小説(転載) インセスタス Incest.5 ワーズワースの子供たち 4/4
官能小説6
乾いた土を踏みつける音が、幾つも木霊する。空気を切り裂く感覚。全身はまる
で灼けるように熱を放っているのに、ただ心臓だけが冷静に鼓動を刻んでいるよう
な、そんな感触がする。
そして、それがひどく歯がゆい。なぜもっと脈打たないのだろう、なぜもっと躍
動しないのだろう──ちっぽけなこの器官は。これじゃ全然足りない。もっと、も
っと強く、早く。──早鐘のように、全身に血液を、力を送ってくれれば──そう
すれば、自分はもっと早く走れるのに。眼前の、遠ざかるあの背中のように。
三秒。
正樹は思う。まだ、たった三秒なのだ。だのに、どうしてこれだけの差がつくの
だろう? いくらアマチュアとプロの間に歴然たる差があるといっても、いくら片
桐が類を見ないほどのスタートの妙手で、正樹はそれを不得手としていたとしても、
はたして?
そう、歴然だった。
プロとアマどころの話ではない。それよりももっと根元的な──本当に“歴然た
る”何かが、小さくなっていくワイシャツの背中と、走る正樹との間にはあった。
メートル以上の何かが。
(悪いね、さすがにこの革靴ってのも厳しいから──予備のシューズがあったら、
貸してくれるかい?)
そう言って、片桐は正樹から受け取ったシューズに履き替え、スーツを脱いで中
庭のベンチの背もたれにかけたのだった。ワイシャツの襟元とネクタイをゆるめ、
つま先を打ち付ける。「うん、サイズがほとんど一緒で助かったな」。そう笑って
いた。
(じゃ、さっきも言ったけれど、次に向こうの信号が青になったとき、それがスタ
ートの合図だ。そして、先に校門に手を触れた方が勝ち。ルールはそれだけ。単純
だね。──準備はいいかい?)
うなずく正樹に片桐は悪戯小僧のような笑みを返し、目を細めていた。ほんの数
分前の出来事が、まるで遠い昔のことのように思える。
──どうして、追いつけないのだろう?
コンディションは悪くなかった。たしかにろくなウォーミングアップはしていな
かったけれど、それは向こうも同じはずだ。条件は、一緒なのだ。なのに、どうし
て。
五秒が過ぎる。
いつもだったら、ここからが正樹の世界だった。自分の中のエンジンが、ようや
く火を吹き上げる感覚。限界まで引き絞られた弦から、ようやく矢が放たれようと
する、そんな感触が正樹の体を走り抜け──前を走る幾つもの背中との距離はどん
どんと縮まり、後はそれを追い抜くだけだった。
だのに、今は違う。
白いワイシャツの背中は、いっこうに大きくならなかった。すでに体はトップス
ピードに乗っている。なのに、追いつけない。
七秒が過ぎる。
突然の酷使に、両脚が、悲鳴をあげている。けれど、止まれなかった。早く。も
っと早く走らなければ。この差は埋まらない。早鐘のように心臓を打ち付けて、全
身に血液を送って、右足を、左足を、もっと早く繰り出して──大地を蹴って、左
右の手で空気をかき分けて、早く、もっと早く。
九秒が過ぎる。
そして──
ぱちん、と音がした。
naori
「え──?」
一瞬、全てが凍りついたような気がした。それは、ほんの小さな──ややもする
と、空気に溶けてそのまま消え去ってしまいそうなほど──小さな小さな呟きだっ
たはずなのに、それはどんなナイフよりも鋭く、菜織の耳を打った。
強い風。
長い黒髪とリボンをはためかせながら──じっと菜織を見やる視線。
その不思議な重圧から逃れるように菜織は一瞬目を逸らすと、ぎこちない笑みを
浮かべて乾いた喉から言葉をすべらせた。
「て、いきなり何言ってるのよ。そりゃ、乃絵美が超が付くくらいのお兄ちゃん子
だってことはとっくに知ってるけど──そんな真剣な顔で今さら告白されたって、
あたし、反応に困るじゃない」
突然何言い出すかねこのブラコン娘は、と菜織は苦笑まじり(そう見えていたか
自信がない)に続けた。
「違う──の」
そんな菜織の反応に、乃絵美は強く頭を振った。
「違うの。──違う。そんなのじゃなくて、わたしは、本当に──」
胸のあたりで小さな拳をきゅっと握りしめながら、しどろもどろに言う。感情が
先走って、舌が上手く回らないのだろう。
「……乃絵美?」
「……違うの、菜織ちゃん。そんなのじゃない。お兄ちゃんとか、妹とか、そんな
のじゃなくて。わたしは──」
私は、と乃絵美は繰り返した。
初めてだった。こんな乃絵美を見るのは。いつも大人しくて、控えめで、はにか
んだ笑みを浮かべながら、兄の背中に隠れていたこの子が、こんなに感情をむき出
しにするのは。──まるで熱病に浮かされたように。
ぎゅ、と強く唇を噛む。
分かってしまった。菜織は思う。いや、分からない方がどうかしているだろう。
