小説(転載) インセスタス Last Incest 明日 6/7
官能小説
8
「いつまでも、夢の世界にいれたらいいのにね?」
どこか悲しげで、どこか切なげな──そんなかすかな声が、ずっと遠くの方で聞
こえたような気がした。「そう、この世界がずっと続けばいいのにね。なんにも悩
まずに、ただ好きな歌だけを口ずさむような、ただ好きな人の傍にだけいられるよ
うな、そんな夢みたいな世界が、ずっと、ずっと続けばいいのにね?」
ああ、と乃絵美は思った。これは、あの本だ。幼い頃お母さんによく読んでもら
った絵本。ひとりの女の子が妖精の住む夢の国にいざなわれる、そんなごくありふ
れたおとぎ話。
「どうして、大人になんかなってしまうんだろうね。どうして、せっかく集めた色
んなものを、捨てなきゃならないんだろう? どうして、本当に好きな人を、好き
と言えなくなってしまうんだろう?」
その言葉は、虚ろな乃絵美の心にゆっくりと染み込むように響いた。乃絵美は思
う。そう、どうしてなんだろう? どうしてみんな、駄目だと言うんだろう。私は
ただ好きなだけなのに。お兄ちゃんのことが、ただ好きなだけなのに。どうしてそ
れが“おかしなこと”なんだろう?
だいすきなひとを、ただだいすきと想う“きもち”。
だいすきなひとのそばに、ずっといたいという“ねがい”。
どうしてそれが、なによりも重い“罪”だなんていうんだろう──。
※
「少し、落ち着いたみたいね」
柔らかい女性の声に、正樹はうつむけていた顔を上げた。白を基調とした部屋、
仄かな薬品の香り。目の前の白衣を羽織った養護教諭──たしか、築山という名前
だった──は、ずり落ちそうになった眼鏡に手を添えながら、穏やかな笑みを浮か
べた。
乃絵美が倒れてからもう、1時間ほど経っている。今は呼吸も落ち着いているよ
うで、ベッドの上で静かに眠っていた。余程気が張りつめていたのだろう、白い頬
にわずかな赤みがさしている。2日前の風邪が──ぶり返したのかもしれない。
(もう一度、話をしよう、伊藤)
乃絵美が倒れ、保健室まで付き添ったあとの、別れ際の吉井の言葉を思い出す。
自分が追い詰めたのだという罪の意識もあるのだろう。困惑と、罪悪感の混じった
ような表情だった。(田山は不快そうな表情で、ただ無言だった)
(当事者が何を、と不快に思うかもしれないが)
ベッドに寝かせた乃絵美に一瞬視線を落として、吉井は続けた。
(耐え難いプレッシャーだったんじゃないのかな、今日のことは。妹さんにとって
──)
(…………)
(伊藤、君も含めて、いつか──潰れてしまう日が来るんじゃないのかな。今日み
たいなことは、この先何度だってあるだろう。誰もいない君たち二人だけの世界で
暮らすわけでもないかぎり、必ず)
潰れてしまうよ、と吉井は続けた。
(だから、落ち着いたらもう一度、話をしよう、伊藤。まだ遅くはない。まだ間に
合うはずだ。だから、考えておいてくれないか? 本当に大事なのは──)
吉井の言葉は、保健室に戻ってきた養護教諭の扉を開く音に遮られて、最後まで
聴くことができなかった。
──けれど。
本当に大事なのは?
本当に大事なのは──なんだろう。
正樹は小さく息をする乃絵美の頬に、そっと触れた。本当に大事なもの。それは
言葉にするまでもないくらい、当たり前のようにここにいる。世界中の誰よりも、
もしかすると自分自身よりも、大事で、大切で、かけがえのない妹。だのに。
固く拳を握りしめて、正樹は唇を噛んだ。どうしていつも、先に気づいてやれな
いんだろう、俺は。線の細い乃絵美のことだ、ただでさえ病み上がりだというのに、
こうなることは火を見るより明らかだったはずなのに。遅すぎる。いつも俺は、遅
すぎる。乃絵美の想いにだって、あいつが勇気を振り絞って告白してくれるまで─
─気づいてやることができなかった。
(乃絵美を守ってあげてね、正樹は、お兄ちゃんなんだから)
そう約束したはずなのにな──。
どうして俺は、乃絵美を苦しめてばかりいるんだろう?
