知っていた。
 しかも、正樹にとって今は大事な時期だ。
 こんなことでコンディションを崩してしまったら、元も子もない。
(戻らなきゃ)
 お気に入りの白い傘をぎゅっと握りしめて、乃絵美は来た道を足早に駆けだした。


          $


「なるほど、ね」
 正樹の話を聞いて、菜織はうなずいた。
 もちろん、全てを話したわけではない。「家を出ることが決まって乃絵美が寂し
がっている」その程度のニュアンスで話したのだが、菜織は納得したようだった。
「お兄ちゃん子だもんね、乃絵美は」
 くすくすと笑う。
「覚えてる? 小学生くらいのときのことだけど、正樹の家の庭でさ、わたしと、
真奈美と三人で──雪だるま作ったこと、あったじゃない?」
「? いつの話だ?」
「真奈美がいた頃だから──もう8年くらい前かなぁ、あのとき、三人で汗いっぱ
いかきながら雪だるま作って、さあ頭を乗せようってときに、正樹ったらさ、『悪
い!』って言ったかと思ったら走って家に戻っちゃって。女の子ふたり残してさ」
 呆然としちゃったわよ、と菜織は笑った。
「俺、そんな薄情な子供だったか?」
「ふふ、まあ、でもすぐ理由は分かったんだけどね。二階の窓に手をつきながら、
じっとこっちを見てる女の子がいたからね。ああ、あの子のために戻ったんだなぁ
って。真奈美とふたりで顔見合わせて、笑っちゃったわよ。あ、思い出した。あれ
からひいこら言いながら、ふたりであの重い頭乗せたんだからね──」
 菜織は呟いて、悪戯っぽく正樹の肩を叩いた。
「あのとき、ホント思った。正樹って、本当に乃絵美を大事にしてるんだなってね」


          $


 ぱしゃ、ぱしゃとアスファルトに水音を立てながら、乃絵美は駆けた。
 色んな音がする。
 雨音。風音。踏み出す水しぶき。クラクション。列車の音。
 音の中を、ひたすら、乃絵美は走った。
 無意識に、正樹の顔が浮かぶ。
 笑っていた。
 そう、記憶の中の正樹は──いつも笑っていた。寂しがっていた自分を力づけよ
うと、安心させようと、いつも笑っていた。
 だから、自分も笑うことができた。正樹は、笑顔を教えてくれた。
 その正樹に──自分は──
 角を曲がる。
 雨が、ブーツに跳ねた。


          $


「わ、なに今の車。雨の日はゆっくり走りなさいよねー、あー、びしょびしょ」
「……たッ……」
「正樹?」
「なんか、ゴミ入ったかな、てて……」
「ん、見てあげるから、ちょっと屈んで」
「いいって」
「ダメだって、目に入ったゴミはほっとくと危ないんだから」
 近づく顔。
 くす、と菜織が笑う。
「なんだよ」
「なんか、ドラマとかでさ、あるじゃない? こういうシーンをヒロインに見られ
て、キスしてるのと誤解される、みたいなさ」
「……バカ言ってんな」
 憮然とした正樹の視線の先の、ずっと向こうで、ひとつの影が揺れた。


          $


 大通り。
 行き交う車は、いっそう激しさを増している。
 乃絵美の視線の先──歩道のずっと向こうに、求める姿があった。
「あ……」
 けれど、正樹は寄り添うように、別の影と一緒に立っていた。


          $


 角の向こうから現れた乃絵美を、菜織の肩越しに正樹はじっと見つめた。
 雨煙の向こうに、ぼんやりと揺れる、見慣れた華奢な躰。
 呆然とこっちを見ている、16年間見慣れた、白い顔。
 上気した頬。熱病に冒されたような、瞳。
 心のどこかで、思う。
 もしかしたら、俺も──
(インセストは、禁忌でもなんでも──)
 井澄の声。違う。違う。チガウ。
 じゃあ、この熱は? 胸を犯すこの熱は。あのとき、乃絵美の唇に触れたときの、
動悸は。
 違う。否定しなければ。俺は兄で、乃絵美は妹で。
(君はもう、分かっているんだろう?)
 違う!
「って、顔上げないでって……ほら……」
 それでも雨は降り続ける。


          $


 乃絵美は、呆然と立ちつくしていた。
 もうひとつの影が誰なのか──そんなことは気にならない。
 ただ。
 16年間握ってくれていた手は、別の人に触れている。
 16年間見つめてくれていた瞳は、別の人に向いている。
 私ではなく。
 顔が上った。肩越しに、交錯する兄と妹の視線。
 やがて、正樹が苦しげにその視線を逸らした。何かを、断ち切るように。
 そして。
「あ……!」
 そして、正樹の腕が──菜織の肩に延ばされた。


          $


「はい取れた……って、きゃっ」
 突然抱きすくめられて、菜織は思わず声を上げた。
 いつの間にか厚く広くなっていた幼なじみの胸板は、奇妙なくらいに熱を持って
いた。
「ちょ……正樹?」
「頼む」
 喉の奥からしぼりだすような声で、正樹は言った。何かに、耐えているように。
「もう少しだけ、頼む」
 背中に回された正樹の手に力が込められるのを、肌越しに菜織は感じた。ほんの
わずかに──震えている。小さく、小さく。「もう少しだけ」。
「…………」
 無言のまま、菜織も、正樹の背に手を触れた。
 背も、熱を持っている。雨ではなく、びっしりと汗で濡れている。
 どうして、こんなに熱いのだろう? どうして、震えているのだろう?
 ──数秒の空白。
 やがて、ぱしゃん、という水を跳ねる音が、まるで別の空の下のことのようなほ
ど遠くで、鳴った。
 続けて、誰かが駆け去るような、足音。
 菜織が振り返ると、仰向けになった白い傘が、水たまりの上で雨にうたれている。
 持ち主の姿は、なかった。
「正樹?」
 まだ自分の肩を強く掴んでいる正樹に、菜織は問いかけた。
 どこか苦しそうな視線で、正樹は白い傘を見つめていた。
「正樹?」
 再びの問いかけにも、答えはなかった。
「…………」
 立ちつくす正樹の唇が誰かの名前を刻んだが、それはすぐに音の波に消し去られ
た。
 音だけが、響いていた。
 アスファルトの路面に、雨音が空しく。
 駆け去る足音が、どこかで。
 行き交う車のクラクションが。
 吐息が。
 そして、すべてを、洗い流すように、
 激しい雨。

小説(転載)  インセスタス Incest.2 ショーペンハウエルのハリネズミ 2/3

官能小説
04 /30 2019
          3


 ─January.24 / St.elsia Highschool ─


 1月末という微妙な時期の3年生の教室というのは、不思議な雰囲気に包まれて
いる。
 受験組はHR中でも参考書を片手に大わらわだし、推薦組は余裕とばかりに居眠
りしたり、同じ推薦組の仲間と次の休みはどこへ遊びに行くかなんて話をしている。
その楽しげな様子を受験組や未だ落ち着き先のない就職組がうらめしくも見ている
という構図。
(天国と地獄だなぁ)
 自分のことは棚に上げて、頬杖をつきながら正樹は思った。
『そうか、伊藤、決めてくれたか』
 今朝、城南の推薦を受けることにしたと、進路指導室まで報告しに行ったとき─
─なぜか同席していた顧問の田山が大声でそう笑ってばんばんと何度も正樹の背を
叩いた。推薦入学に際して試験のようなものはないが、3月前に大学の方の監督と
面接のようなものがあるだけだと言う。それは参考程度のもので、さほど重要なも
のではないらしい。
 要するに、すべては入ってから勝負だということだ。
 城南のスポーツ推薦は、結果を出し続けているかぎり、学費その他ほとんどに優
遇措置がある。だが、結局城南陸上のレベルについていけなくなって低空飛行を何
ヶ月も続けたり、怪我やコンディション調整の失敗で結果が出せないと判断された
ときは、容赦なく放逐される。他大と比べてよりリベラルに、よりシビアに、とい
うのが城南のモットーだ。
『迷いはないんだな?』
 熱弁を振るい始めた田山に少々辟易しながら、担任が正樹に訊いた。
 正樹は「はい」とうなずいた。
 ──もっと早く走りれるように、なりたいですから。
「…………」
 朝のことを思い出しながら、正樹はぼんやりと窓の方に視線をやった。
(迷い……か)
 自分の言ったことに嘘はない。もともと好きで始めた陸上だが、最近は走るのが
楽しくてたまらない。どうすればもっと早く走れるだろう? 気が付いたらそんな
ことばかり考えている。スタートの瞬間、プレートを踏み込む感触。ゴール手前で
他の選手達を抜き去り、誰よりも早くテープを切る快感。だから、もっと早く走れ
る場所へ。
 桜美に行けば、地元だし、先輩もいる。きっと居心地がいいだろう。それはきっ
と、城南にはないよさだ。
 要はフィーリングじゃない? と菜織は言っていた。自分は楽しくやりたいのか。
それとも、もっと早く走りたいのか? 答えは簡単だった。──だから、フィーリ
ングで決めた。迷いはない。
 ないはずなのに。
「…………」
 昨日の乃絵美の顔が、涙が、頭から離れない。唇がまだ、熱をもっている感じが
する。
 なんであんな顔をするんだろう? ただ寂しいと泣くだけなら、髪を撫でてやれ
る。抱きしめてやれる。けれど、乃絵美はそれを拒絶してなお──何かを求めてい
た。兄としての優しさ以外の、何か。
(何を?)
 正樹は自問した。
 いや、多分答えはもう、分かっているのだ。ただ、それを認めることができない
だけだ。もし、認めてしまったら。受け入れてしまったら。
 きっと、すべてが崩れるだろう──
「こら」
 ばん、と頭に軽い衝撃が走って、正樹ははっと我に返った。
 顔を上げると、呆れたような顔の菜織が、鞄を胸のあたりで抱えながら立ってい
た。
「ったぁ、なにすんだ」
「アンタがいつまでもボーッとしてるからよ。もうHRとっくに終わってるわよ」
「?」
 ぼんやりと教室の壁時計を眺めると、すでに長針は4を回っていた。
「あ、ホントだ」
「ホントだ、じゃないわよ。……なんか暗い顔してるけど、大丈夫? なんかあっ
た?」
 正樹の前の席に腰を下ろして、菜織。
「ん? ああ……」
 自分でも歯切れが悪いと思う返事。
「別に、大したことじゃないよ」
「……ふぅん」
 それだけで、菜織は「あんまり言いたくないことだ」ということを、即座に理解
してくれたらしい。あえて続けて訊こうとはしない。その心づかいが、今の正樹に
は有り難かった。
「ならいいけど。……あんまり、溜め込まないようにね」
「……ああ。心配すんなって」
「──ん」
 それだけ言って、菜織は席を離れた。その背中に向かって、
(悪い)
 と正樹は小さく呟いた。
 今は、もう少しだけ、ひとりになりたかった。


