小説(転載) Eternal Delta 2/9
官能小説
新規登場人物
工藤修祐(くどう・しゅうすけ)
遙紀の幼なじみ。親の転勤で引っ越していた。
第1章 彼女の初体験の相手〈1〉
市立高鳥たかとり高校に通う梨玖は、この春から二年生になる。一年の時は遙紀と同じクラスだった。しかし今度は別のクラスの方がいいかもしれない。同棲か!と冷やかされずに済むからだ。
三月の末に入籍した母と新しい父は、梨玖の期待を裏切って新婚旅行には行かなかった。二人とも仕事がいっぱいで旅行どころじゃないらしい。
おいしいシチュエーションにありつけることなく、同居生活は一週間が過ぎた。
いくら頭では判っていても、彼女はやっぱり彼女であって、姉ではない。
最初から姉として会っていれば踏ん切りもつくかもしれない。しかし、初めて見たときから異性として意識してしまっているので、やっぱり家族とは思えない。
家の中をラフな恰好でうろつき回る遙紀を見るたびに、梨玖はびくびくしてしまう。
どきどきじゃなくてびくびく。
何に怯えているのかは、自分ではよく判らない。
嫌がっていたわりに、遙紀は平然と日々を過ごしている。そう見えるだけかもしれないが、母と同じ女だけに神経図太いのかもしれないと思う。
あと二日で新学期が始まるというその日。梨玖は重大なことに気づいた。
……宿題やってねぇ。
春休みといえど、高鳥高校では主要五教科の問題集が課題として出される。夏や冬に比べれば量的には少ないが、たった二日で出来るものではない。
自力では。
いい口実見つけたぞ、と梨玖はほくそ笑み、問題集とノートを抱えて部屋を出た。
中流階級の一戸建て。狭いながらもちょっとした庭があり、ガレージ付き。一階にはダイニングキッチンとリビング、バスルームとトイレ、八畳の両親の部屋。二階は六畳の部屋が二つ。広いベランダとトイレ。
ついこの間まで父娘二人だけの住まいだったにしては、ちょっと広すぎるような気がする。四人家族となった今でちょうどいい大きさだろう。最初から再婚する気があったんだろうか。しかし兄となった浩巳が大学を卒業して帰ってきたら、自分は追い出されてしまうのではないかとちょっと心配だ。
南側の部屋を出た梨玖は、北側の部屋の前で立ち止まる。
時間は昼を過ぎたところ。両親は二人揃って出版社へ出掛けた。夕方まで帰らない。
──おいしいシチュエーション、ゲット!
ガッツポーズをしてから、梨玖は大きく深呼吸した。
付き合い出して半年。数回この家に入ったことはある。遙紀の部屋にも入ったことがある。一番最初はさすがに緊張したが、そのあとは平常心でいられた。
しかし今は、初めて入ったときのようにどきどき、いや、びくびくしていた。
一時間ほど前に起きたばかりの梨玖は、母が用意していた朝食を食べ、そのあと部屋に戻った。ダイニングから二階に上がるには玄関前を通る。その時、遙紀の運動靴はあったような気がする。誘って出掛けようかと思っていたのだが、実に都合よく課題のことを思い出したのだ。遙紀が出ていった様子はない。ドアの開く音はしなかった。
意を決してドアをノックしようと右手を挙げ──
──がちゃっ! ごちぃんっ!
思いっきり顔面にドアがぶつかってきた。
「~~~~!!」
問題集とノートをばらまき、梨玖は鼻を押さえてうずくまった。
「……あれ? なにやってんの?」
変態を見るかのような遙紀の表情。梨玖は怒鳴った。
「なにじゃねぇだろ! 急に開けんな!」
「だ、だって、そんなところにいるなんて思わなかったんだもん。なにやってたの?」
「……いや、えーっと」
襲いに来たとは言えず、梨玖は困った。
「あ! 宿題! 写させてもらおうと思ってさ!」
「……なに、そのとってつけたような説明は?」
「……気のせいだ」
梨玖は冷や汗をかいた。
「あたし、お昼食べるんだけど。梨玖は?」
「は?……ああ、さっき起きて朝飯食ったばっかなんだ」
「じゃあ、いらないのね」
遙紀はさっさと階段を下りていった。
「あ、おい! いる! 食うよ!」
梨玖は慌てて後を追いかけた。
父娘二人暮らしだっただけに、遙紀は料理がうまい。今日の昼食はサンドイッチ。
……サンドイッチ?
作る手間がかかるのは判る。しかしだ。なんでサンドイッチなんだ? もーちょっと手作りっぽいもん食いてぇなぁ。
「宿題やるんでしょ?」
包丁を持って、遙紀が言った。鍋でゆで卵を作っている間に食パンの耳を切り落としている。ほかにも、ハムとかレタスとかトマトとか、野菜をいっぱい並べていた。
とってつけた説明を信用してくれてるわけか。実際、宿題はやらないといけないが。
優しさに感動していると、遙紀はゆで卵の殻むいて、と頼んできた。
喜んでお手伝いいたしますとも!などと言いながら、梨玖は鍋の湯を捨ててゆで卵を鷲掴みにした。
「──あっちぃ!」
梨玖はゆでたばかりの卵を床に落とした。
「もー。熱いに決まってるじゃない。お湯捨てたら水で冷やすのよ」
遙紀はまるっきり熱さを感じていないかのように素手で卵を広い、鍋に戻した。水を入れた鍋をテーブルの上に置く。
「すぐには冷めないからね。卵をね、ごろっと転がすの。そしたらむきやすいから」
「……へーい」
言われたとおりにごろっと転がし、殻をむく。
地道な作業を繰り返し、三つの卵を全部むき終えると、今度はみじん切りにしてと頼まれた。それが済むと、梨玖には手伝えることがなくなった。遙紀はてきぱきとサンドイッチを作り上げていく。
……うーん。実に家庭的な奴だ。
自分も母が仕事で忙しいときには、家事を手伝わされていた。だが料理はしなかった。
遙紀の動作に見惚れてから五分後。サンドイッチが出来た。コーヒーを入れて、二階に上がる。
廊下に散らかしっぱなしだった問題集とノートを回収し、遙紀の部屋に入った。
女の子らしい部屋というと、すぐにピンクのカーテンとかぬいぐるみを想像するが、遙紀の部屋にそんな物はない。モノトーンで統一されていて、テレビ、ベッド、机、タンス、ステレオ、本棚などがあるだけ。梨玖の部屋とあまり変わりない。一見すると男の部屋だ。だが遙紀がクールな性格をしているというわけでもない。部屋がクールなだけだ。
壁に立てかけられていたテーブルを部屋の中央に置き、昼食を載せて問題集とノートを広げる。
梨玖は遙紀の向かいではなく角を挟んだ隣に座った。これは別に意図してのことではなくて、教えてもらいやすいからだ。
といってもやっぱり、より近くにいると色々と考えてしまう。
長袖のTシャツに膝丈スカート。肩につくぐらいの髪は、バレッタで一つにまとめてある。白いうなじが目に飛び込む。
