小説(転載) インセスタス Incest.2 ショーペンハウエルのハリネズミ 2/3
官能小説
3
─January.24 / St.elsia Highschool ─
1月末という微妙な時期の3年生の教室というのは、不思議な雰囲気に包まれて
いる。
受験組はHR中でも参考書を片手に大わらわだし、推薦組は余裕とばかりに居眠
りしたり、同じ推薦組の仲間と次の休みはどこへ遊びに行くかなんて話をしている。
その楽しげな様子を受験組や未だ落ち着き先のない就職組がうらめしくも見ている
という構図。
(天国と地獄だなぁ)
自分のことは棚に上げて、頬杖をつきながら正樹は思った。
『そうか、伊藤、決めてくれたか』
今朝、城南の推薦を受けることにしたと、進路指導室まで報告しに行ったとき─
─なぜか同席していた顧問の田山が大声でそう笑ってばんばんと何度も正樹の背を
叩いた。推薦入学に際して試験のようなものはないが、3月前に大学の方の監督と
面接のようなものがあるだけだと言う。それは参考程度のもので、さほど重要なも
のではないらしい。
要するに、すべては入ってから勝負だということだ。
城南のスポーツ推薦は、結果を出し続けているかぎり、学費その他ほとんどに優
遇措置がある。だが、結局城南陸上のレベルについていけなくなって低空飛行を何
ヶ月も続けたり、怪我やコンディション調整の失敗で結果が出せないと判断された
ときは、容赦なく放逐される。他大と比べてよりリベラルに、よりシビアに、とい
うのが城南のモットーだ。
『迷いはないんだな?』
熱弁を振るい始めた田山に少々辟易しながら、担任が正樹に訊いた。
正樹は「はい」とうなずいた。
──もっと早く走りれるように、なりたいですから。
「…………」
朝のことを思い出しながら、正樹はぼんやりと窓の方に視線をやった。
(迷い……か)
自分の言ったことに嘘はない。もともと好きで始めた陸上だが、最近は走るのが
楽しくてたまらない。どうすればもっと早く走れるだろう? 気が付いたらそんな
ことばかり考えている。スタートの瞬間、プレートを踏み込む感触。ゴール手前で
他の選手達を抜き去り、誰よりも早くテープを切る快感。だから、もっと早く走れ
る場所へ。
桜美に行けば、地元だし、先輩もいる。きっと居心地がいいだろう。それはきっ
と、城南にはないよさだ。
要はフィーリングじゃない? と菜織は言っていた。自分は楽しくやりたいのか。
それとも、もっと早く走りたいのか? 答えは簡単だった。──だから、フィーリ
ングで決めた。迷いはない。
ないはずなのに。
「…………」
昨日の乃絵美の顔が、涙が、頭から離れない。唇がまだ、熱をもっている感じが
する。
なんであんな顔をするんだろう? ただ寂しいと泣くだけなら、髪を撫でてやれ
る。抱きしめてやれる。けれど、乃絵美はそれを拒絶してなお──何かを求めてい
た。兄としての優しさ以外の、何か。
(何を?)
