小説(転載) ADAM1/4
近親相姦小説
姉と弟、年上の女性しかも身近な存在だからなにもないわけがない。
僕がおろかになることを、あなたは許してくれるだろうか。
ごめんね。
僕は許していなかったんだ。
いつだって手が届く場所にいて、いつだって手を伸ばせずにいた僕を。
第一章
僕には、好きな人がいる。
僕の1歳年上で、かわいい声と、少し色黒だけど、スタイルの良い体つき。
抱きしめたくなるような腰まわりに、細くて本当に細くて、そして綺麗な指先。
どうしても抱きしめたくて、この腕の中に抱きしめてみたくなって。
それで、料理をしている彼女の背中に、手を回そうとしたこともある。
けれど、やっぱりできずにいるうちに、気配に気がついてしまったのか、彼女はこちらを向いた。
微笑んでいた。
僕は真っ赤になって、首を振って、そのまま自分の部屋に戻った。
僕の好きな人。
それは僕の――実の姉だった。
「おはよう、基樹(もとき)」
「ああ、おはよう姉さん」
「昨日は眠れた? まぁ、基樹のことだから、眠れたわよね?」
今日も姉さんの笑顔は、誰よりも輝いて見える。
僕にとっては、最上級のごほうびだった。
「パンとごはん、どっちにする?」
「ああ、俺はパンにするよ」
僕は、心の中では僕だけど、少なくとも姉さんの前では、俺と言っている。
かっこつけてるつもりはないけど、でも、やっぱりかっこつけてるのかもしれないな。
「……父さん、新聞はしまってくれないかしら?」
「ああ、そうだな」
食卓で、隣にいた父さんが、パンをかじりながら、新聞をしまう。
汚い話だけど、父さんはトイレでも新聞を読む。毎日新聞を読むことを日課としている僕にとって、その後で同じ新聞を読むのは少し気がひけるけど、でもやっぱり読むこともある。
蛇足だったかな。
「基樹。それにしても、髪切らないの? いつも思うんだけど」
「あ、ああ」
姉さんが、僕の長くなってひとつにまとめた髪を、なでてくる。
少しどきどきして、緊張する。
「さらさらしてて、すごく好きだけどね、基樹の髪」
そう言って、微笑んでる。
僕の平らな胸が、少し苦しくなった。
姉さんは……こんなこと考えるのも失礼だけど、姉さんは、胸が大きいほうだ。
見たことは、一度だけある。
お風呂で、間違えて、本当に間違えて見たことがある。
そのとき姉さんは、丁度お風呂から出るところで、裸でドアに手をかけて濡れた体のままたっていた。
僕はすぐに目をそらしたけど、どうしてもその身体を見ようとしてしまうので、大変だったのを覚えている。
「ああ、ありがとう」
「私も、もっと髪伸ばそうかなぁ」
「姉さんは、そのままでいいんじゃないかな?」
「そう?」
再び微笑んでくれた姉さんは、台所にもどっていった。
機嫌がよさそうに、鼻歌も歌っている。姉さんは、あまり歌がうまいほうじゃないけど。
僕達の家族には、母親がいない。
母親は、僕が小さいころに、死んでしまった。
ある病気で、姉さんがぼくの肩に手をおいてみつめる前で、死んでしまった。
父さんはすごく肩を震わせながら、涙をこらえてたけど、やっぱり泣いていた。
姉さんは、嗚咽しながら激しく泣いてたけど、でも僕はただ、それを見ていただけだった。
悲しいというより、人の死が不思議だった。
あとから悲しくなったけど。
それで、葬式のときに、少し泣いた。
姉さんは、弔問客に頭をさげながら、膝に両手をぎゅって押し付けて、涙を流していた。
「ああ、そうだ姉さん。今度、友達呼ぶつもりなんだけど」
「お友達? 海原(かいばら)くん?」
「ああ、それと、あと何人かなんだけどさ」
「もちろん良いわよ? 泊まり?」
「ああ、そうなるかもしれない」
と、姉さんとの会話に、父さんが割り込んできた。
「あまりはしゃぎすぎるなよ。隣近所に迷惑がかかるからな」
「ああ、分かってる」
あいまいにうなずきながら、僕は姉さんの揺れるエプロンのひもと、そして腰、それとお尻を見ていた。
話している間も見つめていた。目が離せなかった。
姉さんは、やっぱり鼻歌を歌いながら、包丁でにんじんをとんとん切っている。
今日の弁当かな。
僕は、姉さんを思い浮かべて、オナニーをしたことがある。
一度だけ見た、シャワーで濡れた、全裸の姉さん。
その姿のまま、ベッドで僕に抱いているシーンを想像して…。
最低だと思う。
けど、今もときどきしている。
エロ本を読むときよりも、姉さんを思い浮かべたほうが、興奮するのだ。
「……基樹?」
「! あ、ああ。なに、姉さん」
「ほら、できたよ」
想像の中の乱れた顔が、いつもの大好きな笑顔にクロスフェードした。
姉さんは、右手に菜ばしを持って、弁当を見下ろしている。
「ほぉ。今日はハンバーグか」
父さんがのぞきこむと、姉さんは少し得意げな顔でうなずいた。
以前、姉さんのいたずらで、その弁当のごはんの上に、ピンクのハート型のでんぷんをちりばめたことがある。
学校でフタを開けて初めて気づき、恥ずかしくて隠して食べてたけど、でも海原に見つかって、少しからかわれた。
姉さんは、ウィンナーを入れるときは、必ずたこの形にする。こだわっているみたいだ。
それも少し恥ずかしいけど、でんぷんのハートよりはマシだ。
「それじゃ、お父さんもうそろそろ時間だから、会社いかないと」
「ああ、そうだなぁ。でもその前に、トイレいかんとなぁ」
「お父さん……トイレ長いんだもの。私も入りたいんだけど」
どきりとした。
一瞬、姉さんのトイレしている姿を想像してしまい、あわてて頭をかいた。
「それからお父さん、新聞はだめだからね。他に読む人がいるんだから」
父さんは、新聞をやっぱり握っていたけど、仕方ないという感じで、机の上にぱさりと置いた。
「まったくもう」
姉さんは少し笑いながら、腰に両手をあてていた。
その抱きしめたらおれてしまいそうな細い腰に。
また見つめてしまいそうになって、僕はさりげなく腕時計に目を逃がした。
「ああ、そろそろ時間だな」
「そうだね。じゃあ、私もいくよ」
「あ、ああ」
毎日のように、僕と姉さんは、一緒に登校している。
恥ずかしいけど、友達にひやかされることもあるけど、やっぱりうれしいから、拒否できないでいる。
「じゃあ」
「そうだね」
姉さんは、淡いピンクのエプロンをはずして椅子にかけ、かばんを持った。
僕のかばんは、教室の机に入れてあるから薄いのだが、姉さんは毎日勉強するから、厚くて重い。
まるで僕の心のように、厚くて重い。
「じゃあお父さん、私達いくね?」
「ああ。いってらっしゃい」
父さんが、トイレの中で、くぐもった声で答える。
僕らは玄関のドアを開けて、いつもの通学路を進んだ。
「暑いね。やっぱり今日も」
「ああ、もうすぐセミのでるころだね」
「覚えてる? 基樹ったら小さいころ、私にセミつきだしてきて、驚かせたんだよ?」
「ああ、覚えてる」
あのころは、まだ恋心とは違って、姉さんを慕っていたから。
だからなのか、僕は姉さんに、自分のとってきたセミを、じーじーうるさくなくセミをつきだして、おもしろがっていた。
「あのときは、かなりおどろいたなぁ。でも基樹は、最近そういうことしないよねぇ?」
少し強く吹いた風にひらめくスカートを片手で抑えて、もう片方の手では、なびくさらさらの髪を押さえて、小首をかしげている。
「あ、ああ。俺も成長したのかな」
「そうだね。あのころの、ちっちゃな男の子じゃないんだもんね」
「あたりまえだろ。俺だって成長するよ」
「それはそうよね。でも基樹、基樹はどうして、勉強もしないのに、そんなに成績がいいんだろ?」
姉さんの話は、ときどきころころと変わる。
頭に浮かんできた疑問を、すぐに口にだす癖があることを、僕は知っている。
もちろん父さんだって、姉さんの他の友達だって、そんなこと知っているんだろうけど、できれば、気づいているのは僕だけであってほしいとも思っている。
自分だけが、姉さんの秘密を……。
「基樹? どうしたの? 考え事?」
姉さんが、僕の顔を、身体を少しかがめて、のぞきこんできた。
やっぱり、少しどきどきする。
やさしい風が吹いてきて、僕と姉さんの髪をふわりとゆらす。
「あ、ああ。少しね」
「基樹は考え事するの好きだよね。いつもなにか考えている。そういうところが、他の男の子より大人なんだね」
「どうかな」
僕は、肩をすくめた。
僕が大人なのか?
確かに、ときどきごくたまに、他のやつらが、子供じみて見えるときもあるけど。
僕の親友、海原ひとみは、違う。
あいつは、かなり大人だ。
いつもおどけたようなやつだけど――大人だ。
「でも、風があるだけマシだよね」
歩道橋の階段を登りながら、太陽のてりつける上をあおぎみて、片手を額にかざしている。
「そうだね」
暑いから、風があるほうがまだ涼しい、と言ったのだろう。
僕は、姉さんの言葉はすべて理解したかったし、それに、すべての言葉に返事をすることにしている。
姉さんは、とりとめもないおしゃべりが好きだから。
ばさばさばさっ!!
毎日のように、下駄箱から出てくる、何通かの手紙。
こっちは、ため息しか出せない。
この手紙をくれた人たちには悪いけど、ため息しか出せない。
それを拾って、ひどいかもしれないけど、近くのゴミ箱に捨てた。
姉さん以外の人間に、こんな手紙をもらってもうれしくない……はっきり言って、うざったいだけだから。
僕は、女の子がほとんどだけど、男からも手紙をもらったことがある。
僕のなにがいいんだかわからないけど、そういうことがある。
校舎裏に呼び出されて、付き合ってくれと言われたときは、正直気持ち悪かったけど
しかたがないから、付き合えないとだけ言って断った。
教室に入れば入るで、うざったいことが待ち受けている。
「おはようっ!! 基樹っ!!」
「ああ、おはよう」
級友の美奈子は、さっそくといった感じで、僕の髪をなでてきた。
こいつは、なにかというと、僕の髪をなでてくる。
「あいかわらず、さらさらじゃない?」
「どうかな」
「ったく、あいかわらず無愛想だね」
「ああ、悪いけど俺、早く机につきたいんだけど」
「あ、そうっ!! じゃあね。ああ、それと、今日もお姉さんと一緒に登校したわけ?」
「それじゃあ」
僕はそれだけいって、美奈子の隣を通り抜けた。
何人かの女子や男子に挨拶をして、席に着く。
「石川(いしかわ)ーっ!!」
「……………………」
「なんだよ? また無愛想なやつだな」
同じく級友の大石(おおいし)が、後ろから僕に抱き付いてきた。
こいつは大抵僕が登校してきたときに、抱きついてくる。
なんなんだこいつは。理解不能だ。
こいつは女好きだから、なんども他の女子に抱きついては、ビンタくらわされたり、すけべとか怒鳴られたりしている。
僕にはできないし、したいとも思わない。
姉さんは別だが、他の子には興味がない。
こいつは、それでもこりずに、にやにや笑いながら「あいつのスリーサイズは……」とか楽しそうに話している。
僕は、姉さんのスリーサイズも体重も身長も、すべて知っている。
心の中だけでも、自分の心の中だけでも、姉さんを自分のものにしたいから、姉さんに関することはすべて知っていたいのだ。
「お前、男にしては、ほせぇ腰してるよなぁ? なんで学ラン着てんのに、腰がひきしまってるんだぁ? お前実は女? 女だったら、一度お願いしてぇんだけど」
「違うに決まってるだろ。あほか、お前」
「そうだよなぁ。一緒に便所行ったことあるもんなぁ」
僕は、こいつの話を聞き流しながら、かばんを机横のつるしにかけた。
「……そういえば大石、今日は海原はどうしたんだ?」
「ああ、遅刻じゃねぇのか? あいつ、大抵遅刻するから」
「ああ、そうか」
「んじゃあなぁ」
大石がいなくなってからしばらくして、担任がやってきた。
やっぱり海原は遅刻か。
またへらへらしながら、頭掻きながら教室のドアを開けて、ごめんごめって中に入ってくるんだろうな。
にくめないのは当然だろう?
