小説(転載) 『もう一つの兄妹』
近親相姦小説
『もう一つの兄妹』
御坂香苗みさかかなえは他人の評価を受けるに、『元気な子』であるらしかった。他ほかには、『純真な』『気の強い』『曲がろうにも曲がれない』という評価もあった。
昔からの評価は、今でもあまり変わらない。流石さすがに、男の子に間違われることはなくなったが。
この春、無事に高校を卒業した。短大生活にも慣れはじめ、高校時代に陸上をやるには邪魔だったので短くしていた髪も長くなってきた頃だった。
彼女には、母と兄がいた。父親は彼女が若い頃他界して、家族と呼べる人物はその二人だけだった。
気っ風の良い母親は時折切れることもあったが、おおよそ良い母で、彼女達兄妹をここまで育ててきた。
兄、紀泰のりやす。香苗にとっては『兄貴』。歳が八つも離れているため、小さい頃は先生であり、仕事で忙しい唯一の親の代わりでもあった。頭の良い兄は昔は病弱だったが、それでも彼女を守ってくれる存在だった。
その二人が事故にあった。
兄の運転する車に、信号を無視したトラックが横から突っ込んだのだ。
香苗は運良く、その場に居合わせなかった。しかし、真横からぶつけられ、運悪くその側にいた母は即死。兄も、意識不明の重体になった。
香苗は、母の亡骸なきがらを見ることは出来なかった。
▼
「兄貴……」
香苗は兄に声を掛ける。兄は答えない。
事故にあった日から、彼は香苗の、誰の問いにも答えることはなかった。
今、香苗と紀泰は二人で家族が住んでいたアパートの一室にいた。駆落ち同然に結ばれた両親には親戚と呼べる者はおらず、兄妹二人で、実際には香苗一人で、暮らしていくしかなかった。幸いにも、慰謝料や保険金のおかげで、食べるのに困ることはなかったのだが。
「兄、貴……」
香苗は車椅子の上でぼうっとしている兄の頬を撫でた。香苗の兄は、香苗が触れたことにも気付かないようにただ依然そこにいるだけの存在だった。
香苗は、兄の症状について医師から何度か聞くことはあったが、憶えることは出来なかった。
彼女が理解できたのは、植物人間の一歩手前のような状態であると言うことだけだった。元に戻ることはあるだろうが、それが明日なのか、十年先なのかは分からないと言うことだ。
彼女の兄は怪我けがが完治した今でも、彼女の元へと帰ってきてはくれなかったのだ。
「兄貴……」
香苗は兄、紀泰の体を抱き締めた。随分伸びた髪が、首筋をくすぐった。
兄と母が事故に遭ってから休学し、ずっと兄の世話をしていた。もうどのくらい兄と二人きりだったのだろう。
初めは寂しいだけだった。母が死に、兄も物言わぬ身になり、一人で事故の処理や、警察、行政などへの手続き。初めてのこと、今まで考えもしなかった一人で生きていくための手続きをしているうちに、寂しさを実感していく。
一人暮らしをして寂しいとは根本的に違う。
父が死に、母も死に、兄までもずっとこのままであったら、自分はどうなってしまうのだろう。家族がいなくなるのがこんなにも寂しいことだとは思わなかった。
多分、兄を病院に預けて短大へ通い続けるのが正しい選択なのだろうが、しかし、香苗にはそれが出来なかった。まるで兄を見捨てるような気がしたのだ。それは、彼女にとって、一番寂しいことだった。
だから、母と兄の匂いの残るこの部屋で兄の療養をさせることを選んだ。
だが、その寂しさは、いつしか形を変えていった。
普通なら消えて行くはずの寂しさは、形を変え、彼女の心に傷を付けた。
「兄貴」
香苗は兄を抱く腕に力を込めた。
怖かった。
一人でいる事がとても怖かった。だから兄の体に縋すがる。兄が元に戻ることを望む。そしてまた孤独への恐怖を強めていく。
彼女は、自分が悪循環の中にいることに気付いていなかった。
兄の体は暖かかった。
もし、兄貴がこのまま物言わぬままだったら、私はこうして兄貴の存在を確かめて生きていこう。
香苗はそう思った。
まだ、香苗は一人で生きて行けるほど、強くはなかったのだ。
▼
「おはよう、兄貴」
香苗はいつもの時間に兄を起こしに来た。
部屋をノックし、入り、そのいつものセリフを言う。毎朝、そうしてきた。そしていつも返事はない。部屋では兄がベッドの上で、何も見ない瞳で天井を見つめているだけだ。
だが、その日は違った。
「ああ、おはよう」
兄はすでに起きて、着替えの途中だった。
その光景に、香苗は硬直する。うれしさも、驚きもなく、ただいつもと違う光景に固まった。どちらの感情も、香苗の神経で感知できなくなる程、大きかった。
「……悪いけど、着替えが終わるまで、外で待っていてくれないかな?」
紀泰は苦笑まじりに言った。妹はその言葉に顔を真っ赤にして、部屋に入りかけたままの体をしずしずと引っ込めていく。
「あ、そうだ。香苗」
「……?」
「迷惑、かけたね」
紀泰は頭を掻かきながら言った。
兄がよく、失敗したときに見せるその仕種しぐさが彼女を正常な感覚に戻した。
目に涙が溜まっていく。顔が嬉しさのあまりぐしゃぐしゃになる。体が震え始める。
気が付いたら、抱き付いて泣いていた。
やっと、やっと香苗は兄が戻ってきたことを実感した。
▼
紀泰は、自分の胸で泣く妹を強く抱き締めた。
事故に遭ってから今までのことを紀泰は夢の中のようにぼんやりと憶えていた。その記憶から、自分がどうなっていたのか、香苗が自分に尽くしてくれたことを思い出していた。
この妹は、自分の大事な妹だった。
