小説(転載) Eternal Delta 8/9
官能小説
第4章 嘘から出た本音〈1〉
「……結婚?」
修祐は呆然とした顔で聞き返した。
久遠の問題発言のあと、とりあえず座ろうぜ、という梨玖の言葉で遙紀は我に返った。ソファーの奥に自分と梨玖が座り、廊下側に久遠と修祐が座っていて、さっきからずっと久遠は修祐の横顔を眺めている。確かに修祐はハンサムな顔立ちをしていて背も高くて頭がいい。実際モテる奴だが、だからといって初対面でいきなり「抱いてくれ」はないと遙紀は思う。
遙紀が割ったグラスを片付けてコーラを入れ直している間に、久遠が修祐の隣にさっと座ってしまったのだ。自分としては誰がどこに座ろうとも構わないのだが、修祐が左半身を異常なまでに緊張させているのがはっきり判る。修祐は元々人見知りするタイプだし、せっかくモテるのに実は女の子が苦手な奴だった。だからこそ、ちょっと付き合ってみる、ということが出来なかったのだろう。
その修祐の様子を見て、梨玖が哀れだという顔をしていた。久遠なんかに好かれて、と言いたいのだろう。遙紀もちょっとそう思う。
コーラの入ったグラスをみんなの前に置き、遙紀が梨玖の隣に座ってから、梨玖が修祐に質問した。義理の兄弟姉妹は結婚できるのか、と。
もし出来ないとしたら、自分はどうするんだろう、と遙紀は考えてみた。結婚できない相手と付き合うのは変というか意味がないような気がする。別に結婚を前提に付き合っているというわけじゃないが。しかし、今現在好きなのは梨玖だ。結婚できないから付き合うのをやめる、なんて、ちょっと、かなり、嫌だった。
「出来るよ、確か」
修祐はあっさり言った。
「……え、ほ、ほんとに?」
なんというか見えない壁に突進していって突然その壁が消えて勢い余ってそのままずっこけた、みたいな感じだった。ようするに肩透かし。それが悪いわけじゃないが。
見れば梨玖も、眉をひそめて唖然としていた。
「あくまでも義理なんだから、なんの問題もないと思うけど」
修祐はさらにあっさり言った。
「……でも、戸籍上は姉弟でしょ?」
「ああ、いや、それはそうだけど……」
「んなことどこにも書いてなかったぜ。……と思うぞ」
梨玖は疑わしい顔をしていた。なんでそんな簡単に判るんだ、と言いたいんだろう。
「書いて?……ああ、六法全書読んだのか?」
「うん、一応見たんだけど……連れ子同士での結婚、って言葉が全然なかったから」
「ない?……そんなことないと思うけど」
見せてくれと修祐に言われたので、遙紀は父の書斎に六法全書を取りに向かった。
今日もまた父は部屋で執筆中で、母は出版社へ出掛けた。母は昼過ぎに帰ると朝出掛ける前に言っていたが、帰ってきたら画集に載せる書き下ろしの絵を描くので、夕食の準備は今日も遙紀の仕事だ。基本的に家事は好きなので構わない。が、普通父親が再婚する理由といえば、子供には母親という存在が必要で、家事をしてくれる人が必要だから、じゃないかと思う。まあ、高校生にもなって甘えたことを言うつもりはないし、母親がいないのが当たり前の生活に慣れてしまっていたから、新しい母がパワフルに仕事に熱中するのは全然OKだ。
書斎に入ると、本に埋もれた父の猫背が見えた。積み上げられた本の上にどんぶりが載っている。ちゃんと空になっていた。執筆中の父は持ってきたら食べるが、持ってこないと永遠に食べない。
「父さん、六法全書、また借りるからね」
と言って遙紀は本の山の中から「明解六法」を取り、どんぶりと箸を持って書斎を出た。ドアを閉める前に、「む?」という父のずれた返事が聞こえた。
先にどんぶりと箸をキッチンの流しに置きに行き、リビングに戻った。
「はい修祐。これでいいんだよね?」
「ああ……ずいぶん古そうだな」
色褪せた「明解六法」を手にして、修祐はぺらぺらとページをめくった。
「めちゃ早かったな」
梨玖は意外だという顔をした。まあ、昨日に比べればずいぶんと早い。
「うん。上の方に置いてたから。それよりあんた飲み過ぎ」
梨玖はコーラのペットボトルを持ってきていた。もうほとんど空になっている。
「なに言ってんだよ。五センチほどしか入れてねぇぞ」
「……なにが五センチ?」
「梅酒」
「……はあ!?」
遙紀は思わず、梨玖のグラスに顔を近づけて匂いを嗅いでしまった。
「うわっ……」
強烈なアルコールの匂いに、頭がふら~っとした。ソファーの上に横向きに倒れる。
「お前、酒入ってるって言ってんのに匂うなよ」
弱いくせに、と梨玖が呆れた声で言った。
頭がずきずきしてきた。五センチの酒だと、梨玖にすれば飲んだうちに入らないのだろう。しかし遙紀にすれば酒樽に浸かったようなものだ。
「えーっと、遙紀? いいか?」
修祐の呼ぶ声がした。
……なんの話してたんだっけ?
意識がもうろうとする遙紀を、梨玖が無理やり引き起こした。
「ほら、飲め」
グラスを口に当てられた。無意識に中身を飲む。甘ったるい炭酸飲料。アルコールは入ってない。みたいだったので自分のグラスだろう。じゃなかったらちょっと困る。
「大丈夫か?」
「……ん~……なんとか……」
まだ頭はふらふらするが。
「……あー、ごめん、修祐」
「ああ、いや。えっと、ここに書いてるんだけど」
と言って、修祐が本を遙紀と梨玖の前に置き、一部分を指差した。
遙紀は目を凝らしてそれを見た。……ぼやけてなにも見えなかった。
「梨玖……読んで……」
「へいへい。えー……どこだって?」
「ここ。近親婚の禁止ってところの、但し、の後」
「……えー……但し、養子と養方の傍系血族との間では、この限りでない」
棒読みするように梨玖が読み上げた。そして首を捻る。
「……なんのこっちゃ?」
それは昨日、遙紀も読んでいた部分だが、いまいち意味が判らなかった。
「傍系って……おじさんおばさんとか、甥とか姪とか……ってことよね?」
「まあ、そう。自分の兄弟も入るんだ」
「……あれ? そうなの?」
「ああ、だから、これが遙紀たちのことになるんだよ」
「……え? でも、養方の傍系血族って……義理の親の傍系血族ってことじゃないの?」
「いや、えっと……養方っていうのは養親の方の、っていう意味なんだ。普通は養子って実の親と引き取った方の親がいるだろ? だから引き取られた親の方側の、養子から見た傍系血族ってこと」
「……え、じゃあ……あたしと梨玖がその関係ってこと?」
「そう」
「待て、判らん。だからなんだって?」
梨玖がしかめっ面をした。遙紀も自分でなにを話しているのかよく判っていない。
「養子ってだいたいは全然赤の他人か、親戚の子を引き取ったりするだろ? だから実際には三親等以上の場合が多いから、遺伝子学的に問題なかったらいいってこと」
「……えー、よーするにだ、俺と遙紀が結婚するのはまったくなんにも心配しなくていいってことか?」
さっぱり意味が判らないので、梨玖は結論だけを聞いたのだろう。そして修祐はまたあっさりと頷いた。
「そういうこと」
「……なんだよ! そうか! お前、いい奴だな!」
梨玖はべしべしと修祐の腕を叩いた。
初めて会ったときの、あのすねた顔はどこへ行ったのか。過去を引きずらないのは男の特権か、梨玖の性格によるものか。
まだ少し頭がぼうっとしているが、遙紀は考えた。
どうやら梨玖と結婚してもいいらしい。というのは判ったが、だからといって本当に結婚することになるのだろうか、こいつと。
嫌なわけじゃない。一般的な家庭というのに憧れてもいる。しかし、ぴんとこない。仕事から戻ってくる梨玖を、家で洗濯とか掃除とか食事の用意とかして待って……。
……って、別に今やってることと変わらないじゃない。
なんだ。そっか。
だったらいいか、別に。
遙紀は自分の将来の可能性の一つを、実に簡単に受け入れた。
「ねぇ、遙紀ちゃん」
「え?」
今まで黙っていた久遠が突然口を開いた。遙紀はその存在を忘れていた。
「もうお話終わった?」
「……は?……うん、まあね」
「そっ。じゃあ、修ちゃん、帰ろっ」
とか言って久遠はぴょこんと立ち上がった。
遙紀は今変なものを聞いたような気がした。
「……しゅうちゃん?」
