小説(転載) インセスタス Incest.4 優しい棘 2/3
官能小説
3
全てが、灼けつくくらいに、熱かった。
唇から洩れる吐息が。触れあう肌が。──不思議なくらいに熱を持っている。ほ
のかに赤く上気した乃絵美の胸に口づけながら、正樹は感じた。
この奇妙な安堵感は、なんだろう?
背徳混じりの罪悪感が胸を苛む中で、たしかに息づくこの感覚はなんだろう。ま
るで、ようやくあるべき処へ還ったような──この感じは? ずっと求めていたも
のを、ようやくこの手に出来たような、この感覚は?
安堵?
そんなはずはない。安心とか、安堵とか、そんな言葉から最も無縁な行為を、自
分は今しているのに。実の妹に、兄が、泥々とした感情の全てを刻み込もうとして
いるのに?
だのに、感じるのだった。
乃絵美の白い肌が。驚くくらい細い腰が。ベッドに流れた艶やかな黒髪が。ささ
やかな双丘が。うるんだ瞳が。薄い唇が。なにもかもが、正樹を安心させる。
「おにい……ちゃん?」
沈黙した正樹に、乃絵美が不安そうな声をあげた。右手で正樹に触れようとする。
儚げな手。
自分の頬に添えられたその手をぎゅっと掴んで、正樹は苦笑まじりに口もとをほ
ころばせた。
乃絵美が俺を求めてくれたから?
乃絵美をこれ以上、傷つけたくないから?
だから俺は乃絵美を受け入れた──? そんな思いは、合わさった肌から感じる
熱が、すべて焦がした。違う。俺が、俺自身が、乃絵美を求めていたんだ。いつか
ら? それは分からない。だけど、ずっとこうなることを望んでいた。自分でも分
からないくらい、心の一番深いところで、ずっと。
ああ、そうだ、畜生。だから俺は安堵してる。この子が、俺を求めてくれたから。
俺がずっと求めていたこの子が、俺を好きだと言ってくれて、俺の傍にいることを
望んでくれたから。
だけど。
だけど、いやきっと、だからこそ、違う。
だからこそ、こんなことをしちゃいけない。乃絵美が俺を好きで、俺が乃絵美を
好きなのなら、なおのこと、こんなことをしちゃいけない。待っているのは本当に
きっと──痛みと苦しみだけだ。誰がふたりを認めてくれるだろう? 誰が俺たち
を祝福してくれるだろう?
視線がからむ。
複雑な感情を滲ませた正樹の瞳を見て──乃絵美がくすりと笑った。儚げな、そ
れでいて幸せそうな笑顔。
「大丈夫だから」
囁くように言う。大丈夫だから。微笑みを残したまま、乃絵美が自分の手を掴ん
だままの正樹の手を引き戻し、その甲に優しく口づけた。
「ばぁか」
苦笑しながら、正樹。そんな無邪気に笑いやがって、本当にお前は。
なにが──大丈夫なんだよ。
「ん……」
幼子のように正樹の手をきゅっと掴んだまま、乃絵美。上目遣いに正樹を見上げ
る。胸をはだけたままの姿が、不思議とあどけなかった。
「うん……わたし、ばかだよ」
乃絵美は笑う。違う、どうしようもないくらい馬鹿なのは、俺だよ。正樹は思っ
た。
この先に待つものが何か。漠然とだが、正樹は感じている。井澄の言葉が頭の中
でリフレインする。モラル。倫理。規範。どんな理由があれ、ふたりの行為はそれ
ら高所から見れば、インモラルなものにすぎない。そう、そういった無言の力がき
っと──いつか、それは不可避なものとして──全てを押し潰すだろう。傷つくな
どという曖昧な言葉ではすまない何かがきっと、この先には待っている。守りたか
った。そういう苦しみから、痛みの全てから、乃絵美を。
だのに──こんなにも。こんなにも、今自分は、乃絵美が欲しい。愛しくてたま
らない。今ならきっと、まだ戻れるのだ。そういう一線の前に、自分はまだ立って
いる。そう、今ならまだ。だのに。
ふと、乃絵美を見る。
大丈夫じゃないんだよ。全然、大丈夫じゃないんだ。きっと。俺も、お前も、こ
のままじゃいられない。なのに、馬鹿な兄貴だな、俺は。やっぱり、それでも、お
前が欲しいんだ。
「──ごめん、ね」
ぽつりと、乃絵美が呟いた。