「──こら」
こつん、と額を弾かれたような感触に、正樹はふと我に返った。見ると、人差し
指を付きだした築山が目の前に立ち、小さく笑みを浮かべている。
「そんな顔しないで。心配ないわよ。ちょっとした過労みたいなものだから、ぐっ
すり寝て安静にしてれば、大丈夫」
「…………」
押し黙る正樹を見て肩をすくめながら、築山はパイプ椅子を引き寄せて、腰を下
ろし、「それにしても今日は大変な日ね」と呟いた。
「え?」
「ああ、うん、こっちの話。──それで、君はええと……伊藤さんのお兄さん、な
のよね?」
乃絵美はよく保健室を訪れているのだろう、築山の発音する「伊藤さん」という
単語には親しみの響きがあった。
「はい。3-Aの伊藤正樹です」
「……? ああ」
小さく呟くと、築山は軽く微笑んだ。
「陸上部期待のホープの。そう、君が伊藤さん自慢のお兄さんだったのね」
「自慢?」
「そう。彼女、そんなに体の丈夫な方じゃないでしょう? だからまあ職業柄、色
々話す機会があるってわけ。そうかそうか、こんなお兄さんがいるなら、そりゃ話
したくもなるわよね。お兄さんのことを話すあの子、本当に嬉しそうなのよ。兄が、
兄が、って一生懸命気を付けてるんだけど、時々お兄ちゃんってポロッて出てしま
うのが、可愛くてね」
いいわね、兄妹って、と築山は微笑んだ。
「私は一人っ子だったからね、君たちみたいな兄妹って、ちょっと羨ましいわよ。
どんなことがあっても切れない絆っていうかさ、そういう存在がいるっていうのは、
やっぱり素直に羨ましいわよね」
「羨ましい──ですか」
「だってそうじゃない? どれだけ深い仲になったとしてもさ──縁が切れちゃえ
ば、恋人なんて結局他人同士じゃない。でも、兄妹はずっと、兄妹でしょ? どれ
だけ時間が過ぎても、たとえ違う場所で、違う時間を過ごしたとしてもさ、兄妹で
あるっていう繋がりは、消えない。それこそ死が二人を分かつまで、って奴かな。
そういうの、やっぱり憧れたりしますよ。一人っ子歴二十……以下検閲、の私とし
てはさ」
だからさ、と築山は続けた。
「だからさ、大事にしてあげなよ、お兄さん」
トルルル、と内線の鳴る音がした。
はいはい、っと、とステップを踏むように築山は内線のところまで行くと、軽い
仕草で受話器を手に取った。「はい、保健室、築山です」という声が正樹の耳を打
った。
大事にしてあげなよ──か。
もう一度、乃絵美の頬に指を延ばす。大事、にしてやれてるのかな? 俺は、お
前を。やっぱりただ、苦しめてるだけじゃないのかな? 「お兄ちゃんといられる
だけで、わたしは幸せだよ」──お前はそう言って笑ってくれてるけど、本当は、
苦しくて苦しくて、しょうがなかったんじゃないのか? 倒れるくらいに気を張り
つめて、胸をはって、お前は、本当に──
「伊藤君」
築山の穏やかな声が、正樹の思考を遮った。視線を向けると、受話器をついつい、
と指さして、築山は続けた。
「親御さんからだって、吉井先生が連絡したみたいだけど。──外線4番。取り方、
分かる?」
9
「でもね、駄目なんだ」
少しずつその音を強くさせながら、その声は続いた。
「いつかきみは、目を覚まさなきゃならない。いつかこの国を、出ていかなくちゃ
いけない。いつまでもいつまでも、夢の世界にはいられないんだよ」
おぼろげだった声がしだいにはっきりとしていく中、乃絵美を取り巻いていた虚
ろな世界が、やがてゆっくりと晴れていくような気がした。夢なんだろうか──乃
絵美は思った。今まで見ていたのは、少し長かったけれど、なんてことのないただ
の夢だったのだろうか? 目が覚めると私はあたたかい布団の中にいて──そのぬ
くもりに後ろ髪をひかれながら起き出して、お兄ちゃんがジョギングから帰ってく
る前に朝食を作る。そして「ただいま」という聞き慣れた声とともにドアが開いて、
「おかえり、お兄ちゃん。朝ごはんもう出来てるよ──」
そんな風に、なんの含みもなく笑顔でいられたあの頃に、戻るのだろうか──?
