小説(転載) インセスタス Incest.2 ショーペンハウエルのハリネズミ 3/3
官能小説
6
望んでいる?
人は皆、インセストを望んでいると井澄は言う。愚にもつかない話だったが、な
ぜか正樹には頭ごなしに否定できない響きを、その言葉の中から感じた。
あのときの乃絵美の表情。なにかを求めるような、苦しそうな、悲しそうな瞳。
そして俺は──
──俺は、どうなのだろう?
正樹の動揺をよそに、あるいは、と井澄は続けた。
常の彼からは信じられないくらい、饒舌だった。頬が上気している。
「あるいは、それが特権だったからだろう」
「特権?」
「レヴィ=ストロースは、禁忌は禁忌それ単体のみでは論じることは出来ない。必
ずそれに付随する特権とともに考えねばならない──と言った。まさしく同感だよ。
知っているか? 古代──エジプトやインカの帝国は、王族の血統を神聖なものと
して崇めていた。血統崇拝だな。これだけならなんら珍しい例ではないが、彼らは
その神聖な純血を保つために、兄妹婚を神聖なものとし、王族のみの神事として独
占した。インセストは彼らにとっての特権となり、民間においては禁忌となった。
やがてそれら諸王朝は荒廃し──その禁忌だけが残った」
「…………」
「分かるか? まず特権がある。インセストを独占するという目的があって、禁忌
はそれを守るすべとして後から作られた。今はその禁忌ということだけが愚にもつ
かないモラリズムの中で生きているが、本来は──」
「井澄ッ」
正樹はたまらずに口をはさんだ。
止めなくてはならない。これ以上聞いていたら、俺は──
俺は、狂ってしまう。
「…………」
我に返ったように井澄は顔を上げた。
その瞳に、熱病に似た色が浮かんでいる。
あのときの、乃絵美のような──
「どうした、お前らしくもない。何を熱くなって……」
「──別に、何があったわけでもないさ。僕はいつもこんなことを考えている」
「お前の言うことも分かるさ。だがそれは全部物語や神話──それにずっと古代の
ことだろう? 今は今の法があるし、確実にその──そういうコトはモラルに反し
てる」
「…………」
井澄は押し黙って地面を見つめ、不意に顔を上げて呟いた。
「だからこそ、じゃないのか?」
「え?」
「禁忌だからこそ──モラルに反しているからこそ、人は求めるものじゃあないの
か。人がまず、求めなければそもそも禁忌になどならないだろう」
「そりゃあ……そうかもしれないけど」
「君は──どうして僕に話を聞きに来たんだ?」
「え?」
「君が今どういう事情の中にいるのか僕は知らないし、知りたくもないよ。だがこ
こにいて僕の──僕なんかの話を聞きたがるんだ、多少の想像は出来る。まあ──
そういうことだろう」
「…………」
そうだ、正樹は思った。
俺は、どうしてここに来たのだろう。ひとりになりたかったはずなのに。気が付
いたら、ここに来ていた。井澄がいるかもしれないと期待していた。彼の口から、
何かを聞きたかった。
「君は僕に、否定してほしかったんだろう。インセストは病だ。生物として異常だ。
モラルの敵だ。もしそんな感情が芽生えているのなら、どうにかして取り除くべき
だ──とでもね。だがお生憎様だ。もう一度言おう。インセストは本来、禁忌でも
なんでもない。人間の心の奥底から沸き上がる、誰にでもある欲望の衝動だよ。そ
れに身を任せることは人間として何ら──」
「やめろ!」
正樹は怒鳴った。
そうだ、俺はこいつに否定してほしかったんだ。偶然あの本のことを井澄に訊ね
てから、何もかもが狂ったような気がする。まるで関係はないはずなのに、こいつ
が全ての元凶のような気がしていた。
だから、来たんだ。こいつの口から否定してほしかったんだ。
妹は、妹だ。それ以外の何者でもない、と。
それなのに、こいつは──。
「俺は……そんなつもりなんて……」
正樹は立ち上がった。
なおも言い募ろうとする正樹を冷ややかに見つめて、ぽつりと井澄が言った。
「どうあれ、君はここに来た」
諭すように。
「──それだけで、もう、答えは出ているじゃないか?」
そう呟くと、井澄は正樹から視線をそらし、灰色に染まった冬空を見上げた。
フレーム越しに見えるその瞳には、もういつも通りの、何とも取れない色が浮か
んでいる。
正樹は脱力したように腰を下ろした。
「…………」
俺は──。
やっぱり俺は──を──?
