小説(転載) インセスタス Last Incest 明日 5/7
官能小説
「血の繋がりなんて──人が人を愛するのに、なんの障害にもならない。兄さん、
私はそう思うんです。いいえ、むしろ私の中に貴方と同じ血が流れていることを─
─私は何よりも誇りに、そして幸福に思います。だって、それだけ貴方のことを、
深く、暖かく、誰よりも身近に感じることが出来るのですから」
J・ラインコック 『ユージニー』
7
差し出された手は、しっとりと汗ばんでいた。
けれど乃絵美にとって、その感触と、その仄かな熱は──けして不快なものでは
なかった。正樹の心臓の鼓動が、触れあった肌から、絡み合った指先からゆっくり
と流れこんでくるような感覚。このぬくもりに守られている限り、なにがあっても
大丈夫だという、絶対的な安心感。
だから、乃絵美は机の下で(前に座っている吉井と田山の視線からは、もちろん
隠れる形で──)、隣に座る正樹から差し出された手を、そっと、それでも彼女な
りにぎゅっと強く、握り返した。幼い頃から何百回と握ってきたその手が──何物
にも代え難い、ただひとつの宝物であるかのように。
「意志は固い、と、そういうことなのかな?」
重い沈黙を破るように、テーブルの上に置いた両手を組み直しながら、吉井が口
を開いた。整髪料でぱらついた黒い前髪が、疲れたようにぱらりと額に落ちる。
「何を言いつくろっても、学園側の勝手な要求になるだろうから、この際だ、はっ
きり言おう。学園としてはね──伊藤、君と妹さんとのことは、正直問題ではない
んだ。というより、問題にできないというべきか。学園としての対面もあるし、父
兄の手前もある──この場合、困るのはむしろ学園側だと、ある意味言えるだろう
ね」
それよりだ、と吉井は一度言葉を切り、厳しい視線のまま言葉を続けた。
「学園として問題なのはね──伊藤、君が“城南に行かない”ということ。“伊藤
正樹が城南大学のスカウトを蹴る”という、まさにその一事なんだよ」
その言葉に、正樹がふと顔を上げた。同時に、乃絵美の手を握る指に、僅かに力
が込められる。
「有言不行だな、私は──。『好きなようにしなさい』なんてあの時教師ぶって言
ったというのに……すまない、伊藤。これはもう、学園全体の総意なんだよ。理事
長を始め、誰もが君には期待をかけている。元々運動にはさして名の知られてない
この学園にとって、君はもう、文字通り希望の星なんだ」
「けど──」
反駁しようとした正樹を、吉井は仕草で押しとどめた。隣に座る田山は、ただ眉
をしかめて視線を宙に向けている。
「もちろん、選択の自由は君にある。君の人生だからね──ただ、不快だと思うだ
ろうが、これだけは言わせてくれ。君が拒否をするということ、まさにそれこそが
問題なんだ。我々は、報告しなければならないんだよ。その時こそ。君の決断を。
どうしてそこに思い至ったのかという、その理由を」
そこでいったん、吉井は言葉を切った。瞬間、なにか冷たいものを落とされたよ
うな感覚が、乃絵美の背を走った。
「まさにその時だろう。この学園で、君と妹さんのことが、“問題”になってしま
うのは。そうなれば、──伊藤、城南に行く行かないは別にして、君の進学そのも
のに、事は及んでくるんだ。分かるだろう? そんな問題を起こした生徒を、学園
側が推薦できるわけがない。桜美にしたってどこにしたって──君の推薦の話はま
ず白紙になる」
「…………!」
凍るような沈黙に、乃絵美は肩を震わせた。
覚悟は出来ているつもりだった。この事実が白日の下にさらされようと──たと
え、どんな嘲りや非難を受けようと、覚悟は出来ているつもりだった。
そう、お兄ちゃんがこうして、ずっと手をつないでいてくれるのなら。
けれど。
けれど、乃絵美は思う。何度も何度も考え、思い悩んできたジレンマに、心を浸
す。
本当にそれで、いいのだろうか? それは、自分だけのエゴじゃないんだろうか?