遙紀は梨玖を見た。梨玖は眉をひそめて唖然としていた。続けて修祐を見た。修祐は引きつった顔をしていた。
しゅうちゃん、というと、この場にいる中でそう呼べるのは修祐しかいないが。
なぜいきなり修ちゃん。
「だってぇ。修祐ちゃん、だと長いんだもん」
「……だもん、じゃなくて……」
「ねえ、修ちゃん、帰ろー」
遙紀を無視して、久遠は修祐の腕を引っ張った。
「え、いや、帰るってどこに……」
「やっだぁ。うちまで送って、って言ってるのぉ」
久遠の家は、ここから少し南に行った高級マンションの最上階。両親はほとんど事務所に寝泊まりしているらしく、久遠は一人暮らしをしているようなものだ。
「……いや、それはちょっと……」
腕を引っ張られているので修祐は半ば腰を浮かせているが、顔は困っていた。
「ちょっと、久遠。あんた芸能人なのよ? 判ってる?」
「なにがぁ?」
「……なにがじゃなくて。あたしだったらともかく……修祐じゃやばくない? 男よ?」
「あー、平気平気」
なにを根拠に言うのか、久遠はぱたぱたと手を振った。
「だって私今、制服だし。あそこに住んでることってマスコミは知らないもん」
いったいどうやってごまかしているのか、久遠は東京の事務所の近所に住んでいることになっているらしい。だが高鳥地区では崎元久遠という芸能人がどのマンションにいるかというのはものすごく有名だ。
「……まあいいけど。でも気をつけなきゃダメよ」
「判ってるってばぁ」
「え、いや、ちょ……」
「修祐、嫌なら嫌って言えよ。そいつつけ上がるぜ」
「梨玖ちゃん! 人の恋路を邪魔しないで!」
「……こ、恋路……?」
修祐はなにをどうしていいのやら、困っていた。気持ちは判る。
「えーっと、修祐。送ってってやって。昼間とはいってもやっぱり久遠だから。一人じゃ危ないと思うの」
「いやぁん! 遙紀ちゃん大好き!」
「……わ、判った」
狼狽しつつも修祐は頷いた。
きゃー!と奇声を、いや、喜声を発しながら久遠は飛び跳ね、リビングを出ていった。
修祐は、はあ、とため息をついた。
「ごめんね、修祐」
「いや……テレビと全然違うんだな」
「テレビは全部演技よ」
「……今判った」
もう一度ため息をついて修祐が立ち上がる。
遙紀も二人を見送りに行こうと思って立ち上がり、一歩足を踏み出した。と思ったら、突然頭にアルコールが回ってくらりと視界が揺れ、足の力が消えて前のめりに倒れた。
「──ひゃ!?」
「え」
どさっと倒れ込んだのはソファーだと思った。のだが、白い合成皮革の手触りではなくて、綿の手触り……Tシャツだ。それと薄手の上着。
くらくらする頭を上に向けた。十センチぐらい先に修祐の顔があった。
「あ、ごめん。まだ酔ってたみたい」
「……いや」
中途半端に遙紀の身体を受け止めている修祐の腕が、なんだか固かった。腕だけじゃなく、身体全体が。
なんでだろう、と考える前に、スカートの腰を後ろから引っ張られた。
「酔っぱらいはじっとしてろ」
梨玖に腰を抱えられた遙紀は、そのまま元の座っていた場所に戻された。代わりに梨玖が二人を見送りに行った。
「修祐、またね」
「……ああ」
修祐は振り返らずに返事をした。
後頭部をかきながら、梨玖がリビングに戻ってきた。なにやら頭を捻っている。
「……あのなあ、遙紀。やっぱあいつさあ……」
「え~……? なに~……?」
遙紀はぼや~っとした返事をした。なぜかさっきよりもアルコールが回っているみたいな気がする。
「……なんでもねぇ」
ぼやけた視界の向こうで、梨玖がしかめっ面でため息をついたように見えた。
「お前ほどアルコールに弱い奴って珍しいよな。母親似か?」
「……う~ん……弱いなんて聞いたことないけど……そうじゃないかなぁ……父さんもお兄ちゃんも飲めるし……」
「じーさんとかばーさんとかは?」
「……いなーい」
「はあ? いないこたぁねぇだろ。死んだから知らねぇとか?」
「じゃなくてぇ、どこにいるのか知らないの」
「……はあ?」
「父さんと母さんって駆け落ちだからぁ。音信不通なの」
「……そーだったのか?」
「うん。学生結婚しようと思ってたんだけど、親が両方とも反対したから、二十歳の時に駆け落ちしたの。大人だったら親の承諾いらないでしょぉ? だからそれまで我慢してたんだって。母さんってね、どっかのお嬢様だったらしくてぇ。でも父さんって怪しい小説家でしょ? だから反対されてたみたい」
「……怪しいって言うなよ、お前が」
「なんでぇ?」
「なんでって……あ、お前、俺のコーラ飲んだのか?」
「え~? 飲んでないよ」
「なくなってるぞ」
「え~?」
と言った直後、遙紀はひっく、としゃっくりをした。
「……あれぇ?」
目の前に置かれた二つのグラス。確か、右側を取ったはずだった。梨玖が二人を見送りに行っている間に、遙紀は酔いを醒まそうと思ってコーラを飲んだのだが。左側の方が空になっていた。
「……どーも話し方が変だと思った」
「一緒だってばぁ」
「いや、幼児化してる。っつーか久遠化してる」
とんでもないことを言って、梨玖はリビングを出ていった。
「どこ行くのぉ?」
聞いたが返事がなかった。が、すぐに戻ってきた。
「ほら、これ全部飲め」
「ん~。なに~?」
「水だよ。いーから飲めって」
「ん~」
渡されたマグカップを両手で掴む。口元に持ってくるだけでずいぶん時間がかかった。特別なんの味もしない水を飲み干した。のだが、半分ほど左右からこぼれていった。あごと首と胸元とTシャツが濡れた。
「ん~~~気持ち悪~~~い~~~~熱~~~い~~~~」
身体の奥が火照ってきた。風邪で高熱が出た時みたいだ。熱くて服なんて着ていられない。と思って遙紀はがばっとTシャツを脱いだ。
さらに胸も苦しくなってブラジャーも取ってしまう。
「……色っぽいんだか色気ないんだか」
梨玖の呆れたような声が遙紀の耳を素通りする。
遙紀はこてん、とソファーに倒れた。心地よい睡魔が襲ってくる。
「あ~あ。しょうがねぇな」
なにやらぶつくさ言う梨玖の声を聞きながら、遙紀は眠った。
遙紀はガン!ガン!というものすごい音で目を覚ました。
「……なんなの……?」
頭に響くその音は、まるで除夜の鐘の中に頭を突っ込んだみたいに、遙紀の頭を揺さぶり続ける。
それが、自分の頭痛だということに気がついて、遙紀は体を起こした。
「……いったーい……」
頭を両手で押さえつけても、頭痛は治らない。
「そりゃ急性アル中って言うんだよ」
「……え?」
ふと見ると、梨玖がすぐそばで宿題をやっていた。遙紀のノートを写している。
「……何であんたがあたしの部屋にいるの?」
「リビングだっての、ここは」
「……あれ?」
言われてみれば、自分の部屋より大きなテレビが右手にある。正面には父のロッキングチェア。
なぜ自分がここで寝ていたのか、遙紀は首を傾げた。
「服持って来てやったから着ろよ」
「……服?」
左手にずり落ちたタオルケットがあった。おそらく梨玖がかけてくれていたのだろう。その横に、見慣れた水色のブラウスと薄いピンクのブラジャーが置いてあった。梨玖だけあって色が適当だ。水色のブラジャーもあるのに。
でもなんで着替えなんて、と疑問に思った遙紀は、身体を見下ろしてはっとした。
「──きゃあぁ!」
上半身裸。慌てて胸を隠す。
「な、なん……ど、どうして……え、え!?」
確かTシャツを着ていたはずだった。ブラジャーも今日は確か白……。
「あ、あんたなんかしたの!?」
「お前が自分で脱いだんだろーがよ」
「う、うううそぉ!」
「あのな。俺のコーラ割り梅酒飲んで、へろへろになって服脱いでぶっ倒れたんだよ」
「な、なにその気持ち悪い飲み物」
「なにが気持ち悪いだよ。全部飲みやがって。コーラも梅酒も残ってなかったのに」
「……い、いつ?」
「四時間前」
「え?」
遙紀はテレビの上にある壁時計を見た。午後四時少し前。そんなに寝ていたとは。
前後不覚になる前になにがあったのか、遙紀はじっくり考えようとした。久遠と学校から帰って、そのあと梨玖が帰ってきて、昼食に親子どんぶり食べて、修祐が来て、少し話を……話……話? なんの?