海原も顔がきれいだから、もてる。
特に、年下の女の子にもてる。
だけど、僕と同じように、恋人をつくらない。
誰か好きなやつでもいるのだろうか。これはプライベートなことだから、聞いたこともないけど。
担任が教壇に着くと、ざわついていた教室は、静かになった。
ときおり、女の子の少し耳障りな話し声が聞こえるけど、それもまぁ気にしなければたいしたことはない。
姉さんのおしゃべり好きにはつきあうけど、他の女の子のおしゃべりは、ときどきうざったく感じる。
男は目的を持った話をするらしいけど、女は、目的なしに話すらしい。
どこかの本に書いてあった。
「それじゃあ…」
担任がそう口を開いたちょうどそのとき、がらがらがらっ!と、静かだった教室に、すこし下品な音が響いた。
皆いっせいに、後ろを振り向く。
「すんませーんっ! 遅刻しましたぁ」
やっぱり海原だった。へらへらした笑みをうかべて、片手で空気をつつくようなしぐさをして、頭を軽く何度もさげている。
「またか海原。本当にお前は、遅刻魔だし宿題は忘れるし……」
「すんませーんっ!!」
今度は頭を掻いている。
クラスメートの失笑も買っている。
僕だったらすごく恥ずかしいのに、海原は別に気にした様子がない。
そういうとこ、大物だと思う。
「いいから座れ。授業が始められんだろ」
「はーいっ!! あ、わるいね。ちょっと椅子ひいてくれる?」
海原は、自分の席にむかって歩いていった。
そして、退屈な授業が始まる。
たぶん学級委員ぐらいのものだろう。
この教室の中で、授業を退屈だと思わないやつなんて。
こつんっ……。
「ん?」
僕の頭に、なにかが軽く当たった。
後ろを振り返ると、二席ほど後ろの席の海原が、遅刻したときと同じように手を突き出して、何度か振りながら、笑顔を送っていた。
僕は、床に落ちた、丸まった紙を、手を伸ばして拾い、机に両肘をついて開いた。
『今日弁当忘れたんだけどさ。基樹の弁当わけてくんない? 俺、今金ねぇんだよ。な? 頼むよ?』
文末には、海原のニコちゃんマークが付いていた。
ちょっとため息をつく。
本当は、姉さんの作った弁当を、他のやつに食べられるのはいやだけど、海原が困っているんなら、わけるしかないだろう?
僕は『了解』とだけ手紙に書いて、海原に投げ返した。
丸まった紙は、弧を描いて、海原の額に見事命中した。
海原はおおげさに、ぶつかった瞬間に頭をひいたけど、それも海原らしいしぐさだった。
昼休み。
僕は、自分の机で、弁当を広げた。
海原は、短いほうの机の端に、椅子をくっつけて、へらへらと笑顔を浮かべながら、僕が弁当を広げるのを待っている。
「悪いな。基樹」
「いや。別にかまわないよ」
「そかそか」
本当は少しかまうけど、海原を目の前にして、そんなこと愚痴っても意味がないだろう。
僕は、包みの青いハンカチの結び目を解き、フタを開けた。
フタには、少しの米粒が付いている。
「おおっ!あいかわらず、真紀(まき)さんの弁当は、うまそうだなぁ」
おおげさに、声をあげる。こいつは、動作が大抵おおげさだ。
「ああ、まぁな。姉さんは、料理つくるのうまいから」
料理がうまい理由は、海原も知っていた。
「そういえば、真紀さんは毎日飯作ってんだよなぁ。大変だよなぁ。基樹とおやじさんのぶんだろ? 毎朝早く起きて、そんで、三人分の弁当作ってかぁ。感謝しろよ? 俺が言うことじゃねぇけど」
「ああ、そのつもりだよ。だから、嫌いなものでも全部食べてる」
「お前、嫌いなもの多いもんなぁ。」
「海原だって、肉が嫌いだろ?」
「まぁな。あれは食えないな。いくらかわいい女の子の頼みでも、基樹の頼みでも、あれは食えない」
「頼まねぇよ、そんなこと。海原のイヤなこと頼んで、どうするんだ?」
「やっぱ、お前はクールで無愛想だけど、やさしいよなぁ」
「普通だろ? クールで無愛想は、あたってるけどな」
「まぁなぁ」
「なぁに? 二人でひとつのお弁当」
美奈子だ。また来たか。
「ああ、別にいいだろ?」
「いいけどさぁ。真紀さんのお弁当なわけだ」
「まぁな」
「ふぅん。真紀さん、料理うまいわね」
そういえば、こいつはクッキングクラブだったな。何度か自分が作ったというクッキーなんかを渡されて、一応口には入れた。
でも、姉さんの作ったクッキーのほうが、数倍うまい。
シスコンとは違う。本気で好きなのは、確かだから。
からからから。
海原とは違い、静かに扉を開ける音が響いた。
今は昼休みで、皆食べるのに夢中だから、振り返ったのは、僕ら三人を含めた数人だけだ。
姉さんだった。
僕は立ち上がり、姉さんを見つめた。
姉さんは、すぐ近くに座っていた女の子に、頼み込んでいる。
「あ、悪いんだけど、基樹よんでくれる? 石川基樹くん」
ドアから少し離れているとはいえ、直接僕を呼べばいいのに。
大声をだすタイプじゃないからな。姉さんは。
「石川くーん。お姉さん、来たよぉ?」
なんでこの子は、僕の姉さんのことを知っているんだろうか。
大石や海原と話しているのを、聞かれたのかも知れないな。
僕は弁当をそのままにして、机から離れた。
さっきより、多くの視線を感じる。
姉さんも、ほとんど皆に見られている。
別にぼくの勝手な心の中だけの姉さんだから、それはしかたがないけど、でも気分はよくない。
戸口に近づいて、開かれたドアに手を置いて顔を少しさげると、姉さんは少し顔を紅潮させ、僕を見上げた。
「あ、あのね」
二人の身長差はほとんどわずかだけど、少しだけ僕のほうが高い。
昔は姉さんのほうが高くて、僕は頭をなでられたりして喜んだこともあったけど、でも今は僕のほうが背が高い。
僕は、姉さんの前ではあまりしたくない不機嫌な顔を浮かべて、姉さんを見つめて口を開いた。
「ここには来ないでくれって言っただろ?」
「あ、ご、ごめん。でも、ちょっと頼みごとがあって」
姉さんが罪悪感を抱いた顔をしたので、僕も同じように、罪悪感で胸を少しだけだけど痛めた。
「別に、どうしてもならかまわないけど、なるべくなら来ないでほしいんだけど」
あわてて言葉を捜してしゃべった。
早く否定しなくては、と心の中で少しひやひやする。
「あ、あのねぇ。えと」
「どうしたの?」
クラスメートの視線を感じる。
「うんと、辞書貸してくれないかな?」
「辞書?」
「うん。赤いやつあるでしょ? 私と一緒に買ったやつ」
「ああ……」
雨の日の6月、僕は姉さんと本屋に行った。
学校帰りに一緒になることはめったにないけど、そこで僕は、姉さんと一緒の辞書を買った。
でも、姉さんが忘れ物をするのはめずらしい。
姉さんは毎日忘れ物がないか確認するタイプだったし、宿題だって、夜中までかかっても、すべてちゃんとやってくる。
僕が、遅いからもう寝たらと言っても、もう少しがんばりたいと言うのが大抵だった。
姉さんはがんばり屋だから、少し休んでほしいんだけど。
「わかった。少し待ってて」
「うん。ごめんね」
いいや」
教室に視線を移すと、すぐに視線をはずすやつや、にやにやしているやつらの顔が目に入った。
でも気にしないようにして、自分の机――海原と、ああ、まだいたのか美奈子――に戻った。
「真紀さん、忘れ物? うっかりものなのね」
「めずらしくねぇかぁ? 真紀さん、しっかりしてるのに」
さっそく、なんか言ってくる。
「あれで少しドジなところがあるから、自分では気をつけているつもりなんだろうけど」
「さっすがだな。よく見てるよ」
「別に」
そうとだけ答えて、自分の机をあさり、辞書をみつけて、再びクラスメートの視線を受けながら、姉さんの元に寄った。
「シスコン」
美奈子のつぶやきが耳に入った。
シスコンとは違う。本気の恋なのだから。叶わないかもしれない恋なのだから。
「あ、ありがとう基樹。助かったよ」
「ああ、これからは気をつけなよ」
最後のは余計だったかな。
まぁ一度口にしてしまった言葉は取り消せないから、しかたがない。
「えへへ。うん」
かわいく笑ってる。
くそっ。他のやつのいる前で笑うなよ。
僕だけに、その笑顔を見せてよ。
そうしてくれれば、なんだってするのに。
姉さんは、去っていった。
スカートを翻しながら、急いだ様子で。
僕が振り返ると、とたんに誰かの、ひゅーという口笛が届いた。
そいつのことを軽くにらみ、そいつが肩をすくめて縮みこむのを目の端にとめながら、僕は机に戻った。
体育。
別に嫌いじゃない。身体を動かすのは好きだから、むしろ授業の中で、一番好きなんだろう。
今日は鉄棒だった。
身長より大分高めの、まっすぐ伸びた鉄棒。
先に二十回、懸垂をやらされた。
できなかったやつは、まだ端にある鉄棒にしがみついて、うんうんうなっている。
僕と海原は、一番に終えることができた。
「そんじゃあ次は、石川な」
「はい」
体育教師に呼ばれた僕は立ち上がり、砂を払ってから、鉄棒に近づいた。
……視線を感じる。
いつもそうだ。
体育をしているとき、短パンになっているときは、こうした視線を感じるときがある。
学ランを着ているときも、ときどきそうだけど、体育のときは特に感じる。
くそっ!!