※
古びたドアが閉まる、鈍い音がした。
乃絵美を部屋で寝かせたあと、リビングに戻った正樹の鼻孔を、香ばしい薫りが
くすぐった。子供の頃から嗅ぎ慣れてきた匂い。17年間、身近に感じてきた、ど
こかほっとするような、そんな香り。
「ブラックで良かったのか?」
父親に問いに、正樹はうなずき返すと、テーブルについてミルク差しを引き寄せ
た。ブラックにひと垂らし、ミルクを入れるのが正樹の好みなのだ。
(そういや、親父のコーヒー飲むなんて何年ぶりだろう)
カップに口を寄せて。ひとすすりしながら正樹は思う。それ以上に父親とこう、
面と向かって話をするのは何年ぶりだろう。喫茶店の経営者として、ずっと家にい
る父親だったが、最近は正樹の部活が忙しくなったこともあって、どこか疎遠だっ
た。店を手伝うことはよくあったが、仕事中に雑談を好まない性格からか、世間話
をしたような記憶も、ここ数年はまばらにしかない。(いつも優しい笑みを浮かべ
て、正樹を見守ってくれてはいたし、そのことを誰よりも、正樹は感謝していたが)
だから、
(伊藤です、この度は娘が、大変ご迷惑をおかけしまして──)
そう、築山に頭を下げた時の父親の表情を見て、正樹の胸はちくりと痛んだ。ど
こまで、聞かされているのだろう、この人は。吉井はどうやら、倒れた乃絵美を家
族に車で迎えにきてもらうより取りはからってくれただけらしが、どんな理由で乃
絵美が倒れたのかを知ったら、この人はどんな顔をするだろう?
「乃絵美、どうなんだ?」
「寝てるよ。──嫌な夢でも見てるのかな、ちょっと寝苦しそうだった。あとでも
う一度、様子を見てくる」
そうか、と呟いて、父親は自分のコーヒーカップに視線を落とした。
「最近は、あんまりこういう話、なかったからな。あの子の躰も元気になってきた
のかなと思ってたんだが……」
目を細めて、言う。
「なにか、無理をさせてたのかな……。正樹、なにか聞いてないか?」
「…………」
「正樹?」
「あの──さ、」
「うん?」
言葉が、喉までせり上がってきた。言わなければ、と思う。いつまでも、隠して
はいられない。必ず、知られてしまう日が来る。妹がいつまでも妹であるように─
─父親も、いつまでも父親なのだ。
(正樹)
あれはいつのことだったろう? たしか、小学生にあがる前くらいの、ことだっ
たと思う。あの時はまだ母さんも元気に笑ってて──そんな母さんの大事にしてい
たストールを、正樹がふざけて破ってしまった時のことだ。あの時の正樹は、ひた
すら怖かった。母さんに怒られるのが怖かったんじゃなく、失望されるのが、正樹
はこんなことをする子だったのね、そう思われるのが──怖かったのだ。
やったのは自分じゃない、そう主張する正樹に、父親はただ穏やかな目で、言っ
た。
(お前が決めるんだ)
正樹の頭に手をやりながら、父親は続けた。
(お前が決めるんだ。なにが良いことで、なにがいけないことなのか。なにが正し
くて、なにが悪いことなのか。お前が本当にやってないというなら、それでいい。
俺も母さんも、お前を信じる。──だけどな)
父親は、穏やかに笑って、言った。
(どんな嘘も、他人は騙せても、お前自身だけは──騙せないんだぞ)
「正樹、どうした?」
「あ、うん。いや──さ」
カップの残りに口をつけて、正樹は笑った。舌に残る感触は、どこかぬるくて、
苦かった。
「親父とこんな風に話するの、なんか久しぶりだな──って思ってさ」
「そう……だったかな。ああ、そうかもなあ」
どこか苦笑気味に、父親は答えた。
「なあ親父」
「ん?」
「親父はさ、どんなことがあっても──それでも母さんを好きになれたと思う?」
「なんだ、いきなり?」
「例えばの話だよ。もし母さんが、親父にとって絶対好きになっちゃいけない相手
だったとしても──それでも、親父は──」
「…………」
僅かな沈黙のあと、ゆっくりと、どこか寂しげに、父親は答えた。
「ああ、それだけは自信を持って言えるよ。幸い、なんの壁も紆余曲折もなかった
けどな、たとえどんな理由があったとしても、俺は母さんを好きでいられたと思う
し、絶対に結婚したいと、思ったろうな」
そこまで言うと、父親は何かに気づいたように、苦笑した。
「なんだ正樹、変な話すると思ったら、そんな相手でもできたのか?」
「──まあ、ね」
「そうか。──なんだ、そうか、ははは」
嬉しそうに父親は席を立って、カウンターを方へと足を向けた。コーヒーをもう
一杯、煎れにいくのだろう。
「親父」
「ん?」
振り返らず、父親はどこか上機嫌な口調で、答えた。
「間違いじゃないのかな? 本当に好きになったんなら、例えどんな相手だって─
─」
「お前が本気だってんなら、止める理由はなにもないさ。なんだ、なにを心配して
るんだ?」
「親父、俺は──俺はさ」
喉の奥が、熱かった。それでも、それでも、これだけは言わなくちゃ、いけない。
「俺はさ、乃絵美が──好きなんだ」
※
──戻るのだろうか?