肩を落とす正樹に、井澄は複雑な視線を向けていた。
同情だろうか。それとも──共感? 灰色の瞳は沈んだように、暗い。
「……なあ」
メリーゴーラウンドのように回る思いを振り払うように、正樹が訊いた。
「あの本のラストって……どうなるんだ? ふたりは──」
兄と妹は、恋をまっとうできたのだろうか?
だが、返ってきた言葉は──
「死ぬよ」
残酷なほど、簡潔だった。
「デュアンとユージニーの兄妹は、死ぬ。最後は妹が兄の子を孕んでいるのを領主
が知って──兄を殺そうとするんだ。ふたりは手をとって逃げて、ついに湖畔近く
の崖にまで追いつめられて──
──湖に身を投げて、自殺した」
7
「あの……それじゃ、お世話になりました」
「無理しない方がいいわよ。もう少し、休んでいったら?」
「あ、いえ。……お家の方を、手伝わないといけないので……」
「そう? じゃ、お大事に。……本当に、無理しちゃダメよ」
「はい」
失礼します、と行って乃絵美は保健室を出た。
あったかくして寝なさい、という保健医の声に疲れた微笑を返して、乃絵美は保
健室の引き戸を閉めた。ぱたん、という扉が壁に触れたときのわずかな音が、いや
に大きく無人の廊下に響いた。
まるで、夢の中にいるような気がする。
足取りも、どこかおぼつかない。
少し横になって、だいぶ楽にはなったものの、鈍い痛みは相変わらずだった。頭
もどこか、靄がかかっているようにぼうっとしている。
(疲れてる……のかな)
そういえば、昨日はろくに寝ていなかった。
せっかく作ったお弁当も、まるで喉に通らなかった。心配する夏紀に「なんでも
ないよ。ちょっと、疲れてるだけ」。そう微笑を返すたびに、罪悪感のようなもの
がのしかかってくるような気がした。
(なんでもないわけ、ないのに)
そう思うたびに、涙が出るくらい苦しくなる。
どうしてこんなことになってしまったんだろう? 乃絵美は、思う。
乃絵美にとって、兄は──正樹は、男性そのものだった。病気がちで、家にこも
りきりだった乃絵美は、同世代の男の子はほとんど、正樹しか知らない。乃絵美の
中で、男性という言葉と、正樹という名前は、何の疑問もなくイコールで繋がるも
のだったろう。
乃絵美にとって、正樹は理想の兄であると同時に、理想の男性像で、理想の恋人
像でもあった。
(いつか、お兄ちゃんみたいな人と……)
というほのかな想いは、ずっと、乃絵美の中で温められてきた。
けれど、その想いは、本当は乃絵美の心の最も深いところで、“みたいな人”と
いう言葉を否定していたのかもしれない。「いつかお兄ちゃんと」。いつか。
どうして駄目なんだろう?
どうして、お兄ちゃんを好きになっちゃいけないんだろう?
そんな倫理の枠さえなければ、どれだけ楽だろう?
好きな人が、好き。それでいのに。どうして? 血が繋がってるからだろうか。
それは、お兄ちゃんとわたしが、誰よりも近いことを、1番傍にいる人だってこと
の、証なのに。1番傍にいる人を好きになっちゃ、いけないの? わたしは、自分
の躰に、お兄ちゃんと同じ血が流れてることが、幸せで、嬉しくて──だから──
だから、狂ってなんかいない。
なのに、なんでこんなに苦しいんだろう?
「…………?」
気が付くと、廊下の窓を打ち付ける音がした。
校庭の灌木が、ぴたぴたと音を立てている。
さっきまで青かった空はすっかりと灰色に染まり、大粒の雨が、降り出していた。
まるで、涙のように。
(──雨)
ふと、正樹の顔が浮かんだ。
正樹のことだ、きっと傘など用意していないだろう。
無意識に正樹の教室へ向かおうとした足を、乃絵美は静かに止めた。今、正樹の
顔を見たら。声を聞いてしまったら。
どうなってしまうか分からない。
胸をさいなむ熱が、吹き出してしまうかもしれない。
今は少しでも、時間が欲しい。
それでどうなるのか──それは、分からないけれど。
「ごめんね、お兄ちゃん」
乃絵美は呟いて、重い足取りのまま、階段の方に向かった。
窓の向こうでひときわ大きく、雨音が鳴った。
「雨……か」
井澄と別れ、さして集中も出来なかった自主トレを終えて部室に戻ると、空はす
っかり分厚い雲に覆われて、雫のような雨がひたひたと地上を濡らしていた。ぽつ、
ぽつという間隔が次第に狭まっていったかと思うと、ざざあっという音のつながり
とともに、滝のような雨が地面を打ち出した。
「……参ったな」
首の裏を手をやって、正樹。今朝はからりと晴れていたし、予報でも降雨確率は
10パーセント程度だったから、傘の用意などしていない。置き傘は……と思った
が、どうやら誰でも考えることは同じらしく、普段は四、五本の傘が無造作に置い
てある傘立には、一本の傘もなかった。
乃絵美は、まだ校内にいるだろうか?
