小説(転載) 天狗村奇談 サーカスの夜 その4
近親相姦小説
掲載サイト「母と少年 禁断の部屋」は消滅。
ぼくは星明かりに照らされながら、しばらくのあいだ口を開くことができなかった。ことの重大さに怒りさえも忘れてしまった。
「正一君、お母さんは自分から喜んで秘薬を飲んだのだよ。私達と一緒に行くことも自分の意志で決めたことなんだ」
長い間を置いてから、賀来は続けた。
「嘘だ・・・そんなこと嘘に決まってる。お母さんに、何かしたんだろう・・・」
ぼくは、やっとのことで言い返した。
「無理にそうし向けたのではない。私は、君のお母さんの心を開き、心の奥底にある願望を引き出してやった・・・ただ、それだけのことなのだ」
「願望・・・?」
「そう、願望だ。私は中国では気の術を、ドイツでは黒魔術を体得している。何しろ体得するために必要な時間はいくらでもあるからね。気を操れるようになると、触れなくても相手の体や精神をコントロールすることができる。観客にはその力を使ってお母さんと気づかぬよう暗示をかけたのだ。そして私は、君のお母さんの心を解放してやった。君は私が、お母さんと虎を箱の中で入れ替えるマジックを見ていただろう。あのとき私は、言葉を発せずに、今日、一人でここに来るようにと暗示をかけておいたのだ。お母さんはやってきた。私は気の術をかけ、心の底に押し込めていた願望を引き出してやった・・・」
そこで賀来は、またニヤリと意味ありげに笑った。
「正一君、お母さんが心に秘めた願望とは、いったいどんなことだったと思うかね? お母さんは自分の願望に驚き、驚きながらも喜んでくれた。あらゆる呪縛から解放されたように清々しい気分だと言ってな。どうだ、知りたいだろう?」
賀来が、どこか勝ち誇ったような目でぼくを見つめていた。
ぼくはごくり、と唾を飲んだ。さっき見た光景が脳裏に蘇ったからだ。
ぼくはその先を聞きたくなかった。しかし賀来は憎らしいくらいはっきりと言った。
「君のお母さんは、飢えていたんだ。良い妻、良い母親を淡々とこなしながら、実は心の底に悶々としたものをいつも溜めていたんだよ。つまり男とやりたくて仕方がなかったんだ。きっと、君のお父さんは充分に満足を与えていなかったんだろう」
「う、嘘だ・・・」
「嘘ではない。これは本当のことだ。そこで私は、お母さんのそんな願望を押さえつけていた理性のタガを外してやった。するとどうだ、君も見ただろう、お母さんは、あんなに嬉しそうにロドリゲスと交わったじゃあないか」
「嘘だ、嘘だー」
ぼくは、泣きそうな声で叫んでいた。
母がそんな嫌らしい願望を持っていたなんて信じたくなかった。しかし、歓喜に満ちた母の顔が、ぼくの脳裏でますます大写しになっていく。ぼくは、胸を掻きむしりたくなるような思いにとらわれた。
「正一君、嘘か本当か、直接お母さんに聞いてみるといい。どれ、最後の公演もそろそろ終わる時間が近づいてきた。君も一緒に来たまえ」
賀来は御影石から立ち上がり、ぼくの手を取ってテントに戻り始めた。ぼくは引きずられるよう一緒に歩いて行くしかなかった。
賀来はテントをぐるりと回った。入場口の反対側には虎の入った檻があり、サーカスのテントとは別に小さなテントがいくつか張ってあった。きっと団員達の宿舎なのだろう。
ステージに直結して張られたテントに入って行くと、ひしめくように待機していた団員達が、いっせいに振り返った。
空中ブランコの女性達に、一輪車の少女達。曲芸の筋骨たくましい青年達に、ピエロとロドリゲス。その他、見習い兼雑用と思われる少年少女達。異国の、不老不死のサーカスの団員が、ある者は無表情に、ある者は好意的な笑みを浮かべてぼくを見つめていた。
そのなかには、母の姿もあった。母はすでに着替えていたが、身に纏っていたのは西洋のドレスだった。もともと艶やかで高貴な感じのするドレスだったが、母が身に着けると東洋的な雰囲気も加わって、アランビアンナイトに出てくるどこかの国のお后様のように見えた。
母が、ぼくに向かってにこにこと笑いかけている。