「ん?」
見ると、何かを察したのか、不安そうな表情で乃絵美が自分を見上げている。心
細げな視線。表情に、出ていたろうか。正樹は自分の迂闊さに舌打ちした。
が、
「…………」
「乃……」
「……わたし……」
正樹が顔を覗きこむようにしながら言うと、乃絵美は上気した頬のまま、視線を
そらした。
「その、あんまり、なくて、その……」
消え入りそうな声。
「?」
その声に、正樹の視線がはだけた胸元に注がれる。ささやかな双丘が、そこにあ
った。
「…………」
「…………」
「……くっ……」
「……?……」
瞬間、一拍の間をおいて、正樹は吹き出すようにして笑った。「え? え?」と
乃絵美がきょとんとした顔をする。乃絵美にしてみれば、正樹が自分のささやかな
体つきを見て、がっかりしているとでも考えていたのだろう。
「お、お兄ちゃん?」
「本当に、お前は……」
目を細めながら、正樹。一瞬、なにもかもがぽっかりと抜けた。罪悪感も、逡巡
も、不安すら。そして唯一残った乃絵美への愛しさが、胸の中で膨れあがる。
この子は、いつもこうだ。自分よりも、いつも俺のことを気にして、ひたすら純
粋に、思慕を向けてくる。そう、──痛々しいくらい。そんな妹に、自分は今欲望
をぶつけようとしている。
「あ……きゃっ」
複雑な思いにとらわれながら、正樹は乃絵美の体を抱き起こした。乃絵美が、小
さく声をあげる。乃絵美の白く透き通ったような肢体をまじまじと見ながら、さっ
きの乃絵美の神妙な表情を思い出して、正樹はまた苦笑まじりの笑みを向けた。
「心配すんな」
「おにい──ちゃん?」
「まあ、正直お前はもうちょっと飯食った方がいいと思うけど──まぁその、俺の、
個人的嗜好としては、お前のはかなりいい線いってる……と思う」
「あ……」
正樹の言葉に、乃絵美が頬を赤くしてうつむいた。小さく、「うん」と呟いて、
口元をほころばせた。その笑顔はひどく幼げで──なのにひどく大人びて見えた。
磁力に引かれるように、正樹は乃絵美のその小さな口元に、口づけた。ん、と乃絵
美が返してくる。
そのまま、正樹は乃絵美の胸に指を這わせた。小さな膨らみ(掌の中におさまる
くらい慎ましげなそれ)が、正樹の指の動きに合わせて、形を変える。キスをした
まま、乃絵美がふっ、と息を洩らした。
「乃絵美──」
唇を放して、正樹は呟いた。呟きながら、手をゆっくりと、下の方に下げていく。
「ん、ん……」
体にめぐる熱い感覚に身を任せているのか──乃絵美は目を閉じたまま、声を殺
そうとしていた。夜の4時とはいえ、廊下を隔てた向いの部屋では、父親が寝てい
るはずだった。それを思うと、正樹の胸は痛む。あの無口な父親が、このことを知
ったら、どう思うだろう? 自慢の息子と娘が、自分の寝ているすぐ近くで、背徳
に身を任せていると知ったら?
正樹は思った。そう、インセストの罪とは、しかるべくそういうことなのだ。善
悪の意志あるなしに関わらずに、否応なしに、周囲を巻き込む。無視しえぬものと
して。あの気さくで純朴な父親が、世間の好奇と軽蔑の視線にさらされる姿。伊藤
さんのお子さんたちの話もう御存じ? ふしだらよねぇ。ああ気持ち悪い、これだ
から片親は!
それなのに──俺は。
乃絵美の白い首筋に舌を這わせながら、正樹は呟いた。親父。母さん。菜織。真
奈美ちゃん。冴子。ミャーコちゃん。脳裏に浮かぶ幾つもの影。瞬間、きゅ、と乃
絵美の小さな手が自分の手を握った。思いにとらわれそうになった正樹を引き戻す
ような、真剣な瞳。
乃絵美の肩は震えていた。けれど、その瞳はしっかりと自分を見つめていた。そ
うだ、乃絵美だって、いやむしろ、乃絵美の方が、俺の何倍も怖いに決まっている。
この先に何があるのか、乃絵美だって想像がつかないはずがない。だのに、だのに
それでも、乃絵美は俺を求めてくれた。体中の勇気を振り絞って、一歩、線を踏み
出してくれた。
なのに、俺は──?