正樹は思った。用意のいい乃絵美なら、きっと傘を持っているだろう。声をかけ
て、一緒に帰るか。
(いや)
その考えを、正樹はすぐに振り払った。
もう少し、時間を置いた方がいい。今はきっと、自分も、乃絵美も、気が高ぶっ
てるのだろう。時間を置いて、ゆっくり話し合えば──きっと。
「しょうがない」
意を決して、濡れて帰る決心をかためたとき、
「正樹?」
背後で、正樹を呼ぶ声がした。
振り返ると、トレンチコートにグレーの傘を持った菜織が、きょとんとした顔で
正樹を見つめていた。
「どうしたの、こんな時間まで? 自主トレ?」
「ん? ああ」
「傘──ないの?」
「まあな」
正樹の言葉に、菜織はくすっと笑った。
「じゃ、入ってく?」
8
「で、ミャーコったらね……」
いつもの帰路を、いつもの歩調で、いつものように何てことのない会話をしなが
ら帰っていく。菜織の口調は普段と同じように快活だった。春の風のように。まる
で変わらない。
だけどその声が、正樹の耳にはどこか遠くに聞こえる。
ひとつの傘に入って、右肩と左肩を触れ合わせているのに、どこか遠くに。
ぼんやりと雨空を眺めながら菜織の言葉に相槌を打っていると、いつの間にか菜
織はしゃべるのをやめていて、複雑な表情で正樹を見上げていた。
「……なんだ?」
「やっぱ、聞かせてよ。今日の正樹、見てられない」
「え?」
ととぼけた声を出しながらも、はっとした表情は、菜織には隠せない。
それを敏感に察したのか、菜織は諭すような表情で笑った。
「ね?」
「…………」
「…………」
無言のまま、雨音と足音だけが、響く。
校門前の坂を下りきったところで、
「……進路のこと?」
ぽつっと、菜織が囁いた。
「ん……」
囁き返しながら、正樹。
「それも、あるかな」
呟くように言う。
ふたりはいつの間にか大通りの方にまで出ていて、語尾は過ぎる車のクラクショ
ンにかき消された。
$
三度目の交差点を曲がるところで、乃絵美はふと立ち止まった。
(やっぱり、戻ろう)
正樹が、心配だった。
もしかしたら、部活の誰かしらに入れてもらっているかもしれない。でも、正樹
のことだ。濡れるのを覚悟で、飛び出してきているかもしれない。
さっきから、ひどく雨足が早くなっている。
季節は冬だ。雪になってもおかしくないこの季節に、体を冷やしてしまうことが
どれだけ危険か、病気がちな乃絵美は嫌というほど知っていた。
しかも、正樹にとって今は大事な時期だ。
こんなことでコンディションを崩してしまったら、元も子もない。
(戻らなきゃ)
お気に入りの白い傘をぎゅっと握りしめて、乃絵美は来た道を足早に駆けだした。
$
「なるほど、ね」
正樹の話を聞いて、菜織はうなずいた。
もちろん、全てを話したわけではない。「家を出ることが決まって乃絵美が寂し
がっている」その程度のニュアンスで話したのだが、菜織は納得したようだった。
「お兄ちゃん子だもんね、乃絵美は」
くすくすと笑う。
「覚えてる? 小学生くらいのときのことだけど、正樹の家の庭でさ、わたしと、
真奈美と三人で──雪だるま作ったこと、あったじゃない?」
「? いつの話だ?」
「真奈美がいた頃だから──もう8年くらい前かなぁ、あのとき、三人で汗いっぱ
いかきながら雪だるま作って、さあ頭を乗せようってときに、正樹ったらさ、『悪
い!』って言ったかと思ったら走って家に戻っちゃって。女の子ふたり残してさ」
呆然としちゃったわよ、と菜織は笑った。
「俺、そんな薄情な子供だったか?」
「ふふ、まあ、でもすぐ理由は分かったんだけどね。二階の窓に手をつきながら、
じっとこっちを見てる女の子がいたからね。ああ、あの子のために戻ったんだなぁ
って。真奈美とふたりで顔見合わせて、笑っちゃったわよ。あ、思い出した。あれ
からひいこら言いながら、ふたりであの重い頭乗せたんだからね──」
菜織は呟いて、悪戯っぽく正樹の肩を叩いた。
「あのとき、ホント思った。正樹って、本当に乃絵美を大事にしてるんだなってね」
$
ぱしゃ、ぱしゃとアスファルトに水音を立てながら、乃絵美は駆けた。