遙紀は美人だ。可愛いというより美人顔。目立たないが、整った顔立ちだ。それをいち早く見抜いてモーションかけた自分は偉いと思っていた。
一年の一学期は何とも思っていなかった。二学期になって一番面倒くさい体育委員に選ばれてしまった梨玖は、同じく選ばれてしまった遙紀と体育祭の準備で苦労した。何度か帰り道を一緒に歩いた。気さくな遙紀とは話しやすく、よく気のつく優しい奴だということを知って、次第に惹かれていった。
体育祭が終わると、体育委員の仕事なんてなくなる。口実がなくなって焦った梨玖は、思い切ってデートに誘った。お茶しないかと言っただけだが。遙紀はあっさりOKした。
初デート中に付き合ってくれと告白し、遙紀はやっぱりさらっとOKしてくれた。
それから半年。特に何の問題もなく、いい関係を続けている。とりあえずキスは済ませていた。が、それから先に進めない。
それっぽいムードになったかなーと思ったら、遙紀は突然なにかを思い出し、二人の間に漂った色気のある空気は霧散する。
遙紀はその手のことには奥手で、キスぐらいで照れる、なんてことはない。それなりに興味はあるらしいのだが、どうしてだかガードが堅い。
ひょっとして自分はムード作りがヘタなのかもしれない、と最近不安になる。
せっかく「一つ屋根の下」なんだから、ここらでそういう関係にならないと、男としてどうかと思う。
などと、遙紀のノートを写しながら、梨玖は勝手なことを考えていた。
「あのさぁ、梨玖?」
「──は!? なんだ!?」
サンドイッチをかじりながら顔を覗き込んできた遙紀にびびった。
「……なに、声ひっくり返してんの?」
「いや、別に。なんだ?」
「あのねぇ、おばさ……じゃなくて、お母さんってさ、父さんのどこが気に入ったんだと思う?」
「……それを俺に聞くか?」
「だって、自分の親のことなんだから判るでしょ?」
「判んねぇよ。特にお袋のことは」
単純明快な猪突猛進型母親だと思っていたのだが、再婚を決意するほど好きな男が出来たなんて、未だに信じられない。
「こっちこそ聞きたいんだけどな。おじ……親父って、お袋のどこがいいんだ?」
「そりゃ……あのパワフルさじゃないの?」
「……お前のお袋ってあんなんだったのか?」
「ううん。お花とお茶が趣味っていう大和撫子だったらしいけど」
遙紀も母親の記憶はほとんどないらしい。小学校に入ってすぐに亡くなったと聞いた。
「……親父って変な趣味に変わったんだな」
「お母さんも変よ」
「…………」
自分の親をけなし合うことに不毛を感じた。今はどちらもが両方の親なのだ。
「……でさぁ」
「なんだ?」
「……弟か妹が……出来るのかな?」
「……は?」
何が聞きたいのかと思えば。
兄貴がいるくせにまだ兄弟が欲しいのか? それとも女の兄弟が欲しいとか?
そう考えた梨玖だったが、遙紀の態度を見て、なんか違うらしいと気づいた。
遙紀の表情は、一言で言うとはにかんだ顔だった。
「……お前、なに考えてんだ?」
「え、だ、だって、ほら、まだお母さん若いし……産むでしょ、やっぱり……」
「そりゃまあ……やることやってりゃ出来るだろうけどな……」
……やること。
やるよな、やっぱ。あの親たちも。
母は三十七歳。新しい父は四十歳。まだ性欲はあるはずだよな、と思うが。
遙紀のその照れたような表情は、両親の性生活について考えてしまったからか、弟か妹が出来るかもしれないという期待からか。
やっぱりその手のことに疎いわけでも興味がないわけでも恥ずかしいわけでもないらしい。しかしだ。親の性生活なんてどうでもいい、というか考えたくもない。そんなことより、自分たちの進展について考えるべきだ。
どこか呆けたような顔で、遙紀はサンドイッチにかぶりついている。何を考えているのやら。親のことから自分たちのことへと思考が飛躍してくれてたらいいのだが。
「……遙紀」
「え?」
きれいな円形の歯形がついたサンドイッチを手にして、遙紀が振り向く。
梨玖は自分の口元を指差した。
「ついてる」
「え? ほんと?」
小さい子供みたいで恥ずかしいのか、遙紀はさっきとは違う照れ方で口元を拭おうとした。常套手段というのはうまくいく回数が多いから常套手段となるのだ。
口元を拭ってやる振りをして、梨玖は遙紀の頬に手を当て、自分の口で何もついていない遙紀の口をついばむ。
軽く触れただけで梨玖は離れた。当然これだけで終わるわけがない。真っ昼間だろうがなんだろうが、まったくなんの邪魔も入らないチャンスなんてそうそうない。一週間、同居してみて判った。一階に親がいると思うと、キスするのさえ、ためらわれてしまう。それどころかこの部屋に入るのも躊躇する。まだ他人だった時には、遙紀の父が家にいてもキスぐらい平気でしてたのに。
「……なに?」
突然何をするのかと聞きたいのだろうか。しかし梨玖にすれば突然じゃない。だいたいくすぼっていたスケベ心にさらに火をつけたのは遙紀の方だ。
ベッドは部屋の右手奥。梨玖の正面。やっぱり床の上はまずいだろうか。ベッドに上がった方がいいかな。などと考えながら梨玖はテーブルを押しのけ、再びキスを迫る。
「宿題やりに来たんじゃなかった?」
「……いいよ、あとで」
なんでこうなんだろうか、こいつは。
もちろん全然ムードなんて作らなかったし、梨玖がそれ目当てで来たとはいっても今のはなんの脈絡もないキスだった。
しかしだ。昨日今日付き合い出したばかりの中学生カップルじゃない。いや、今時の中学生ならキスぐらいばんばんやってるかもしれない。それ以上かも。
自分たちは高校生だ。付き合って半年。興味があるなら、もうちょっと協力的になってくれてもいいんじゃないのか。
キスだけなら遙紀は抵抗しない。なのでとりあえず、キスでその気にさせてみようと思った。それでその気になるならとっくの昔にそれなりの関係になっているはずだが。
肩に手を置き、再び口づけ、今度は気持ちよくなるキスをする。
遙紀は素直に口を開き、梨玖の舌を受け入れた。
まず最初にマヨネーズの味がした。
お互いの唾液が混じり、音を立てて糸を引いてどちらも口がべたべたになって、主導権を握っているはずの梨玖は、頭がぼうっとなり始めた。
いや、自分が気持ちよくなってどうする。まずは遙紀の思考を停止させないと。
「……ふ……んぁ……」
いつも梨玖を興奮させるその声は、時々息苦しそうに聞こえたりもする。ひょっとして、ただの息継ぎなのかもしれない。しかしキスを終えた後の遙紀の表情は妙に色っぽい。
いつもより長く遙紀の口の中を味わう。途中で梨玖のシャツを握ってきた遙紀の手が、すとんと下に落ちた。
そろそろいいかな?
