小説(転載) Eternal Delta 9/9
官能小説
第4章 嘘から出た本音〈2〉
本当に来てしまった。
遙紀の家がある高鳥地区の東隣が蒼羽地区。蒼羽駅から北へ直行バスで二十分。大きなドーム型の建物が一つあり、それを囲うように楕円形に屋外ブースが広がっている。この辺りは古い家柄の人が多く住んでいて、日本とは思えない大きさの家がいっぱい建っている。カリフォルニアとかビバリーヒルズ、といった感じだ。その高級住宅街のど真ん中に、南條エンターテイメント・ビックアイがある。
ビッグアイというのは雪山に住む伝説の一つ目の雪男のことで、本来なら恐ろしい姿で描かれるところを、マスコットキャラクターらしく愛嬌のある姿に変わっている。白い毛皮に覆われた一つ目の雪男がパーク内のあちこちにいて、小さい子供を脅かしたり抱きかかえたりして遊んでいる。あんなアルバイトをする人って大変だろうなあと、雪男を見て遙紀は思った。
朝のうちは、屋内のゲームで遊んだ。ほとんど梨玖に振り回される形だったが。
昼食は、東側の屋外ブースにあるレストランに行った。遙紀はグラタンセットを食べ、梨玖はハンバーガーセットを食べた。
梨玖が会計を済ませている間、遙紀は先にレストランの外に出て待っていた。
……なんか、普通にデートしてるわ。
それが悪いわけじゃないのだが、こんなことしてていいんだろうかと思った。
よく考えれば、あの時にあの場所であんなことをした梨玖がそもそも悪いのだし、あの程度の嘘で梨玖が怒ったりするはずもない。たぶん、なんだ嘘かよ、って言って終わりだ。それ以上でもそれ以下でもない。
だけど、嘘をついたことに変わりはなく、そのことで自分は罪悪感を感じている。生理なんて嘘だったの、とさっさと言うべきなのだ。なのにあの夢のことを思い出して言えずにいる自分がとても情けなかった。
「よーし、行くぞ遙紀」
「え? あ、うん」
レストランを出てきた梨玖は、すぐさまどこかへ向かっていった。遙紀は慌てて後を追った。
「……これ、乗るの?」
遙紀は唖然として、それを見上げた。
「乗るんだよ」
梨玖は即答した。
二人は今、巨大観覧車の前にいる。一回り三十分はかかるというゆーっくりのーんびりした乗り物。
これまでにもほかの遊園地などへ行ったことは何度かある。梨玖はジェットコースターみたいな「血が騒ぐ」ものだったらなんでも乗りたがる。普通の奴からループの奴、垂直落下とかぐるぐるに振り回される奴まで。しかしこの観覧車やメリーゴーランドみたいな平和かつ安全なものはつまらんとかいって絶対乗ろうとしなかった。
危険……なわけはないはずだが、恐いものに乗せられたあとはちょっと落ち着ける奴にしてくれ、と付き合わされている遙紀はいつも思う。
それなのに。どういうわけか。まだ全然ジェットコースター系に乗っていないのにもかかわらず。梨玖は観覧車に乗ると言い出した。
「……なんで?」
「乗っちゃわりいのか」
梨玖は憮然としていた。
「だって。あんたのガラじゃないじゃない」
「いーから乗るんだよ」
と言って梨玖は遙紀の腕を引っ張って、五メートルぐらいの列の最後尾に並んだ。
遙紀たちの前にいるのは、ほとんど全部がカップル。自分たちもそうだけど、なんというか、空気が違う。ピンク色のオーラが見えそうなぐらいに、ベタベタ。観覧車でいちゃつこうというのは別に構わないが、乗ってからにしてもらいたい。
列が進むのは、観覧車の移動速度よりも遅いような気がした。二十分ぐらい経った頃にやっと自分たちの順になった。
先に遙紀が中に乗って、進行方向に向いた方に座った。そして梨玖は向かい側じゃなくて隣に座ってきた。
カップルだったらそれが当たり前のような気がするが、なんでだろうと遙紀は考えた。
梨玖はスケベだけどあんまりベタベタしない。身体がくっついていないと不安だ、というタイプではない。遙紀も恥ずかしいから、というのではなくて、そこまでくっついてなくてもいいじゃない、と思うのだ。
しかし。もしかしたら、あの恥ずかしくて死にそうなことを自分にし出してから、なんか変わったのかもしれない。ほかのカップルみたいにピンク色のオーラをまといたいというのか──。
──あ!
ま、まさか、こっ、こんなとこで、あ、あんな……ことするんじゃ……。
いや、いくらなんでもそれはないと思う。人前では絶対軽いキスもしない梨玖が、誰も見ていないとはいっても誰にでも見られそうなところであんなことするわけないと……思いたい。だいたい梨玖は自分が今生理中だと思っている。
で、でも、じゃあなんで、隣に座るの?
「遙紀」
「え、な、なに?」
観覧車のドアが閉められてからすぐ、梨玖が上着のポケットからなにかを取り出して遙紀に差し出した。小さくて白い紙袋。
「……なに?」
「なにって、あれ」
「は?」
「……お前、今日なんの日か判ってねぇの?」
「え?」
今日?……なに?
「四月何日だ?」
「え? えっと……十二……あ」
「判ったか?」
自分の誕生日であった。なんか色々あってすっかり忘れていた。今日で遙紀は十七歳になるのだ。
「俺、先月十六になったばっかだっつーのにな……ま、いーから開けろよ」
「う、うん」
おバカな梨玖が憶えていたなんて信じられないが、とにかくこの袋の中身は誕生日プレゼントなわけだ。
ちょっと、いやかなりどきどきしながら袋を開けた。愛想のない袋の入っていたのは、これまた愛想なくケースもなにもないイヤリングが二つ。
「……これ、梨玖が買ったの?」
「おう」
「……ほんとに?」
「なんだよ」
ムーンストーン……本物ではないだろう、白く濁った半透明のガラス玉かなにかで出来た涙滴型のイヤリングだ。いつ買ったのかはともかく、こんなアクセサリーを梨玖が買ったなんて……想像すると笑える。
「なに笑ってんだよ」
「あ、ごめん。ありが……」
礼を言いかけて、遙紀ははっとした。
もらっちゃっていいんだろうか。嘘つき女のくせに。
「遙紀?」
「……あ、あの」
今言わないと、一生、あれは嘘だったの、と言えなくなる。梨玖にずっと嘘をつき続けることになる。
「どした?」
「……あ、あのね、あたし、生理じゃ……ないの」
「はあ?」
「だ、だから、生理って言ったのは、嘘なの」
「……ああ。んで?」
「で、って……だから、あたし今、生理じゃないんだってば」
「生理じゃないのは判ってるって。なにが言いたいんだよ」
「……え?」
「はーるーき?」
呆然とする遙紀の顔の前で、梨玖はひらひらと手を振った。
「ひょっとしてお前……俺が本気にしたと思ってたのか?」
「……え?」
梨玖は変な顔をした。
「あのな、お前あん時寝てただろ? 俺、触っても反応ないって言っただろ?」
「……え?」
「だから、触ったんだよ。胸とかあそことか」
「……え?」
「すぐやめたけどな。つまんねぇから。だいたいお前な、生理の時っていつもジーパンはくじゃん」
確かにそうだ。スカートだとなんだか落ち着かないので、遙紀は生理の間はずっと濃い色のジーパンをはく。学校ではスカートの下にブルマをはく。さらにジャージの裾を膝まで折ってはいたりもする。
「……え、じゃ、じゃあ、なんであの時やめたの!?」
嘘だと判っていたのに?
「あー、いや、さすがにちょっとあそこでやるのはまずかったかな、って」
「……じゃあ……どうして生理終わったか?って聞いたりしたの?」
「そりゃー、あんなとこでやったからお前が怒ってんのかと思ってさ。生理終わったって言われるまでやめといた方がいいかなーと思ってたんだけどな」
「……なにそれ……」
強ばっていた全身の力が、一気に抜けていくのを感じた。
最初からばれていた……じゃなくて、最初からあの行為をやめてもらうための言い訳だと知られていた。ただ単に、調子を合わせて言っていただけ?
嘘ついて梨玖を騙したと思って悩んでいたのは無意味だったのか?