自問しながら正樹は、乃絵美の手をそっと離し、その頬を撫でた。そして、ふと
気づいた。自分の指から感じる、かすかな血のにおい。
正樹の小さな表情の変化に、乃絵美は気づいたのか、口を開こうとする正樹の唇
に指を当てて、
「大丈夫だから」
と、もう一度、囁いた。さすがに少し不安げに、それでも微笑をたたえて。
正樹は今度も、小さく笑った。なにが大丈夫なんだよ。こんな小さな体で、しか
もこんなときに、それでも、それでも、お前は俺を求めてくれるのか。必死に我慢
しやがって。大丈夫なはず、ないじゃないか。
結局、臆病なのは俺の方なんだ。お前はこうやって、答えを出してくれてるのに。
俺はいつまでも優柔不断で、どうしようもないくらい、馬鹿だ。乃絵美、お前は自
分のこと馬鹿だって言うけど、やっぱ俺の方がずっと、馬鹿でどうしようもないよ。
「乃絵美」
正樹は小さく呟いて、続けた。
「──至らない兄貴で、ごめんな」
その呟きに、乃絵美は一瞬目を丸くして、それから、
「──ううん、そんなお兄ちゃんだから、好きだよ」
と微笑んだ。
正樹は苦笑して、今度は黙ったまま、そっと乃絵美の髪を梳いた。そして、自分
のシャツのボタンを外しながら、もう一度乃絵美にキスをした。乃絵美もそれを受
け入れながら、そっとブラウスを脱いだ。
4
「!」
ぱた、と近くで何かが倒れたような音に、菜織はふと目を醒ました。見ると、布
団の脇に立てかけてあったアルバムが横に倒れ、めくれたページがこちらの方を向
いている。一枚の写真が目に入る。7、8歳といったところだろうか。ひとりの少
年と、3人の少女の写真。
「…………」
ふと、菜織は体をもちあげて、その写真を指でなぞった。少年の肩に手をかけて、
ボサボサの髪の健康そうな少女(これは自分だ)がカメラに向かってピースサイン
をしている。その隣で、大きなリボンをした少女がはにかむような笑顔を向けてい
る。真奈美だ。そして、少年の手しっかりと掴んだまま、上目遣いでカメラの方を
見やる、線の細い少女。
ちく、と菜織の中でなにかが痛んだ。昨日の正樹の表情が、頭を離れない。その
せいか、普段は秒単位で寝つける菜織が(その代わり朝は弱いが)不思議と今日は
眠れなかった。さっきから、何度も目が醒めて、そのたびにアルバムのページをめ
くっている。
ふう、と息をつく。自分は何を気にしているんだろう? 昨日の正樹はたしかに
変だった。あんな顔をした正樹は、7年前の真奈美との別れの日以来だったし、会
ってはいないが、乃絵美の様子もおかしかったらしい。今まで兄妹喧嘩らしい喧嘩
をしたこともなかったふたりが。
そう、きっとふたりの間で、何かがあったんだろう。でも、それがどうしたとい
うんだろう? 多分、それは、ふたりにようやく訪れた、初めての兄妹喧嘩なのだ。
だからふたりとも戸惑っているのだ。あれだけ妹思いの兄と、兄思いの妹の間によ
うやく訪れた、小さな感情のすれ違い。遅すぎるほどの。はしかや水疱瘡を幼い頃
に経験しなかった子が、10代の後半になってそれにかかり、大変な思いをするよ
うな、そんな感じのもの。経験してしまえばどうということのない、せいぜい笑い
話くらいにしかならない、そんな類の──。
そうに決まっている。
けれど、と菜織は思う。
けれど、思い出してしまう。あの雪の日のこと。目が醒めたらあたり一面の銀世
界で、はしゃいでしまった自分。さっそく真奈美を引き連れて正樹の家に押し掛け
て、『雪だるま、作ろうよ!』と叫んだ日。冬の冷たい午後、汗をいっぱいかきな
がら雪を集めて、大きな大きな、門よりもずっと大きな雪だるまをこしらえて、よ
うやく頭を乗せようとした、そのとき。
無邪気に笑っていた正樹の顔に、しまったという表情が浮かんでいた。後悔を滲
ませた顔。『悪い!』ときびすを返して家に戻っていった少年を、呆然と見送った
自分。
真奈美の声に視線を上げてみて、ああ、と思った。
二階の窓から、ひとりの少女が手をついて、こっちを見ていた。水玉のパジャマ
を着た、お人形さんのような女の子。すこし気だるそうな表情を浮かべたまま、羨
ましそうな視線を送っている。ふと、その子が窓から視線を外し、部屋の方を向い
た。
菜織は、そのときのその子の表情を、今でも憶えている。横顔だったけれど、そ
れは、とてもとても幸せそうな、嬉しそうな、きっと心の底から信頼と愛情を寄せ
る相手への、儚げだけれど、零れるような笑顔だった。思わず、菜織の小さな胸に
痛みを走らせるくらい、それは。
『乃絵美ちゃんじゃ、仕方ないよね』
隣でそれを見上げていた真奈美がぽつりと言った。あのとき自分は何と返したろ
う? 『そうだね』と苦笑したような気がする。『しょーがないなぁ、じゃ、ふた
りで頑張って頭を上げよう!』とも。何事もなかったように。それから以後、あの
ときのことは菜織の胸の中に、小さな棘のように残っている。自分でも馬鹿らしい
と思う。乃絵美は正樹にとって大事な妹なだけなのに、だのに嫉妬してしまうこと
もそうだし、なにより菜織は乃絵美を本当に好きだし(今どきこんないい子は日本
のどこを探したっていないと思う)、下の弟妹がいない菜織には、乃絵美は菜織に