自分はただ、正樹を苦しめて、その未来を全部、奪おうとしているだけなんじゃな
いんだろうか──。
(駄目だ)
きゅ、と乃絵美は唇を噛み、そして顔を上げた。
弱気になっちゃ駄目だ。もう、決めたのだから。どんな現実にだって負けないと、
そう心に決めたのだから。だから、こんな言葉くらいで、気圧されてちゃ、いけな
い。
「脅迫、するんですか」
絞り出すような正樹の声。乃絵美はテーブルの下で触れあう指に僅かに力を込め
ると、視線を吉井の方へと向けた。
「違う」
その言葉に吉井は眉をしかめて頭を振った。その表情は、どこか苦しげに、乃絵
美には見えた。
「いや、そう取られても仕方がないことなんだろうが──。いや、そんなことはど
うでもいいんだ。伊藤、もう一度言おう。君たちのことは問題ではないんだ、“現
時点では”。だから、考えてみてくれないか? 君の選択が、君と妹さんを、救う
ことになるんだよ」
その目には、本当に脅迫めいた色はなかった。少なくとも、乃絵美にはそう思え
た。この吉井という教師は、本当に心から、正樹のことを気遣っている。
田山にしてもそうだろう。あまり評判の良い教師でないことは学年の違う乃絵美
のクラスまで伝わってきているが(とかくスパルタで知られているので──)さき
ほどの怒号にも、粗暴さはあったが、悪意めいたものは感じられなかった。不器用
ではあるけれど、この教師もこの教師なりに、(もちろん指導者的な打算はあるに
せよ)正樹のことを案じているのだろう。
そう、案じているのだ。
吉井も田山も、そしてもちろん、菜織や冴子たちも──皆、正樹のことを案じて
いるのだ。正樹の未来が閉ざされようとしていることを、門をくぐる前に、みずか
らその扉を閉じようとしていることを──案じている。
(乃絵美ちゃんじゃ、仕方ないよね)
乃絵美は思い出す。
自分が風邪をひいてしまったり、体調を崩してしまったとき──正樹はいつも傍
にいてくれた。そして遊びに行こうと誘いに来た男の子の友達や、菜織や真奈美に、
困ったような笑顔で「ごめん」と答える横顔を、乃絵美はいつも窓越しに見ていた。
「ごめん、俺、ちょっと今日駄目なんだ。乃絵美の調子、あんまり良くなくてさ─
─」
そう告げられた時の菜織や真奈美の表情を、乃絵美は今でもよく覚えている。遠
目ではあったが、そこには残念そうな表情の中に、確かに諦めに似た色があった。
「乃絵美ちゃんじゃ、仕方ないよね」と。そして──今にして思えば──その諦観
の中には、ほんのひとにぎりの懸念も混じっていたような気がする。「でも正樹君
は、本当にそれでいいの?」──ちょうど、今目の前にいる二人の教師のような。
※
乃絵美ちゃんは天使みたいな子だね、と近所の小母さんたちからよく言われるこ
とがある。それは自由に空を舞う無邪気な天使のイメージではなく──引っ込み思
案で、いつも兄の背中に隠れていた幼い頃の乃絵美を、なんとか周囲が元気づけよ
うとしてくれた一言なのだろうが、乃絵美は思う。
たしかに、病気がちだった。少し冷たい外の空気にあたっただけで、すぐに体調
をくずしてしまう線の細い乃絵美だったが、それを武器にしたことだってある。
正樹が休日の朝、嬉しそうに家族に友達とのことを話しているとき、「今日、河
川敷の方でサッカーやるんだ。人数集めるの、本当に大変でさ──」そんな言葉を、
横でぼんやりと聴いているとき。時々、ひどく切なくなることがあった。なんの理
屈も脈絡もなく、「行かないでほしい」と思うことがあった。そしてそんな時、乃
絵美はよく魔法を使った。難しい呪文なんていらない、ベッドにもぐりこんで、布
