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小説(転載)  インセスタス Incest.5 ワーズワースの子供たち 3/4

官能小説
05 /09 2019

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 静かに、雲が見上げた視界を覆ってゆく。鈍色をしたタラップを踏む乾いた音に、
乃絵美はうつむいていた顔を上げた。視線の先には、風で左右に揺れる菜織の後ろ
髪がある。
 無言のまま着いていった先は、屋上だった。タラップを上がると、やや強さを増
した風が乃絵美の頬を撫で、お下げを揺らす。冬場ということもあって、四方をフ
ェンスで囲まれたコンクリートの広間には、人気はまるでない。ぎい、と鈍い音が
して、屋上とタラップを隔てる重い扉が閉まり、その音に引かれるように、乃絵美
は視線を戻した。フェンスにもたれかかるような仕草をして、菜織も静かに、こち
らを振り返る。
 視線が交錯した。
 息を飲む音。それが自分が発したものなのか、それとも目の前の菜織のものだっ
たのか、乃絵美はよく分からないまま、きゅっと下唇を噛んだ。緊張したとき、不
安になったとき、無意識にしてしまういつもの癖。緊張している? 不安になって
いる──のだろうか、自分は。何に対して? 自分にとって菜織は、誰よりも頼れ
る、優しい“お姉さん”で、そんな菜織を、ずっと自分は大好きだったはずなのに。
 だのに──そんな菜織を前にして、自分は今、明らかに緊張している。不安を覚
えている。後ろめたいことがあるから、だろう。でもそれだけじゃない。菜織の瞳
は、いつもの明るいそれじゃなかった。何かをこらえるような、縋るような、そん
な沈んだ瞳。乃絵美の知っている──そして、ずっと秘かな憧れだった──菜織の
瞳は、もっと光に満ちていたはずなのに。今は、それが晴れた空に突然かかった灰
色の雲のような、くすんだ憂いを帯びている。
「あ、……の……」
 発しようとした声は、上手く言葉にならなかった。きゅ、と無意識のうちに、乃
絵美の手が空を掴んだ。けれど、それに答えてくれるあたたかなぬくもりは、今は
そこになかった。
 その掌を握りしめながら、乃絵美はうつむいた。言いしれぬ不安。重いなにかが、
胸にどっと押し寄せてくる。知っている──のだろうか、菜織は。自分と正樹との
間に起きた“なにか”を、察しているのだろうか? だから、あんなにも沈んだ瞳
で、憂いを帯びた視線で、自分を見つめているのだろうか。
 乃絵美の胸が、とく、とくと高鳴ってゆく。
 喉が震える。何かを言いたいのに、声にならない。そもそも、自分はなんて言お
うとしたのだろう? 誤魔化しの言葉か、それとも弁解の言葉か。
 握った掌が、汗で濡れている。
 言わなければ。それでも、“なにか”を言わなければ。
(大丈夫だから)
 そう、自分はお兄ちゃんに言った。笑顔で言えた。だから、大丈夫じゃなくちゃ
いけないんだ、自分は。潰れちゃいけない。不安に、緊張に。
 だから──
「ちょっと、ちょっと」
 苦笑する声に、乃絵美はハッと顔を上げた。見ると、口元に手を当てて、菜織が
目を細めている。その目は、やっぱりかすかに沈んだ色をしていたけれど──優し
い光が戻っていた。乃絵美の大好きな菜織の目に。
「これじゃ、あたしが乃絵美をいじめてるみたいじゃない」
 微笑まじりに言いながら、ぽふ、と菜織が乃絵美の髪に手をやった。そのまま、
梳くように撫でる。
「そんな、かしこまらなくていいからさ。ね? ちょっと、話、しよう──」