正樹は自問した。
いや、多分答えはもう、分かっているのだ。ただ、それを認めることができない
だけだ。もし、認めてしまったら。受け入れてしまったら。
きっと、すべてが崩れるだろう──
「こら」
ばん、と頭に軽い衝撃が走って、正樹ははっと我に返った。
顔を上げると、呆れたような顔の菜織が、鞄を胸のあたりで抱えながら立ってい
た。
「ったぁ、なにすんだ」
「アンタがいつまでもボーッとしてるからよ。もうHRとっくに終わってるわよ」
「?」
ぼんやりと教室の壁時計を眺めると、すでに長針は4を回っていた。
「あ、ホントだ」
「ホントだ、じゃないわよ。……なんか暗い顔してるけど、大丈夫? なんかあっ
た?」
正樹の前の席に腰を下ろして、菜織。
「ん? ああ……」
自分でも歯切れが悪いと思う返事。
「別に、大したことじゃないよ」
「……ふぅん」
それだけで、菜織は「あんまり言いたくないことだ」ということを、即座に理解
してくれたらしい。あえて続けて訊こうとはしない。その心づかいが、今の正樹に
は有り難かった。
「ならいいけど。……あんまり、溜め込まないようにね」
「……ああ。心配すんなって」
「──ん」
それだけ言って、菜織は席を離れた。その背中に向かって、
(悪い)
と正樹は小さく呟いた。
今は、もう少しだけ、ひとりになりたかった。
4
木枯らしが吹きすさぶ中庭は、いつも以上に閑散とした空気が漂っていた。
春先には大勢の生徒が弁当を広げたり、キャッチボールをしたりと賑わうこの場
所も、季節柄か今は影ひとつ見えない。
──たったひとりを除いては、だが。
「井澄」
真冬だというのに顔色ひとつ変えず、その生徒は中庭のベンチに腰をかけて、本
を片手に黒いコートをはめかせていた。冷たい眼鏡のフレームと黒のダウンコート
が、死神めいた印象を与える。
死神。
そう思えば、そのフレーズこそこの男に似合う言葉もない。黒い手袋をして、鎌
でも持っていたら後は完璧だ。
「……なんだ、気持ち悪い」
相変わらずぼそっとした井澄の声に、正樹はああ、と頭を掻いた。どうやら、い
つのまにか笑ってしまっていたらしい。
「読み終わったのか?」
井澄の隣のベンチに腰を下ろしながら、正樹は訊いた。
「その、本」
「……いや。だが、前にも一度読んだことがある。今は筋をなぞってるだけだ」
「そっか」
それきり、ふたりは押し黙ってしまったように口をつぐんだ。
だが、昨日ほど違和感はなかった。井澄の雰囲気がくだけてきているのか、正樹
の方が共感を持ち始めているのか、それは分からなかったが。
「……なあ」
ぽつっ、と正樹が訊いた。
井澄は首を動かさず視線だけをこちらに向けて、「なんだ」という目をした。
「その本、ユージニーだっけか。兄妹が恋に堕ちるとかって言ってたな。俺、あん
まり本とか読まないからよく分からないんだけど、そういう話ってやっぱり色々あ
るのか?」
「数え切れないくらい、ある」
パタン、と本を閉じて、井澄は言った。
「兄妹にかぎらずインセスト・タブーという観点でみれば、無数だな。オイディプ
ス、ハムレット、セミラミス、ジークムント、ネロ、チェーザレ・ボルジア……君
も名前くらいは聞いたことがあるだろう。フィクション・ノンフィクションを問わ
ず、彼らないし彼女らは、皆──インセスタス(近親相姦者)だ。神話や民間伝承
にまで遡れば、世界のどの国をみてもインセスト・タブー的描写のないものは皆無
といっていい。聖書ですら、ロトは自分の娘に子を生ませている」
珍しく饒舌に、井澄。
「だけどそれは──異常なことなんだろう?」
「異常というものの、定義による」
「普通じゃないこと、だろう」
「じゃあ、普通の定義は?」
眼鏡のフレームをついと上げて、井澄は顔を上げた。その表情にいつになく厳し
さのようなものが漂っている。正樹は思わず、気圧されるように視線をそらした。
「…………」
