小説(転載) インセスタス Incest.5 ワーズワースの子供たち 1/4
官能小説
もともとはこの章を最終にする予定だったと思われる。
面白くない形式で、
生きた暦を決めるのはやめよう。
われらは今日を新しく、
年の初めと定めよう。
めぐりに、下に、上にと廻る
あまねき幸の力から、
われらは魂の調べを作り、
愛に調べを合わせよう。
さあ、妹よ、希わくは、
急いで散歩のなりに変え、
書物を読むのはやめにして、
今日一日をのんびり暮らそう。
W・ワーズワース 「わが妹に」
シューズ越しに踏みしめる大地が、冷たく感じた。
短い髪とジャージの襟を揺らす風も、冬の冷気を色濃く孕んでいる。見上げれば
淡い空。まばらな雲。
朝のニュースによると、今日はいちだんと冷え込む日ということだった。「正午
を越えるとますます気温が下がり、夕方から夜半にかけて、雪が降るでしょう──」
キャスターの言葉をぼんやりと思いかえしながら、正樹は大きく息を吐き、ゆっく
りと目を閉じた。
冬は、嫌いではなかった。──あの日が来るまでは。鈍い光を放つおぼろげな太
陽も、肌を刺すような冷気も、街を白く染めぬく粉雪も、けして嫌いではなかった。
けれど、嫌でも思い出してしまう。風が少しずつ冷たさを帯びてゆくごとに、空
が少しずつ、淡みを増してゆくごとに、あの冬の日の朝を、季節はずれの風鈴の音
を──こうやって目を閉じるたびに、思い出してしまう。
正樹はひとつ、深呼吸をした。
別れは唐突なものだ、と正樹は思う。どんなに幸せな日々も、かけがえのない人
も、ある日突然消え去ってしまう。風鈴と、遠ざかる列車の音と共に、残酷に。あ
の夏もそうだった。どれだけ手を延ばしても、肺がパンクしそうなほど走っても、
手に掴めないものはあるのだということを、冬の朝と同じように、あの夏が教えて
くれた。
ふたつめの深呼吸。
じゃあ、なんのために走るんだろう? 正樹は思う。けして追いつけないと分か
っているのなら、一体なんのために? ──分からない。その答えはものすごく簡
単なところにあるような気がするのに、霞がかかったようにその姿を見せてくれな
い。少年の頃のあの夏。遠ざかる列車に少しでも追いつきたくて、追いつけるよう
になりたくて、陸上を始めた。そのときの自分の想いは、時がたつにつれて少しず
つ変わって、今は自分でもよく分からない、なんだかもやもやとしたものになって
しまったような気がする。むしろ、そのもやもやを振り払うために、自分は走って
いるような気もする。
深呼吸。──みっつめ。
正樹は思う。なにが本当に、大切なことなんだろう? 走ること? アスリート
しての未来? 誰よりも早くテープを切ること? あの列車に追いつくこと? い
や、きっと、そんなことではなくて──
(──お兄ちゃん)
閉じた瞼の奥で、幼い少女が笑う。
・・・
なにが、──本当に大切なことなんだろう?