とっても妹のような存在だった。だからそんな感情はすぐに忘れようとしたし、現
に忘れたつもりでいたし、棘が刺さった小さな傷は、すっかり癒えたと思っていた。
──そう、昨日、正樹のあの表情を、見るまでは。
菜織は思う。あの表情の奥にあったものはなんだろう? 正樹と乃絵美の間に、
何があったというのだろう? ただの喧嘩じゃない。それだったら、正樹も愚痴の
ひとつくらいこぼすはずだ。だのに、あのときの正樹は、何かを隠してるようだっ
た。知られたくない何かを。とすると、ふたりの間には、その“知られたくないこ
と”とやらが、起きたのだ。考えたくないが、それはきっと──
「って、バカみたい、あたし」
菜織は苦笑して、そんな自分の馬鹿な考えを振り払った。結局、あたしはあの頃
となんにも変わっていない。妹相手に嫉妬して、勝手にあることないこと想像して、
本当、馬鹿だ。それに、乃絵美が悩んでいるんだったら、まっさきに相談に乗って
やるべきなのに、こんなことうだうだと思い悩んで、あんないい子を、ちょっとで
も疑ってしまった。
「あーあ」
息を吐いて、菜織は布団の上にごろんと横になった。こんな夜に、あたしはなん
て馬鹿なこと考えてるんだろう? どうも、昨日の正樹の辛気くささが伝染したと
しか思えない。まったくあいつときたら、真奈美のときといい、苦労ばっかりかけ
て。
よろしい、明日はあたしがひと肌ぬごう。乃絵美を捕まえて、じっくり話を聞い
てあげよう。極度のブラコンのあの子のことだ。正樹が家を出てしまうと知って、
気が気じゃないんだろう。正樹はそんな乃絵美と、自分の夢とが板挟みにあって、
苦しんでるに違いない。
本当に、世話の焼ける兄妹なんだから、と菜織は思い、アルバムを乱暴に閉じた。
布団にもぐりこんで、目を閉じる。一瞬、7年前のあの情景が胸をよぎったが──
やがてそれはゆっくりと微睡みの中に消えた。
5
薄暗い部屋の中で小さく、衣擦れの音だけが響いている。
ボタンを外す、ぷち、ぷち、という音。ブラウスがベッドに落ちる小さな音。ジ
ッパーが降りる金属音。そして、息づかい。
やがて、ゆっくりと兄は、妹の体の上に覆い被さった。ベッドに右手をつき、左
手は妹自身に触れながら、何度もキスをした。甘い。脳が痺れるような、甘い舌を
味わいながら。
「ん……ふ、う……」
声を殺しながら、乃絵美はむずかるように息をもらした。その潤んだ瞳が、じっ
と正樹の瞳に注がれた。カーテン越しに月明かりが差し込む。7年前と変わらない
ベッド。いつも妹はこのベッドに寝て、傍らに座る兄の帰りを待っていた。階段を
昇ってくる足音が耳に届いたときのあの気持ち。ドアが開いて、待ち望んでいた笑
顔が視界に広がった瞬間。どれだけ、幸せだったろう──?
そのベッドの上で、あのときの幼い兄妹は、月の光を頼りに、こうやって体を重
ねている。お互いを、より近くに感じるために。それはおかしなこと? ううん、
そうは思わない。だって私は今、こんなに満ち足りてる。あのときと同じくらい、
ううん、あのときよりもずっと。
「……っ……」
ぴと、と兄の“それ”が、妹の小さな“その場所”に触れた。びくっと全身が強
ばる。
無意識に、乃絵美は正樹の肩に手を回した。何度となくおぶってもらったとき、
いつも体温を感じていたあの肩。しっかりとしがみついていれば、どんなことがあ
っても怖くないと信じた背中。
「…………」
正樹が何かを呟こうとして、唇を閉じた。言葉はもう、いらなかった。
視線が合った。
正樹の瞳の中に、自分の顔が映っている。それはあのときの、兄の帰りをじっと
待つ、幼い妹の顔。
(──後悔、しないよね?)
その少女に、乃絵美は心の中でそっと囁いた。
少女は静かに笑って、小さく、けれどたしかにうなずき、そして消えた。
そして、乃絵美は正樹の背中に回した手に、きゅっと力を込めて──目を閉じた。
「……!……」
瞬間、自分の下半身に、灼けつくような熱を、乃絵美は感じた。続いて、引き裂
かれるような痛み。つぐんでいた唇が、音を求めて開く。
「あ! あ! あ! あ! あ──!」
自分が、思い切り正樹の背中に爪を立て、血を滲ませているのにも気づかなかっ
た。
激痛。そして全身を駆けめぐる、凄まじい熱が、乃絵美の思考を犯していった。
「んう、あ、あ、あ……!」
けれども、そう、けれども、ずっと前から乃絵美が思い描いていたように、その
痛みも、熱も、けして不快なものではなかった。
かすれてしまいそうになる思考の中で、乃絵美は叫んだ。もう、何も考えられな
かった。唇が、ただひとつの言葉だけを刻む。今まで何度も、何千回も、様々な思
いをこめて刻んだあの言葉を、真っ白に染まっていく思考の中で、ただひとつ見つ
けた道しるべのように、何度も、何度も、叫び続けた。
「おにいちゃん、おにいちゃん、おにいちゃん、おにいちゃん……!」
やがて、今までとは比較にならないほどの、圧倒的な熱が乃絵美の中を駆けめぐ
り──
乃絵美の思考は、そこで途切れた。
全てが、灼けつくくらいに、熱かった。
唇から洩れる吐息が。触れあう肌が。──不思議なくらいに熱を持っている。ほ
のかに赤く上気した乃絵美の胸に口づけながら、正樹は感じた。
この奇妙な安堵感は、なんだろう?
