小説(転載) インセスタス Incest.1 クロニクル 1/4
官能小説
一旦このカテゴリにしておく。保存したのは2001年。20年近く放おっておいた。すぐ読まずにいたのは、ちょっとめんどくさそうだと思ったからかもしれない。
Prologue
……。
…………。
「こほっ、こほっ」
「どうした? 大丈夫か、胸、苦しいか?」
「うん……。こほっ、だいじょうぶ……」
「本当か? 顔青いぞ。今、親父に電話してくるから──」
「平気だよ、おにいちゃん。だいじょうぶ……」
「平気ったって……」
「おにいちゃん、それより早くしないと約束の時間、遅れちゃうよ」
「ばか。そんなこと言ってる場合じゃないだろ。ほらベッドに戻るぞ。歩けるか?」
「あ……うん」
「階段、気をつけろ」
「うん……」
「ほらっ……」
「……おにいちゃん」
「ん?」
「……ごめんね」
「なにが?」
「……今日、みんなと出かける約束だったって……」
「ばーか」
「……あっ」
「いいんだよ。お前はそんなこと気にしなくて。お前をほったらかして遊びに行っ
たって、心配で手につかないよ」
「…………」
「いいから、少し寝ろよ。もうすぐ親父も帰ってくるし」
「……うん」
「な?」
「…………」
「…………」
「……おにいちゃん」
「ん?」
「……ごめんね」
「……ばーか」
「少しは熱……さがったかな」
「おにいちゃんのおでこ……冷たいね」
「そうか?」
「……うん」
「…………」
「…………」
「また、笑われちゃうな」
「ん? 誰にだ?」
「クラスのみんな。わたし、いつもおにいちゃんに甘えてるから、って……」
「なんだ、兄妹なんだから、笑うことないのにな」
「……でも、クラスのみんなは、兄妹であんなに仲がいいのは、おかしいっていう
よ?」
「おかしくないだろう。普通だよ」
「そう……だよね」
「ああ」
「兄妹なのに、なかよくしちゃいけないなんて、変だよね」
「ああ、変だ。クラスのやつらの方が変だよ」
「でもみんな、おかしいっていうの。兄妹でけっこんしちゃいけないんだぞー、と
か」
「そりゃ、結婚はできないけどさ」
「……わたし、おにいちゃんのお嫁さんになりたいのに」
「…………」
「…………」
「……おにいちゃん」
「ん?」
「……それって……」
「…………」
「それって……おかしなこと、なのかなぁ?」
…………。
……。
……Its a chonicle.
Incest.1 クロニクル
1
本当に大切なことは、いつも言えないで終わる。
口にしてしまったら、とたんに色褪せて──空気の中に溶けてしまうんじゃない
か。
そんな気がする。
だから、言わない。大切な気持ちは、本当の想いは、そっとしまっておこう。
胸の奥の、いちばん深いところに、そっと。
ずっと、そう思っていた。
……ずっと。
─January.22 / Living─
「お兄ちゃーん」
とんとん、とんとん、と乃絵美は正樹の部屋のドアを、軽く二度、ノックした。
一階のダイニングの方から、香ばしい匂いがする。昼食の支度はもうできている
のだ。
「んー?」
部屋の中から、気の抜けた声が帰ってくる。
「お兄ちゃん、ご飯できたよ」
「あぁ……もうそんな時間か」
正樹の声の語尾は、ふああ、という欠伸にかき消された。
(しょうがないなあ)
くすっ、と乃絵美は笑った。
「早くしないとのびちゃうよ。パスタ茹でたんだよ」
「んー、起きる……」
もぞもぞと音がする。
どうやら、ベッドから這い出てきているようだ。
うん、早くね、ともう一度声をかけて、乃絵美は軽い足音をたてながらとんとん
と階段を降りた。
ダイニングに降りて、網にあげていたパスタにさっとオリーブオイルとバジリコ