──何もなかった、本当にただの兄と妹だったあの日に?
いやだ。
乃絵美は思う。そんなのは、いやだ。
やっと──伝えられたのだ。やっと好きと言えて、躰を重ねて──やっとやっと、
迷路のようなこの想いの、答えを見つけたのだ。
だから、私は笑っていたい。どんなに苦しくても、「大丈夫だよ」って、微笑ん
でいたい。これは夢なんかじゃな
いよって、ずっとずっと、子供の頃から思い描いていた未来なんだよって、そう伝
えたい。
「きみもきっと、すぐに分かるんだ」
けれど、どこか哀れむような響きをもって、その声は続いた。
どこかで聞いたような声。その音に混じる、ほんの少しの違和感。そう、子供の
頃、カセットテープに自分の声をふざけて録音したものを再生した時のような、そ
んな作り物めいた自分の声。
そして、知っていた。乃絵美には分かっていた。その声が、次にどんな言葉を続
けるのか。どんな言葉で、この虚ろな世界の終わりを告げるのか。乃絵美は誰より
も、その言葉を知っていた。
そう、
「いつか覚めるから、“夢”なんだよ──」
「いつまでも、夢の世界にいれたらいいのにね?」
どこか悲しげで、どこか切なげな──そんなかすかな声が、ずっと遠くの方で聞
こえたような気がした。「そう、この世界がずっと続けばいいのにね。なんにも悩
まずに、ただ好きな歌だけを口ずさむような、ただ好きな人の傍にだけいられるよ
うな、そんな夢みたいな世界が、ずっと、ずっと続けばいいのにね?」
ああ、と乃絵美は思った。これは、あの本だ。幼い頃お母さんによく読んでもら
った絵本。ひとりの女の子が妖精の住む夢の国にいざなわれる、そんなごくありふ
れたおとぎ話。
「どうして、大人になんかなってしまうんだろうね。どうして、せっかく集めた色
んなものを、捨てなきゃならないんだろう? どうして、本当に好きな人を、好き
と言えなくなってしまうんだろう?」
その言葉は、虚ろな乃絵美の心にゆっくりと染み込むように響いた。乃絵美は思
う。そう、どうしてなんだろう? どうしてみんな、駄目だと言うんだろう。私は
ただ好きなだけなのに。お兄ちゃんのことが、ただ好きなだけなのに。どうしてそ
れが“おかしなこと”なんだろう?