今まで、一緒にいてくれた分、自分は一緒にいてあげたかった。
それだけではなかった。
自分に出来ることなら、なんでも、この妹にしてあげたかった。愛いとおしかったのだ。自分でも信じられないほど。
「ありがとう、香苗」
その言葉に、香苗は首を振るしかできなかった。
ひとしきり、兄の胸で泣いた香苗はぽつりぽつりと口を開いた。
「これからはずっと、一緒にいよう、兄貴。もう、何処にも行かないで」
本当はもっと色々なことを喋りたかった。兄と久しぶりに話をしたかった。しかし、もうこれ以上喋ることは出来そうになかった。
「ご飯にしよう。準備、出来ているんだろう?」
香苗は頷いた。
▼
それから、二人は日常生活に戻っていった。
母親がいなくなったため、大変な生活ではあったが、二人とも完全に事故から立ち直った。
紀泰は、職場に復帰した。事故前には多かった休日出勤を減らしたが、それ以外はその仕事ぶりに変わることはなく、完全復帰を同僚や上司から喜ばれた。
香苗は、休学していた短大に戻った。休学中の講義や話題には付いていけないこともあったが、元々友達付き合いが良かったため、助けてくれる友達も多く、おかげで苦労は最小限だった。
兄も妹も、事故前と何ら変わったことはないように思えた。少なくとも、傍目はためには。
しかし、あの事故は確実に、二人の内面を変えていた。
▼
紀泰と、香苗は二人でテレビ画面を見つめていた。テレビの中では、レンタルしてきた映画がクライマックスを迎えようとしていた。
ソファーに腰掛ける自分の膝に、寄り掛かるようにして画面を見つめる妹を、紀泰は映画そっちのけで見つめた。
事故以来、兄妹は無意識に、香苗は兄に触れることが、紀泰は妹を見つめることが、多くなった。
「映画を見るときは、まわりを暗くしておいた方が雰囲気出るからね」
そう言って、妹は照明を常夜灯にした。暗くなった部屋は、画面からの光を受ける妹を輝かせた。
そんな妹を見ていると、紀泰の心に再び黒い欲望が沸き起こる。
抱き締めたい。
事故の後、妹を見る度、そんな強い思いに捕らわれる。
妹を抱き締めて、その華奢な体を感じたかった。
妄想は止まらない。
紀泰は、これが事故の後遺症であると思っていた。実際はどうなのか分からないが、これを後遺症と呼ぶのは馬鹿げていた。しかし、そうしてでもおかないと、自分がおかしくなってしまいそうだったのだ。
香苗が身じろぎをした。その動きで紀泰は我に返る。見ると、妹はうつらうつらと夢と現実を行き来していた。
相変わらず、妹は兄に寄り掛かったままだった。
「眠い?」
紀泰は、自分の妄想を振り切るためにも、妹に問いかけた。香苗は声を掛けられると、二三度目をこする。
「……うん」
しかし、それだけで眠気は去らないのか、まだ眠そうにしていた。
「布団、敷いておくよ」
そう言って急いで立ち上がろうとする兄を、妹は引き留めた。
「ううん。後少しで映画も終わるから、いい」
そう言ってまた兄の体に身を寄せる。そしてまた数分もしないうちに眠り始めた。
紀泰は、香苗の頭を撫でた。そのままソファーから降りて、妹の肩を抱いて引き寄せる。映画はいつの間にか終わり、画面は青で埋められていた。
紀泰は妹をゆっくりと引き寄せ、胸の中に収めた。
▼
以来、紀泰の香苗への想いは日に日に強くなっていった。
夢の中で、妹を犯すことすらあるようになっていた。
だが、事故以来、ますます二人でいることが多くなった妹は、紀泰のそんな想いには気付いていない様だった。
紀泰も、自分を全面的に信頼している妹を二度と悲しませたくないため、その想いをひた隠しにしていた。
次第に、紀泰はその思いを断ち切るためにも、妹から離れていった。そして、離れるたびに、妹への想いは募っていく。
そんな紀泰を、香苗がよそよそしいと感じるのは、当たり前だった。
▼
香苗は最近、兄の様子がおかしいことに気が付いた。何故か、自分を避けているようにも思える。
「兄貴最近、帰りが遅いけど、ちゃんとご飯食べてる?」
朝。兄の早めの出勤を見送るのは、香苗の日課だった。
「ああ」
素っ気ない様子で、兄は答えた。
最近はいつもこうだった。香苗には、また、兄が離れて行ってしまうようにも思えた。
『よし!』
香苗は決心した。
「兄貴、今日は一緒にご飯食べよう!」
「?」
紀泰は、妹の突然の提案に驚く様子もなかった。妹の『突然』はいつものことだったからだ。
そんな兄の目の前で、香苗は手を叩く。この突然は流石の紀泰も驚いたらしい。
「そんなローテンションじゃ、いつもまともな物食べてないでしょ! いいから今日は早く帰ってきて! 分かった?」
妹の剣幕に、兄はたじろぎ、頷くことしかできなかった。
「よし、決まり。オイシイもの作っておくから、さっさとお仕事行って、さっさと帰ってきてね。行ってらっしゃい!」
そう、兄に反論する余地も与えずに捲し立てると、兄の背中を押して家から追い出した。バタンと扉が閉じられる。
しばらく唖然あぜんとしていた兄は苦笑すると、そのまま駅へと歩き出した。
▼
兄の帰りは遅かった。食卓の上では、冷めてしまった料理が並べられていた。
「兄貴……」
そう呟いて、自分が寂しいと感じていることに気が付き、慌てて首を振る。
何が寂しいのか。兄はちゃんと帰りが遅れると連絡を入れてきたし、前みたいに話せなくなったわけではない。
第一、何故そんなに寂しいのか?