ふと、自分を呼ぶ高い声がして、正樹は閉じていた目を開いた。視界の向こうに、
ストップウォッチを持った後輩の陸上部員が、手をぶんぶんと振りながら何やら叫
んでいた。タイムを計る準備が出来たのだろう。正樹はもう一度大きく息を吐いて、
重い空気を払うように、ぱん、と軽く頬を叩いた。
そうだ、今は走るしかない。結局、後にも先にも、自分にはこれしかできないの
だ。どんな答えがあったとしても、結局最後に残るのは、最もシンプルなものなの
だろう。
今度はゆっくりと息を吸い込んで、静かに腰を落とす。踵に当たる冷たい金属の
感触。両手をつけたグラウンドの土が、ひやりとした冬の冷気を伝えてくる。
(────)
肌越しに伝わる寒さが、正樹の思考も、ゆっくりと透明にしていくような感じが
した。記憶の奥底で、ぼんやりと波がゆらぐ。けれど、それを正樹は静かに否定し
た。今は、あのゴールのことだけを考えろ。今、この瞬間だけは。
やがて、何もかもが白くなっていく。意識も、音も、──視界すら。ひたすら白
く白く染まってゆく世界の中で、やがて乾いた音が鳴り──
正樹は大地を蹴った。
Last Incest ワーズワースの子供たち
1
窓側の席で頬杖をつきながら、氷川菜織はぼんやりと窓の外の景色を見やってい
た。視界の向こうには、エルシア学園の広いグラウンドが見える。すでに終鈴は鳴
ったが、まだHRの終わっていないクラスもあるのだろう、グラウンドの人影はま
ばらで、特に菜織の知った顔はなさそうだった。
求めていた人影が見あたらないことを確認して、菜織はふうと息をついた。自分
でも驚くくらいに、臆病になっている。今朝、あいつにあったら首根っこを掴んで
やって──一喝してやるつもりだった。「まったく、いつまでウジウジしてるのよ、
アンタは!」と。
けれど、朝昇降口で正樹の顔を見たとき──そんな強気はどこかに吹き飛んでし
まった。「よう」と菜織に声をかけ、笑っていたのだ、正樹は。その笑顔に(これ
はきっと自惚れじゃなく、自分だけが分かるんだろうと菜織は思う)何かを決意し
たような表情を隠して。昨日までのあいつだったら、叱り飛ばすこともできたろう。
ばんと背中を張ってやって、はっぱをかけてやることもできたろう。
でも昨日、あれから別れた後、あいつは、正樹は──菜織のあずかり知らぬとこ
ろで、何かを決めてしまった。何の相談もなく、ひとりで。大切な何かを。
なんだろう、菜織は思う。
あの雨の後、正樹に何が起こったんだろう? なにが正樹をそうさせたのだろう。
菜織は思い出す。昨日、降りしきる雨の中、突然自分を抱き寄せたあの熱い掌。背
後でした、ばしゃん、という水音と、駆け去る小さな足音。残された白い傘。そし
てその柄に小さく彫られた名前は──
そして、
そして物語がもしそこで終わりではなかったのなら、正樹とあの白い傘の子は、
きっとその夜に──。
(!)
その想像を菜織は振り払った。昨晩から自分はどうかしている、そんなドラマみ
たいなこと、現実に起こりうるわけがない。あの仲の良い兄妹のことだ、自分が手
を貸すまでもなく、すぐに仲直りできたのだろう。だから、今朝正樹は、笑顔を見
せていたのだろう。そうに違いないし、──そう、あるべきだ。
菜織は思う──けれど、それじゃあ、あの笑顔の奥に正樹が見せていた微妙なゆ
らめきは──一体、なんなのだろう。
4限目のリーダーの授業を思い出す。ワーズワースの英詩訳。たしかタイトルは、
『ルーシー詩篇』と先生が言っていたような気がする。汗ばんだ手を強く握るよう
にして、菜織はふと黒板を見やった。──日直が仕事を怠けたのだろう、そこには
まだ白いチョークで、みちる先生の綺麗な筆記体で書かれた詩篇の一句が残ってい
た。
She lived unknown, and few could know
When Lucy ceased to be;
But she is in her grave, and, oh,
The difference to me !
小さく、菜織は黒板に残ったままの『ルーシー詩篇』の句を呟いた。「乙女は今
永久に眠る。ああ、そのなんと儚きことか──」さっきみちる先生は言っていた、
この、ルーシーって誰なんだろうね? と。詩篇とはひとつのテーマに拠って書か
れた詩の連作であり、ワーズワースはこのルーシという少女を題材に、『ルーシー
詩篇』を書いた。なのに、ワーズワースの周囲には、ルーシーという名の女性など、
見あたらないのだという。
では、このルーシーという少女は完全に、詩人の、ワーズワースの想像の中の少
女なのだろうか?