団を深く被って、そして呟くのだ、ただ一言、「お兄ちゃん」と。
それは、本当に魔法の言葉だった。それだけで、正樹はもう足を止めてくれる。
あとはもう少し魔法を唱えればいい。「大丈夫だよ、お兄ちゃん。私は、大丈夫だ
から──」
そして──この魔法が失敗したことは、本当に、ただの一度も、なかった。
乃絵美は思う。何かの本で読んだことがあった。「魔法は呪いであって、呪いは
かけた分だけ、自分に返ってくるのだ」と。その言葉通り、罪悪感という名の呪い
はいつも、魔法をかけた後の乃絵美の小さな胸に返ってきた。正樹の存在を傍に感
じながら、乃絵美は罪悪感にかられていた。「乃絵美ちゃんじゃ、仕方ないよね」
──そう思われる自分を武器にして、正樹を傍にひき止めて──そんな罪悪感に押
し潰されるように、本当に体調を崩してしまうこともあった。なんて滑稽なんだろ
う、本当に、こんな、こんな天使がいるわけがない。
ぐらり、と自分の躰が揺れたような気がした。進路指導室は不必要なくらいに暖
房が効いていたが、それでも鈍い悪寒が乃絵美の躰をじんわりと包んでいるような
感じがする。だのに、躰の芯は、不思議なくらい熱を持っているような、そんな、
感覚。
(──卑怯者!)
菜織の言葉が耳朶を打つ。そう、本当に卑怯者なんだろう、自分は。妹という立
場を利用して、不当に正樹を縛っている。どんな言葉で飾ったところで、結局それ
はすべて自分のエゴであって、自分の想いも、この「大好き」という気持ちも、な
にもかも──それは正樹を苦しめる毒に他ならないんじゃないのだろうか?
私は──乃絵美は思う。
私は──魔女なのかもしれない。天使なんかじゃもちろんなく。そして本で読ん
だとおり、魔女の魔法はいつか終わりが来る。どんな呪いで現実をねじ曲げても、
いつか正義の力でうち倒される時が来る。
(駄目だ)
乃絵美は必死でその考えを振り払った。
駄目だ、駄目だ。そんなことを考えてしまっては。だって、好きなのだ。それだ
けは本当に理屈じゃなくて、この好きだという想いも、お兄ちゃんの傍にずっと居
たいという気持ちも、たとえ、どんなに苦しくても、お兄ちゃんを苦しめてしまう
としても──それだけは。
魔女だっていい。天使になんかなれなくても、ずっと一緒にいられるのなら。
それだけで、私は──
「妹さんの方の話も聞きたいな」
押し黙ったままの乃絵美に、吉井がふと水を向けた。
「……私は」
答えようとした声が、一瞬途切れた。目眩のような感覚。なぜだか、躰がひどく
重い気がする。それでも、乃絵美は精一杯顔を上げて、答えた。
「私は、なにも望むものなんて、ありません。ただ──」
「ただ?」
吉井の問いかけに、乃絵美は僅かに正樹の横顔に視線を向けて、
「ただ、一緒にいられたら、それで」
答えた。
「それが、伊藤の未来を閉ざすことになろうともかい?」
溜息に似た声を、吉井は返した。
「…………」
「卑怯な言い方になるが、許してほしい。もし伊藤が、平凡な一学生だったら、君
たちのことは多少の噂になるだろうけれど、学生の内は大きな問題にはならなかっ
たろう。でもね、もし伊藤がまだ──城南に行かないにせよ──陸上への思いを捨
てきれないのなら、君たちの関係は必ず枷になる。伊藤に才能があればあるほど、
人はスキャンダルを望むものだよ。君は、本当にそれでいいのかな? 伊藤のアキ
レス腱になってしまうことを、本当によしとするのかな?」
「……そんな、つもりは」
「その意志に関わらず、だよ。君たちの思いが真摯であればあるほど──その傷口
は広がるだろう。もう一度訊こう、君は本当にそれでいいのかな?」
「あ──」