嫌われるかも、と不安になっていたのは……。
遙紀は、観覧車の天井を見上げ、はあ、とため息をついた。
「おーい? どした?」
梨玖がまたひらひらと手を振る。
「……なんでもない」
わりと梨玖は勘の鋭いところがあって、かと思えば今みたいに自分がなんでため息をついたのか判っていなかったり。でも基本的には単純な奴なので、あそこであんな嘘をついたからといって気にするような奴ではなかったのだ。
……バカみたい。
初めて梨玖に嘘をついてしまったという罪悪感だけで、自分がこんなに暗い思考をするとは思わなかった。結構自分は心配性らしい。
「はーるーき」
「……なに?」
「つけねぇのか?」
と言って遙紀が持っているイヤリングの袋を指差した。
こういうものは、もらったらやっぱりその場でつけてみるのが普通なんだろうか。
そう思って遙紀は、カバンの中から小さい手鏡を取り出した。
「ちょっと持ってて」
梨玖に渡して遙紀の目の高さに手を固定してもらう。
袋から一つイヤリングを出して、まず右の耳につけてみた。
「……あ、ねえ、そう言えばなんでイヤリングなの?」
「ああ、お前あんまりこういうのしないなーと思ってさ」
アクセサリーが嫌いなわけじゃないが、数多く持っているわけでもなかった。たまに、本当にたまにペンダントをするぐらい。イヤリングなんて、つけたことなかったような気がする。
「つけて欲しいとか思うの?」
「あー……まあ、たまにはな。つけなくても可愛いけどな」
どき。
……こいつ最近、やたらと可愛いなんて言う。嬉しいことは確かに嬉しいんだけど、さらっと言われようが、こっちが照れるのでやめて欲しい。
必死に心臓の早鐘を正常に戻そうと努めながら、遙紀は左耳にもイヤリングをつけた。
「……ん~……」
遙紀は右向いたり左向いたりしながら、鏡で左右対称かどうか確認したが、鏡が小さいので判りにくい。
「ねえ、ちゃんとなって──」
鏡の向こうにいる梨玖に目を向け、見てもらおうと言いかけたのだが、梨玖はぼけーっとした顔でこっちを見ていた。
「梨玖?」
「……メ」
「め?」
「……メッチャ可愛い」
呟くように言って、梨玖は鏡を落としていきなり遙紀を抱き寄せた。
──どきんっ!
初めてキスされた時みたいに心臓が跳ね上がった。せっかく落ち着いたと思ったのに。
「な……なに……?」
男の力で抱き締められて、息が詰まりそうになった。梨玖の、どの辺りかよく判らないが服の上で遙紀は一生懸命呼吸しようとした。
「……わりい」
言って梨玖は腕の力を緩め、真剣な目で遙紀を見つめた。
「え、え?」
「我慢できねえ」
「は? な──」
なにが我慢できないんだと質問する間もなく、口を塞がれてしまった。しかも最初からディープだ。いつもは唇の感触を楽しむように軽いキスを何度か繰り返してから舌を入れてくるのに。だからなのかは知らないが、少し荒っぽいような感じがした。しかし普段が優しすぎるのであんまり乱暴だとは思わなかった。
突然なのはいつも突然だが、イヤリングをつけただけなのになんでだ、と遙紀の頭はちょっとパニックになっていた。
「んっ……ふぁ……り、梨玖、あの、んむっ……」
お互いの唇が離れた瞬間になんとか制しようと思うのだが、すぐに塞がれて何も言えない。キスされるのは素直に好きだと言えるのだが、だからといってこんなところじゃやっぱりなんというか。
……え、あ、うそ、や、やっぱり、こんなところであんなことまでしちゃうつもり!?
「や、梨玖、あ、あの……ぅん……ちょ、ちょっと待っ……」
「キスだけ」
「だ、だけって……んっ……け、けど……」
「お前が怒ってると思ってたからずっと我慢してたんだぞ」
「……って、その前は……んふぁっ……も、もっとしてなかっ……ひゃ!」
口から離れたと思ったら、梨玖はイヤリングをつけた遙紀の左の耳たぶをくわえた。遙紀はぞわっと全身総毛立たせ、くすぐったくて身体を硬直させる。
「やんっ、り、梨玖、ちょ、ちょっと、それ、や、やめて……!」
「やーだね」
「ひやぁぁっ! そ、そこでしゃべんないで!」
耳の中に梨玖の熱い息がかかってなんともいえない気分になった。もしかしてこれは、感じているということなんだろうか?
──うそぉ!
しかし、今すぐやめて欲しいと思う反面、もっとやって欲しいと思うのも事実だった。
ああ、うそ、あたし、梨玖みたいに、す、すごいスケベになったんじゃ……。
耳たぶをくわえられたり息をかけられたり最後には耳の中に舌を入れられたり。だがそれだけでは終わらずに、梨玖は耳から下へ向かった。
「や、あぁぁっ……!」
遙紀の肩につく髪に梳くように手を入れた梨玖は、首筋に舌を這わせた。
「やっ……ちょ、キ、キスだけって……んんっ……い、言ったじゃ……」
「キスしかしてないじゃん」
「で、でも、そ、それって……んぁぁ……!」
舐められたり吸われたり。首筋にキスされるのがこんなにぞくぞくするとは思わなかった。やっぱりこれは、気持ちいいと感じていることになるのか?
「遙紀」
「……んっ……な、なに……あぁ……」
「もっと声聞かせろ」
「きっ」
聞かせてるじゃないの、充分!
と怒鳴りたかったのだが声にならなかった。これ以上変な声を出そうと考えたりしたら、ものすごい声で叫んでしまいそうだ。
今いるのは、地上から遥か上空で、個室とはいっても上半分はガラス張りで外が丸見え。外の景色を眺めるためのものなので見えて当たり前なのだが、どうしてカーテンとか色つきガラスじゃないの!?と思わずにはいられなかった。
たぶん、ほかの個室でも似たようなことがなされているんだろう。だから誰が見ているわけもないのだが、もしかして誰かが望遠鏡とかで覗いてたら、なんて思ってしまう。
口と耳と首。三ヶ所も攻められてだんだんぼや~っと視界が揺れてきた。頭が真っ白になって梨玖の為すがまま、という状態になるのは時間の問題。いや、今でもかなり為すがままだが。
ぼうっとしている遙紀は、あの部分が熱くなってきていることを自覚した。下着が濡れているような感じはないけど、このまま続けられたらたぶんそうなる。直接触られているわけでもないし、胸を触られているわけでもない。キスだけでこんなの、変じゃないんだろうか。熱いのに、寒気を感じているみたいに全身が震えて止まらない。
「……んんあぁぁ……り……く……あ、あの……んっ、あ……」
「やめるか?」
「……ん……」
やめて欲しいけどやめて欲しくない。続けて欲しいけど、やっぱりダメ。
「じゃーさ」
「……え……?」
梨玖は唐突にキスをやめ、遙紀の鼻先でにたりと笑った。
「帰ってから続きやるぞ」
「……え?……つ、続きって……」
「お前がイクまで」
「……う、そ、それって……ま、またあたし……だけ……?」
「は? ああ、そうそう」
……やだ、うそ、なんで……?
なんであたしだけなの? なんで梨玖はなにも……。
「あ、あの……ね、梨玖」
「なんだ?」
「あ……あたし、じゃ……したく、ないの?」
「……………………は?」
梨玖はしかめっ面をした。
「やってんじゃん」
「じゃなくて……あの……ふ、普通の……っていうか……」
「やっぱ俺も一緒にイって欲しいのか?」
「ち、違う! そうじゃ、なくて……えっと……普通、男の子って自分がしたいからするんでしょ? なのにどうして梨玖はしようとしないの? あたしどこか変なの?」
「……いや別に変じゃねぇけど。っていうかメッチャ可愛いけど」
「う、いや、で、でも、あの……梨玖言ったでしょ? その……女の子がそうなってるのを見て男は興奮するんだって。けど梨玖は、あたしがそうなってても興奮しないから、普通のはしないんじゃ……ないの?」
「……あ~~」
梨玖は目をしかめ、額に手を当てて考える人のポーズをした。
「……あのな」
「う、うん」
「好きな女が悶えてて興奮しない男がどこにいる」
「で、でも」
「男がみんな興奮したらやりたがるってもんじゃねぇんだよ」
「……でも、あんた最初の時に……普通にしようとしなかった?」
「あ、あれはだな、え~、あ~、その~」
「……なに?」
「な、なんでもいい。あれは忘れろ。俺は忘れた」
「……なにそれ」
「と、とにかく!」
梨玖はなにやらごまかすように怒鳴った。
「女は最初はすげぇ痛いっていうんだよ。けど俺はお前に痛い思いさせたくないし、自分の欲だけで抱くっていうのがなんか独りよがりっていうか、それにお前がイクとこは見たいんだけど俺がお前の中に入れちまったら見てる余裕がなくなる気がするからもったいないしだな、だいたい、花嫁っていったら処女が当然だろ!」
怒ったようにそう言ったあと、肩で息をした梨玖はほんのわずかに頬を染めて顔を逸らした。ムッとしたような顔で、どこか遠くの空を見つめている。
「……はなよめ?」
遙紀は唖然として言った。
……今どき、処女の花嫁?