僕なんか見て、なにが楽しいんだ。
「あの腰がいいよな……」
「それとあの太ももなぁ……」
男子生徒のヒソヒソ声が聞こえ、にらみつけようかと一瞬思ったけど、でも今は鉄棒をつかむのが先だから、やめておいた。
ジャンプして鉄棒をつかみ、くるりと一回転した。
それから何回か回転し、ころあいを見計らって、着地する。
まばらな拍手。
「よし、じゃあ、次は飯岡な」
体育教師の声を背中に聞きながら、僕は自分の場所に戻って、体育すわりをした。
海原が、軽くピースサインをしてきたので、うなづいておいた。
放課後。
これで、退屈な授業からも解放される。
かばんは、朝来たときと同じで、うすっぺらい。
いつものことだ。
「ああ、んじゃあ帰ろうぜぇ? 基樹」
「ああ」
海原とは、毎回のように一緒に帰っている。
僕はテニス部だけど、気がすすまないので、ほとんど行っていない。
海原は、熱心にバレーボール部ではげんでいて、ときどき体育館を通ったときに見かけるけど、とても真剣な顔をしてアタックを打ちこんでいる。
そういうところが、後輩に慕われるんだろう。
「それじゃあ皆様さようなら~!」
海原が、残っている何人かに手を振って、陽気に口を開いている。
僕もそれにならって、少しだけ口を開いた。
「さよなら」
何人かが、手を振えすのを見てから、僕らは廊下を二人で歩いた。
ときおり何人かが、こちらを見て話しているのが見えたけど、僕は無視していたし、海原は鼻歌を歌って通り過ぎていく。
しかし、偶然に出くわしてしまった担任は、無視するわけにはいかなかった。
「海原に石川。今から帰りか? 部活はどうした?」
「今日はないんすよぉ」
「ああ、そうか。まぁ大石はともかく……石川。お前の部活態度は、少しひどくないか?」
「別に」
「部の先生が、ぐちっていたんだぞ? お前があまり部にこないと」
「あとであやまっておきますってさ。なぁ? 基樹」
「あ、ああ」
僕が口を開く前に、海原がフォローしてくれた。
こういうところが気がまわる。
初対面ですぐに、なぜか意気投合したのを覚えている。
僕とはタイプが違って陽気で明るいはずなのに、なぜか息があった。
「あ、基樹に、海原くん!!」
夕方の赤い日差しがさす、通学路を歩いていると、姉さんが、走って近寄ってきた。
かばんを片手にもって、風になびく髪をおさえながら。
「ああ、真紀さん」
「姉さん」
「今、帰り? ちょうどよかった。私も帰るところなんだぁ」
姉さんは、はぁはぁと息を切らしながら、笑顔で口を開いた。
「奇遇っすねぇ。めずらしいんじゃないすかぁ?」
「いつもこうだといいんだけどねぇ。私もクッキング部があるから……まぁ、火曜日しかやってないけどね」
やっぱり笑顔で答える。
たとえ海原でも、姉さんの笑顔をうけるのは、少しむっとする。
少しだけ、だけど。
「じゃあ真紀さん、帰りましょうかぁ?」
「ああ」
割り込んで、僕が返事をしてやった。
それから、とりとめのない、僕にとっては楽しいおしゃべりをしながら。
日に染まる通学路を歩いていた。
「……あ、そうだ。これから、ゲーセンいきませんか?」
海原が、誰ともなく提案する。
顔は笑顔で、少しだけ、良いことを思いついたという表情で。
まぁ敬語なわけだから、たぶん姉さんに向かって言っているんだろうけど。
「え? でもまだ制服だし、下校の途中だよ?」
「いいじゃないっすかぁ、ね? 真紀さん。基樹もいくだろ?」
「ああ、俺は別にかまわないけど」
「じゃあ決定!! いいっすか? 真紀さん」
「うん。それはいいけど、でも、とりあえず服を着替えてからにしようよ?」
「そうっすね。そうしますか。んじゃあ、ゲーセン前に待ちあわせということで」
「ああ」
「うん!」
いつのまにか、僕達三人は、ゲーセンにいくことになった。
ゲーセン内。
ぴこぴことうるさい音が鳴り響く、たばこ臭い人ごみをとおりぬけていく。
僕と海原は、ときおり学校帰りとか土曜や日曜にくることがあるけど、姉さんは、もしかしたら初めてなのかもしれない。
きょろきょろしながら、少し不安そうな顔をして、僕らのあとをついてくる。
片手は口にあてて、もう片方は僕の服のすそをつかんで。
僕らは、まずUFOキャッチャーに向かった。
これなら見ているだけでも結構楽しいし、ゲーセンに慣れていない姉さんでも、楽しくなるんじゃないかと思ったのだ。
ピンクの枠の、四角い筐体・UFOキャッチャーの、プラスティック製のガラスに手をつきながら、僕は姉さんに百円玉を渡しながら、提案した。
「ほら姉さん。姉さんが、まずやってみなよ」
「え? で、でも私、やったことないし、二人が先にやったほうが」
「そうっすねぇ。じゃあ俺が先に」
ちょっと失敗した。
そうだよな。先に経験者がやっているのを見てからやったほうが、やりやすいか。
少し後悔した。気がきかなかった。
よく美奈子にも、基樹は鈍感だと言われる。
海原は、百円玉をいれて、レバーを操作した。
「真紀さん、どれがいいっすかぁ? 俺得意だから、とれると思いますよ?」
「あ、ありがとう。それじゃあ……あのブーさんがいいなぁ」
姉さんは、熊のプーも好きだから、何個かぬいぐるみを部屋に飾っている。
子供っぽいかなと、テレながら赤い顔をしていたけど。
女の子の部屋は、あまり行ったことないけど、こんなものなんだと思うんだけどな。
そのとき姉さんは、その熊のプーを抱きしめていて。
変形した熊の黄色い顔と、姉さんの照れた顔が、妙に印象に残っている。
「……ぁっ、だめかぁ」
また、大分考え事をしていたようだった。
気がつくと、海原が隣で、残念そうな顔をしてつぶやいていた。
「残念だったねぇ」
「そうっすねぇ。真紀さんにプレゼントしたかったのになぁ」
「いいよ。気にしないで」
「でもプーさん好きなんでしょ? そうだ、基樹やれよ」
「あ、ああ」
そうだな。姉さんの喜ぶ顔は、すごく見たい。
僕もレバーを操作した。もちろんその前に百円玉を入れて。
「よく狙えよ?」
「ああ」
「あ、とれるかなぁっ!!」
なんとか、レバーを細かく操作して、目的の姉さんが欲しいといっていた、熊のプーを狙った。
そして。
「やったぜ!!」
「きゃっ!! すごいすごい!!」
「……ああ」
二人が喜んでいる中で、一人だけさめているのも変だけど、僕はあまり感情を表にださないで、どうしてだか無意識に抑えてしまう癖がある。
これは、担任や他の教師にも言われたことがあるけど、すでに身についている癖だから、直すのは難しい。
とにかく僕は、見事姉さんの欲しがっていた、熊のプーを手に入れた。
「はい。姉さん」
少し照れくさかったけど、ぬいぐるみを軽くつかんで、姉さんに手渡した。
姉さんは笑顔をうかべて、そのぬいぐるみを腕にひきよせた。
「ありがとうっ!!! うれしいよっ!! 基樹っ!!」
「いいなぁ。そのプーのやろう。俺も、真紀さんに抱きしめてもらいたい。なぁ? 基樹?」
「お、俺は別に」
抱きしめてもらえたら、うれしいのは確かだけど。
やっぱりうるさい。さわがしいというより、うるさいというほうがあっているゲームセンター内で、僕達は、今度は格闘ゲームに挑戦することにした。
姉さんは、やっぱりゲーセンは初めての体験らしく、格闘ゲームのこともよく知らないらしい。
前に何度か、僕の持っているプレステやセガサターンで一緒に遊んだこともあるし、父さんを交えたりして、見学していたこともある。
なんだか、自分だけがゲームに集中するのがはずかしくて、少し背中がぞわぞわした。
「じゃあ姉さん、ここに座りなよ」
そう言って、姉さんの肩を、なるべくやさしく触った。まだ、姉さんの肩を触るときは、少しどきどきする。
「う、うん。じゃあ」
さっき一度、僕と海原の対戦を見ていた姉さんは、今度はすんなりと、小さくて丸いゲームセンター独特の椅子に座った。
「わかると思うけど、ここに金いれてから、このボタンを押して、それからこのレバーと四つのボタンで操作して」
「う、うん。できるかなぁ。どきどきするなぁ」
「そんなにおおげさなものでもないよ」
自然と笑みがでる。
「ほんじゃあ、OKっすかぁ? まず俺が先にスタートさせますよぉ?」
向こう側の対戦台にいた海原がスタートボタンを押すと、じゃらーーんっ!!と鳴った。
「あっ、始まったみたいだね」
「ああ、それじゃあ、姉さんも金いれて」
「うん」
姉さんはかがみこんで、金をいれる細い入り口に、ちゃりんと50円玉をいれた。
余談になるけど、ここのゲームセンターでは、ほとんどの格闘ゲームやパズルゲームや麻雀ゲームが、50円でできる。それがこの混雑の原因でもあるけど、長所と欠点というやつだろうか。
「それじゃあ、このスタートボタン押して」
「うん」
姉さんが、スタートボタンを押して、それから対戦が始まった。
「うぁっ、うぁうぁっ!!」
姉さんが、あせっている。やっぱりかわいいけど、少しおもしろい。
「な、なになになに? どこを押せば、なにがでるの?」
「これが、パンチ、これがキック。レバーを半分だけまわしたあとに、このボタンを押せば、技がでるんだよ?」
「わ、わかった」
姉さんは一生懸命な様子で、俺の言ったとおりの操作をしている。
小指が立っていて、姉さんらしい。
それに、手がほとんど平たく開かれていて、ぱちぱちって感じにボタンが押される音が、小さく聞こえる。
「う、うーん!?」
やっぱり、始めての人間にはむずかしいか。
俺だって、海原に初めてここにつれてこられたときは、かなりの音にちょっとびくついたし、対戦ゲームも全試合負けていた。
その後くやしくて、何度かここに来た。おかげで常連になって、店員ともときどき話をしたりする。
……まただ。
これだけうるさくて、たばこくさい不快でもあるこの場所が、こうして人のゲームを観戦していると、ときどき対戦している人物と自分だけの世界に入り込むときがある。
うるさく鳴り響くゲームの音が、小さく聞こえ出して、そして二人だけの世界をつくりだす。
こんなときが、ゲームセンターに限らず、ときどき起こる。
おおげさでもなんでもなく、そういうときが、確かにあるのだった。
このときは、姉さんのガッカリした声のおかげで、我に返ったけど。
「あ。うーん……」
「やっりぃ! とりあえず俺と真紀さんの勝負は、俺のかちっ!!」
「あははっ。やっぱりね」
「なによぉっ!! 基樹、笑うことないでしょっ!!」
「いいじゃないか。負けて当然なんだからさぁ。初心者なんだから。僕だって、最初は負けっぱなしだったんだぞ?」
「ふぅん。だめよぉ、あんまり学校帰りにここに来たら。ちゃんと服を着替えなさいっ!! まだ学生なんだからっ!!」
「へいへい」
肩をすくめておどけつつ、そう答えておいた。
まぁ心得ておきます。
「んじゃあ、今度は基樹と俺の対戦なぁ!!」
海原が、彼独特の大声をはりあげて、ゲーセンの対戦台から顔を出した。
「ねぇねぇ、彼女かわいいねぇ?」
「え?」
「ここでなにしてるの? 彼氏と来てるわけぇ?」
「ち、違います。弟と」
「へぇえ? そう、じゃあそいつと俺らが戦って、勝ったら俺らと遊ぼうよ?」
「い、いえ結構ですから」
「いいじゃんいいじゃん? 遊ぼうぜぇ? きっと楽しいよぉ」
ゲームセンターの階段のところで休んでいる姉さんに、ジュースを持ってきたところで、知らない男二人にナンパされているところを見つけた。
海原は、ギルティギアに夢中だ。
「はぁ~……」
ため息がでる。時折こういう場面を見かけるけど、姉さんは顔がかわいいからな。
スタイルもいいし。
「ちょっと、あんたら」
「あ、基樹」
「あ、基樹ぃ?」
「女みてぇな名前だなぁ?ってか、あんた女かぁ」
こんな男どもの声に、貸す耳はない。
「行こう。ジュース買ってきたから。姉さんはオレンジジュースだよね」
「あ、う、うん。」
三つのジュースを、なんとか右手に持ち替えて、姉さんの手をとった。
姉さんが、少し強めに、俺の手を握り返してくる。
「ちょっとちょっとぉ、だめじゃん? 俺ら今、この子と話してるんだからぁ」
「そうだぜ? 君も美人だし、俺らといっしょに遊ぼうかぁ?」
「…………」
さて、どうやっておっぱらおうか。
殴るのは、俺の気持ち的に、そういう気分じゃないし。
かといって、言葉で通じるだろうか。
こいつらに。
「おーい。なにしてんだぁ?」
「あ、海原くん」
姉さんが、俺に手をとられながら、海原のほうを見た。
その目が、助けてくれと言っている。
……俺だけじゃあ、力になれないってのか?