色んな音がする。
雨音。風音。踏み出す水しぶき。クラクション。列車の音。
音の中を、ひたすら、乃絵美は走った。
無意識に、正樹の顔が浮かぶ。
笑っていた。
そう、記憶の中の正樹は──いつも笑っていた。寂しがっていた自分を力づけよ
うと、安心させようと、いつも笑っていた。
だから、自分も笑うことができた。正樹は、笑顔を教えてくれた。
その正樹に──自分は──
角を曲がる。
雨が、ブーツに跳ねた。
$
「わ、なに今の車。雨の日はゆっくり走りなさいよねー、あー、びしょびしょ」
「……たッ……」
「正樹?」
「なんか、ゴミ入ったかな、てて……」
「ん、見てあげるから、ちょっと屈んで」
「いいって」
「ダメだって、目に入ったゴミはほっとくと危ないんだから」
近づく顔。
くす、と菜織が笑う。
「なんだよ」
「なんか、ドラマとかでさ、あるじゃない? こういうシーンをヒロインに見られ
て、キスしてるのと誤解される、みたいなさ」
「……バカ言ってんな」
憮然とした正樹の視線の先の、ずっと向こうで、ひとつの影が揺れた。
$
大通り。
行き交う車は、いっそう激しさを増している。
乃絵美の視線の先──歩道のずっと向こうに、求める姿があった。
「あ……」
けれど、正樹は寄り添うように、別の影と一緒に立っていた。
$
角の向こうから現れた乃絵美を、菜織の肩越しに正樹はじっと見つめた。
雨煙の向こうに、ぼんやりと揺れる、見慣れた華奢な躰。
呆然とこっちを見ている、16年間見慣れた、白い顔。
上気した頬。熱病に冒されたような、瞳。
心のどこかで、思う。
もしかしたら、俺も──
(インセストは、禁忌でもなんでも──)
井澄の声。違う。違う。チガウ。
じゃあ、この熱は? 胸を犯すこの熱は。あのとき、乃絵美の唇に触れたときの、
動悸は。
違う。否定しなければ。俺は兄で、乃絵美は妹で。
(君はもう、分かっているんだろう?)
違う!
「って、顔上げないでって……ほら……」
それでも雨は降り続ける。
$
乃絵美は、呆然と立ちつくしていた。
もうひとつの影が誰なのか──そんなことは気にならない。
ただ。
16年間握ってくれていた手は、別の人に触れている。
16年間見つめてくれていた瞳は、別の人に向いている。
私ではなく。
顔が上った。肩越しに、交錯する兄と妹の視線。
やがて、正樹が苦しげにその視線を逸らした。何かを、断ち切るように。
そして。
「あ……!」
そして、正樹の腕が──菜織の肩に延ばされた。
$
「はい取れた……って、きゃっ」
突然抱きすくめられて、菜織は思わず声を上げた。
いつの間にか厚く広くなっていた幼なじみの胸板は、奇妙なくらいに熱を持って
いた。
「ちょ……正樹?」
「頼む」
喉の奥からしぼりだすような声で、正樹は言った。何かに、耐えているように。
「もう少しだけ、頼む」
背中に回された正樹の手に力が込められるのを、肌越しに菜織は感じた。ほんの
わずかに──震えている。小さく、小さく。「もう少しだけ」。
「…………」
無言のまま、菜織も、正樹の背に手を触れた。
背も、熱を持っている。雨ではなく、びっしりと汗で濡れている。
どうして、こんなに熱いのだろう? どうして、震えているのだろう?
──数秒の空白。
やがて、ぱしゃん、という水を跳ねる音が、まるで別の空の下のことのようなほ
ど遠くで、鳴った。
続けて、誰かが駆け去るような、足音。
菜織が振り返ると、仰向けになった白い傘が、水たまりの上で雨にうたれている。
持ち主の姿は、なかった。
「正樹?」
まだ自分の肩を強く掴んでいる正樹に、菜織は問いかけた。
どこか苦しそうな視線で、正樹は白い傘を見つめていた。
「正樹?」
再びの問いかけにも、答えはなかった。
「…………」
立ちつくす正樹の唇が誰かの名前を刻んだが、それはすぐに音の波に消し去られ
た。
音だけが、響いていた。
アスファルトの路面に、雨音が空しく。
駆け去る足音が、どこかで。
行き交う車のクラクションが。
吐息が。
そして、すべてを、洗い流すように、
激しい雨。
望んでいる?