乃絵美はうつむいた。分かっている。そんなことは、言われなくたって誰よりも
分かっている。誰よりもずっと、見てきたのだから。放課後、日没のオレンジがグ
ラウンドを染める中、ただひたむきにトラックを駆けてきた背中を、誰よりも自分
が、見てきたのだから。
「私は、」
世界が揺れた。心臓が、早鐘のように高鳴っている。躰の芯が燃えるような感覚
──負けちゃいけない。こんなことで、あきらめちゃいけない。やっと、やっと─
─踏み出せたのだ。どんな深淵が待ち受けようとも、やっと、歩き始めることが、
できたのだから──。
(インセストを貫くには)
井澄の言葉が脳裏に蘇る。
(それはふたつの要因いずれかに頼らざるをえない。強大な権力、──もしくは孤
絶した環境、いずれかにだ。そのどちらも持ちえない君たちが辿る道は、限りない
苦難と、猜疑と、侮蔑と、排斥に満ちるだろう──)
どうしてだろう。どうして、こうなってしまうんだろう? ただ、好きなだけな
のだ。一緒に居たいだけなのだ。正樹に陸上で頑張ってもらいたいし、そんな正樹
を、自分は好きでいたい。たったそれだけのことが、どうしてこんなに困難なんだ
ろう。
負けたくない。
卑怯でもいい。なんと罵られても、詰られても、もうこの気持ちに嘘はつけない。
視界が廻る。躰の奥はこんなにも熱を持っているというのに、どうしてこんなに
寒いのだろう?
「乃絵美?」
正樹の声がする。その声に、乃絵美は声にならない答えを返した。「大丈夫だか
ら、お兄ちゃん。私は、大丈夫だから──」だから、もうお家に帰ろう? 暖かい
スープを作って、パンを焼こう。食事が終わったら、お風呂に入って──出来れば、
ほんの少しでいいから、抱きしめてくれると、嬉しいな──
朦朧とした意識の中で、そんな日常を思いながら、乃絵美は微笑んだ。そして小
さく、呟いた。だから、だから、こんなことで、
「負けたく、ないんです」
そして、その小さな躰がゆっくりと、左に傾いた。
私はそう思うんです。いいえ、むしろ私の中に貴方と同じ血が流れていることを─
─私は何よりも誇りに、そして幸福に思います。だって、それだけ貴方のことを、
深く、暖かく、誰よりも身近に感じることが出来るのですから」
J・ラインコック 『ユージニー』
7
差し出された手は、しっとりと汗ばんでいた。
けれど乃絵美にとって、その感触と、その仄かな熱は──けして不快なものでは
なかった。正樹の心臓の鼓動が、触れあった肌から、絡み合った指先からゆっくり
と流れこんでくるような感覚。このぬくもりに守られている限り、なにがあっても
大丈夫だという、絶対的な安心感。
だから、乃絵美は机の下で(前に座っている吉井と田山の視線からは、もちろん
隠れる形で──)、隣に座る正樹から差し出された手を、そっと、それでも彼女な
りにぎゅっと強く、握り返した。幼い頃から何百回と握ってきたその手が──何物
にも代え難い、ただひとつの宝物であるかのように。
「意志は固い、と、そういうことなのかな?」
重い沈黙を破るように、テーブルの上に置いた両手を組み直しながら、吉井が口
を開いた。整髪料でぱらついた黒い前髪が、疲れたようにぱらりと額に落ちる。
「何を言いつくろっても、学園側の勝手な要求になるだろうから、この際だ、はっ
きり言おう。学園としてはね──伊藤、君と妹さんとのことは、正直問題ではない
んだ。というより、問題にできないというべきか。学園としての対面もあるし、父
兄の手前もある──この場合、困るのはむしろ学園側だと、ある意味言えるだろう
ね」
それよりだ、と吉井は一度言葉を切り、厳しい視線のまま言葉を続けた。