そうではないらしい。みちる先生は言っていた──ウィリアム・ワーズワースは
フランス革命のさなかひとりの女性と知り合い、娘のキャロラインをもうけた。イ
ギリスではメアリー・ハッチンスンと正式に結婚し、家庭をもった。だが、詩人と
しての彼の傍に終生寄り添い、その全てを尽くして支えたのは、そのどちらでもな
く──妹のドロシーだったと。
『ドロシーはウィリアム──兄の結婚式の日、病に倒れて身を起こせなかったそう
よ。特に持病持ちでもなく、兄にいつもお転婆とからかわれていた彼女がね。ウィ
リアムもまた、ドロシーを心から愛していて、生涯を彼女とともに暮らしているの。
この“ルーシー”という少女には、そんなウィリアムの心の底に深く閉まったドロ
シーへの恋が、表だって現すことのできない想いが、詩という形をとって投影され
ているのだと、言われているわ──』
そう、言っていた。
菜織は思い出す。あの雪の日の朝、菜織と真奈美を残して家へと戻っていた正樹
の背中を。窓の向こうで、兄をみやる乃絵美の寂しげな顔と、兄が現れたときの、
あの痛いくらいに眩しい、あの笑顔を。
菜織は思う。あのとき、自分はたしかに感じていた。痛みと、小さな疎外感と、
羨望とがないまぜとなった胸をおさえながら、二人の間にたしかに流れている愛情
を、誰よりも強く感じていた。
(乃絵美ちゃんじゃ、仕方ないよね)
ぽつりと真奈美があのとき洩らした言葉。そう、仕方がないんだ、なぜなら乃絵
美は妹だから。だから特別なんだ。誰よりも兄の近くにいられることを約束されて
いる代償に、最後の一線を越えることをけして許されない存在なのだから。
だから、乃絵美なら仕方がない。
でも、──菜織の思いはめぐる。
でも、本当はそうじゃなかったら? その一線を越えることを、お互いが望んだ
としたら? そんな制約はまるで意味をなさなくなる。もし、そうであったとした
ら、──誰も、誰も、勝てるはずがない。
もし本当に、そうなのだとしたら──
(ああもう、バカバカしい──!)
シャギーの入った前髪をくしゃっと自分の手で乱しながら、菜織は際限なく泥々
と深まっていく感情を振り払った。制服の襟元を緩めて、ふうと大きく息をつく。
気が付くと、両の掌がじっとりと汗で濡れていた。菜織は苦笑する。なにを興奮し
ているんだろう、自分は。まだ何も決まったわけじゃないのに、どんどん独りで先
走っている。
そうだ、まだ何も決まったわけじゃない。今朝の正樹のことだって、自分が勝手
に気を働かせすぎていただけのことかもしれない。ただ正樹は、疲れていただけか
もしれない。だいいち、実際の話、ドラマじゃあるまいし、兄と妹の間でそんなこ
とが起こりうるはずがない。常識で考えれば、すぐ分かることではないか。大いに
勇み足をしてしまった自分の思考に、菜織はもう一度苦笑した。
本当、バカバカしい。試しに自分の兄貴と自分がそういうことになったらと菜織
は想像してみた。あるいは橋本先輩とみよかでもいい、──やっぱり、笑ってしま
うほど滑稽な違和感がある。本当、少し考えれば分かることなのに、何を熱くなっ
ているんだろう、自分は。
「ホント──バカみたい」
ぽつりと呟いた、菜織の耳に、不意にバタバタと乱暴に廊下を駆ける音が飛び込
んできた。その音は菜織の教室の前でふと止まったかと思うと、今度は壊れてしま
うんじゃないかというほど乱暴な音を響かせて、教室のドアを開いた。
「菜織!」
「サエ?」
いきなり飛び込んできたショートカットの少女の顔を見やって、菜織は怪訝そう
に形のいい眉をひそめた。一方冴子の方といえば、バスケ部のユニフォームのまま
