小説(転載) インセスタス Incest.1 クロニクル 4/4
官能小説10
─January.23 / Masaki's room─
どさっ、とベッドに倒れ込むと、正樹は体を大の字に伸ばしてぼんやりと天井を
見上げた。
体のふしぶしに、鈍い痛みが残っている。コンディションがいいからといって、
今日も少し飛ばしすぎてしまったようだ。
ふと気づくと、がたがたと窓が鳴っている。どうやら、かなり強い風が吹いてい
るらしい。
(こりゃ明日は雨かな)
どうやら、久しぶりにゆっくり体を休められそうだ。
正樹は洗ったばかりの髪をタオルでわしゃわしゃとやりながら、足を延ばして器
用にリモコンを操作した。乾いたような笑い声が飛び込んでくる。なにかのバラエ
ティ番組らしい。
ぼうっとブラウン管を見つめながら、正樹はなんとなく中庭での井澄の話を思い
出していた。
“ユージニー”。
今から100年ほど前の、ジェスリー・ラインコックというイギリスの作家が書
いた本らしい。今は英国本土でも絶版で、一部の好事家が極少に出版された稀覯本
を所有しているにすぎないという。井澄はどうやらそのひとりらしい。
『興味があるのか?』
正樹が、本の内容を訊くと、井澄は初めて顔をあげて、正面から正樹の顔を見た。
黒というより、ダークブラウンに近い深い瞳に見つめられ、正樹は思わず後ずさ
った。
『あ、ああ』
正樹が言うと、井澄は無愛想に、そうか、とうなずいてまた本に視線を戻した。
そのまま黙っている。
数分、冬の中庭に沈黙が流れた。
たまらずに正樹が声をかけようとしたとき──
『よくある話だ』
と、ぽつりと井澄が呟いた。
『え?』
『よくある話だよ。世界中どこにでもある、ありふれたよくある話だ』
本を閉じて、井澄は顔を上げた。
それから少し考えるように校舎の方に目を向けた。
『ユージニーというのは、スコットランドのある領主の娘さ。彼女はある馬丁と恋
に堕ちる。もちろん父親の領主はそれを認めない。ふたりは引き裂かれる』
『へえ』
正樹はうなずいた。そして少し苦笑する。身分違いの恋というやつか。どうやら
本当によくある話のようだ。
『なるほどね』
納得したように言う正樹を、井澄は一瞥してまた本に視線を落とした。
『ふたりが引き裂かれたのは、身分違いだからというだけじゃない』
『?』
『彼らはモラルの敵だった』
『モラル?』
正樹は怪訝な顔をした。
話がよく見えない方向へ流れてしまった。井澄はというと、そんな正樹の表情を
見ても何の色もその瞳に浮かべずに、抑揚のない口調で答えた。
『ユージニーとその馬丁は兄妹なんだよ』
『…………』
『その馬丁……デュアンは、領主の庶子なんだ。つまり彼らは兄妹で恋に堕ちた。
インセスト・タブーという奴だ。よくある──話だろう?』
──それって……おかしなこと、なのかなぁ?