――兄貴がいないからだ。
自らの心がそう即答した。
香苗は、その答えに愕然がくぜんとした。
どうして?
その答えは薄々分かっていた。
好きなのだ、兄貴が。
香苗はもう一度首を振った。それで、その想いを振り切った。
彼女の想いは、それで何とかなる程度だった。まだこの段階では。
▼
紀泰は、普段こなす残業もせずにいつもよりも早く上がった。
しかし、足の向かう先は家ではなく、あまり来ない飲み屋に向かっていた。妹の携帯にメールで帰宅が遅れると入れておいた。
紀泰は、自分の妹への想いがもう普通ではないことを知っていた。同時に、もう押さえられないことも。
酒を飲んだ。
あまり飲み慣れていない酒は苦く感じられたが、それでも飲んだ。
自分はどうすればよいのか。
決まっている。この気持ちを抑え、おくびにも出さず、妹が誰か良い男と結婚するまで過ごすことだ。だがそれはもう無理だった。
では、それ以外の方法ではどうなのか。自分が妹の前から去ることか。誰かと結婚でもして?
どれも駄目なような気がした。自分が生きている限り、妹への想いは消えそうにない。そして、この想いがある限り、いつか妹は傷つく。
いっそ、死のうか。
それも駄目だ。
紀泰が事故にあったとき、香苗がどんなに悲しんだか、紀泰自身が良く知っていたからだ。もしこれで自分が死んだら、妹はどうなるか分からない。
どん、と、お猪口ちょこを置いた。かなり酔いが回っている。
ではもう、妹を自分の物にするしかないではないのか?
紀泰は自虐的に笑った。
『いっそ、そうして、妹に嫌われた方がいい』
妹を愛する兄は、そう思った。
▼
ドアが開く音がした。
「兄貴?」
「ただいま」
香苗の問いかけに紀泰はそう答えた。妹は席を立つと、兄を出迎えるために、玄関へ向かった。
「兄貴、どうしたの?」
兄は顔を真っ赤にして酔っていた。普段酒を飲まない兄の、酔った姿は珍しかった。
「いや、ちょっとね、っと」
千鳥足で歩く兄は壁にぶつかったりと大変だった。見ていられず、香苗は紀泰の腕を取って肩を貸した。
「ごめん」
「いいよ、このぐらい。あたしだって同じ様な事、あったし」
兄妹は、ゆっくりリビングへと戻る。いくら兄が華奢きゃしゃな方だといっても、香苗の細腕には荷が重すぎた。なんとかソファーまで辿たどり着き、兄をそこへ寝かそうとしたが、ソファーに足を引っかけた兄が転倒し、それに引きずられる形で、妹も床に転がった。
いい音がした。
紀泰は背中に鈍い痛みを感じていた。転がるように倒れたため、そんなに酷い痛みではなかった。それよりも、彼にとって、妹の方が心配だった。
「いたた」
紀泰の腕の中で、香苗が言った。紀泰は倒れる際、香苗を庇かばうように抱き締めたのだ。
「大丈夫?」
「も~。兄貴は結構鈍くさいんだから、こんなに酒飲んだらダメ! 決定! 二度と飲むな! ……何笑ってんの?」
紀泰は笑っていた。久しぶりに妹の憎まれ口を聞いたからだ。それが嬉しかったのだ。
「も~。兄貴、起きるから、放してよ」
それを聞いて、紀泰は香苗を抱き締める腕に力を込めた。
「コラ、兄貴。ふざけないの」
そう言いながら、香苗の顔も赤くなっていく。藻掻もがいて兄から逃れようとするが、それは一向に叶かなわない。
そのうち、頭を後ろから押さえられると、一気に兄の方に引き寄せられた。今、香苗の目の前に、紀泰の顔があった。
「大好きだよ、香苗。愛してる」
最大限赤くなっていた妹の顔が、さらに赤くなった。兄はそれを楽しんでいた。
しかし、妹はそれが冗談では済まない要素を持っていることを感じていた。
これまでの兄と妹の関係を続けるためにも、ここは嫌でも冗談で終わらせなければならない。
近親相姦きんしんそうかんなんて、惨めすぎる。
それに、万が一このまま求められたら、彼女はその要求に拒むことが出来ないと分かっていた。拒んだ場合、それは、兄との決別だ。今の香苗は紀泰の認識より自分の弱さを認識していた。
一人では駄目だ。一人で生きていくことは出来ない。
今の彼女はそう思っていた。
「ば、ば、馬鹿兄貴! 告白の相手が間違ってるよ!」
妹はそう言って兄の胸を何度も叩いた。しかし、その腕は後ろからひょいと捕まれて動かすことが出来なくなった。
「間違ってない」
目の前の兄は真面目な顔でそう言った。
「う、嘘だよ。兄貴、酔っぱらって、あたしのことをからかってるんだ」
「からかってなんか、いない」
「じゃあ、明日! 明日酔いが醒めてから言い直して。そうでなきゃ信じない」
「馬鹿。こんな事、素面しらふじゃ言えないよ」
香苗は呻いた。
「愛している、香苗。香苗が僕をどう思っていても、僕は香苗を愛してる」
そう言いながら、紀泰は妹のことを強く抱き締めた。
香苗は泣いた。顔がくしゃくしゃになる。妹は泣く時は、そうなる。紀泰は、そんな妹も好きだった。
だから、妹に嫌われたかった。
▼
香苗は力を込めて目をつぶった。
『駄目だ。駄目だよ兄貴。そんなこと言われたら、あたしは駄目になる!』
甘えては駄目だ。
今の彼女には、耐え難い、一人でいる事への恐怖があった。兄への、日に日に大きくなっていく思慕の情もあった。
だが、兄妹で結ばれるわけには行かないのだ。
香苗は全ての力を使って、体を兄から引き剥がした。
その瞬間、兄と視線が混じり合う。
その時の兄の表情を考えずに走った。自室に駆け込み、鍵をかける。扉に寄り掛かり、荒い息のままで、しばらくそうしていた。部屋の中は暗い。
静寂。
恐ろしいぐらい静かだった。香苗は兄が扉を破って自分を襲うのではないかと思った。すぐにその考えを打ち消したが。
兄はそんなことをする人間ではないことを良く知っている。
でも、もしそうなったら?