「片桐──さん?」
 正樹のうわずった声に、その人──片桐隆史は笑みを含みながらベンチを立った。
スーツの裾についた埃を払いながら、正樹の方に向き直る。
「どうしてここに? 週末にいらしていただけるとは、聞いてましたけど……」
「いや、近場でちょっと用があってね。今日はそのついでかな。──今から練習か
い?」
「いえ、今日はもう──」
 進路指導室であんな言葉を残した後だけに、バツが悪そうに、正樹は言葉を濁し
た。口ごもる正樹を前に、片桐隆史は「なるほど」と呟いて、コートの襟を正し、
切れ長の目を細めた。少し茶色がかった髪が、風で静かに揺れる。
「手紙、読んでくれたかな?」
「──はい」
 正樹の返事にうなずくと、片桐は言葉を続けた。
「あのときは口約束だったけれど、これで僕は──いや、城南は正式に、君をスカ
ウトに来たわけだ。まぁ、答えは週末にもらうことになっているけれど、なんだか
ラブレターの返事を待っているような気分で、ちょっと落ち着かないものがあるね」
 苦笑まじりに言う。
「その、片桐さん」
「ん?」
 正樹の問いに、シルバーの吸い殻入れに煙草を押し込みながら、片桐は答えた。
「訊きたいことがあるんですけど、いいですか?」
「なんだい?」
「どうして、俺なんですか? 実際、タイムだったら俺より早い奴が幾らでもいる
でしょう。藤実の国原とか、神学の高隅とか──だのに、どうして俺なんですか?」
 ふむ、と形のいい顎に手を当てて、片桐。
「城南がスカウトの手を延ばしたっていう意味では、その対象ははもちろん君だけ
じゃないよ。有望な人材は一人でも多い方がいい。国原君なんかは実際、推薦入学
がもう内定しているし──テスト入学も含めて、毎年何十人もの選手が、城南の門
を叩くことになる。数字上で言ってしまえば、君はその何十分の一にすぎない。城
南をより強くする、可能性のひとつとしてのね」
「…………」
「まぁ、単純な数の論理で言ってしまえば、それが理由だよ。有望な選手が集まれ
ば、城南は結果を出す。結果を出せば、大学の利益になる。その利益でもっと多く
の有望な選手を集めて、城南はさらなる結果を出し、そしてさらなる利益が生まれ
る──好循環だね。その循環を円滑に回す歯車のひとつが、君なわけだ。これはシ
ニカルな意味でもなんでもなくね。けれど──」
 言って、片桐はコートの首元に手をやった。
「けれどもちろん、それだけじゃない。個人的には、そんなパワーゲームなんて知
るかと言いたい気持ちもある。僕は数字上の記録より、自分の目で見たものを信じ
たいからね。そしてインスピレーションをだ。フォローするつもりはこれっぽっち
もないけれど、僕が直接ラブコールを送ったのは、伊藤君、君だけだよ」
「…………」
「どうして? って顔だな。たしかに君は常勝というわけじゃない。さっき君が挙
げた二人──国原君や高隅君にも、何度も苦杯を飲まされてきた。正直、スプリン
ターとしての完成度としては彼らの方が一枚も二枚も上だろう。君が自覚している
ように」
 たしかにそうだった。正樹にとっては文字通り、この二人が全国への壁だった。
勝ったことがないわけじゃないが、負けたことの方が遙かに多かった。国原伸の弾
丸のようなスタート、高隅章護の完成された走り──どちらもが正樹にとって、圧
倒的な厚みを持った壁だった。神奈川三強、などと言われてはいたが、多分平均タ
イムでは自分は、彼ら二人とは比較にならないだろう。
 正樹は唇を噛んだ。去年の秋の大会を思い出す。ほんの僅か、1センチあるかな
いかの差で、自分は国原に追いつけなかった。「残念だったね」と言う乃絵美に、
「ま、ここまでやれば上出来だよ」と返した自分。
 上出来? なにが上出来だったのだろうか。たった1センチの差を縮められなか
ったことが? 「お兄ちゃんなら、絶対大丈夫だよ」と笑った乃絵美の期待に答え
られなかったことが? それが上出来だとでも?
 結局、遅いから負けたのだ。自分は。惜しい、なんて言葉は世の中には存在しな
い。早いか、遅いか、答えはふたつしかない。そして自分は遅かった。国原よりも、
乃絵美の期待していた自分よりも、ずっと。だから“負けた”のだ。
「そうだな、言葉で説明するのは少し難しいね。──そうだ」
 迷いの海に落ちようとする正樹の思考を断ち切るように、片桐の声が耳を打った。
顔を上げると、切れ長の目をさらに細めて、片桐がこちらを見ていた。ふと、正樹
は既視感を覚えた。こんな片桐の顔を、自分はどこかで見たことがある。
「伊藤君、ちょっとゲームをしないか?」
「ゲーム、ですか?」
「そう、ルールは簡単。このベンチから校門まで──ちょうど100メートルある
かないか、というところかな──をどちらが先に走り抜け、校門に触れることが出
来るか。僕がどうして君を選んだのか──それで分かるだろう。──どうだい?」
 そうだ。あの表情だ。そう語る片桐の顔を見ながら、正樹は思いだした。
 いつも、こんな顔をしていた。この人は、ブラウン管の向こうでいつも。試合前、
慣れないカメラを向けられ、コメントを求められたとき。コースに立ち、遙か視線
の向こうのゴールを見据えたとき、いつも、こんな歓喜と、高揚感の入り交じった
目をしていた。
 自分も、こういう目が出来ていたろうか? 貪欲に、がむしゃらに、ゴールを求
めることが出来ていたろうか?
 もしそうであったなら、あの時の1センチを、埋めることが出来ていたろうか?
 ごくり、と喉が鳴った。
 風が吹き抜ける。中庭の樹が揺れ、葉擦れの音がした。どこかで、女子生徒の笑
い声がする。それら全てが、一瞬、静止したような感覚。そして、ゆっくりと、
「分かりました」
 ──正樹はうなずいた。


