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小説(転載)  インセスタス Incest.5 ワーズワースの子供たち 2/4

官能小説
05 /09 2019

          2


「──変」
 ふと、誰かの息づかいが鼻梁をくすぐって、乃絵美はぼうっとした微睡みから目
覚めた。気が付くと、鼻と鼻が触れあいそうなほど近くに顔を寄せて、誰かが自分
の顔を覗き込んでいる。
「あ……れ?」
 霞がかった視界がようやく晴れ、ぼやけていた輪郭がはっきりとしてきた。形の
いい顎が見える。小さな目鼻立ち、肩にかかるかかからないかくらいの、柔らかい
髪が、乃絵美の眼前で小さく揺れる。
「……ナッちゃん?」
 その呟きには答えず、じと、という視線で乃絵美を見やりながら、夏紀が眉根を
寄せる。気が付くと、教室はすでにざわざわと生徒たちの喧騒に包まれていた。ど
うやら、とっくに授業は終わっていたらしい。
「え、と……?」
「…………」
 きょとんとする乃絵美をよそに、むー、と唸りながら、夏紀が品定めをするよう
に覗き込んでくる。ふざけているようで、その瞳はどこか真剣だった。
「…………」
「え? え?」
 戸惑う乃絵美に一層顔を寄せて、
「やっぱ、変」
 もう一度呟いて、夏紀はおもむろに乃絵美の頬をつかんだ。そのままにゅっ、と
左右に引っ張る。
「ひゃ?」
「…………」
 そのまま今度は、上下に振る。
「ひゃ、にゃっひゃん?」
 そして夏紀は息をひとつ吸い込むと、
「こら。なにがあった。ぼけーっとしてるのは乃絵美の特質だけど、それにしたっ
て今日は魂抜かれすぎ。じっと天井見上げてるかと思ったら溜息繰り返すし、古文
の牧島とかが注意しても、乃絵美全然上の空だしさ。そのたびにフォローするこっ
ちの身にもなりなさいっての」
「ご、ごめん……」
 しゅん、という感じでうなだれる乃絵美を見て、夏紀は苦笑した。そのまま乃絵
美の前の机に腰を降ろす。今度はさっきとうってかわって、心配そうな表情を浮か
べていた。
「で? 真面目な話、どうしたの? 体の具合でも悪い?」
「ん? ううん──そんなことは、ないんだけど……」
 言葉を濁す乃絵美を見やって、夏紀はふうと溜息をつくと、
「んじゃ、やっぱお兄さん関係?」
 ぽつりと訊いた。
「えっ?」
 乃絵美の胸がどきり、と跳ねる。
 小さく叫んだ乃絵美に怪訝そうな目を向けながら、
「て、違うの?」
「え、ううん、なんでそうなのかな、って思って」
「だって、乃絵美の悩み事って、たいていお兄さんがらみだし」
 茶化すような口調で呟きながら、夏紀はぱたぱたと机に腰かけた足を揺らした。
「でも、当たらずも遠からず、ってところなんでしょ? ごめん、もう知ってるん
だ。さっき陸上部の今井君とかが話してるの、小耳に挟んじゃったからさ。ほら、
伊藤先輩が城南の推薦断るって話──」
(え──?)
 今度の驚きは声にならなかった。今、夏紀は何と言ったのだろう? 正樹が、城
南の推薦を断った──。そう、聞こえたような気がする。
 断った? 正樹が、城南へゆくことを、桜美を離れることを、断った?
 もし、それが事実なのだとしたら、正樹は、自分を選んでくれたことになる。本
当の意味で、陸上に賭ける夢よりも、自分の傍にいてくれることを、選択してくれ
たことに。
「おにい、ちゃん……」