ブラウン管からどっ響いてきた笑い声に、正樹は思わず我に返った。垂れ流しに
していたバラエティ番組が、どうやら盛り上がってきたようだ。髪を掻きながらリ
モコンに手を延ばし、テレビの電源をオフにする。
首に巻いていたタオルを掴みながら、正樹は息をついた。
(なに思い出してるんだ、俺は)
わしわしとまだ濡れている髪を拭く。
よくある話か。
「そりゃあ、昔話にゃよくある話だろうけどな……」
タオル越しの視界に悟ったような井澄の顔が浮かぶ。しだいにそれがぼやけて、
あの装丁の少年と少女の形になる。
その映像は、いつのまにかひとりの少女へと変化していった。
生まれてきてから今までずっと、見慣れてきたひとりの少女。正樹の袖を掴んで、
上目遣いで見上げる顔。布団の中で上気した笑み。
乃絵美。
(…………)
頭の中を占め始めた映像を振り払うように、正樹は乱暴にタオルで髪を拭った。
11
──コンコン。
不意に、正樹の部屋のドアがノックされた。
「?」
ドアの向こうで、小さく息を飲むような声がした。
「乃絵美か?」
少し慌てたような声で、正樹はドアの向こうに声をかけた。別に何もやましいこ
とはないのだが、妙なタイミングに少し焦ってしまった。
「うん。ちょっと……いいかな?」
「おう、いいぞ」
小さく咳ばらいして、正樹。
「…………」
しかし、ノブが回される気配がない。
「どした?」
「ご、ごめん、お兄ちゃん。ドア、開けて」
困ったような声が返ってくる。苦笑して正樹がノブを回してドアを開けると、ブ
ルーブラウンのパジャマを着た乃絵美が立っていた。
ちょっとはにかんだような笑みを浮かべて、胸の前でカップのふたつ乗ったトレ
イを抱えている。
「お紅茶煎れたから……眠る前にどうかな、と思って」
「お、サンキュ。ちょっと待ってな」
正樹は少し散らかった部屋の物を手際よく片づけると、壁に立てかけていた小さ
な折りたたみ式のテーブルを倒した。
「よし、いいぞ」
「うん。お邪魔します」
どこか他人行儀にお辞儀しながら部屋に入ってくる乃絵美に、正樹は思わず苦笑
した。乃絵美も自分でおかしく思ったのか、微苦笑を浮かべながら、テーブルの前
に腰を下ろした。
テーブルの上にトレイを置くと、ティーポットからカップにお茶を注ぐ。
鼻の奥に抜けるような香りが、六畳間に広がった。
「はい、お兄ちゃん」
「ん」
湯気をたてるカップを受け取り、正樹は舌をつけた。
「あ、ハーブか、これ?」
「うん、お父さんがね、出来がよければ今度お店にどうかなって。……どう?」
そういえば伊藤父は最近庭でガーデニングの真似事を始めている。主にハーブを
栽培してるらしく、日曜趣味かと思えば商売転用を考えていたらしい。実に商魂た
くましいことだ。
「んー、結構いいんじゃないか? なんか落ちつくし」
そう言うと、乃絵美は嬉しそうに笑って、ふうふうとカップに息を吹きかけた。
相変わらずの猫舌だ。見慣れた光景に、正樹も何だか和やかな気分になる。
(そうだよ、兄妹ってこういうもんだろう)
正樹は思った。
友人よりもお互いのことを知り、恋人ほど相手を意識しない。あくまで自然に、
気を許せる存在。そういう当たり前の関係。
そんなものなんだろう。
どこか頭の隅に井澄の言葉を引っかけながら、正樹は思った。
そのまま、どこか自然な沈黙が部屋に流れた。
ハーブティーを飲み終わっても、正樹は黙ったまま、ぼんやりと気だるい空気に
身をまかせていた。
ふと見ると、乃絵美がじっと正樹の顔を見ていた。
下唇を少し噛みながら、真剣な顔をしている。
「どした?」
「あ、う……うん」
乃絵美は少し慌てたような顔をすると、ごまかすようにカップに口をつけた。だ
が、とっくにカップの中が空になっていることに気づいて、困ったようにうつむく。
「なんだ? 悩み事か?」
「…………」
そう訊くと、乃絵美は小さく首を振った。
「乃絵美?」
「え、と……」
「ん?」
乃絵美は意を決したように顔をあげると、どこかぎこちない笑みを浮かべて、
「あのね」
と口を開いた。
「?」
「わたしなら、大丈夫だから」
「なにが?」
「お兄ちゃんの進学のこと。わたしなら、大丈夫だから。全然、心配しなくていい
から。お兄ちゃんが行きたいところに決めてね」
「…………」
「お店の方も大丈夫だよ。お父さんもいるし、そうだ、また菜織ちゃんにアルバイ
トをお願いすればいいし。うん、大丈夫」
にこっと乃絵美は微笑んだ。