あたしは、この瞳を知っている。昔も──こんな瞳で正樹のことを見つめていた少
女の存在を、菜織は知っている。今は遠い空の下にいるけれど。そして自分もきっ
と──こんな瞳をしている、はずだ。
握りしめた拳が痛い。
いつか、こうなるような気がしていた。ずっと一笑に付してきたことだったはず
だけれど──それは、あの雪だるまを作った日の記憶から、ずっと、菜織の胸の中
でずっと眠ってきた、怖れだった。
(乃絵美ちゃんじゃ、仕方ないよね)
そうだ、しかたない。だって妹なのだから。だから笑っていられた。認めていら
れた。それどころかきっと──羨望に近い想いも、抱いていたと思う。二人を遠く
から見るたびに。夕焼けの中、買い物袋を下げながら坂道を降りていく二人に。そ
れは菜織の目には、ひどく──ひどく、絵になっていた。
だけど。
だけど、これは、違う。
倫理とか、世間体とか、そういう小難しいことは全然分からない。けれど菜織は
思う。仕方ないはず──ないのだ。間違っているはずだ、こんなのは。どんなに絵
になる二人でも、こんなのは──違う。仕方なくなんか、ない。こんなのは──あ
たしは、あたしは──
ぜったい、──許せない。
「──じゃあ、何?」
困惑の後に菜織の喉から絞り出された声は、自分でも驚くくらいに冷えきってい
た。乃絵美が一瞬、肩をすくめる。その仕草に一瞬ちく、と胸のどこかが痛んだが、
それでも菜織は続けた。
「じゃあ、どういう風に好きだっていうの? アイツのこと、お兄ちゃんとしての
意味じゃないなら、どういう風に好きだっていうの?」
「あ──」
鋭い菜織の視線に射すくめられたように、乃絵美はうつむいた。
「わ、たし──」
震える声。乃絵美の雪のように白い肌が、薄いピンク色に上気していた。スカー
トの裾を摘む指が、菜織の目から見ても分かるほど、固く握りしめられていた。
その乃絵美の指がスカートから離れ、一瞬、空を掴んだ。そしてそのまま、きゅ
っと握りしめられる。
ここに、あのシャツはない。太陽の匂いのするあのシャツのぬくもりは、今は、
ここには、ない。
それでも。
それでも、乃絵美は顔を上げた。ためらいと、おびえと、罪悪感と──そんなた
くさんの感情がその瞳には渦巻いていたけれど、それでも乃絵美は顔を上げた。
そして、その瞳でもう一度、静かに菜織を見やり、
呟いた。
「うん、菜織ちゃんが、──思っている通り、だよ。お兄ちゃんとしてじゃない。
私は、伊藤乃絵美は、ひとりの男の人として、お兄ちゃんを、伊藤正樹さんを、好
き、なんです」
masaki
声が、ひどく遠くで聞こえるような気がした。冷たいアスファルトに倒れこみな
がら、正樹は思った。すぐ向かいを走る幾台もの車も、自分に近づいてくる足音も、
妙に、遠くで聞こえるような気がした。
ただ、心音だけが。
体の中でどくどくと響いている。勝負が終わった今になって、激しく強く、悲鳴
をあげている。まったく、まったく、今さらだ。
「──お疲れ」
ふと、頬にひんやりとした感触を覚えて、正樹は閉じていた瞳を開いた。ぼんや
りとした視界のすぐ先で、スポーツドリンクの缶を手にした片桐が、かすかな笑み
を浮かべて正樹を見やっていた。
「歴然、でした」
無言のまま片桐から缶を受け取り、視線を逸らすと、正樹は呟いた。見上げた視
線の先には、1月の高い空が広がっている。雲はゆっくりと厚みを増し始め、空を
淡い灰色に染めつつあった。雪、になるのかもしれない。
「歴然──か」
正樹の呟きを受けて、片桐が返した。その声にカシュ、という缶のプルタブを引
く乾いた音が重なる。
まさしく歴然だった。おそらくは差にして1秒半以上はあったことだろう。それ
はスプリントとしては致命的な、努力とか練習とか経験とか、そんなものでは埋め
きれない絶望的な差であるように、正樹には思えた。
そう、負けたのだった。
国原伸や高隅章護に負けたときのような、そんな紙一重ではない。文字通り完膚
なきまでに負けたのだった。正直、多少の自負はあった。勝つとはいわないまでも、
その背中を脅かすことくらいは出来ると思っていた。だが現実はどうだ? 自分は
片桐隆史の、影すら踏めなかった。いくら相手が世界的なスプリンターで、自分が
一介の高校生だとしても、スプリントという舞台で、歴然たる差を見せつけられて、
自分は、負けたのだった。
「どうして負けたと思う?」
スポーツドリンクの缶を傾けながら、片桐が呟いた。その言葉に、ゆっくりと正
樹は身を起こした。
「俺が、遅かったからです」
「単純かつ明快だね。でも物事には因果というものがある。続けて訊くよ。ではな
ぜ君は遅かったのかな?」
「力がないから、ですか?」