全身に汗をびっしょりとかいて、珍しく息を切らせている。
「ちょ、ちょっと、どうしたのよ。なにあわててるの?」
「それが、一大事なんだよ、一大事! こんなとこで黄昏てる場合じゃねーって!」
「なに、突然、ミャーコみたいに……」
そのミャーコがさ、と冴子は短い髪をかきむしるように言った。
「あいつ今進路相談室にはりついてんだけど、そこに陸上部の田山とウチの担任が
いてさ……アタイもちょっとしか聞こえなかったら、よく分からないんだけど、ま
ったく何考えてんのか……」
「ちょっとサエ、落ち着いてよ、ほら、深呼吸」
冴子の肩に手を置いて、菜織。すはーっ、と豪快に息を吐いて、冴子が深呼吸す
る。
「それで? 何がどうしたの?」
「正樹──正樹の奴がさ」
唇を噛むようにして、冴子が言う。
「城南の推薦、断るんだって──」
がたん、と椅子が倒れる音がした。
面白くない形式で、
生きた暦を決めるのはやめよう。
われらは今日を新しく、
年の初めと定めよう。
めぐりに、下に、上にと廻る
あまねき幸の力から、
われらは魂の調べを作り、
愛に調べを合わせよう。
さあ、妹よ、希わくは、
急いで散歩のなりに変え、
書物を読むのはやめにして、
今日一日をのんびり暮らそう。
W・ワーズワース 「わが妹に」
シューズ越しに踏みしめる大地が、冷たく感じた。
短い髪とジャージの襟を揺らす風も、冬の冷気を色濃く孕んでいる。見上げれば
淡い空。まばらな雲。
朝のニュースによると、今日はいちだんと冷え込む日ということだった。「正午
を越えるとますます気温が下がり、夕方から夜半にかけて、雪が降るでしょう──」
キャスターの言葉をぼんやりと思いかえしながら、正樹は大きく息を吐き、ゆっく
りと目を閉じた。
冬は、嫌いではなかった。──あの日が来るまでは。鈍い光を放つおぼろげな太
陽も、肌を刺すような冷気も、街を白く染めぬく粉雪も、けして嫌いではなかった。
けれど、嫌でも思い出してしまう。風が少しずつ冷たさを帯びてゆくごとに、空
が少しずつ、淡みを増してゆくごとに、あの冬の日の朝を、季節はずれの風鈴の音
を──こうやって目を閉じるたびに、思い出してしまう。
正樹はひとつ、深呼吸をした。
別れは唐突なものだ、と正樹は思う。どんなに幸せな日々も、かけがえのない人
も、ある日突然消え去ってしまう。風鈴と、遠ざかる列車の音と共に、残酷に。あ
の夏もそうだった。どれだけ手を延ばしても、肺がパンクしそうなほど走っても、
手に掴めないものはあるのだということを、冬の朝と同じように、あの夏が教えて
くれた。
ふたつめの深呼吸。
じゃあ、なんのために走るんだろう? 正樹は思う。けして追いつけないと分か
っているのなら、一体なんのために? ──分からない。その答えはものすごく簡
単なところにあるような気がするのに、霞がかかったようにその姿を見せてくれな
い。少年の頃のあの夏。遠ざかる列車に少しでも追いつきたくて、追いつけるよう
になりたくて、陸上を始めた。そのときの自分の想いは、時がたつにつれて少しず
つ変わって、今は自分でもよく分からない、なんだかもやもやとしたものになって
しまったような気がする。むしろ、そのもやもやを振り払うために、自分は走って
いるような気もする。
深呼吸。──みっつめ。
正樹は思う。なにが本当に、大切なことなんだろう? 走ること? アスリート
しての未来? 誰よりも早くテープを切ること? あの列車に追いつくこと? い
や、きっと、そんなことではなくて──
(──お兄ちゃん)
閉じた瞼の奥で、幼い少女が笑う。
・・・
なにが、──本当に大切なことなんだろう?