もちろん、いないこともないと思う。純潔を貫いて結婚するカップルもいることだろう。だけど、梨玖がそんなこと考えてるなんて。
「……幻想持っててわりいか」
「えっと……悪いとかじゃなくて……あんたって……乙女チックなのね」
言うと梨玖はずっこけた。前のめりに額を足下の鉄板にぶつけた。ちょっと個室がぐらっと揺れた。
「お前な!」
「……ごめん」
梨玖の照れた顔なんて、付き合ってくれと告白されたとき以来だ。照れながらすねた梨玖は、再び座り直して、ぼそっと言った。
「……しょーがねぇだろ。大事にしたいって思っちまったんだ」
「……え?」
なにかとんでもない言葉を聞いたような気がして、遙紀はゆっくり顔をめぐらせて梨玖を見た。
右足を左足の太股の上に乗せ、右足の膝の上に頬杖をついた恰好の梨玖は、さっきよりももっと顔を背け、二度と言わねえぞ、と言いたげにわざとらしく大きく鼻を鳴らした。
「……あ、ありがと……」
こういう場合、礼は言うべきなのか言わなくていいのか、悩んだが、嬉しいので言ってしまった。
「……おう」
こっちを見ないまま、梨玖は返事をした。
割り箸を空中でぐるぐる回したら巨大な綿菓子が出来そうなほどに甘ったる~いムードが漂っているのにもかかわらず、どちらも観覧車を降りるまで一言も口を利かなかった。
夕方近くになって、二人は家に帰った。以前のデートはもう少し遅くまで、夕食も一緒にとってから帰っていたのだが、帰る家が同じなのだから何時に帰ろうとも同じだ。
そもそも今日は母が自分のために夕食を作ってくれているのだ。早く帰らないと悪い。夕食はなにがいいかと尋ねられたのは、たぶん自分の誕生日だったからだ。ゆっくりしてね、と言ったのも、そのためだろう。
しかし、母はダイニングで料理本を真剣な表情で見つめていた。自分たちに気づくと、母は慌てて本を閉じた。
「あ、あら。早かったのね」
「なにやってんだよ、お袋」
「……お母さん、もしかしてラザニアは作ったことない……とか?」
「や、やぁね。もちろんあるわよ。復習してたの。復習」
たぶん、嘘だ。こういう嘘は、嬉しいものだが。
母子二人暮らしの家庭で、ラザニアなんて凝ったものは、そうそう作るわけにもいかないだろう。この母は、息子を一人で育てるために仕事と家事をしてきた。比重が仕事に偏るのは仕方ない。現に梨玖が、レトルトが多い、と以前言っていた。
料理に手間をかけるかどうかで、母としてどうかということにはならないと思っている。母親というものがいなかったからそう思えるのだろうが。
「……お母さん、あたし手伝うわ」
「あ、あらダメよ。遙紀ちゃんは今日は休んでてもらわないと」
「え、えっと……あ。お母さんと一緒に料理作りたいの」
「……あら。まあ。そう。やだわ。嬉しいじゃないの。やっぱり持つべきものは娘ねぇ。息子じゃ役に立たないもの。愛想ないしねぇ」
「……なんだよ」
梨玖は憮然としていた。
着替えてくる、と母に言って、遙紀は二階へ向かった。
部屋に入ろうとドアを開けたとき、あとから上ってきた梨玖に呼び止められた。
「なに?」
「部屋の鍵」
「は?」
「今日は閉めんなよ」
う。
遙紀は冷や汗をかいた。
……それはつまり、あとで部屋に行くという意味であって、それはまた、観覧車での続きをするという意味であって。
嫌じゃない。嫌じゃないんだけど、素直に頷くのはまだ恥ずかしいし、鍵を自分が開けているというのは、梨玖に言われたからというよりも、来てくれと言っているような気がして……。
「開けとけよ。じゃないとドア叩きながらやらせろーって叫ぶぞ」
「は!?」
こ、こいつならやりかねない……。
「……わ、判ったからそれだけはやめて……」
「よし」
満足げに頷いて、梨玖は自分の部屋に入っていった。
……どこが……大事にしてやりたいって……?
母は、料理があまり得意ではない人だったらしい。もちろんそれは仕事が忙しくてあまり料理を憶えられなかったということであって、才能がないという意味ではないのだが、ラザニアを作るのには二時間かかった。
はーらへったーとダイニングテーブルで叫ぶ梨玖を無視して、遙紀はラザニア以外の料理を作っていった。
「……む? ずいぶん豪勢な料理じゃないか。今日はなんか特別な日か?」
これが実の父の言葉であった。まあ、娘の誕生日なんて十年ぐらい前から忘れている人だ。自分の誕生日ですら忘れている人なので仕方ない。
夕食は午後八時。そのあと一番に風呂に入らされて、上がってきたらリビングにデコレーションケーキが用意してあった。十年ぶりに歳の数だけのローソクを消し、誕生日ってこんなんだったんだ、と懐かしく思ってしまった。
さらにそのあと、兄から電話がかかってきた。今まで一度も妹に祝いの言葉なんて言ったことがないのに、花送っといた、などと言ったのである。おそらく、母がそうさせたのであろうと思われる。母親というのは、みんなそうするものなんだろうか。それとも義理だからなのか、あるいはいつも自分が家事をしているからなのか。でも母の親切なのには変わりないので、素直に喜ぶことにした。
午後九時。
風呂に入って下着を替えたばかりなのにもかかわらず、遙紀はタンスの前であーでもないこーでもないと悩んでいた。
なにせ予告されてしまったのだ。バージンが奪われるわけじゃないらしいが、でもやっぱり自分は裸にされるわけで、ということは下着も見られるわけで、となると一番最近買った奴で梨玖に見せても恥ずかしくないもの、というのをはいていた方がいいかなあと思ったのだ。恥ずかしくないもの、なんてあるわけないし、見せるために下着を選んでいるということ自体がとんでもなく恥ずかしいのだが。
しかし、決まる前に梨玖がやってきてしまった。
「はーるきー。やるぞぉー」
ドアを開けて入ってきた瞬間に、梨玖はそう言った。
どきっとしながらも、遙紀は呆れて何も言えなかった。ムードというものを知らないのだろうか、こいつは。
……って。
ムードなんて考えた時点で、自分は少し期待していたのだと判って赤面した。
タンスを閉めた遙紀は、そこに立ったまま、音が聞こえそうなほどにどきどきしながら梨玖の動きを見ていた。
部屋に入ってきた梨玖は、ドアの内鍵をまず閉めていた。両親対策だろう。
それから部屋の中をきょろきょろ見回す。
「え~っと」
なにやら探しているらしい。
遙紀の机に向かい、梨玖は椅子を調べ始めた。ぐるっと回したり、背もたれを動かしてみたり。市販の学習机などにくっついてくるキャスター付きの普通の椅子である。
「……なにやってんの?」
「ん~、いや~、ちょっとな……」
上の空みたいな返事をし、梨玖は「ダメだな」と言って椅子を元に戻した。
なにがダメだというのか。
次に梨玖は押し入れを開けて中を覗いた。
「なー、遙紀」
「……なに?」
「座布団ねぇか?」
「……座布団? 下の方に置いてるけど」
「……おう、あった……って一個だけか」
と梨玖は呟いて、その座布団を出した。少し厚みのある奴で、遙紀が小学生の頃に作ったのだが、最近はずっとしまいっぱなしだった。
それをベッドの方へ持っていき、枕と重ねてベッド脇の床の上に置いて座り、うーんと唸って首を捻った。
続けてベッドに深く腰掛け、後ろを見てやっぱダメ、と首を振る。それから今度は遙紀の掛け布団を分厚くたたみ、壁にくっつけて置き、布団にもたれるようにベッドの上に座った。しかしまだなにか気に入らないらしく、押し入れから毛布を引っ張り出してきた。
なんだか知らないが、梨玖なりに思うところがあって、なにかセッティングをしようとしているのだろう。……なんのセッティングなんだか。
梨玖の不審すぎる行動を見て、遙紀の胸の高まりは収まってしまった。
人が心の準備をしてないときにはいきなりやるくせに、なんで覚悟を決めたときにはこんなに前準備に時間をかけるのか。
ムッとしているというか苛ついているというか、やはり多少は期待していたということに照れはしたのだが、でもやっぱり期待はずれだと思っている部分の方が大きいようだ。