「……普通と異常の境なんてそんなものさ。前に言ったろう? 『よくある話』だ
と。インセスト・タブーはなんら異常なことじゃない。心の病だとも言われるが、
ナンセンスだな。というより、心を病んでいない人間など、いやしないさ。インセ
ストはそのひとつの形だ」
「でも、遺伝っていうか、そういう問題があるだろう」
反論しながら、どこか間違っているなと正樹は思った。こんな話をしに来たので
はなかったのだが。
「たしかに、血族結婚は優生学的に悪影響を及ぼすと古くから言われている。奇形
児が生まれる率も高くなる、と。だから古来から、人はそれを禁忌とした──そう
いう優生学が生まれる以前から、生物としての本能的嫌悪がそれを知っていたと」
「それが違うってのか」
「僕はそう考える。生物的というなら、近親相姦をする生物なんてこの世にたくさ
んいるだろう。ネズミは環境さえ整えてやれば、つがいを放すだけで爆発的に繁殖
する。本能というなら、子孫を残すという本能が近親相姦を嫌悪する本能に打ち勝
つわけだ。その程度のものだ」
「じゃあなぜ──」
なぜ、禁忌なのだ。
「望ましいからだよ」
「望ましい?」
「誰もが心の奥底で、インセストというものに甘美さを感じているからだ。そこに
ユートピア性を見出しているからさ。人間は望ましいものには不思議と蓋をする─
─」
5
「あ……」
しく、と腹部に鈍い痛みが走って、階段を上っていた乃絵美は手すりに体重を預
けるようにして、お腹をおさえた。
乃絵美は軽い方らしく、その渦中でもそれほど辛いことはない。友人の話を聞い
ていると、もっとひどく痛む人もいるそうだ。それに比べれば、自分のは気楽な方
なのだろう。
けれど、周期的にこの鈍い痛みに襲われるとき──自分は女なのだ、ということ
を実感する。
妹ではなく、伊藤乃絵美というひとりの女なのだと。そして、伊藤正樹も、兄で
ある以前にひとりの男だということを、当然の事実を──衝撃的な真実のように、
再確認してしまう。
どうして好きになってしまったんだろう、と思う。
自分は未だに兄を慕う気持ちと、恋心とを取り違えているんじゃないか──そう
思ったりもする。
だけど、嫌なのだった。
小さい頃そのままに髪をくしゃくしゃにされたり、撫でてもらったり、そういう
のはもう嫌なのだった。
かといって、触れてほしくないわけではない。それより、もっともっと──触れ
てほしい。髪だけではなく頬を、首筋を。イトウノエミを、愛してほしい。本当は
ずっとそう思ってきた。ただ、気づかなかっただけ。
もちろん今まで、正樹以外の男を好きにならなかったわけではない。
交際というにはあまりにも幼い付き合いだったが、中学の頃、1年上の先輩──
柴崎拓也と付き合っていたことがある。放課後──グラウンドがオレンジに染まる
までボールを蹴り続ける姿に、憧れていた。そのひたむきな横顔に、兄を重ねてい
た。
そう、重ねていたのだろう。
自分ではそうは思っていなかったけれど、きっと無意識にそうしていたのだろう。
それを、柴崎拓也も気づいていたに違いない。
だから、まるで自然消滅するように──離れてしまった。
去年の夏、真奈美が日本に戻ってきたとき。真奈美のことで、そして自分のこと
で──ふたりが殴り合いの喧嘩をしたとき。
乃絵美はそのことに気づいてしまった。
(私は、お兄ちゃんが好きなんだ──)
気づかなければ、もしかしたら別の道を進んでいたのかもしれない。柴崎ともも
う一度、面と向かって付き合っていけることができたかもしれない。正樹が城南に
行くことだって、心から祝福できたかもしれない。
──かもしれない。かもしれない。かもしれない。そればかりが頭の中でリフレ
インし続ける。
だけど、気づいてしまった。
『お兄ちゃんが、私の恋……』
あのとき、その先を続けていたら、どうなっていたろう。