だいすきなひとを、ただだいすきと想う“きもち”。
だいすきなひとのそばに、ずっといたいという“ねがい”。
どうしてそれが、なによりも重い“罪”だなんていうんだろう──。
※
「少し、落ち着いたみたいね」
柔らかい女性の声に、正樹はうつむけていた顔を上げた。白を基調とした部屋、
仄かな薬品の香り。目の前の白衣を羽織った養護教諭──たしか、築山という名前
だった──は、ずり落ちそうになった眼鏡に手を添えながら、穏やかな笑みを浮か
べた。
乃絵美が倒れてからもう、1時間ほど経っている。今は呼吸も落ち着いているよ
うで、ベッドの上で静かに眠っていた。余程気が張りつめていたのだろう、白い頬
にわずかな赤みがさしている。2日前の風邪が──ぶり返したのかもしれない。
(もう一度、話をしよう、伊藤)
乃絵美が倒れ、保健室まで付き添ったあとの、別れ際の吉井の言葉を思い出す。
自分が追い詰めたのだという罪の意識もあるのだろう。困惑と、罪悪感の混じった
ような表情だった。(田山は不快そうな表情で、ただ無言だった)
(当事者が何を、と不快に思うかもしれないが)
ベッドに寝かせた乃絵美に一瞬視線を落として、吉井は続けた。
(耐え難いプレッシャーだったんじゃないのかな、今日のことは。妹さんにとって
──)
(…………)
(伊藤、君も含めて、いつか──潰れてしまう日が来るんじゃないのかな。今日み
たいなことは、この先何度だってあるだろう。誰もいない君たち二人だけの世界で
暮らすわけでもないかぎり、必ず)
潰れてしまうよ、と吉井は続けた。
(だから、落ち着いたらもう一度、話をしよう、伊藤。まだ遅くはない。まだ間に
合うはずだ。だから、考えておいてくれないか? 本当に大事なのは──)
吉井の言葉は、保健室に戻ってきた養護教諭の扉を開く音に遮られて、最後まで
聴くことができなかった。
──けれど。
本当に大事なのは?
本当に大事なのは──なんだろう。
正樹は小さく息をする乃絵美の頬に、そっと触れた。本当に大事なもの。それは
言葉にするまでもないくらい、当たり前のようにここにいる。世界中の誰よりも、
もしかすると自分自身よりも、大事で、大切で、かけがえのない妹。だのに。
固く拳を握りしめて、正樹は唇を噛んだ。どうしていつも、先に気づいてやれな
いんだろう、俺は。線の細い乃絵美のことだ、ただでさえ病み上がりだというのに、
こうなることは火を見るより明らかだったはずなのに。遅すぎる。いつも俺は、遅
すぎる。乃絵美の想いにだって、あいつが勇気を振り絞って告白してくれるまで─
─気づいてやることができなかった。
(乃絵美を守ってあげてね、正樹は、お兄ちゃんなんだから)
そう約束したはずなのにな──。
どうして俺は、乃絵美を苦しめてばかりいるんだろう?
「──こら」
こつん、と額を弾かれたような感触に、正樹はふと我に返った。見ると、人差し
指を付きだした築山が目の前に立ち、小さく笑みを浮かべている。
「そんな顔しないで。心配ないわよ。ちょっとした過労みたいなものだから、ぐっ
すり寝て安静にしてれば、大丈夫」
「…………」
押し黙る正樹を見て肩をすくめながら、築山はパイプ椅子を引き寄せて、腰を下
ろし、「それにしても今日は大変な日ね」と呟いた。
「え?」
「ああ、うん、こっちの話。──それで、君はええと……伊藤さんのお兄さん、な
のよね?」
乃絵美はよく保健室を訪れているのだろう、築山の発音する「伊藤さん」という
単語には親しみの響きがあった。
「はい。3-Aの伊藤正樹です」
「……? ああ」
小さく呟くと、築山は軽く微笑んだ。
「陸上部期待のホープの。そう、君が伊藤さん自慢のお兄さんだったのね」
「自慢?」
「そう。彼女、そんなに体の丈夫な方じゃないでしょう? だからまあ職業柄、色
々話す機会があるってわけ。そうかそうか、こんなお兄さんがいるなら、そりゃ話
したくもなるわよね。お兄さんのことを話すあの子、本当に嬉しそうなのよ。兄が、
兄が、って一生懸命気を付けてるんだけど、時々お兄ちゃんってポロッて出てしま
うのが、可愛くてね」
いいわね、兄妹って、と築山は微笑んだ。