「……修祐と久遠は?」
「とっくに帰ったって」
「……あ、そう言えば一緒に帰ってたような……なんの話してたの?」
「あのな。俺とお前が結婚できるかってことだろーが」
「……ああ、そっか……あ~~そんなことより頭いたぁい……」
驚きで一瞬退いていた頭痛がまた戻ってきた。とにかく早く服を着なければ。
「こ、こっち見ないでよ」
「いーじゃん、別に」
梨玖はにたにた笑った。
裸を見られること自体が恥ずかしいが、服を着るところを見られるのもまた恥ずかしい。脱ぐところよりはマシだが。
遙紀はソファーに後ろ向きに正座して、梨玖に背を向けた。さっさとブラジャーを着け、ブラウスを着る。最後の胸元のボタンをとめながら前に向き直った。
ふうと安心して息をついたと思ったら、梨玖が真横にいるのに気づいた。
「わ、な、なに!?」
ソファーに斜めに座って遙紀の背中近くの背もたれに片腕を置き、遙紀の左側にぴったりくっついていた。
「寝てるときにやってもつまんねぇしな」
「な、なにが」
「触ったってなんの反応もないし。けど四時間もあんな恰好見せられたんじゃあなあ」
「だ、だ、だから、なにが!?」
「だから見せろ」
「は!?」
「イクとこ」
「はあ!?……って、ちょっ──」
反論する暇もなく口を塞がれる。
しばらくして梨玖の舌が進入してきた。言葉遣いが悪くておおざっぱで無茶なことばっかり言う梨玖だが、キスはいつも優しくて甘くて遙紀はすぐにぼうっとする。最初は他人の唾液を飲むなんてかなり抵抗あったのだが、二回目からは平気になった。思考が停止するので抵抗を感じている余裕なんてなくなるのだ。
頭が白くなってきた頃、遙紀の頬を支えるように持っていた梨玖の左手が、ゆっくり下に降りていった。ブラウスのボタンが二つ外されて、ブラジャーがめくり上げられて、右の胸を鷲掴みにされたときにやっと遙紀は気づいた。
「……んぅ!?……やっ、ちょ……ちょっと……!」
キスの間に忘れてしまったが、イクとこ、ということは、またあんなことをしようというのだろう。
「ちょっ……や、やだ、梨玖、んむっ……や、やめ……」
キスをされながら胸を揉まれる。なんとかしてキスを逃れてきっぱりやめろと言わないと。こんなところじゃいつ両親に見られるか。
「梨玖、やめてってば……! お、お母さん帰って来るじゃない!」
「もう帰ってる」
「え!?」
「部屋で仕事中。あ、晩飯よろしくだってさ」
「へ、部屋って、隣じゃないの! や、やめてよ!」
「んじゃ上行くか?」
「そ、そーじゃなくて!──やぁっ……」
胸の先端をつままれた。身体の中心を、なにかが駆け回った。痛くない程度につままれたまま、くりくり動かされる。背中がぞくぞくし、体が熱くなってきた。これはアルコールがまだ残っているからなのか、愛撫されることに身体が慣れてきて反応が早くなっているのか。声を出さないようにすることだけに、遙紀は一生懸命集中しようとしていた。
梨玖の口が左胸に移った。片方だけ上げていたブラジャーを左側も上げ、梨玖が胸に吸い付いた。
「いやぁんっ……!」
出さないように頑張っているのに、勝手に声が出てしまう。これでは絶対両親に聞こえる。もしこんなところを見られたら、どう言い訳すればいいのか。言い訳するのは梨玖だろうが、自分も何か言われるに決まっている。だいたい、親にこんな自分の姿を見られるなんて、この世で二番目に嫌だ。一番嫌なのは梨玖に見られることだが。赤の他人に見られるのも嫌だけど、好きな相手に悶える姿を見られるほど恥ずかしいことはない。
といってもそれが見たいと言ってこんなことをしているのはその相手だが。
吸ったり転がしたり揉んだり。口で左胸をもてあそびつつ、梨玖が左手を降ろしていく。膝の上に梨玖の手が置かれ、スカートと一緒に徐々に上がっていく。
「やっ! だ、だめ! ダメってば!」
そんなところまで触られたら、絶対ものすごい声を上げてしまう。
遙紀は忘れていた自分の両手で、必死に梨玖の手を止めようとスカートを押さえる。
「だーいじょーぶだって。口塞いでてやっから」
と言って遙紀の口を右手でぱたっと押さえる。
「ンーーーっ!……そっ、そんな問題じゃないってば!」
頭を振って梨玖の手から逃れた。
「どんな問題だよ」
親に聞こえるのが問題だ!……と言おうとした遙紀だが、もっと違うことじゃないと梨玖は止められないように思った。
「あ、あ、あ、あ、あの、あ、あたし……せ、生理中なの!」
梨玖の全部の動きがぴたっと止まった。
「……マジ?」
遙紀はこくこくと頷いた。
「昨日はなんともなかったのに?」
「け、今朝からなの」
声がちょっとひっくり返ってしまった。なぜなら大嘘だからだ。生理は十日ほど前に終わったばかりだ。
生理中だ、なんて言うのはいくら彼氏であろうが非常に恥ずかしい。彼氏だからこそ恥ずかしい。女の身体として当たり前の機能なのだが、どうしても恥ずかしい。初潮は小学六年生の夏休み。夜に宿題をやっていて下着が冷たくなっていることに気づいた遙紀はトイレで初潮を知った。しかし父に相談するわけにもいかず、慌てて血だらけの下着をはいたままで修祐の家に駆け込み、修祐の母に助けを求めたのだった。その翌日、修祐の母は赤飯を炊いて持ってきた。父は遙紀が女になったと嬉しいのか悲しいのか泣き叫び、兄はさんざん遙紀をからかって遊んだ。そしてさらに翌日、買い物に行こうと家を出たところで修祐とばったり会ったのだが、修祐は顔面真っ赤っかにして走り去ってしまった。おそらくどうして赤飯を炊くのかと母親に聞いたのだろう。どこ行くの?と聞きかけた遙紀だったが、そのあと恥ずかしくて家に駆け戻った。
そういうことがあったお陰で、遙紀は女友達とも生理の話をするのが恥ずかしい。しかも、生理だという嘘をつくなんて。
梨玖はため息と共に遙紀から手を離した。
「あ~~、さすがにそれはちょっとなぁ……血は恐いな」
どうやら諦めてくれたようだ。
男にとって生理なんて未知のものだから、普通の血とは違うと判っているだろうが、止めどなく流れる血、なんて確かに恐いだろう。
ほっとすると同時に、遙紀は罪悪感を感じた。いくら場所が場所だからといっても、梨玖にそういう嘘をつくなんて。
「……けどお前さ」
「え、な、なに!?」
梨玖は不思議そうな顔をした。
「春休みに入ってすぐに生理になってなかったか?」
「……え?」
なんで知ってるの?
両親が結婚したのは春休みの中頃。三月の終わり。その頃には遙紀は生理が終わっていたので、一緒に暮らしていてなんとなく判った、というわけじゃない。第一、遙紀は父や兄にいつ生理なのかを知られるのが嫌なので、交換したナプキンなどは裏庭のゴミ箱に捨てる。だから同居していても判るわけないのだが。
「お前ってさ、生理の時ってすげえ辛そうな顔してるからな。だから今あれなんだろうなって判るんだけど」
「……は?」
辛そうな顔?
生理痛の薬を飲まなければいけないほどに辛い時なんて、年に一、二度あるぐらいだ。それ以外はわりと平気だ。前回の生理も大したことはなかったのだが。
大したことはないといっても多少は体調に変化がある。その微妙な違いを、この梨玖が判っているというのか?