今とは違ったことに──なっていただろうか。あのときからずっと妹だというこ
とを意識し続けて、気持ちを押さえ続けてきて。今ほどは苦しくはなかっただろう
か。
けれど、もう限界だった。
正樹が遠くに行ってしまう──そう知ってしまったとき、昨夜、あれだけ堰き止
めいた自分の気持ちは、いとも簡単に決壊してしまった。
離れたくない。
ずっと、傍にいたい。
後悔はしている。
だけど、このまま一生口をつぐんでいたままだったら、きっともっと後悔してい
ただろう。
そのはずなのに。
「…………」
どうして、こんなに涙が出るんだろう。
好きなのに。その好きという気持ちと同じくらいの苦しさと、罪悪感がないまぜ
になって、お腹の中に凝り固まっている気がする。
正樹のあの表情。おびえに似た目。
あんな視線を向けられたことは、初めてだった。
好きだと思うほど、相手を苦しめる。身を寄せるほど、相手を傷つける。
お腹が痛い。
しくしく、しくしくと鈍い痛み。
涙が止まらない。
胸が苦しい。
だけど、だけど。
「だけど、おさえられないよ……」
─January.24 / St.elsia Highschool ─
1月末という微妙な時期の3年生の教室というのは、不思議な雰囲気に包まれて
いる。
受験組はHR中でも参考書を片手に大わらわだし、推薦組は余裕とばかりに居眠
りしたり、同じ推薦組の仲間と次の休みはどこへ遊びに行くかなんて話をしている。
その楽しげな様子を受験組や未だ落ち着き先のない就職組がうらめしくも見ている
という構図。
(天国と地獄だなぁ)
自分のことは棚に上げて、頬杖をつきながら正樹は思った。
『そうか、伊藤、決めてくれたか』
今朝、城南の推薦を受けることにしたと、進路指導室まで報告しに行ったとき─
─なぜか同席していた顧問の田山が大声でそう笑ってばんばんと何度も正樹の背を
叩いた。推薦入学に際して試験のようなものはないが、3月前に大学の方の監督と
面接のようなものがあるだけだと言う。それは参考程度のもので、さほど重要なも
のではないらしい。
要するに、すべては入ってから勝負だということだ。
城南のスポーツ推薦は、結果を出し続けているかぎり、学費その他ほとんどに優
遇措置がある。だが、結局城南陸上のレベルについていけなくなって低空飛行を何
ヶ月も続けたり、怪我やコンディション調整の失敗で結果が出せないと判断された
ときは、容赦なく放逐される。他大と比べてよりリベラルに、よりシビアに、とい
うのが城南のモットーだ。
『迷いはないんだな?』
熱弁を振るい始めた田山に少々辟易しながら、担任が正樹に訊いた。
正樹は「はい」とうなずいた。
──もっと早く走りれるように、なりたいですから。
「…………」
朝のことを思い出しながら、正樹はぼんやりと窓の方に視線をやった。
(迷い……か)
自分の言ったことに嘘はない。もともと好きで始めた陸上だが、最近は走るのが
楽しくてたまらない。どうすればもっと早く走れるだろう? 気が付いたらそんな
ことばかり考えている。スタートの瞬間、プレートを踏み込む感触。ゴール手前で
他の選手達を抜き去り、誰よりも早くテープを切る快感。だから、もっと早く走れ
る場所へ。
桜美に行けば、地元だし、先輩もいる。きっと居心地がいいだろう。それはきっ
と、城南にはないよさだ。
要はフィーリングじゃない? と菜織は言っていた。自分は楽しくやりたいのか。
それとも、もっと早く走りたいのか? 答えは簡単だった。──だから、フィーリ
ングで決めた。迷いはない。
ないはずなのに。
「…………」
昨日の乃絵美の顔が、涙が、頭から離れない。唇がまだ、熱をもっている感じが
する。
なんであんな顔をするんだろう? ただ寂しいと泣くだけなら、髪を撫でてやれ
る。抱きしめてやれる。けれど、乃絵美はそれを拒絶してなお──何かを求めてい
た。兄としての優しさ以外の、何か。
(何を?)