「学園として問題なのはね──伊藤、君が“城南に行かない”ということ。“伊藤
正樹が城南大学のスカウトを蹴る”という、まさにその一事なんだよ」
その言葉に、正樹がふと顔を上げた。同時に、乃絵美の手を握る指に、僅かに力
が込められる。
「有言不行だな、私は──。『好きなようにしなさい』なんてあの時教師ぶって言
ったというのに……すまない、伊藤。これはもう、学園全体の総意なんだよ。理事
長を始め、誰もが君には期待をかけている。元々運動にはさして名の知られてない
この学園にとって、君はもう、文字通り希望の星なんだ」
「けど──」
反駁しようとした正樹を、吉井は仕草で押しとどめた。隣に座る田山は、ただ眉
をしかめて視線を宙に向けている。
「もちろん、選択の自由は君にある。君の人生だからね──ただ、不快だと思うだ
ろうが、これだけは言わせてくれ。君が拒否をするということ、まさにそれこそが
問題なんだ。我々は、報告しなければならないんだよ。その時こそ。君の決断を。
どうしてそこに思い至ったのかという、その理由を」
そこでいったん、吉井は言葉を切った。瞬間、なにか冷たいものを落とされたよ
うな感覚が、乃絵美の背を走った。
「まさにその時だろう。この学園で、君と妹さんのことが、“問題”になってしま
うのは。そうなれば、──伊藤、城南に行く行かないは別にして、君の進学そのも
のに、事は及んでくるんだ。分かるだろう? そんな問題を起こした生徒を、学園
側が推薦できるわけがない。桜美にしたってどこにしたって──君の推薦の話はま
ず白紙になる」
「…………!」
凍るような沈黙に、乃絵美は肩を震わせた。
覚悟は出来ているつもりだった。この事実が白日の下にさらされようと──たと
え、どんな嘲りや非難を受けようと、覚悟は出来ているつもりだった。
そう、お兄ちゃんがこうして、ずっと手をつないでいてくれるのなら。
けれど。
けれど、乃絵美は思う。何度も何度も考え、思い悩んできたジレンマに、心を浸
す。
本当にそれで、いいのだろうか? それは、自分だけのエゴじゃないんだろうか?
自分はただ、正樹を苦しめて、その未来を全部、奪おうとしているだけなんじゃな
いんだろうか──。
(駄目だ)
きゅ、と乃絵美は唇を噛み、そして顔を上げた。
弱気になっちゃ駄目だ。もう、決めたのだから。どんな現実にだって負けないと、
そう心に決めたのだから。だから、こんな言葉くらいで、気圧されてちゃ、いけな
い。
「脅迫、するんですか」
絞り出すような正樹の声。乃絵美はテーブルの下で触れあう指に僅かに力を込め
ると、視線を吉井の方へと向けた。
「違う」
その言葉に吉井は眉をしかめて頭を振った。その表情は、どこか苦しげに、乃絵
美には見えた。
「いや、そう取られても仕方がないことなんだろうが──。いや、そんなことはど
うでもいいんだ。伊藤、もう一度言おう。君たちのことは問題ではないんだ、“現
時点では”。だから、考えてみてくれないか? 君の選択が、君と妹さんを、救う
ことになるんだよ」
その目には、本当に脅迫めいた色はなかった。少なくとも、乃絵美にはそう思え
た。この吉井という教師は、本当に心から、正樹のことを気遣っている。
田山にしてもそうだろう。あまり評判の良い教師でないことは学年の違う乃絵美
のクラスまで伝わってきているが(とかくスパルタで知られているので──)さき
ほどの怒号にも、粗暴さはあったが、悪意めいたものは感じられなかった。不器用
ではあるけれど、この教師もこの教師なりに、(もちろん指導者的な打算はあるに
せよ)正樹のことを案じているのだろう。
そう、案じているのだ。