をまぶす。コンロにかけていたままの鍋を止めて、温めていたクリームソースを小
指の先でちょっと嘗めてみる。
(うん、ちょうどいいかな)
ソースをパスタにからめている間、空いたコンロで紅茶用の湯を沸かす。
普段はのんびり屋だと人にも言われている乃絵美も、こと料理に関する手際はい
い。
机の上にパスタとサラダ、ミルクの入ったマグカップを並べ終える頃には──寝
癖まじりの頭をぽりぽりとやりながら、欠伸をかみ殺した正樹がリビングに降りて
くる。
何千回とくり返されてきた日常だ。
「おはよ……ふあぁ」
「お兄ちゃん寝癖──ぴこぴこしてるよ?」
「ん……あ、ホントだ」
ぺたぺたと頭に手をやりながら洗面所に向かう正樹の背中を見ながら、乃絵美は
もう一度、くすっと口元をほころばせた。
2
「ん、美味いなぁ、これ」
「ホント?」
兄妹テーブルに向かい合いながらもくもくとパスタを食べていると、ようやく眠
気が晴れてきたのか、正樹がぽつっと言った。
「ああ、濃いめでさ。好きだなこういう味」
「よかった。お母さんのノートには、ホワイトソース作るときは牛乳を使うんだけ
ど、今日は生クリームを多くしてみたの」
「へえ、研究してるんだな」
ずるずる、と正樹はパスタをすすりながら答えた。
母親がいなくなってから、もうどれだけ経つだろう。まだあのときは乃絵美は赤
いランドセルを背負っていて──目を真っ赤に泣き腫らしながら、正樹の袖を握っ
て立ちつくしていた。
ずっと泣き続けていた。
このまま泣きやまずに、体中の涙を枯らして痩せ細って死んでしまうんじゃない
か──父親も正樹も、自分の受けたショックはそっちのけで、乃絵美のことを心配
した。
だけど、母親の遺品の中から、何つづりもの色褪せた大学ノートを見つけてから、
乃絵美はちょっとだけ変わった。
母さんの遺した料理ノート。
どのページにも、どのページにも、優しい丁寧な字でたくさんの料理のレシピが
書き付けてある。
──これからは、あなたががんばらなきゃね。
母さんに、そう笑いかけられてるような気がしたのか、ようやく乃絵美は泣くの
をやめた。
「これから、わたしがお料理、がんばるから」
リビングで、小さな胸いっぱいにノートを抱えた乃絵美が宣言したとき、まだ両
目は赤かったが、もう涙はなかった。炊事台にも満足に手の届かない乃絵美が、伊
藤家の家事を取り仕切るようになったのは、そのときが最初だった。
(人に歴史あり、だよなぁ)
あのときの乃絵美の真剣な表情を思い出すと、正樹は今でも口元がほころんでし
まう。
「でも、カロリーの方も大丈夫だよ。ここのところお魚が続いたから」
「ああ、そのあたりは信頼してるから」
スプーンの中でパスタをくりくりしながら正樹は答えた。
正樹は県下でも有数のスプリンターだ。スプリントというのは非常にデリケート
な分野で、ベストの体重から1キロ重くても軽くても、コンマ単位のタイムになっ
て返ってくる。だからコンディション管理というのはなにより大事なのだが、もと
もといいかげんなところのある正樹は、そのあたりは全て乃絵美にまかせきりだ。
「もうどのくらいになったんだ、ノート?」
「ううんと、11冊め、かな」
「お、大台だな」
乃絵美は、最近では母親の遺したノートをなぞるだけではなく、自分でいろいろ
研究したりして、どんどんと新しいページを埋めていっている。熱心だなあ、と正
樹が笑うと、
──食べてくれる人がいるから。
と、ちょっと恥ずかしそうな笑みを乃絵美は浮かべた。
そんなこんなで、最初は6冊だった料理ノートは、今や二桁の大台に乗っている
というわけだ。
「まあ、乃絵美には感謝しなきゃな」
食事が終わって、乃絵美の煎れてくれた紅茶を飲みながら正樹は言った。