背徳混じりの罪悪感が胸を苛む中で、たしかに息づくこの感覚はなんだろう。ま
るで、ようやくあるべき処へ還ったような──この感じは? ずっと求めていたも
のを、ようやくこの手に出来たような、この感覚は?
安堵?
そんなはずはない。安心とか、安堵とか、そんな言葉から最も無縁な行為を、自
分は今しているのに。実の妹に、兄が、泥々とした感情の全てを刻み込もうとして
いるのに?
だのに、感じるのだった。
乃絵美の白い肌が。驚くくらい細い腰が。ベッドに流れた艶やかな黒髪が。ささ
やかな双丘が。うるんだ瞳が。薄い唇が。なにもかもが、正樹を安心させる。
「おにい……ちゃん?」
沈黙した正樹に、乃絵美が不安そうな声をあげた。右手で正樹に触れようとする。
儚げな手。
自分の頬に添えられたその手をぎゅっと掴んで、正樹は苦笑まじりに口もとをほ
ころばせた。
乃絵美が俺を求めてくれたから?
乃絵美をこれ以上、傷つけたくないから?
だから俺は乃絵美を受け入れた──? そんな思いは、合わさった肌から感じる
熱が、すべて焦がした。違う。俺が、俺自身が、乃絵美を求めていたんだ。いつか
ら? それは分からない。だけど、ずっとこうなることを望んでいた。自分でも分
からないくらい、心の一番深いところで、ずっと。
ああ、そうだ、畜生。だから俺は安堵してる。この子が、俺を求めてくれたから。
俺がずっと求めていたこの子が、俺を好きだと言ってくれて、俺の傍にいることを
望んでくれたから。
だけど。
だけど、いやきっと、だからこそ、違う。
だからこそ、こんなことをしちゃいけない。乃絵美が俺を好きで、俺が乃絵美を
好きなのなら、なおのこと、こんなことをしちゃいけない。待っているのは本当に
きっと──痛みと苦しみだけだ。誰がふたりを認めてくれるだろう? 誰が俺たち
を祝福してくれるだろう?
視線がからむ。
複雑な感情を滲ませた正樹の瞳を見て──乃絵美がくすりと笑った。儚げな、そ
れでいて幸せそうな笑顔。
「大丈夫だから」
囁くように言う。大丈夫だから。微笑みを残したまま、乃絵美が自分の手を掴ん
だままの正樹の手を引き戻し、その甲に優しく口づけた。
「ばぁか」
苦笑しながら、正樹。そんな無邪気に笑いやがって、本当にお前は。
なにが──大丈夫なんだよ。
「ん……」
幼子のように正樹の手をきゅっと掴んだまま、乃絵美。上目遣いに正樹を見上げ
る。胸をはだけたままの姿が、不思議とあどけなかった。
「うん……わたし、ばかだよ」
乃絵美は笑う。違う、どうしようもないくらい馬鹿なのは、俺だよ。正樹は思っ
た。
この先に待つものが何か。漠然とだが、正樹は感じている。井澄の言葉が頭の中
でリフレインする。モラル。倫理。規範。どんな理由があれ、ふたりの行為はそれ
ら高所から見れば、インモラルなものにすぎない。そう、そういった無言の力がき
っと──いつか、それは不可避なものとして──全てを押し潰すだろう。傷つくな
どという曖昧な言葉ではすまない何かがきっと、この先には待っている。守りたか
った。そういう苦しみから、痛みの全てから、乃絵美を。
だのに──こんなにも。こんなにも、今自分は、乃絵美が欲しい。愛しくてたま
らない。今ならきっと、まだ戻れるのだ。そういう一線の前に、自分はまだ立って
いる。そう、今ならまだ。だのに。
ふと、乃絵美を見る。
大丈夫じゃないんだよ。全然、大丈夫じゃないんだ。きっと。俺も、お前も、こ
のままじゃいられない。なのに、馬鹿な兄貴だな、俺は。やっぱり、それでも、お
前が欲しいんだ。
「──ごめん、ね」
ぽつりと、乃絵美が呟いた。
「ん?」
見ると、何かを察したのか、不安そうな表情で乃絵美が自分を見上げている。心
細げな視線。表情に、出ていたろうか。正樹は自分の迂闊さに舌打ちした。