          4


 木枯らしが吹きすさぶ中庭は、いつも以上に閑散とした空気が漂っていた。
 春先には大勢の生徒が弁当を広げたり、キャッチボールをしたりと賑わうこの場
所も、季節柄か今は影ひとつ見えない。
 ──たったひとりを除いては、だが。
「井澄」
 真冬だというのに顔色ひとつ変えず、その生徒は中庭のベンチに腰をかけて、本
を片手に黒いコートをはめかせていた。冷たい眼鏡のフレームと黒のダウンコート
が、死神めいた印象を与える。
 死神。
 そう思えば、そのフレーズこそこの男に似合う言葉もない。黒い手袋をして、鎌
でも持っていたら後は完璧だ。
「……なんだ、気持ち悪い」
 相変わらずぼそっとした井澄の声に、正樹はああ、と頭を掻いた。どうやら、い
つのまにか笑ってしまっていたらしい。
「読み終わったのか?」
 井澄の隣のベンチに腰を下ろしながら、正樹は訊いた。
「その、本」
「……いや。だが、前にも一度読んだことがある。今は筋をなぞってるだけだ」
「そっか」
 それきり、ふたりは押し黙ってしまったように口をつぐんだ。
 だが、昨日ほど違和感はなかった。井澄の雰囲気がくだけてきているのか、正樹
の方が共感を持ち始めているのか、それは分からなかったが。
「……なあ」
 ぽつっ、と正樹が訊いた。
 井澄は首を動かさず視線だけをこちらに向けて、「なんだ」という目をした。
「その本、ユージニーだっけか。兄妹が恋に堕ちるとかって言ってたな。俺、あん
まり本とか読まないからよく分からないんだけど、そういう話ってやっぱり色々あ
るのか?」
「数え切れないくらい、ある」
 パタン、と本を閉じて、井澄は言った。
「兄妹にかぎらずインセスト・タブーという観点でみれば、無数だな。オイディプ
ス、ハムレット、セミラミス、ジークムント、ネロ、チェーザレ・ボルジア……君
も名前くらいは聞いたことがあるだろう。フィクション・ノンフィクションを問わ
ず、彼らないし彼女らは、皆──インセスタス(近親相姦者)だ。神話や民間伝承
にまで遡れば、世界のどの国をみてもインセスト・タブー的描写のないものは皆無
といっていい。聖書ですら、ロトは自分の娘に子を生ませている」
 珍しく饒舌に、井澄。
「だけどそれは──異常なことなんだろう?」
「異常というものの、定義による」
「普通じゃないこと、だろう」
「じゃあ、普通の定義は?」
 眼鏡のフレームをついと上げて、井澄は顔を上げた。その表情にいつになく厳し
さのようなものが漂っている。正樹は思わず、気圧されるように視線をそらした。
「…………」
「……普通と異常の境なんてそんなものさ。前に言ったろう? 『よくある話』だ
と。インセスト・タブーはなんら異常なことじゃない。心の病だとも言われるが、
ナンセンスだな。というより、心を病んでいない人間など、いやしないさ。インセ
ストはそのひとつの形だ」
「でも、遺伝っていうか、そういう問題があるだろう」
 反論しながら、どこか間違っているなと正樹は思った。こんな話をしに来たので
はなかったのだが。
「たしかに、血族結婚は優生学的に悪影響を及ぼすと古くから言われている。奇形
児が生まれる率も高くなる、と。だから古来から、人はそれを禁忌とした──そう
いう優生学が生まれる以前から、生物としての本能的嫌悪がそれを知っていたと」
「それが違うってのか」
「僕はそう考える。生物的というなら、近親相姦をする生物なんてこの世にたくさ
んいるだろう。ネズミは環境さえ整えてやれば、つがいを放すだけで爆発的に繁殖
する。本能というなら、子孫を残すという本能が近親相姦を嫌悪する本能に打ち勝
つわけだ。その程度のものだ」
「じゃあなぜ──」
 なぜ、禁忌なのだ。
「望ましいからだよ」
「望ましい?」
「誰もが心の奥底で、インセストというものに甘美さを感じているからだ。そこに
ユートピア性を見出しているからさ。人間は望ましいものには不思議と蓋をする─
─」


          5


「あ……」
 しく、と腹部に鈍い痛みが走って、階段を上っていた乃絵美は手すりに体重を預
けるようにして、お腹をおさえた。
 乃絵美は軽い方らしく、その渦中でもそれほど辛いことはない。友人の話を聞い
ていると、もっとひどく痛む人もいるそうだ。それに比べれば、自分のは気楽な方
なのだろう。
 けれど、周期的にこの鈍い痛みに襲われるとき──自分は女なのだ、ということ
を実感する。
 妹ではなく、伊藤乃絵美というひとりの女なのだと。そして、伊藤正樹も、兄で
ある以前にひとりの男だということを、当然の事実を──衝撃的な真実のように、
再確認してしまう。
 どうして好きになってしまったんだろう、と思う。
 自分は未だに兄を慕う気持ちと、恋心とを取り違えているんじゃないか──そう
思ったりもする。
 だけど、嫌なのだった。
 小さい頃そのままに髪をくしゃくしゃにされたり、撫でてもらったり、そういう
のはもう嫌なのだった。
 かといって、触れてほしくないわけではない。それより、もっともっと──触れ
てほしい。髪だけではなく頬を、首筋を。イトウノエミを、愛してほしい。本当は
ずっとそう思ってきた。ただ、気づかなかっただけ。
 もちろん今まで、正樹以外の男を好きにならなかったわけではない。
 交際というにはあまりにも幼い付き合いだったが、中学の頃、1年上の先輩──
柴崎拓也と付き合っていたことがある。放課後──グラウンドがオレンジに染まる
までボールを蹴り続ける姿に、憧れていた。そのひたむきな横顔に、兄を重ねてい
た。
 そう、重ねていたのだろう。
 自分ではそうは思っていなかったけれど、きっと無意識にそうしていたのだろう。
それを、柴崎拓也も気づいていたに違いない。
 だから、まるで自然消滅するように──離れてしまった。
 去年の夏、真奈美が日本に戻ってきたとき。真奈美のことで、そして自分のこと
で──ふたりが殴り合いの喧嘩をしたとき。
 乃絵美はそのことに気づいてしまった。
(私は、お兄ちゃんが好きなんだ──)
 気づかなければ、もしかしたら別の道を進んでいたのかもしれない。柴崎ともも
う一度、面と向かって付き合っていけることができたかもしれない。正樹が城南に
行くことだって、心から祝福できたかもしれない。
 ──かもしれない。かもしれない。かもしれない。そればかりが頭の中でリフレ
インし続ける。
 だけど、気づいてしまった。
『お兄ちゃんが、私の恋……』
 あのとき、その先を続けていたら、どうなっていたろう。
 今とは違ったことに──なっていただろうか。あのときからずっと妹だというこ
とを意識し続けて、気持ちを押さえ続けてきて。今ほどは苦しくはなかっただろう
か。
 けれど、もう限界だった。
 正樹が遠くに行ってしまう──そう知ってしまったとき、昨夜、あれだけ堰き止
めいた自分の気持ちは、いとも簡単に決壊してしまった。
 離れたくない。
 ずっと、傍にいたい。
 後悔はしている。
 だけど、このまま一生口をつぐんでいたままだったら、きっともっと後悔してい
ただろう。
 そのはずなのに。
「…………」
 どうして、こんなに涙が出るんだろう。
 好きなのに。その好きという気持ちと同じくらいの苦しさと、罪悪感がないまぜ
になって、お腹の中に凝り固まっている気がする。
 正樹のあの表情。おびえに似た目。
 あんな視線を向けられたことは、初めてだった。
 好きだと思うほど、相手を苦しめる。身を寄せるほど、相手を傷つける。
 お腹が痛い。
 しくしく、しくしくと鈍い痛み。
 涙が止まらない。
 胸が苦しい。
 だけど、だけど。
「だけど、おさえられないよ……」

小説(転載)  インセスタス Incest.2 ショーペンハウエルのハリネズミ 1/3

官能小説
04 /30 2019
Incest.2 ショーペンハウエルのハリネズミ



 ─January.24 / Washstand ─


          masaki


 1月24日の朝は、いつもと変わらずに明けた。
 どこか重さの残る頭に手をやりながら、パジャマ姿のまま部屋を出て、とんとん
と正樹は階段を降りる。
 正直、よく眠れなかった。
 かすかなぬくもりが、まだ自分の唇に残っている。あのとき、たしかに乃絵美の
唇は──正樹のそれに触れた。
(ジョークに決まってる)
 とは思う。だけど、あの涙はなんだったのだろう。
 どうしてあんな目で、すがるような、求めるような、そんな情念のこもった瞳で
俺を見るのだろう。
 どうしてあのとき、自分の頬はあんなに上気していたんだろう。まるで、初めて
キスをしたような、中学生のように。
 どうして、どくどくと胸が鳴っていたのだろう?
「くそっ」
 頭の中が煮詰まったスープのようになった気がして、正樹は髪をかきむしった。
まだ、不透明感が残っているようだ。冷たい水で顔でも洗えば、すっきりするだろ
う。
 こんなごちゃごちゃと絡まった糸のような気持ちも、きっと消えてしまうはずだ。
 そう思いながら、正樹は洗面所のドアのノブに手をかけた。


          noemi


 1月24日の朝は、乃絵美にとって特別な朝だった。
 きっとこの16年間でこれだけ長い朝もなかったような気がする。どんな顔をし
て正樹に会えばいいんだろう。最初にまず、なんて言えばいいんだろう?
 洗面所に降りて、鏡に映る自分の顔を見ながら乃絵美は思った。
(……ひどい顔)
 と思う。布団を頭から被って目を閉じたけれど、昨晩は眠りにつくことができな
った。
「ごめんね、お兄ちゃん。昨日のあれはちょっとふざけてみたんだよ。……ちょっ
と困らせたくなっちゃって。ごめんね、あはは、笑えなかった……よね?」
 そんな自分らしくない言い訳が浮かぶ。
 すぐに頭から、そのセンテンスを振り払う。だって、あれはふざけてなんかいな
かった。
 自分の中のどこかの部分が、そう叫んでいるような気がする。
 その声に突き動かされるように、そっとひとさし指で唇に触れてみる。かすかな
ぬくもり。やっぱり、夢なんかじゃない。ジョークなんかでは決してない。あのと
きわたしは、
 ──お兄ちゃんに、キスしたんだ。
 蛇口をひねると、勢いよく水が溢れ出した。
 出水口にキャップを填め、水を張る。
 どうしてあんなことをしてしまったんだろう。ジョークじゃないなら、どうして。
……引き止めたかった? 正樹に遠くへ、自分の手の届かない遠くへ行ってほしく
なかった?
 じゃあなんで素直にそう言わなかったの?
 自分の中の、また別の部分がそうささやく。
 どうしてキスなんかしたの? 「行かないで」って、ひとこと言えばいいのに。
それじゃまるで、──みたいじゃない──。
 ばしゃっ。
 息を吹き込んだ風船のようにふくらみ始めたその声を押しつぶすように、乃絵美
は洗面台いっぱいに張った水に顔をつけた。
 水の冷たさが肌にしみこむ。でも、この熱はとても消えそうになかった。マラリ
アに似たこの熱病は、水なんかじゃ消せないのだ。きっと。
 そんなことを考えていると、かちゃり、と洗面所のドアが開く音がした。