梨玖はゆっくり口を離した。
「……あ……」
もうほとんど頭真っ白、という感じの顔で、遙紀が呟いた。
よし、残念がってるな。と梨玖は確信した。
「……遙紀」
言いながら、触れるだけのキスをした。
「ん……なに……?」
どうしてもっとしてくれないのかという響きが混じっていた。ような気がした。
「ヤらして」
ずばりストレート。
こうはっきり言えば、拒否は難しいだろう。と梨玖は考えた。
仮にも自分たちは恋人同士た。恋人というと、普通はそれなりのことをするわけだ。それなのに拒否するなんて、余程の事情があるか、あるいは相手のことをそれほど好きじゃないかだ。
余程の事情があるとは思えない。遙紀はいたって健康なはずだ。母親と同じ病気は持っていないと言っていたし、変な病気も持っていないはず。いや持っているわけない。行為に支障がある身体だとも考えにくい。
だったら。自分のことを好きじゃないのか?
確かに自分から告白した。遙紀の口から「好き」という言葉は聞いていない。自分が遙紀を好きなぐらいに、自分のことを好きでいてくれているという自信はない。だけど、そんなことは考えたくなかった。遊びで男とキスをするような女の子じゃないと思いたい。
プラトニックな関係のままなんて嫌だ。まったく手を出さないで、大事にしてやりたいんだ、なんてことをいう男なんて信じられない。
興味はある。身体的理由はない。自分を嫌いというわけでもない。なら別に……。
遙紀はうつろな目で梨玖を見た。
「……………………………………………………………………え?」
うわ。長っ。
恐竜並の伝達スピードだ。と梨玖は思った。それからやばい、と思った。
ぼうっとしてたはずの遙紀の目に、はっきりとした色が戻っていた。驚きに変わるのはあっという間だった。
「え、あ、な、な、なに、い……って……」
梨玖の手に、遙紀の緊張が伝わってきた。
「なにじゃないだろ。アレやろって言ってんだよ」
「ああああああれ、あれって……」
「お前それ、とぼけてんのか? 照れてんのか?」
「え、だ、だって、あの……」
遙紀はうろたえていた。見て判るほどに狼狽している。
「ま、まだそういうのってちょっと……」
「全然早くねぇよ。半年だぞ? みんな一ヶ月もすりゃやってるって」
「そ、そんなことないと思うけど……」
「んなことあるよ」
「で、でも、あたしはまだ──きゃ!」
遙紀が小さく悲鳴を上げた。梨玖が有無を言わせず担ぎ上げたのだ。
「ちょ、ちょっと、梨玖!?」
軽いとは言えない。身長一六〇ほどの遙紀の体重は、五〇キロあるかないかってぐらいだろうと思う。全然太っていないし、痩せてもいない。平均的体重なのだろうが、しかしプロレスラーでもない梨玖が抱き上げるにはやっぱり重い。
だが、たったの一メートルの距離だ。これくらい抱えられなくてどうする。
落とすように、ベッドの上に遙紀を投げ出した。また小さく悲鳴を上げた遙紀が起き上がらないうちに、その上にのしかかった。
「梨──」
何か文句を言いかけたんだろう遙紀が、梨玖の顔を見て黙った。
「……無理やりなんてしたくないんだよ。だから……」
「あ……あの……」
遙紀は困っていた。まだ拒否したいのか。
しかし、遙紀は一向に恥じらう様子を見せず、むしろ青ざめていた。梨玖を怖がっているという感じではない。
「……俺とするのが嫌なのか?」
「え……?」
「俺のこと好きじゃないのか?」
「そ、そんなこと言ってない……」
「じゃあなんで! そんなに嫌がるんだよ!」
遙紀は目を逸らした。後ろめたいような顔をして。
「お前……まさか、母親と同じ病気だとか……?」
どんな病気だったのか聞いてもどうせ判らないが、性行為で移るような病気なのか?
だが遙紀は首を振った。
「じゃあなんだよ!」
「……梨玖は……」
遙紀は目を逸らしたまま言った。
「……なんだよ」
「……前に誰かと付き合ってた?」
「は?……女と付き合うのは初めてだって前に言っただろ?」
「だったら……誰ともやったことないんでしょ?」
「当たり前……って、お前もしかして、俺が経験ないから不安だって言うのか?」
「……そうじゃなくて……」
何かを堪えるような顔で、遙紀は呟いた。
「あたし……初めてじゃないの」
「……は?」
初めてじゃない? なにが?
……アレが?
「あ、え? けど、お前も男いなかったって……」
そう言ってから気づいた。
堪えるような顔。それって、もしかして。
「……レイプされたとか?」
「──え!?」
大きく目を見開き、遙紀は梨玖の顔を見た。
「ち、違う! そういうことじゃなくて!」
「じゃ……エンコー?」
「そ、そんなことしないわよ!」
「じゃあなんだよ……男もいないのにどうやって……あ、自分で?」
遙紀の顔は赤くなった。
「違うってば!」
「なんなんだよ……」
「だ、だから……」
赤い顔が一気に青くなった。
「……付き合ってたわけじゃないんだけど……」
「好きでもない奴とやった……ってことか?」
「う、うん……あの、友達としては好きだったけど……」
梨玖は、遙紀の太股の上に座り込んだ。大きく息をつく。
……なんてこった。
俺が遙紀の最初の男になるんだとばっかり思ってたのに……。
全身の力が抜けた。勝手に幻想を持っていただけかもしれないけど、遙紀が好きでもない奴と簡単にするような……。
……あれ?