「?」
「最近は体が軽いし、キレ、っていうのか? そんなのがすごくいい感じだよ。毎
日乃絵美が美味いもの食わせてくれるおかげだな」
「えへへ」
照れくさそうに微笑む。
「あーあ、もう一度大会があったらなぁ。今のコンディションならコンマ3秒くら
い縮められそうな気がするんだけどな」
「お兄ちゃん、昔から大事なときは風邪ひいたりお腹痛くなったりするもんね」
くすくすと乃絵美は笑った。
正樹も苦笑する。どうも正樹は基本的に運のめぐりが悪く生まれついているらし
く、ピークの下降線で大会を迎えたりすることがしばしばだ。自己管理が下手だと
いえばそれまでだが。
「それでも大会記録まであとちょっとなんだから、やっぱりお兄ちゃんってすごい
なぁ」
それでも、素直な乃絵美は変に感心してしまうらしい。
正樹ももう3年の冬を終え、高校での公式戦は全て終わった。大学に入っても陸
上を続けるとしても、高校時代の夏は、もう帰ってこない。ときどき、ひどく寂し
くなるときがある。
あれだけグラウンドで汗を流してきたのに、走り足りない、という気がどこかで
する。
感傷なのだろう。意外に自分はセンチメンタルな奴だと、正樹は苦笑した。
「ん」
マグカップを傾けながら、正樹はテーブルの上をきょろきょろと見回した。
新聞がない。昨日の練習はかなりオーバーペースで、帰ってすぐ泥のように眠っ
てしまったから、この時期ペナントよりも激化するFA合戦の経過が分からない。
正樹としては贔屓にしている某スラッガーの去就が気になるところなのだ。
「乃絵美、新聞は? 親父が店の方に持ってったか?」
「ううん、お父さんは朝早くに出かけたけど……あ、まだ取ってなかった」
「ん、そうか」
といって立ちあがろうとする正樹を、
「あ、わたしが取ってくるから。お兄ちゃんはゆっくりしてていいよ」
と、乃絵美は押しとどめた。
「そうか?」
「うん。ちょっと待ってて」
ぱたぱたとスリッパの音を立てて、乃絵美はリビングを出た。
3
1月も半ばをすぎ、冬の太陽はかすかにぬくもりを取り戻そうとしていた。
けれど、吹き抜ける風はまだ肌に冷たく──ドアを開けたとたん、身を切る寒さ
に乃絵美は思わず肩をすくめた。
一番手前にあった正樹の靴をつっかけながら、
(新聞、新聞……)
と、ケンケンをするような足どりで乃絵美はポストに辿り着いた。
ポストの中身は思いの外内容物で溢れていた。
新聞が二誌。ダイレクトメールが3通。自治会の連絡紙。ごたごたと入っている。
それらひとつひとつを丁寧に取り出しながら、乃絵美は一番奥に二つの封筒が残
っているのに気づいた。
(誰からだろう?)
封筒を取り出してみると、上にあった封筒の方は赤と青のストライプで縁どられ
て、右斜め上に、
AIR MAIL
と綺麗な英字で書かれている。
(あ、真奈美ちゃんからだ)
思わず乃絵美の口元がほころんだ。
真奈美は、正樹の古い幼なじみで、父親の関係でずっとミャンマーで生活してい
る。去年仕事の都合で一度日本に戻ってきたが、またすぐに再転勤が決まってミャ
ンマーに帰った。それからは、ふた月に三度くらいの感覚で正樹やもうひとりの幼
なじみ、菜織と手紙のやりとりをしている。
乃絵美にとっても、優しいお姉さんのような存在だ。
(お兄ちゃん、喜ぶだろうな)
そう思いながらそれを抱えた新聞の上に重ねると、乃絵美は次の封筒に目を通し
た。
官製品のような四隅の折り目正しい、きっちりとした白の封筒だった。
伊藤正樹様
達筆な楷書で、そう書かれている。
(誰からだろう)
どこか後ろめたい気持ちになりながらも、乃絵美は少し嫌な予感にとらわれた。
恐る恐る封筒を裏返してみる。
そこには、表と同じように丁寧な楷書で、