          1


「あっ、……と」
 洗面所のドアを開けて、中にいた乃絵美が視界に入ったとたん、思わず正樹は声
をあげた。
「今、使ってるか。悪い」
 取り繕うようにそんなことを言ってしまう。見れば分かるだろう、と自分で苦笑
してしまった。意識しているのがバレバレだ。
「あ、……うん。ごめんね、すぐ……あけるから」
 乃絵美もすこしあわてたように、かけてあったタオルを手に取って顔を拭いた。
そして、「もういいよ」、と消え入りそうな声で言い、正樹の脇をすり抜けて、逃
げるように洗面所を出ようとする。
「乃絵美」
 思わず、正樹はその腕をつかんだ。
「…………!」
 乃絵美が、はっとしたように顔をあげる。
 不思議なくらい、細くて柔らかい腕だった。
 掌に、なめらかな弾力と感触が返ってきて、思わずどきりと正樹の胸が鳴る。
「その……な」
 言葉に詰まる。どうも勝手が違う、と正樹は思った。何を意識してやがる、と自
分で突っ込みたくなる。そんな思いを振り払うように正樹は大きく深呼吸すると、
「おはよう、──乃絵美」
 と笑った。
 乃絵美が顔をあげる。小さな唇がわずかに震えた。
 そうだ、笑ってくれよ、乃絵美。いつもみたいに、「おはよう、お兄ちゃん」っ
て言ってくれよ。それで全部チャラだ。ラインなんか踏み出してない。昨夜のこと
は、ジョークで済むじゃないか。
 けれど。
 けれど、乃絵美はきゅっと唇を結んだまま──うつむいていた。前髪が揺れる。
その瞳は、何か言いたげに潤んでいるように見えた。
「乃絵美?」
 左手で、肩を揺する。
「なんだ乃絵美、朝は『おはよう』ってちゃんと挨拶しなきゃ駄目だろ。そんな悪
い子に躾けたおぼえは……」
「……お兄ちゃん」
 茶化そうとした正樹の声は、乃絵美の小さな呟きに阻まれた。
「あ、……ん?」
「痛い……よ」
「え? あ、ああ、悪い」
 最初何のことを言っているか分からなかったが、それが自分が掴んだ右手のせい
だと言うことに気づいて、はっと正樹は手をひっこめた。いつの間にか固く握りし
めていたらしい。正樹の掌はじっとりと濡れていて、乃絵美の白い二の腕にくっき
りと赤いあとが残っている。
「悪い、つい──。痛かったか?」
 さっき「痛い」って言ったじゃないか、と自分で思いながらも、正樹はそう訊か
ずにはいれなかった。ふるふると乃絵美は首を振る。嘘だと分かっていても、どこ
かほっとする。
 気が付くと、じっと乃絵美がこっちを見ていた。
 長いまつげ。薄い唇。母さんによく似た目鼻。母さんそっくりの長い黒髪が揺れ
ている。
 乃絵美の小さな唇が上下した。
「……よ」
 え?
 なんだ、なんて言った?

「ふざけてなんか、ないよ」
 
 もう一度、小さな呟きが正樹の耳を打った。
「え?」
「昨夜のこと。わたし、ふざけてなんか──ないよ。冗談なんかであんなこと、し
ないから」
「……乃絵美?」
「先……学校行くね。お弁当、テーブルの上に置いてあるから」
 語尾はドアの閉まるパタンという音に重なった。
 その乾いた音が1メートルも離れていないのに、まるで遠くの花火のように──
くぐもって正樹の耳に届いた。


          2


(なにやってるんだろう)
 逃げるように家を出て、一歩一歩、重い足取りを進めながら、乃絵美は思った。
 きっとあのとき、無理にでも笑って、「おはよう、お兄ちゃん」とそう言うだけ
で──戻れたのだ。いつもの日常に。きっと、何事もなく。
 だけど、どうしても言えなかった。
 本当は、嘘でもそう言うつもりだった。だけど、あの瞬間──正樹の大きな手で、
強く腕を掴まれたとき。
 なにもかも、真っ白になってしまった。
 こんなに大きな手だったんだ。優しいだけだったお兄ちゃんのてのひらは、本当
はあんなにも強くて、熱かったんだ。
 その熱い掌が、乃絵美の腕を掴んだ瞬間。
 縛られてしまったような気がした。頭の中に浮かんでいたいくつもの言葉は、肌
越しにしみこむ熱に全部溶かされてしまった。
 あのとき乃絵美は、このまま正樹の手に首をしめられて、殺されてしまってもい
いとさえ思った。
 もし、そうしていてくれたら、どんなに楽だろう──?
(わたし、どうかしてる……)
 たまらない自己嫌悪に、乃絵美は鞄を胸に抱いて、きゅっと唇を噛みしめた。
 ゆっくりと坂を登る。
 冬の冷たい風が電柱の隙間を抜けて、乃絵美の髪とコートを揺らした。
 高い空。
 見慣れている何気ない景色が、今はひどく遠くに感じる。

 ──ふざけてなんかないから。

 自分の言葉がどこかで響いた。
 じゃあ本気だったの? 自問の声がする。だとしたら、異常だよ。親愛でなく恋
情の気持ちなんだったら、それは、異常だよ──。
 少なくとも、正樹はそう感じているだろう。
 乃絵美は思った。
 あのときの正樹の顔。ただ困惑と──おびえに似た表情をしていた。
 どうしてあんな顔をさせてしまったんだろう?
 笑っている正樹が好きだった。まっすぐ前を見つめて、誰よりも早く走る正樹の
横顔を、どんな宝物よりも大切に思っていたのに。
 壊してしまった。
 正樹をあんなに困らせて、苦しめて。
 笑顔を奪ってしまった。
 堰を切った心から、どんどん感情の波があふれてくる。
 遠くで、チャイムの音がした。
 あんなに早く家を出てきたのに、もう予鈴の音がする。坂の向こうに見えるエル
シアの校舎をぼんやりと眺めながら、乃絵美は思った。
 ちくり、と何かが胸を刺した。
 ハリネズミだ。
 乃絵美は思う。
 身を寄せあいたくて、けれどもその針で相手を刺し傷つけてしまう、ちっぽけな、
ショーペンハウエルのハリネズミ。
 ぬくもりを求めるほど、深く相手の肌に針を差し込む灰色の鼠。
 霧のかかったような頭で、ぼんやりとそんなことを考えながら校門をくぐる乃絵
美の耳に、どこかで「きい」、という悲しい鳴き声が響いた。

井上亜希子32才

東京熟女 終了
04 /29 2019
消滅サイト。『東京熟女は100%オリジナルの熟女ハメ撮りサイトです。「40過ぎの熟した体を弄びたい」をテーマに素人女性だけを過激に撮影しています。東京熟女:管理人』だった。ちなみに「東京熟女」でググると熟女風俗関連がヒットする。
バツ1の家事手伝い 166cm B82 W60 H87
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小説(転載)  インセスタス Incest.1 クロニクル 4/4

官能小説
04 /28 2019

          10


 ─January.23 / Masaki's room─


 どさっ、とベッドに倒れ込むと、正樹は体を大の字に伸ばしてぼんやりと天井を
見上げた。
 体のふしぶしに、鈍い痛みが残っている。コンディションがいいからといって、
今日も少し飛ばしすぎてしまったようだ。
 ふと気づくと、がたがたと窓が鳴っている。どうやら、かなり強い風が吹いてい
るらしい。
(こりゃ明日は雨かな)
 どうやら、久しぶりにゆっくり体を休められそうだ。
 正樹は洗ったばかりの髪をタオルでわしゃわしゃとやりながら、足を延ばして器
用にリモコンを操作した。乾いたような笑い声が飛び込んでくる。なにかのバラエ
ティ番組らしい。
 ぼうっとブラウン管を見つめながら、正樹はなんとなく中庭での井澄の話を思い
出していた。
 “ユージニー”。
 今から100年ほど前の、ジェスリー・ラインコックというイギリスの作家が書
いた本らしい。今は英国本土でも絶版で、一部の好事家が極少に出版された稀覯本
を所有しているにすぎないという。井澄はどうやらそのひとりらしい。
『興味があるのか?』
 正樹が、本の内容を訊くと、井澄は初めて顔をあげて、正面から正樹の顔を見た。
 黒というより、ダークブラウンに近い深い瞳に見つめられ、正樹は思わず後ずさ
った。
『あ、ああ』
 正樹が言うと、井澄は無愛想に、そうか、とうなずいてまた本に視線を戻した。
 そのまま黙っている。
 数分、冬の中庭に沈黙が流れた。
 たまらずに正樹が声をかけようとしたとき──
『よくある話だ』
 と、ぽつりと井澄が呟いた。
『え?』
『よくある話だよ。世界中どこにでもある、ありふれたよくある話だ』
 本を閉じて、井澄は顔を上げた。
 それから少し考えるように校舎の方に目を向けた。
『ユージニーというのは、スコットランドのある領主の娘さ。彼女はある馬丁と恋
に堕ちる。もちろん父親の領主はそれを認めない。ふたりは引き裂かれる』
『へえ』
 正樹はうなずいた。そして少し苦笑する。身分違いの恋というやつか。どうやら
本当によくある話のようだ。 
『なるほどね』
 納得したように言う正樹を、井澄は一瞥してまた本に視線を落とした。
『ふたりが引き裂かれたのは、身分違いだからというだけじゃない』
『?』
『彼らはモラルの敵だった』
『モラル?』
 正樹は怪訝な顔をした。
 話がよく見えない方向へ流れてしまった。井澄はというと、そんな正樹の表情を
見ても何の色もその瞳に浮かべずに、抑揚のない口調で答えた。
『ユージニーとその馬丁は兄妹なんだよ』
『…………』
『その馬丁……デュアンは、領主の庶子なんだ。つまり彼らは兄妹で恋に堕ちた。
インセスト・タブーという奴だ。よくある──話だろう?』

 ──それって……おかしなこと、なのかなぁ?