もう、追い出しちゃおうかな。と考えた遙紀は、カーテンがちゃんと閉められていないことに気づいた。
されるにせよ、されないにせよ、夜にカーテンは閉めるものだ。だいたい、数メートルの距離があるとはいっても真向かいには修祐の部屋がある。以前と同じならば、だが。白いレースのカーテンだけでは影が見えるだろうから、ちゃんと厚い方のカーテンも閉めておこうと思った。
ベッドや押し入れや机を行ったり来たりしている梨玖をほっといて、遙紀はベランダの方へ向かった。
星や月の絵柄がプリントされた黒いカーテン。それを閉めようとして、ふと、向かいの家の玄関に人がいるのが見えた。
「……あれ?」
男女一人ずつ。一人は修祐だ。修祐が修祐の家の前にいても何ら問題はない。
だが、もう一人の小さい人影は、どこからどう見ても、久遠だった。
「……なんで?」
久遠はテレビでは長い髪を二つに分けて耳の上当たりから垂らすという、ロリータな髪型をしているが、普段はバレッタで大人っぽくまとめ上げる。今も変装用の髪型をして頭にサングラスを置き、服装もロングタイトのスカートにノースリーブ・ハイネックの服。背が低くても着こなしが上手いので実に似合っている。
その横にスマートで背の高い修祐が並ぶと、ずいぶんと大人のカップルに見えた。なんだか自分たちとは大違いだ。
いや、そんなことより。なぜこんな時間に久遠が修祐の家から出てくるのか。
「ね、ねえ、梨玖。ちょっと。ねえ、ちょっと来て」
玄関でなにやら話している二人から目を離さずに、遙紀は梨玖を手招きした。
「なんだよ。もーちょっと待てって。すぐしてやっから」
「そ、そうじゃないわよ! いいからちょっと!」
「……なんだよ」
なにやらぶちぶち言いながら梨玖がやってきた。
「あ、あれ見て」
「はあ?」
遙紀は二人に見つからないようにと思って少ーしだけカーテンを開けているのに、梨玖はそれを無理やりばっと開いた。
「……んだ、ありゃ」
「……変よね?」
「変……どころじゃねぇだろ」
「……付き合ってるのかな?」
そんなこと久遠は一言も言わなかったし、修祐も言わなかった。素振りすら見せなかったのに。
「いや、けど……あいつ……」
なにやら言いかけて、梨玖はちらっと遙紀を見た。
「なに?」
「……いや。まあ、別にあれだな」
「なんなの?」
「なんでもねぇよ……にしてもあいつ、わりと手ぇ早ぇんだな……」
「どっちが?」
「どっちって……あ~両方」
梨玖は自分で言ってうんうんと頷いた。
二人が揃ってどこかへ歩いていった。まあおそらく久遠の家まで送っていくというところだろう。
現場を目撃しても、遙紀には信じられなかった。
あの二人が付き合っているなんて。いや、付き合っているのかどうかは定かじゃないが、しかしこんな時間に男の家から出てくるなんて、どう考えても深い付き合いだとしか思えない。それともほかにこんな夜遅くに久遠が修祐の家にいる理由があるだろうか。
……ないわよね、やっぱり。
だったらやっぱり付き合っているのか?
「……うそ~」
修祐って久遠のファンだったんだろうか。以前に修祐の口から崎元久遠の名前なんて聞いたことなかったが。
そう言えば修祐が失恋した相手ってどんな子だったんだろう。久遠に似てるのかな、と遙紀はなんとなく考えた。
「あ、おい!」
「え?」
「あいつらのことなんかどうでもいいんだよ!」
「は?──きゃ!」
腰から抱きかかえられて、遙紀はベッドまで運ばれた。抱き上げられるのは前にも経験したが、足が浮いた不安定な状態というのはとんでもなく恐いのだ。落ちても大したことはないと思うが、でもやっぱり梨玖にしがみつこうとしてしまう。
投げられるようにベッドの上に降ろされた。ベッドの端は、深く座っても太股の半分までがやっと置ける程度の幅になっていた。ベッドは横幅一メートルちょっとあるはずなのに、なんでだろうと思ったら、すぐ後ろにかけ布団と毛布の山が出来ていた。
「……なにこれ」
「下のソファーみたいなのがあったらよかったんだけどな」
「え?」
梨玖は真横に座ってきた。この前、生理と嘘をついたときのように、遙紀の横にぴったりくっついている。
「下に足降ろしてる方がやり安いし、寝転んだらさ、ちっちゃくなるだろ?」
と言って遙紀の胸を指した。
「……悪かったわね。大きくなくて」
「んなこと言ってねぇだろ。なんかこう、下から持ち上げてたぷたぷしたいなーってさ」
「た」
たぷたぷ。
……こ、このスケベ……!
遙紀は真っ赤になって梨玖を睨んだ。が、梨玖は知らん顔していた。
「んじゃ、やるぞ」
と色気もなく言われた途端、遙紀の心臓はまたどきどきどきどき言い始めた。
……やっぱり期待してるんだ、あたし……。
それが証拠に、キスされて胸を触られただけですぐに下着の奥が熱くなってきた。もしかして直接触られる前に濡れてしまうかもしれない。それを見たらきっと梨玖は驚いて、自分は死ぬほど恥ずかしくなるんだろう。でも、やめて欲しいとは全然思わなかった。
翌日、月曜日。
久遠に事の真相を確かめようと思ったのだが、久遠は休みだった。芸能活動よりも学校を優先している久遠は滅多なことでは休まないのに。
急な仕事でも入ったのかな、と思っていたら、同級生の女の子たちが遙紀を呼んだ。
「ねえ、高杉さんって久遠と仲いいでしょ? この人誰か知ってる?」
まだクラス全員の名前は憶え切れていないが、そう聞いてきたのは古島仁美という名前の女子生徒で、出席番号が遙紀の前だ。テニス部でレギュラーをしていると自慢げに自己紹介していた。自慢げといっても別に嫌な感じではなかったし、席もすぐ前なので遙紀はよくに話をする。
久遠の名を呼び捨てにしているが、特別仲がいいというわけではなくて、単にテレビで久遠は「久遠」と名前の方だけで呼ばれることが多いからだ。名字と名前の一部ずつをくっつけて呼ぶのがはやっているからといって、どこかのマスコミが「サキクオ」などと略したことがあったのだが、言いやすく縮めるはずがかえって言いにくくなったのでそれはまったく定着しなかった。
ほかの、まだ遙紀が憶えていない女の子三人と、スポーツ新聞を机に広げて読んでいた。こんなものを読むなんて親父臭いわ、と思ったが、見出しに大きく「崎元久遠」と書かれていたので納得した。
久遠がなんでスポーツ新聞に?と首を傾げつつ見ると、名前に続けて「恋人か!?」と書いてあった。
「……恋人?」
「聞いたことある?」
興味深い顔で、仁美たちが遙紀に聞いた。
久遠から聞いたことはないが、それらしいのがいるみたいではある。
どこかの町中で昨日見たのと同じ服装をした久遠が、男と腕を組んで歩いている後ろ姿の写真が一面に載っていた。見憶えがある風景なのでおそらく高鳥地区周辺だろう。サングラスをかけているが、久遠だとすぐに判る。見慣れているから判るのかもしれない。
久遠は腕を組んだ相手の男に顔を向けていた。つまり横顔が撮られているのだが、男の方はわずかに斜めを向いているだけなので、顔は全然判らない。かろうじて、眼鏡をしているのが見て取れる。
知らなければその正体は絶対に判らないだろう。しかし、遙紀には久遠以上に見慣れた後ろ姿だった。彼氏である梨玖以上にも見慣れた男。生まれてから今まで、正確には十六年間、いつも一緒にいた奴だ。
どこからどう見ても、それは修祐以外の何者でもなかった。
……撮られちゃったんだ。
自分のことのように、遙紀は動揺した。
「高杉さん、知ってる?」
「……え、あ、いや……あの子に恋人なんていないと思うけど……」
「でも腕組んで歩いてるなんて、ねえ?」
「うん、絶対、彼氏よ」
「でもなんかかっこよさそうな人じゃない?」
「そーね、大人って感じ」
「いーなー。芸能人かな?」
「えー? そうかなあ。こんな感じの人っていたっけー?」
仁美たちは勝手に決めつけ、あれこれ想像していった。
下手に自分が言い訳するとかえって怪しまれる。たぶん今日、久遠が休んでいるのはこのせいだろう。