ぼくは泣きそうになってしまった。もしかしたらもう会えないかもしれないと思っていた母とやっと会えた。そして、母とはまだ絆がつながっている。そのことが心の底から嬉しかったのだ。
「賀来様、ちょうど今、最後の演目が終わったところです」
曲芸の男が、うやうやしく賀来に告げた。
「ちょっと待っていなさい、お客様に挨拶をしてくるから」
賀来がぼくの耳元でそう言ったとき、幕が開いて強烈なライトの光が差し込んできた。拍手と歓声の渦巻くなかを、賀来を先頭に、母を含めた団員達が全員ステージに出て行った。
ステージにずらりと整列した団員を背にして、賀来は最後の口上を述べ始めた。
「おかげさまにて、賀来サーカス団の公演は本日をもって無事終了いたしました。厚く御礼申し上げます・・・私共は明日からまた村から村、町から町へと移動してまいります。もしかすれば再びおめにかかることもございましょう。そのときにはまた、懐かしく思い出して頂き、ぜひとも足をお運び下さい。それではお別れです。気をつけてお帰り下さいませ」
賀来と団員がいっせいに頭を下げると、テント内は再び拍手と歓声に包まれた。そして、立ち上がった観客達は列をなして出口に向かって行った。
ぼくは慌てて袖口から顔を出し、観客の顔を見渡した。やはり知っている人が何人もいた。親戚のおじさんもいる。ステージに上がっていたのが母だとは気づかず、誰もが息を飲み、興奮して見つめていたのだ。
(もし賀来が気の術だとかで母だとわからないようにしていなかったら、いったいどうなっていただろうか・・・)
そう思い、ぼくはまたもゾッ、とした。
やがて観客が一人残らず家に帰って行くと、祭りの後の静けさのようにテントの中は急に静まり返ってしまった。
誰もいない観客席を、裸電球の明かりが何ともうら寂しく照らし出している。
「さて諸君、今夜もごくろうだった」
賀来は団員達に振り返って言い、軽く頭を下げた。団員達もいっせいに頭を下げる。
「いよいよ明日はつぎの予定地に向けて出発だ。休む前にテントを畳む準備をしておいてくれ」
はいっ、と息の合った返事を返すと、団員達はテントのあちこちに散らばって行った。「おっと、和子はこっちに来なさい。それと正一君・・・君もここへ来るんだ」
空中ブランコの女性達がブランコを外そうと天幕に登って行ったり、その他の団員がイスを畳んだり裸電球を外したりするなかを、ぼくはおずおずとステージに向かって歩いて行った。
母もぼくの方を見ながら賀来の側に歩み寄った。
ぼくの胸には、やっと母と対面できた嬉しさが込み上げていた。しかしそれとは別に今にも崖から突き落とされそうな、恐怖にも似た感情も込み上げていた。
賀来に「和子」と呼び捨てにされたのに嫌な顔もせずに従う母は、本当にサーカスの一員なることを決意しているのだろうか? すでに不老不死の秘薬を飲んでしまったという賀来の言葉は、本当に本当なのだろうか?
ぼくと母は、互いに再会の喜びに身を震わせながらステージの中央で向き合った。
ほんの少し会えなかっただけなのに、涙が出そうなくらい懐かしい思いがした。母も同じ思いなのか、目が潤んでいた。
「よかったな和子。おまえが唯一気がかりだった正一は、お前を捜しにテントに入ってきてしまった。おまえのステージを見た以上、正一も一緒に連れて行くしかなくなったぞ」
賀来が母に言った。母は、心から嬉しそうに顔をほころばせ、
「ああっ、正一」
と感極まった声を上げ、ぼくを抱き締めた。
母の甘い体臭に包まれ、ぼくは一瞬何もかも忘れて深い安堵感を覚えた。だが、すぐに感情が込み上げてきて、ぼくは喉を詰まらせながら言った。
「お、お母さん・・・一緒に家に帰ろうよ、帰って今までどおり暮らそうよ。ぼく、不老不死なんてなりたくない・・・お母さんのあんな姿をずっと見続けるなんて、ぼく嫌だよ、ぜったいに嫌だよ!」
「正一・・・賀来様に話しは聞いているのね。それなら、はっきり言うわ。よく聞いて正一・・・お母さんもう家に帰る気はないの。賀来様について行くことに決めたのよ。でも正一も一緒に来てくれるなんて本当によかったわ。お母さんと一緒に世界中を旅しましょうよ」