『あたし、あたし……!』
目を閉じる。兄を世話して見覚えた兄の体。触れ合った体が覚えた兄の体。あの体が自分を抱き締めたら? あの体と一つになれたら? 兄と思う存分、心から愛し合えたら?
どんなに、ドンナニ気持チガイインダロウ。
どん!
大きな音と共に、彼女のおかしくなった思考が砕け散った。バラバラになった思考は正常な方向性をもってまとまる。
自分はなんて事を考えていたんだろう!
香苗は勢い良く起きあがると、ベッドの中に潜り込んで丸まった。
▼
無事、妹に嫌われた。
良かった。
これで良かった。
香苗は自分から離れていくだろう。あとは隙をみて自分がくたばるだけだ。
妹には大嫌いな兄の事など忘れて、自分の幸せを掴んでほしい。
そう思いつつも、妹を抱き締めた手は妹を忘れようとはしない。妹のぬくもりが染み込んだように手に残っていた。
手だけではない。匂いを嗅げば、妹の匂いを思い出すし、耳の奥には妹の声が、目をつぶれば妹の顔が浮かぶ。
痛い。
紀泰は、生まれて初めて、心も痛むと知った。
良心の呵責や、俗に言う『心が痛い』という痛みとは別の、体の怪我と同じ、痛み。本当に心が、まるで一部を切り落とされた体のように激痛を感じているのだ。
痛い。
痛みを我慢して、立ち上がる。その時テーブルの上にある、食事が目に入った。シチューとサラダをメインに、沢山の品目の料理が並んでいた。紀泰はこんなに食べるわけがないだろうと苦笑した。
今朝の妹の顔が甦る。
何で自分は早く帰ってきてやらなかったんだろう。
妹は自分をこんなにも思ってくれているのに!
紀泰は手近な壁を殴った。
香苗が愛しい。愛しい。何よりも愛しい。愛してる。かなえ。カナエ。香苗!
▼
香苗は、短大の講義の間、講師の話を聞くこともなく、窓の外を眺めていた。もっとも、講師の話を聞いていないのは香苗だけではなかったが。
このところ、講義に身が入っていない。
親しい友達は、どうしたことかと聞いてきたが、香苗はそれをはぐらかした。
理由が分からないわけではない。
自分がいやになるほど、それは良く分かっている。
それは兄の事だ。
あの日から、紀泰は部屋に閉じこもり仕事に行かなくなった。
兄妹二人が生きていくには十分なほどの資産はあったので、生活に困ることはない。
兄を心配する声も、初めのうちはあったが、それも次第になくなっていった。
香苗は思った。やはり、最後まで心配するのは家族なんだと。
「兄貴」
香苗は兄の部屋の前に食事を置きながら、部屋の主に声を掛けた。
「ここにご飯、おいておくよ。あたし、これから短大に行くから」
部屋からは声もしない。
もう一週間ほど兄の言葉を聞いていない。時折、兄が唸るような声を上げているのを夜に聞く。しかし、兄の言葉を聞くことはない。
「兄貴……」
扉に触れる。
寂しかった。そして寂しさは恐怖に変わる。香苗は孤独が恐怖になってしまうことが普通になってしまった。だから、それを紛らわすために短大に行く。
しかし、それでは根本的に解決しない。
『やはり、兄貴だ』
香苗はそう思った。
『私は、兄貴のことが好きだ。でもそれだけじゃないんだ』
思い出すだけでも、自分の体温が下がるような恐怖。それを感じないようにしてくれるのは、兄だけだ。兄が戻ってきてから、あの日までは、恐怖を感じることは一度もなかったからだ。
『怖いんだよ、兄貴。あたしは兄貴といないと』
普通に友達と話をしていたりすると、恐怖に苛まれることはない。しかし、それは紛らわされているだけだ。癒されているわけではない。その証拠に、一人になったとき、香苗は恐怖に襲われる。
一人でいると、怖い。
もうその方程式は、香苗の心に定着してしまった。例外は、兄。
兄だけが、恐怖を忘れさせる。癒してくれる。
『必要、なんだ』
講義は淡々と進む。その中で香苗は、虚ろな目で空を眺め続けていた。
▼
「兄貴。開けるよ」
扉に手をかけ、開ける。
てっきりかかっているものと思っていた鍵は無く、扉はいとも簡単に香苗を迎え入れた。
香苗には鍵をかけていたのは自分だった様に思えた。
部屋の中は、酷い有様だった。薄暗い中でも、元々整理されていた本や調度品が散乱しているのが分かる。その中に兄はいた。
「兄貴」
香苗は微笑んだ。
「……どうして入ってきた」
「じゃあ、どうして鍵をかけなかったの?」
「……なんで僕を嫌いにならない」
「……あたしも」
香苗は兄を抱き締めた。涙が出てくる。
「あたしも兄貴が好きだから」
すぐに強い力で抱き締められる。狂ったように名前を呼ぶ兄に、香苗も兄を呼んだ。
一つ名前を呼び合うたびに、自らの中にある毒のような、悪いものが抜けるような気がした。
兄妹は自分たちが危うい綱渡りをしていることを認識していた。
はじめに落ちそうになったのは、兄だ。それを助けようとしているのは妹。
でも結果的に、先に落ちたのは妹だった。そして、助ける者がいなくなれば、兄もロープから落ちるのは当たり前だった。
紀泰は、流れる妹の涙を舐め取った。香苗はその兄の舌を追い、それは自然に兄の口へと辿り着いた。
~完~
初稿:00/08/09
御坂香苗みさかかなえは他人の評価を受けるに、『元気な子』であるらしかった。他ほかには、『純真な』『気の強い』『曲がろうにも曲がれない』という評価もあった。
昔からの評価は、今でもあまり変わらない。流石さすがに、男の子に間違われることはなくなったが。