「……こ、これ、あとでもらえないかな? お金払うから」
「うん、いいわよ」
「あ、ありがと」
その後、回し読みされていい加減くたびれた新聞を買い取り、遙紀は昼休みに弁当と新聞を持って二年七組にダッシュした。
第4章 嘘から出た本音 終わり
本当に来てしまった。
遙紀の家がある高鳥地区の東隣が蒼羽地区。蒼羽駅から北へ直行バスで二十分。大きなドーム型の建物が一つあり、それを囲うように楕円形に屋外ブースが広がっている。この辺りは古い家柄の人が多く住んでいて、日本とは思えない大きさの家がいっぱい建っている。カリフォルニアとかビバリーヒルズ、といった感じだ。その高級住宅街のど真ん中に、南條エンターテイメント・ビックアイがある。
ビッグアイというのは雪山に住む伝説の一つ目の雪男のことで、本来なら恐ろしい姿で描かれるところを、マスコットキャラクターらしく愛嬌のある姿に変わっている。白い毛皮に覆われた一つ目の雪男がパーク内のあちこちにいて、小さい子供を脅かしたり抱きかかえたりして遊んでいる。あんなアルバイトをする人って大変だろうなあと、雪男を見て遙紀は思った。
朝のうちは、屋内のゲームで遊んだ。ほとんど梨玖に振り回される形だったが。
昼食は、東側の屋外ブースにあるレストランに行った。遙紀はグラタンセットを食べ、梨玖はハンバーガーセットを食べた。
梨玖が会計を済ませている間、遙紀は先にレストランの外に出て待っていた。
……なんか、普通にデートしてるわ。
それが悪いわけじゃないのだが、こんなことしてていいんだろうかと思った。
よく考えれば、あの時にあの場所であんなことをした梨玖がそもそも悪いのだし、あの程度の嘘で梨玖が怒ったりするはずもない。たぶん、なんだ嘘かよ、って言って終わりだ。それ以上でもそれ以下でもない。
だけど、嘘をついたことに変わりはなく、そのことで自分は罪悪感を感じている。生理なんて嘘だったの、とさっさと言うべきなのだ。なのにあの夢のことを思い出して言えずにいる自分がとても情けなかった。
「よーし、行くぞ遙紀」
「え? あ、うん」
レストランを出てきた梨玖は、すぐさまどこかへ向かっていった。遙紀は慌てて後を追った。
「……これ、乗るの?」
遙紀は唖然として、それを見上げた。
「乗るんだよ」
梨玖は即答した。
二人は今、巨大観覧車の前にいる。一回り三十分はかかるというゆーっくりのーんびりした乗り物。
これまでにもほかの遊園地などへ行ったことは何度かある。梨玖はジェットコースターみたいな「血が騒ぐ」ものだったらなんでも乗りたがる。普通の奴からループの奴、垂直落下とかぐるぐるに振り回される奴まで。しかしこの観覧車やメリーゴーランドみたいな平和かつ安全なものはつまらんとかいって絶対乗ろうとしなかった。
危険……なわけはないはずだが、恐いものに乗せられたあとはちょっと落ち着ける奴にしてくれ、と付き合わされている遙紀はいつも思う。
それなのに。どういうわけか。まだ全然ジェットコースター系に乗っていないのにもかかわらず。梨玖は観覧車に乗ると言い出した。
「……なんで?」
「乗っちゃわりいのか」
梨玖は憮然としていた。
「だって。あんたのガラじゃないじゃない」
「いーから乗るんだよ」
と言って梨玖は遙紀の腕を引っ張って、五メートルぐらいの列の最後尾に並んだ。
遙紀たちの前にいるのは、ほとんど全部がカップル。自分たちもそうだけど、なんというか、空気が違う。ピンク色のオーラが見えそうなぐらいに、ベタベタ。観覧車でいちゃつこうというのは別に構わないが、乗ってからにしてもらいたい。
列が進むのは、観覧車の移動速度よりも遅いような気がした。二十分ぐらい経った頃にやっと自分たちの順になった。
先に遙紀が中に乗って、進行方向に向いた方に座った。そして梨玖は向かい側じゃなくて隣に座ってきた。
カップルだったらそれが当たり前のような気がするが、なんでだろうと遙紀は考えた。
梨玖はスケベだけどあんまりベタベタしない。身体がくっついていないと不安だ、というタイプではない。遙紀も恥ずかしいから、というのではなくて、そこまでくっついてなくてもいいじゃない、と思うのだ。
しかし。もしかしたら、あの恥ずかしくて死にそうなことを自分にし出してから、なんか変わったのかもしれない。ほかのカップルみたいにピンク色のオーラをまといたいというのか──。
──あ!
ま、まさか、こっ、こんなとこで、あ、あんな……ことするんじゃ……。
いや、いくらなんでもそれはないと思う。人前では絶対軽いキスもしない梨玖が、誰も見ていないとはいっても誰にでも見られそうなところであんなことするわけないと……思いたい。だいたい梨玖は自分が今生理中だと思っている。
で、でも、じゃあなんで、隣に座るの?
「遙紀」
「え、な、なに?」
観覧車のドアが閉められてからすぐ、梨玖が上着のポケットからなにかを取り出して遙紀に差し出した。小さくて白い紙袋。
「……なに?」
「なにって、あれ」
「は?」
「……お前、今日なんの日か判ってねぇの?」
「え?」
今日?……なに?
「四月何日だ?」
「え? えっと……十二……あ」
「判ったか?」
自分の誕生日であった。なんか色々あってすっかり忘れていた。今日で遙紀は十七歳になるのだ。
「俺、先月十六になったばっかだっつーのにな……ま、いーから開けろよ」
「う、うん」
おバカな梨玖が憶えていたなんて信じられないが、とにかくこの袋の中身は誕生日プレゼントなわけだ。
ちょっと、いやかなりどきどきしながら袋を開けた。愛想のない袋の入っていたのは、これまた愛想なくケースもなにもないイヤリングが二つ。
「……これ、梨玖が買ったの?」
「おう」
「……ほんとに?」
「なんだよ」
ムーンストーン……本物ではないだろう、白く濁った半透明のガラス玉かなにかで出来た涙滴型のイヤリングだ。いつ買ったのかはともかく、こんなアクセサリーを梨玖が買ったなんて……想像すると笑える。
「なに笑ってんだよ」
「あ、ごめん。ありが……」
礼を言いかけて、遙紀ははっとした。
もらっちゃっていいんだろうか。嘘つき女のくせに。
「遙紀?」
「……あ、あの」
今言わないと、一生、あれは嘘だったの、と言えなくなる。梨玖にずっと嘘をつき続けることになる。
「どした?」
「……あ、あのね、あたし、生理じゃ……ないの」
「はあ?」
「だ、だから、生理って言ったのは、嘘なの」
「……ああ。んで?」
「で、って……だから、あたし今、生理じゃないんだってば」
「生理じゃないのは判ってるって。なにが言いたいんだよ」
「……え?」
「はーるーき?」
呆然とする遙紀の顔の前で、梨玖はひらひらと手を振った。
「ひょっとしてお前……俺が本気にしたと思ってたのか?」
「……え?」
梨玖は変な顔をした。
「あのな、お前あん時寝てただろ? 俺、触っても反応ないって言っただろ?」
「……え?」
「だから、触ったんだよ。胸とかあそことか」
「……え?」
「すぐやめたけどな。つまんねぇから。だいたいお前な、生理の時っていつもジーパンはくじゃん」
確かにそうだ。スカートだとなんだか落ち着かないので、遙紀は生理の間はずっと濃い色のジーパンをはく。学校ではスカートの下にブルマをはく。さらにジャージの裾を膝まで折ってはいたりもする。
「……え、じゃ、じゃあ、なんであの時やめたの!?」
嘘だと判っていたのに?
「あー、いや、さすがにちょっとあそこでやるのはまずかったかな、って」
「……じゃあ……どうして生理終わったか?って聞いたりしたの?」
「そりゃー、あんなとこでやったからお前が怒ってんのかと思ってさ。生理終わったって言われるまでやめといた方がいいかなーと思ってたんだけどな」
「……なにそれ……」
強ばっていた全身の力が、一気に抜けていくのを感じた。
最初からばれていた……じゃなくて、最初からあの行為をやめてもらうための言い訳だと知られていた。ただ単に、調子を合わせて言っていただけ?
嘘ついて梨玖を騙したと思って悩んでいたのは無意味だったのか?