「どうしたんすか。……なんだ? お前ら」
「……こいつは男だな。顔は綺麗だが、男だ」
「んだな。じゃあ、こいつが弟か」
どうでもいいことを話しあっている。
「ふぅん、そういうことか。お前ら。ナンパってやつか」
男どもは、海原を姉さんの弟と、決めつけてしまった。
「弟くん。悪いんだけど、あんたの姉さん貸してくんない? ついでに、このべっぴんさんの子もさぁ?」
「悪いようにはしないから。必ず喘させてやるからさぁ……」
ばっしーんっ!!
狭い階段下だったけど、僕は思わず殴りつけていた。
この男の「喘ぐ」ってところで、がまんができなくなっていた。
「な、なにしやがる」
「最低やろう! 自分のちんぽでもしゃぶってろ!」
「てっめぇえっ!!」
殴ったほうとは別の男が、俺の胸倉をつかんでくる。
俺は、そいつをにらみつけた。
鼻と鼻がくっつくぐらいに、顔が近づく。こいつの口臭が鼻について、気分が悪い。
とても悪い。
「んだよっ!! その目はよぉっ!!」
「……やめておけよ。基樹は、力強いんだからよぉ?」
せっかく海原がそう言ったのに、男はまだ口臭を俺にかけ続ける。
「はなせ」
「うらああっ!!」
ばっしーんっ!!
殴りかかってきた。
身体がふっとぶ。
対戦台に、背中からぶつかる。
殴られるより、そっちの背中のほうが痛かった。
「も、基樹っ!!!」
駆け寄ろうとした姉さんを手でさえぎってから、俺はまた男をにらみつけた。
「……お前みたいなやつを、最低やろうっていうんだな」
「ああ、そりゃ納得。ナイスな発言だな。基樹」
海原がニヤニヤうなずくと、男はますます頭に血をのぼらせたらしい。
「てめぇっ!!」
対戦台に倒れこんだままの俺の胸倉を、またつかみかかってきて、右手を頭の上高くまであげてきている。
俺は、相手の目をじっと見つめた。
今日一番怖い顔になるようにと。
そこへ、よく知った乱暴な声が割り込んできた。
「おらおら、やめろ。ここで喧嘩するな。お前ら警察よぶぞっ!!」
「あ、タカさん」
店員で、よく話もするタカさんに、海原は軽く頭を下げた。
タカさんは、俺と違ってがたいもいいから、大抵の相手はびびるだろう。
「ほら、お前らでてけよ!!」
「……ちっ」
「もう二度とこねぇよっ! こんなところっ!!」
「ああ、そうしてくれ」
男たち二人は、捨て台詞をはきながら出ていった。
汚いつばを、俺の顔に吹きつけてから。
「だ……大丈夫? 基樹ぃ……」
姉さんが、スカートのポケットからピンクのハンカチを出してきて、俺の顔についた、汚いつばをぬぐいとってくれる。
海原もしゃがみこんで、俺を気づかっている。
そんな俺達を見下ろすようにして、タカさんは言った。
「悪いが……お前らも、ここにはもう来ないでくれないか?」
「ええ? だって、あいつらが先に真紀さんをナンパしてきたんだぜ?」
「とにかく、ここでもめごとはご法度なんだ。さぁ、帰れ」
「はい。すいませんでした」
「も、基樹……あ~あ。これで、遊び場がひとつ減ったか」
「……さぁ、帰ろう基樹。背中、大丈夫かな?」
やっぱり姉さんは、俺のことを良く見てくれているようだ。
俺が、殴られた頬よりも、背中のほうを痛いと感じていることが、わかっているらしい。
……俺、か。僕は、いつの間にか、自分を「俺」と呼んでいたんだな。
「ごめん、二人とも。俺のせいだな」
「んにゃあ。あいつらがバカなだけで、基樹のせいじゃねぇよ。お前は、愛する真紀さんを守っただけだろ?」
愛する。ね。
あたってはいる。
「基樹、あとで背中みせてね? あざになってないといいんだけど」
「あ、ああ。ちょっとそれは」
「はずかしいっすよぉ? 年頃の男子としては、姉さんでも、いや、姉さんに背中みせるのは」
「そうかなぁ。でも、シップぐらいは貼るんだよ?」
「ああ、そうしとく。あとで自分でやるよ」
「俺がやってやろうかぁ? ひさしぶりに、二人で風呂にでもはいろうぜぇ? 銭湯にさぁ?」
「ふふっ……いいね」
二人でって海原は言ったのに、なぜか姉さんまで、話にのってきた。
「よっしゃ、これから銭湯いくかぁ? 三人でさぁ? 金はあるんだし、タオルとか、一通り銭湯にもそろっているだろうから。よぉ? どうだ?」
「うーん。そうだねぇ。基樹もほこりっぽくなってるし。たばこの灰が、肩にもかかってるし」
「ああ、俺はべつに」
「んじゃあ、いこうぜぇん」
海原は頭に両手を置いて、姉さんは手を唇にもっていって、僕はまだ痛んでいる背中をさすって。
三人は、暗くなった道路を歩いて、銭湯に向かった。
「けっこう近くにあったなぁ」
海原がズボンを脱ぎながら、言ってくる。
「ああ、そうだな。安いし、丁度いいな」
僕も、短パンを脱ぎながら、返事をした。
「そんじゃあ、行くか。なんてったって、今からでも楽しみなのは、風呂上りのコーヒー牛乳だなぁ」
「俺はフルーツ牛乳だな。姉さんは、ただの牛乳」
「ああ、そ。良く把握してるわけだ」
「ま、まぁな。いっしょに暮らしてるわけだしな」
別にこれぐらいはなぁ。姉さんは、毎朝一杯の牛乳を飲むのが好きらしいし。
「……ん?」
海原が、俺の顔をじっと見つめていた。
「どうした?」
「いいやぁ。別に」
「ふぅん……」
服を脱ぎ追えた僕達は、湯船につかった。
「っつ……」
「やっぱ、痛むのか?」
湯船の中、海原は、おやじのように頭にタオルを置いている。
僕はただ、湯船につかっているだけだ。
海原が、俺の背中を手でさすってくる。
やっぱり、ついさっきのことだから、背中は痛い。
顔は、全然はれてもいないけどな。
「……おまえって、本当に肌白いよなぁ?」
「海原のほうが白いだろ? なに言ってるんだよ」
「そのかわり、俺の顔には、ほくろがたくさん。美の化身の俺にとっての、唯一の悩みだな」
「ははははっ。あほ」
「へへへっ」
ばかな冗談で、なんだか痛みを忘れかけた、そのときだった。
「ねぇ~! 基樹ー、海原くーん!!」
ばしゃっ!!
姉さんの、壁越しのくぐもった声が聞こえてきて、あわてて湯船に入り込む。
なにも別に、姉さんが俺らの前にいるわけでもないんだけど。
反射的にだ。
「はぁい? なんすかぁ?」
「ね、姉さん。男湯なんかに話かけるなよっ!!」
俺にしては、めずらしく声をあらげた。
顔があつくなる。たぶん真っ赤になっているはずだ。
「あのさぁ! そっちにセッケンあるかなぁ?」
「ああ、あるっすよぉ。投げますかぁ?」
「うん。お願い」
海原が、セッケンをつかんで、何のテレもなく女湯に投げ入れた。
ぽーんっ
「あ、きたきた。ありがとうっ!!」
「いいえーっ!! ……なぁなぁ、基樹くん?」
海原が、俺の裸の肩に、がしっと手をまわしてきた。
「な、なんだ?」
基樹クン? めずらしいな。
「真紀さんは、今ドコを洗っていらっさるのでしょうかぁ? 1.胸、おおっ? 2.背中、んー? 3.肩、うーむ?」
「し、知るわけないだろっ!!」
「よっしゃ、質問コーナーっ!! 真紀さぁんっ!!」
なっ!
「なぁにぃ!?」
わぁ!
呼びかける海原も海原だが、答える姉さんも姉さんだ。しかも、あんなに声をはりあげて。
やめてほしいんだが。男湯中の視線をあつめているのがわからないのかよ、この二人は。まったくもうっ!!
「今、真紀さんは、どこを洗っているんですかぁっ!!」
「え?」
「1.そのうるわしい顔、2.その透き通るようなちと色黒のお腹、3.そのくるおしいほどせつない、足! どれっすかぁ?」
「え、えと、答えるべきなのかなぁ? これはぁ」
「ええ、ぜひっ!! 基樹が、どうしても聞きたいとダダをこねつつ、足を振っているわけでして」
「こねてねぇっ!! 足なんか振ってねぇっ!!」
「え、えとぉ。正解は……お腹ですけど」
「おおっ!? あそ……」
ぼかっ!!
海原の頭を、軽くこずいた。
海原のへらへら笑いが、斜めにかしげる。
「……わりぃわりぃ。ふざけすぎたな、俺も」
「も、じゃねえ! お前しかふざけてないだろっ!! それに姉さんも、そんなこと答えるな!! ばかっ!!」
「ひっどいなぁ。基樹が聞きたいっていうから、答えたんだよぉ?」
「俺は聞きたいわけじゃないっ!!」
「ふふふっ」
「ふふふっ」
「二人そろって、気持ちわるい笑い方すんなっ!!」
「そ、それはひどいよぉ、基樹ぃ~。私、“うふふ”ってなりそうだったのを、こらえたんだよぉ?」
「ち、ちがうっ!! 海原のことだよっ!!」
「へえへえ。わぁったよ」
乱れっぱなしの僕を見て、すっかり気が済んだのか、海原は素直になっていた。
「ったく!!」
「ったく、はずかしいやつらだよ」
俺は、まだぶつぶつ言いながら、買っておいた下着に足をとおした。
「まぁなぁ。それは認める。だが、お前の姉さんは、はずかしくないなぁ」
「今回はわからん」
「ふははははっ!!」
笑いごとじゃないって。
「ったく……。それじゃあ牛乳買って、出るか」
僕は、アイス入れのような冷蔵庫から、牛乳を二本とりだした。
俺はフルーツ牛乳を、海原にはコーヒー牛乳を。
なんだか懐かしい。よくプール行った帰りのそば屋でこれを食べたりしていたものだった。
「よっしゃっ! いっきのみぃ~」
海原は、お決まりのポーズのごとく、腰に片手をあてて、ごくごくと飲み干している。
俺も、同じように、腰に片手をあてて、飲み干してから、わずかのお金を払って、男湯から出た。
姉さんが、待っていた。
「あ、姉さん。先に出てたんだ?」
「あ、うん」
「真紀さん、牛乳は飲んだんでしょ? 当然ですよねぇ」
「あ、飲んでない」
「そうなの?」
「うん。女湯混んでたし、だから飲んでない」
「それはいけねぇや。銭湯に牛乳は、必須でしょう?」
「そうなの?」
「そっすよぉ? 飲まないと、のどから血をはくらしいっすよ?」
「え? うそでしょ? いやだなぁ」
「うそに決まってるだろう……」
「そらそうだっ!! うっははははっはっ!!」
ったく。何度「ったく」って言えばいいんだよ。
「♪浴衣のきみぃはすすきのぉかんざぁしぃ、ひょっとことぉどんぐりしばいてぇ……」
ぜんぜん歌詞が違うのは、気のせいじゃないはずだ。
姉さんもくすくす笑っている。
ひょっとことどんぐりを、どうやってしばけるんだ?