正樹は自問した。
いや、多分答えはもう、分かっているのだ。ただ、それを認めることができない
だけだ。もし、認めてしまったら。受け入れてしまったら。
きっと、すべてが崩れるだろう──
「こら」
ばん、と頭に軽い衝撃が走って、正樹ははっと我に返った。
顔を上げると、呆れたような顔の菜織が、鞄を胸のあたりで抱えながら立ってい
た。
「ったぁ、なにすんだ」
「アンタがいつまでもボーッとしてるからよ。もうHRとっくに終わってるわよ」
「?」
ぼんやりと教室の壁時計を眺めると、すでに長針は4を回っていた。
「あ、ホントだ」
「ホントだ、じゃないわよ。……なんか暗い顔してるけど、大丈夫? なんかあっ
た?」
正樹の前の席に腰を下ろして、菜織。
「ん? ああ……」
自分でも歯切れが悪いと思う返事。
「別に、大したことじゃないよ」
「……ふぅん」
それだけで、菜織は「あんまり言いたくないことだ」ということを、即座に理解
してくれたらしい。あえて続けて訊こうとはしない。その心づかいが、今の正樹に
は有り難かった。
「ならいいけど。……あんまり、溜め込まないようにね」
「……ああ。心配すんなって」
「──ん」
それだけ言って、菜織は席を離れた。その背中に向かって、
(悪い)
と正樹は小さく呟いた。
今は、もう少しだけ、ひとりになりたかった。
4
木枯らしが吹きすさぶ中庭は、いつも以上に閑散とした空気が漂っていた。
春先には大勢の生徒が弁当を広げたり、キャッチボールをしたりと賑わうこの場
所も、季節柄か今は影ひとつ見えない。
──たったひとりを除いては、だが。
「井澄」
真冬だというのに顔色ひとつ変えず、その生徒は中庭のベンチに腰をかけて、本
を片手に黒いコートをはめかせていた。冷たい眼鏡のフレームと黒のダウンコート
が、死神めいた印象を与える。
死神。
そう思えば、そのフレーズこそこの男に似合う言葉もない。黒い手袋をして、鎌
でも持っていたら後は完璧だ。
「……なんだ、気持ち悪い」
相変わらずぼそっとした井澄の声に、正樹はああ、と頭を掻いた。どうやら、い
つのまにか笑ってしまっていたらしい。
「読み終わったのか?」
井澄の隣のベンチに腰を下ろしながら、正樹は訊いた。
「その、本」
「……いや。だが、前にも一度読んだことがある。今は筋をなぞってるだけだ」
「そっか」
それきり、ふたりは押し黙ってしまったように口をつぐんだ。
だが、昨日ほど違和感はなかった。井澄の雰囲気がくだけてきているのか、正樹
の方が共感を持ち始めているのか、それは分からなかったが。
「……なあ」
ぽつっ、と正樹が訊いた。
井澄は首を動かさず視線だけをこちらに向けて、「なんだ」という目をした。
「その本、ユージニーだっけか。兄妹が恋に堕ちるとかって言ってたな。俺、あん
まり本とか読まないからよく分からないんだけど、そういう話ってやっぱり色々あ
るのか?」
「数え切れないくらい、ある」
パタン、と本を閉じて、井澄は言った。
「兄妹にかぎらずインセスト・タブーという観点でみれば、無数だな。オイディプ
ス、ハムレット、セミラミス、ジークムント、ネロ、チェーザレ・ボルジア……君
も名前くらいは聞いたことがあるだろう。フィクション・ノンフィクションを問わ
ず、彼らないし彼女らは、皆──インセスタス(近親相姦者)だ。神話や民間伝承
にまで遡れば、世界のどの国をみてもインセスト・タブー的描写のないものは皆無
といっていい。聖書ですら、ロトは自分の娘に子を生ませている」
珍しく饒舌に、井澄。
「だけどそれは──異常なことなんだろう?」
「異常というものの、定義による」
「普通じゃないこと、だろう」
「じゃあ、普通の定義は?」
眼鏡のフレームをついと上げて、井澄は顔を上げた。その表情にいつになく厳し
さのようなものが漂っている。正樹は思わず、気圧されるように視線をそらした。
「…………」
「……普通と異常の境なんてそんなものさ。前に言ったろう? 『よくある話』だ
と。インセスト・タブーはなんら異常なことじゃない。心の病だとも言われるが、
ナンセンスだな。というより、心を病んでいない人間など、いやしないさ。インセ
ストはそのひとつの形だ」
「でも、遺伝っていうか、そういう問題があるだろう」
反論しながら、どこか間違っているなと正樹は思った。こんな話をしに来たので
はなかったのだが。
「たしかに、血族結婚は優生学的に悪影響を及ぼすと古くから言われている。奇形