その笑顔にどこか苦しいような感情を覚えながら、正樹はくしゃっと乃絵美の髪
を撫でた。
「ありがとな」
「……あ」
「俺、やっぱりお前に心配かけてたな。俺がなかなか答え出さなかったから、やき
もきさせちまったな」
「ううん、そんなことないよ」
乃絵美は首を振った。
正樹は乃絵美の髪を撫で続けながら、言った。
「乃絵美」
「……?」
「俺な」
ごくり、と唾を飲み込む音。
「──城南に行くよ」
12
どくん、と乃絵美の胸が鳴った。
分かっていたことなのに。正樹がそう答えるだろうと、誰よりも知っていたのに。
乃絵美は胸の動悸と、肩のふるえを止められなかった。
(笑わなきゃ)
心の隅でそう思う。
きっとなんでもないことなんだ。
10年20年経てば、「なんであのときはあんなに思いつめてたんだろうね」そ
う、笑って話せるようなことなんだ。
決めたのだ。
笑顔で送り出してあげると、そう決めたのだ。
だから顔を上げなければ。
顔を上げて、言わなければ。
──うん、頑張ってね、お兄ちゃん。
それだけ言って、微笑んで部屋を出よう。
「乃絵美?」
「うん……」
「おい……」
「うん、がんばって……ね」
「…………」
いつの間にか、乃絵美の頬を熱い雫がつたっていた。
瞼からとめどなく涙が流れ落ちる。頬をつたう雫がぽたぽたと膝を濡らす。膝の
上で握りしめた小さな拳に、当たって跳ねる。
「あれ、あれ……」
乃絵美は困ったように笑って、頬をぬぐった。
「あれ、おかしいな、なんで……」
「乃絵美……」
何ともいえない正樹の視線を受けて、乃絵美は胸の前で手をぱたぱたと振った。
「ちがうの、これ、全然ちがうから、大丈夫だから」
「どこが、大丈夫なんだよ……」
正樹は頭の裏に手をやりながら、困ったように言った。
「乃絵美、俺はな……」
「大丈夫だから!」
乃絵美は小さく叫んだ。
こんなはずじゃなかった。こんな顔だけはしたくなかったのに。気持ちよく送り
出そうと思ったのに。頭ではそう思っていても、感情の方がついて来なかった。
「ホントに……大……」
かすれた声は何かあたたかいものに包まれた。正樹が、力強く乃絵美を抱きよせ
たのだ。むずかる子供をあやすような、優しげな手で。
いつものように大きな手が乃絵美の髪を撫でる。
普段なら、これで心が落ち着いた。
こうされることで、大きな安心感を得ることができた。
なのに。
今は嫌だった。 ・・・・・
こんな風に正樹に抱きしめてもらいたくなかった。こんな兄のような、親愛しか
ない気持ちで、触れられたくなかった。
もっと、──のように──。
「乃絵美?」
「……だから」
「え?」
「もう、平気だから」
「あ、ああ」
正樹が困ったように腕をゆるめる。
乃絵美は顔をあげた。
交錯する視線。正樹の瞳の中に、目を真っ赤に泣き腫らした、自分の顔が見える。
(そっか……)
それを見たとき、乃絵美には全てが分かってしまった。
青年の瞳の中に映る少女は、寂しがりやの妹の姿ではなかった。ひとりの、少女
だった。相手はひとりの青年。そして、世界共通の物語は、少女は青年に──。
「おい、乃絵美?」
どこかぼうっとした視線で自分を見る乃絵美に、正樹は小さく乃絵美の肩をゆす
った。
乃絵美の頬を、ひとすじの涙がつたった。
まったく違った意味の涙の雫。
それを見て、困ったように何かを言おうとする正樹の唇を──
「!」
乃絵美は、小さな自分の唇でふさいだ。
触れあうだけの、子供じみたキス。だけど、それは確実に家族の、親愛のキスで
はなかった。
それはもっと生々しい、乃絵美とは最も無縁なはずだった、女としての。
突然のことに硬直する兄の唇に、妹の唇はいつまでも触れていた。いや、それは
一瞬だったかもしれない。永遠と思えるほどに長い一瞬。
「の……」
我に返った正樹が、もぎ放すようにして乃絵美の体を放した。
「乃絵美、お前……」
言いかけようとした正樹の声は、喉を通る前に消えた。
泣いていた。
今までの、迷子の仔犬のような泣き顔ではなかった。伊藤乃絵美という、ひとり
の少女の流した涙。
乃絵美はうつむいたまま、踵を返した。
バタン、とドアの閉まる音。
打ちつけられるように鋭く、窓が鳴った。
外の風は、いつの間にか強い雨風になっていた。
──Begining “Incestace”
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