 ブラウン管からどっ響いてきた笑い声に、正樹は思わず我に返った。垂れ流しに
していたバラエティ番組が、どうやら盛り上がってきたようだ。髪を掻きながらリ
モコンに手を延ばし、テレビの電源をオフにする。
 首に巻いていたタオルを掴みながら、正樹は息をついた。
(なに思い出してるんだ、俺は)
 わしわしとまだ濡れている髪を拭く。
 よくある話か。
「そりゃあ、昔話にゃよくある話だろうけどな……」
 タオル越しの視界に悟ったような井澄の顔が浮かぶ。しだいにそれがぼやけて、
あの装丁の少年と少女の形になる。
 その映像は、いつのまにかひとりの少女へと変化していった。
 生まれてきてから今までずっと、見慣れてきたひとりの少女。正樹の袖を掴んで、
上目遣いで見上げる顔。布団の中で上気した笑み。
 乃絵美。
(…………)
 頭の中を占め始めた映像を振り払うように、正樹は乱暴にタオルで髪を拭った。


          11


 ──コンコン。

 不意に、正樹の部屋のドアがノックされた。
「?」
 ドアの向こうで、小さく息を飲むような声がした。
「乃絵美か?」
 少し慌てたような声で、正樹はドアの向こうに声をかけた。別に何もやましいこ
とはないのだが、妙なタイミングに少し焦ってしまった。
「うん。ちょっと……いいかな?」
「おう、いいぞ」
 小さく咳ばらいして、正樹。
「…………」
 しかし、ノブが回される気配がない。
「どした?」
「ご、ごめん、お兄ちゃん。ドア、開けて」
 困ったような声が返ってくる。苦笑して正樹がノブを回してドアを開けると、ブ
ルーブラウンのパジャマを着た乃絵美が立っていた。
 ちょっとはにかんだような笑みを浮かべて、胸の前でカップのふたつ乗ったトレ
イを抱えている。
「お紅茶煎れたから……眠る前にどうかな、と思って」
「お、サンキュ。ちょっと待ってな」
 正樹は少し散らかった部屋の物を手際よく片づけると、壁に立てかけていた小さ
な折りたたみ式のテーブルを倒した。
「よし、いいぞ」
「うん。お邪魔します」
 どこか他人行儀にお辞儀しながら部屋に入ってくる乃絵美に、正樹は思わず苦笑
した。乃絵美も自分でおかしく思ったのか、微苦笑を浮かべながら、テーブルの前
に腰を下ろした。
 テーブルの上にトレイを置くと、ティーポットからカップにお茶を注ぐ。
 鼻の奥に抜けるような香りが、六畳間に広がった。
「はい、お兄ちゃん」
「ん」
 湯気をたてるカップを受け取り、正樹は舌をつけた。
「あ、ハーブか、これ?」
「うん、お父さんがね、出来がよければ今度お店にどうかなって。……どう?」
 そういえば伊藤父は最近庭でガーデニングの真似事を始めている。主にハーブを
栽培してるらしく、日曜趣味かと思えば商売転用を考えていたらしい。実に商魂た
くましいことだ。
「んー、結構いいんじゃないか? なんか落ちつくし」
 そう言うと、乃絵美は嬉しそうに笑って、ふうふうとカップに息を吹きかけた。
相変わらずの猫舌だ。見慣れた光景に、正樹も何だか和やかな気分になる。
(そうだよ、兄妹ってこういうもんだろう)
 正樹は思った。
 友人よりもお互いのことを知り、恋人ほど相手を意識しない。あくまで自然に、
気を許せる存在。そういう当たり前の関係。
 そんなものなんだろう。
 どこか頭の隅に井澄の言葉を引っかけながら、正樹は思った。
 そのまま、どこか自然な沈黙が部屋に流れた。
 ハーブティーを飲み終わっても、正樹は黙ったまま、ぼんやりと気だるい空気に
身をまかせていた。
 ふと見ると、乃絵美がじっと正樹の顔を見ていた。
 下唇を少し噛みながら、真剣な顔をしている。
「どした?」
「あ、う……うん」
 乃絵美は少し慌てたような顔をすると、ごまかすようにカップに口をつけた。だ
が、とっくにカップの中が空になっていることに気づいて、困ったようにうつむく。
「なんだ? 悩み事か?」
「…………」
 そう訊くと、乃絵美は小さく首を振った。
「乃絵美?」
「え、と……」
「ん?」
 乃絵美は意を決したように顔をあげると、どこかぎこちない笑みを浮かべて、
「あのね」
 と口を開いた。
「?」
「わたしなら、大丈夫だから」
「なにが?」
「お兄ちゃんの進学のこと。わたしなら、大丈夫だから。全然、心配しなくていい
から。お兄ちゃんが行きたいところに決めてね」
「…………」
「お店の方も大丈夫だよ。お父さんもいるし、そうだ、また菜織ちゃんにアルバイ
トをお願いすればいいし。うん、大丈夫」
 にこっと乃絵美は微笑んだ。
 その笑顔にどこか苦しいような感情を覚えながら、正樹はくしゃっと乃絵美の髪
を撫でた。
「ありがとな」
「……あ」
「俺、やっぱりお前に心配かけてたな。俺がなかなか答え出さなかったから、やき
もきさせちまったな」
「ううん、そんなことないよ」
 乃絵美は首を振った。
 正樹は乃絵美の髪を撫で続けながら、言った。
「乃絵美」
「……?」
「俺な」
 ごくり、と唾を飲み込む音。

「──城南に行くよ」


          12


 どくん、と乃絵美の胸が鳴った。
 分かっていたことなのに。正樹がそう答えるだろうと、誰よりも知っていたのに。
 乃絵美は胸の動悸と、肩のふるえを止められなかった。
(笑わなきゃ)
 心の隅でそう思う。
 きっとなんでもないことなんだ。
 10年20年経てば、「なんであのときはあんなに思いつめてたんだろうね」そ
う、笑って話せるようなことなんだ。
 決めたのだ。
 笑顔で送り出してあげると、そう決めたのだ。
 だから顔を上げなければ。
 顔を上げて、言わなければ。
 ──うん、頑張ってね、お兄ちゃん。
 それだけ言って、微笑んで部屋を出よう。
「乃絵美?」
「うん……」
「おい……」
「うん、がんばって……ね」
「…………」
 いつの間にか、乃絵美の頬を熱い雫がつたっていた。
 瞼からとめどなく涙が流れ落ちる。頬をつたう雫がぽたぽたと膝を濡らす。膝の
上で握りしめた小さな拳に、当たって跳ねる。
「あれ、あれ……」
 乃絵美は困ったように笑って、頬をぬぐった。
「あれ、おかしいな、なんで……」
「乃絵美……」
 何ともいえない正樹の視線を受けて、乃絵美は胸の前で手をぱたぱたと振った。
「ちがうの、これ、全然ちがうから、大丈夫だから」
「どこが、大丈夫なんだよ……」
 正樹は頭の裏に手をやりながら、困ったように言った。
「乃絵美、俺はな……」
「大丈夫だから!」
 乃絵美は小さく叫んだ。
 こんなはずじゃなかった。こんな顔だけはしたくなかったのに。気持ちよく送り
出そうと思ったのに。頭ではそう思っていても、感情の方がついて来なかった。
「ホントに……大……」
 かすれた声は何かあたたかいものに包まれた。正樹が、力強く乃絵美を抱きよせ
たのだ。むずかる子供をあやすような、優しげな手で。
 いつものように大きな手が乃絵美の髪を撫でる。
 普段なら、これで心が落ち着いた。
 こうされることで、大きな安心感を得ることができた。
 なのに。
 今は嫌だった。                   ・・・・・
 こんな風に正樹に抱きしめてもらいたくなかった。こんな兄のような、親愛しか
ない気持ちで、触れられたくなかった。
 もっと、──のように──。
「乃絵美?」
「……だから」
「え?」
「もう、平気だから」
「あ、ああ」
 正樹が困ったように腕をゆるめる。
 乃絵美は顔をあげた。
 交錯する視線。正樹の瞳の中に、目を真っ赤に泣き腫らした、自分の顔が見える。
(そっか……)
 それを見たとき、乃絵美には全てが分かってしまった。
 青年の瞳の中に映る少女は、寂しがりやの妹の姿ではなかった。ひとりの、少女
だった。相手はひとりの青年。そして、世界共通の物語は、少女は青年に──。
「おい、乃絵美?」
 どこかぼうっとした視線で自分を見る乃絵美に、正樹は小さく乃絵美の肩をゆす
った。
 乃絵美の頬を、ひとすじの涙がつたった。
 まったく違った意味の涙の雫。
 それを見て、困ったように何かを言おうとする正樹の唇を──
「!」
 乃絵美は、小さな自分の唇でふさいだ。
 触れあうだけの、子供じみたキス。だけど、それは確実に家族の、親愛のキスで
はなかった。
 それはもっと生々しい、乃絵美とは最も無縁なはずだった、女としての。
 突然のことに硬直する兄の唇に、妹の唇はいつまでも触れていた。いや、それは
一瞬だったかもしれない。永遠と思えるほどに長い一瞬。
「の……」
 我に返った正樹が、もぎ放すようにして乃絵美の体を放した。
「乃絵美、お前……」
 言いかけようとした正樹の声は、喉を通る前に消えた。
 泣いていた。
 今までの、迷子の仔犬のような泣き顔ではなかった。伊藤乃絵美という、ひとり
の少女の流した涙。
 乃絵美はうつむいたまま、踵を返した。
 バタン、とドアの閉まる音。
 打ちつけられるように鋭く、窓が鳴った。
 外の風は、いつの間にか強い雨風になっていた。


 ──Begining “Incestace”