……うそだ。
絶対ただの勘だ。しかし勘が当たるのもすごいが。
「今は平気そうだな?」
「う、うん。平気なときもあるの。あ、あれ、あたしちょっと生理不順なの」
「ああ、周期が一定じゃないって奴か?」
「う、うん」
「そういや、若い時って普通そうだって言うよな」
……どうして男のくせにそういう知識があるのだ。
やっぱりこいつスケベで変態だ。
「んじゃ、生理終わったらやらせろ」
「……は!?」
「ダメっつってもダメだぞ。俺まだお前がイク時の顔見てないんだからな」
「し、知らないわよ、そんなこと!」
そんな顔見たからってどうだっていうのか。見せるなんて約束した憶えはない。
生理なんて長くて一週間。遙紀の平均は四~五日。短ければ三日で終わるときもある。
終わったと言えばその場であんなことをされる。しかしいつまでも嘘はつけない。
……いつまで嘘をつけばいいんだろう。
『嘘ついたぁ?』
『あ、あの』
『お前、付き合ってる相手に嘘つくような奴なのか?』
『だ、だから……』
『ああそーか、そんなに俺にされるのが嫌なんだな? 触って欲しくないんだな? ってことは付き合いたくもないってわけだろ?』
『え、ち、ちが……』
『いーよ、判った。俺だってお前なんかよりもっとやらしてくれる女の方がいいからな』
『え……』
『じゃーな』
『梨──』
「──って!」
なにかを叫びながら、遙紀は体を起こした。
真っ暗闇の中から出てきた遙紀は、自分のいるところがどこなのかを知るのに、しばらく時間がかかった。
自分の部屋だ。自分のベッド。寝ていたのだ。
ベランダのカーテンの隙間から陽が差し、どこかでスズメか何かの鳴き声がする。
真後ろの目覚まし時計がぴりぴり鳴っているが、ずいぶん遠くで聞こえているような気がした。
……夢だ。
夢を見ながら夢だと判っていた。
だけどすごく現実っぽくて自分で作った出来事だとは思えなかった。
あんな夢を見た理由は判っている。嘘をついたことへの罪悪感。
今日は……日曜日。嘘の生理の五日目。
二日目。冗談めかしてまだか?と聞く梨玖に、たった二日で終わるわけないでしょ!と言った。
三日目。そろそろ終わったか?と聞く梨玖に、バカじゃないの?という顔を向けた。
四日目。つまり昨日。いい加減終われよ、と言う梨玖に、自分の意思で止められるわけじゃないのよ、と言った。
今日もまだ終わっていないとは言いづらい。普段は五日も経てば終わったも同然なほどしか血は出ない。遙紀にすれば五日は長い方だ。
早ければ来週の頭、遅くとも来週の末にはまた本物の生理が始まる。余程体調が変になっていない限り、二回も連続して半月周期で来るわけがない。そんなことは今まで一度もなかった。
嘘だったと、すぐにばれる。なんであんなバカなことを言ったんだろう。
場所が場所だし、すぐ近くに両親がいたし。アルコールが抜けきっていなくて頭痛がひどくて。またあんなことされて身体が前より早く反応していたような気がするし、それに慣れてしまうのが恐かったし。
おまけにまた、梨玖は自分だけを「イカせ」ようとしていた。
……だからといって、嘘をつかれていたと知ったら、梨玖だって怒るはずだ。あんな風に、拒絶されて見捨てられて置いていかれて……。
……嫌だとは、思わなくなってきた。恥ずかしくてやめて欲しいとは思うけど、でも本気で拒否しようとは思っていない。みたいだ。感じているのかどうかはまだ自分でも判らないけど、触られるのが嫌だとは思わない。
そのくせ生理だなんて嘘ついて。
いや、嘘をついた内容とか理由とか、そんなことはもうどうでもいい。
梨玖に嘘を言ったというそのことが、自分で許せなかった。
嘘なんかつかなくても、もっと違うことで止められたはずなのに。
遙紀は毎日午前六時に起きる。起きたら服を着替えて一階に下り、洗濯物を洗濯機に放り込んで回し、その間に朝食を用意し、父を叩き起こして朝食を食べさせ、自分も食べて食器を洗い、洗濯物を干して、それから学校へ行く。これが日常。両親が再婚したあとでも、起こす人数が増えただけ。日曜日もほとんど同じだ。朝七時に起き、洗濯物を干したあとに家中を掃除して、そのあと買い物に行く。
しかし今日は、遙紀の朝の仕事はなかった。
「あら。おはよう、遙紀ちゃん」
母がダイニングで朝食を作っていた。わかめと大根のみそ汁に出汁巻き卵、焼いた鮭の切り身、そしてご飯。ごくシンプルな日本の朝食。
「おはよう……ご飯だったらあたし作ったのに」
「ああ、いいのよ。日曜日ぐらいはちゃんとお母さんしないとね。毎日遙紀ちゃんに任せて悪いから。今日はゆっくりしててちょうだい」
「うん……でも仕事は? 大丈夫?」
「一日ぐらい大丈夫よ。締め切りまでまだあるし。書き下ろしの絵を二、三枚って言われてるだけだから」
先に顔洗って歯磨きしてきたら、と言われた。
洗面所に向かいながら、遙紀は苦笑した。今まで、誰かに洗顔と歯磨きをしてこいなんて言われたことはなかった。父と兄に顔ぐらい洗いなさいよ、と説教していた方だ。母親というものを知らないのに、一般的な母親の役割を身につけていたらしい。
父も梨玖も、起こしてもどうせ起きないということで、朝食は母と二人で食べた。どちらもが、互いの役割については詳しくない。遙紀は「母親」を知らず、母は「娘」を知らない。しかし義理の母娘だというのに、どこにもぎこちなさはなく、普通に会話をしていた。以前から堅苦しい話し方はやめましょ、と言われていたからでもあるだろう。
「遙紀ちゃん、夕食なにがいい?」
「え? 別になんでもいいけど」
「やだわ。遠慮しないで言ってちょうだい。好きなものなに?」
「えっと……ラザニア」
「……あら。ずいぶんマニアックね」
「そうかな? パスタはなんでも好きなんだけど」
「じゃあ今日はイタリアンね。ラザニアの材料だったら、東部とうぶ百貨店まで行った方がいいかしらね?」
「ん~……高鳥デパートで間に合うんじゃないかな?」
「そう? じゃあ高鳥デパートに行って来るわ」
そして遙紀は、家の用事はしちゃダメよ、と言われた。そう言われるとしたくなる。日課になっていることをまったくしないのは落ち着かない。食べ終わったあと、食器を流しに運んだ遙紀は、癖でそのまま洗いそうになった。
「遙紀ちゃーん。置いてていいのよ」
「え、あ、そっか。えっと、お願い……します」
「やぁね。お母さんにします、なんて言わなくていいのよ」
「あ……そうだよね」
母が出来てからまだ二週間にもならない。しかも彼氏の母親。親しみはあっても、母としてすぐに慣れろと言われてもやっぱりなかなか難しい。
それから遙紀は、部屋に戻ろうかどうしようかと悩んだ。
部屋に戻ってもすることはない。宿題は出ていないし、かといって予習復習するほど遙紀は優等生じゃない。これといって遙紀には趣味がなかった。家事に追われていて、趣味なんて持つ余裕はなかったのだ。
これではゆっくりしててと言われても、なにをすればいいのかと悩むだけで一日が終わりそうだ。家事をしている方が余程気が楽だ。
リビングでテレビでも見て時間をつぶそうかと思ったが、ここにいたらそのうち梨玖が下りてきて顔を合わすことになる。それはなんだかとても、嫌というか、気まずい。気まずいと思っているのは自分だけだが。
梨玖が起きてくる前に部屋にこもってしまえ、と考えて遙紀は階段の前まで歩い──たのだが、なぜか非常にタイミング良く、梨玖が降りてこようとしていた。
「よ」
梨玖の挨拶はいつもこれだけだ。まともにおはようという挨拶は出来ないのかと思いながら、遙紀はおはよ、と言った。
「……早いわね」
「おう、まあな」
早いといってもとっくに八時を過ぎていて、遙紀にすればずいぶんと遅い。だが梨玖にすれば早すぎる。春休みの間に朝の十時より前に起きてきたことはない。
階段は別に狭くなかったが、遙紀はなんとなく梨玖が降りてきてから階段を登った。さっさと上がってしまいたい気もしたのだが、階段ですれ違えば腕が触れ合ってしまいそうで、たったそれだけのことが恐かった。
「あ、おい、遙紀」
──どき。
「……え?」
遙紀はゆっくり振り返った。
いったい何の用だ。声なんかかけないで。もうすぐあんたに嫌われるかもしれない奴なのに。
「お前、今日暇だろ?」
「は?……う、うん、まあ……」
全然忙しい。と言いたかったが、これ以上嘘はつきたくなかった。
「んじゃ、どっか行こうぜ」
「……え? ど、どっか、って、どこ?」
「どこでもいいけどな。あー、そうだ。蒼羽あおばのゲーセン行こうぜ」
「……げ、げーせん?……あの、アミューズメントパークって奴?」
「ああ、それ」
確かに蒼羽地区にある遊園地は、つい最近、南條なんじょうエンターテイメントというテレビゲーム機やゲームセンターのゲーム機を作っている会社が建てたものなので、そこは半分以上のブースが体感ゲーム系のものばかりでほとんど巨大ゲームセンターだ。もちろんちゃんと普通の遊園地と同じジェットコースターとか観覧車とかもある。
梨玖は確か、月初めにもらったばかりの小遣いを全部使い切ったとか言っていて、今現在金欠なはずだが。
「……あたしにおごらせる気?」
「バカ。んなことしねぇよ」
「……じゃあ、おごってくれるの?」
つい、いつもの調子で言ってしまった。
うわ。なんて厚かましいの、あたし。おごってもらえるわけないでしょ。人に嘘をつくような奴が、誰かに甘えていいと思ってんの?
しかし梨玖は、あっさり頷いた。
「金はちゃんとあるんだぜ。心配すんな」
俺が飯食ってる間に用意してろ、と言って梨玖はダイニングへ行ってしまった。
……用意しろって……ホントに行くの?