人は皆、インセストを望んでいると井澄は言う。愚にもつかない話だったが、な
ぜか正樹には頭ごなしに否定できない響きを、その言葉の中から感じた。
あのときの乃絵美の表情。なにかを求めるような、苦しそうな、悲しそうな瞳。
そして俺は──
──俺は、どうなのだろう?
正樹の動揺をよそに、あるいは、と井澄は続けた。
常の彼からは信じられないくらい、饒舌だった。頬が上気している。
「あるいは、それが特権だったからだろう」
「特権?」
「レヴィ=ストロースは、禁忌は禁忌それ単体のみでは論じることは出来ない。必
ずそれに付随する特権とともに考えねばならない──と言った。まさしく同感だよ。
知っているか? 古代──エジプトやインカの帝国は、王族の血統を神聖なものと
して崇めていた。血統崇拝だな。これだけならなんら珍しい例ではないが、彼らは
その神聖な純血を保つために、兄妹婚を神聖なものとし、王族のみの神事として独
占した。インセストは彼らにとっての特権となり、民間においては禁忌となった。
やがてそれら諸王朝は荒廃し──その禁忌だけが残った」
「…………」
「分かるか? まず特権がある。インセストを独占するという目的があって、禁忌
はそれを守るすべとして後から作られた。今はその禁忌ということだけが愚にもつ
かないモラリズムの中で生きているが、本来は──」
「井澄ッ」
正樹はたまらずに口をはさんだ。
止めなくてはならない。これ以上聞いていたら、俺は──
俺は、狂ってしまう。
「…………」
我に返ったように井澄は顔を上げた。
その瞳に、熱病に似た色が浮かんでいる。
あのときの、乃絵美のような──
「どうした、お前らしくもない。何を熱くなって……」
「──別に、何があったわけでもないさ。僕はいつもこんなことを考えている」
「お前の言うことも分かるさ。だがそれは全部物語や神話──それにずっと古代の
ことだろう? 今は今の法があるし、確実にその──そういうコトはモラルに反し
てる」
「…………」
井澄は押し黙って地面を見つめ、不意に顔を上げて呟いた。
「だからこそ、じゃないのか?」
「え?」
「禁忌だからこそ──モラルに反しているからこそ、人は求めるものじゃあないの
か。人がまず、求めなければそもそも禁忌になどならないだろう」
「そりゃあ……そうかもしれないけど」
「君は──どうして僕に話を聞きに来たんだ?」
「え?」
「君が今どういう事情の中にいるのか僕は知らないし、知りたくもないよ。だがこ
こにいて僕の──僕なんかの話を聞きたがるんだ、多少の想像は出来る。まあ──
そういうことだろう」
「…………」
そうだ、正樹は思った。
俺は、どうしてここに来たのだろう。ひとりになりたかったはずなのに。気が付
いたら、ここに来ていた。井澄がいるかもしれないと期待していた。彼の口から、
何かを聞きたかった。
「君は僕に、否定してほしかったんだろう。インセストは病だ。生物として異常だ。
モラルの敵だ。もしそんな感情が芽生えているのなら、どうにかして取り除くべき
だ──とでもね。だがお生憎様だ。もう一度言おう。インセストは本来、禁忌でも
なんでもない。人間の心の奥底から沸き上がる、誰にでもある欲望の衝動だよ。そ
れに身を任せることは人間として何ら──」
「やめろ!」
正樹は怒鳴った。
そうだ、俺はこいつに否定してほしかったんだ。偶然あの本のことを井澄に訊ね
てから、何もかもが狂ったような気がする。まるで関係はないはずなのに、こいつ
が全ての元凶のような気がしていた。
だから、来たんだ。こいつの口から否定してほしかったんだ。
妹は、妹だ。それ以外の何者でもない、と。
それなのに、こいつは──。
「俺は……そんなつもりなんて……」
正樹は立ち上がった。
なおも言い募ろうとする正樹を冷ややかに見つめて、ぽつりと井澄が言った。
「どうあれ、君はここに来た」
諭すように。
「──それだけで、もう、答えは出ているじゃないか?」
そう呟くと、井澄は正樹から視線をそらし、灰色に染まった冬空を見上げた。
フレーム越しに見えるその瞳には、もういつも通りの、何とも取れない色が浮か
んでいる。
正樹は脱力したように腰を下ろした。
「…………」
俺は──。
やっぱり俺は──を──?