「私は一人っ子だったからね、君たちみたいな兄妹って、ちょっと羨ましいわよ。
どんなことがあっても切れない絆っていうかさ、そういう存在がいるっていうのは、
やっぱり素直に羨ましいわよね」
「羨ましい──ですか」
「だってそうじゃない? どれだけ深い仲になったとしてもさ──縁が切れちゃえ
ば、恋人なんて結局他人同士じゃない。でも、兄妹はずっと、兄妹でしょ? どれ
だけ時間が過ぎても、たとえ違う場所で、違う時間を過ごしたとしてもさ、兄妹で
あるっていう繋がりは、消えない。それこそ死が二人を分かつまで、って奴かな。
そういうの、やっぱり憧れたりしますよ。一人っ子歴二十……以下検閲、の私とし
てはさ」
だからさ、と築山は続けた。
「だからさ、大事にしてあげなよ、お兄さん」
トルルル、と内線の鳴る音がした。
はいはい、っと、とステップを踏むように築山は内線のところまで行くと、軽い
仕草で受話器を手に取った。「はい、保健室、築山です」という声が正樹の耳を打
った。
大事にしてあげなよ──か。
もう一度、乃絵美の頬に指を延ばす。大事、にしてやれてるのかな? 俺は、お
前を。やっぱりただ、苦しめてるだけじゃないのかな? 「お兄ちゃんといられる
だけで、わたしは幸せだよ」──お前はそう言って笑ってくれてるけど、本当は、
苦しくて苦しくて、しょうがなかったんじゃないのか? 倒れるくらいに気を張り
つめて、胸をはって、お前は、本当に──
「伊藤君」
築山の穏やかな声が、正樹の思考を遮った。視線を向けると、受話器をついつい、
と指さして、築山は続けた。
「親御さんからだって、吉井先生が連絡したみたいだけど。──外線4番。取り方、
分かる?」
9
「でもね、駄目なんだ」
少しずつその音を強くさせながら、その声は続いた。
「いつかきみは、目を覚まさなきゃならない。いつかこの国を、出ていかなくちゃ
いけない。いつまでもいつまでも、夢の世界にはいられないんだよ」
おぼろげだった声がしだいにはっきりとしていく中、乃絵美を取り巻いていた虚
ろな世界が、やがてゆっくりと晴れていくような気がした。夢なんだろうか──乃
絵美は思った。今まで見ていたのは、少し長かったけれど、なんてことのないただ
の夢だったのだろうか? 目が覚めると私はあたたかい布団の中にいて──そのぬ
くもりに後ろ髪をひかれながら起き出して、お兄ちゃんがジョギングから帰ってく
る前に朝食を作る。そして「ただいま」という聞き慣れた声とともにドアが開いて、
「おかえり、お兄ちゃん。朝ごはんもう出来てるよ──」
そんな風に、なんの含みもなく笑顔でいられたあの頃に、戻るのだろうか──?
※
古びたドアが閉まる、鈍い音がした。
乃絵美を部屋で寝かせたあと、リビングに戻った正樹の鼻孔を、香ばしい薫りが
くすぐった。子供の頃から嗅ぎ慣れてきた匂い。17年間、身近に感じてきた、ど
こかほっとするような、そんな香り。
「ブラックで良かったのか?」
父親に問いに、正樹はうなずき返すと、テーブルについてミルク差しを引き寄せ
た。ブラックにひと垂らし、ミルクを入れるのが正樹の好みなのだ。
(そういや、親父のコーヒー飲むなんて何年ぶりだろう)
カップに口を寄せて。ひとすすりしながら正樹は思う。それ以上に父親とこう、
面と向かって話をするのは何年ぶりだろう。喫茶店の経営者として、ずっと家にい
る父親だったが、最近は正樹の部活が忙しくなったこともあって、どこか疎遠だっ
た。店を手伝うことはよくあったが、仕事中に雑談を好まない性格からか、世間話
をしたような記憶も、ここ数年はまばらにしかない。(いつも優しい笑みを浮かべ
て、正樹を見守ってくれてはいたし、そのことを誰よりも、正樹は感謝していたが)
だから、
(伊藤です、この度は娘が、大変ご迷惑をおかけしまして──)
そう、築山に頭を下げた時の父親の表情を見て、正樹の胸はちくりと痛んだ。ど
こまで、聞かされているのだろう、この人は。吉井はどうやら、倒れた乃絵美を家
族に車で迎えにきてもらうより取りはからってくれただけらしが、どんな理由で乃
絵美が倒れたのかを知ったら、この人はどんな顔をするだろう?