「海原くんは、あいかわらずおもしろいねぇ?」
むっとする。
少しだけどむっとした。
「へへへっ!! これがおいらの特徴っすからねぇ」
海原は相変わらず、頭の上に器用にタオルを載せながら笑ってる。もちろんへらへら笑いだった。
これで下駄でもはけば、ちょうどいいんだろうけどな。
つづく
僕がおろかになることを、あなたは許してくれるだろうか。
ごめんね。
僕は許していなかったんだ。
いつだって手が届く場所にいて、いつだって手を伸ばせずにいた僕を。
第一章
僕には、好きな人がいる。
僕の1歳年上で、かわいい声と、少し色黒だけど、スタイルの良い体つき。
抱きしめたくなるような腰まわりに、細くて本当に細くて、そして綺麗な指先。
どうしても抱きしめたくて、この腕の中に抱きしめてみたくなって。
それで、料理をしている彼女の背中に、手を回そうとしたこともある。
けれど、やっぱりできずにいるうちに、気配に気がついてしまったのか、彼女はこちらを向いた。
微笑んでいた。
僕は真っ赤になって、首を振って、そのまま自分の部屋に戻った。
僕の好きな人。
それは僕の――実の姉だった。
「おはよう、基樹(もとき)」
「ああ、おはよう姉さん」
「昨日は眠れた? まぁ、基樹のことだから、眠れたわよね?」
今日も姉さんの笑顔は、誰よりも輝いて見える。
僕にとっては、最上級のごほうびだった。
「パンとごはん、どっちにする?」
「ああ、俺はパンにするよ」
僕は、心の中では僕だけど、少なくとも姉さんの前では、俺と言っている。
かっこつけてるつもりはないけど、でも、やっぱりかっこつけてるのかもしれないな。
「……父さん、新聞はしまってくれないかしら?」
「ああ、そうだな」
食卓で、隣にいた父さんが、パンをかじりながら、新聞をしまう。
汚い話だけど、父さんはトイレでも新聞を読む。毎日新聞を読むことを日課としている僕にとって、その後で同じ新聞を読むのは少し気がひけるけど、でもやっぱり読むこともある。
蛇足だったかな。
「基樹。それにしても、髪切らないの? いつも思うんだけど」
「あ、ああ」
姉さんが、僕の長くなってひとつにまとめた髪を、なでてくる。
少しどきどきして、緊張する。
「さらさらしてて、すごく好きだけどね、基樹の髪」
そう言って、微笑んでる。
僕の平らな胸が、少し苦しくなった。
姉さんは……こんなこと考えるのも失礼だけど、姉さんは、胸が大きいほうだ。
見たことは、一度だけある。
お風呂で、間違えて、本当に間違えて見たことがある。
そのとき姉さんは、丁度お風呂から出るところで、裸でドアに手をかけて濡れた体のままたっていた。
僕はすぐに目をそらしたけど、どうしてもその身体を見ようとしてしまうので、大変だったのを覚えている。
「ああ、ありがとう」
「私も、もっと髪伸ばそうかなぁ」
「姉さんは、そのままでいいんじゃないかな?」
「そう?」
再び微笑んでくれた姉さんは、台所にもどっていった。
機嫌がよさそうに、鼻歌も歌っている。姉さんは、あまり歌がうまいほうじゃないけど。
僕達の家族には、母親がいない。
母親は、僕が小さいころに、死んでしまった。
ある病気で、姉さんがぼくの肩に手をおいてみつめる前で、死んでしまった。
父さんはすごく肩を震わせながら、涙をこらえてたけど、やっぱり泣いていた。
姉さんは、嗚咽しながら激しく泣いてたけど、でも僕はただ、それを見ていただけだった。
悲しいというより、人の死が不思議だった。
あとから悲しくなったけど。
それで、葬式のときに、少し泣いた。
姉さんは、弔問客に頭をさげながら、膝に両手をぎゅって押し付けて、涙を流していた。
「ああ、そうだ姉さん。今度、友達呼ぶつもりなんだけど」
「お友達? 海原(かいばら)くん?」
「ああ、それと、あと何人かなんだけどさ」
「もちろん良いわよ? 泊まり?」
「ああ、そうなるかもしれない」
と、姉さんとの会話に、父さんが割り込んできた。
「あまりはしゃぎすぎるなよ。隣近所に迷惑がかかるからな」
「ああ、分かってる」
あいまいにうなずきながら、僕は姉さんの揺れるエプロンのひもと、そして腰、それとお尻を見ていた。
話している間も見つめていた。目が離せなかった。
姉さんは、やっぱり鼻歌を歌いながら、包丁でにんじんをとんとん切っている。
今日の弁当かな。
僕は、姉さんを思い浮かべて、オナニーをしたことがある。
一度だけ見た、シャワーで濡れた、全裸の姉さん。
その姿のまま、ベッドで僕に抱いているシーンを想像して…。
最低だと思う。
けど、今もときどきしている。
エロ本を読むときよりも、姉さんを思い浮かべたほうが、興奮するのだ。
「……基樹?」
「! あ、ああ。なに、姉さん」
「ほら、できたよ」
想像の中の乱れた顔が、いつもの大好きな笑顔にクロスフェードした。
姉さんは、右手に菜ばしを持って、弁当を見下ろしている。
「ほぉ。今日はハンバーグか」
父さんがのぞきこむと、姉さんは少し得意げな顔でうなずいた。
以前、姉さんのいたずらで、その弁当のごはんの上に、ピンクのハート型のでんぷんをちりばめたことがある。
学校でフタを開けて初めて気づき、恥ずかしくて隠して食べてたけど、でも海原に見つかって、少しからかわれた。
姉さんは、ウィンナーを入れるときは、必ずたこの形にする。こだわっているみたいだ。
それも少し恥ずかしいけど、でんぷんのハートよりはマシだ。
「それじゃ、お父さんもうそろそろ時間だから、会社いかないと」
「ああ、そうだなぁ。でもその前に、トイレいかんとなぁ」
「お父さん……トイレ長いんだもの。私も入りたいんだけど」
どきりとした。
一瞬、姉さんのトイレしている姿を想像してしまい、あわてて頭をかいた。
「それからお父さん、新聞はだめだからね。他に読む人がいるんだから」
父さんは、新聞をやっぱり握っていたけど、仕方ないという感じで、机の上にぱさりと置いた。
「まったくもう」
姉さんは少し笑いながら、腰に両手をあてていた。
その抱きしめたらおれてしまいそうな細い腰に。
また見つめてしまいそうになって、僕はさりげなく腕時計に目を逃がした。
「ああ、そろそろ時間だな」
「そうだね。じゃあ、私もいくよ」
「あ、ああ」
毎日のように、僕と姉さんは、一緒に登校している。
恥ずかしいけど、友達にひやかされることもあるけど、やっぱりうれしいから、拒否できないでいる。
「じゃあ」
「そうだね」
姉さんは、淡いピンクのエプロンをはずして椅子にかけ、かばんを持った。
僕のかばんは、教室の机に入れてあるから薄いのだが、姉さんは毎日勉強するから、厚くて重い。
まるで僕の心のように、厚くて重い。
「じゃあお父さん、私達いくね?」
「ああ。いってらっしゃい」
父さんが、トイレの中で、くぐもった声で答える。
僕らは玄関のドアを開けて、いつもの通学路を進んだ。
「暑いね。やっぱり今日も」
「ああ、もうすぐセミのでるころだね」
「覚えてる? 基樹ったら小さいころ、私にセミつきだしてきて、驚かせたんだよ?」
「ああ、覚えてる」
あのころは、まだ恋心とは違って、姉さんを慕っていたから。
だからなのか、僕は姉さんに、自分のとってきたセミを、じーじーうるさくなくセミをつきだして、おもしろがっていた。
「あのときは、かなりおどろいたなぁ。でも基樹は、最近そういうことしないよねぇ?」
少し強く吹いた風にひらめくスカートを片手で抑えて、もう片方の手では、なびくさらさらの髪を押さえて、小首をかしげている。
「あ、ああ。俺も成長したのかな」
「そうだね。あのころの、ちっちゃな男の子じゃないんだもんね」
「あたりまえだろ。俺だって成長するよ」
「それはそうよね。でも基樹、基樹はどうして、勉強もしないのに、そんなに成績がいいんだろ?」
姉さんの話は、ときどきころころと変わる。
頭に浮かんできた疑問を、すぐに口にだす癖があることを、僕は知っている。
もちろん父さんだって、姉さんの他の友達だって、そんなこと知っているんだろうけど、できれば、気づいているのは僕だけであってほしいとも思っている。
自分だけが、姉さんの秘密を……。
「基樹? どうしたの? 考え事?」
姉さんが、僕の顔を、身体を少しかがめて、のぞきこんできた。
やっぱり、少しどきどきする。
やさしい風が吹いてきて、僕と姉さんの髪をふわりとゆらす。
「あ、ああ。少しね」
「基樹は考え事するの好きだよね。いつもなにか考えている。そういうところが、他の男の子より大人なんだね」
「どうかな」
僕は、肩をすくめた。
僕が大人なのか?
確かに、ときどきごくたまに、他のやつらが、子供じみて見えるときもあるけど。
僕の親友、海原ひとみは、違う。
あいつは、かなり大人だ。
いつもおどけたようなやつだけど――大人だ。
「でも、風があるだけマシだよね」
歩道橋の階段を登りながら、太陽のてりつける上をあおぎみて、片手を額にかざしている。
「そうだね」
暑いから、風があるほうがまだ涼しい、と言ったのだろう。
僕は、姉さんの言葉はすべて理解したかったし、それに、すべての言葉に返事をすることにしている。
姉さんは、とりとめもないおしゃべりが好きだから。
ばさばさばさっ!!
毎日のように、下駄箱から出てくる、何通かの手紙。
こっちは、ため息しか出せない。
この手紙をくれた人たちには悪いけど、ため息しか出せない。
それを拾って、ひどいかもしれないけど、近くのゴミ箱に捨てた。
姉さん以外の人間に、こんな手紙をもらってもうれしくない……はっきり言って、うざったいだけだから。
僕は、女の子がほとんどだけど、男からも手紙をもらったことがある。
僕のなにがいいんだかわからないけど、そういうことがある。
校舎裏に呼び出されて、付き合ってくれと言われたときは、正直気持ち悪かったけど
しかたがないから、付き合えないとだけ言って断った。
教室に入れば入るで、うざったいことが待ち受けている。
「おはようっ!! 基樹っ!!」
「ああ、おはよう」
級友の美奈子は、さっそくといった感じで、僕の髪をなでてきた。
こいつは、なにかというと、僕の髪をなでてくる。
「あいかわらず、さらさらじゃない?」
「どうかな」
「ったく、あいかわらず無愛想だね」
「ああ、悪いけど俺、早く机につきたいんだけど」
「あ、そうっ!! じゃあね。ああ、それと、今日もお姉さんと一緒に登校したわけ?」
「それじゃあ」
僕はそれだけいって、美奈子の隣を通り抜けた。
何人かの女子や男子に挨拶をして、席に着く。
「石川(いしかわ)ーっ!!」
「……………………」
「なんだよ? また無愛想なやつだな」
同じく級友の大石(おおいし)が、後ろから僕に抱き付いてきた。
こいつは大抵僕が登校してきたときに、抱きついてくる。
なんなんだこいつは。理解不能だ。
こいつは女好きだから、なんども他の女子に抱きついては、ビンタくらわされたり、すけべとか怒鳴られたりしている。
僕にはできないし、したいとも思わない。
姉さんは別だが、他の子には興味がない。
こいつは、それでもこりずに、にやにや笑いながら「あいつのスリーサイズは……」とか楽しそうに話している。
僕は、姉さんのスリーサイズも体重も身長も、すべて知っている。
心の中だけでも、自分の心の中だけでも、姉さんを自分のものにしたいから、姉さんに関することはすべて知っていたいのだ。
「お前、男にしては、ほせぇ腰してるよなぁ? なんで学ラン着てんのに、腰がひきしまってるんだぁ? お前実は女? 女だったら、一度お願いしてぇんだけど」
「違うに決まってるだろ。あほか、お前」
「そうだよなぁ。一緒に便所行ったことあるもんなぁ」
僕は、こいつの話を聞き流しながら、かばんを机横のつるしにかけた。
「……そういえば大石、今日は海原はどうしたんだ?」
「ああ、遅刻じゃねぇのか? あいつ、大抵遅刻するから」
「ああ、そうか」
「んじゃあなぁ」
大石がいなくなってからしばらくして、担任がやってきた。
やっぱり海原は遅刻か。
またへらへらしながら、頭掻きながら教室のドアを開けて、ごめんごめって中に入ってくるんだろうな。
にくめないのは当然だろう?