嫌われるかも、と不安になっていたのは……。
遙紀は、観覧車の天井を見上げ、はあ、とため息をついた。
「おーい? どした?」
梨玖がまたひらひらと手を振る。
「……なんでもない」
わりと梨玖は勘の鋭いところがあって、かと思えば今みたいに自分がなんでため息をついたのか判っていなかったり。でも基本的には単純な奴なので、あそこであんな嘘をついたからといって気にするような奴ではなかったのだ。
……バカみたい。
初めて梨玖に嘘をついてしまったという罪悪感だけで、自分がこんなに暗い思考をするとは思わなかった。結構自分は心配性らしい。
「はーるーき」
「……なに?」
「つけねぇのか?」
と言って遙紀が持っているイヤリングの袋を指差した。
こういうものは、もらったらやっぱりその場でつけてみるのが普通なんだろうか。
そう思って遙紀は、カバンの中から小さい手鏡を取り出した。
「ちょっと持ってて」
梨玖に渡して遙紀の目の高さに手を固定してもらう。
袋から一つイヤリングを出して、まず右の耳につけてみた。
「……あ、ねえ、そう言えばなんでイヤリングなの?」
「ああ、お前あんまりこういうのしないなーと思ってさ」
アクセサリーが嫌いなわけじゃないが、数多く持っているわけでもなかった。たまに、本当にたまにペンダントをするぐらい。イヤリングなんて、つけたことなかったような気がする。
「つけて欲しいとか思うの?」
「あー……まあ、たまにはな。つけなくても可愛いけどな」
どき。
……こいつ最近、やたらと可愛いなんて言う。嬉しいことは確かに嬉しいんだけど、さらっと言われようが、こっちが照れるのでやめて欲しい。
必死に心臓の早鐘を正常に戻そうと努めながら、遙紀は左耳にもイヤリングをつけた。
「……ん~……」
遙紀は右向いたり左向いたりしながら、鏡で左右対称かどうか確認したが、鏡が小さいので判りにくい。
「ねえ、ちゃんとなって──」
鏡の向こうにいる梨玖に目を向け、見てもらおうと言いかけたのだが、梨玖はぼけーっとした顔でこっちを見ていた。
「梨玖?」
「……メ」
「め?」
「……メッチャ可愛い」
呟くように言って、梨玖は鏡を落としていきなり遙紀を抱き寄せた。
──どきんっ!
初めてキスされた時みたいに心臓が跳ね上がった。せっかく落ち着いたと思ったのに。
「な……なに……?」
男の力で抱き締められて、息が詰まりそうになった。梨玖の、どの辺りかよく判らないが服の上で遙紀は一生懸命呼吸しようとした。
「……わりい」
言って梨玖は腕の力を緩め、真剣な目で遙紀を見つめた。
「え、え?」
「我慢できねえ」
「は? な──」
なにが我慢できないんだと質問する間もなく、口を塞がれてしまった。しかも最初からディープだ。いつもは唇の感触を楽しむように軽いキスを何度か繰り返してから舌を入れてくるのに。だからなのかは知らないが、少し荒っぽいような感じがした。しかし普段が優しすぎるのであんまり乱暴だとは思わなかった。
突然なのはいつも突然だが、イヤリングをつけただけなのになんでだ、と遙紀の頭はちょっとパニックになっていた。
「んっ……ふぁ……り、梨玖、あの、んむっ……」
お互いの唇が離れた瞬間になんとか制しようと思うのだが、すぐに塞がれて何も言えない。キスされるのは素直に好きだと言えるのだが、だからといってこんなところじゃやっぱりなんというか。
……え、あ、うそ、や、やっぱり、こんなところであんなことまでしちゃうつもり!?
「や、梨玖、あ、あの……ぅん……ちょ、ちょっと待っ……」
「キスだけ」
「だ、だけって……んっ……け、けど……」
「お前が怒ってると思ってたからずっと我慢してたんだぞ」
「……って、その前は……んふぁっ……も、もっとしてなかっ……ひゃ!」
口から離れたと思ったら、梨玖はイヤリングをつけた遙紀の左の耳たぶをくわえた。遙紀はぞわっと全身総毛立たせ、くすぐったくて身体を硬直させる。
「やんっ、り、梨玖、ちょ、ちょっと、それ、や、やめて……!」
「やーだね」
「ひやぁぁっ! そ、そこでしゃべんないで!」
耳の中に梨玖の熱い息がかかってなんともいえない気分になった。もしかしてこれは、感じているということなんだろうか?
──うそぉ!
しかし、今すぐやめて欲しいと思う反面、もっとやって欲しいと思うのも事実だった。
ああ、うそ、あたし、梨玖みたいに、す、すごいスケベになったんじゃ……。
耳たぶをくわえられたり息をかけられたり最後には耳の中に舌を入れられたり。だがそれだけでは終わらずに、梨玖は耳から下へ向かった。
「や、あぁぁっ……!」
遙紀の肩につく髪に梳くように手を入れた梨玖は、首筋に舌を這わせた。
「やっ……ちょ、キ、キスだけって……んんっ……い、言ったじゃ……」
「キスしかしてないじゃん」
「で、でも、そ、それって……んぁぁ……!」
舐められたり吸われたり。首筋にキスされるのがこんなにぞくぞくするとは思わなかった。やっぱりこれは、気持ちいいと感じていることになるのか?
「遙紀」
「……んっ……な、なに……あぁ……」
「もっと声聞かせろ」
「きっ」
聞かせてるじゃないの、充分!
と怒鳴りたかったのだが声にならなかった。これ以上変な声を出そうと考えたりしたら、ものすごい声で叫んでしまいそうだ。
今いるのは、地上から遥か上空で、個室とはいっても上半分はガラス張りで外が丸見え。外の景色を眺めるためのものなので見えて当たり前なのだが、どうしてカーテンとか色つきガラスじゃないの!?と思わずにはいられなかった。
たぶん、ほかの個室でも似たようなことがなされているんだろう。だから誰が見ているわけもないのだが、もしかして誰かが望遠鏡とかで覗いてたら、なんて思ってしまう。
口と耳と首。三ヶ所も攻められてだんだんぼや~っと視界が揺れてきた。頭が真っ白になって梨玖の為すがまま、という状態になるのは時間の問題。いや、今でもかなり為すがままだが。
ぼうっとしている遙紀は、あの部分が熱くなってきていることを自覚した。下着が濡れているような感じはないけど、このまま続けられたらたぶんそうなる。直接触られているわけでもないし、胸を触られているわけでもない。キスだけでこんなの、変じゃないんだろうか。熱いのに、寒気を感じているみたいに全身が震えて止まらない。
「……んんあぁぁ……り……く……あ、あの……んっ、あ……」
「やめるか?」
「……ん……」
やめて欲しいけどやめて欲しくない。続けて欲しいけど、やっぱりダメ。
「じゃーさ」
「……え……?」
梨玖は唐突にキスをやめ、遙紀の鼻先でにたりと笑った。
「帰ってから続きやるぞ」
「……え?……つ、続きって……」
「お前がイクまで」
「……う、そ、それって……ま、またあたし……だけ……?」
「は? ああ、そうそう」
……やだ、うそ、なんで……?
なんであたしだけなの? なんで梨玖はなにも……。
「あ、あの……ね、梨玖」
「なんだ?」
「あ……あたし、じゃ……したく、ないの?」
「……………………は?」
梨玖はしかめっ面をした。
「やってんじゃん」
「じゃなくて……あの……ふ、普通の……っていうか……」
「やっぱ俺も一緒にイって欲しいのか?」
「ち、違う! そうじゃ、なくて……えっと……普通、男の子って自分がしたいからするんでしょ? なのにどうして梨玖はしようとしないの? あたしどこか変なの?」
「……いや別に変じゃねぇけど。っていうかメッチャ可愛いけど」
「う、いや、で、でも、あの……梨玖言ったでしょ? その……女の子がそうなってるのを見て男は興奮するんだって。けど梨玖は、あたしがそうなってても興奮しないから、普通のはしないんじゃ……ないの?」
「……あ~~」
梨玖は目をしかめ、額に手を当てて考える人のポーズをした。
「……あのな」
「う、うん」
「好きな女が悶えてて興奮しない男がどこにいる」
「で、でも」
「男がみんな興奮したらやりたがるってもんじゃねぇんだよ」
「……でも、あんた最初の時に……普通にしようとしなかった?」
「あ、あれはだな、え~、あ~、その~」
「……なに?」
「な、なんでもいい。あれは忘れろ。俺は忘れた」
「……なにそれ」
「と、とにかく!」
梨玖はなにやらごまかすように怒鳴った。
「女は最初はすげぇ痛いっていうんだよ。けど俺はお前に痛い思いさせたくないし、自分の欲だけで抱くっていうのがなんか独りよがりっていうか、それにお前がイクとこは見たいんだけど俺がお前の中に入れちまったら見てる余裕がなくなる気がするからもったいないしだな、だいたい、花嫁っていったら処女が当然だろ!」
怒ったようにそう言ったあと、肩で息をした梨玖はほんのわずかに頬を染めて顔を逸らした。ムッとしたような顔で、どこか遠くの空を見つめている。
「……はなよめ?」
遙紀は唖然として言った。
……今どき、処女の花嫁?
