小説(転載) インセスタス Incest.1 クロニクル 3/4
官能小説7
かちかち、とシャープペンシルを鳴らして、乃絵美は黒板の文字を書き写してい
た。数字と記号が入り交じった羅列を、ゆっくりと丁寧に板書する。授業はもう、
二分も前に終了し、教師は職員室に帰ってしまっている。
(あ、急がなきゃ……)
乃絵美にはどうもこういうところがあって、人からのんびり屋と言われて久しい。
乃絵美にしてみれば、どうしてみな授業を聞きながら、黒板の文字を書き写すよう
な器用な芸当ができるのか不思議に思っているのだが。
それでも、さしもののんびり屋の乃絵美も、普段は授業が終わる頃くらいにはさ
すがに書き終えてはいる。だが、今日はなぜか──いつにもまして進みは遅い。
いつもは真剣に聞いている授業の内容も、今日はほとんど上の空だった。心ここ
にあらず、というのが自分でも分かる。
「…………」
九割ほど書き終えると、手をやすめながら、乃絵美はちいさくため息をついた。
シャープペンシルを形のいい顎に当てながら、ぼんやりと窓の外を見る。校庭で
は、運動部らしいジャージ姿の生徒の影がいくつか見えた。
乃絵美は無意識に正樹の姿を探した。
だが、まだ陸上部は練習が始まっていないらしく──校庭に正樹の姿はなかった。
また息をつく。なぜこんなに意識してしまうのだろう。
(やっぱり……寂しいのかな)
乃絵美は思う。
本当は喜ぶようなことなのだ。城南大から推薦の話が来るなんて、本当に大変な
ことなのだろう。
けれど。
──よかったね、お兄ちゃん。
その一言を言うのが、とても苦しかった。昨日城南大学からの手紙を正樹に手渡
したとき──自分はどんな顔をしていただろう。笑ったつもりだったけれど、きっ
とひどい顔をしていたにちがいない。
なんでこんなに寂しいんだろう。
なんでこんなに胸が苦しくなるんだろう。
──乃絵美ちゃんは、お兄ちゃん子だものね。
子供の頃からずっとそう言われてきた。自分でもそう思う。正樹の袖を掴んで、
その温もりを近くに感じているときが、一番安心できた。乃絵美にとって、“お兄
ちゃん”は魔法の言葉だった。乃絵美が寂しいとき、苦しいとき──その名を小さ
く呼べば、“お兄ちゃん”はいつも傍にいてくれた。乃絵美が泣きやむまで、髪を
撫でていてくれた。
だから、乃絵美は“お兄ちゃん”が誰よりも好きだった。
LIKEだとかLOVEだとか──そんな手垢にまみれたような言葉では区分け
できないくらいに。
(子供のときと変わらない……のかな)
乃絵美は思った。そういえば昔、正樹に連れられて縁日に行ったことがある。初
めていった縁日は、いつも誰もいない境内から想像できないくらいに人でいっぱい
で──乃絵美は片手だけじゃ足りなくて、両手で正樹の手を掴んで、恐る恐る人混
みの中を歩いていた。
この手のぬくもりがあるかぎり、何も心配いらないんだ、そう信じていた。
だから、雪駄の鼻緒が切れて、つまずいてしまったとき。
正樹の手を放してしまって、人混みの中に放り出されてしまったとき──どうし
ていいのか分からなかった。ほんの一瞬のことだったのに、まるで地面がなくなっ
てしまったように不安で、悲しくて、たまらずに涙が零れた。
(あのときと同じ気持ち……なのかな)
よく、分からない。
自分の気持ちが──どうしても見えてこない。
気が付くと、シャープペンシルの柄はじっとりと汗ばんでいた。
「のーえーみー。もう消しちゃうよー、いいのー?」
教壇の方からそんな声がして、乃絵美は我に返った。
見ると、黒板消しを手にしたショートカットの少女が黒板の前で手を叩いている。
「あ、ごめん、ナッちゃん……」
慌てて乃絵美は残った文字を書き写した。
目線を上げて、「ごめんね、もういいよ」と言うと、ナッちゃんと呼ばれた少女
はやれやれという顔で手際よく黒板を消し始めた。
消し終わり、ぱんぱんとチョークの粉を手で払うと、
「もー、どしたの? ボーッとして。まあ、乃絵美がぼけぼけーっとしてるのは今
日に始まったことじゃないけどさ」
苦笑しながら、乃絵美の席まで歩いてきた。
野宮夏紀。乃絵美とは中学の頃からの親友だ。楽観的で活発、乃絵美を逆にした
ような感じの性格だが、それだけに気が合うのか、ずっと仲良くやっている。病弱
で、あまり友達の多くない乃絵美にとっては頼れる存在だ。