第4章 〈2〉へ
「……結婚?」
修祐は呆然とした顔で聞き返した。
久遠の問題発言のあと、とりあえず座ろうぜ、という梨玖の言葉で遙紀は我に返った。ソファーの奥に自分と梨玖が座り、廊下側に久遠と修祐が座っていて、さっきからずっと久遠は修祐の横顔を眺めている。確かに修祐はハンサムな顔立ちをしていて背も高くて頭がいい。実際モテる奴だが、だからといって初対面でいきなり「抱いてくれ」はないと遙紀は思う。
遙紀が割ったグラスを片付けてコーラを入れ直している間に、久遠が修祐の隣にさっと座ってしまったのだ。自分としては誰がどこに座ろうとも構わないのだが、修祐が左半身を異常なまでに緊張させているのがはっきり判る。修祐は元々人見知りするタイプだし、せっかくモテるのに実は女の子が苦手な奴だった。だからこそ、ちょっと付き合ってみる、ということが出来なかったのだろう。
その修祐の様子を見て、梨玖が哀れだという顔をしていた。久遠なんかに好かれて、と言いたいのだろう。遙紀もちょっとそう思う。
コーラの入ったグラスをみんなの前に置き、遙紀が梨玖の隣に座ってから、梨玖が修祐に質問した。義理の兄弟姉妹は結婚できるのか、と。
もし出来ないとしたら、自分はどうするんだろう、と遙紀は考えてみた。結婚できない相手と付き合うのは変というか意味がないような気がする。別に結婚を前提に付き合っているというわけじゃないが。しかし、今現在好きなのは梨玖だ。結婚できないから付き合うのをやめる、なんて、ちょっと、かなり、嫌だった。
「出来るよ、確か」
修祐はあっさり言った。
「……え、ほ、ほんとに?」
なんというか見えない壁に突進していって突然その壁が消えて勢い余ってそのままずっこけた、みたいな感じだった。ようするに肩透かし。それが悪いわけじゃないが。
見れば梨玖も、眉をひそめて唖然としていた。
「あくまでも義理なんだから、なんの問題もないと思うけど」
修祐はさらにあっさり言った。
「……でも、戸籍上は姉弟でしょ?」
「ああ、いや、それはそうだけど……」
「んなことどこにも書いてなかったぜ。……と思うぞ」
梨玖は疑わしい顔をしていた。なんでそんな簡単に判るんだ、と言いたいんだろう。
「書いて?……ああ、六法全書読んだのか?」
「うん、一応見たんだけど……連れ子同士での結婚、って言葉が全然なかったから」
「ない?……そんなことないと思うけど」
見せてくれと修祐に言われたので、遙紀は父の書斎に六法全書を取りに向かった。
今日もまた父は部屋で執筆中で、母は出版社へ出掛けた。母は昼過ぎに帰ると朝出掛ける前に言っていたが、帰ってきたら画集に載せる書き下ろしの絵を描くので、夕食の準備は今日も遙紀の仕事だ。基本的に家事は好きなので構わない。が、普通父親が再婚する理由といえば、子供には母親という存在が必要で、家事をしてくれる人が必要だから、じゃないかと思う。まあ、高校生にもなって甘えたことを言うつもりはないし、母親がいないのが当たり前の生活に慣れてしまっていたから、新しい母がパワフルに仕事に熱中するのは全然OKだ。
書斎に入ると、本に埋もれた父の猫背が見えた。積み上げられた本の上にどんぶりが載っている。ちゃんと空になっていた。執筆中の父は持ってきたら食べるが、持ってこないと永遠に食べない。
「父さん、六法全書、また借りるからね」
と言って遙紀は本の山の中から「明解六法」を取り、どんぶりと箸を持って書斎を出た。ドアを閉める前に、「む?」という父のずれた返事が聞こえた。
先にどんぶりと箸をキッチンの流しに置きに行き、リビングに戻った。
「はい修祐。これでいいんだよね?」
「ああ……ずいぶん古そうだな」
色褪せた「明解六法」を手にして、修祐はぺらぺらとページをめくった。
「めちゃ早かったな」
梨玖は意外だという顔をした。まあ、昨日に比べればずいぶんと早い。
「うん。上の方に置いてたから。それよりあんた飲み過ぎ」
梨玖はコーラのペットボトルを持ってきていた。もうほとんど空になっている。
「なに言ってんだよ。五センチほどしか入れてねぇぞ」
「……なにが五センチ?」
「梅酒」
「……はあ!?」
遙紀は思わず、梨玖のグラスに顔を近づけて匂いを嗅いでしまった。
「うわっ……」
強烈なアルコールの匂いに、頭がふら~っとした。ソファーの上に横向きに倒れる。
「お前、酒入ってるって言ってんのに匂うなよ」
弱いくせに、と梨玖が呆れた声で言った。
頭がずきずきしてきた。五センチの酒だと、梨玖にすれば飲んだうちに入らないのだろう。しかし遙紀にすれば酒樽に浸かったようなものだ。
「えーっと、遙紀? いいか?」
修祐の呼ぶ声がした。
……なんの話してたんだっけ?
意識がもうろうとする遙紀を、梨玖が無理やり引き起こした。
「ほら、飲め」
グラスを口に当てられた。無意識に中身を飲む。甘ったるい炭酸飲料。アルコールは入ってない。みたいだったので自分のグラスだろう。じゃなかったらちょっと困る。
「大丈夫か?」
「……ん~……なんとか……」
まだ頭はふらふらするが。
「……あー、ごめん、修祐」
「ああ、いや。えっと、ここに書いてるんだけど」
と言って、修祐が本を遙紀と梨玖の前に置き、一部分を指差した。
遙紀は目を凝らしてそれを見た。……ぼやけてなにも見えなかった。
「梨玖……読んで……」
「へいへい。えー……どこだって?」
「ここ。近親婚の禁止ってところの、但し、の後」
「……えー……但し、養子と養方の傍系血族との間では、この限りでない」
棒読みするように梨玖が読み上げた。そして首を捻る。
「……なんのこっちゃ?」
それは昨日、遙紀も読んでいた部分だが、いまいち意味が判らなかった。
「傍系って……おじさんおばさんとか、甥とか姪とか……ってことよね?」
「まあ、そう。自分の兄弟も入るんだ」
「……あれ? そうなの?」
「ああ、だから、これが遙紀たちのことになるんだよ」
「……え? でも、養方の傍系血族って……義理の親の傍系血族ってことじゃないの?」
「いや、えっと……養方っていうのは養親の方の、っていう意味なんだ。普通は養子って実の親と引き取った方の親がいるだろ? だから引き取られた親の方側の、養子から見た傍系血族ってこと」
「……え、じゃあ……あたしと梨玖がその関係ってこと?」
「そう」
「待て、判らん。だからなんだって?」
梨玖がしかめっ面をした。遙紀も自分でなにを話しているのかよく判っていない。
「養子ってだいたいは全然赤の他人か、親戚の子を引き取ったりするだろ? だから実際には三親等以上の場合が多いから、遺伝子学的に問題なかったらいいってこと」
「……えー、よーするにだ、俺と遙紀が結婚するのはまったくなんにも心配しなくていいってことか?」
さっぱり意味が判らないので、梨玖は結論だけを聞いたのだろう。そして修祐はまたあっさりと頷いた。
「そういうこと」
「……なんだよ! そうか! お前、いい奴だな!」
梨玖はべしべしと修祐の腕を叩いた。
初めて会ったときの、あのすねた顔はどこへ行ったのか。過去を引きずらないのは男の特権か、梨玖の性格によるものか。
まだ少し頭がぼうっとしているが、遙紀は考えた。
どうやら梨玖と結婚してもいいらしい。というのは判ったが、だからといって本当に結婚することになるのだろうか、こいつと。
嫌なわけじゃない。一般的な家庭というのに憧れてもいる。しかし、ぴんとこない。仕事から戻ってくる梨玖を、家で洗濯とか掃除とか食事の用意とかして待って……。
……って、別に今やってることと変わらないじゃない。
なんだ。そっか。
だったらいいか、別に。
遙紀は自分の将来の可能性の一つを、実に簡単に受け入れた。
「ねぇ、遙紀ちゃん」
「え?」
今まで黙っていた久遠が突然口を開いた。遙紀はその存在を忘れていた。
「もうお話終わった?」
「……は?……うん、まあね」
「そっ。じゃあ、修ちゃん、帰ろっ」
とか言って久遠はぴょこんと立ち上がった。
遙紀は今変なものを聞いたような気がした。
「……しゅうちゃん?」