上手い言葉を探せずに、思わず疑問系で正樹は返した。その答えに片桐は首を振
った。
「知らないからさ」
「──知らない?」
「そう、知らないからだ。それは多分、今まで知る必要がなかったからなのかも、
しれないけどね」
「禅問答みたいです」
正樹の言葉に片桐は苦笑をひらめかせると、軽い仕草で飲み終えた缶を放った。
缶はくるくると綺麗な放物線を描いて、校門近くの護美箱にからんと音を立てて収
まった。
「こんな話がある。荒野で気儘に走る野生馬より、鞍と手綱をつけて芝の上を走る
サラブレッドの方が遥かに早いんだ。彼らはその背に人を乗せているのにも関わら
ずね。なぜだか分かるかい?」
正樹は首を振った。それを認めると、穏やかな声で片桐は続けた。
「なぜなら、“知って”いるからだ。彼らは。早く走るための方法を、自分に適っ
た努力の仕方を、徹底的に知っているからだ。生きるためじゃない、彼らは走るた
めに、“特化”している。誰よりも早く、走るためにね。だから早い。だから、誰
も追いつけない」
「俺、──」
「……と、少し長居しすぎたかな。そろそろ戻らないと」
そう呟いて片桐はゆっくりと背広と鞄の置かれた中庭の方に歩き出した。立ち上
がって、正樹はその背中を見送る。
「片桐さん──」
正樹の声に片桐は振り向いた。言葉を続けようとする正樹を制するように、片桐
は笑った。
「週末を楽しみにしているよ。どんな答えでも、返事はその時にくれればいい」
そのままゆっくりと歩き出す。
そして何かに気づいたように、片桐は振り返った。
「そうだ、さっき、歴然──と言ったね」
「……はい」
「本当に歴然、だったかい?」
その質問に、正樹は無言で首を縦に振った。その時、胸の中で何かが吹き出した
ような気がした。悔しさだったかもしれない、情けなさだったかもしれない。
気が付くと、拳は固く握りしめられていた。
そんな正樹を見て片桐は、懐かしむような表情を浮かべ──そして、背を向けた。
noemi
「本気で、好き──なんだ」
震える声。
その声に、乃絵美は静かにうなずいた。
「兄妹とかそういうんじゃなくて、本気で、好き、なんだ?」
うなずく。
じく、とお腹が痛んだ。だけど、しっかり立たなければ。菜織の視線を全身で受
けながら乃絵美は思った。
空は、すでに淡い灰色の雲に覆われていた。吐息が白く凍り、空へと立ち昇って
ゆく。
「──正樹は?」
「え?」
「アイツはどうなの? アイツも──そのことを、知ってるの?」
どこか救いを求めるような声。
「うん──」
乃絵美は答えた。
「受け入れて──くれたよ」
乃絵美の答えに、菜織はびくりと肩を震わせた。
「菜織ちゃん、わたし……」
「…………」
「わたし、お兄ちゃんと──」
「……て……」
「……菜織ちゃん?」
「やめてッ!」
がしゃん、と音がした。それが菜織が強く拳をフェンスに打ち付けた音だと気づ
いたのは、屋上のコンクリートにぽた、ぽたと小さな染みが出来た後のことだった。
「菜織、ちゃ……」
「……やめてよ、もう」
嗚咽するように言う。縋るように、菜織は乃絵美の制服を掴んだ。その手からぽ
た、ぽたと血が流れ、溝に落ちる。
「どうしちゃったの? こんなの、こんなのおかしいよ? そうでしょ?」
「菜織ちゃん……」
「ずっと、いいな、って思ってた。ウチの兄貴はどっちもデリカシーのない奴だか
ら──正樹と乃絵美みたいな兄妹って、すごくいいなって、憧れてた。だから、そ
のままでいてよ。何も壊さないで、何も汚さないで、そのままでいてよ……!」
崩れ落ちるように、菜織は乃絵美の胸に顔を預けた。
「こんなの、ぜったいおかしいよ……」
涙混じりで言う菜織に、乃絵美は小さく首を振った。
「だって──」
そして、呟く。
「だって、分かっちゃったんだよ。妹でいるだけじゃ足りないって、分かっちゃっ
たんだよ──」
「…………!」
ひら、と嗚咽する菜織の肩に、白い結晶が降り落ちた。そして、はかなく消える。
空を見上げる。
淡い空から、無数の白い結晶が、舞い降りてくる。全てを白く染めるために。色
んな想いを、罪を、白く、白く染めるために。
そして。
ぱん、と乾いた音がした。
気が付くと、目の前に涙を溜めた菜織の整った顔があった。続けて左頬に、じわ
りとした痛み。
「あ──」
発しようとした言葉は、菜織の鋭い視線に制された。菜織のきつく握りしめられ
た掌が、小刻みに震え、流れ出る血はとめどなく雪の降り積もるコンクリートの床
を濡らしていた。
「──卑怯者」
鋭い声が乃絵美の耳を打った。
雪が降っていた。降りゆく粉雪が、風に煽られて舞い散っていた。
雪が、降っていた。
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