「お、お母さん、本気で言っているの? ぼ、ぼくは行きたくない・・・それにお母さんがいなくなったらお婆ちゃんやお父さんはどうなるの? すごく悲しむよ」
「大丈夫。最初は悲しんでもそのうちに忘れるに決まってるわ、そういう人達だもの。でも正一は違う。きっといつまでも悲しんでいると思うわ。だから正一のことだけは心配で堪らなかったのよ」
「どうしちゃったのお母さん、そんなことないよ、お父さんだってきっといつまでもお母さんのことを忘れられないよ、もしかしたら死んじゃうかもしれないよ・・・だから、だから帰ろうよ」
「ねえ正一・・・」
ぼくははっ、とした。言葉をくぎりぼくをじーっ、と見つめた母の目がきらきらと輝いている。ぼくは、母に何か強い意志を感じとった。
「正一も賀来様に心を開放してもらいなさい。そうすればそんな小さなことはどうでも良くなるわ。そして、きっと永遠の旅に出たくなる・・・サヨちゃん、ちょっとこっちへいらっしゃい、サヨちゃん」
母に呼ばれ、一輪車の少女がこちらに歩いてきた。
「ほら、紹介するわ。神隠しにあったと思っていた、私の幼なじみのサヨちゃんよ」
立ち上がった母がサヨちゃんの背を押すようにして、ぼくと引き合わせた。
ぼくと向き合ったサヨちゃんは、ぼくと同じ子供の姿なのに、その顔には大人のように不複雑な表情がこびりついていた。
「お母さんが子供の頃に村にもサーカスが来たって言ったでしょう。あれは、やはりこの賀来サーカス団だったのよ。でも、サヨちゃんはさらわれたんじゃないの。自分から行きたいって賀来様に言ったのよ。ね、サヨちゃん」
「そう、私は生まれて初めてサーカスを見て夢中になったの・・・それで賀来様に一緒に連れてっと頼んだわ。賀来様は快く承知して下さり、私を連れていってくれた。一輪車も教えて下さったし、不老不死の秘薬も飲ませて下さったわ・・・」
長い間があいて、ぼくはサヨちゃんのつぎの言葉を待った。しかし、サヨちゃんはなぜか思い詰めたような顔になって、そのまま黙ってしまった。母がサヨちゃんの肩に手を置きながら続けた。
「ねっ、おまえと同じくらいの年頃の子もいるの。だから、きっと寂しくなんかないわよ。みんなでサーカスをしながら、毎日楽しく暮らしていきましょうよ、ねっ、正一」
「だ、だけどお母さん・・・年で言ったら、この子もお母さんと同じくらいの年じゃないか、ぼくとは違うよ・・・」
「でも正一、二十年や三十年の年の差なんて、永遠の時間のなかでは何の意味もないことなのよ」
ぼくはえっ? と母の顔を見つめ直してしまった。
母はもう、完全に賀来サーカス団の一員になりきっている。この村にも、父や祖母にも未練はないのだ。ぼくは、へなへなと体中の力が抜けるような気がした。
そのとき思い詰めた顔でじーっ、とぼくを見つめていたサヨちゃんが口を開いた。
「お願いだから、カズちゃんを連れていかないで! やっと幼なじみと会えたのに、また別れるなんていや・・・それにあんたなんかお母さんと一緒に行けるからいいわ。私なんか、私なんか・・・」
「・・・」
急に泣きそうになったサヨちゃんは黙り込み、今度も最後まで言わなかった。
ぼくは、何か変だと思った。母は、永遠というものをとても素晴らしいことのように言ったが、ぼくにはサヨちゃんが、何だか疲れ果てているようにも感じられたのだ。
「心配しなくていいわ、サヨちゃん。私はあなたと一緒に行く。きっと行くから安心して」 母の言葉に、サヨちゃんは顔を上げて嬉しそうに笑った。
「賀来様お願いします、この子の心も解放してやって下さい」
賀来に向かって、母が言った。
三人のやりとりを少し離れて見詰めていた賀来が、こっちに歩いてきた。ぼくは思わず後ずさったが、肩を押さえつけられてしまった。
「さあ、私の目を見なさい。心を解放してしまえば、世の中のつまらない決まり事や、しがらみからもいっさい解放される。我々とともに新しい世界に行きたくなってくる。さあ、見なさい」
そう言って賀来は、ぼくの目を覗き込んできた。