「わ、わたし、そんなにぼけぼけしてるかな?」
「ときどき。でもここんとこはずっと」
夏紀は言った。
明るい口調とは逆に、表情は少し心配そうな色を浮かべている。
「どしたの、なんか……悩み事? わたしでよかったら相談に乗るよ。うん。お金
のこと以外は」
そう言って夏紀はくすくすと笑った。
乃絵美も、つられるように少し口元をほころばせた。
「ほら、言ってみ」
「…………」
「こーいうときは、口に出しちゃえば楽になるもんだよ?」
「……うん」
夏紀の優しい目に視線を返して、乃絵美はちいさくうなずいた。
8
「じゃ、ここでな」
「ああ」
部室棟の前で冴子と別れると、正樹は陸上部の部室に入った。冴子も正樹と同じ
く、もう進路が決まっているので、この時期でも後輩の指導を兼ねてハンドボール
部の練習に参加している。
部室内に人の姿はなかった。
あちこちに着替えが散乱しているところを見ると、みなもうグラウンドに出てい
るのだろう。
正樹は手早くジャージに着替えると、タオルを片手に部室を出た。
木枯らしが頬を撫でる。
(うわ、寒いな)
正樹は思わず身をすくめた。
今年は暖冬という話だが、ランニングとジャージ二枚でこうして外に出ると、ど
こが暖冬なんだといいたくなる。
(うー、早くアップ始めよう)
そう思って気持ち早足にグラウンドへ向かおうとしたとき、
「ん?」
グラウンドに抜ける中庭のベンチに、一冊の本が置き残されているのが見えた。
近づいてみると、ところどころ褪せた皮で装丁された、ずいぶんと古そうな本だ
った。稀覯本というやつかな、とあまり読書と縁のない正樹は思った。
ぺらぺらとページをめくってみると、びっしりとした英活字の渦が飛び込んでく
る。
「うわ、原書だ」
英語は不得意ではないが、あくまでも学校レベルの話だ。
原書特有の古典英語的な言い回しや、ラテン語やスラングが混じった英文など、
日本の高校生レベルの語学力で読めるような代物ではない。
正樹は溜息をついて、表紙に目を戻した。
そこには、繊細なタッチで描かれた、少年と少女が寄り添って眠る絵が挿しこま
れていた。少女は、少年の胸に身を預けて、安心しきったような笑みを浮かべて眠
っている。
いい絵だな、とぼんやり正樹は思った。
どこか、正樹の心を惹くものがある。
左隅に、タイトルと作者名らしきものが筆記体で書かれていた。
EUJINEE。
そう書かれている。
「エウ……なんだ?」
正樹が目を細めると、
「ユージニーだ」
背後で声がした。
「うわっ」
振り返ると、いつの間にかひとりの生徒が、缶コーヒーを片手に正樹の背後に立
っていた。美形といっていいくらいの整った顔立ちだが、目尻がするどく切れてい
る。わずかにウェーブのかかった髪が、風で揺れていた。
顔みしりの生徒だったため、正樹は少しほっとした。
「なんだ、イズミか。驚かすなよ」
笑いかける正樹に、男子生徒はふんと言いたげな顔つきで、正樹の手から本を受
け取った。
井澄。下の名前は知らない。正樹のクラスメートで、たしか図書委員だか何だか
をやっている。成績はいつも学年順位一桁台をキープしている秀才で、顔もいいの
に、とことん無愛想な性格がわざわいしてか、異性にも同性にも、友人はまったく
といっていいほどいない。
こうやって人懐っこいところのある正樹が、たまに声をかけるくらいだ。そうい
うときは、無愛想なりに、井澄も会話を返してくる。
そのせいか、周囲から正樹は井澄の友人だと思われているのだが、さほどに仲が
いいわけではない。なにしろ、下の名前すら知らないのだ。
「お前、いつもそんなの読んでるのか?」
正樹は訊いた。
そんなの、というのは本の内容ではなく、原書、ということだ。
「仕方がない」
「え?」
「ラインコックは日本では訳出されていない。向こうでも絶版だ。だから仕方がな
い」
「ああ」
正樹はうなずいた。
ラインコックってのはなんだろうと思ったが、ふと考えて、ああこの本を書いた
やつの名前だな、と直感した。
「…………」
じろ、と井澄は正樹を見た。
思わず、正樹はたじろいだ。
「な、なんだ?」
「影になっている」
呟くように井澄は言った。
ああ、と正樹は気が付いた。正樹の体が、太陽の光をさえぎっているのだ。しか
し他にも言い方があるだろう、と苦笑しながら、正樹は体をずらした。