この春、無事に高校を卒業した。短大生活にも慣れはじめ、高校時代に陸上をやるには邪魔だったので短くしていた髪も長くなってきた頃だった。
彼女には、母と兄がいた。父親は彼女が若い頃他界して、家族と呼べる人物はその二人だけだった。
気っ風の良い母親は時折切れることもあったが、おおよそ良い母で、彼女達兄妹をここまで育ててきた。
兄、紀泰のりやす。香苗にとっては『兄貴』。歳が八つも離れているため、小さい頃は先生であり、仕事で忙しい唯一の親の代わりでもあった。頭の良い兄は昔は病弱だったが、それでも彼女を守ってくれる存在だった。
その二人が事故にあった。
兄の運転する車に、信号を無視したトラックが横から突っ込んだのだ。
香苗は運良く、その場に居合わせなかった。しかし、真横からぶつけられ、運悪くその側にいた母は即死。兄も、意識不明の重体になった。
香苗は、母の亡骸なきがらを見ることは出来なかった。
▼
「兄貴……」
香苗は兄に声を掛ける。兄は答えない。
事故にあった日から、彼は香苗の、誰の問いにも答えることはなかった。
今、香苗と紀泰は二人で家族が住んでいたアパートの一室にいた。駆落ち同然に結ばれた両親には親戚と呼べる者はおらず、兄妹二人で、実際には香苗一人で、暮らしていくしかなかった。幸いにも、慰謝料や保険金のおかげで、食べるのに困ることはなかったのだが。
「兄、貴……」
香苗は車椅子の上でぼうっとしている兄の頬を撫でた。香苗の兄は、香苗が触れたことにも気付かないようにただ依然そこにいるだけの存在だった。
香苗は、兄の症状について医師から何度か聞くことはあったが、憶えることは出来なかった。
彼女が理解できたのは、植物人間の一歩手前のような状態であると言うことだけだった。元に戻ることはあるだろうが、それが明日なのか、十年先なのかは分からないと言うことだ。
彼女の兄は怪我けがが完治した今でも、彼女の元へと帰ってきてはくれなかったのだ。
「兄貴……」
香苗は兄、紀泰の体を抱き締めた。随分伸びた髪が、首筋をくすぐった。
兄と母が事故に遭ってから休学し、ずっと兄の世話をしていた。もうどのくらい兄と二人きりだったのだろう。
初めは寂しいだけだった。母が死に、兄も物言わぬ身になり、一人で事故の処理や、警察、行政などへの手続き。初めてのこと、今まで考えもしなかった一人で生きていくための手続きをしているうちに、寂しさを実感していく。
一人暮らしをして寂しいとは根本的に違う。
父が死に、母も死に、兄までもずっとこのままであったら、自分はどうなってしまうのだろう。家族がいなくなるのがこんなにも寂しいことだとは思わなかった。
多分、兄を病院に預けて短大へ通い続けるのが正しい選択なのだろうが、しかし、香苗にはそれが出来なかった。まるで兄を見捨てるような気がしたのだ。それは、彼女にとって、一番寂しいことだった。
だから、母と兄の匂いの残るこの部屋で兄の療養をさせることを選んだ。
だが、その寂しさは、いつしか形を変えていった。
普通なら消えて行くはずの寂しさは、形を変え、彼女の心に傷を付けた。
「兄貴」
香苗は兄を抱く腕に力を込めた。
怖かった。
一人でいる事がとても怖かった。だから兄の体に縋すがる。兄が元に戻ることを望む。そしてまた孤独への恐怖を強めていく。
彼女は、自分が悪循環の中にいることに気付いていなかった。
兄の体は暖かかった。
もし、兄貴がこのまま物言わぬままだったら、私はこうして兄貴の存在を確かめて生きていこう。
香苗はそう思った。
まだ、香苗は一人で生きて行けるほど、強くはなかったのだ。
▼
「おはよう、兄貴」
香苗はいつもの時間に兄を起こしに来た。
部屋をノックし、入り、そのいつものセリフを言う。毎朝、そうしてきた。そしていつも返事はない。部屋では兄がベッドの上で、何も見ない瞳で天井を見つめているだけだ。
だが、その日は違った。
「ああ、おはよう」
兄はすでに起きて、着替えの途中だった。
その光景に、香苗は硬直する。うれしさも、驚きもなく、ただいつもと違う光景に固まった。どちらの感情も、香苗の神経で感知できなくなる程、大きかった。
「……悪いけど、着替えが終わるまで、外で待っていてくれないかな?」
紀泰は苦笑まじりに言った。妹はその言葉に顔を真っ赤にして、部屋に入りかけたままの体をしずしずと引っ込めていく。
「あ、そうだ。香苗」
「……?」
「迷惑、かけたね」
紀泰は頭を掻かきながら言った。
兄がよく、失敗したときに見せるその仕種しぐさが彼女を正常な感覚に戻した。
目に涙が溜まっていく。顔が嬉しさのあまりぐしゃぐしゃになる。体が震え始める。
気が付いたら、抱き付いて泣いていた。
やっと、やっと香苗は兄が戻ってきたことを実感した。
▼
紀泰は、自分の胸で泣く妹を強く抱き締めた。
事故に遭ってから今までのことを紀泰は夢の中のようにぼんやりと憶えていた。その記憶から、自分がどうなっていたのか、香苗が自分に尽くしてくれたことを思い出していた。
この妹は、自分の大事な妹だった。
今まで、一緒にいてくれた分、自分は一緒にいてあげたかった。
それだけではなかった。
自分に出来ることなら、なんでも、この妹にしてあげたかった。愛いとおしかったのだ。自分でも信じられないほど。
「ありがとう、香苗」
その言葉に、香苗は首を振るしかできなかった。
ひとしきり、兄の胸で泣いた香苗はぽつりぽつりと口を開いた。