肩を落とす正樹に、井澄は複雑な視線を向けていた。
同情だろうか。それとも──共感? 灰色の瞳は沈んだように、暗い。
「……なあ」
メリーゴーラウンドのように回る思いを振り払うように、正樹が訊いた。
「あの本のラストって……どうなるんだ? ふたりは──」
兄と妹は、恋をまっとうできたのだろうか?
だが、返ってきた言葉は──
「死ぬよ」
残酷なほど、簡潔だった。
「デュアンとユージニーの兄妹は、死ぬ。最後は妹が兄の子を孕んでいるのを領主
が知って──兄を殺そうとするんだ。ふたりは手をとって逃げて、ついに湖畔近く
の崖にまで追いつめられて──
──湖に身を投げて、自殺した」
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「あの……それじゃ、お世話になりました」
「無理しない方がいいわよ。もう少し、休んでいったら?」
「あ、いえ。……お家の方を、手伝わないといけないので……」
「そう? じゃ、お大事に。……本当に、無理しちゃダメよ」
「はい」
失礼します、と行って乃絵美は保健室を出た。
あったかくして寝なさい、という保健医の声に疲れた微笑を返して、乃絵美は保
健室の引き戸を閉めた。ぱたん、という扉が壁に触れたときのわずかな音が、いや
に大きく無人の廊下に響いた。
まるで、夢の中にいるような気がする。
足取りも、どこかおぼつかない。
少し横になって、だいぶ楽にはなったものの、鈍い痛みは相変わらずだった。頭
もどこか、靄がかかっているようにぼうっとしている。
(疲れてる……のかな)
そういえば、昨日はろくに寝ていなかった。
せっかく作ったお弁当も、まるで喉に通らなかった。心配する夏紀に「なんでも
ないよ。ちょっと、疲れてるだけ」。そう微笑を返すたびに、罪悪感のようなもの
がのしかかってくるような気がした。
(なんでもないわけ、ないのに)
そう思うたびに、涙が出るくらい苦しくなる。
どうしてこんなことになってしまったんだろう? 乃絵美は、思う。
乃絵美にとって、兄は──正樹は、男性そのものだった。病気がちで、家にこも
りきりだった乃絵美は、同世代の男の子はほとんど、正樹しか知らない。乃絵美の
中で、男性という言葉と、正樹という名前は、何の疑問もなくイコールで繋がるも
のだったろう。
乃絵美にとって、正樹は理想の兄であると同時に、理想の男性像で、理想の恋人
像でもあった。
(いつか、お兄ちゃんみたいな人と……)
というほのかな想いは、ずっと、乃絵美の中で温められてきた。
けれど、その想いは、本当は乃絵美の心の最も深いところで、“みたいな人”と
いう言葉を否定していたのかもしれない。「いつかお兄ちゃんと」。いつか。
どうして駄目なんだろう?
どうして、お兄ちゃんを好きになっちゃいけないんだろう?
そんな倫理の枠さえなければ、どれだけ楽だろう?
好きな人が、好き。それでいのに。どうして? 血が繋がってるからだろうか。
それは、お兄ちゃんとわたしが、誰よりも近いことを、1番傍にいる人だってこと
の、証なのに。1番傍にいる人を好きになっちゃ、いけないの? わたしは、自分
の躰に、お兄ちゃんと同じ血が流れてることが、幸せで、嬉しくて──だから──
だから、狂ってなんかいない。
なのに、なんでこんなに苦しいんだろう?
「…………?」
気が付くと、廊下の窓を打ち付ける音がした。
校庭の灌木が、ぴたぴたと音を立てている。
さっきまで青かった空はすっかりと灰色に染まり、大粒の雨が、降り出していた。
まるで、涙のように。
(──雨)
ふと、正樹の顔が浮かんだ。
正樹のことだ、きっと傘など用意していないだろう。
無意識に正樹の教室へ向かおうとした足を、乃絵美は静かに止めた。今、正樹の
顔を見たら。声を聞いてしまったら。
どうなってしまうか分からない。
胸をさいなむ熱が、吹き出してしまうかもしれない。
今は少しでも、時間が欲しい。
それでどうなるのか──それは、分からないけれど。
「ごめんね、お兄ちゃん」
乃絵美は呟いて、重い足取りのまま、階段の方に向かった。
窓の向こうでひときわ大きく、雨音が鳴った。
「雨……か」
井澄と別れ、さして集中も出来なかった自主トレを終えて部室に戻ると、空はす
っかり分厚い雲に覆われて、雫のような雨がひたひたと地上を濡らしていた。ぽつ、
ぽつという間隔が次第に狭まっていったかと思うと、ざざあっという音のつながり
とともに、滝のような雨が地面を打ち出した。
「……参ったな」
首の裏を手をやって、正樹。今朝はからりと晴れていたし、予報でも降雨確率は
10パーセント程度だったから、傘の用意などしていない。置き傘は……と思った
が、どうやら誰でも考えることは同じらしく、普段は四、五本の傘が無造作に置い
てある傘立には、一本の傘もなかった。
乃絵美は、まだ校内にいるだろうか?