城南大学 陸上部常任顧問 片桐隆史
そう書かれていた。
「…………」
乃絵美の手が、小さく震えた。
Prologue
……。
…………。
「こほっ、こほっ」
「どうした? 大丈夫か、胸、苦しいか?」
「うん……。こほっ、だいじょうぶ……」
「本当か? 顔青いぞ。今、親父に電話してくるから──」
「平気だよ、おにいちゃん。だいじょうぶ……」
「平気ったって……」
「おにいちゃん、それより早くしないと約束の時間、遅れちゃうよ」
「ばか。そんなこと言ってる場合じゃないだろ。ほらベッドに戻るぞ。歩けるか?」
「あ……うん」
「階段、気をつけろ」
「うん……」
「ほらっ……」
「……おにいちゃん」
「ん?」
「……ごめんね」
「なにが?」
「……今日、みんなと出かける約束だったって……」
「ばーか」
「……あっ」
「いいんだよ。お前はそんなこと気にしなくて。お前をほったらかして遊びに行っ
たって、心配で手につかないよ」
「…………」
「いいから、少し寝ろよ。もうすぐ親父も帰ってくるし」
「……うん」
「な?」
「…………」
「…………」
「……おにいちゃん」
「ん?」
「……ごめんね」
「……ばーか」
「少しは熱……さがったかな」
「おにいちゃんのおでこ……冷たいね」
「そうか?」
「……うん」
「…………」
「…………」
「また、笑われちゃうな」
「ん? 誰にだ?」
「クラスのみんな。わたし、いつもおにいちゃんに甘えてるから、って……」
「なんだ、兄妹なんだから、笑うことないのにな」
「……でも、クラスのみんなは、兄妹であんなに仲がいいのは、おかしいっていう
よ?」
「おかしくないだろう。普通だよ」
「そう……だよね」
「ああ」
「兄妹なのに、なかよくしちゃいけないなんて、変だよね」
「ああ、変だ。クラスのやつらの方が変だよ」
「でもみんな、おかしいっていうの。兄妹でけっこんしちゃいけないんだぞー、と
か」
「そりゃ、結婚はできないけどさ」
「……わたし、おにいちゃんのお嫁さんになりたいのに」
「…………」
「…………」
「……おにいちゃん」
「ん?」
「……それって……」
「…………」
「それって……おかしなこと、なのかなぁ?」
…………。
……。
……Its a chonicle.
Incest.1 クロニクル
1
本当に大切なことは、いつも言えないで終わる。
口にしてしまったら、とたんに色褪せて──空気の中に溶けてしまうんじゃない
か。
そんな気がする。
だから、言わない。大切な気持ちは、本当の想いは、そっとしまっておこう。
胸の奥の、いちばん深いところに、そっと。
ずっと、そう思っていた。
……ずっと。
─January.22 / Living─
「お兄ちゃーん」
とんとん、とんとん、と乃絵美は正樹の部屋のドアを、軽く二度、ノックした。
一階のダイニングの方から、香ばしい匂いがする。昼食の支度はもうできている
のだ。
「んー?」
部屋の中から、気の抜けた声が帰ってくる。
「お兄ちゃん、ご飯できたよ」
「あぁ……もうそんな時間か」
正樹の声の語尾は、ふああ、という欠伸にかき消された。
(しょうがないなあ)
くすっ、と乃絵美は笑った。
「早くしないとのびちゃうよ。パスタ茹でたんだよ」
「んー、起きる……」
もぞもぞと音がする。
どうやら、ベッドから這い出てきているようだ。
うん、早くね、ともう一度声をかけて、乃絵美は軽い足音をたてながらとんとん
と階段を降りた。
ダイニングに降りて、網にあげていたパスタにさっとオリーブオイルとバジリコ
をまぶす。コンロにかけていたままの鍋を止めて、温めていたクリームソースを小
指の先でちょっと嘗めてみる。
(うん、ちょうどいいかな)