海原も顔がきれいだから、もてる。
特に、年下の女の子にもてる。
だけど、僕と同じように、恋人をつくらない。
誰か好きなやつでもいるのだろうか。これはプライベートなことだから、聞いたこともないけど。
担任が教壇に着くと、ざわついていた教室は、静かになった。
ときおり、女の子の少し耳障りな話し声が聞こえるけど、それもまぁ気にしなければたいしたことはない。
姉さんのおしゃべり好きにはつきあうけど、他の女の子のおしゃべりは、ときどきうざったく感じる。
男は目的を持った話をするらしいけど、女は、目的なしに話すらしい。
どこかの本に書いてあった。
「それじゃあ…」
担任がそう口を開いたちょうどそのとき、がらがらがらっ!と、静かだった教室に、すこし下品な音が響いた。
皆いっせいに、後ろを振り向く。
「すんませーんっ! 遅刻しましたぁ」
やっぱり海原だった。へらへらした笑みをうかべて、片手で空気をつつくようなしぐさをして、頭を軽く何度もさげている。
「またか海原。本当にお前は、遅刻魔だし宿題は忘れるし……」
「すんませーんっ!!」
今度は頭を掻いている。
クラスメートの失笑も買っている。
僕だったらすごく恥ずかしいのに、海原は別に気にした様子がない。
そういうとこ、大物だと思う。
「いいから座れ。授業が始められんだろ」
「はーいっ!! あ、わるいね。ちょっと椅子ひいてくれる?」
海原は、自分の席にむかって歩いていった。
そして、退屈な授業が始まる。
たぶん学級委員ぐらいのものだろう。
この教室の中で、授業を退屈だと思わないやつなんて。
こつんっ……。
「ん?」
僕の頭に、なにかが軽く当たった。
後ろを振り返ると、二席ほど後ろの席の海原が、遅刻したときと同じように手を突き出して、何度か振りながら、笑顔を送っていた。
僕は、床に落ちた、丸まった紙を、手を伸ばして拾い、机に両肘をついて開いた。
『今日弁当忘れたんだけどさ。基樹の弁当わけてくんない? 俺、今金ねぇんだよ。な? 頼むよ?』
文末には、海原のニコちゃんマークが付いていた。
ちょっとため息をつく。
本当は、姉さんの作った弁当を、他のやつに食べられるのはいやだけど、海原が困っているんなら、わけるしかないだろう?
僕は『了解』とだけ手紙に書いて、海原に投げ返した。
丸まった紙は、弧を描いて、海原の額に見事命中した。
海原はおおげさに、ぶつかった瞬間に頭をひいたけど、それも海原らしいしぐさだった。
昼休み。
僕は、自分の机で、弁当を広げた。
海原は、短いほうの机の端に、椅子をくっつけて、へらへらと笑顔を浮かべながら、僕が弁当を広げるのを待っている。
「悪いな。基樹」
「いや。別にかまわないよ」
「そかそか」
本当は少しかまうけど、海原を目の前にして、そんなこと愚痴っても意味がないだろう。
僕は、包みの青いハンカチの結び目を解き、フタを開けた。
フタには、少しの米粒が付いている。
「おおっ!あいかわらず、真紀(まき)さんの弁当は、うまそうだなぁ」
おおげさに、声をあげる。こいつは、動作が大抵おおげさだ。
「ああ、まぁな。姉さんは、料理つくるのうまいから」
料理がうまい理由は、海原も知っていた。
「そういえば、真紀さんは毎日飯作ってんだよなぁ。大変だよなぁ。基樹とおやじさんのぶんだろ? 毎朝早く起きて、そんで、三人分の弁当作ってかぁ。感謝しろよ? 俺が言うことじゃねぇけど」
「ああ、そのつもりだよ。だから、嫌いなものでも全部食べてる」
「お前、嫌いなもの多いもんなぁ。」
「海原だって、肉が嫌いだろ?」
「まぁな。あれは食えないな。いくらかわいい女の子の頼みでも、基樹の頼みでも、あれは食えない」
「頼まねぇよ、そんなこと。海原のイヤなこと頼んで、どうするんだ?」
「やっぱ、お前はクールで無愛想だけど、やさしいよなぁ」
「普通だろ? クールで無愛想は、あたってるけどな」
「まぁなぁ」
「なぁに? 二人でひとつのお弁当」
美奈子だ。また来たか。
「ああ、別にいいだろ?」
「いいけどさぁ。真紀さんのお弁当なわけだ」
「まぁな」
「ふぅん。真紀さん、料理うまいわね」
そういえば、こいつはクッキングクラブだったな。何度か自分が作ったというクッキーなんかを渡されて、一応口には入れた。
でも、姉さんの作ったクッキーのほうが、数倍うまい。
シスコンとは違う。本気で好きなのは、確かだから。
からからから。
海原とは違い、静かに扉を開ける音が響いた。
今は昼休みで、皆食べるのに夢中だから、振り返ったのは、僕ら三人を含めた数人だけだ。
姉さんだった。
僕は立ち上がり、姉さんを見つめた。
姉さんは、すぐ近くに座っていた女の子に、頼み込んでいる。
「あ、悪いんだけど、基樹よんでくれる? 石川基樹くん」
ドアから少し離れているとはいえ、直接僕を呼べばいいのに。
大声をだすタイプじゃないからな。姉さんは。
「石川くーん。お姉さん、来たよぉ?」
なんでこの子は、僕の姉さんのことを知っているんだろうか。
大石や海原と話しているのを、聞かれたのかも知れないな。
僕は弁当をそのままにして、机から離れた。
さっきより、多くの視線を感じる。
姉さんも、ほとんど皆に見られている。
別にぼくの勝手な心の中だけの姉さんだから、それはしかたがないけど、でも気分はよくない。
戸口に近づいて、開かれたドアに手を置いて顔を少しさげると、姉さんは少し顔を紅潮させ、僕を見上げた。
「あ、あのね」
二人の身長差はほとんどわずかだけど、少しだけ僕のほうが高い。
昔は姉さんのほうが高くて、僕は頭をなでられたりして喜んだこともあったけど、でも今は僕のほうが背が高い。
僕は、姉さんの前ではあまりしたくない不機嫌な顔を浮かべて、姉さんを見つめて口を開いた。
「ここには来ないでくれって言っただろ?」
「あ、ご、ごめん。でも、ちょっと頼みごとがあって」
姉さんが罪悪感を抱いた顔をしたので、僕も同じように、罪悪感で胸を少しだけだけど痛めた。
「別に、どうしてもならかまわないけど、なるべくなら来ないでほしいんだけど」
あわてて言葉を捜してしゃべった。
早く否定しなくては、と心の中で少しひやひやする。
「あ、あのねぇ。えと」
「どうしたの?」
クラスメートの視線を感じる。
「うんと、辞書貸してくれないかな?」
「辞書?」
「うん。赤いやつあるでしょ? 私と一緒に買ったやつ」
「ああ……」
雨の日の6月、僕は姉さんと本屋に行った。
学校帰りに一緒になることはめったにないけど、そこで僕は、姉さんと一緒の辞書を買った。
でも、姉さんが忘れ物をするのはめずらしい。
姉さんは毎日忘れ物がないか確認するタイプだったし、宿題だって、夜中までかかっても、すべてちゃんとやってくる。
僕が、遅いからもう寝たらと言っても、もう少しがんばりたいと言うのが大抵だった。
姉さんはがんばり屋だから、少し休んでほしいんだけど。
「わかった。少し待ってて」
「うん。ごめんね」
いいや」
教室に視線を移すと、すぐに視線をはずすやつや、にやにやしているやつらの顔が目に入った。
でも気にしないようにして、自分の机――海原と、ああ、まだいたのか美奈子――に戻った。
「真紀さん、忘れ物? うっかりものなのね」
「めずらしくねぇかぁ? 真紀さん、しっかりしてるのに」
さっそく、なんか言ってくる。
「あれで少しドジなところがあるから、自分では気をつけているつもりなんだろうけど」
「さっすがだな。よく見てるよ」
「別に」
そうとだけ答えて、自分の机をあさり、辞書をみつけて、再びクラスメートの視線を受けながら、姉さんの元に寄った。
「シスコン」
美奈子のつぶやきが耳に入った。
シスコンとは違う。本気の恋なのだから。叶わないかもしれない恋なのだから。
「あ、ありがとう基樹。助かったよ」
「ああ、これからは気をつけなよ」
最後のは余計だったかな。
まぁ一度口にしてしまった言葉は取り消せないから、しかたがない。
「えへへ。うん」
かわいく笑ってる。
くそっ。他のやつのいる前で笑うなよ。
僕だけに、その笑顔を見せてよ。
そうしてくれれば、なんだってするのに。
姉さんは、去っていった。
スカートを翻しながら、急いだ様子で。
僕が振り返ると、とたんに誰かの、ひゅーという口笛が届いた。
そいつのことを軽くにらみ、そいつが肩をすくめて縮みこむのを目の端にとめながら、僕は机に戻った。
体育。
別に嫌いじゃない。身体を動かすのは好きだから、むしろ授業の中で、一番好きなんだろう。
今日は鉄棒だった。
身長より大分高めの、まっすぐ伸びた鉄棒。
先に二十回、懸垂をやらされた。
できなかったやつは、まだ端にある鉄棒にしがみついて、うんうんうなっている。
僕と海原は、一番に終えることができた。
「そんじゃあ次は、石川な」
「はい」
体育教師に呼ばれた僕は立ち上がり、砂を払ってから、鉄棒に近づいた。
……視線を感じる。
いつもそうだ。
体育をしているとき、短パンになっているときは、こうした視線を感じるときがある。
学ランを着ているときも、ときどきそうだけど、体育のときは特に感じる。
くそっ!!