もちろん、いないこともないと思う。純潔を貫いて結婚するカップルもいることだろう。だけど、梨玖がそんなこと考えてるなんて。
「……幻想持っててわりいか」
「えっと……悪いとかじゃなくて……あんたって……乙女チックなのね」
言うと梨玖はずっこけた。前のめりに額を足下の鉄板にぶつけた。ちょっと個室がぐらっと揺れた。
「お前な!」
「……ごめん」
梨玖の照れた顔なんて、付き合ってくれと告白されたとき以来だ。照れながらすねた梨玖は、再び座り直して、ぼそっと言った。
「……しょーがねぇだろ。大事にしたいって思っちまったんだ」
「……え?」
なにかとんでもない言葉を聞いたような気がして、遙紀はゆっくり顔をめぐらせて梨玖を見た。
右足を左足の太股の上に乗せ、右足の膝の上に頬杖をついた恰好の梨玖は、さっきよりももっと顔を背け、二度と言わねえぞ、と言いたげにわざとらしく大きく鼻を鳴らした。
「……あ、ありがと……」
こういう場合、礼は言うべきなのか言わなくていいのか、悩んだが、嬉しいので言ってしまった。
「……おう」
こっちを見ないまま、梨玖は返事をした。
割り箸を空中でぐるぐる回したら巨大な綿菓子が出来そうなほどに甘ったる~いムードが漂っているのにもかかわらず、どちらも観覧車を降りるまで一言も口を利かなかった。
夕方近くになって、二人は家に帰った。以前のデートはもう少し遅くまで、夕食も一緒にとってから帰っていたのだが、帰る家が同じなのだから何時に帰ろうとも同じだ。
そもそも今日は母が自分のために夕食を作ってくれているのだ。早く帰らないと悪い。夕食はなにがいいかと尋ねられたのは、たぶん自分の誕生日だったからだ。ゆっくりしてね、と言ったのも、そのためだろう。
しかし、母はダイニングで料理本を真剣な表情で見つめていた。自分たちに気づくと、母は慌てて本を閉じた。
「あ、あら。早かったのね」
「なにやってんだよ、お袋」
「……お母さん、もしかしてラザニアは作ったことない……とか?」
「や、やぁね。もちろんあるわよ。復習してたの。復習」
たぶん、嘘だ。こういう嘘は、嬉しいものだが。
母子二人暮らしの家庭で、ラザニアなんて凝ったものは、そうそう作るわけにもいかないだろう。この母は、息子を一人で育てるために仕事と家事をしてきた。比重が仕事に偏るのは仕方ない。現に梨玖が、レトルトが多い、と以前言っていた。
料理に手間をかけるかどうかで、母としてどうかということにはならないと思っている。母親というものがいなかったからそう思えるのだろうが。
「……お母さん、あたし手伝うわ」
「あ、あらダメよ。遙紀ちゃんは今日は休んでてもらわないと」
「え、えっと……あ。お母さんと一緒に料理作りたいの」
「……あら。まあ。そう。やだわ。嬉しいじゃないの。やっぱり持つべきものは娘ねぇ。息子じゃ役に立たないもの。愛想ないしねぇ」
「……なんだよ」
梨玖は憮然としていた。
着替えてくる、と母に言って、遙紀は二階へ向かった。
部屋に入ろうとドアを開けたとき、あとから上ってきた梨玖に呼び止められた。
「なに?」
「部屋の鍵」
「は?」
「今日は閉めんなよ」
う。
遙紀は冷や汗をかいた。
……それはつまり、あとで部屋に行くという意味であって、それはまた、観覧車での続きをするという意味であって。
嫌じゃない。嫌じゃないんだけど、素直に頷くのはまだ恥ずかしいし、鍵を自分が開けているというのは、梨玖に言われたからというよりも、来てくれと言っているような気がして……。
「開けとけよ。じゃないとドア叩きながらやらせろーって叫ぶぞ」
「は!?」
こ、こいつならやりかねない……。
「……わ、判ったからそれだけはやめて……」
「よし」
満足げに頷いて、梨玖は自分の部屋に入っていった。
……どこが……大事にしてやりたいって……?
母は、料理があまり得意ではない人だったらしい。もちろんそれは仕事が忙しくてあまり料理を憶えられなかったということであって、才能がないという意味ではないのだが、ラザニアを作るのには二時間かかった。
はーらへったーとダイニングテーブルで叫ぶ梨玖を無視して、遙紀はラザニア以外の料理を作っていった。
「……む? ずいぶん豪勢な料理じゃないか。今日はなんか特別な日か?」
これが実の父の言葉であった。まあ、娘の誕生日なんて十年ぐらい前から忘れている人だ。自分の誕生日ですら忘れている人なので仕方ない。
夕食は午後八時。そのあと一番に風呂に入らされて、上がってきたらリビングにデコレーションケーキが用意してあった。十年ぶりに歳の数だけのローソクを消し、誕生日ってこんなんだったんだ、と懐かしく思ってしまった。
さらにそのあと、兄から電話がかかってきた。今まで一度も妹に祝いの言葉なんて言ったことがないのに、花送っといた、などと言ったのである。おそらく、母がそうさせたのであろうと思われる。母親というのは、みんなそうするものなんだろうか。それとも義理だからなのか、あるいはいつも自分が家事をしているからなのか。でも母の親切なのには変わりないので、素直に喜ぶことにした。
午後九時。
風呂に入って下着を替えたばかりなのにもかかわらず、遙紀はタンスの前であーでもないこーでもないと悩んでいた。
なにせ予告されてしまったのだ。バージンが奪われるわけじゃないらしいが、でもやっぱり自分は裸にされるわけで、ということは下着も見られるわけで、となると一番最近買った奴で梨玖に見せても恥ずかしくないもの、というのをはいていた方がいいかなあと思ったのだ。恥ずかしくないもの、なんてあるわけないし、見せるために下着を選んでいるということ自体がとんでもなく恥ずかしいのだが。
しかし、決まる前に梨玖がやってきてしまった。
「はーるきー。やるぞぉー」
ドアを開けて入ってきた瞬間に、梨玖はそう言った。
どきっとしながらも、遙紀は呆れて何も言えなかった。ムードというものを知らないのだろうか、こいつは。
……って。
ムードなんて考えた時点で、自分は少し期待していたのだと判って赤面した。
タンスを閉めた遙紀は、そこに立ったまま、音が聞こえそうなほどにどきどきしながら梨玖の動きを見ていた。
部屋に入ってきた梨玖は、ドアの内鍵をまず閉めていた。両親対策だろう。
それから部屋の中をきょろきょろ見回す。
「え~っと」
なにやら探しているらしい。
遙紀の机に向かい、梨玖は椅子を調べ始めた。ぐるっと回したり、背もたれを動かしてみたり。市販の学習机などにくっついてくるキャスター付きの普通の椅子である。
「……なにやってんの?」
「ん~、いや~、ちょっとな……」
上の空みたいな返事をし、梨玖は「ダメだな」と言って椅子を元に戻した。
なにがダメだというのか。
次に梨玖は押し入れを開けて中を覗いた。
「なー、遙紀」
「……なに?」
「座布団ねぇか?」
「……座布団? 下の方に置いてるけど」
「……おう、あった……って一個だけか」
と梨玖は呟いて、その座布団を出した。少し厚みのある奴で、遙紀が小学生の頃に作ったのだが、最近はずっとしまいっぱなしだった。
それをベッドの方へ持っていき、枕と重ねてベッド脇の床の上に置いて座り、うーんと唸って首を捻った。
続けてベッドに深く腰掛け、後ろを見てやっぱダメ、と首を振る。それから今度は遙紀の掛け布団を分厚くたたみ、壁にくっつけて置き、布団にもたれるようにベッドの上に座った。しかしまだなにか気に入らないらしく、押し入れから毛布を引っ張り出してきた。
なんだか知らないが、梨玖なりに思うところがあって、なにかセッティングをしようとしているのだろう。……なんのセッティングなんだか。
梨玖の不審すぎる行動を見て、遙紀の胸の高まりは収まってしまった。
人が心の準備をしてないときにはいきなりやるくせに、なんで覚悟を決めたときにはこんなに前準備に時間をかけるのか。
ムッとしているというか苛ついているというか、やはり多少は期待していたということに照れはしたのだが、でもやっぱり期待はずれだと思っている部分の方が大きいようだ。
もう、追い出しちゃおうかな。と考えた遙紀は、カーテンがちゃんと閉められていないことに気づいた。