ソースをパスタにからめている間、空いたコンロで紅茶用の湯を沸かす。
普段はのんびり屋だと人にも言われている乃絵美も、こと料理に関する手際はい
い。
机の上にパスタとサラダ、ミルクの入ったマグカップを並べ終える頃には──寝
癖まじりの頭をぽりぽりとやりながら、欠伸をかみ殺した正樹がリビングに降りて
くる。
何千回とくり返されてきた日常だ。
「おはよ……ふあぁ」
「お兄ちゃん寝癖──ぴこぴこしてるよ?」
「ん……あ、ホントだ」
ぺたぺたと頭に手をやりながら洗面所に向かう正樹の背中を見ながら、乃絵美は
もう一度、くすっと口元をほころばせた。
2
「ん、美味いなぁ、これ」
「ホント?」
兄妹テーブルに向かい合いながらもくもくとパスタを食べていると、ようやく眠
気が晴れてきたのか、正樹がぽつっと言った。
「ああ、濃いめでさ。好きだなこういう味」
「よかった。お母さんのノートには、ホワイトソース作るときは牛乳を使うんだけ
ど、今日は生クリームを多くしてみたの」
「へえ、研究してるんだな」
ずるずる、と正樹はパスタをすすりながら答えた。
母親がいなくなってから、もうどれだけ経つだろう。まだあのときは乃絵美は赤
いランドセルを背負っていて──目を真っ赤に泣き腫らしながら、正樹の袖を握っ
て立ちつくしていた。
ずっと泣き続けていた。
このまま泣きやまずに、体中の涙を枯らして痩せ細って死んでしまうんじゃない
か──父親も正樹も、自分の受けたショックはそっちのけで、乃絵美のことを心配
した。
だけど、母親の遺品の中から、何つづりもの色褪せた大学ノートを見つけてから、
乃絵美はちょっとだけ変わった。
母さんの遺した料理ノート。
どのページにも、どのページにも、優しい丁寧な字でたくさんの料理のレシピが
書き付けてある。
──これからは、あなたががんばらなきゃね。
母さんに、そう笑いかけられてるような気がしたのか、ようやく乃絵美は泣くの
をやめた。
「これから、わたしがお料理、がんばるから」
リビングで、小さな胸いっぱいにノートを抱えた乃絵美が宣言したとき、まだ両
目は赤かったが、もう涙はなかった。炊事台にも満足に手の届かない乃絵美が、伊
藤家の家事を取り仕切るようになったのは、そのときが最初だった。
(人に歴史あり、だよなぁ)
あのときの乃絵美の真剣な表情を思い出すと、正樹は今でも口元がほころんでし
まう。
「でも、カロリーの方も大丈夫だよ。ここのところお魚が続いたから」
「ああ、そのあたりは信頼してるから」
スプーンの中でパスタをくりくりしながら正樹は答えた。
正樹は県下でも有数のスプリンターだ。スプリントというのは非常にデリケート
な分野で、ベストの体重から1キロ重くても軽くても、コンマ単位のタイムになっ
て返ってくる。だからコンディション管理というのはなにより大事なのだが、もと
もといいかげんなところのある正樹は、そのあたりは全て乃絵美にまかせきりだ。
「もうどのくらいになったんだ、ノート?」
「ううんと、11冊め、かな」
「お、大台だな」
乃絵美は、最近では母親の遺したノートをなぞるだけではなく、自分でいろいろ
研究したりして、どんどんと新しいページを埋めていっている。熱心だなあ、と正
樹が笑うと、
──食べてくれる人がいるから。
と、ちょっと恥ずかしそうな笑みを乃絵美は浮かべた。
そんなこんなで、最初は6冊だった料理ノートは、今や二桁の大台に乗っている
というわけだ。
「まあ、乃絵美には感謝しなきゃな」
食事が終わって、乃絵美の煎れてくれた紅茶を飲みながら正樹は言った。
「?」
「最近は体が軽いし、キレ、っていうのか? そんなのがすごくいい感じだよ。毎
日乃絵美が美味いもの食わせてくれるおかげだな」