梨玖は疑問に思った。ただの友達とやるような女の子が、なんで自分とはしたがらないんだ?
「……梨玖?」
「へ?」
「……怒った?」
「は? いや……怒りはしないけど……」
遙紀は自分の所有物じゃない。怒る権利なんてない。が、かなりショックだ。
「……ごめんね」
「なんで謝るんだ?」
「だって……そんな軽い奴だなんて思われたくなかったの。あたしだって最初ぐらい好きな人としたかったの。でもお酒飲んでなにやったかなんて憶えてなくて……」
ああ、なるほど。俺とやったら処女じゃないってバレ……。
「──え、おい、ちょっと待て。酒!?」
半泣きしている遙紀は頷いた。
「お前、酒なんか全然飲めないだろ!?」
自慢じゃないが……いや、かなり自慢だが、梨玖は一升瓶を一気飲みできる。昔から母の晩酌に付き合わされ、今は新しい父の晩酌にも付き合う。
遙紀はみりんの匂いで酔っぱらう。うどん出汁を作るときはふらふらになっている。この前のバレンタインの時は、酒好きの梨玖のためにウィスキーボンボンを作ってくれたが、作った翌日に二日酔いになっていた。
「水だと思って飲んじゃったの」
「なんで……いや、そもそもその相手って誰だ? 俺の知ってる奴か?」
だとしたら、今度会ったとき殴りそうだが。
「たぶん知らないと思う……梨玖、長谷はせ中学でしょ?」
梨玖が一週間前まで住んでいた家はもっと西の方だ。遙紀とは別の中学。
「ああ……って、中学の同級生か?」
「まあそれはそうだけど……あの、幼なじみだったの」
「へ?……お前そんなのいたのか?」
「うん。うちの裏に住んでたんだけど、中学卒業してすぐ引っ越したの」
そう言えば、この家の裏には空き家がある。まだ比較的新しい家で、なんで買い手がつかないんだろうと思っていたが。
「で……そいつに酒飲まされて……?」
「え? そんなことする奴じゃないわよ……それより梨玖……」
「は?」
「……重いんだけど」
「へ、あ、ああ、わりい」
梨玖は素直に遙紀の上から退いた。二人でベッドの上に座り込む。
言ってしまって気が楽になったのか、今さら我慢する必要なくなったと思ったのか、遙紀の表情は平静とは言えないが、さっきよりは落ち着いてきたようだ。
「三年の時の正月にね、修祐しゅうすけ……って名前なんだけど、家に遊びに行ったの」
梨玖は再びショックを受けた。
自分以外の男の名前を、遙紀が呼び捨てにしてる。細かいことだと言われようが、ショックはショックだ。
「で、あの……おもち食べたのよ」
「……もち?」
「うん……喉に詰まらせちゃって……慌ててそこに置いてあったペットボトル飲んだの」
「……それが酒だったって?」
「だって……ミネラルウォーターの入れ物だったのよ? 水だって思うでしょ?」
「日本酒か?」
「たぶん……最初は判らなかったの。おもち流し込んでから、なんか頭くらくらしてきちゃって……修祐もおかしいなって言いながら飲んでたわ」
「匂いで判るだろ、普通!」
「あたしは匂いどころじゃなかったし、修祐って花粉症なの」
「……それ、春だろ? 正月って言わなかったか?」
「花粉っていうのは年中飛んでるわよ」
「そりゃまあ……んで?」
「えっと……あたしそのまま倒れちゃって……修祐もあんまり強い方じゃなくて……気がついたら、二人とも修祐の部屋にいたの」
「……部屋……」
信じられない。彼女の口から他の男の部屋にいたと告白されるなんて。幼なじみなら部屋に入ったことぐらい何度でもあるだろうけど。
「……頭痛くなって気がついたんだけど……その時……下着はいてなかったの。服は着てたんだけどブラジャーずれてたし……修祐が隣で寝てて……あの、その、ズボンも下着もはいてなかったから……」
「……あれが目に入った?」
「う、うん。あたし悲鳴上げちゃって……それで修祐も起きたんだけど、あいつも全然憶えてなくて……でも二人ともそんな恰好って、何かあったと思うでしょ?」
「……ない方が変だな」
不本意ながらもそう答えた。
何が悲しくて彼女の初体験を聞かなきゃいけないんだ? 相手は自分じゃないのに。
「で、でもね、二人とも憶えてないんだから何もなかったことにしようって……」
「男はいいけどさ、女の場合はそういうわけにはいかないんじゃねぇのか?」
「うん……あたし最初は忘れてたの。憶えてないんだから忘れるのなんて簡単だって思ってたの。でも、初めて梨玖にキスされたときに思い出したの。あたし、処女じゃないんだって……知られたらきっと嫌われると思って……」
「き、嫌うって……あ、あのなぁ……そりゃ気にしないっていったら嘘だけど、俺と知り合う前の話だろ? 昔の男のことなんて気にしてたらきりがないだろ?」
「……でも……あたし、梨玖が誰かと付き合ってたなんて聞いたら嫌だと思うな……」
なんていうセリフを聞いて、梨玖は思わず赤面した。
こ、こいつ、かなりトランスしてやがるな……。
これほど素直に遙紀が自分の気持ちを話したことなんてない。
「……あのな、遙紀」
肩を掴み、遙紀の顔を覗き込んだ。
「その時のことは全然憶えてないんだろ?」
「……うん」
「だったら、気持ち的にはホントにやったって感じはないんだろ?」
「……そうだけど……」
「じゃあ問題ないな。憶えてないのなんて数に入らない」
「……詭弁だと思う、それ」
「いーんだよ、なんでも」
そう言って、長いキスをした。
「……遙紀」
「ん……」
思考が飛んだらしい遙紀は、ぼうっと返事をした。
「俺のこと好きだよな?」
「……ん……」
なにか間があったように思うが。気にしないでおこう。
「じゃあ、いいよな?」
「ん……え?」
遙紀ははっとしたように梨玖を見た。
「今さら嫌だなんて言うなよ。好きな奴とやりたいって言っただろ? 俺だってそうなんだよ」
「……あ、で、でも……」
遙紀は照れた。完全に赤面した。それが可愛くて、意地悪なことを言いたくなった。
「そいつはよくて、俺は嫌なのか?」
「そ、そういう聞き方って……卑怯だと思う……」
「いーよ。卑怯でも鬼畜でもなんとでも呼べよ。遙紀に言われても平気だね」
「……なんかそれ、変態っぽいよ」
「かもな」
男なんてみんな変態の気があるんじゃないかと思う。
第1章 〈2〉へ
工藤修祐(くどう・しゅうすけ)
遙紀の幼なじみ。親の転勤で引っ越していた。
第1章 彼女の初体験の相手〈1〉
市立高鳥たかとり高校に通う梨玖は、この春から二年生になる。一年の時は遙紀と同じクラスだった。しかし今度は別のクラスの方がいいかもしれない。同棲か!と冷やかされずに済むからだ。