ぼくは星明かりに照らされながら、しばらくのあいだ口を開くことができなかった。ことの重大さに怒りさえも忘れてしまった。
「正一君、お母さんは自分から喜んで秘薬を飲んだのだよ。私達と一緒に行くことも自分の意志で決めたことなんだ」
長い間を置いてから、賀来は続けた。
「嘘だ・・・そんなこと嘘に決まってる。お母さんに、何かしたんだろう・・・」
ぼくは、やっとのことで言い返した。
「無理にそうし向けたのではない。私は、君のお母さんの心を開き、心の奥底にある願望を引き出してやった・・・ただ、それだけのことなのだ」
「願望・・・?」
「そう、願望だ。私は中国では気の術を、ドイツでは黒魔術を体得している。何しろ体得するために必要な時間はいくらでもあるからね。気を操れるようになると、触れなくても相手の体や精神をコントロールすることができる。観客にはその力を使ってお母さんと気づかぬよう暗示をかけたのだ。そして私は、君のお母さんの心を解放してやった。君は私が、お母さんと虎を箱の中で入れ替えるマジックを見ていただろう。あのとき私は、言葉を発せずに、今日、一人でここに来るようにと暗示をかけておいたのだ。お母さんはやってきた。私は気の術をかけ、心の底に押し込めていた願望を引き出してやった・・・」
そこで賀来は、またニヤリと意味ありげに笑った。
「正一君、お母さんが心に秘めた願望とは、いったいどんなことだったと思うかね? お母さんは自分の願望に驚き、驚きながらも喜んでくれた。あらゆる呪縛から解放されたように清々しい気分だと言ってな。どうだ、知りたいだろう?」
賀来が、どこか勝ち誇ったような目でぼくを見つめていた。
ぼくはごくり、と唾を飲んだ。さっき見た光景が脳裏に蘇ったからだ。
ぼくはその先を聞きたくなかった。しかし賀来は憎らしいくらいはっきりと言った。
「君のお母さんは、飢えていたんだ。良い妻、良い母親を淡々とこなしながら、実は心の底に悶々としたものをいつも溜めていたんだよ。つまり男とやりたくて仕方がなかったんだ。きっと、君のお父さんは充分に満足を与えていなかったんだろう」
「う、嘘だ・・・」
「嘘ではない。これは本当のことだ。そこで私は、お母さんのそんな願望を押さえつけていた理性のタガを外してやった。するとどうだ、君も見ただろう、お母さんは、あんなに嬉しそうにロドリゲスと交わったじゃあないか」
「嘘だ、嘘だー」
ぼくは、泣きそうな声で叫んでいた。
母がそんな嫌らしい願望を持っていたなんて信じたくなかった。しかし、歓喜に満ちた母の顔が、ぼくの脳裏でますます大写しになっていく。ぼくは、胸を掻きむしりたくなるような思いにとらわれた。
「正一君、嘘か本当か、直接お母さんに聞いてみるといい。どれ、最後の公演もそろそろ終わる時間が近づいてきた。君も一緒に来たまえ」
賀来は御影石から立ち上がり、ぼくの手を取ってテントに戻り始めた。ぼくは引きずられるよう一緒に歩いて行くしかなかった。
賀来はテントをぐるりと回った。入場口の反対側には虎の入った檻があり、サーカスのテントとは別に小さなテントがいくつか張ってあった。きっと団員達の宿舎なのだろう。
ステージに直結して張られたテントに入って行くと、ひしめくように待機していた団員達が、いっせいに振り返った。
空中ブランコの女性達に、一輪車の少女達。曲芸の筋骨たくましい青年達に、ピエロとロドリゲス。その他、見習い兼雑用と思われる少年少女達。異国の、不老不死のサーカスの団員が、ある者は無表情に、ある者は好意的な笑みを浮かべてぼくを見つめていた。
そのなかには、母の姿もあった。母はすでに着替えていたが、身に纏っていたのは西洋のドレスだった。もともと艶やかで高貴な感じのするドレスだったが、母が身に着けると東洋的な雰囲気も加わって、アランビアンナイトに出てくるどこかの国のお后様のように見えた。
母が、ぼくに向かってにこにこと笑いかけている。
ぼくは泣きそうになってしまった。もしかしたらもう会えないかもしれないと思っていた母とやっと会えた。そして、母とはまだ絆がつながっている。そのことが心の底から嬉しかったのだ。