小説(転載)  インセスタス Incest.1 クロニクル 3/4

官能小説
04 /28 2019

          7


 かちかち、とシャープペンシルを鳴らして、乃絵美は黒板の文字を書き写してい
た。数字と記号が入り交じった羅列を、ゆっくりと丁寧に板書する。授業はもう、
二分も前に終了し、教師は職員室に帰ってしまっている。
(あ、急がなきゃ……)
 乃絵美にはどうもこういうところがあって、人からのんびり屋と言われて久しい。
乃絵美にしてみれば、どうしてみな授業を聞きながら、黒板の文字を書き写すよう
な器用な芸当ができるのか不思議に思っているのだが。
 それでも、さしもののんびり屋の乃絵美も、普段は授業が終わる頃くらいにはさ
すがに書き終えてはいる。だが、今日はなぜか──いつにもまして進みは遅い。
 いつもは真剣に聞いている授業の内容も、今日はほとんど上の空だった。心ここ
にあらず、というのが自分でも分かる。
「…………」
 九割ほど書き終えると、手をやすめながら、乃絵美はちいさくため息をついた。
 シャープペンシルを形のいい顎に当てながら、ぼんやりと窓の外を見る。校庭で
は、運動部らしいジャージ姿の生徒の影がいくつか見えた。
 乃絵美は無意識に正樹の姿を探した。
 だが、まだ陸上部は練習が始まっていないらしく──校庭に正樹の姿はなかった。
 また息をつく。なぜこんなに意識してしまうのだろう。
(やっぱり……寂しいのかな)
 乃絵美は思う。
 本当は喜ぶようなことなのだ。城南大から推薦の話が来るなんて、本当に大変な
ことなのだろう。
 けれど。
 ──よかったね、お兄ちゃん。
 その一言を言うのが、とても苦しかった。昨日城南大学からの手紙を正樹に手渡
したとき──自分はどんな顔をしていただろう。笑ったつもりだったけれど、きっ
とひどい顔をしていたにちがいない。
 なんでこんなに寂しいんだろう。
 なんでこんなに胸が苦しくなるんだろう。
 ──乃絵美ちゃんは、お兄ちゃん子だものね。
 子供の頃からずっとそう言われてきた。自分でもそう思う。正樹の袖を掴んで、
その温もりを近くに感じているときが、一番安心できた。乃絵美にとって、“お兄
ちゃん”は魔法の言葉だった。乃絵美が寂しいとき、苦しいとき──その名を小さ
く呼べば、“お兄ちゃん”はいつも傍にいてくれた。乃絵美が泣きやむまで、髪を
撫でていてくれた。
 だから、乃絵美は“お兄ちゃん”が誰よりも好きだった。
 LIKEだとかLOVEだとか──そんな手垢にまみれたような言葉では区分け
できないくらいに。
(子供のときと変わらない……のかな)
 乃絵美は思った。そういえば昔、正樹に連れられて縁日に行ったことがある。初
めていった縁日は、いつも誰もいない境内から想像できないくらいに人でいっぱい
で──乃絵美は片手だけじゃ足りなくて、両手で正樹の手を掴んで、恐る恐る人混
みの中を歩いていた。
 この手のぬくもりがあるかぎり、何も心配いらないんだ、そう信じていた。
 だから、雪駄の鼻緒が切れて、つまずいてしまったとき。
 正樹の手を放してしまって、人混みの中に放り出されてしまったとき──どうし
ていいのか分からなかった。ほんの一瞬のことだったのに、まるで地面がなくなっ
てしまったように不安で、悲しくて、たまらずに涙が零れた。
(あのときと同じ気持ち……なのかな)
 よく、分からない。
 自分の気持ちが──どうしても見えてこない。
 気が付くと、シャープペンシルの柄はじっとりと汗ばんでいた。
「のーえーみー。もう消しちゃうよー、いいのー?」
 教壇の方からそんな声がして、乃絵美は我に返った。
 見ると、黒板消しを手にしたショートカットの少女が黒板の前で手を叩いている。
「あ、ごめん、ナッちゃん……」
 慌てて乃絵美は残った文字を書き写した。
 目線を上げて、「ごめんね、もういいよ」と言うと、ナッちゃんと呼ばれた少女
はやれやれという顔で手際よく黒板を消し始めた。
 消し終わり、ぱんぱんとチョークの粉を手で払うと、
「もー、どしたの? ボーッとして。まあ、乃絵美がぼけぼけーっとしてるのは今
日に始まったことじゃないけどさ」
 苦笑しながら、乃絵美の席まで歩いてきた。
 野宮夏紀。乃絵美とは中学の頃からの親友だ。楽観的で活発、乃絵美を逆にした
ような感じの性格だが、それだけに気が合うのか、ずっと仲良くやっている。病弱
で、あまり友達の多くない乃絵美にとっては頼れる存在だ。
「わ、わたし、そんなにぼけぼけしてるかな?」
「ときどき。でもここんとこはずっと」
 夏紀は言った。
 明るい口調とは逆に、表情は少し心配そうな色を浮かべている。
「どしたの、なんか……悩み事? わたしでよかったら相談に乗るよ。うん。お金
のこと以外は」
 そう言って夏紀はくすくすと笑った。
 乃絵美も、つられるように少し口元をほころばせた。
「ほら、言ってみ」
「…………」
「こーいうときは、口に出しちゃえば楽になるもんだよ?」
「……うん」
 夏紀の優しい目に視線を返して、乃絵美はちいさくうなずいた。


          8


「じゃ、ここでな」
「ああ」
 部室棟の前で冴子と別れると、正樹は陸上部の部室に入った。冴子も正樹と同じ
く、もう進路が決まっているので、この時期でも後輩の指導を兼ねてハンドボール
部の練習に参加している。
 部室内に人の姿はなかった。
 あちこちに着替えが散乱しているところを見ると、みなもうグラウンドに出てい
るのだろう。
 正樹は手早くジャージに着替えると、タオルを片手に部室を出た。
 木枯らしが頬を撫でる。
(うわ、寒いな)
 正樹は思わず身をすくめた。
 今年は暖冬という話だが、ランニングとジャージ二枚でこうして外に出ると、ど
こが暖冬なんだといいたくなる。
(うー、早くアップ始めよう)
 そう思って気持ち早足にグラウンドへ向かおうとしたとき、
「ん?」
 グラウンドに抜ける中庭のベンチに、一冊の本が置き残されているのが見えた。
 近づいてみると、ところどころ褪せた皮で装丁された、ずいぶんと古そうな本だ
った。稀覯本というやつかな、とあまり読書と縁のない正樹は思った。
 ぺらぺらとページをめくってみると、びっしりとした英活字の渦が飛び込んでく
る。
「うわ、原書だ」
 英語は不得意ではないが、あくまでも学校レベルの話だ。
 原書特有の古典英語的な言い回しや、ラテン語やスラングが混じった英文など、
日本の高校生レベルの語学力で読めるような代物ではない。
 正樹は溜息をついて、表紙に目を戻した。
 そこには、繊細なタッチで描かれた、少年と少女が寄り添って眠る絵が挿しこま
れていた。少女は、少年の胸に身を預けて、安心しきったような笑みを浮かべて眠
っている。
 いい絵だな、とぼんやり正樹は思った。
 どこか、正樹の心を惹くものがある。
 左隅に、タイトルと作者名らしきものが筆記体で書かれていた。
 EUJINEE。
 そう書かれている。
「エウ……なんだ?」
 正樹が目を細めると、
「ユージニーだ」
 背後で声がした。
「うわっ」
 振り返ると、いつの間にかひとりの生徒が、缶コーヒーを片手に正樹の背後に立
っていた。美形といっていいくらいの整った顔立ちだが、目尻がするどく切れてい
る。わずかにウェーブのかかった髪が、風で揺れていた。
 顔みしりの生徒だったため、正樹は少しほっとした。
「なんだ、イズミか。驚かすなよ」
 笑いかける正樹に、男子生徒はふんと言いたげな顔つきで、正樹の手から本を受
け取った。
 井澄。下の名前は知らない。正樹のクラスメートで、たしか図書委員だか何だか
をやっている。成績はいつも学年順位一桁台をキープしている秀才で、顔もいいの
に、とことん無愛想な性格がわざわいしてか、異性にも同性にも、友人はまったく
といっていいほどいない。
 こうやって人懐っこいところのある正樹が、たまに声をかけるくらいだ。そうい
うときは、無愛想なりに、井澄も会話を返してくる。
 そのせいか、周囲から正樹は井澄の友人だと思われているのだが、さほどに仲が
いいわけではない。なにしろ、下の名前すら知らないのだ。
「お前、いつもそんなの読んでるのか?」
 正樹は訊いた。
 そんなの、というのは本の内容ではなく、原書、ということだ。
「仕方がない」
「え?」
「ラインコックは日本では訳出されていない。向こうでも絶版だ。だから仕方がな
い」
「ああ」
 正樹はうなずいた。
 ラインコックってのはなんだろうと思ったが、ふと考えて、ああこの本を書いた
やつの名前だな、と直感した。
「…………」
 じろ、と井澄は正樹を見た。
 思わず、正樹はたじろいだ。
「な、なんだ?」
「影になっている」
 呟くように井澄は言った。
 ああ、と正樹は気が付いた。正樹の体が、太陽の光をさえぎっているのだ。しか
し他にも言い方があるだろう、と苦笑しながら、正樹は体をずらした。
 井澄は正樹などそこにいないかのように、ぱらぱらとページをめくりはじめた。
 そのまま、黙々と読み始める。
 正樹はぽりぽりと頭を掻きながら、
「んじゃ、俺練習だから。邪魔したな」
 そう言った。
「ああ」
 面白くもなさそうに、井澄がうなずいた。目線は本の方を向いている。
 正樹はそのまま踵を返して、校庭の方に向かって歩き始めた。
 ふと気になって、足を止めて振り返る。なんとなく、あの本が気になっていた。
というより、あの繊細な挿画が、正樹の気をひいた。どういう物語なのだろう。あ
の少年と少女は、あの本の中でどういう運命を紡いでいるのだろう。
「なあ、井澄」
 そう呼びかけると、井澄は無言のまま、鬱陶しそうに「なんだ」という顔をした。
「その本さ──どういう、話なんだ?」
 井澄は本に目を落としてから、視線を正樹に戻した。
 相変わらず無愛想な声で、
「よくある話だ」
 と言った。
 それから少し考えるように、校舎の方に目を向けると、言った。
「兄と妹が恋に堕ちる──じっさい、よくある話だ」