されるにせよ、されないにせよ、夜にカーテンは閉めるものだ。だいたい、数メートルの距離があるとはいっても真向かいには修祐の部屋がある。以前と同じならば、だが。白いレースのカーテンだけでは影が見えるだろうから、ちゃんと厚い方のカーテンも閉めておこうと思った。
ベッドや押し入れや机を行ったり来たりしている梨玖をほっといて、遙紀はベランダの方へ向かった。
星や月の絵柄がプリントされた黒いカーテン。それを閉めようとして、ふと、向かいの家の玄関に人がいるのが見えた。
「……あれ?」
男女一人ずつ。一人は修祐だ。修祐が修祐の家の前にいても何ら問題はない。
だが、もう一人の小さい人影は、どこからどう見ても、久遠だった。
「……なんで?」
久遠はテレビでは長い髪を二つに分けて耳の上当たりから垂らすという、ロリータな髪型をしているが、普段はバレッタで大人っぽくまとめ上げる。今も変装用の髪型をして頭にサングラスを置き、服装もロングタイトのスカートにノースリーブ・ハイネックの服。背が低くても着こなしが上手いので実に似合っている。
その横にスマートで背の高い修祐が並ぶと、ずいぶんと大人のカップルに見えた。なんだか自分たちとは大違いだ。
いや、そんなことより。なぜこんな時間に久遠が修祐の家から出てくるのか。
「ね、ねえ、梨玖。ちょっと。ねえ、ちょっと来て」
玄関でなにやら話している二人から目を離さずに、遙紀は梨玖を手招きした。
「なんだよ。もーちょっと待てって。すぐしてやっから」
「そ、そうじゃないわよ! いいからちょっと!」
「……なんだよ」
なにやらぶちぶち言いながら梨玖がやってきた。
「あ、あれ見て」
「はあ?」
遙紀は二人に見つからないようにと思って少ーしだけカーテンを開けているのに、梨玖はそれを無理やりばっと開いた。
「……んだ、ありゃ」
「……変よね?」
「変……どころじゃねぇだろ」
「……付き合ってるのかな?」
そんなこと久遠は一言も言わなかったし、修祐も言わなかった。素振りすら見せなかったのに。
「いや、けど……あいつ……」
なにやら言いかけて、梨玖はちらっと遙紀を見た。
「なに?」
「……いや。まあ、別にあれだな」
「なんなの?」
「なんでもねぇよ……にしてもあいつ、わりと手ぇ早ぇんだな……」
「どっちが?」
「どっちって……あ~両方」
梨玖は自分で言ってうんうんと頷いた。
二人が揃ってどこかへ歩いていった。まあおそらく久遠の家まで送っていくというところだろう。
現場を目撃しても、遙紀には信じられなかった。
あの二人が付き合っているなんて。いや、付き合っているのかどうかは定かじゃないが、しかしこんな時間に男の家から出てくるなんて、どう考えても深い付き合いだとしか思えない。それともほかにこんな夜遅くに久遠が修祐の家にいる理由があるだろうか。
……ないわよね、やっぱり。
だったらやっぱり付き合っているのか?
「……うそ~」
修祐って久遠のファンだったんだろうか。以前に修祐の口から崎元久遠の名前なんて聞いたことなかったが。
そう言えば修祐が失恋した相手ってどんな子だったんだろう。久遠に似てるのかな、と遙紀はなんとなく考えた。
「あ、おい!」
「え?」
「あいつらのことなんかどうでもいいんだよ!」
「は?──きゃ!」
腰から抱きかかえられて、遙紀はベッドまで運ばれた。抱き上げられるのは前にも経験したが、足が浮いた不安定な状態というのはとんでもなく恐いのだ。落ちても大したことはないと思うが、でもやっぱり梨玖にしがみつこうとしてしまう。
投げられるようにベッドの上に降ろされた。ベッドの端は、深く座っても太股の半分までがやっと置ける程度の幅になっていた。ベッドは横幅一メートルちょっとあるはずなのに、なんでだろうと思ったら、すぐ後ろにかけ布団と毛布の山が出来ていた。
「……なにこれ」
「下のソファーみたいなのがあったらよかったんだけどな」
「え?」
梨玖は真横に座ってきた。この前、生理と嘘をついたときのように、遙紀の横にぴったりくっついている。
「下に足降ろしてる方がやり安いし、寝転んだらさ、ちっちゃくなるだろ?」
と言って遙紀の胸を指した。
「……悪かったわね。大きくなくて」
「んなこと言ってねぇだろ。なんかこう、下から持ち上げてたぷたぷしたいなーってさ」
「た」
たぷたぷ。
……こ、このスケベ……!
遙紀は真っ赤になって梨玖を睨んだ。が、梨玖は知らん顔していた。
「んじゃ、やるぞ」
と色気もなく言われた途端、遙紀の心臓はまたどきどきどきどき言い始めた。
……やっぱり期待してるんだ、あたし……。
それが証拠に、キスされて胸を触られただけですぐに下着の奥が熱くなってきた。もしかして直接触られる前に濡れてしまうかもしれない。それを見たらきっと梨玖は驚いて、自分は死ぬほど恥ずかしくなるんだろう。でも、やめて欲しいとは全然思わなかった。
翌日、月曜日。
久遠に事の真相を確かめようと思ったのだが、久遠は休みだった。芸能活動よりも学校を優先している久遠は滅多なことでは休まないのに。
急な仕事でも入ったのかな、と思っていたら、同級生の女の子たちが遙紀を呼んだ。
「ねえ、高杉さんって久遠と仲いいでしょ? この人誰か知ってる?」
まだクラス全員の名前は憶え切れていないが、そう聞いてきたのは古島仁美という名前の女子生徒で、出席番号が遙紀の前だ。テニス部でレギュラーをしていると自慢げに自己紹介していた。自慢げといっても別に嫌な感じではなかったし、席もすぐ前なので遙紀はよくに話をする。
久遠の名を呼び捨てにしているが、特別仲がいいというわけではなくて、単にテレビで久遠は「久遠」と名前の方だけで呼ばれることが多いからだ。名字と名前の一部ずつをくっつけて呼ぶのがはやっているからといって、どこかのマスコミが「サキクオ」などと略したことがあったのだが、言いやすく縮めるはずがかえって言いにくくなったのでそれはまったく定着しなかった。
ほかの、まだ遙紀が憶えていない女の子三人と、スポーツ新聞を机に広げて読んでいた。こんなものを読むなんて親父臭いわ、と思ったが、見出しに大きく「崎元久遠」と書かれていたので納得した。
久遠がなんでスポーツ新聞に?と首を傾げつつ見ると、名前に続けて「恋人か!?」と書いてあった。
「……恋人?」
「聞いたことある?」
興味深い顔で、仁美たちが遙紀に聞いた。
久遠から聞いたことはないが、それらしいのがいるみたいではある。
どこかの町中で昨日見たのと同じ服装をした久遠が、男と腕を組んで歩いている後ろ姿の写真が一面に載っていた。見憶えがある風景なのでおそらく高鳥地区周辺だろう。サングラスをかけているが、久遠だとすぐに判る。見慣れているから判るのかもしれない。
久遠は腕を組んだ相手の男に顔を向けていた。つまり横顔が撮られているのだが、男の方はわずかに斜めを向いているだけなので、顔は全然判らない。かろうじて、眼鏡をしているのが見て取れる。
知らなければその正体は絶対に判らないだろう。しかし、遙紀には久遠以上に見慣れた後ろ姿だった。彼氏である梨玖以上にも見慣れた男。生まれてから今まで、正確には十六年間、いつも一緒にいた奴だ。
どこからどう見ても、それは修祐以外の何者でもなかった。
……撮られちゃったんだ。
自分のことのように、遙紀は動揺した。
「高杉さん、知ってる?」
「……え、あ、いや……あの子に恋人なんていないと思うけど……」
「でも腕組んで歩いてるなんて、ねえ?」
「うん、絶対、彼氏よ」
「でもなんかかっこよさそうな人じゃない?」
「そーね、大人って感じ」
「いーなー。芸能人かな?」
「えー? そうかなあ。こんな感じの人っていたっけー?」
仁美たちは勝手に決めつけ、あれこれ想像していった。
下手に自分が言い訳するとかえって怪しまれる。たぶん今日、久遠が休んでいるのはこのせいだろう。
「……こ、これ、あとでもらえないかな? お金払うから」
「うん、いいわよ」
「あ、ありがと」
その後、回し読みされていい加減くたびれた新聞を買い取り、遙紀は昼休みに弁当と新聞を持って二年七組にダッシュした。
第4章 嘘から出た本音 終わり
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