三月の末に入籍した母と新しい父は、梨玖の期待を裏切って新婚旅行には行かなかった。二人とも仕事がいっぱいで旅行どころじゃないらしい。
おいしいシチュエーションにありつけることなく、同居生活は一週間が過ぎた。
いくら頭では判っていても、彼女はやっぱり彼女であって、姉ではない。
最初から姉として会っていれば踏ん切りもつくかもしれない。しかし、初めて見たときから異性として意識してしまっているので、やっぱり家族とは思えない。
家の中をラフな恰好でうろつき回る遙紀を見るたびに、梨玖はびくびくしてしまう。
どきどきじゃなくてびくびく。
何に怯えているのかは、自分ではよく判らない。
嫌がっていたわりに、遙紀は平然と日々を過ごしている。そう見えるだけかもしれないが、母と同じ女だけに神経図太いのかもしれないと思う。
あと二日で新学期が始まるというその日。梨玖は重大なことに気づいた。
……宿題やってねぇ。
春休みといえど、高鳥高校では主要五教科の問題集が課題として出される。夏や冬に比べれば量的には少ないが、たった二日で出来るものではない。
自力では。
いい口実見つけたぞ、と梨玖はほくそ笑み、問題集とノートを抱えて部屋を出た。
中流階級の一戸建て。狭いながらもちょっとした庭があり、ガレージ付き。一階にはダイニングキッチンとリビング、バスルームとトイレ、八畳の両親の部屋。二階は六畳の部屋が二つ。広いベランダとトイレ。
ついこの間まで父娘二人だけの住まいだったにしては、ちょっと広すぎるような気がする。四人家族となった今でちょうどいい大きさだろう。最初から再婚する気があったんだろうか。しかし兄となった浩巳が大学を卒業して帰ってきたら、自分は追い出されてしまうのではないかとちょっと心配だ。
南側の部屋を出た梨玖は、北側の部屋の前で立ち止まる。
時間は昼を過ぎたところ。両親は二人揃って出版社へ出掛けた。夕方まで帰らない。
──おいしいシチュエーション、ゲット!
ガッツポーズをしてから、梨玖は大きく深呼吸した。
付き合い出して半年。数回この家に入ったことはある。遙紀の部屋にも入ったことがある。一番最初はさすがに緊張したが、そのあとは平常心でいられた。
しかし今は、初めて入ったときのようにどきどき、いや、びくびくしていた。
一時間ほど前に起きたばかりの梨玖は、母が用意していた朝食を食べ、そのあと部屋に戻った。ダイニングから二階に上がるには玄関前を通る。その時、遙紀の運動靴はあったような気がする。誘って出掛けようかと思っていたのだが、実に都合よく課題のことを思い出したのだ。遙紀が出ていった様子はない。ドアの開く音はしなかった。
意を決してドアをノックしようと右手を挙げ──
──がちゃっ! ごちぃんっ!
思いっきり顔面にドアがぶつかってきた。
「~~~~!!」
問題集とノートをばらまき、梨玖は鼻を押さえてうずくまった。
「……あれ? なにやってんの?」
変態を見るかのような遙紀の表情。梨玖は怒鳴った。
「なにじゃねぇだろ! 急に開けんな!」
「だ、だって、そんなところにいるなんて思わなかったんだもん。なにやってたの?」
「……いや、えーっと」
襲いに来たとは言えず、梨玖は困った。
「あ! 宿題! 写させてもらおうと思ってさ!」
「……なに、そのとってつけたような説明は?」
「……気のせいだ」
梨玖は冷や汗をかいた。
「あたし、お昼食べるんだけど。梨玖は?」
「は?……ああ、さっき起きて朝飯食ったばっかなんだ」
「じゃあ、いらないのね」
遙紀はさっさと階段を下りていった。
「あ、おい! いる! 食うよ!」
梨玖は慌てて後を追いかけた。
父娘二人暮らしだっただけに、遙紀は料理がうまい。今日の昼食はサンドイッチ。
……サンドイッチ?
作る手間がかかるのは判る。しかしだ。なんでサンドイッチなんだ? もーちょっと手作りっぽいもん食いてぇなぁ。
「宿題やるんでしょ?」
包丁を持って、遙紀が言った。鍋でゆで卵を作っている間に食パンの耳を切り落としている。ほかにも、ハムとかレタスとかトマトとか、野菜をいっぱい並べていた。
とってつけた説明を信用してくれてるわけか。実際、宿題はやらないといけないが。
優しさに感動していると、遙紀はゆで卵の殻むいて、と頼んできた。
喜んでお手伝いいたしますとも!などと言いながら、梨玖は鍋の湯を捨ててゆで卵を鷲掴みにした。
「──あっちぃ!」
梨玖はゆでたばかりの卵を床に落とした。
「もー。熱いに決まってるじゃない。お湯捨てたら水で冷やすのよ」
遙紀はまるっきり熱さを感じていないかのように素手で卵を広い、鍋に戻した。水を入れた鍋をテーブルの上に置く。
「すぐには冷めないからね。卵をね、ごろっと転がすの。そしたらむきやすいから」
「……へーい」
言われたとおりにごろっと転がし、殻をむく。
地道な作業を繰り返し、三つの卵を全部むき終えると、今度はみじん切りにしてと頼まれた。それが済むと、梨玖には手伝えることがなくなった。遙紀はてきぱきとサンドイッチを作り上げていく。
……うーん。実に家庭的な奴だ。
自分も母が仕事で忙しいときには、家事を手伝わされていた。だが料理はしなかった。
遙紀の動作に見惚れてから五分後。サンドイッチが出来た。コーヒーを入れて、二階に上がる。
廊下に散らかしっぱなしだった問題集とノートを回収し、遙紀の部屋に入った。
女の子らしい部屋というと、すぐにピンクのカーテンとかぬいぐるみを想像するが、遙紀の部屋にそんな物はない。モノトーンで統一されていて、テレビ、ベッド、机、タンス、ステレオ、本棚などがあるだけ。梨玖の部屋とあまり変わりない。一見すると男の部屋だ。だが遙紀がクールな性格をしているというわけでもない。部屋がクールなだけだ。
壁に立てかけられていたテーブルを部屋の中央に置き、昼食を載せて問題集とノートを広げる。
梨玖は遙紀の向かいではなく角を挟んだ隣に座った。これは別に意図してのことではなくて、教えてもらいやすいからだ。
といってもやっぱり、より近くにいると色々と考えてしまう。
長袖のTシャツに膝丈スカート。肩につくぐらいの髪は、バレッタで一つにまとめてある。白いうなじが目に飛び込む。
遙紀は美人だ。可愛いというより美人顔。目立たないが、整った顔立ちだ。それをいち早く見抜いてモーションかけた自分は偉いと思っていた。