正樹は思った。用意のいい乃絵美なら、きっと傘を持っているだろう。声をかけ
て、一緒に帰るか。
(いや)
その考えを、正樹はすぐに振り払った。
もう少し、時間を置いた方がいい。今はきっと、自分も、乃絵美も、気が高ぶっ
てるのだろう。時間を置いて、ゆっくり話し合えば──きっと。
「しょうがない」
意を決して、濡れて帰る決心をかためたとき、
「正樹?」
背後で、正樹を呼ぶ声がした。
振り返ると、トレンチコートにグレーの傘を持った菜織が、きょとんとした顔で
正樹を見つめていた。
「どうしたの、こんな時間まで? 自主トレ?」
「ん? ああ」
「傘──ないの?」
「まあな」
正樹の言葉に、菜織はくすっと笑った。
「じゃ、入ってく?」
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「で、ミャーコったらね……」
いつもの帰路を、いつもの歩調で、いつものように何てことのない会話をしなが
ら帰っていく。菜織の口調は普段と同じように快活だった。春の風のように。まる
で変わらない。
だけどその声が、正樹の耳にはどこか遠くに聞こえる。
ひとつの傘に入って、右肩と左肩を触れ合わせているのに、どこか遠くに。
ぼんやりと雨空を眺めながら菜織の言葉に相槌を打っていると、いつの間にか菜
織はしゃべるのをやめていて、複雑な表情で正樹を見上げていた。
「……なんだ?」
「やっぱ、聞かせてよ。今日の正樹、見てられない」
「え?」
ととぼけた声を出しながらも、はっとした表情は、菜織には隠せない。
それを敏感に察したのか、菜織は諭すような表情で笑った。
「ね?」
「…………」
「…………」
無言のまま、雨音と足音だけが、響く。
校門前の坂を下りきったところで、
「……進路のこと?」
ぽつっと、菜織が囁いた。
「ん……」
囁き返しながら、正樹。
「それも、あるかな」
呟くように言う。
ふたりはいつの間にか大通りの方にまで出ていて、語尾は過ぎる車のクラクショ
ンにかき消された。
$
三度目の交差点を曲がるところで、乃絵美はふと立ち止まった。
(やっぱり、戻ろう)
正樹が、心配だった。
もしかしたら、部活の誰かしらに入れてもらっているかもしれない。でも、正樹
のことだ。濡れるのを覚悟で、飛び出してきているかもしれない。
さっきから、ひどく雨足が早くなっている。
季節は冬だ。雪になってもおかしくないこの季節に、体を冷やしてしまうことが
どれだけ危険か、病気がちな乃絵美は嫌というほど知っていた。
しかも、正樹にとって今は大事な時期だ。
こんなことでコンディションを崩してしまったら、元も子もない。
(戻らなきゃ)
お気に入りの白い傘をぎゅっと握りしめて、乃絵美は来た道を足早に駆けだした。
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「なるほど、ね」
正樹の話を聞いて、菜織はうなずいた。
もちろん、全てを話したわけではない。「家を出ることが決まって乃絵美が寂し
がっている」その程度のニュアンスで話したのだが、菜織は納得したようだった。
「お兄ちゃん子だもんね、乃絵美は」
くすくすと笑う。
「覚えてる? 小学生くらいのときのことだけど、正樹の家の庭でさ、わたしと、
真奈美と三人で──雪だるま作ったこと、あったじゃない?」
「? いつの話だ?」
「真奈美がいた頃だから──もう8年くらい前かなぁ、あのとき、三人で汗いっぱ
いかきながら雪だるま作って、さあ頭を乗せようってときに、正樹ったらさ、『悪
い!』って言ったかと思ったら走って家に戻っちゃって。女の子ふたり残してさ」
呆然としちゃったわよ、と菜織は笑った。
「俺、そんな薄情な子供だったか?」
「ふふ、まあ、でもすぐ理由は分かったんだけどね。二階の窓に手をつきながら、
じっとこっちを見てる女の子がいたからね。ああ、あの子のために戻ったんだなぁ
って。真奈美とふたりで顔見合わせて、笑っちゃったわよ。あ、思い出した。あれ
からひいこら言いながら、ふたりであの重い頭乗せたんだからね──」
菜織は呟いて、悪戯っぽく正樹の肩を叩いた。
「あのとき、ホント思った。正樹って、本当に乃絵美を大事にしてるんだなってね」
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ぱしゃ、ぱしゃとアスファルトに水音を立てながら、乃絵美は駆けた。
色んな音がする。
雨音。風音。踏み出す水しぶき。クラクション。列車の音。
音の中を、ひたすら、乃絵美は走った。
無意識に、正樹の顔が浮かぶ。