 無意識に乃絵美は呟いて、膝の上の拳をきゅっと握った。胸の奥と、瞼の向こう
が、きゅうっと熱くなる感覚がする。夏紀が怪訝な顔をしているのに、こみあがっ
てくるものが止まらない。
「乃絵美?」
「ん、うん──うん」
 自分でも何を言っているのか分からないまま、乃絵美は何度もうなずいた。ああ
もう、と困ったような声をあげて、夏紀が手にしたハンカチを頬に押し当ててくれ
る。
「知らなかったの? その、先輩のこと?」
 頬をぬぐってくれながら、夏紀。その問いに乃絵美はこくりとうなずいた。
「そっか。田山、ほら陸上部の顧問の。あいつなんて半ギレしちゃったって話だよ。
『今さら何言っとるんだ!』なんて凄い剣幕だったみたい。でもま、そっか。妹想
いのお兄ちゃんとしては、こんな泣き虫を置いて遠くになんか行けないっか」
 悪戯っぽく笑いながら、夏紀は今度は左の頬をぬぐう。一見あけすけだけれど、
その実夏紀がとっても細やかな性格をしていることは、乃絵美が誰よりも知ってい
た。色々訊きたいことは山ほどあるだろうに、今は訊かないでいてくれるのだろう。
その思いやりが、乃絵美には暖かかった。
 ふと、乃絵美は思う。
 夏紀は、祝福してくれるだろうか? 後ろ指をささずに──いてくれるだろうか?
自分が兄と結ばれたことを、「よかったね」と笑ってくれるだろうか? 何もかも
訊いてしまいたい衝動にかられながら、乃絵美は口をつぐんだ。されるがままにさ
れながら、瞳を閉じる。
 本当に、よかったのだろうか? 本当にこれで。誰よりも早くグラウンドを駆け
るあの両脚に、まるで枷をかけるような真似までして、正樹を自分の傍に繋ぎ止め
ておくことは? 本当は、ひどく罪深いことなんじゃないだろうか?
 乃絵美は自問する。
 嬉しかった。涙が出るくらい、嬉しかった。
 正樹が自分を選んでくれたこと。城南を捨て、自分の傍にいてくれることを、選
んでくれたこと。「好きだ」と言ってくれた言葉。抱きしめてくれた手。なにもか
もが。
 だけど、それと等量の──逆のベクトルで、不安が渦巻いている。
 最後の50メートル、ゆっくりとしたスタートから、前の選手を一気に抜き去る
あの姿を、自分は誰よりも誇らしく思っていたのに。誰よりも先にテープを切る姿
を、何度も目に焼き付けてきたのに。
『もっと早く、走れたら──』
 正樹はいつも言っていた。そして、そう出来るのだと、あのとき、片桐という人
が確かに言っていた。自分のところに、城南に来れば、正樹はもっと早くなれる─
─と。
 その可能性を、自分は、奪ってしまったのではないか。
 正樹を、自分は、飛び立てなくしようと──しているのではないか。
 だとしたら。
 だとしたら──わたしは──
「──乃絵美」
 がら、というドアが開く音と、自分を呼ぶ声に乃絵美はハッと思索の海から引き
戻された。目をしばたかせて目の前の夏紀を見ると、ハンカチを持ったままふるふ
ると首を振って、教壇の方を指差した。
 そこには、見覚えのある人影が立っていた。スリムな脚。女の子にしてはやや高
めの背。半開きになった窓から吹く風で、シャギーのかかった髪が揺れている。
「菜織……ちゃん?」
 乃絵美の問いかけに、ちょっと待って、という仕草をして、菜織は胸に手を当て
た。走ってきたのだろう、ちょっと息が荒い。
 ゆっくり深呼吸するように、菜織は息を吸い込むと、しっかりと乃絵美に視線を
合わせて、言った。