遙紀は梨玖を見た。梨玖は眉をひそめて唖然としていた。続けて修祐を見た。修祐は引きつった顔をしていた。
しゅうちゃん、というと、この場にいる中でそう呼べるのは修祐しかいないが。
なぜいきなり修ちゃん。
「だってぇ。修祐ちゃん、だと長いんだもん」
「……だもん、じゃなくて……」
「ねえ、修ちゃん、帰ろー」
遙紀を無視して、久遠は修祐の腕を引っ張った。
「え、いや、帰るってどこに……」
「やっだぁ。うちまで送って、って言ってるのぉ」
久遠の家は、ここから少し南に行った高級マンションの最上階。両親はほとんど事務所に寝泊まりしているらしく、久遠は一人暮らしをしているようなものだ。
「……いや、それはちょっと……」
腕を引っ張られているので修祐は半ば腰を浮かせているが、顔は困っていた。
「ちょっと、久遠。あんた芸能人なのよ? 判ってる?」
「なにがぁ?」
「……なにがじゃなくて。あたしだったらともかく……修祐じゃやばくない? 男よ?」
「あー、平気平気」
なにを根拠に言うのか、久遠はぱたぱたと手を振った。
「だって私今、制服だし。あそこに住んでることってマスコミは知らないもん」
いったいどうやってごまかしているのか、久遠は東京の事務所の近所に住んでいることになっているらしい。だが高鳥地区では崎元久遠という芸能人がどのマンションにいるかというのはものすごく有名だ。
「……まあいいけど。でも気をつけなきゃダメよ」
「判ってるってばぁ」
「え、いや、ちょ……」
「修祐、嫌なら嫌って言えよ。そいつつけ上がるぜ」
「梨玖ちゃん! 人の恋路を邪魔しないで!」
「……こ、恋路……?」
修祐はなにをどうしていいのやら、困っていた。気持ちは判る。
「えーっと、修祐。送ってってやって。昼間とはいってもやっぱり久遠だから。一人じゃ危ないと思うの」
「いやぁん! 遙紀ちゃん大好き!」
「……わ、判った」
狼狽しつつも修祐は頷いた。
きゃー!と奇声を、いや、喜声を発しながら久遠は飛び跳ね、リビングを出ていった。
修祐は、はあ、とため息をついた。
「ごめんね、修祐」
「いや……テレビと全然違うんだな」
「テレビは全部演技よ」
「……今判った」
もう一度ため息をついて修祐が立ち上がる。
遙紀も二人を見送りに行こうと思って立ち上がり、一歩足を踏み出した。と思ったら、突然頭にアルコールが回ってくらりと視界が揺れ、足の力が消えて前のめりに倒れた。
「──ひゃ!?」
「え」
どさっと倒れ込んだのはソファーだと思った。のだが、白い合成皮革の手触りではなくて、綿の手触り……Tシャツだ。それと薄手の上着。
くらくらする頭を上に向けた。十センチぐらい先に修祐の顔があった。
「あ、ごめん。まだ酔ってたみたい」
「……いや」
中途半端に遙紀の身体を受け止めている修祐の腕が、なんだか固かった。腕だけじゃなく、身体全体が。
なんでだろう、と考える前に、スカートの腰を後ろから引っ張られた。
「酔っぱらいはじっとしてろ」
梨玖に腰を抱えられた遙紀は、そのまま元の座っていた場所に戻された。代わりに梨玖が二人を見送りに行った。
「修祐、またね」
「……ああ」
修祐は振り返らずに返事をした。
後頭部をかきながら、梨玖がリビングに戻ってきた。なにやら頭を捻っている。
「……あのなあ、遙紀。やっぱあいつさあ……」
「え~……? なに~……?」
遙紀はぼや~っとした返事をした。なぜかさっきよりもアルコールが回っているみたいな気がする。
「……なんでもねぇ」
ぼやけた視界の向こうで、梨玖がしかめっ面でため息をついたように見えた。
「お前ほどアルコールに弱い奴って珍しいよな。母親似か?」
「……う~ん……弱いなんて聞いたことないけど……そうじゃないかなぁ……父さんもお兄ちゃんも飲めるし……」
「じーさんとかばーさんとかは?」
「……いなーい」
「はあ? いないこたぁねぇだろ。死んだから知らねぇとか?」
「じゃなくてぇ、どこにいるのか知らないの」
「……はあ?」
「父さんと母さんって駆け落ちだからぁ。音信不通なの」
「……そーだったのか?」
「うん。学生結婚しようと思ってたんだけど、親が両方とも反対したから、二十歳の時に駆け落ちしたの。大人だったら親の承諾いらないでしょぉ? だからそれまで我慢してたんだって。母さんってね、どっかのお嬢様だったらしくてぇ。でも父さんって怪しい小説家でしょ? だから反対されてたみたい」
「……怪しいって言うなよ、お前が」
「なんでぇ?」
「なんでって……あ、お前、俺のコーラ飲んだのか?」
「え~? 飲んでないよ」
「なくなってるぞ」
「え~?」
と言った直後、遙紀はひっく、としゃっくりをした。
「……あれぇ?」
目の前に置かれた二つのグラス。確か、右側を取ったはずだった。梨玖が二人を見送りに行っている間に、遙紀は酔いを醒まそうと思ってコーラを飲んだのだが。左側の方が空になっていた。
「……どーも話し方が変だと思った」
「一緒だってばぁ」
「いや、幼児化してる。っつーか久遠化してる」
とんでもないことを言って、梨玖はリビングを出ていった。
「どこ行くのぉ?」
聞いたが返事がなかった。が、すぐに戻ってきた。
「ほら、これ全部飲め」
「ん~。なに~?」
「水だよ。いーから飲めって」
「ん~」
渡されたマグカップを両手で掴む。口元に持ってくるだけでずいぶん時間がかかった。特別なんの味もしない水を飲み干した。のだが、半分ほど左右からこぼれていった。あごと首と胸元とTシャツが濡れた。
「ん~~~気持ち悪~~~い~~~~熱~~~い~~~~」
身体の奥が火照ってきた。風邪で高熱が出た時みたいだ。熱くて服なんて着ていられない。と思って遙紀はがばっとTシャツを脱いだ。
さらに胸も苦しくなってブラジャーも取ってしまう。
「……色っぽいんだか色気ないんだか」
梨玖の呆れたような声が遙紀の耳を素通りする。
遙紀はこてん、とソファーに倒れた。心地よい睡魔が襲ってくる。
「あ~あ。しょうがねぇな」
なにやらぶつくさ言う梨玖の声を聞きながら、遙紀は眠った。
遙紀はガン!ガン!というものすごい音で目を覚ました。
「……なんなの……?」
頭に響くその音は、まるで除夜の鐘の中に頭を突っ込んだみたいに、遙紀の頭を揺さぶり続ける。
それが、自分の頭痛だということに気がついて、遙紀は体を起こした。
「……いったーい……」
頭を両手で押さえつけても、頭痛は治らない。
「そりゃ急性アル中って言うんだよ」
「……え?」
ふと見ると、梨玖がすぐそばで宿題をやっていた。遙紀のノートを写している。
「……何であんたがあたしの部屋にいるの?」
「リビングだっての、ここは」
「……あれ?」
言われてみれば、自分の部屋より大きなテレビが右手にある。正面には父のロッキングチェア。
なぜ自分がここで寝ていたのか、遙紀は首を傾げた。
「服持って来てやったから着ろよ」
「……服?」
左手にずり落ちたタオルケットがあった。おそらく梨玖がかけてくれていたのだろう。その横に、見慣れた水色のブラウスと薄いピンクのブラジャーが置いてあった。梨玖だけあって色が適当だ。水色のブラジャーもあるのに。
でもなんで着替えなんて、と疑問に思った遙紀は、身体を見下ろしてはっとした。
「──きゃあぁ!」
上半身裸。慌てて胸を隠す。
「な、なん……ど、どうして……え、え!?」
確かTシャツを着ていたはずだった。ブラジャーも今日は確か白……。
「あ、あんたなんかしたの!?」
「お前が自分で脱いだんだろーがよ」
「う、うううそぉ!」
「あのな。俺のコーラ割り梅酒飲んで、へろへろになって服脱いでぶっ倒れたんだよ」
「な、なにその気持ち悪い飲み物」
「なにが気持ち悪いだよ。全部飲みやがって。コーラも梅酒も残ってなかったのに」
「……い、いつ?」
「四時間前」
「え?」
遙紀はテレビの上にある壁時計を見た。午後四時少し前。そんなに寝ていたとは。
前後不覚になる前になにがあったのか、遙紀はじっくり考えようとした。久遠と学校から帰って、そのあと梨玖が帰ってきて、昼食に親子どんぶり食べて、修祐が来て、少し話を……話……話? なんの?