「えへへ」
照れくさそうに微笑む。
「あーあ、もう一度大会があったらなぁ。今のコンディションならコンマ3秒くら
い縮められそうな気がするんだけどな」
「お兄ちゃん、昔から大事なときは風邪ひいたりお腹痛くなったりするもんね」
くすくすと乃絵美は笑った。
正樹も苦笑する。どうも正樹は基本的に運のめぐりが悪く生まれついているらし
く、ピークの下降線で大会を迎えたりすることがしばしばだ。自己管理が下手だと
いえばそれまでだが。
「それでも大会記録まであとちょっとなんだから、やっぱりお兄ちゃんってすごい
なぁ」
それでも、素直な乃絵美は変に感心してしまうらしい。
正樹ももう3年の冬を終え、高校での公式戦は全て終わった。大学に入っても陸
上を続けるとしても、高校時代の夏は、もう帰ってこない。ときどき、ひどく寂し
くなるときがある。
あれだけグラウンドで汗を流してきたのに、走り足りない、という気がどこかで
する。
感傷なのだろう。意外に自分はセンチメンタルな奴だと、正樹は苦笑した。
「ん」
マグカップを傾けながら、正樹はテーブルの上をきょろきょろと見回した。
新聞がない。昨日の練習はかなりオーバーペースで、帰ってすぐ泥のように眠っ
てしまったから、この時期ペナントよりも激化するFA合戦の経過が分からない。
正樹としては贔屓にしている某スラッガーの去就が気になるところなのだ。
「乃絵美、新聞は? 親父が店の方に持ってったか?」
「ううん、お父さんは朝早くに出かけたけど……あ、まだ取ってなかった」
「ん、そうか」
といって立ちあがろうとする正樹を、
「あ、わたしが取ってくるから。お兄ちゃんはゆっくりしてていいよ」
と、乃絵美は押しとどめた。
「そうか?」
「うん。ちょっと待ってて」
ぱたぱたとスリッパの音を立てて、乃絵美はリビングを出た。
3
1月も半ばをすぎ、冬の太陽はかすかにぬくもりを取り戻そうとしていた。
けれど、吹き抜ける風はまだ肌に冷たく──ドアを開けたとたん、身を切る寒さ
に乃絵美は思わず肩をすくめた。
一番手前にあった正樹の靴をつっかけながら、
(新聞、新聞……)
と、ケンケンをするような足どりで乃絵美はポストに辿り着いた。
ポストの中身は思いの外内容物で溢れていた。
新聞が二誌。ダイレクトメールが3通。自治会の連絡紙。ごたごたと入っている。
それらひとつひとつを丁寧に取り出しながら、乃絵美は一番奥に二つの封筒が残
っているのに気づいた。
(誰からだろう?)
封筒を取り出してみると、上にあった封筒の方は赤と青のストライプで縁どられ
て、右斜め上に、
AIR MAIL
と綺麗な英字で書かれている。
(あ、真奈美ちゃんからだ)
思わず乃絵美の口元がほころんだ。
真奈美は、正樹の古い幼なじみで、父親の関係でずっとミャンマーで生活してい
る。去年仕事の都合で一度日本に戻ってきたが、またすぐに再転勤が決まってミャ
ンマーに帰った。それからは、ふた月に三度くらいの感覚で正樹やもうひとりの幼
なじみ、菜織と手紙のやりとりをしている。
乃絵美にとっても、優しいお姉さんのような存在だ。
(お兄ちゃん、喜ぶだろうな)
そう思いながらそれを抱えた新聞の上に重ねると、乃絵美は次の封筒に目を通し
た。
官製品のような四隅の折り目正しい、きっちりとした白の封筒だった。
伊藤正樹様
達筆な楷書で、そう書かれている。
(誰からだろう)
どこか後ろめたい気持ちになりながらも、乃絵美は少し嫌な予感にとらわれた。
恐る恐る封筒を裏返してみる。
そこには、表と同じように丁寧な楷書で、
城南大学 陸上部常任顧問 片桐隆史
そう書かれていた。
「…………」
乃絵美の手が、小さく震えた。
コメント