「賀来様、ちょうど今、最後の演目が終わったところです」
曲芸の男が、うやうやしく賀来に告げた。
「ちょっと待っていなさい、お客様に挨拶をしてくるから」
賀来がぼくの耳元でそう言ったとき、幕が開いて強烈なライトの光が差し込んできた。拍手と歓声の渦巻くなかを、賀来を先頭に、母を含めた団員達が全員ステージに出て行った。
ステージにずらりと整列した団員を背にして、賀来は最後の口上を述べ始めた。
「おかげさまにて、賀来サーカス団の公演は本日をもって無事終了いたしました。厚く御礼申し上げます・・・私共は明日からまた村から村、町から町へと移動してまいります。もしかすれば再びおめにかかることもございましょう。そのときにはまた、懐かしく思い出して頂き、ぜひとも足をお運び下さい。それではお別れです。気をつけてお帰り下さいませ」
賀来と団員がいっせいに頭を下げると、テント内は再び拍手と歓声に包まれた。そして、立ち上がった観客達は列をなして出口に向かって行った。
ぼくは慌てて袖口から顔を出し、観客の顔を見渡した。やはり知っている人が何人もいた。親戚のおじさんもいる。ステージに上がっていたのが母だとは気づかず、誰もが息を飲み、興奮して見つめていたのだ。
(もし賀来が気の術だとかで母だとわからないようにしていなかったら、いったいどうなっていただろうか・・・)
そう思い、ぼくはまたもゾッ、とした。
やがて観客が一人残らず家に帰って行くと、祭りの後の静けさのようにテントの中は急に静まり返ってしまった。
誰もいない観客席を、裸電球の明かりが何ともうら寂しく照らし出している。
「さて諸君、今夜もごくろうだった」
賀来は団員達に振り返って言い、軽く頭を下げた。団員達もいっせいに頭を下げる。
「いよいよ明日はつぎの予定地に向けて出発だ。休む前にテントを畳む準備をしておいてくれ」
はいっ、と息の合った返事を返すと、団員達はテントのあちこちに散らばって行った。「おっと、和子はこっちに来なさい。それと正一君・・・君もここへ来るんだ」
空中ブランコの女性達がブランコを外そうと天幕に登って行ったり、その他の団員がイスを畳んだり裸電球を外したりするなかを、ぼくはおずおずとステージに向かって歩いて行った。
母もぼくの方を見ながら賀来の側に歩み寄った。
ぼくの胸には、やっと母と対面できた嬉しさが込み上げていた。しかしそれとは別に今にも崖から突き落とされそうな、恐怖にも似た感情も込み上げていた。
賀来に「和子」と呼び捨てにされたのに嫌な顔もせずに従う母は、本当にサーカスの一員なることを決意しているのだろうか? すでに不老不死の秘薬を飲んでしまったという賀来の言葉は、本当に本当なのだろうか?
ぼくと母は、互いに再会の喜びに身を震わせながらステージの中央で向き合った。
ほんの少し会えなかっただけなのに、涙が出そうなくらい懐かしい思いがした。母も同じ思いなのか、目が潤んでいた。
「よかったな和子。おまえが唯一気がかりだった正一は、お前を捜しにテントに入ってきてしまった。おまえのステージを見た以上、正一も一緒に連れて行くしかなくなったぞ」
賀来が母に言った。母は、心から嬉しそうに顔をほころばせ、
「ああっ、正一」
と感極まった声を上げ、ぼくを抱き締めた。
母の甘い体臭に包まれ、ぼくは一瞬何もかも忘れて深い安堵感を覚えた。だが、すぐに感情が込み上げてきて、ぼくは喉を詰まらせながら言った。
「お、お母さん・・・一緒に家に帰ろうよ、帰って今までどおり暮らそうよ。ぼく、不老不死なんてなりたくない・・・お母さんのあんな姿をずっと見続けるなんて、ぼく嫌だよ、ぜったいに嫌だよ!」
「正一・・・賀来様に話しは聞いているのね。それなら、はっきり言うわ。よく聞いて正一・・・お母さんもう家に帰る気はないの。賀来様について行くことに決めたのよ。でも正一も一緒に来てくれるなんて本当によかったわ。お母さんと一緒に世界中を旅しましょうよ」