「……修祐と久遠は?」
「とっくに帰ったって」
「……あ、そう言えば一緒に帰ってたような……なんの話してたの?」
「あのな。俺とお前が結婚できるかってことだろーが」
「……ああ、そっか……あ~~そんなことより頭いたぁい……」
驚きで一瞬退いていた頭痛がまた戻ってきた。とにかく早く服を着なければ。
「こ、こっち見ないでよ」
「いーじゃん、別に」
梨玖はにたにた笑った。
裸を見られること自体が恥ずかしいが、服を着るところを見られるのもまた恥ずかしい。脱ぐところよりはマシだが。
遙紀はソファーに後ろ向きに正座して、梨玖に背を向けた。さっさとブラジャーを着け、ブラウスを着る。最後の胸元のボタンをとめながら前に向き直った。
ふうと安心して息をついたと思ったら、梨玖が真横にいるのに気づいた。
「わ、な、なに!?」
ソファーに斜めに座って遙紀の背中近くの背もたれに片腕を置き、遙紀の左側にぴったりくっついていた。
「寝てるときにやってもつまんねぇしな」
「な、なにが」
「触ったってなんの反応もないし。けど四時間もあんな恰好見せられたんじゃあなあ」
「だ、だ、だから、なにが!?」
「だから見せろ」
「は!?」
「イクとこ」
「はあ!?……って、ちょっ──」
反論する暇もなく口を塞がれる。
しばらくして梨玖の舌が進入してきた。言葉遣いが悪くておおざっぱで無茶なことばっかり言う梨玖だが、キスはいつも優しくて甘くて遙紀はすぐにぼうっとする。最初は他人の唾液を飲むなんてかなり抵抗あったのだが、二回目からは平気になった。思考が停止するので抵抗を感じている余裕なんてなくなるのだ。
頭が白くなってきた頃、遙紀の頬を支えるように持っていた梨玖の左手が、ゆっくり下に降りていった。ブラウスのボタンが二つ外されて、ブラジャーがめくり上げられて、右の胸を鷲掴みにされたときにやっと遙紀は気づいた。
「……んぅ!?……やっ、ちょ……ちょっと……!」
キスの間に忘れてしまったが、イクとこ、ということは、またあんなことをしようというのだろう。
「ちょっ……や、やだ、梨玖、んむっ……や、やめ……」
キスをされながら胸を揉まれる。なんとかしてキスを逃れてきっぱりやめろと言わないと。こんなところじゃいつ両親に見られるか。
「梨玖、やめてってば……! お、お母さん帰って来るじゃない!」
「もう帰ってる」
「え!?」
「部屋で仕事中。あ、晩飯よろしくだってさ」
「へ、部屋って、隣じゃないの! や、やめてよ!」
「んじゃ上行くか?」
「そ、そーじゃなくて!──やぁっ……」
胸の先端をつままれた。身体の中心を、なにかが駆け回った。痛くない程度につままれたまま、くりくり動かされる。背中がぞくぞくし、体が熱くなってきた。これはアルコールがまだ残っているからなのか、愛撫されることに身体が慣れてきて反応が早くなっているのか。声を出さないようにすることだけに、遙紀は一生懸命集中しようとしていた。
梨玖の口が左胸に移った。片方だけ上げていたブラジャーを左側も上げ、梨玖が胸に吸い付いた。
「いやぁんっ……!」
出さないように頑張っているのに、勝手に声が出てしまう。これでは絶対両親に聞こえる。もしこんなところを見られたら、どう言い訳すればいいのか。言い訳するのは梨玖だろうが、自分も何か言われるに決まっている。だいたい、親にこんな自分の姿を見られるなんて、この世で二番目に嫌だ。一番嫌なのは梨玖に見られることだが。赤の他人に見られるのも嫌だけど、好きな相手に悶える姿を見られるほど恥ずかしいことはない。
といってもそれが見たいと言ってこんなことをしているのはその相手だが。
吸ったり転がしたり揉んだり。口で左胸をもてあそびつつ、梨玖が左手を降ろしていく。膝の上に梨玖の手が置かれ、スカートと一緒に徐々に上がっていく。
「やっ! だ、だめ! ダメってば!」
そんなところまで触られたら、絶対ものすごい声を上げてしまう。
遙紀は忘れていた自分の両手で、必死に梨玖の手を止めようとスカートを押さえる。
「だーいじょーぶだって。口塞いでてやっから」
と言って遙紀の口を右手でぱたっと押さえる。
「ンーーーっ!……そっ、そんな問題じゃないってば!」
頭を振って梨玖の手から逃れた。
「どんな問題だよ」
親に聞こえるのが問題だ!……と言おうとした遙紀だが、もっと違うことじゃないと梨玖は止められないように思った。
「あ、あ、あ、あ、あの、あ、あたし……せ、生理中なの!」
梨玖の全部の動きがぴたっと止まった。
「……マジ?」
遙紀はこくこくと頷いた。
「昨日はなんともなかったのに?」
「け、今朝からなの」
声がちょっとひっくり返ってしまった。なぜなら大嘘だからだ。生理は十日ほど前に終わったばかりだ。
生理中だ、なんて言うのはいくら彼氏であろうが非常に恥ずかしい。彼氏だからこそ恥ずかしい。女の身体として当たり前の機能なのだが、どうしても恥ずかしい。初潮は小学六年生の夏休み。夜に宿題をやっていて下着が冷たくなっていることに気づいた遙紀はトイレで初潮を知った。しかし父に相談するわけにもいかず、慌てて血だらけの下着をはいたままで修祐の家に駆け込み、修祐の母に助けを求めたのだった。その翌日、修祐の母は赤飯を炊いて持ってきた。父は遙紀が女になったと嬉しいのか悲しいのか泣き叫び、兄はさんざん遙紀をからかって遊んだ。そしてさらに翌日、買い物に行こうと家を出たところで修祐とばったり会ったのだが、修祐は顔面真っ赤っかにして走り去ってしまった。おそらくどうして赤飯を炊くのかと母親に聞いたのだろう。どこ行くの?と聞きかけた遙紀だったが、そのあと恥ずかしくて家に駆け戻った。
そういうことがあったお陰で、遙紀は女友達とも生理の話をするのが恥ずかしい。しかも、生理だという嘘をつくなんて。
梨玖はため息と共に遙紀から手を離した。
「あ~~、さすがにそれはちょっとなぁ……血は恐いな」
どうやら諦めてくれたようだ。
男にとって生理なんて未知のものだから、普通の血とは違うと判っているだろうが、止めどなく流れる血、なんて確かに恐いだろう。
ほっとすると同時に、遙紀は罪悪感を感じた。いくら場所が場所だからといっても、梨玖にそういう嘘をつくなんて。
「……けどお前さ」
「え、な、なに!?」
梨玖は不思議そうな顔をした。
「春休みに入ってすぐに生理になってなかったか?」
「……え?」
なんで知ってるの?
両親が結婚したのは春休みの中頃。三月の終わり。その頃には遙紀は生理が終わっていたので、一緒に暮らしていてなんとなく判った、というわけじゃない。第一、遙紀は父や兄にいつ生理なのかを知られるのが嫌なので、交換したナプキンなどは裏庭のゴミ箱に捨てる。だから同居していても判るわけないのだが。
「お前ってさ、生理の時ってすげえ辛そうな顔してるからな。だから今あれなんだろうなって判るんだけど」
「……は?」
辛そうな顔?
生理痛の薬を飲まなければいけないほどに辛い時なんて、年に一、二度あるぐらいだ。それ以外はわりと平気だ。前回の生理も大したことはなかったのだが。
大したことはないといっても多少は体調に変化がある。その微妙な違いを、この梨玖が判っているというのか?