が、
「…………」
「乃……」
「……わたし……」
正樹が顔を覗きこむようにしながら言うと、乃絵美は上気した頬のまま、視線を
そらした。
「その、あんまり、なくて、その……」
消え入りそうな声。
「?」
その声に、正樹の視線がはだけた胸元に注がれる。ささやかな双丘が、そこにあ
った。
「…………」
「…………」
「……くっ……」
「……?……」
瞬間、一拍の間をおいて、正樹は吹き出すようにして笑った。「え? え?」と
乃絵美がきょとんとした顔をする。乃絵美にしてみれば、正樹が自分のささやかな
体つきを見て、がっかりしているとでも考えていたのだろう。
「お、お兄ちゃん?」
「本当に、お前は……」
目を細めながら、正樹。一瞬、なにもかもがぽっかりと抜けた。罪悪感も、逡巡
も、不安すら。そして唯一残った乃絵美への愛しさが、胸の中で膨れあがる。
この子は、いつもこうだ。自分よりも、いつも俺のことを気にして、ひたすら純
粋に、思慕を向けてくる。そう、──痛々しいくらい。そんな妹に、自分は今欲望
をぶつけようとしている。
「あ……きゃっ」
複雑な思いにとらわれながら、正樹は乃絵美の体を抱き起こした。乃絵美が、小
さく声をあげる。乃絵美の白く透き通ったような肢体をまじまじと見ながら、さっ
きの乃絵美の神妙な表情を思い出して、正樹はまた苦笑まじりの笑みを向けた。
「心配すんな」
「おにい──ちゃん?」
「まあ、正直お前はもうちょっと飯食った方がいいと思うけど──まぁその、俺の、
個人的嗜好としては、お前のはかなりいい線いってる……と思う」
「あ……」
正樹の言葉に、乃絵美が頬を赤くしてうつむいた。小さく、「うん」と呟いて、
口元をほころばせた。その笑顔はひどく幼げで──なのにひどく大人びて見えた。
磁力に引かれるように、正樹は乃絵美のその小さな口元に、口づけた。ん、と乃絵
美が返してくる。
そのまま、正樹は乃絵美の胸に指を這わせた。小さな膨らみ(掌の中におさまる
くらい慎ましげなそれ)が、正樹の指の動きに合わせて、形を変える。キスをした
まま、乃絵美がふっ、と息を洩らした。
「乃絵美──」
唇を放して、正樹は呟いた。呟きながら、手をゆっくりと、下の方に下げていく。
「ん、ん……」
体にめぐる熱い感覚に身を任せているのか──乃絵美は目を閉じたまま、声を殺
そうとしていた。夜の4時とはいえ、廊下を隔てた向いの部屋では、父親が寝てい
るはずだった。それを思うと、正樹の胸は痛む。あの無口な父親が、このことを知
ったら、どう思うだろう? 自慢の息子と娘が、自分の寝ているすぐ近くで、背徳
に身を任せていると知ったら?
正樹は思った。そう、インセストの罪とは、しかるべくそういうことなのだ。善
悪の意志あるなしに関わらずに、否応なしに、周囲を巻き込む。無視しえぬものと
して。あの気さくで純朴な父親が、世間の好奇と軽蔑の視線にさらされる姿。伊藤
さんのお子さんたちの話もう御存じ? ふしだらよねぇ。ああ気持ち悪い、これだ
から片親は!
それなのに──俺は。
乃絵美の白い首筋に舌を這わせながら、正樹は呟いた。親父。母さん。菜織。真
奈美ちゃん。冴子。ミャーコちゃん。脳裏に浮かぶ幾つもの影。瞬間、きゅ、と乃
絵美の小さな手が自分の手を握った。思いにとらわれそうになった正樹を引き戻す
ような、真剣な瞳。
乃絵美の肩は震えていた。けれど、その瞳はしっかりと自分を見つめていた。そ
うだ、乃絵美だって、いやむしろ、乃絵美の方が、俺の何倍も怖いに決まっている。
この先に何があるのか、乃絵美だって想像がつかないはずがない。だのに、だのに
それでも、乃絵美は俺を求めてくれた。体中の勇気を振り絞って、一歩、線を踏み
出してくれた。
なのに、俺は──?