「これからはずっと、一緒にいよう、兄貴。もう、何処にも行かないで」
本当はもっと色々なことを喋りたかった。兄と久しぶりに話をしたかった。しかし、もうこれ以上喋ることは出来そうになかった。
「ご飯にしよう。準備、出来ているんだろう?」
香苗は頷いた。
▼
それから、二人は日常生活に戻っていった。
母親がいなくなったため、大変な生活ではあったが、二人とも完全に事故から立ち直った。
紀泰は、職場に復帰した。事故前には多かった休日出勤を減らしたが、それ以外はその仕事ぶりに変わることはなく、完全復帰を同僚や上司から喜ばれた。
香苗は、休学していた短大に戻った。休学中の講義や話題には付いていけないこともあったが、元々友達付き合いが良かったため、助けてくれる友達も多く、おかげで苦労は最小限だった。
兄も妹も、事故前と何ら変わったことはないように思えた。少なくとも、傍目はためには。
しかし、あの事故は確実に、二人の内面を変えていた。
▼
紀泰と、香苗は二人でテレビ画面を見つめていた。テレビの中では、レンタルしてきた映画がクライマックスを迎えようとしていた。
ソファーに腰掛ける自分の膝に、寄り掛かるようにして画面を見つめる妹を、紀泰は映画そっちのけで見つめた。
事故以来、兄妹は無意識に、香苗は兄に触れることが、紀泰は妹を見つめることが、多くなった。
「映画を見るときは、まわりを暗くしておいた方が雰囲気出るからね」
そう言って、妹は照明を常夜灯にした。暗くなった部屋は、画面からの光を受ける妹を輝かせた。
そんな妹を見ていると、紀泰の心に再び黒い欲望が沸き起こる。
抱き締めたい。
事故の後、妹を見る度、そんな強い思いに捕らわれる。
妹を抱き締めて、その華奢な体を感じたかった。
妄想は止まらない。
紀泰は、これが事故の後遺症であると思っていた。実際はどうなのか分からないが、これを後遺症と呼ぶのは馬鹿げていた。しかし、そうしてでもおかないと、自分がおかしくなってしまいそうだったのだ。
香苗が身じろぎをした。その動きで紀泰は我に返る。見ると、妹はうつらうつらと夢と現実を行き来していた。
相変わらず、妹は兄に寄り掛かったままだった。
「眠い?」
紀泰は、自分の妄想を振り切るためにも、妹に問いかけた。香苗は声を掛けられると、二三度目をこする。
「……うん」
しかし、それだけで眠気は去らないのか、まだ眠そうにしていた。
「布団、敷いておくよ」
そう言って急いで立ち上がろうとする兄を、妹は引き留めた。
「ううん。後少しで映画も終わるから、いい」
そう言ってまた兄の体に身を寄せる。そしてまた数分もしないうちに眠り始めた。
紀泰は、香苗の頭を撫でた。そのままソファーから降りて、妹の肩を抱いて引き寄せる。映画はいつの間にか終わり、画面は青で埋められていた。
紀泰は妹をゆっくりと引き寄せ、胸の中に収めた。
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以来、紀泰の香苗への想いは日に日に強くなっていった。
夢の中で、妹を犯すことすらあるようになっていた。
だが、事故以来、ますます二人でいることが多くなった妹は、紀泰のそんな想いには気付いていない様だった。
紀泰も、自分を全面的に信頼している妹を二度と悲しませたくないため、その想いをひた隠しにしていた。
次第に、紀泰はその思いを断ち切るためにも、妹から離れていった。そして、離れるたびに、妹への想いは募っていく。
そんな紀泰を、香苗がよそよそしいと感じるのは、当たり前だった。
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香苗は最近、兄の様子がおかしいことに気が付いた。何故か、自分を避けているようにも思える。
「兄貴最近、帰りが遅いけど、ちゃんとご飯食べてる?」
朝。兄の早めの出勤を見送るのは、香苗の日課だった。
「ああ」
素っ気ない様子で、兄は答えた。
最近はいつもこうだった。香苗には、また、兄が離れて行ってしまうようにも思えた。
『よし!』
香苗は決心した。
「兄貴、今日は一緒にご飯食べよう!」
「?」
紀泰は、妹の突然の提案に驚く様子もなかった。妹の『突然』はいつものことだったからだ。
そんな兄の目の前で、香苗は手を叩く。この突然は流石の紀泰も驚いたらしい。
「そんなローテンションじゃ、いつもまともな物食べてないでしょ! いいから今日は早く帰ってきて! 分かった?」
妹の剣幕に、兄はたじろぎ、頷くことしかできなかった。
「よし、決まり。オイシイもの作っておくから、さっさとお仕事行って、さっさと帰ってきてね。行ってらっしゃい!」
そう、兄に反論する余地も与えずに捲し立てると、兄の背中を押して家から追い出した。バタンと扉が閉じられる。
しばらく唖然あぜんとしていた兄は苦笑すると、そのまま駅へと歩き出した。
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兄の帰りは遅かった。食卓の上では、冷めてしまった料理が並べられていた。
「兄貴……」
そう呟いて、自分が寂しいと感じていることに気が付き、慌てて首を振る。
何が寂しいのか。兄はちゃんと帰りが遅れると連絡を入れてきたし、前みたいに話せなくなったわけではない。
第一、何故そんなに寂しいのか?