……うそだ。
絶対ただの勘だ。しかし勘が当たるのもすごいが。
「今は平気そうだな?」
「う、うん。平気なときもあるの。あ、あれ、あたしちょっと生理不順なの」
「ああ、周期が一定じゃないって奴か?」
「う、うん」
「そういや、若い時って普通そうだって言うよな」
……どうして男のくせにそういう知識があるのだ。
やっぱりこいつスケベで変態だ。
「んじゃ、生理終わったらやらせろ」
「……は!?」
「ダメっつってもダメだぞ。俺まだお前がイク時の顔見てないんだからな」
「し、知らないわよ、そんなこと!」
そんな顔見たからってどうだっていうのか。見せるなんて約束した憶えはない。
生理なんて長くて一週間。遙紀の平均は四~五日。短ければ三日で終わるときもある。
終わったと言えばその場であんなことをされる。しかしいつまでも嘘はつけない。
……いつまで嘘をつけばいいんだろう。
『嘘ついたぁ?』
『あ、あの』
『お前、付き合ってる相手に嘘つくような奴なのか?』
『だ、だから……』
『ああそーか、そんなに俺にされるのが嫌なんだな? 触って欲しくないんだな? ってことは付き合いたくもないってわけだろ?』
『え、ち、ちが……』
『いーよ、判った。俺だってお前なんかよりもっとやらしてくれる女の方がいいからな』
『え……』
『じゃーな』
『梨──』
「──って!」
なにかを叫びながら、遙紀は体を起こした。
真っ暗闇の中から出てきた遙紀は、自分のいるところがどこなのかを知るのに、しばらく時間がかかった。
自分の部屋だ。自分のベッド。寝ていたのだ。
ベランダのカーテンの隙間から陽が差し、どこかでスズメか何かの鳴き声がする。
真後ろの目覚まし時計がぴりぴり鳴っているが、ずいぶん遠くで聞こえているような気がした。
……夢だ。
夢を見ながら夢だと判っていた。
だけどすごく現実っぽくて自分で作った出来事だとは思えなかった。
あんな夢を見た理由は判っている。嘘をついたことへの罪悪感。
今日は……日曜日。嘘の生理の五日目。
二日目。冗談めかしてまだか?と聞く梨玖に、たった二日で終わるわけないでしょ!と言った。
三日目。そろそろ終わったか?と聞く梨玖に、バカじゃないの?という顔を向けた。
四日目。つまり昨日。いい加減終われよ、と言う梨玖に、自分の意思で止められるわけじゃないのよ、と言った。
今日もまだ終わっていないとは言いづらい。普段は五日も経てば終わったも同然なほどしか血は出ない。遙紀にすれば五日は長い方だ。
早ければ来週の頭、遅くとも来週の末にはまた本物の生理が始まる。余程体調が変になっていない限り、二回も連続して半月周期で来るわけがない。そんなことは今まで一度もなかった。
嘘だったと、すぐにばれる。なんであんなバカなことを言ったんだろう。
場所が場所だし、すぐ近くに両親がいたし。アルコールが抜けきっていなくて頭痛がひどくて。またあんなことされて身体が前より早く反応していたような気がするし、それに慣れてしまうのが恐かったし。
おまけにまた、梨玖は自分だけを「イカせ」ようとしていた。
……だからといって、嘘をつかれていたと知ったら、梨玖だって怒るはずだ。あんな風に、拒絶されて見捨てられて置いていかれて……。
……嫌だとは、思わなくなってきた。恥ずかしくてやめて欲しいとは思うけど、でも本気で拒否しようとは思っていない。みたいだ。感じているのかどうかはまだ自分でも判らないけど、触られるのが嫌だとは思わない。
そのくせ生理だなんて嘘ついて。
いや、嘘をついた内容とか理由とか、そんなことはもうどうでもいい。
梨玖に嘘を言ったというそのことが、自分で許せなかった。
嘘なんかつかなくても、もっと違うことで止められたはずなのに。
遙紀は毎日午前六時に起きる。起きたら服を着替えて一階に下り、洗濯物を洗濯機に放り込んで回し、その間に朝食を用意し、父を叩き起こして朝食を食べさせ、自分も食べて食器を洗い、洗濯物を干して、それから学校へ行く。これが日常。両親が再婚したあとでも、起こす人数が増えただけ。日曜日もほとんど同じだ。朝七時に起き、洗濯物を干したあとに家中を掃除して、そのあと買い物に行く。
しかし今日は、遙紀の朝の仕事はなかった。
「あら。おはよう、遙紀ちゃん」
母がダイニングで朝食を作っていた。わかめと大根のみそ汁に出汁巻き卵、焼いた鮭の切り身、そしてご飯。ごくシンプルな日本の朝食。
「おはよう……ご飯だったらあたし作ったのに」
「ああ、いいのよ。日曜日ぐらいはちゃんとお母さんしないとね。毎日遙紀ちゃんに任せて悪いから。今日はゆっくりしててちょうだい」
「うん……でも仕事は? 大丈夫?」
「一日ぐらい大丈夫よ。締め切りまでまだあるし。書き下ろしの絵を二、三枚って言われてるだけだから」
先に顔洗って歯磨きしてきたら、と言われた。
洗面所に向かいながら、遙紀は苦笑した。今まで、誰かに洗顔と歯磨きをしてこいなんて言われたことはなかった。父と兄に顔ぐらい洗いなさいよ、と説教していた方だ。母親というものを知らないのに、一般的な母親の役割を身につけていたらしい。
父も梨玖も、起こしてもどうせ起きないということで、朝食は母と二人で食べた。どちらもが、互いの役割については詳しくない。遙紀は「母親」を知らず、母は「娘」を知らない。しかし義理の母娘だというのに、どこにもぎこちなさはなく、普通に会話をしていた。以前から堅苦しい話し方はやめましょ、と言われていたからでもあるだろう。
「遙紀ちゃん、夕食なにがいい?」
「え? 別になんでもいいけど」
「やだわ。遠慮しないで言ってちょうだい。好きなものなに?」
「えっと……ラザニア」
「……あら。ずいぶんマニアックね」
「そうかな? パスタはなんでも好きなんだけど」
「じゃあ今日はイタリアンね。ラザニアの材料だったら、東部とうぶ百貨店まで行った方がいいかしらね?」
「ん~……高鳥デパートで間に合うんじゃないかな?」
「そう? じゃあ高鳥デパートに行って来るわ」
そして遙紀は、家の用事はしちゃダメよ、と言われた。そう言われるとしたくなる。日課になっていることをまったくしないのは落ち着かない。食べ終わったあと、食器を流しに運んだ遙紀は、癖でそのまま洗いそうになった。
「遙紀ちゃーん。置いてていいのよ」
「え、あ、そっか。えっと、お願い……します」
「やぁね。お母さんにします、なんて言わなくていいのよ」
「あ……そうだよね」
母が出来てからまだ二週間にもならない。しかも彼氏の母親。親しみはあっても、母としてすぐに慣れろと言われてもやっぱりなかなか難しい。
それから遙紀は、部屋に戻ろうかどうしようかと悩んだ。
部屋に戻ってもすることはない。宿題は出ていないし、かといって予習復習するほど遙紀は優等生じゃない。これといって遙紀には趣味がなかった。家事に追われていて、趣味なんて持つ余裕はなかったのだ。
これではゆっくりしててと言われても、なにをすればいいのかと悩むだけで一日が終わりそうだ。家事をしている方が余程気が楽だ。
リビングでテレビでも見て時間をつぶそうかと思ったが、ここにいたらそのうち梨玖が下りてきて顔を合わすことになる。それはなんだかとても、嫌というか、気まずい。気まずいと思っているのは自分だけだが。
梨玖が起きてくる前に部屋にこもってしまえ、と考えて遙紀は階段の前まで歩い──たのだが、なぜか非常にタイミング良く、梨玖が降りてこようとしていた。
「よ」
梨玖の挨拶はいつもこれだけだ。まともにおはようという挨拶は出来ないのかと思いながら、遙紀はおはよ、と言った。
「……早いわね」
「おう、まあな」
早いといってもとっくに八時を過ぎていて、遙紀にすればずいぶんと遅い。だが梨玖にすれば早すぎる。春休みの間に朝の十時より前に起きてきたことはない。
階段は別に狭くなかったが、遙紀はなんとなく梨玖が降りてきてから階段を登った。さっさと上がってしまいたい気もしたのだが、階段ですれ違えば腕が触れ合ってしまいそうで、たったそれだけのことが恐かった。
「あ、おい、遙紀」
──どき。
「……え?」
遙紀はゆっくり振り返った。
いったい何の用だ。声なんかかけないで。もうすぐあんたに嫌われるかもしれない奴なのに。
「お前、今日暇だろ?」
「は?……う、うん、まあ……」
全然忙しい。と言いたかったが、これ以上嘘はつきたくなかった。
「んじゃ、どっか行こうぜ」
「……え? ど、どっか、って、どこ?」
「どこでもいいけどな。あー、そうだ。蒼羽あおばのゲーセン行こうぜ」
「……げ、げーせん?……あの、アミューズメントパークって奴?」
「ああ、それ」
確かに蒼羽地区にある遊園地は、つい最近、南條なんじょうエンターテイメントというテレビゲーム機やゲームセンターのゲーム機を作っている会社が建てたものなので、そこは半分以上のブースが体感ゲーム系のものばかりでほとんど巨大ゲームセンターだ。もちろんちゃんと普通の遊園地と同じジェットコースターとか観覧車とかもある。
梨玖は確か、月初めにもらったばかりの小遣いを全部使い切ったとか言っていて、今現在金欠なはずだが。
「……あたしにおごらせる気?」
「バカ。んなことしねぇよ」
「……じゃあ、おごってくれるの?」
つい、いつもの調子で言ってしまった。
うわ。なんて厚かましいの、あたし。おごってもらえるわけないでしょ。人に嘘をつくような奴が、誰かに甘えていいと思ってんの?
しかし梨玖は、あっさり頷いた。
「金はちゃんとあるんだぜ。心配すんな」
俺が飯食ってる間に用意してろ、と言って梨玖はダイニングへ行ってしまった。
……用意しろって……ホントに行くの?
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