自問しながら正樹は、乃絵美の手をそっと離し、その頬を撫でた。そして、ふと
気づいた。自分の指から感じる、かすかな血のにおい。
正樹の小さな表情の変化に、乃絵美は気づいたのか、口を開こうとする正樹の唇
に指を当てて、
「大丈夫だから」
と、もう一度、囁いた。さすがに少し不安げに、それでも微笑をたたえて。
正樹は今度も、小さく笑った。なにが大丈夫なんだよ。こんな小さな体で、しか
もこんなときに、それでも、それでも、お前は俺を求めてくれるのか。必死に我慢
しやがって。大丈夫なはず、ないじゃないか。
結局、臆病なのは俺の方なんだ。お前はこうやって、答えを出してくれてるのに。
俺はいつまでも優柔不断で、どうしようもないくらい、馬鹿だ。乃絵美、お前は自
分のこと馬鹿だって言うけど、やっぱ俺の方がずっと、馬鹿でどうしようもないよ。
「乃絵美」
正樹は小さく呟いて、続けた。
「──至らない兄貴で、ごめんな」
その呟きに、乃絵美は一瞬目を丸くして、それから、
「──ううん、そんなお兄ちゃんだから、好きだよ」
と微笑んだ。
正樹は苦笑して、今度は黙ったまま、そっと乃絵美の髪を梳いた。そして、自分
のシャツのボタンを外しながら、もう一度乃絵美にキスをした。乃絵美もそれを受
け入れながら、そっとブラウスを脱いだ。
4
「!」
ぱた、と近くで何かが倒れたような音に、菜織はふと目を醒ました。見ると、布
団の脇に立てかけてあったアルバムが横に倒れ、めくれたページがこちらの方を向
いている。一枚の写真が目に入る。7、8歳といったところだろうか。ひとりの少
年と、3人の少女の写真。
「…………」
ふと、菜織は体をもちあげて、その写真を指でなぞった。少年の肩に手をかけて、
ボサボサの髪の健康そうな少女(これは自分だ)がカメラに向かってピースサイン
をしている。その隣で、大きなリボンをした少女がはにかむような笑顔を向けてい
る。真奈美だ。そして、少年の手しっかりと掴んだまま、上目遣いでカメラの方を
見やる、線の細い少女。
ちく、と菜織の中でなにかが痛んだ。昨日の正樹の表情が、頭を離れない。その
せいか、普段は秒単位で寝つける菜織が(その代わり朝は弱いが)不思議と今日は
眠れなかった。さっきから、何度も目が醒めて、そのたびにアルバムのページをめ
くっている。
ふう、と息をつく。自分は何を気にしているんだろう? 昨日の正樹はたしかに
変だった。あんな顔をした正樹は、7年前の真奈美との別れの日以来だったし、会
ってはいないが、乃絵美の様子もおかしかったらしい。今まで兄妹喧嘩らしい喧嘩
をしたこともなかったふたりが。
そう、きっとふたりの間で、何かがあったんだろう。でも、それがどうしたとい
うんだろう? 多分、それは、ふたりにようやく訪れた、初めての兄妹喧嘩なのだ。
だからふたりとも戸惑っているのだ。あれだけ妹思いの兄と、兄思いの妹の間によ
うやく訪れた、小さな感情のすれ違い。遅すぎるほどの。はしかや水疱瘡を幼い頃
に経験しなかった子が、10代の後半になってそれにかかり、大変な思いをするよ
うな、そんな感じのもの。経験してしまえばどうということのない、せいぜい笑い
話くらいにしかならない、そんな類の──。
そうに決まっている。
けれど、と菜織は思う。
けれど、思い出してしまう。あの雪の日のこと。目が醒めたらあたり一面の銀世
界で、はしゃいでしまった自分。さっそく真奈美を引き連れて正樹の家に押し掛け
て、『雪だるま、作ろうよ!』と叫んだ日。冬の冷たい午後、汗をいっぱいかきな
がら雪を集めて、大きな大きな、門よりもずっと大きな雪だるまをこしらえて、よ
うやく頭を乗せようとした、そのとき。
無邪気に笑っていた正樹の顔に、しまったという表情が浮かんでいた。後悔を滲
ませた顔。『悪い!』ときびすを返して家に戻っていった少年を、呆然と見送った
自分。
真奈美の声に視線を上げてみて、ああ、と思った。
二階の窓から、ひとりの少女が手をついて、こっちを見ていた。水玉のパジャマ
を着た、お人形さんのような女の子。すこし気だるそうな表情を浮かべたまま、羨
ましそうな視線を送っている。ふと、その子が窓から視線を外し、部屋の方を向い
た。
菜織は、そのときのその子の表情を、今でも憶えている。横顔だったけれど、そ
れは、とてもとても幸せそうな、嬉しそうな、きっと心の底から信頼と愛情を寄せ
る相手への、儚げだけれど、零れるような笑顔だった。思わず、菜織の小さな胸に
痛みを走らせるくらい、それは。
『乃絵美ちゃんじゃ、仕方ないよね』
隣でそれを見上げていた真奈美がぽつりと言った。あのとき自分は何と返したろ
う? 『そうだね』と苦笑したような気がする。『しょーがないなぁ、じゃ、ふた
りで頑張って頭を上げよう!』とも。何事もなかったように。それから以後、あの
ときのことは菜織の胸の中に、小さな棘のように残っている。自分でも馬鹿らしい
と思う。乃絵美は正樹にとって大事な妹なだけなのに、だのに嫉妬してしまうこと
もそうだし、なにより菜織は乃絵美を本当に好きだし(今どきこんないい子は日本
のどこを探したっていないと思う)、下の弟妹がいない菜織には、乃絵美は菜織に