一年の一学期は何とも思っていなかった。二学期になって一番面倒くさい体育委員に選ばれてしまった梨玖は、同じく選ばれてしまった遙紀と体育祭の準備で苦労した。何度か帰り道を一緒に歩いた。気さくな遙紀とは話しやすく、よく気のつく優しい奴だということを知って、次第に惹かれていった。
体育祭が終わると、体育委員の仕事なんてなくなる。口実がなくなって焦った梨玖は、思い切ってデートに誘った。お茶しないかと言っただけだが。遙紀はあっさりOKした。
初デート中に付き合ってくれと告白し、遙紀はやっぱりさらっとOKしてくれた。
それから半年。特に何の問題もなく、いい関係を続けている。とりあえずキスは済ませていた。が、それから先に進めない。
それっぽいムードになったかなーと思ったら、遙紀は突然なにかを思い出し、二人の間に漂った色気のある空気は霧散する。
遙紀はその手のことには奥手で、キスぐらいで照れる、なんてことはない。それなりに興味はあるらしいのだが、どうしてだかガードが堅い。
ひょっとして自分はムード作りがヘタなのかもしれない、と最近不安になる。
せっかく「一つ屋根の下」なんだから、ここらでそういう関係にならないと、男としてどうかと思う。
などと、遙紀のノートを写しながら、梨玖は勝手なことを考えていた。
「あのさぁ、梨玖?」
「──は!? なんだ!?」
サンドイッチをかじりながら顔を覗き込んできた遙紀にびびった。
「……なに、声ひっくり返してんの?」
「いや、別に。なんだ?」
「あのねぇ、おばさ……じゃなくて、お母さんってさ、父さんのどこが気に入ったんだと思う?」
「……それを俺に聞くか?」
「だって、自分の親のことなんだから判るでしょ?」
「判んねぇよ。特にお袋のことは」
単純明快な猪突猛進型母親だと思っていたのだが、再婚を決意するほど好きな男が出来たなんて、未だに信じられない。
「こっちこそ聞きたいんだけどな。おじ……親父って、お袋のどこがいいんだ?」
「そりゃ……あのパワフルさじゃないの?」
「……お前のお袋ってあんなんだったのか?」
「ううん。お花とお茶が趣味っていう大和撫子だったらしいけど」
遙紀も母親の記憶はほとんどないらしい。小学校に入ってすぐに亡くなったと聞いた。
「……親父って変な趣味に変わったんだな」
「お母さんも変よ」
「…………」
自分の親をけなし合うことに不毛を感じた。今はどちらもが両方の親なのだ。
「……でさぁ」
「なんだ?」
「……弟か妹が……出来るのかな?」
「……は?」
何が聞きたいのかと思えば。
兄貴がいるくせにまだ兄弟が欲しいのか? それとも女の兄弟が欲しいとか?
そう考えた梨玖だったが、遙紀の態度を見て、なんか違うらしいと気づいた。
遙紀の表情は、一言で言うとはにかんだ顔だった。
「……お前、なに考えてんだ?」
「え、だ、だって、ほら、まだお母さん若いし……産むでしょ、やっぱり……」
「そりゃまあ……やることやってりゃ出来るだろうけどな……」
……やること。
やるよな、やっぱ。あの親たちも。
母は三十七歳。新しい父は四十歳。まだ性欲はあるはずだよな、と思うが。
遙紀のその照れたような表情は、両親の性生活について考えてしまったからか、弟か妹が出来るかもしれないという期待からか。
やっぱりその手のことに疎いわけでも興味がないわけでも恥ずかしいわけでもないらしい。しかしだ。親の性生活なんてどうでもいい、というか考えたくもない。そんなことより、自分たちの進展について考えるべきだ。
どこか呆けたような顔で、遙紀はサンドイッチにかぶりついている。何を考えているのやら。親のことから自分たちのことへと思考が飛躍してくれてたらいいのだが。
「……遙紀」
「え?」
きれいな円形の歯形がついたサンドイッチを手にして、遙紀が振り向く。
梨玖は自分の口元を指差した。
「ついてる」
「え? ほんと?」
小さい子供みたいで恥ずかしいのか、遙紀はさっきとは違う照れ方で口元を拭おうとした。常套手段というのはうまくいく回数が多いから常套手段となるのだ。
口元を拭ってやる振りをして、梨玖は遙紀の頬に手を当て、自分の口で何もついていない遙紀の口をついばむ。
軽く触れただけで梨玖は離れた。当然これだけで終わるわけがない。真っ昼間だろうがなんだろうが、まったくなんの邪魔も入らないチャンスなんてそうそうない。一週間、同居してみて判った。一階に親がいると思うと、キスするのさえ、ためらわれてしまう。それどころかこの部屋に入るのも躊躇する。まだ他人だった時には、遙紀の父が家にいてもキスぐらい平気でしてたのに。
「……なに?」
突然何をするのかと聞きたいのだろうか。しかし梨玖にすれば突然じゃない。だいたいくすぼっていたスケベ心にさらに火をつけたのは遙紀の方だ。
ベッドは部屋の右手奥。梨玖の正面。やっぱり床の上はまずいだろうか。ベッドに上がった方がいいかな。などと考えながら梨玖はテーブルを押しのけ、再びキスを迫る。
「宿題やりに来たんじゃなかった?」
「……いいよ、あとで」
なんでこうなんだろうか、こいつは。
もちろん全然ムードなんて作らなかったし、梨玖がそれ目当てで来たとはいっても今のはなんの脈絡もないキスだった。
しかしだ。昨日今日付き合い出したばかりの中学生カップルじゃない。いや、今時の中学生ならキスぐらいばんばんやってるかもしれない。それ以上かも。
自分たちは高校生だ。付き合って半年。興味があるなら、もうちょっと協力的になってくれてもいいんじゃないのか。
キスだけなら遙紀は抵抗しない。なのでとりあえず、キスでその気にさせてみようと思った。それでその気になるならとっくの昔にそれなりの関係になっているはずだが。
肩に手を置き、再び口づけ、今度は気持ちよくなるキスをする。
遙紀は素直に口を開き、梨玖の舌を受け入れた。
まず最初にマヨネーズの味がした。
お互いの唾液が混じり、音を立てて糸を引いてどちらも口がべたべたになって、主導権を握っているはずの梨玖は、頭がぼうっとなり始めた。
いや、自分が気持ちよくなってどうする。まずは遙紀の思考を停止させないと。
「……ふ……んぁ……」
いつも梨玖を興奮させるその声は、時々息苦しそうに聞こえたりもする。ひょっとして、ただの息継ぎなのかもしれない。しかしキスを終えた後の遙紀の表情は妙に色っぽい。
いつもより長く遙紀の口の中を味わう。途中で梨玖のシャツを握ってきた遙紀の手が、すとんと下に落ちた。
そろそろいいかな?