ふと、自分を呼ぶ高い声がして、正樹は閉じていた目を開いた。視界の向こうに、
ストップウォッチを持った後輩の陸上部員が、手をぶんぶんと振りながら何やら叫
んでいた。タイムを計る準備が出来たのだろう。正樹はもう一度大きく息を吐いて、
重い空気を払うように、ぱん、と軽く頬を叩いた。
そうだ、今は走るしかない。結局、後にも先にも、自分にはこれしかできないの
だ。どんな答えがあったとしても、結局最後に残るのは、最もシンプルなものなの
だろう。
今度はゆっくりと息を吸い込んで、静かに腰を落とす。踵に当たる冷たい金属の
感触。両手をつけたグラウンドの土が、ひやりとした冬の冷気を伝えてくる。
(────)
肌越しに伝わる寒さが、正樹の思考も、ゆっくりと透明にしていくような感じが
した。記憶の奥底で、ぼんやりと波がゆらぐ。けれど、それを正樹は静かに否定し
た。今は、あのゴールのことだけを考えろ。今、この瞬間だけは。
やがて、何もかもが白くなっていく。意識も、音も、──視界すら。ひたすら白
く白く染まってゆく世界の中で、やがて乾いた音が鳴り──
正樹は大地を蹴った。
Last Incest ワーズワースの子供たち
1
窓側の席で頬杖をつきながら、氷川菜織はぼんやりと窓の外の景色を見やってい
た。視界の向こうには、エルシア学園の広いグラウンドが見える。すでに終鈴は鳴
ったが、まだHRの終わっていないクラスもあるのだろう、グラウンドの人影はま
ばらで、特に菜織の知った顔はなさそうだった。
求めていた人影が見あたらないことを確認して、菜織はふうと息をついた。自分
でも驚くくらいに、臆病になっている。今朝、あいつにあったら首根っこを掴んで
やって──一喝してやるつもりだった。「まったく、いつまでウジウジしてるのよ、
アンタは!」と。
けれど、朝昇降口で正樹の顔を見たとき──そんな強気はどこかに吹き飛んでし
まった。「よう」と菜織に声をかけ、笑っていたのだ、正樹は。その笑顔に(これ
はきっと自惚れじゃなく、自分だけが分かるんだろうと菜織は思う)何かを決意し
たような表情を隠して。昨日までのあいつだったら、叱り飛ばすこともできたろう。
ばんと背中を張ってやって、はっぱをかけてやることもできたろう。
でも昨日、あれから別れた後、あいつは、正樹は──菜織のあずかり知らぬとこ
ろで、何かを決めてしまった。何の相談もなく、ひとりで。大切な何かを。
なんだろう、菜織は思う。
あの雨の後、正樹に何が起こったんだろう? なにが正樹をそうさせたのだろう。
菜織は思い出す。昨日、降りしきる雨の中、突然自分を抱き寄せたあの熱い掌。背
後でした、ばしゃん、という水音と、駆け去る小さな足音。残された白い傘。そし
てその柄に小さく彫られた名前は──
そして、
そして物語がもしそこで終わりではなかったのなら、正樹とあの白い傘の子は、
きっとその夜に──。
(!)
その想像を菜織は振り払った。昨晩から自分はどうかしている、そんなドラマみ
たいなこと、現実に起こりうるわけがない。あの仲の良い兄妹のことだ、自分が手
を貸すまでもなく、すぐに仲直りできたのだろう。だから、今朝正樹は、笑顔を見
せていたのだろう。そうに違いないし、──そう、あるべきだ。
菜織は思う──けれど、それじゃあ、あの笑顔の奥に正樹が見せていた微妙なゆ
らめきは──一体、なんなのだろう。
4限目のリーダーの授業を思い出す。ワーズワースの英詩訳。たしかタイトルは、
『ルーシー詩篇』と先生が言っていたような気がする。汗ばんだ手を強く握るよう
にして、菜織はふと黒板を見やった。──日直が仕事を怠けたのだろう、そこには
まだ白いチョークで、みちる先生の綺麗な筆記体で書かれた詩篇の一句が残ってい
た。
She lived unknown, and few could know
When Lucy ceased to be;
But she is in her grave, and, oh,
The difference to me !
小さく、菜織は黒板に残ったままの『ルーシー詩篇』の句を呟いた。「乙女は今
永久に眠る。ああ、そのなんと儚きことか──」さっきみちる先生は言っていた、
この、ルーシーって誰なんだろうね? と。詩篇とはひとつのテーマに拠って書か
れた詩の連作であり、ワーズワースはこのルーシという少女を題材に、『ルーシー
詩篇』を書いた。なのに、ワーズワースの周囲には、ルーシーという名の女性など、
見あたらないのだという。
では、このルーシーという少女は完全に、詩人の、ワーズワースの想像の中の少
女なのだろうか?