児が生まれる率も高くなる、と。だから古来から、人はそれを禁忌とした──そう
いう優生学が生まれる以前から、生物としての本能的嫌悪がそれを知っていたと」
「それが違うってのか」
「僕はそう考える。生物的というなら、近親相姦をする生物なんてこの世にたくさ
んいるだろう。ネズミは環境さえ整えてやれば、つがいを放すだけで爆発的に繁殖
する。本能というなら、子孫を残すという本能が近親相姦を嫌悪する本能に打ち勝
つわけだ。その程度のものだ」
「じゃあなぜ──」
なぜ、禁忌なのだ。
「望ましいからだよ」
「望ましい?」
「誰もが心の奥底で、インセストというものに甘美さを感じているからだ。そこに
ユートピア性を見出しているからさ。人間は望ましいものには不思議と蓋をする─
─」
5
「あ……」
しく、と腹部に鈍い痛みが走って、階段を上っていた乃絵美は手すりに体重を預
けるようにして、お腹をおさえた。
乃絵美は軽い方らしく、その渦中でもそれほど辛いことはない。友人の話を聞い
ていると、もっとひどく痛む人もいるそうだ。それに比べれば、自分のは気楽な方
なのだろう。
けれど、周期的にこの鈍い痛みに襲われるとき──自分は女なのだ、ということ
を実感する。
妹ではなく、伊藤乃絵美というひとりの女なのだと。そして、伊藤正樹も、兄で
ある以前にひとりの男だということを、当然の事実を──衝撃的な真実のように、
再確認してしまう。
どうして好きになってしまったんだろう、と思う。
自分は未だに兄を慕う気持ちと、恋心とを取り違えているんじゃないか──そう
思ったりもする。
だけど、嫌なのだった。
小さい頃そのままに髪をくしゃくしゃにされたり、撫でてもらったり、そういう
のはもう嫌なのだった。
かといって、触れてほしくないわけではない。それより、もっともっと──触れ
てほしい。髪だけではなく頬を、首筋を。イトウノエミを、愛してほしい。本当は
ずっとそう思ってきた。ただ、気づかなかっただけ。
もちろん今まで、正樹以外の男を好きにならなかったわけではない。
交際というにはあまりにも幼い付き合いだったが、中学の頃、1年上の先輩──
柴崎拓也と付き合っていたことがある。放課後──グラウンドがオレンジに染まる
までボールを蹴り続ける姿に、憧れていた。そのひたむきな横顔に、兄を重ねてい
た。
そう、重ねていたのだろう。
自分ではそうは思っていなかったけれど、きっと無意識にそうしていたのだろう。
それを、柴崎拓也も気づいていたに違いない。
だから、まるで自然消滅するように──離れてしまった。
去年の夏、真奈美が日本に戻ってきたとき。真奈美のことで、そして自分のこと
で──ふたりが殴り合いの喧嘩をしたとき。
乃絵美はそのことに気づいてしまった。
(私は、お兄ちゃんが好きなんだ──)
気づかなければ、もしかしたら別の道を進んでいたのかもしれない。柴崎ともも
う一度、面と向かって付き合っていけることができたかもしれない。正樹が城南に
行くことだって、心から祝福できたかもしれない。
──かもしれない。かもしれない。かもしれない。そればかりが頭の中でリフレ
インし続ける。
だけど、気づいてしまった。
『お兄ちゃんが、私の恋……』
あのとき、その先を続けていたら、どうなっていたろう。
今とは違ったことに──なっていただろうか。あのときからずっと妹だというこ
とを意識し続けて、気持ちを押さえ続けてきて。今ほどは苦しくはなかっただろう
か。
けれど、もう限界だった。
正樹が遠くに行ってしまう──そう知ってしまったとき、昨夜、あれだけ堰き止
めいた自分の気持ちは、いとも簡単に決壊してしまった。
離れたくない。
ずっと、傍にいたい。
後悔はしている。
だけど、このまま一生口をつぐんでいたままだったら、きっともっと後悔してい
ただろう。
そのはずなのに。
「…………」
どうして、こんなに涙が出るんだろう。
好きなのに。その好きという気持ちと同じくらいの苦しさと、罪悪感がないまぜ
になって、お腹の中に凝り固まっている気がする。
正樹のあの表情。おびえに似た目。
あんな視線を向けられたことは、初めてだった。
好きだと思うほど、相手を苦しめる。身を寄せるほど、相手を傷つける。
お腹が痛い。
しくしく、しくしくと鈍い痛み。
涙が止まらない。
胸が苦しい。
だけど、だけど。
「だけど、おさえられないよ……」
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