――兄貴がいないからだ。
自らの心がそう即答した。
香苗は、その答えに愕然がくぜんとした。
どうして?
その答えは薄々分かっていた。
好きなのだ、兄貴が。
香苗はもう一度首を振った。それで、その想いを振り切った。
彼女の想いは、それで何とかなる程度だった。まだこの段階では。
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紀泰は、普段こなす残業もせずにいつもよりも早く上がった。
しかし、足の向かう先は家ではなく、あまり来ない飲み屋に向かっていた。妹の携帯にメールで帰宅が遅れると入れておいた。
紀泰は、自分の妹への想いがもう普通ではないことを知っていた。同時に、もう押さえられないことも。
酒を飲んだ。
あまり飲み慣れていない酒は苦く感じられたが、それでも飲んだ。
自分はどうすればよいのか。
決まっている。この気持ちを抑え、おくびにも出さず、妹が誰か良い男と結婚するまで過ごすことだ。だがそれはもう無理だった。
では、それ以外の方法ではどうなのか。自分が妹の前から去ることか。誰かと結婚でもして?
どれも駄目なような気がした。自分が生きている限り、妹への想いは消えそうにない。そして、この想いがある限り、いつか妹は傷つく。
いっそ、死のうか。
それも駄目だ。
紀泰が事故にあったとき、香苗がどんなに悲しんだか、紀泰自身が良く知っていたからだ。もしこれで自分が死んだら、妹はどうなるか分からない。
どん、と、お猪口ちょこを置いた。かなり酔いが回っている。
ではもう、妹を自分の物にするしかないではないのか?
紀泰は自虐的に笑った。
『いっそ、そうして、妹に嫌われた方がいい』
妹を愛する兄は、そう思った。
▼
ドアが開く音がした。
「兄貴?」
「ただいま」
香苗の問いかけに紀泰はそう答えた。妹は席を立つと、兄を出迎えるために、玄関へ向かった。
「兄貴、どうしたの?」
兄は顔を真っ赤にして酔っていた。普段酒を飲まない兄の、酔った姿は珍しかった。
「いや、ちょっとね、っと」
千鳥足で歩く兄は壁にぶつかったりと大変だった。見ていられず、香苗は紀泰の腕を取って肩を貸した。
「ごめん」
「いいよ、このぐらい。あたしだって同じ様な事、あったし」
兄妹は、ゆっくりリビングへと戻る。いくら兄が華奢きゃしゃな方だといっても、香苗の細腕には荷が重すぎた。なんとかソファーまで辿たどり着き、兄をそこへ寝かそうとしたが、ソファーに足を引っかけた兄が転倒し、それに引きずられる形で、妹も床に転がった。
いい音がした。
紀泰は背中に鈍い痛みを感じていた。転がるように倒れたため、そんなに酷い痛みではなかった。それよりも、彼にとって、妹の方が心配だった。
「いたた」
紀泰の腕の中で、香苗が言った。紀泰は倒れる際、香苗を庇かばうように抱き締めたのだ。
「大丈夫?」
「も~。兄貴は結構鈍くさいんだから、こんなに酒飲んだらダメ! 決定! 二度と飲むな! ……何笑ってんの?」
紀泰は笑っていた。久しぶりに妹の憎まれ口を聞いたからだ。それが嬉しかったのだ。
「も~。兄貴、起きるから、放してよ」
それを聞いて、紀泰は香苗を抱き締める腕に力を込めた。
「コラ、兄貴。ふざけないの」
そう言いながら、香苗の顔も赤くなっていく。藻掻もがいて兄から逃れようとするが、それは一向に叶かなわない。
そのうち、頭を後ろから押さえられると、一気に兄の方に引き寄せられた。今、香苗の目の前に、紀泰の顔があった。
「大好きだよ、香苗。愛してる」
最大限赤くなっていた妹の顔が、さらに赤くなった。兄はそれを楽しんでいた。
しかし、妹はそれが冗談では済まない要素を持っていることを感じていた。
これまでの兄と妹の関係を続けるためにも、ここは嫌でも冗談で終わらせなければならない。
近親相姦きんしんそうかんなんて、惨めすぎる。
それに、万が一このまま求められたら、彼女はその要求に拒むことが出来ないと分かっていた。拒んだ場合、それは、兄との決別だ。今の香苗は紀泰の認識より自分の弱さを認識していた。
一人では駄目だ。一人で生きていくことは出来ない。
今の彼女はそう思っていた。
「ば、ば、馬鹿兄貴! 告白の相手が間違ってるよ!」
妹はそう言って兄の胸を何度も叩いた。しかし、その腕は後ろからひょいと捕まれて動かすことが出来なくなった。
「間違ってない」
目の前の兄は真面目な顔でそう言った。