梨玖はゆっくり口を離した。
「……あ……」
もうほとんど頭真っ白、という感じの顔で、遙紀が呟いた。
よし、残念がってるな。と梨玖は確信した。
「……遙紀」
言いながら、触れるだけのキスをした。
「ん……なに……?」
どうしてもっとしてくれないのかという響きが混じっていた。ような気がした。
「ヤらして」
ずばりストレート。
こうはっきり言えば、拒否は難しいだろう。と梨玖は考えた。
仮にも自分たちは恋人同士た。恋人というと、普通はそれなりのことをするわけだ。それなのに拒否するなんて、余程の事情があるか、あるいは相手のことをそれほど好きじゃないかだ。
余程の事情があるとは思えない。遙紀はいたって健康なはずだ。母親と同じ病気は持っていないと言っていたし、変な病気も持っていないはず。いや持っているわけない。行為に支障がある身体だとも考えにくい。
だったら。自分のことを好きじゃないのか?
確かに自分から告白した。遙紀の口から「好き」という言葉は聞いていない。自分が遙紀を好きなぐらいに、自分のことを好きでいてくれているという自信はない。だけど、そんなことは考えたくなかった。遊びで男とキスをするような女の子じゃないと思いたい。
プラトニックな関係のままなんて嫌だ。まったく手を出さないで、大事にしてやりたいんだ、なんてことをいう男なんて信じられない。
興味はある。身体的理由はない。自分を嫌いというわけでもない。なら別に……。
遙紀はうつろな目で梨玖を見た。
「……………………………………………………………………え?」
うわ。長っ。
恐竜並の伝達スピードだ。と梨玖は思った。それからやばい、と思った。
ぼうっとしてたはずの遙紀の目に、はっきりとした色が戻っていた。驚きに変わるのはあっという間だった。
「え、あ、な、な、なに、い……って……」
梨玖の手に、遙紀の緊張が伝わってきた。
「なにじゃないだろ。アレやろって言ってんだよ」
「ああああああれ、あれって……」
「お前それ、とぼけてんのか? 照れてんのか?」
「え、だ、だって、あの……」
遙紀はうろたえていた。見て判るほどに狼狽している。
「ま、まだそういうのってちょっと……」
「全然早くねぇよ。半年だぞ? みんな一ヶ月もすりゃやってるって」
「そ、そんなことないと思うけど……」
「んなことあるよ」
「で、でも、あたしはまだ──きゃ!」
遙紀が小さく悲鳴を上げた。梨玖が有無を言わせず担ぎ上げたのだ。
「ちょ、ちょっと、梨玖!?」
軽いとは言えない。身長一六〇ほどの遙紀の体重は、五〇キロあるかないかってぐらいだろうと思う。全然太っていないし、痩せてもいない。平均的体重なのだろうが、しかしプロレスラーでもない梨玖が抱き上げるにはやっぱり重い。
だが、たったの一メートルの距離だ。これくらい抱えられなくてどうする。
落とすように、ベッドの上に遙紀を投げ出した。また小さく悲鳴を上げた遙紀が起き上がらないうちに、その上にのしかかった。
「梨──」
何か文句を言いかけたんだろう遙紀が、梨玖の顔を見て黙った。
「……無理やりなんてしたくないんだよ。だから……」
「あ……あの……」
遙紀は困っていた。まだ拒否したいのか。
しかし、遙紀は一向に恥じらう様子を見せず、むしろ青ざめていた。梨玖を怖がっているという感じではない。
「……俺とするのが嫌なのか?」
「え……?」
「俺のこと好きじゃないのか?」
「そ、そんなこと言ってない……」
「じゃあなんで! そんなに嫌がるんだよ!」
遙紀は目を逸らした。後ろめたいような顔をして。
「お前……まさか、母親と同じ病気だとか……?」
どんな病気だったのか聞いてもどうせ判らないが、性行為で移るような病気なのか?
だが遙紀は首を振った。
「じゃあなんだよ!」
「……梨玖は……」
遙紀は目を逸らしたまま言った。
「……なんだよ」
「……前に誰かと付き合ってた?」
「は?……女と付き合うのは初めてだって前に言っただろ?」
「だったら……誰ともやったことないんでしょ?」
「当たり前……って、お前もしかして、俺が経験ないから不安だって言うのか?」
「……そうじゃなくて……」
何かを堪えるような顔で、遙紀は呟いた。
「あたし……初めてじゃないの」
「……は?」
初めてじゃない? なにが?
……アレが?
「あ、え? けど、お前も男いなかったって……」
そう言ってから気づいた。
堪えるような顔。それって、もしかして。
「……レイプされたとか?」
「──え!?」
大きく目を見開き、遙紀は梨玖の顔を見た。
「ち、違う! そういうことじゃなくて!」
「じゃ……エンコー?」
「そ、そんなことしないわよ!」
「じゃあなんだよ……男もいないのにどうやって……あ、自分で?」
遙紀の顔は赤くなった。
「違うってば!」
「なんなんだよ……」
「だ、だから……」
赤い顔が一気に青くなった。
「……付き合ってたわけじゃないんだけど……」
「好きでもない奴とやった……ってことか?」
「う、うん……あの、友達としては好きだったけど……」
梨玖は、遙紀の太股の上に座り込んだ。大きく息をつく。
……なんてこった。
俺が遙紀の最初の男になるんだとばっかり思ってたのに……。
全身の力が抜けた。勝手に幻想を持っていただけかもしれないけど、遙紀が好きでもない奴と簡単にするような……。
……あれ?