そうではないらしい。みちる先生は言っていた──ウィリアム・ワーズワースは
フランス革命のさなかひとりの女性と知り合い、娘のキャロラインをもうけた。イ
ギリスではメアリー・ハッチンスンと正式に結婚し、家庭をもった。だが、詩人と
しての彼の傍に終生寄り添い、その全てを尽くして支えたのは、そのどちらでもな
く──妹のドロシーだったと。
『ドロシーはウィリアム──兄の結婚式の日、病に倒れて身を起こせなかったそう
よ。特に持病持ちでもなく、兄にいつもお転婆とからかわれていた彼女がね。ウィ
リアムもまた、ドロシーを心から愛していて、生涯を彼女とともに暮らしているの。
この“ルーシー”という少女には、そんなウィリアムの心の底に深く閉まったドロ
シーへの恋が、表だって現すことのできない想いが、詩という形をとって投影され
ているのだと、言われているわ──』
そう、言っていた。
菜織は思い出す。あの雪の日の朝、菜織と真奈美を残して家へと戻っていた正樹
の背中を。窓の向こうで、兄をみやる乃絵美の寂しげな顔と、兄が現れたときの、
あの痛いくらいに眩しい、あの笑顔を。
菜織は思う。あのとき、自分はたしかに感じていた。痛みと、小さな疎外感と、
羨望とがないまぜとなった胸をおさえながら、二人の間にたしかに流れている愛情
を、誰よりも強く感じていた。
(乃絵美ちゃんじゃ、仕方ないよね)
ぽつりと真奈美があのとき洩らした言葉。そう、仕方がないんだ、なぜなら乃絵
美は妹だから。だから特別なんだ。誰よりも兄の近くにいられることを約束されて
いる代償に、最後の一線を越えることをけして許されない存在なのだから。
だから、乃絵美なら仕方がない。
でも、──菜織の思いはめぐる。
でも、本当はそうじゃなかったら? その一線を越えることを、お互いが望んだ
としたら? そんな制約はまるで意味をなさなくなる。もし、そうであったとした
ら、──誰も、誰も、勝てるはずがない。
もし本当に、そうなのだとしたら──
(ああもう、バカバカしい──!)
シャギーの入った前髪をくしゃっと自分の手で乱しながら、菜織は際限なく泥々
と深まっていく感情を振り払った。制服の襟元を緩めて、ふうと大きく息をつく。
気が付くと、両の掌がじっとりと汗で濡れていた。菜織は苦笑する。なにを興奮し
ているんだろう、自分は。まだ何も決まったわけじゃないのに、どんどん独りで先
走っている。
そうだ、まだ何も決まったわけじゃない。今朝の正樹のことだって、自分が勝手
に気を働かせすぎていただけのことかもしれない。ただ正樹は、疲れていただけか
もしれない。だいいち、実際の話、ドラマじゃあるまいし、兄と妹の間でそんなこ
とが起こりうるはずがない。常識で考えれば、すぐ分かることではないか。大いに
勇み足をしてしまった自分の思考に、菜織はもう一度苦笑した。
本当、バカバカしい。試しに自分の兄貴と自分がそういうことになったらと菜織
は想像してみた。あるいは橋本先輩とみよかでもいい、──やっぱり、笑ってしま
うほど滑稽な違和感がある。本当、少し考えれば分かることなのに、何を熱くなっ
ているんだろう、自分は。
「ホント──バカみたい」
ぽつりと呟いた、菜織の耳に、不意にバタバタと乱暴に廊下を駆ける音が飛び込
んできた。その音は菜織の教室の前でふと止まったかと思うと、今度は壊れてしま
うんじゃないかというほど乱暴な音を響かせて、教室のドアを開いた。
「菜織!」
「サエ?」
いきなり飛び込んできたショートカットの少女の顔を見やって、菜織は怪訝そう
に形のいい眉をひそめた。一方冴子の方といえば、バスケ部のユニフォームのまま
全身に汗をびっしょりとかいて、珍しく息を切らせている。
「ちょ、ちょっと、どうしたのよ。なにあわててるの?」
「それが、一大事なんだよ、一大事! こんなとこで黄昏てる場合じゃねーって!」
「なに、突然、ミャーコみたいに……」
そのミャーコがさ、と冴子は短い髪をかきむしるように言った。
「あいつ今進路相談室にはりついてんだけど、そこに陸上部の田山とウチの担任が
いてさ……アタイもちょっとしか聞こえなかったら、よく分からないんだけど、ま
ったく何考えてんのか……」
「ちょっとサエ、落ち着いてよ、ほら、深呼吸」
冴子の肩に手を置いて、菜織。すはーっ、と豪快に息を吐いて、冴子が深呼吸す
る。
「それで? 何がどうしたの?」
「正樹──正樹の奴がさ」
唇を噛むようにして、冴子が言う。
「城南の推薦、断るんだって──」
がたん、と椅子が倒れる音がした。
コメント