          9


「なるほど、それで、お兄ちゃん子な乃絵美ちゃんとしては、お兄ちゃんが遠くに
行っちゃうのが、寂しいよー、ってわけだ」
「そう……なのかな」
 乃絵美は上目遣いで夏紀を見やった。
「乃絵美の話を総合するとさ、そういうことじゃない。まあ、ずっと一緒に暮らし
てきた人がある日突然いなくなっちゃったら、気も沈むわよ」
「ナッちゃんも、そう?」
 乃絵美は訊いた。夏紀にも、二歳上の兄がいると聞いている。
 夏紀はんー、と椅子をかたむけて、足をぶらぶらとさせると、
「あたしだったら、家が広くなって喜んじゃうけどなあ。アニキが出てくっていう
なら、どーぞどーぞ、って感じかな」
 と笑った。
「そんなもの?」
「兄妹なんてそんないいもんじゃないって。乃絵美のところはね、はっきりいって
特殊よ、特殊」
 特殊。
 その言葉に、乃絵美はぴく、と肩を震わせた。
 ──でも、クラスのみんなは、兄妹であんなに仲がいいのは、おかしいっていう
よ?
 やっぱり。
 やっぱりわたし、へんなのかな。
 乃絵美の小さな動揺をよそに、夏紀は続けた。
「最近は寂しいかもしれないけど、時間が経てば慣れちゃうよ、きっと。なにも一
生会えなくなるわけでもないんだし」
「そう──だよね?」
「それにさ、乃絵美にはピンとこないかもしれないけど、城南から推薦の話が来る
なんて、ホントすごいことなのよ? 先生たちの間ではちょっとしたお祭りさわぎ
になってるみたいだし。陸上部の田山なんてさー、もう鼻高々だよ。“私が伊藤を
育てたんです”って顔して。あはは、先輩かわいそー」
 夏紀の言葉に、くす、と乃絵美は笑った。
(やっぱり、すごいことなんだ)
 乃絵美は思う。
 先生たちがそうやって騒ぐくらい、お兄ちゃんにとってはすごいチャンスなんだ。
それをわたしのせいで──邪魔しちゃ駄目なんだ。わたしが暗い顔していたら、お
兄ちゃんの決心が鈍っちゃうかもしれない。
 それが、乃絵美にとっては何より嫌だった。
 病弱だった自分は──ずっと正樹に頼りきりだったと思う。もしかすると、枷に
なっていたのかもしれない。
 だから。
 だから、正樹におとずれたこの転機のときに──自分が足を引っぱっちゃいけな
い。
 乃絵美は思った。
(うん)
 乃絵美は、小さくてのひらを握りしめて、うなずいた。
 笑っていよう。後は正樹が決める。正樹が城南を選んだら、乃絵美は笑って、
「心配いらないよ。わたしなら大丈夫」元気にそう言おう。
 笑顔で、送り出してあげよう。
「ん?」
 夏紀が、乃絵美の顔を覗き込むようにして、訊いた。
「なに? ふっきれた?」
「……うん。やっぱり、ナッちゃんに話聞いてもらって、よかった」
 まだちょっと固さを残していたけれど、乃絵美は明るくそう言った。
「そうだよね。お兄ちゃんの問題なんだもん。お兄ちゃんが決めたことなら──ど
んなことになっても、わたし、がんばれると思う」
 乃絵美の言葉に、夏紀は、おーおー、とにっこり笑った。
「えらい、それでこそ妹の鑑」
 頭を撫でる。
「く、くすぐったいよ」
 肩をすくめながら、乃絵美も笑った。
(うん、笑わなきゃ)
 そう思いながら、──ちいさく目を細めた。

小説(転載)  インセスタス Incest.1 クロニクル 2/4

官能小説
04 /28 2019

          4


 ─January.23 / St.elsia Hichschool ─


「まーさきくーん、もう下校時間だよー」
 今日も一日、窓側の一番後ろという最高のロケーションで惰眠をむさぼっていた
正樹の耳元で、仔犬のように脳天気な声がした。
「まだおっきしないのかなー? おっきしないとくりくりしちゃうぞー。それ、く
りくりくりぃ……」
「ぶわっ」
 突然、右の耳に何か柔らかいものを差し込まれて、正樹はがばっと跳ね起きた。
「あっははー、ね、一発でしょ。ミャーコちゃん必殺、“寝起きのためにその1”
ナリ」
 まだ目をぱちぱちとさせていた正樹の視線の前に、自分のブラウスの裾をエンピ
ツのように細くした美亜子が、にゃはは、と屈託のない顔で笑っていた。
「ミャーコちゃん、心臓に悪いよ……」
「にゃはは、ごめんねー」
「ったく、ガキっぽいことばっかするなよな」
 美亜子の後ろで、冴子が活発そうなショートカットに手をやりながら、美亜子の
頭をちょんと小突いた。
 あうっ、と美亜子が頭を抱える。
「ま、グータラ君にはいい薬よね」
 いつの間にやら正樹の隣の机の腰をかけた菜織が、半分開いた窓から吹き込む風
に、シャギーの入った髪を揺らせながら、苦笑気味に言った。
「なんだお前ら、人が気持ちよく寝てるっつうのに……」
 正樹、菜織、美亜子、冴子。4人とも去年同じクラスになってからの仲の良いグ
ループだった。特に菜織とは、半ズボンの頃からの幼なじみで、腐れ縁というやつ
である。この時期受験やらなにやらで本来3年生はてんてこまいなのだが、皆早い
時期に進路が決まっているので、4人ともどこ吹く風という感じであった。
「それになんだよ、グータラって。俺は朝も夕方も練習練習でヘトヘトなの」
「もう大会もないのに?」
 くすくすと菜織が笑った。
 冴子も苦笑して、
「しっかし大会終わってからエンジンかかってどうするんだよお前。相変わらずピ
ーク調整の下手なヤツ」
「うるさい。俺は記録のために走ってるんじゃないんだよ」
「ほー。じゃ、なんのためだよ?」
「“愛”のため、だよねー。陸上に対する飽くなき愛! わーいマーくん、カッコ
いー!」
 茶化すように美亜子が笑った。
 へ? と場の空気が脱力する。
 美亜子はムードメーカーとしては最高の存在だが、ときどき妙な方向へ暴走する
のが玉に瑕だなあ、と正樹はこういうとき実感する。
 それにいつから俺はマーくんになったのだ。
「適当なことゆーな。なにが愛だよ、恥ずかしい」
 少し耳を赤くして、ごつ、と冴子が美亜子を小突いた。
「いたーい」
 また美亜子が頭を抱えた。
 そんなふたりを見ながら、正樹と菜織は顔を見合わせて笑った。
(この光景もそろそろ見納めかな)
 と思うと、妙に名残惜しい気もする。
「あ、そうだ」
 ふと、菜織が何かを思いだしたように、ぽん、と両手を合わせた。
「ね、正樹、真奈美から手紙来た?」
「ああ、来たぞ。お前のトコにも来たか?」
「当然じゃないの。ね、中身読んだ?」
「読んだ読んだ。次の夏だってな。もう半年もないよ」
「え、なになになに? 真奈美ちゃんの手紙がどーしたの?」
 興味津々、という顔で美亜子が言った。
 好奇心で目をきらきらさせている。
「今度の夏にね、真奈美、日本に帰って来れるみたい」
「へー、ホントか? こっちに戻ってくるのか?」
 冴子が口元をほころばせながら訊いた。
「少しの間なのかずっとなのか、ってのはまだ分からないみたいだけどさ、もしか
したら親父さんの転勤がもう終わるかも、って書いてあったぜ」
「へえー」
「わーい。じゃあじゃあ、またみんなで遊べるねえ」
 心底嬉しそうに美亜子が言った。
「そうだ、今度の夏なんだったら、7月に横須賀の方に新しいテーマパークがオー
プンするんだよ。ねね、そこ行こうよー」
 美亜子らしく、もう遊びの算段を立てている。気が早いっての、と隣で冴子が苦
笑した。
「そうよミャーコ、だいたい卒業式だってまだじゃないの」
「えー、善はいそげだよー。もう皆進路決まってるんだし、じゃ下見行こうよー」
「ばーか。建設中のテーマパークみて何が楽しいんだ」
 菜織たちの言葉に、ぶー、と美亜子が頬をふくらませた。
「そっか、お前ら桜美に推薦決まったんだよな」
「ああ。あたいはスポーツ推薦、菜織は学校推薦だけどな」
 正樹たちの地元の桜美大学は、レベルもそこそこ、スポーツも県内ではかなりの
名門で知られている。なにより自宅から歩いて通える距離、というのがいい。
「ミャーコちゃんは専門学校だっけ?」
「うん。服飾だよー。デザイナー目指してるのだ」
 桜美駅前にも分校がある、大手の服飾専門学校だ。桜美大は駅から歩いて5分の
ところにあるから、ほとんど隣同士といっていい。
「ま、結局メンバーは変わらないってことだな。腐れ縁もここまで来ると相当だよ」
 冴子が笑った。
(そっか、やっぱみんな桜美なんだよな)
 頬杖をつきながら、ぼんやりと正樹は思った。ん? と冴子が怪訝な顔をする。
「なんだよ、お前も桜美から話来てるんだろ? もう決めたんじゃなかったのか?
地元だから便利だとか言ってたじゃないか」
「ああ」
 最後の大会の少し前くらいから、県内、県外から正樹のところにはスポーツ推薦
の話はいくつも舞い込んできた。その中にはもちろん地元の桜美大の名前もあった。
大学に入っても陸上を続けられるのは願ってもない話だったから、推薦を受けるこ
とは正樹は早くから決めていた。
 それなら、地元の桜美大が一番いい。そう思っていたのだが──。
「んじゃ、そろそろ書類とか、手続きしないとヤバイんじゃないのか? 陸上の方
はよく分からないけどさ。もう2月になっちまうぞ」
「んー、まあ、桜美には週末までには返事することになってる」
「早めにしとけよ」
「ああ……」
 そう言いながら、正樹はちらっと菜織の方を見た。菜織はちょっと複雑な視線を
返した。
「なんだよ、煮え切らない返事だな」
「いやさ、……」
「ん?」
 正樹は一拍置いて、
「城南からも──話、来てるんだ」
 と、言った。
 へ、と冴子は一瞬ぽかんと口を開けて、
「なにいいい~!」
 素っ頓狂な声をあげた。
「城南? 城南ってあの城南か? 八王子の?」
「ああ」
「え、なになに、それってすごいの?」
 好奇心を全身から発散させて、美亜子が身を乗り出した。
「すごいもなにも、陸上の名門中の名門だよ、あそこは。あたいだって知ってるく
らいだ。国際強化選手なんてごまんといるし、オリンピック選手だって何人も出し
てるぞ」
 お前、そんなにすごいヤツだったのか、と冴子は感心したように言った。
「んー、けっこう前から電話とか来ててさ。──昨日、書類が送られてきた」
「全然知らなかったよ、なんだよ、水くさいな。菜織は知ってたのか?」
「うん。ちょっと──話はね」
 少し寂しそうな口調で、菜織は答えた。
「なんだよ、菜織には教えて、あたいたちには教えてくれなかったのかよ。友達甲
斐のないヤツだなー」
「ちっちっち、無駄よサエ。このふたりにはあたしたち新入りがおよびもつかない、
ふかぁーい絆があるのですヨ」
 口では茶化しながらも、美亜子もちょっと不満そうな表情をしていた。
 てっきりふたりとも、正樹は桜美に行くものだとばかり思っていたから、突然出
てきた対抗馬に驚いているのだろう。正樹が桜美大に行かないかもしれない、とい
うことより、なぜその対抗馬のことを教えてくれなかったのか、ということを詰問
しているような表情だった。
「なーに言ってんの。ま、コイツもいろいろ複雑みたいだったし、あんまり話広げ
ても、って思ったからさ。……でも正樹、そろそろ答え出さないと。いつまでも考
えてたって、先進まないよ」
「まあ、そうなんだけどな」
「橋本先輩もさ、誘ってくれてるんでしょ?」
「ああ」
 正樹の1年上で、去年卒業した陸上部の前キャプテン、橋本まさしは、スポーツ
推薦で桜美大に入り、かなりの有望株で、大学の競技会でも好成績をおさめている
らしい。この前電話をもらったとき、声がはずんでいた。桜美の陸上部で充実して
いるのだろうし、正樹が来るかもしれないということで、楽しみにもしているのだ
ろう。
(きっと、桜美に行けばのびのびやれるだろうな)
 正樹は思う。
 対して、城南の陸上部はとことんリベラルでありながら、徹底的な競争社会だと
聞いている。自大の陸上部の中で完全な競争社会が確立し、ついてこれない人間は
容赦なく脱落していく、という話だ。よくもわるくもシビアなのだろう、だからこ
そ、名門の上に立つ名門でいられるのだろうが。
「それに、城南に行くとなると、八王子だろ? 寮にしろひとり暮らしするにしろ
──家を空けなきゃならなくなるからな……」
 そう言いながら、正樹は昨日、乃絵美から城南大学からの手紙を受け取ったとき
のことを、ふと思い出した。