井澄は正樹などそこにいないかのように、ぱらぱらとページをめくりはじめた。
そのまま、黙々と読み始める。
正樹はぽりぽりと頭を掻きながら、
「んじゃ、俺練習だから。邪魔したな」
そう言った。
「ああ」
面白くもなさそうに、井澄がうなずいた。目線は本の方を向いている。
正樹はそのまま踵を返して、校庭の方に向かって歩き始めた。
ふと気になって、足を止めて振り返る。なんとなく、あの本が気になっていた。
というより、あの繊細な挿画が、正樹の気をひいた。どういう物語なのだろう。あ
の少年と少女は、あの本の中でどういう運命を紡いでいるのだろう。
「なあ、井澄」
そう呼びかけると、井澄は無言のまま、鬱陶しそうに「なんだ」という顔をした。
「その本さ──どういう、話なんだ?」
井澄は本に目を落としてから、視線を正樹に戻した。
相変わらず無愛想な声で、
「よくある話だ」
と言った。
それから少し考えるように、校舎の方に目を向けると、言った。
「兄と妹が恋に堕ちる──じっさい、よくある話だ」
9
「なるほど、それで、お兄ちゃん子な乃絵美ちゃんとしては、お兄ちゃんが遠くに
行っちゃうのが、寂しいよー、ってわけだ」
「そう……なのかな」
乃絵美は上目遣いで夏紀を見やった。
「乃絵美の話を総合するとさ、そういうことじゃない。まあ、ずっと一緒に暮らし
てきた人がある日突然いなくなっちゃったら、気も沈むわよ」
「ナッちゃんも、そう?」
乃絵美は訊いた。夏紀にも、二歳上の兄がいると聞いている。
夏紀はんー、と椅子をかたむけて、足をぶらぶらとさせると、
「あたしだったら、家が広くなって喜んじゃうけどなあ。アニキが出てくっていう
なら、どーぞどーぞ、って感じかな」
と笑った。
「そんなもの?」
「兄妹なんてそんないいもんじゃないって。乃絵美のところはね、はっきりいって
特殊よ、特殊」
特殊。
その言葉に、乃絵美はぴく、と肩を震わせた。
──でも、クラスのみんなは、兄妹であんなに仲がいいのは、おかしいっていう
よ?
やっぱり。
やっぱりわたし、へんなのかな。
乃絵美の小さな動揺をよそに、夏紀は続けた。
「最近は寂しいかもしれないけど、時間が経てば慣れちゃうよ、きっと。なにも一
生会えなくなるわけでもないんだし」
「そう──だよね?」
「それにさ、乃絵美にはピンとこないかもしれないけど、城南から推薦の話が来る
なんて、ホントすごいことなのよ? 先生たちの間ではちょっとしたお祭りさわぎ
になってるみたいだし。陸上部の田山なんてさー、もう鼻高々だよ。“私が伊藤を
育てたんです”って顔して。あはは、先輩かわいそー」
夏紀の言葉に、くす、と乃絵美は笑った。
(やっぱり、すごいことなんだ)
乃絵美は思う。
先生たちがそうやって騒ぐくらい、お兄ちゃんにとってはすごいチャンスなんだ。
それをわたしのせいで──邪魔しちゃ駄目なんだ。わたしが暗い顔していたら、お
兄ちゃんの決心が鈍っちゃうかもしれない。
それが、乃絵美にとっては何より嫌だった。
病弱だった自分は──ずっと正樹に頼りきりだったと思う。もしかすると、枷に
なっていたのかもしれない。
だから。
だから、正樹におとずれたこの転機のときに──自分が足を引っぱっちゃいけな
い。
乃絵美は思った。
(うん)
乃絵美は、小さくてのひらを握りしめて、うなずいた。
笑っていよう。後は正樹が決める。正樹が城南を選んだら、乃絵美は笑って、
「心配いらないよ。わたしなら大丈夫」元気にそう言おう。
笑顔で、送り出してあげよう。
「ん?」
夏紀が、乃絵美の顔を覗き込むようにして、訊いた。
「なに? ふっきれた?」
「……うん。やっぱり、ナッちゃんに話聞いてもらって、よかった」
まだちょっと固さを残していたけれど、乃絵美は明るくそう言った。
「そうだよね。お兄ちゃんの問題なんだもん。お兄ちゃんが決めたことなら──ど
んなことになっても、わたし、がんばれると思う」
乃絵美の言葉に、夏紀は、おーおー、とにっこり笑った。
「えらい、それでこそ妹の鑑」
頭を撫でる。
「く、くすぐったいよ」
肩をすくめながら、乃絵美も笑った。
(うん、笑わなきゃ)
そう思いながら、──ちいさく目を細めた。
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