「お、お母さん、本気で言っているの? ぼ、ぼくは行きたくない・・・それにお母さんがいなくなったらお婆ちゃんやお父さんはどうなるの? すごく悲しむよ」
「大丈夫。最初は悲しんでもそのうちに忘れるに決まってるわ、そういう人達だもの。でも正一は違う。きっといつまでも悲しんでいると思うわ。だから正一のことだけは心配で堪らなかったのよ」
「どうしちゃったのお母さん、そんなことないよ、お父さんだってきっといつまでもお母さんのことを忘れられないよ、もしかしたら死んじゃうかもしれないよ・・・だから、だから帰ろうよ」
「ねえ正一・・・」
ぼくははっ、とした。言葉をくぎりぼくをじーっ、と見つめた母の目がきらきらと輝いている。ぼくは、母に何か強い意志を感じとった。
「正一も賀来様に心を開放してもらいなさい。そうすればそんな小さなことはどうでも良くなるわ。そして、きっと永遠の旅に出たくなる・・・サヨちゃん、ちょっとこっちへいらっしゃい、サヨちゃん」
母に呼ばれ、一輪車の少女がこちらに歩いてきた。
「ほら、紹介するわ。神隠しにあったと思っていた、私の幼なじみのサヨちゃんよ」
立ち上がった母がサヨちゃんの背を押すようにして、ぼくと引き合わせた。
ぼくと向き合ったサヨちゃんは、ぼくと同じ子供の姿なのに、その顔には大人のように不複雑な表情がこびりついていた。
「お母さんが子供の頃に村にもサーカスが来たって言ったでしょう。あれは、やはりこの賀来サーカス団だったのよ。でも、サヨちゃんはさらわれたんじゃないの。自分から行きたいって賀来様に言ったのよ。ね、サヨちゃん」
「そう、私は生まれて初めてサーカスを見て夢中になったの・・・それで賀来様に一緒に連れてっと頼んだわ。賀来様は快く承知して下さり、私を連れていってくれた。一輪車も教えて下さったし、不老不死の秘薬も飲ませて下さったわ・・・」
長い間があいて、ぼくはサヨちゃんのつぎの言葉を待った。しかし、サヨちゃんはなぜか思い詰めたような顔になって、そのまま黙ってしまった。母がサヨちゃんの肩に手を置きながら続けた。
「ねっ、おまえと同じくらいの年頃の子もいるの。だから、きっと寂しくなんかないわよ。みんなでサーカスをしながら、毎日楽しく暮らしていきましょうよ、ねっ、正一」
「だ、だけどお母さん・・・年で言ったら、この子もお母さんと同じくらいの年じゃないか、ぼくとは違うよ・・・」
「でも正一、二十年や三十年の年の差なんて、永遠の時間のなかでは何の意味もないことなのよ」
ぼくはえっ? と母の顔を見つめ直してしまった。
母はもう、完全に賀来サーカス団の一員になりきっている。この村にも、父や祖母にも未練はないのだ。ぼくは、へなへなと体中の力が抜けるような気がした。
そのとき思い詰めた顔でじーっ、とぼくを見つめていたサヨちゃんが口を開いた。
「お願いだから、カズちゃんを連れていかないで! やっと幼なじみと会えたのに、また別れるなんていや・・・それにあんたなんかお母さんと一緒に行けるからいいわ。私なんか、私なんか・・・」
「・・・」
急に泣きそうになったサヨちゃんは黙り込み、今度も最後まで言わなかった。
ぼくは、何か変だと思った。母は、永遠というものをとても素晴らしいことのように言ったが、ぼくにはサヨちゃんが、何だか疲れ果てているようにも感じられたのだ。
「心配しなくていいわ、サヨちゃん。私はあなたと一緒に行く。きっと行くから安心して」 母の言葉に、サヨちゃんは顔を上げて嬉しそうに笑った。
「賀来様お願いします、この子の心も解放してやって下さい」
賀来に向かって、母が言った。
三人のやりとりを少し離れて見詰めていた賀来が、こっちに歩いてきた。ぼくは思わず後ずさったが、肩を押さえつけられてしまった。
「さあ、私の目を見なさい。心を解放してしまえば、世の中のつまらない決まり事や、しがらみからもいっさい解放される。我々とともに新しい世界に行きたくなってくる。さあ、見なさい」
そう言って賀来は、ぼくの目を覗き込んできた。
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