          5


『乃絵美? どした、新聞──来てなかったか?』
『あ、ううん……はい、これ』
 乃絵美は慌てて、抱えていた新聞を正樹に差し出した。
『サンキュ。どれどれ……江藤G確定か? なになに……』
 スポーツ欄に目をやる正樹をじっ、と見つめながら、乃絵美は薄い下唇をきゅっ
と噛んだ。その視線に気づいた正樹が、ん? と顔をあげた。
『どした?』
『あ……なんでも、ない』
 取り繕うように、乃絵美はぱたぱたと胸のあたりで手を振った。
『あ、ほら、お兄ちゃん、真奈美ちゃんから、手紙が来てたよ』
 笑顔を作って、乃絵美は真奈美の送ったブルーの封筒を正樹に渡した。後ろ手で、
城南大学の白い封筒を握ったまま。
(どうしよう)
 そのまま、乃絵美は固まったように動けなくなった。
 気軽に、真奈美の手紙と一緒に渡せばよかった。だけど左手は──石のように固
くて、重くて、どうしても動かせなかった。
『ホントか? 先週来たばっかりなのに、真奈美ちゃん筆まめだなあ。なんかいい
ことでもあったのかな?』
 口元をほころばせながら、真奈美の手紙を受け取ると、正樹はサイドテーブルの
引き出しを開けて、ごそごそと中を探った。
『どれどれっと……ありゃ、乃絵美、ペーパーナイフってどこしまったっけ?』
『…………』
『おーい、あれ? ハサミもないぞ』
『…………』
『乃絵美?』
『…………』
『おい、乃絵美?』
『あ……』
 その声で、乃絵美ははっと我に返った。
 後ろ手に掴んだ封筒に、いつの間にか力が入っていた。
『どうした? なんかちょっとおかしいぞ? 調子悪いか?』
『あ、ううん』
 ぎこちない微笑を返しながら、乃絵美。
『そうか?』
『あ、ペーパーナイフなら、今朝お父さんが使ってたから、テレビのところのテー
ブルの上にあるんじゃない……かな』
 そっか、と正樹はテレビの方に移動して、お、あったあった、と声をあげた。そ
のまま、ペーパーナイフで器用に封筒を開けている。
(…………)
 乃絵美は唇を噛んだ。
 このまま黙っていようか──ふと、そんなことを思った。
 今週末まで黙っていれば。
 そうしたら……。
『…………』
 駄目だ。
 そんなこと、できるはずがない。
 乃絵美にはよく分からなかったが──正樹にとってみれば、今度の話は2度とな
い、本当に大きなチャンスなのだろう。
 自分ひとりの我が儘で──それを潰していいはずがない。
(言わなきゃ)
 手紙が来てるよ。
 一言そう言えばいい。後は正樹が決める。桜美大を選ぶにせよ、城南大を選ぶに
せよ、正樹自身の問題なのだ、これは。
 乃絵美は、深呼吸をした。
 そして精一杯の笑顔を作って──言った。
『お兄ちゃん、もう一通、手紙が来てるよ』


          6


 あのときの乃絵美は、なんともいえない表情をしていた。
 頬杖をつきながら、ぼんやりと正樹は思った。
 ひとりきりで置き去りにされて、どうしてよいのか分からない、迷子の仔犬のよ
うな表情。子供の頃行った縁日で、ふとしたことで連れていた乃絵美の手を離して
しまったときも──あんな顔をしていた。
「…………」
 ふう、と正樹は息をついた。
 早くに母親を亡くした乃絵美が、人一倍孤独に敏感だということは、誰よりも正
樹がよく知っている。実際のところ、兄妹なんて関係は本当はもっとドライなもの
だと思う。だがそれは、父親、母親、兄あるいは姉──愛情の対象が多くあり、兄
妹というのはそのつながりのひとつにすぎないからだ。
 けれど──乃絵美の糸は二本しかなかった。父親か、正樹か、その二本しか。
 正樹が東京へ行けば、また一本、糸が減ってしまう。
(まあ、もう寂しがるような齢でもないだろうけどな……)
 そう思いながらも、昨日の乃絵美の表情が、どうも頭から離れない。
「正樹?」
 傍らの菜織が怪訝そうな声をあげた。
「ん、ああ?」
 その声で正樹は我に返った。いつの間にか考え込んでいたらしい。
「どったの、黄昏ちゃってるよー」
 にゃっはは、と美亜子が笑った。正樹も、わるい、と苦笑を返した。
「まあ、あんまり考えすぎないことよ。自分が一番やりたい道を選べばいいんだし
……要はフィーリングじゃない? 案外パッと決めちゃった方がいい結果になるわ
よ」
 菜織の言葉に、そうだよな、と冴子が同意するようにうなずき、
「でも、城南を蹴るってのも、贅沢な話だぜ」
 そう付け加えた。
「そうだな……」
 正樹はうなずいた。行きたくて行けるところではない。城南に入りたくても入れ
ない選手だって、いくらでもいるのだ。
「……まあ、もうちょっと、ギリギリまで考えてみるよ」
「ああ、そうしな」
 正樹がそう言うと、菜織も冴子も少し伏し目がちにうなずいた。
 その選択によっては、正樹は桜美を出ていくことになる。いつかはこの居心地の
いい関係も、時間とともに疎遠になっていく。そうとは分かっていても、やはり寂
しさはぬぐえないものがある。
 そのまま、4人ともなんとなく黙ったまま、窓から吹き込む風に、制服を揺らし
た。長いようで短い3年間というが、本当にそうだった。その3年間が、もうすぐ
終わろうとしている。
 ずっと続くかと思っていた日常は、こうやってゆっくりと、あるいは唐突に──
変化を迎えるのだろう。
(もう2月か……)
 3年前の2月、自分は何をしていただろう、と正樹は思った。
 菜織と一緒に駄目もとでSt.エルシア学園を受験して、二人とも何とか合格し
て……乃絵美は自分のことのように喜んでいた。大人しい顔に決意をこめて、「わ
たしも頑張るね」と言っていた。
 来年の2月はどうしているだろう?
 正樹は思った。
 きっと走っているだろう。それだけは分かる。

 そして──誰が傍にいてくれるのだろう?

小説(転載)  インセスタス Incest.1 クロニクル 1/4

官能小説
04 /28 2019
一旦このカテゴリにしておく。保存したのは2001年。20年近く放おっておいた。すぐ読まずにいたのは、ちょっとめんどくさそうだと思ったからかもしれない。

Prologue



 ……。
 …………。


「こほっ、こほっ」
「どうした? 大丈夫か、胸、苦しいか?」
「うん……。こほっ、だいじょうぶ……」
「本当か? 顔青いぞ。今、親父に電話してくるから──」
「平気だよ、おにいちゃん。だいじょうぶ……」
「平気ったって……」
「おにいちゃん、それより早くしないと約束の時間、遅れちゃうよ」
「ばか。そんなこと言ってる場合じゃないだろ。ほらベッドに戻るぞ。歩けるか?」
「あ……うん」
「階段、気をつけろ」
「うん……」
「ほらっ……」



「……おにいちゃん」
「ん?」
「……ごめんね」
「なにが?」
「……今日、みんなと出かける約束だったって……」
「ばーか」
「……あっ」
「いいんだよ。お前はそんなこと気にしなくて。お前をほったらかして遊びに行っ
たって、心配で手につかないよ」
「…………」
「いいから、少し寝ろよ。もうすぐ親父も帰ってくるし」
「……うん」
「な?」
「…………」
「…………」
「……おにいちゃん」
「ん?」
「……ごめんね」
「……ばーか」



「少しは熱……さがったかな」
「おにいちゃんのおでこ……冷たいね」
「そうか?」
「……うん」
「…………」
「…………」
「また、笑われちゃうな」
「ん? 誰にだ?」
「クラスのみんな。わたし、いつもおにいちゃんに甘えてるから、って……」
「なんだ、兄妹なんだから、笑うことないのにな」
「……でも、クラスのみんなは、兄妹であんなに仲がいいのは、おかしいっていう
よ?」
「おかしくないだろう。普通だよ」
「そう……だよね」
「ああ」
「兄妹なのに、なかよくしちゃいけないなんて、変だよね」
「ああ、変だ。クラスのやつらの方が変だよ」
「でもみんな、おかしいっていうの。兄妹でけっこんしちゃいけないんだぞー、と
か」
「そりゃ、結婚はできないけどさ」
「……わたし、おにいちゃんのお嫁さんになりたいのに」
「…………」
「…………」
「……おにいちゃん」
「ん?」
「……それって……」
「…………」



「それって……おかしなこと、なのかなぁ?」


 …………。
 ……。

 ……Its a chonicle.