梨玖は疑問に思った。ただの友達とやるような女の子が、なんで自分とはしたがらないんだ?
「……梨玖?」
「へ?」
「……怒った?」
「は? いや……怒りはしないけど……」
遙紀は自分の所有物じゃない。怒る権利なんてない。が、かなりショックだ。
「……ごめんね」
「なんで謝るんだ?」
「だって……そんな軽い奴だなんて思われたくなかったの。あたしだって最初ぐらい好きな人としたかったの。でもお酒飲んでなにやったかなんて憶えてなくて……」
ああ、なるほど。俺とやったら処女じゃないってバレ……。
「──え、おい、ちょっと待て。酒!?」
半泣きしている遙紀は頷いた。
「お前、酒なんか全然飲めないだろ!?」
自慢じゃないが……いや、かなり自慢だが、梨玖は一升瓶を一気飲みできる。昔から母の晩酌に付き合わされ、今は新しい父の晩酌にも付き合う。
遙紀はみりんの匂いで酔っぱらう。うどん出汁を作るときはふらふらになっている。この前のバレンタインの時は、酒好きの梨玖のためにウィスキーボンボンを作ってくれたが、作った翌日に二日酔いになっていた。
「水だと思って飲んじゃったの」
「なんで……いや、そもそもその相手って誰だ? 俺の知ってる奴か?」
だとしたら、今度会ったとき殴りそうだが。
「たぶん知らないと思う……梨玖、長谷はせ中学でしょ?」
梨玖が一週間前まで住んでいた家はもっと西の方だ。遙紀とは別の中学。
「ああ……って、中学の同級生か?」
「まあそれはそうだけど……あの、幼なじみだったの」
「へ?……お前そんなのいたのか?」
「うん。うちの裏に住んでたんだけど、中学卒業してすぐ引っ越したの」
そう言えば、この家の裏には空き家がある。まだ比較的新しい家で、なんで買い手がつかないんだろうと思っていたが。
「で……そいつに酒飲まされて……?」
「え? そんなことする奴じゃないわよ……それより梨玖……」
「は?」
「……重いんだけど」
「へ、あ、ああ、わりい」
梨玖は素直に遙紀の上から退いた。二人でベッドの上に座り込む。
言ってしまって気が楽になったのか、今さら我慢する必要なくなったと思ったのか、遙紀の表情は平静とは言えないが、さっきよりは落ち着いてきたようだ。
「三年の時の正月にね、修祐しゅうすけ……って名前なんだけど、家に遊びに行ったの」
梨玖は再びショックを受けた。
自分以外の男の名前を、遙紀が呼び捨てにしてる。細かいことだと言われようが、ショックはショックだ。
「で、あの……おもち食べたのよ」
「……もち?」
「うん……喉に詰まらせちゃって……慌ててそこに置いてあったペットボトル飲んだの」
「……それが酒だったって?」
「だって……ミネラルウォーターの入れ物だったのよ? 水だって思うでしょ?」
「日本酒か?」
「たぶん……最初は判らなかったの。おもち流し込んでから、なんか頭くらくらしてきちゃって……修祐もおかしいなって言いながら飲んでたわ」
「匂いで判るだろ、普通!」
「あたしは匂いどころじゃなかったし、修祐って花粉症なの」
「……それ、春だろ? 正月って言わなかったか?」
「花粉っていうのは年中飛んでるわよ」
「そりゃまあ……んで?」
「えっと……あたしそのまま倒れちゃって……修祐もあんまり強い方じゃなくて……気がついたら、二人とも修祐の部屋にいたの」
「……部屋……」
信じられない。彼女の口から他の男の部屋にいたと告白されるなんて。幼なじみなら部屋に入ったことぐらい何度でもあるだろうけど。
「……頭痛くなって気がついたんだけど……その時……下着はいてなかったの。服は着てたんだけどブラジャーずれてたし……修祐が隣で寝てて……あの、その、ズボンも下着もはいてなかったから……」
「……あれが目に入った?」
「う、うん。あたし悲鳴上げちゃって……それで修祐も起きたんだけど、あいつも全然憶えてなくて……でも二人ともそんな恰好って、何かあったと思うでしょ?」
「……ない方が変だな」
不本意ながらもそう答えた。
何が悲しくて彼女の初体験を聞かなきゃいけないんだ? 相手は自分じゃないのに。
「で、でもね、二人とも憶えてないんだから何もなかったことにしようって……」
「男はいいけどさ、女の場合はそういうわけにはいかないんじゃねぇのか?」
「うん……あたし最初は忘れてたの。憶えてないんだから忘れるのなんて簡単だって思ってたの。でも、初めて梨玖にキスされたときに思い出したの。あたし、処女じゃないんだって……知られたらきっと嫌われると思って……」
「き、嫌うって……あ、あのなぁ……そりゃ気にしないっていったら嘘だけど、俺と知り合う前の話だろ? 昔の男のことなんて気にしてたらきりがないだろ?」
「……でも……あたし、梨玖が誰かと付き合ってたなんて聞いたら嫌だと思うな……」
なんていうセリフを聞いて、梨玖は思わず赤面した。
こ、こいつ、かなりトランスしてやがるな……。
これほど素直に遙紀が自分の気持ちを話したことなんてない。
「……あのな、遙紀」
肩を掴み、遙紀の顔を覗き込んだ。
「その時のことは全然憶えてないんだろ?」
「……うん」
「だったら、気持ち的にはホントにやったって感じはないんだろ?」
「……そうだけど……」
「じゃあ問題ないな。憶えてないのなんて数に入らない」
「……詭弁だと思う、それ」
「いーんだよ、なんでも」
そう言って、長いキスをした。
「……遙紀」
「ん……」
思考が飛んだらしい遙紀は、ぼうっと返事をした。
「俺のこと好きだよな?」
「……ん……」
なにか間があったように思うが。気にしないでおこう。
「じゃあ、いいよな?」
「ん……え?」
遙紀ははっとしたように梨玖を見た。
「今さら嫌だなんて言うなよ。好きな奴とやりたいって言っただろ? 俺だってそうなんだよ」
「……あ、で、でも……」
遙紀は照れた。完全に赤面した。それが可愛くて、意地悪なことを言いたくなった。
「そいつはよくて、俺は嫌なのか?」
「そ、そういう聞き方って……卑怯だと思う……」
「いーよ。卑怯でも鬼畜でもなんとでも呼べよ。遙紀に言われても平気だね」
「……なんかそれ、変態っぽいよ」
「かもな」
男なんてみんな変態の気があるんじゃないかと思う。
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