僕なんか見て、なにが楽しいんだ。
「あの腰がいいよな……」
「それとあの太ももなぁ……」
男子生徒のヒソヒソ声が聞こえ、にらみつけようかと一瞬思ったけど、でも今は鉄棒をつかむのが先だから、やめておいた。
ジャンプして鉄棒をつかみ、くるりと一回転した。
それから何回か回転し、ころあいを見計らって、着地する。
まばらな拍手。
「よし、じゃあ、次は飯岡な」
体育教師の声を背中に聞きながら、僕は自分の場所に戻って、体育すわりをした。
海原が、軽くピースサインをしてきたので、うなづいておいた。
放課後。
これで、退屈な授業からも解放される。
かばんは、朝来たときと同じで、うすっぺらい。
いつものことだ。
「ああ、んじゃあ帰ろうぜぇ? 基樹」
「ああ」
海原とは、毎回のように一緒に帰っている。
僕はテニス部だけど、気がすすまないので、ほとんど行っていない。
海原は、熱心にバレーボール部ではげんでいて、ときどき体育館を通ったときに見かけるけど、とても真剣な顔をしてアタックを打ちこんでいる。
そういうところが、後輩に慕われるんだろう。
「それじゃあ皆様さようなら~!」
海原が、残っている何人かに手を振って、陽気に口を開いている。
僕もそれにならって、少しだけ口を開いた。
「さよなら」
何人かが、手を振えすのを見てから、僕らは廊下を二人で歩いた。
ときおり何人かが、こちらを見て話しているのが見えたけど、僕は無視していたし、海原は鼻歌を歌って通り過ぎていく。
しかし、偶然に出くわしてしまった担任は、無視するわけにはいかなかった。
「海原に石川。今から帰りか? 部活はどうした?」
「今日はないんすよぉ」
「ああ、そうか。まぁ大石はともかく……石川。お前の部活態度は、少しひどくないか?」
「別に」
「部の先生が、ぐちっていたんだぞ? お前があまり部にこないと」
「あとであやまっておきますってさ。なぁ? 基樹」
「あ、ああ」
僕が口を開く前に、海原がフォローしてくれた。
こういうところが気がまわる。
初対面ですぐに、なぜか意気投合したのを覚えている。
僕とはタイプが違って陽気で明るいはずなのに、なぜか息があった。
「あ、基樹に、海原くん!!」
夕方の赤い日差しがさす、通学路を歩いていると、姉さんが、走って近寄ってきた。
かばんを片手にもって、風になびく髪をおさえながら。
「ああ、真紀さん」
「姉さん」
「今、帰り? ちょうどよかった。私も帰るところなんだぁ」
姉さんは、はぁはぁと息を切らしながら、笑顔で口を開いた。
「奇遇っすねぇ。めずらしいんじゃないすかぁ?」
「いつもこうだといいんだけどねぇ。私もクッキング部があるから……まぁ、火曜日しかやってないけどね」
やっぱり笑顔で答える。
たとえ海原でも、姉さんの笑顔をうけるのは、少しむっとする。
少しだけ、だけど。
「じゃあ真紀さん、帰りましょうかぁ?」
「ああ」
割り込んで、僕が返事をしてやった。
それから、とりとめのない、僕にとっては楽しいおしゃべりをしながら。
日に染まる通学路を歩いていた。
「……あ、そうだ。これから、ゲーセンいきませんか?」
海原が、誰ともなく提案する。
顔は笑顔で、少しだけ、良いことを思いついたという表情で。
まぁ敬語なわけだから、たぶん姉さんに向かって言っているんだろうけど。
「え? でもまだ制服だし、下校の途中だよ?」
「いいじゃないっすかぁ、ね? 真紀さん。基樹もいくだろ?」
「ああ、俺は別にかまわないけど」
「じゃあ決定!! いいっすか? 真紀さん」
「うん。それはいいけど、でも、とりあえず服を着替えてからにしようよ?」
「そうっすね。そうしますか。んじゃあ、ゲーセン前に待ちあわせということで」
「ああ」
「うん!」
いつのまにか、僕達三人は、ゲーセンにいくことになった。
ゲーセン内。
ぴこぴことうるさい音が鳴り響く、たばこ臭い人ごみをとおりぬけていく。
僕と海原は、ときおり学校帰りとか土曜や日曜にくることがあるけど、姉さんは、もしかしたら初めてなのかもしれない。
きょろきょろしながら、少し不安そうな顔をして、僕らのあとをついてくる。
片手は口にあてて、もう片方は僕の服のすそをつかんで。
僕らは、まずUFOキャッチャーに向かった。
これなら見ているだけでも結構楽しいし、ゲーセンに慣れていない姉さんでも、楽しくなるんじゃないかと思ったのだ。
ピンクの枠の、四角い筐体・UFOキャッチャーの、プラスティック製のガラスに手をつきながら、僕は姉さんに百円玉を渡しながら、提案した。
「ほら姉さん。姉さんが、まずやってみなよ」
「え? で、でも私、やったことないし、二人が先にやったほうが」
「そうっすねぇ。じゃあ俺が先に」
ちょっと失敗した。
そうだよな。先に経験者がやっているのを見てからやったほうが、やりやすいか。
少し後悔した。気がきかなかった。
よく美奈子にも、基樹は鈍感だと言われる。
海原は、百円玉をいれて、レバーを操作した。
「真紀さん、どれがいいっすかぁ? 俺得意だから、とれると思いますよ?」
「あ、ありがとう。それじゃあ……あのブーさんがいいなぁ」
姉さんは、熊のプーも好きだから、何個かぬいぐるみを部屋に飾っている。
子供っぽいかなと、テレながら赤い顔をしていたけど。
女の子の部屋は、あまり行ったことないけど、こんなものなんだと思うんだけどな。
そのとき姉さんは、その熊のプーを抱きしめていて。
変形した熊の黄色い顔と、姉さんの照れた顔が、妙に印象に残っている。
「……ぁっ、だめかぁ」
また、大分考え事をしていたようだった。
気がつくと、海原が隣で、残念そうな顔をしてつぶやいていた。
「残念だったねぇ」
「そうっすねぇ。真紀さんにプレゼントしたかったのになぁ」
「いいよ。気にしないで」
「でもプーさん好きなんでしょ? そうだ、基樹やれよ」
「あ、ああ」
そうだな。姉さんの喜ぶ顔は、すごく見たい。
僕もレバーを操作した。もちろんその前に百円玉を入れて。
「よく狙えよ?」
「ああ」
「あ、とれるかなぁっ!!」
なんとか、レバーを細かく操作して、目的の姉さんが欲しいといっていた、熊のプーを狙った。
そして。
「やったぜ!!」
「きゃっ!! すごいすごい!!」
「……ああ」
二人が喜んでいる中で、一人だけさめているのも変だけど、僕はあまり感情を表にださないで、どうしてだか無意識に抑えてしまう癖がある。
これは、担任や他の教師にも言われたことがあるけど、すでに身についている癖だから、直すのは難しい。
とにかく僕は、見事姉さんの欲しがっていた、熊のプーを手に入れた。
「はい。姉さん」
少し照れくさかったけど、ぬいぐるみを軽くつかんで、姉さんに手渡した。
姉さんは笑顔をうかべて、そのぬいぐるみを腕にひきよせた。
「ありがとうっ!!! うれしいよっ!! 基樹っ!!」
「いいなぁ。そのプーのやろう。俺も、真紀さんに抱きしめてもらいたい。なぁ? 基樹?」
「お、俺は別に」
抱きしめてもらえたら、うれしいのは確かだけど。
やっぱりうるさい。さわがしいというより、うるさいというほうがあっているゲームセンター内で、僕達は、今度は格闘ゲームに挑戦することにした。
姉さんは、やっぱりゲーセンは初めての体験らしく、格闘ゲームのこともよく知らないらしい。
前に何度か、僕の持っているプレステやセガサターンで一緒に遊んだこともあるし、父さんを交えたりして、見学していたこともある。
なんだか、自分だけがゲームに集中するのがはずかしくて、少し背中がぞわぞわした。
「じゃあ姉さん、ここに座りなよ」
そう言って、姉さんの肩を、なるべくやさしく触った。まだ、姉さんの肩を触るときは、少しどきどきする。
「う、うん。じゃあ」
さっき一度、僕と海原の対戦を見ていた姉さんは、今度はすんなりと、小さくて丸いゲームセンター独特の椅子に座った。
「わかると思うけど、ここに金いれてから、このボタンを押して、それからこのレバーと四つのボタンで操作して」
「う、うん。できるかなぁ。どきどきするなぁ」
「そんなにおおげさなものでもないよ」
自然と笑みがでる。
「ほんじゃあ、OKっすかぁ? まず俺が先にスタートさせますよぉ?」
向こう側の対戦台にいた海原がスタートボタンを押すと、じゃらーーんっ!!と鳴った。
「あっ、始まったみたいだね」
「ああ、それじゃあ、姉さんも金いれて」
「うん」
姉さんはかがみこんで、金をいれる細い入り口に、ちゃりんと50円玉をいれた。
余談になるけど、ここのゲームセンターでは、ほとんどの格闘ゲームやパズルゲームや麻雀ゲームが、50円でできる。それがこの混雑の原因でもあるけど、長所と欠点というやつだろうか。
「それじゃあ、このスタートボタン押して」
「うん」
姉さんが、スタートボタンを押して、それから対戦が始まった。
「うぁっ、うぁうぁっ!!」
姉さんが、あせっている。やっぱりかわいいけど、少しおもしろい。
「な、なになになに? どこを押せば、なにがでるの?」
「これが、パンチ、これがキック。レバーを半分だけまわしたあとに、このボタンを押せば、技がでるんだよ?」
「わ、わかった」
姉さんは一生懸命な様子で、俺の言ったとおりの操作をしている。
小指が立っていて、姉さんらしい。
それに、手がほとんど平たく開かれていて、ぱちぱちって感じにボタンが押される音が、小さく聞こえる。
「う、うーん!?」
やっぱり、始めての人間にはむずかしいか。
俺だって、海原に初めてここにつれてこられたときは、かなりの音にちょっとびくついたし、対戦ゲームも全試合負けていた。
その後くやしくて、何度かここに来た。おかげで常連になって、店員ともときどき話をしたりする。
……まただ。
これだけうるさくて、たばこくさい不快でもあるこの場所が、こうして人のゲームを観戦していると、ときどき対戦している人物と自分だけの世界に入り込むときがある。
うるさく鳴り響くゲームの音が、小さく聞こえ出して、そして二人だけの世界をつくりだす。
こんなときが、ゲームセンターに限らず、ときどき起こる。
おおげさでもなんでもなく、そういうときが、確かにあるのだった。
このときは、姉さんのガッカリした声のおかげで、我に返ったけど。
「あ。うーん……」
「やっりぃ! とりあえず俺と真紀さんの勝負は、俺のかちっ!!」
「あははっ。やっぱりね」
「なによぉっ!! 基樹、笑うことないでしょっ!!」
「いいじゃないか。負けて当然なんだからさぁ。初心者なんだから。僕だって、最初は負けっぱなしだったんだぞ?」
「ふぅん。だめよぉ、あんまり学校帰りにここに来たら。ちゃんと服を着替えなさいっ!! まだ学生なんだからっ!!」
「へいへい」
肩をすくめておどけつつ、そう答えておいた。
まぁ心得ておきます。
「んじゃあ、今度は基樹と俺の対戦なぁ!!」
海原が、彼独特の大声をはりあげて、ゲーセンの対戦台から顔を出した。
「ねぇねぇ、彼女かわいいねぇ?」
「え?」
「ここでなにしてるの? 彼氏と来てるわけぇ?」
「ち、違います。弟と」
「へぇえ? そう、じゃあそいつと俺らが戦って、勝ったら俺らと遊ぼうよ?」
「い、いえ結構ですから」
「いいじゃんいいじゃん? 遊ぼうぜぇ? きっと楽しいよぉ」
ゲームセンターの階段のところで休んでいる姉さんに、ジュースを持ってきたところで、知らない男二人にナンパされているところを見つけた。
海原は、ギルティギアに夢中だ。
「はぁ~……」
ため息がでる。時折こういう場面を見かけるけど、姉さんは顔がかわいいからな。
スタイルもいいし。
「ちょっと、あんたら」
「あ、基樹」
「あ、基樹ぃ?」
「女みてぇな名前だなぁ?ってか、あんた女かぁ」
こんな男どもの声に、貸す耳はない。
「行こう。ジュース買ってきたから。姉さんはオレンジジュースだよね」
「あ、う、うん。」
三つのジュースを、なんとか右手に持ち替えて、姉さんの手をとった。
姉さんが、少し強めに、俺の手を握り返してくる。
「ちょっとちょっとぉ、だめじゃん? 俺ら今、この子と話してるんだからぁ」
「そうだぜ? 君も美人だし、俺らといっしょに遊ぼうかぁ?」
「…………」
さて、どうやっておっぱらおうか。
殴るのは、俺の気持ち的に、そういう気分じゃないし。
かといって、言葉で通じるだろうか。
こいつらに。
「おーい。なにしてんだぁ?」
「あ、海原くん」
姉さんが、俺に手をとられながら、海原のほうを見た。
その目が、助けてくれと言っている。
……俺だけじゃあ、力になれないってのか?