吉井も田山も、そしてもちろん、菜織や冴子たちも──皆、正樹のことを案じて
いるのだ。正樹の未来が閉ざされようとしていることを、門をくぐる前に、みずか
らその扉を閉じようとしていることを──案じている。
(乃絵美ちゃんじゃ、仕方ないよね)
乃絵美は思い出す。
自分が風邪をひいてしまったり、体調を崩してしまったとき──正樹はいつも傍
にいてくれた。そして遊びに行こうと誘いに来た男の子の友達や、菜織や真奈美に、
困ったような笑顔で「ごめん」と答える横顔を、乃絵美はいつも窓越しに見ていた。
「ごめん、俺、ちょっと今日駄目なんだ。乃絵美の調子、あんまり良くなくてさ─
─」
そう告げられた時の菜織や真奈美の表情を、乃絵美は今でもよく覚えている。遠
目ではあったが、そこには残念そうな表情の中に、確かに諦めに似た色があった。
「乃絵美ちゃんじゃ、仕方ないよね」と。そして──今にして思えば──その諦観
の中には、ほんのひとにぎりの懸念も混じっていたような気がする。「でも正樹君
は、本当にそれでいいの?」──ちょうど、今目の前にいる二人の教師のような。
※
乃絵美ちゃんは天使みたいな子だね、と近所の小母さんたちからよく言われるこ
とがある。それは自由に空を舞う無邪気な天使のイメージではなく──引っ込み思
案で、いつも兄の背中に隠れていた幼い頃の乃絵美を、なんとか周囲が元気づけよ
うとしてくれた一言なのだろうが、乃絵美は思う。
たしかに、病気がちだった。少し冷たい外の空気にあたっただけで、すぐに体調
をくずしてしまう線の細い乃絵美だったが、それを武器にしたことだってある。
正樹が休日の朝、嬉しそうに家族に友達とのことを話しているとき、「今日、河
川敷の方でサッカーやるんだ。人数集めるの、本当に大変でさ──」そんな言葉を、
横でぼんやりと聴いているとき。時々、ひどく切なくなることがあった。なんの理
屈も脈絡もなく、「行かないでほしい」と思うことがあった。そしてそんな時、乃
絵美はよく魔法を使った。難しい呪文なんていらない、ベッドにもぐりこんで、布
団を深く被って、そして呟くのだ、ただ一言、「お兄ちゃん」と。
それは、本当に魔法の言葉だった。それだけで、正樹はもう足を止めてくれる。
あとはもう少し魔法を唱えればいい。「大丈夫だよ、お兄ちゃん。私は、大丈夫だ
から──」
そして──この魔法が失敗したことは、本当に、ただの一度も、なかった。
乃絵美は思う。何かの本で読んだことがあった。「魔法は呪いであって、呪いは
かけた分だけ、自分に返ってくるのだ」と。その言葉通り、罪悪感という名の呪い
はいつも、魔法をかけた後の乃絵美の小さな胸に返ってきた。正樹の存在を傍に感
じながら、乃絵美は罪悪感にかられていた。「乃絵美ちゃんじゃ、仕方ないよね」
──そう思われる自分を武器にして、正樹を傍にひき止めて──そんな罪悪感に押
し潰されるように、本当に体調を崩してしまうこともあった。なんて滑稽なんだろ
う、本当に、こんな、こんな天使がいるわけがない。
ぐらり、と自分の躰が揺れたような気がした。進路指導室は不必要なくらいに暖
房が効いていたが、それでも鈍い悪寒が乃絵美の躰をじんわりと包んでいるような
感じがする。だのに、躰の芯は、不思議なくらい熱を持っているような、そんな、
感覚。
(──卑怯者!)
菜織の言葉が耳朶を打つ。そう、本当に卑怯者なんだろう、自分は。妹という立
場を利用して、不当に正樹を縛っている。どんな言葉で飾ったところで、結局それ
はすべて自分のエゴであって、自分の想いも、この「大好き」という気持ちも、な
にもかも──それは正樹を苦しめる毒に他ならないんじゃないのだろうか?