          5


「話、……って?」
 その声を絞り出すのに、どれくらいの時間がかかったのだろう。いや、あるいは
一瞬のことだったのかもしれない。時間の流れが、今はひどくおかしい気がする。
「ん? ああ、ほら、さ。このところ──アンタたち、ちょっと変だったじゃない?
だから、なにかあったんじゃないか……って思って」
 うつむき加減に、菜織は呟き、整った睫毛を上下させた。どきり、と乃絵美の胸
が鳴る。
 綺麗、だと思った。菜織のシャギーの入った髪も、すらっとした、スレンダーな
躰も、顔立ちも。凄く綺麗だった。当然、だと思う。なぜなら、菜織はずっと──
乃絵美の憧れだった。こうありたいという、最も身近な女性像だった。
(お兄ちゃんたちは、わたしの理想なんだから)
 幾度となく伝えてきた言葉。もちろんそれは、いつか菜織のような元気で明るい
子になって──前向きな恋愛をしたいという、少女らしい乃絵美の願望のはずだっ
た。けれど、本当は──もっと深いニュアンスがあったのかもしれない。
 立ちたかった、のだろう。正樹の隣に。こんな弱い子じゃなく、菜織のように溌
溂とした、爽やかな少女であったなら、正樹の隣に立ち、手を握ることが許された
はずなのに。いつも兄のシャツの裾を掴み、その背中に隠れていたような弱い子で
なかったら。
「──乃絵美?」
 菜織の声に、乃絵美はうつむいていた顔を上げた。そうだ、答えなければ。ここ
で逃げていては、結局、自分はいつまでも“弱い子”のままだ。きゅ、と乃絵美は
下唇を噛み、そして口元をほころばせた。(つもりだった。上手く、笑えただろう
か?)
「ごめん、ね。菜織ちゃん──」
「ん?」
「その、心配……かけちゃって。大丈夫だよ。お兄ちゃんとは、ちょっと喧嘩した
だけ。それも、私が全部悪かったことだし──お兄ちゃんも、笑って許してくれた
よ。だから、大丈夫」
 くすりと笑って(今度は上手く出来たはずだ)乃絵美は答えた。その答えに菜織
は訝しげな表情を浮かべながらも、優しい笑みを返してくれた。
「なるほど、──ね。じゃ、ちゃんと仲直りできたんだ?」
 こくりと乃絵美はうなずいた。なぁんだ、という声をあげて菜織がフェンスに背
を預けた。かしゃんと乾いた音が鳴る。
「じゃ、すべては一件落着ってことなのね。せっかく関係修復にあたしがひと肌脱
ごうって思ってたのに、なぁんだ、もう用なしか」
 おどけたように笑う菜織に、乃絵美も笑みを返す。
「そっか」
 もう一度呟いて、菜織が空を見上げた。つられたように乃絵美も顔を上げる。冬
の空は早い。すでに太陽はゆっくりと西の端に傾きつつあり、やわらかな茜色の光
線が静かに桜美の街を染めつつあった。
「じゃ、ホントに……なんにも、なかったんだ」
 ぽつり、と菜織。切れ長の瞳が、乃絵美を一瞥する。どく、と胸が鳴る。そこに
はやっぱり、沈んだ闇があった。優しい光に満ちた瞳の奥に、かすかに、だけど確