「どうしたんすか。……なんだ? お前ら」
「……こいつは男だな。顔は綺麗だが、男だ」
「んだな。じゃあ、こいつが弟か」
どうでもいいことを話しあっている。
「ふぅん、そういうことか。お前ら。ナンパってやつか」
男どもは、海原を姉さんの弟と、決めつけてしまった。
「弟くん。悪いんだけど、あんたの姉さん貸してくんない? ついでに、このべっぴんさんの子もさぁ?」
「悪いようにはしないから。必ず喘させてやるからさぁ……」
ばっしーんっ!!
狭い階段下だったけど、僕は思わず殴りつけていた。
この男の「喘ぐ」ってところで、がまんができなくなっていた。
「な、なにしやがる」
「最低やろう! 自分のちんぽでもしゃぶってろ!」
「てっめぇえっ!!」
殴ったほうとは別の男が、俺の胸倉をつかんでくる。
俺は、そいつをにらみつけた。
鼻と鼻がくっつくぐらいに、顔が近づく。こいつの口臭が鼻について、気分が悪い。
とても悪い。
「んだよっ!! その目はよぉっ!!」
「……やめておけよ。基樹は、力強いんだからよぉ?」
せっかく海原がそう言ったのに、男はまだ口臭を俺にかけ続ける。
「はなせ」
「うらああっ!!」
ばっしーんっ!!
殴りかかってきた。
身体がふっとぶ。
対戦台に、背中からぶつかる。
殴られるより、そっちの背中のほうが痛かった。
「も、基樹っ!!!」
駆け寄ろうとした姉さんを手でさえぎってから、俺はまた男をにらみつけた。
「……お前みたいなやつを、最低やろうっていうんだな」
「ああ、そりゃ納得。ナイスな発言だな。基樹」
海原がニヤニヤうなずくと、男はますます頭に血をのぼらせたらしい。
「てめぇっ!!」
対戦台に倒れこんだままの俺の胸倉を、またつかみかかってきて、右手を頭の上高くまであげてきている。
俺は、相手の目をじっと見つめた。
今日一番怖い顔になるようにと。
そこへ、よく知った乱暴な声が割り込んできた。
「おらおら、やめろ。ここで喧嘩するな。お前ら警察よぶぞっ!!」
「あ、タカさん」
店員で、よく話もするタカさんに、海原は軽く頭を下げた。
タカさんは、俺と違ってがたいもいいから、大抵の相手はびびるだろう。
「ほら、お前らでてけよ!!」
「……ちっ」
「もう二度とこねぇよっ! こんなところっ!!」
「ああ、そうしてくれ」
男たち二人は、捨て台詞をはきながら出ていった。
汚いつばを、俺の顔に吹きつけてから。
「だ……大丈夫? 基樹ぃ……」
姉さんが、スカートのポケットからピンクのハンカチを出してきて、俺の顔についた、汚いつばをぬぐいとってくれる。
海原もしゃがみこんで、俺を気づかっている。
そんな俺達を見下ろすようにして、タカさんは言った。
「悪いが……お前らも、ここにはもう来ないでくれないか?」
「ええ? だって、あいつらが先に真紀さんをナンパしてきたんだぜ?」
「とにかく、ここでもめごとはご法度なんだ。さぁ、帰れ」
「はい。すいませんでした」
「も、基樹……あ~あ。これで、遊び場がひとつ減ったか」
「……さぁ、帰ろう基樹。背中、大丈夫かな?」
やっぱり姉さんは、俺のことを良く見てくれているようだ。
俺が、殴られた頬よりも、背中のほうを痛いと感じていることが、わかっているらしい。
……俺、か。僕は、いつの間にか、自分を「俺」と呼んでいたんだな。
「ごめん、二人とも。俺のせいだな」
「んにゃあ。あいつらがバカなだけで、基樹のせいじゃねぇよ。お前は、愛する真紀さんを守っただけだろ?」
愛する。ね。
あたってはいる。
「基樹、あとで背中みせてね? あざになってないといいんだけど」
「あ、ああ。ちょっとそれは」
「はずかしいっすよぉ? 年頃の男子としては、姉さんでも、いや、姉さんに背中みせるのは」
「そうかなぁ。でも、シップぐらいは貼るんだよ?」
「ああ、そうしとく。あとで自分でやるよ」
「俺がやってやろうかぁ? ひさしぶりに、二人で風呂にでもはいろうぜぇ? 銭湯にさぁ?」
「ふふっ……いいね」
二人でって海原は言ったのに、なぜか姉さんまで、話にのってきた。
「よっしゃ、これから銭湯いくかぁ? 三人でさぁ? 金はあるんだし、タオルとか、一通り銭湯にもそろっているだろうから。よぉ? どうだ?」
「うーん。そうだねぇ。基樹もほこりっぽくなってるし。たばこの灰が、肩にもかかってるし」
「ああ、俺はべつに」
「んじゃあ、いこうぜぇん」
海原は頭に両手を置いて、姉さんは手を唇にもっていって、僕はまだ痛んでいる背中をさすって。
三人は、暗くなった道路を歩いて、銭湯に向かった。
「けっこう近くにあったなぁ」
海原がズボンを脱ぎながら、言ってくる。
「ああ、そうだな。安いし、丁度いいな」
僕も、短パンを脱ぎながら、返事をした。
「そんじゃあ、行くか。なんてったって、今からでも楽しみなのは、風呂上りのコーヒー牛乳だなぁ」
「俺はフルーツ牛乳だな。姉さんは、ただの牛乳」
「ああ、そ。良く把握してるわけだ」
「ま、まぁな。いっしょに暮らしてるわけだしな」
別にこれぐらいはなぁ。姉さんは、毎朝一杯の牛乳を飲むのが好きらしいし。
「……ん?」
海原が、俺の顔をじっと見つめていた。
「どうした?」
「いいやぁ。別に」
「ふぅん……」
服を脱ぎ追えた僕達は、湯船につかった。
「っつ……」
「やっぱ、痛むのか?」
湯船の中、海原は、おやじのように頭にタオルを置いている。
僕はただ、湯船につかっているだけだ。
海原が、俺の背中を手でさすってくる。
やっぱり、ついさっきのことだから、背中は痛い。
顔は、全然はれてもいないけどな。
「……おまえって、本当に肌白いよなぁ?」
「海原のほうが白いだろ? なに言ってるんだよ」
「そのかわり、俺の顔には、ほくろがたくさん。美の化身の俺にとっての、唯一の悩みだな」
「ははははっ。あほ」
「へへへっ」
ばかな冗談で、なんだか痛みを忘れかけた、そのときだった。
「ねぇ~! 基樹ー、海原くーん!!」
ばしゃっ!!
姉さんの、壁越しのくぐもった声が聞こえてきて、あわてて湯船に入り込む。
なにも別に、姉さんが俺らの前にいるわけでもないんだけど。
反射的にだ。
「はぁい? なんすかぁ?」
「ね、姉さん。男湯なんかに話かけるなよっ!!」
俺にしては、めずらしく声をあらげた。
顔があつくなる。たぶん真っ赤になっているはずだ。
「あのさぁ! そっちにセッケンあるかなぁ?」
「ああ、あるっすよぉ。投げますかぁ?」
「うん。お願い」
海原が、セッケンをつかんで、何のテレもなく女湯に投げ入れた。
ぽーんっ
「あ、きたきた。ありがとうっ!!」
「いいえーっ!! ……なぁなぁ、基樹くん?」
海原が、俺の裸の肩に、がしっと手をまわしてきた。
「な、なんだ?」
基樹クン? めずらしいな。
「真紀さんは、今ドコを洗っていらっさるのでしょうかぁ? 1.胸、おおっ? 2.背中、んー? 3.肩、うーむ?」
「し、知るわけないだろっ!!」
「よっしゃ、質問コーナーっ!! 真紀さぁんっ!!」
なっ!
「なぁにぃ!?」
わぁ!
呼びかける海原も海原だが、答える姉さんも姉さんだ。しかも、あんなに声をはりあげて。
やめてほしいんだが。男湯中の視線をあつめているのがわからないのかよ、この二人は。まったくもうっ!!
「今、真紀さんは、どこを洗っているんですかぁっ!!」
「え?」
「1.そのうるわしい顔、2.その透き通るようなちと色黒のお腹、3.そのくるおしいほどせつない、足! どれっすかぁ?」
「え、えと、答えるべきなのかなぁ? これはぁ」
「ええ、ぜひっ!! 基樹が、どうしても聞きたいとダダをこねつつ、足を振っているわけでして」
「こねてねぇっ!! 足なんか振ってねぇっ!!」
「え、えとぉ。正解は……お腹ですけど」
「おおっ!? あそ……」
ぼかっ!!
海原の頭を、軽くこずいた。
海原のへらへら笑いが、斜めにかしげる。
「……わりぃわりぃ。ふざけすぎたな、俺も」
「も、じゃねえ! お前しかふざけてないだろっ!! それに姉さんも、そんなこと答えるな!! ばかっ!!」
「ひっどいなぁ。基樹が聞きたいっていうから、答えたんだよぉ?」
「俺は聞きたいわけじゃないっ!!」
「ふふふっ」
「ふふふっ」
「二人そろって、気持ちわるい笑い方すんなっ!!」
「そ、それはひどいよぉ、基樹ぃ~。私、“うふふ”ってなりそうだったのを、こらえたんだよぉ?」
「ち、ちがうっ!! 海原のことだよっ!!」
「へえへえ。わぁったよ」
乱れっぱなしの僕を見て、すっかり気が済んだのか、海原は素直になっていた。
「ったく!!」
「ったく、はずかしいやつらだよ」
俺は、まだぶつぶつ言いながら、買っておいた下着に足をとおした。
「まぁなぁ。それは認める。だが、お前の姉さんは、はずかしくないなぁ」
「今回はわからん」
「ふははははっ!!」
笑いごとじゃないって。
「ったく……。それじゃあ牛乳買って、出るか」
僕は、アイス入れのような冷蔵庫から、牛乳を二本とりだした。
俺はフルーツ牛乳を、海原にはコーヒー牛乳を。
なんだか懐かしい。よくプール行った帰りのそば屋でこれを食べたりしていたものだった。
「よっしゃっ! いっきのみぃ~」
海原は、お決まりのポーズのごとく、腰に片手をあてて、ごくごくと飲み干している。
俺も、同じように、腰に片手をあてて、飲み干してから、わずかのお金を払って、男湯から出た。
姉さんが、待っていた。
「あ、姉さん。先に出てたんだ?」
「あ、うん」
「真紀さん、牛乳は飲んだんでしょ? 当然ですよねぇ」
「あ、飲んでない」
「そうなの?」
「うん。女湯混んでたし、だから飲んでない」
「それはいけねぇや。銭湯に牛乳は、必須でしょう?」
「そうなの?」
「そっすよぉ? 飲まないと、のどから血をはくらしいっすよ?」
「え? うそでしょ? いやだなぁ」
「うそに決まってるだろう……」
「そらそうだっ!! うっははははっはっ!!」
ったく。何度「ったく」って言えばいいんだよ。
「♪浴衣のきみぃはすすきのぉかんざぁしぃ、ひょっとことぉどんぐりしばいてぇ……」
ぜんぜん歌詞が違うのは、気のせいじゃないはずだ。
姉さんもくすくす笑っている。
ひょっとことどんぐりを、どうやってしばけるんだ?
「海原くんは、あいかわらずおもしろいねぇ?」
むっとする。
少しだけどむっとした。
「へへへっ!! これがおいらの特徴っすからねぇ」
海原は相変わらず、頭の上に器用にタオルを載せながら笑ってる。もちろんへらへら笑いだった。
これで下駄でもはけば、ちょうどいいんだろうけどな。
つづく
コメント