私は──乃絵美は思う。
私は──魔女なのかもしれない。天使なんかじゃもちろんなく。そして本で読ん
だとおり、魔女の魔法はいつか終わりが来る。どんな呪いで現実をねじ曲げても、
いつか正義の力でうち倒される時が来る。
(駄目だ)
乃絵美は必死でその考えを振り払った。
駄目だ、駄目だ。そんなことを考えてしまっては。だって、好きなのだ。それだ
けは本当に理屈じゃなくて、この好きだという想いも、お兄ちゃんの傍にずっと居
たいという気持ちも、たとえ、どんなに苦しくても、お兄ちゃんを苦しめてしまう
としても──それだけは。
魔女だっていい。天使になんかなれなくても、ずっと一緒にいられるのなら。
それだけで、私は──
「妹さんの方の話も聞きたいな」
押し黙ったままの乃絵美に、吉井がふと水を向けた。
「……私は」
答えようとした声が、一瞬途切れた。目眩のような感覚。なぜだか、躰がひどく
重い気がする。それでも、乃絵美は精一杯顔を上げて、答えた。
「私は、なにも望むものなんて、ありません。ただ──」
「ただ?」
吉井の問いかけに、乃絵美は僅かに正樹の横顔に視線を向けて、
「ただ、一緒にいられたら、それで」
答えた。
「それが、伊藤の未来を閉ざすことになろうともかい?」
溜息に似た声を、吉井は返した。
「…………」
「卑怯な言い方になるが、許してほしい。もし伊藤が、平凡な一学生だったら、君
たちのことは多少の噂になるだろうけれど、学生の内は大きな問題にはならなかっ
たろう。でもね、もし伊藤がまだ──城南に行かないにせよ──陸上への思いを捨
てきれないのなら、君たちの関係は必ず枷になる。伊藤に才能があればあるほど、
人はスキャンダルを望むものだよ。君は、本当にそれでいいのかな? 伊藤のアキ
レス腱になってしまうことを、本当によしとするのかな?」
「……そんな、つもりは」
「その意志に関わらず、だよ。君たちの思いが真摯であればあるほど──その傷口
は広がるだろう。もう一度訊こう、君は本当にそれでいいのかな?」
「あ──」
乃絵美はうつむいた。分かっている。そんなことは、言われなくたって誰よりも
分かっている。誰よりもずっと、見てきたのだから。放課後、日没のオレンジがグ
ラウンドを染める中、ただひたむきにトラックを駆けてきた背中を、誰よりも自分
が、見てきたのだから。
「私は、」
世界が揺れた。心臓が、早鐘のように高鳴っている。躰の芯が燃えるような感覚
──負けちゃいけない。こんなことで、あきらめちゃいけない。やっと、やっと─
─踏み出せたのだ。どんな深淵が待ち受けようとも、やっと、歩き始めることが、
できたのだから──。
(インセストを貫くには)
井澄の言葉が脳裏に蘇る。
(それはふたつの要因いずれかに頼らざるをえない。強大な権力、──もしくは孤
絶した環境、いずれかにだ。そのどちらも持ちえない君たちが辿る道は、限りない
苦難と、猜疑と、侮蔑と、排斥に満ちるだろう──)
どうしてだろう。どうして、こうなってしまうんだろう? ただ、好きなだけな
のだ。一緒に居たいだけなのだ。正樹に陸上で頑張ってもらいたいし、そんな正樹
を、自分は好きでいたい。たったそれだけのことが、どうしてこんなに困難なんだ
ろう。
負けたくない。
卑怯でもいい。なんと罵られても、詰られても、もうこの気持ちに嘘はつけない。
視界が廻る。躰の奥はこんなにも熱を持っているというのに、どうしてこんなに
寒いのだろう?
「乃絵美?」
正樹の声がする。その声に、乃絵美は声にならない答えを返した。「大丈夫だか
ら、お兄ちゃん。私は、大丈夫だから──」だから、もうお家に帰ろう? 暖かい
スープを作って、パンを焼こう。食事が終わったら、お風呂に入って──出来れば、
ほんの少しでいいから、抱きしめてくれると、嬉しいな──
朦朧とした意識の中で、そんな日常を思いながら、乃絵美は微笑んだ。そして小
さく、呟いた。だから、だから、こんなことで、
「負けたく、ないんです」
そして、その小さな躰がゆっくりと、左に傾いた。
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