「乃絵美、どうなんだ?」
「寝てるよ。──嫌な夢でも見てるのかな、ちょっと寝苦しそうだった。あとでも
う一度、様子を見てくる」
そうか、と呟いて、父親は自分のコーヒーカップに視線を落とした。
「最近は、あんまりこういう話、なかったからな。あの子の躰も元気になってきた
のかなと思ってたんだが……」
目を細めて、言う。
「なにか、無理をさせてたのかな……。正樹、なにか聞いてないか?」
「…………」
「正樹?」
「あの──さ、」
「うん?」
言葉が、喉までせり上がってきた。言わなければ、と思う。いつまでも、隠して
はいられない。必ず、知られてしまう日が来る。妹がいつまでも妹であるように─
─父親も、いつまでも父親なのだ。
(正樹)
あれはいつのことだったろう? たしか、小学生にあがる前くらいの、ことだっ
たと思う。あの時はまだ母さんも元気に笑ってて──そんな母さんの大事にしてい
たストールを、正樹がふざけて破ってしまった時のことだ。あの時の正樹は、ひた
すら怖かった。母さんに怒られるのが怖かったんじゃなく、失望されるのが、正樹
はこんなことをする子だったのね、そう思われるのが──怖かったのだ。
やったのは自分じゃない、そう主張する正樹に、父親はただ穏やかな目で、言っ
た。
(お前が決めるんだ)
正樹の頭に手をやりながら、父親は続けた。
(お前が決めるんだ。なにが良いことで、なにがいけないことなのか。なにが正し
くて、なにが悪いことなのか。お前が本当にやってないというなら、それでいい。
俺も母さんも、お前を信じる。──だけどな)
父親は、穏やかに笑って、言った。
(どんな嘘も、他人は騙せても、お前自身だけは──騙せないんだぞ)
「正樹、どうした?」
「あ、うん。いや──さ」
カップの残りに口をつけて、正樹は笑った。舌に残る感触は、どこかぬるくて、
苦かった。
「親父とこんな風に話するの、なんか久しぶりだな──って思ってさ」
「そう……だったかな。ああ、そうかもなあ」
どこか苦笑気味に、父親は答えた。
「なあ親父」
「ん?」
「親父はさ、どんなことがあっても──それでも母さんを好きになれたと思う?」
「なんだ、いきなり?」
「例えばの話だよ。もし母さんが、親父にとって絶対好きになっちゃいけない相手
だったとしても──それでも、親父は──」
「…………」
僅かな沈黙のあと、ゆっくりと、どこか寂しげに、父親は答えた。
「ああ、それだけは自信を持って言えるよ。幸い、なんの壁も紆余曲折もなかった
けどな、たとえどんな理由があったとしても、俺は母さんを好きでいられたと思う
し、絶対に結婚したいと、思ったろうな」
そこまで言うと、父親は何かに気づいたように、苦笑した。
「なんだ正樹、変な話すると思ったら、そんな相手でもできたのか?」
「──まあ、ね」
「そうか。──なんだ、そうか、ははは」
嬉しそうに父親は席を立って、カウンターを方へと足を向けた。コーヒーをもう
一杯、煎れにいくのだろう。
「親父」
「ん?」
振り返らず、父親はどこか上機嫌な口調で、答えた。
「間違いじゃないのかな? 本当に好きになったんなら、例えどんな相手だって─
─」
「お前が本気だってんなら、止める理由はなにもないさ。なんだ、なにを心配して
るんだ?」
「親父、俺は──俺はさ」
喉の奥が、熱かった。それでも、それでも、これだけは言わなくちゃ、いけない。
「俺はさ、乃絵美が──好きなんだ」
※
──戻るのだろうか?
──何もなかった、本当にただの兄と妹だったあの日に?
いやだ。
乃絵美は思う。そんなのは、いやだ。
やっと──伝えられたのだ。やっと好きと言えて、躰を重ねて──やっとやっと、
迷路のようなこの想いの、答えを見つけたのだ。
だから、私は笑っていたい。どんなに苦しくても、「大丈夫だよ」って、微笑ん
でいたい。これは夢なんかじゃな
いよって、ずっとずっと、子供の頃から思い描いていた未来なんだよって、そう伝
えたい。
「きみもきっと、すぐに分かるんだ」
けれど、どこか哀れむような響きをもって、その声は続いた。
どこかで聞いたような声。その音に混じる、ほんの少しの違和感。そう、子供の
頃、カセットテープに自分の声をふざけて録音したものを再生した時のような、そ
んな作り物めいた自分の声。
そして、知っていた。乃絵美には分かっていた。その声が、次にどんな言葉を続
けるのか。どんな言葉で、この虚ろな世界の終わりを告げるのか。乃絵美は誰より
も、その言葉を知っていた。
そう、
「いつか覚めるから、“夢”なんだよ──」
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