笑っていた。
そう、記憶の中の正樹は──いつも笑っていた。寂しがっていた自分を力づけよ
うと、安心させようと、いつも笑っていた。
だから、自分も笑うことができた。正樹は、笑顔を教えてくれた。
その正樹に──自分は──
角を曲がる。
雨が、ブーツに跳ねた。
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「わ、なに今の車。雨の日はゆっくり走りなさいよねー、あー、びしょびしょ」
「……たッ……」
「正樹?」
「なんか、ゴミ入ったかな、てて……」
「ん、見てあげるから、ちょっと屈んで」
「いいって」
「ダメだって、目に入ったゴミはほっとくと危ないんだから」
近づく顔。
くす、と菜織が笑う。
「なんだよ」
「なんか、ドラマとかでさ、あるじゃない? こういうシーンをヒロインに見られ
て、キスしてるのと誤解される、みたいなさ」
「……バカ言ってんな」
憮然とした正樹の視線の先の、ずっと向こうで、ひとつの影が揺れた。
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大通り。
行き交う車は、いっそう激しさを増している。
乃絵美の視線の先──歩道のずっと向こうに、求める姿があった。
「あ……」
けれど、正樹は寄り添うように、別の影と一緒に立っていた。
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角の向こうから現れた乃絵美を、菜織の肩越しに正樹はじっと見つめた。
雨煙の向こうに、ぼんやりと揺れる、見慣れた華奢な躰。
呆然とこっちを見ている、16年間見慣れた、白い顔。
上気した頬。熱病に冒されたような、瞳。
心のどこかで、思う。
もしかしたら、俺も──
(インセストは、禁忌でもなんでも──)
井澄の声。違う。違う。チガウ。
じゃあ、この熱は? 胸を犯すこの熱は。あのとき、乃絵美の唇に触れたときの、
動悸は。
違う。否定しなければ。俺は兄で、乃絵美は妹で。
(君はもう、分かっているんだろう?)
違う!
「って、顔上げないでって……ほら……」
それでも雨は降り続ける。
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乃絵美は、呆然と立ちつくしていた。
もうひとつの影が誰なのか──そんなことは気にならない。
ただ。
16年間握ってくれていた手は、別の人に触れている。
16年間見つめてくれていた瞳は、別の人に向いている。
私ではなく。
顔が上った。肩越しに、交錯する兄と妹の視線。
やがて、正樹が苦しげにその視線を逸らした。何かを、断ち切るように。
そして。
「あ……!」
そして、正樹の腕が──菜織の肩に延ばされた。
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「はい取れた……って、きゃっ」
突然抱きすくめられて、菜織は思わず声を上げた。
いつの間にか厚く広くなっていた幼なじみの胸板は、奇妙なくらいに熱を持って
いた。
「ちょ……正樹?」
「頼む」
喉の奥からしぼりだすような声で、正樹は言った。何かに、耐えているように。
「もう少しだけ、頼む」
背中に回された正樹の手に力が込められるのを、肌越しに菜織は感じた。ほんの
わずかに──震えている。小さく、小さく。「もう少しだけ」。
「…………」
無言のまま、菜織も、正樹の背に手を触れた。
背も、熱を持っている。雨ではなく、びっしりと汗で濡れている。
どうして、こんなに熱いのだろう? どうして、震えているのだろう?
──数秒の空白。
やがて、ぱしゃん、という水を跳ねる音が、まるで別の空の下のことのようなほ
ど遠くで、鳴った。
続けて、誰かが駆け去るような、足音。
菜織が振り返ると、仰向けになった白い傘が、水たまりの上で雨にうたれている。
持ち主の姿は、なかった。
「正樹?」
まだ自分の肩を強く掴んでいる正樹に、菜織は問いかけた。
どこか苦しそうな視線で、正樹は白い傘を見つめていた。
「正樹?」
再びの問いかけにも、答えはなかった。
「…………」
立ちつくす正樹の唇が誰かの名前を刻んだが、それはすぐに音の波に消し去られ
た。
音だけが、響いていた。
アスファルトの路面に、雨音が空しく。
駆け去る足音が、どこかで。
行き交う車のクラクションが。
吐息が。
そして、すべてを、洗い流すように、
激しい雨。
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