Incest.1 クロニクル



          1


 本当に大切なことは、いつも言えないで終わる。
 口にしてしまったら、とたんに色褪せて──空気の中に溶けてしまうんじゃない
か。
 そんな気がする。
 だから、言わない。大切な気持ちは、本当の想いは、そっとしまっておこう。
 胸の奥の、いちばん深いところに、そっと。
 ずっと、そう思っていた。

 ……ずっと。



 ─January.22 / Living─


「お兄ちゃーん」
 とんとん、とんとん、と乃絵美は正樹の部屋のドアを、軽く二度、ノックした。
 一階のダイニングの方から、香ばしい匂いがする。昼食の支度はもうできている
のだ。
「んー?」
 部屋の中から、気の抜けた声が帰ってくる。
「お兄ちゃん、ご飯できたよ」
「あぁ……もうそんな時間か」
 正樹の声の語尾は、ふああ、という欠伸にかき消された。
(しょうがないなあ)
 くすっ、と乃絵美は笑った。
「早くしないとのびちゃうよ。パスタ茹でたんだよ」
「んー、起きる……」
 もぞもぞと音がする。
 どうやら、ベッドから這い出てきているようだ。
 うん、早くね、ともう一度声をかけて、乃絵美は軽い足音をたてながらとんとん
と階段を降りた。
 ダイニングに降りて、網にあげていたパスタにさっとオリーブオイルとバジリコ
をまぶす。コンロにかけていたままの鍋を止めて、温めていたクリームソースを小
指の先でちょっと嘗めてみる。
(うん、ちょうどいいかな)
 ソースをパスタにからめている間、空いたコンロで紅茶用の湯を沸かす。
 普段はのんびり屋だと人にも言われている乃絵美も、こと料理に関する手際はい
い。
 机の上にパスタとサラダ、ミルクの入ったマグカップを並べ終える頃には──寝
癖まじりの頭をぽりぽりとやりながら、欠伸をかみ殺した正樹がリビングに降りて
くる。
 何千回とくり返されてきた日常だ。
「おはよ……ふあぁ」
「お兄ちゃん寝癖──ぴこぴこしてるよ?」
「ん……あ、ホントだ」
 ぺたぺたと頭に手をやりながら洗面所に向かう正樹の背中を見ながら、乃絵美は
もう一度、くすっと口元をほころばせた。


          2


「ん、美味いなぁ、これ」
「ホント?」
 兄妹テーブルに向かい合いながらもくもくとパスタを食べていると、ようやく眠
気が晴れてきたのか、正樹がぽつっと言った。
「ああ、濃いめでさ。好きだなこういう味」
「よかった。お母さんのノートには、ホワイトソース作るときは牛乳を使うんだけ
ど、今日は生クリームを多くしてみたの」
「へえ、研究してるんだな」
 ずるずる、と正樹はパスタをすすりながら答えた。
 母親がいなくなってから、もうどれだけ経つだろう。まだあのときは乃絵美は赤
いランドセルを背負っていて──目を真っ赤に泣き腫らしながら、正樹の袖を握っ
て立ちつくしていた。
 ずっと泣き続けていた。
 このまま泣きやまずに、体中の涙を枯らして痩せ細って死んでしまうんじゃない
か──父親も正樹も、自分の受けたショックはそっちのけで、乃絵美のことを心配
した。
 だけど、母親の遺品の中から、何つづりもの色褪せた大学ノートを見つけてから、
乃絵美はちょっとだけ変わった。
 母さんの遺した料理ノート。
 どのページにも、どのページにも、優しい丁寧な字でたくさんの料理のレシピが
書き付けてある。
 ──これからは、あなたががんばらなきゃね。
 母さんに、そう笑いかけられてるような気がしたのか、ようやく乃絵美は泣くの
をやめた。
「これから、わたしがお料理、がんばるから」
 リビングで、小さな胸いっぱいにノートを抱えた乃絵美が宣言したとき、まだ両
目は赤かったが、もう涙はなかった。炊事台にも満足に手の届かない乃絵美が、伊
藤家の家事を取り仕切るようになったのは、そのときが最初だった。
(人に歴史あり、だよなぁ)
 あのときの乃絵美の真剣な表情を思い出すと、正樹は今でも口元がほころんでし
まう。
「でも、カロリーの方も大丈夫だよ。ここのところお魚が続いたから」
「ああ、そのあたりは信頼してるから」
 スプーンの中でパスタをくりくりしながら正樹は答えた。
 正樹は県下でも有数のスプリンターだ。スプリントというのは非常にデリケート
な分野で、ベストの体重から1キロ重くても軽くても、コンマ単位のタイムになっ
て返ってくる。だからコンディション管理というのはなにより大事なのだが、もと
もといいかげんなところのある正樹は、そのあたりは全て乃絵美にまかせきりだ。
「もうどのくらいになったんだ、ノート?」
「ううんと、11冊め、かな」
「お、大台だな」
 乃絵美は、最近では母親の遺したノートをなぞるだけではなく、自分でいろいろ
研究したりして、どんどんと新しいページを埋めていっている。熱心だなあ、と正
樹が笑うと、
 ──食べてくれる人がいるから。
 と、ちょっと恥ずかしそうな笑みを乃絵美は浮かべた。
 そんなこんなで、最初は6冊だった料理ノートは、今や二桁の大台に乗っている
というわけだ。
「まあ、乃絵美には感謝しなきゃな」
 食事が終わって、乃絵美の煎れてくれた紅茶を飲みながら正樹は言った。
「?」
「最近は体が軽いし、キレ、っていうのか? そんなのがすごくいい感じだよ。毎
日乃絵美が美味いもの食わせてくれるおかげだな」
「えへへ」
 照れくさそうに微笑む。
「あーあ、もう一度大会があったらなぁ。今のコンディションならコンマ3秒くら
い縮められそうな気がするんだけどな」
「お兄ちゃん、昔から大事なときは風邪ひいたりお腹痛くなったりするもんね」
 くすくすと乃絵美は笑った。
 正樹も苦笑する。どうも正樹は基本的に運のめぐりが悪く生まれついているらし
く、ピークの下降線で大会を迎えたりすることがしばしばだ。自己管理が下手だと
いえばそれまでだが。
「それでも大会記録まであとちょっとなんだから、やっぱりお兄ちゃんってすごい
なぁ」
 それでも、素直な乃絵美は変に感心してしまうらしい。
 正樹ももう3年の冬を終え、高校での公式戦は全て終わった。大学に入っても陸
上を続けるとしても、高校時代の夏は、もう帰ってこない。ときどき、ひどく寂し
くなるときがある。
 あれだけグラウンドで汗を流してきたのに、走り足りない、という気がどこかで
する。
 感傷なのだろう。意外に自分はセンチメンタルな奴だと、正樹は苦笑した。
「ん」
 マグカップを傾けながら、正樹はテーブルの上をきょろきょろと見回した。
 新聞がない。昨日の練習はかなりオーバーペースで、帰ってすぐ泥のように眠っ
てしまったから、この時期ペナントよりも激化するFA合戦の経過が分からない。
正樹としては贔屓にしている某スラッガーの去就が気になるところなのだ。
「乃絵美、新聞は? 親父が店の方に持ってったか?」
「ううん、お父さんは朝早くに出かけたけど……あ、まだ取ってなかった」
「ん、そうか」
 といって立ちあがろうとする正樹を、
「あ、わたしが取ってくるから。お兄ちゃんはゆっくりしてていいよ」
 と、乃絵美は押しとどめた。
「そうか?」
「うん。ちょっと待ってて」
 ぱたぱたとスリッパの音を立てて、乃絵美はリビングを出た。


          3


 1月も半ばをすぎ、冬の太陽はかすかにぬくもりを取り戻そうとしていた。
 けれど、吹き抜ける風はまだ肌に冷たく──ドアを開けたとたん、身を切る寒さ
に乃絵美は思わず肩をすくめた。
 一番手前にあった正樹の靴をつっかけながら、
(新聞、新聞……)
 と、ケンケンをするような足どりで乃絵美はポストに辿り着いた。
 ポストの中身は思いの外内容物で溢れていた。
 新聞が二誌。ダイレクトメールが3通。自治会の連絡紙。ごたごたと入っている。
 それらひとつひとつを丁寧に取り出しながら、乃絵美は一番奥に二つの封筒が残
っているのに気づいた。
(誰からだろう?)
 封筒を取り出してみると、上にあった封筒の方は赤と青のストライプで縁どられ
て、右斜め上に、
 AIR MAIL
 と綺麗な英字で書かれている。
(あ、真奈美ちゃんからだ)
 思わず乃絵美の口元がほころんだ。
 真奈美は、正樹の古い幼なじみで、父親の関係でずっとミャンマーで生活してい
る。去年仕事の都合で一度日本に戻ってきたが、またすぐに再転勤が決まってミャ
ンマーに帰った。それからは、ふた月に三度くらいの感覚で正樹やもうひとりの幼
なじみ、菜織と手紙のやりとりをしている。
 乃絵美にとっても、優しいお姉さんのような存在だ。
(お兄ちゃん、喜ぶだろうな)
 そう思いながらそれを抱えた新聞の上に重ねると、乃絵美は次の封筒に目を通し
た。
 官製品のような四隅の折り目正しい、きっちりとした白の封筒だった。
 伊藤正樹様
 達筆な楷書で、そう書かれている。
(誰からだろう)
 どこか後ろめたい気持ちになりながらも、乃絵美は少し嫌な予感にとらわれた。
恐る恐る封筒を裏返してみる。
 そこには、表と同じように丁寧な楷書で、

 城南大学 陸上部常任顧問 片桐隆史

 そう書かれていた。
「…………」
 乃絵美の手が、小さく震えた。 

eroerojiji

小さい頃からエロいことが好き。そのまま大人になってしまったエロジジイです。