とっても妹のような存在だった。だからそんな感情はすぐに忘れようとしたし、現
に忘れたつもりでいたし、棘が刺さった小さな傷は、すっかり癒えたと思っていた。
──そう、昨日、正樹のあの表情を、見るまでは。
菜織は思う。あの表情の奥にあったものはなんだろう? 正樹と乃絵美の間に、
何があったというのだろう? ただの喧嘩じゃない。それだったら、正樹も愚痴の
ひとつくらいこぼすはずだ。だのに、あのときの正樹は、何かを隠してるようだっ
た。知られたくない何かを。とすると、ふたりの間には、その“知られたくないこ
と”とやらが、起きたのだ。考えたくないが、それはきっと──
「って、バカみたい、あたし」
菜織は苦笑して、そんな自分の馬鹿な考えを振り払った。結局、あたしはあの頃
となんにも変わっていない。妹相手に嫉妬して、勝手にあることないこと想像して、
本当、馬鹿だ。それに、乃絵美が悩んでいるんだったら、まっさきに相談に乗って
やるべきなのに、こんなことうだうだと思い悩んで、あんないい子を、ちょっとで
も疑ってしまった。
「あーあ」
息を吐いて、菜織は布団の上にごろんと横になった。こんな夜に、あたしはなん
て馬鹿なこと考えてるんだろう? どうも、昨日の正樹の辛気くささが伝染したと
しか思えない。まったくあいつときたら、真奈美のときといい、苦労ばっかりかけ
て。
よろしい、明日はあたしがひと肌ぬごう。乃絵美を捕まえて、じっくり話を聞い
てあげよう。極度のブラコンのあの子のことだ。正樹が家を出てしまうと知って、
気が気じゃないんだろう。正樹はそんな乃絵美と、自分の夢とが板挟みにあって、
苦しんでるに違いない。
本当に、世話の焼ける兄妹なんだから、と菜織は思い、アルバムを乱暴に閉じた。
布団にもぐりこんで、目を閉じる。一瞬、7年前のあの情景が胸をよぎったが──
やがてそれはゆっくりと微睡みの中に消えた。
5
薄暗い部屋の中で小さく、衣擦れの音だけが響いている。
ボタンを外す、ぷち、ぷち、という音。ブラウスがベッドに落ちる小さな音。ジ
ッパーが降りる金属音。そして、息づかい。
やがて、ゆっくりと兄は、妹の体の上に覆い被さった。ベッドに右手をつき、左
手は妹自身に触れながら、何度もキスをした。甘い。脳が痺れるような、甘い舌を
味わいながら。
「ん……ふ、う……」
声を殺しながら、乃絵美はむずかるように息をもらした。その潤んだ瞳が、じっ
と正樹の瞳に注がれた。カーテン越しに月明かりが差し込む。7年前と変わらない
ベッド。いつも妹はこのベッドに寝て、傍らに座る兄の帰りを待っていた。階段を
昇ってくる足音が耳に届いたときのあの気持ち。ドアが開いて、待ち望んでいた笑
顔が視界に広がった瞬間。どれだけ、幸せだったろう──?
そのベッドの上で、あのときの幼い兄妹は、月の光を頼りに、こうやって体を重
ねている。お互いを、より近くに感じるために。それはおかしなこと? ううん、
そうは思わない。だって私は今、こんなに満ち足りてる。あのときと同じくらい、
ううん、あのときよりもずっと。
「……っ……」
ぴと、と兄の“それ”が、妹の小さな“その場所”に触れた。びくっと全身が強
ばる。
無意識に、乃絵美は正樹の肩に手を回した。何度となくおぶってもらったとき、
いつも体温を感じていたあの肩。しっかりとしがみついていれば、どんなことがあ
っても怖くないと信じた背中。
「…………」
正樹が何かを呟こうとして、唇を閉じた。言葉はもう、いらなかった。
視線が合った。
正樹の瞳の中に、自分の顔が映っている。それはあのときの、兄の帰りをじっと
待つ、幼い妹の顔。
(──後悔、しないよね?)
その少女に、乃絵美は心の中でそっと囁いた。
少女は静かに笑って、小さく、けれどたしかにうなずき、そして消えた。
そして、乃絵美は正樹の背中に回した手に、きゅっと力を込めて──目を閉じた。
「……!……」
瞬間、自分の下半身に、灼けつくような熱を、乃絵美は感じた。続いて、引き裂
かれるような痛み。つぐんでいた唇が、音を求めて開く。
「あ! あ! あ! あ! あ──!」
自分が、思い切り正樹の背中に爪を立て、血を滲ませているのにも気づかなかっ
た。
激痛。そして全身を駆けめぐる、凄まじい熱が、乃絵美の思考を犯していった。
「んう、あ、あ、あ……!」
けれども、そう、けれども、ずっと前から乃絵美が思い描いていたように、その
痛みも、熱も、けして不快なものではなかった。
かすれてしまいそうになる思考の中で、乃絵美は叫んだ。もう、何も考えられな
かった。唇が、ただひとつの言葉だけを刻む。今まで何度も、何千回も、様々な思
いをこめて刻んだあの言葉を、真っ白に染まっていく思考の中で、ただひとつ見つ
けた道しるべのように、何度も、何度も、叫び続けた。
「おにいちゃん、おにいちゃん、おにいちゃん、おにいちゃん……!」
やがて、今までとは比較にならないほどの、圧倒的な熱が乃絵美の中を駆けめぐ
り──
乃絵美の思考は、そこで途切れた。
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