「ちょっと話があるんだけど、──いい?」


          3


 責め苦のような時間から解放されて、正樹が昇降口を出たときにはすでに、中庭
の時計の針は5時にさしかかろうとしていた。進路指導室に呼ばれたのはたしかH
Rが終わってすぐのことだったから、かれこれ1時間半くらいはあそこで田山の説
教を聞かされていた計算になる。
『お前、気でも違ったのか? 自分が何言っとるか本当に分かっとるんだろうな?』
 半ば後退気味の額にびっしりと汗をかきながら力説する田山の様を思い出して、
正樹は苦笑まじりの溜息をついた。悪い人ではないよな、と思う。今どき珍しいく
らいの熱血型だし、まぁ多少権威に弱いところはあるけれど、正樹の将来を考えて
くれていることには、まぁ、変わりはない、と思う。たしかに正気の沙汰じゃない
んだろう。城南の推薦なんて、取ろうと思って取れるものではないのだ。そんなに
スポーツの盛んではないエルシアにしてみれば天佑に近いことなのだろうし、体育
教師の田山がそれで舞い上がるのも、無理はない。
『断る、と決めたわけじゃありません。ただもう少し、考える時間をくださいと…
…』
『今さら何を考えることがあるというんだ。だいたい、今週末には返事をする約束
になっとるんだぞ。わざわざあちらの方が本校にいらしてくださることになっとる。
その席で、お前、今さら断るなんて出来るわけないだろうが?』
『そのときは、自分からちゃんと、お詫びを入れます』
『だから、そういう問題じゃないと言っとるだろうが。いいか伊藤、これはな──』
 あのとき、担任の吉井が止めてくれなかったら、きっと今でも説教は続いていた
だろう。正樹は苦笑する。
『君の進路だからね』
 激昂寸前の田山をまぁまぁと押しとどめて、吉井が言った言葉を思い出す。
『伊藤が考えるようにするといい。後悔するということもあるだろうが、それもま
た経験だと、私は思うよ。やりたいようにしなさい。もう少し考えたいというのな
ら、それもいい。ゆっくり考えて──といっても、もう時間はあまりないがね──
週末に答えを出してくれればいい。なに、先方が気を悪くしたところで、そんなこ
とは伊藤が気にするようなことじゃあない』
 穏やかな笑みを浮かべて、言っていた。その後ろで、『生徒に後悔する道を選ば
せないのが、教師の務めっちゅうもんじゃあないんですか!?』と声を荒げる田山
を、吉井は『まぁまぁ田山先生そう熱くならずに』と穏やかな口調で宥めていたの
を思い出す。まるで刑事ドラマの尋問みたいだな、正樹は苦笑まじりに思った。脅
し役と宥め役、なんだかぴったりとハマっている。
 結局、誰が悪いというわけではない。いや、強いて言えば自分が悪いのだろう。
一度お願いしたことを、撤回してくださいなどと、優柔不断なことを言ったからだ。
そして完全に断るのならともかく、『考える時間を下さい』などと曖昧に引き延ば
している。田山じゃなくとも激昂するだろう。
 ただ、嫌だったのだ。
 学校を通して、断りたくはなかった。あの人には、きちんと会って、自分の口で、
拒否の意志を伝えたかった。
 笑うだろうか?
 正樹は思う。
「妹の傍にいてやりたいんです」
 そう言ったら、あの人は笑うだろうか? 陸上を捨てるわけじゃない。ただ少し、
陸上に傾いていた天秤を、乃絵美の側に戻すだけだ。第一、桜美大はけしてレベル
が低いというわけじゃないし、橋本先輩もいる。いや、フィールドなんて、本当は
関係がないはずなのだ。この二本の脚と、地面さえあれば、本当は。
 いや、甘い──のだろう、自分は。結局は陸上というものを甘く見ているのだろ
う。このままでも十分通用すると、心のどこかでやはり思っているのだろう。
 そんなはずがない。コンマの世界では、たったひとつの妥協すら許されない。た
だがむしゃらに、死にものぐるいで数字を追いかけなければ、けしてタイムという
のはついてこないのだ。自分のことを県下有数、と片桐は言ってくれたし、多少の
自負はある。ただこの神奈川県で、同じ高校生の中ですら、自分より早い選手は、
幾人もいるのだ。そして、自分が成長するのと同じスピードで、相手も成長してい
る。それではいつまでたっても差は埋まらない。アキレスと亀だ。結局、そう結局、
答えはひとつしかない。
 誰よりも、早く、走れるように、なる。
 という最も単純明快な、そして何より至難な、事実。
 そのためには、あらゆるものを利用するしかないのだ。劣悪な環境では花は育た
ない。低くないレベル、の環境では、低くないレベル、のまま終わるしかない。ス
プリントというのは実は、あらゆる競技にもましてメカニカルで、外的要因に、環
境に左右されるスポーツなのだから。
 だから、自分は本当に、──甘いのだろう。
 けれど、と正樹は思う。
『やりたいようにしなさい』
 と吉井先生は言ってくれた。だから、自分は最もシンプルな結論を出した。乃絵
美と一緒にいる、という、単純すぎる解を、導き出した。それは、天秤にかけるま
でもない、何より明快な答えのはずで──
「……?」
 ふと、無意識に早めていた脚を、正樹は止めた。中庭から部室棟へ抜けるベンチ
に、見慣れない人影が腰かけていたからだ。最初は井澄かと思ったが、そうではな
かった。ブレザー姿ではなく、背広にグレーのコートを着込んで、その人影は煙草
に火を付けている。
 その横顔に、見覚えがあった。それもひどく最近に。いや、正確に言うなら、そ
れよりもっと昔から、何度となく見てきた顔だった。今よりもう少し若く、髪の毛
も短い頃の彼で、それもブラウン管の向こうだったけれど。
 大柄な外国人選手に比べて、けして大きくない体から信じられないくらいのスト
ライドを取って、そしてけしてひけをとらない早さでグラウンドを抜けていたその
横顔を、正樹はよく知っていた。
「──片桐さん?」
 その声に気づいて、ベンチに座っていた男は煙草をくわえたまま正樹の方を向い
た。
 そして、
「やあ」
 と小さく右手を挙げて、笑った。

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eroerojiji

小さい頃からエロいことが好き。そのまま大人になってしまったエロジジイです。