かに漂う一筋の闇。汗で濡れた掌を握りしめ、乃絵美は視線を返した。潰されては
いけない。菜織に、ではない。その闇に。その昏い闇こそが、自分たちを(インセ
ストを?)押し潰す、罪の鎧戸なのだ。
 不安にさせた、と思ったのだろう。押し黙った乃絵美を見て、菜織は慌てたよう
に笑みを戻して、
「それじゃ、お節介なお姉さんはそろそろお暇するとしますかね。ごめんね、乃絵
美、時間とらせちゃって」
 軽い動作でフェンスから離れ、踵を返した。かしゃん、とフェンスがまた揺れる。
「乃絵美も、もう遅いから気を付けて帰るんだよ。あ、そうだ、久しぶりに一緒に
帰ろうか? たまにはあたしが何か奢って──」
「菜織、ちゃん」
 その声は、(乃絵美にしては)強く、大きなものだったのだろう。一瞬、菜織が
戸惑ったような顔をして乃絵美を振り返った。
 何を言おうとしているんだろう? 乃絵美は自問した。
 このまま帰ってしまえば、全ては丸く収まるのに。少なくとも、余計な波を立て
ることはないはずなのに。
 なのに、何を言おうとしているの?
「菜織、ちゃん」
 もう一度乃絵美は言った。今度は少し、小さな声だったが。
「うん?」
 すぐに落ち着きを取り戻して、菜織が優しげな笑みを浮かべて乃絵美を見やる。
じく、と胸が痛んだ。針が触れる程度だったその痛みは、呼吸をするにつれ、しだ
いに熱く深くなっていく。心臓に、杭を打ち込まれたように。
「わたし──」
 その胸を抑えるように、乃絵美は胸元のリボンにぎゅっと手当てた。首筋が、背
中が、痛いほど握りしめた掌が、世界はこんなにも冷え切っているというのに、ひ
どく、ひどく熱い。
「わたし、は──」
 言わなければ。伝えなければ。でなければ、自分は一生後悔する。誰よりも、菜
織ちゃんにだけは。ずっと、菜織ちゃんになりたかった。菜織ちゃんのようになれ
れば、自分も正樹の隣にいられるんだと、夢描いていた。だから、菜織ちゃんにだ
けは。
 言わなければ。わたしは、わたしはもう──
 弱い子じゃ、ない。
「菜織ちゃん──」
 息を飲む音。それが自分が発したものなのか、それとも目の前の菜織のものだっ
たのか、乃絵美はよく分からなかったし、今はどうでもいいことだった。今はただ、
思いを言葉にすることだけが、何よりも大切なことだったから。
「わたしは──」
 風が、コンクリートの広間を吹き抜け、乃絵美の長い髪を、リボンを、菜織の髪
を揺らした。
 1月の冷たい太陽が、茜色に染まりながら、西の地平に沈んでゆく。
 ごくり、と喉が鳴る。
 そして、言葉が紡ぎ出された。

「わたしは、──お兄ちゃんが、好き、です」

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eroerojiji

小さい頃からエロいことが好き。そのまま大人になってしまったエロジジイです。