「う、嘘だよ。兄貴、酔っぱらって、あたしのことをからかってるんだ」
「からかってなんか、いない」
「じゃあ、明日! 明日酔いが醒めてから言い直して。そうでなきゃ信じない」
「馬鹿。こんな事、素面しらふじゃ言えないよ」
香苗は呻いた。
「愛している、香苗。香苗が僕をどう思っていても、僕は香苗を愛してる」
そう言いながら、紀泰は妹のことを強く抱き締めた。
香苗は泣いた。顔がくしゃくしゃになる。妹は泣く時は、そうなる。紀泰は、そんな妹も好きだった。
だから、妹に嫌われたかった。
▼
香苗は力を込めて目をつぶった。
『駄目だ。駄目だよ兄貴。そんなこと言われたら、あたしは駄目になる!』
甘えては駄目だ。
今の彼女には、耐え難い、一人でいる事への恐怖があった。兄への、日に日に大きくなっていく思慕の情もあった。
だが、兄妹で結ばれるわけには行かないのだ。
香苗は全ての力を使って、体を兄から引き剥がした。
その瞬間、兄と視線が混じり合う。
その時の兄の表情を考えずに走った。自室に駆け込み、鍵をかける。扉に寄り掛かり、荒い息のままで、しばらくそうしていた。部屋の中は暗い。
静寂。
恐ろしいぐらい静かだった。香苗は兄が扉を破って自分を襲うのではないかと思った。すぐにその考えを打ち消したが。
兄はそんなことをする人間ではないことを良く知っている。
でも、もしそうなったら?
『あたし、あたし……!』
目を閉じる。兄を世話して見覚えた兄の体。触れ合った体が覚えた兄の体。あの体が自分を抱き締めたら? あの体と一つになれたら? 兄と思う存分、心から愛し合えたら?
どんなに、ドンナニ気持チガイインダロウ。
どん!
大きな音と共に、彼女のおかしくなった思考が砕け散った。バラバラになった思考は正常な方向性をもってまとまる。
自分はなんて事を考えていたんだろう!
香苗は勢い良く起きあがると、ベッドの中に潜り込んで丸まった。
▼
無事、妹に嫌われた。
良かった。
これで良かった。
香苗は自分から離れていくだろう。あとは隙をみて自分がくたばるだけだ。
妹には大嫌いな兄の事など忘れて、自分の幸せを掴んでほしい。
そう思いつつも、妹を抱き締めた手は妹を忘れようとはしない。妹のぬくもりが染み込んだように手に残っていた。
手だけではない。匂いを嗅げば、妹の匂いを思い出すし、耳の奥には妹の声が、目をつぶれば妹の顔が浮かぶ。
痛い。
紀泰は、生まれて初めて、心も痛むと知った。
良心の呵責や、俗に言う『心が痛い』という痛みとは別の、体の怪我と同じ、痛み。本当に心が、まるで一部を切り落とされた体のように激痛を感じているのだ。
痛い。
痛みを我慢して、立ち上がる。その時テーブルの上にある、食事が目に入った。シチューとサラダをメインに、沢山の品目の料理が並んでいた。紀泰はこんなに食べるわけがないだろうと苦笑した。
今朝の妹の顔が甦る。
何で自分は早く帰ってきてやらなかったんだろう。
妹は自分をこんなにも思ってくれているのに!
紀泰は手近な壁を殴った。
香苗が愛しい。愛しい。何よりも愛しい。愛してる。かなえ。カナエ。香苗!
▼
香苗は、短大の講義の間、講師の話を聞くこともなく、窓の外を眺めていた。もっとも、講師の話を聞いていないのは香苗だけではなかったが。
このところ、講義に身が入っていない。
親しい友達は、どうしたことかと聞いてきたが、香苗はそれをはぐらかした。
理由が分からないわけではない。
自分がいやになるほど、それは良く分かっている。
それは兄の事だ。
あの日から、紀泰は部屋に閉じこもり仕事に行かなくなった。
兄妹二人が生きていくには十分なほどの資産はあったので、生活に困ることはない。
兄を心配する声も、初めのうちはあったが、それも次第になくなっていった。
香苗は思った。やはり、最後まで心配するのは家族なんだと。
「兄貴」
香苗は兄の部屋の前に食事を置きながら、部屋の主に声を掛けた。
「ここにご飯、おいておくよ。あたし、これから短大に行くから」
部屋からは声もしない。
もう一週間ほど兄の言葉を聞いていない。時折、兄が唸るような声を上げているのを夜に聞く。しかし、兄の言葉を聞くことはない。
「兄貴……」
扉に触れる。
寂しかった。そして寂しさは恐怖に変わる。香苗は孤独が恐怖になってしまうことが普通になってしまった。だから、それを紛らわすために短大に行く。
しかし、それでは根本的に解決しない。
『やはり、兄貴だ』
香苗はそう思った。
『私は、兄貴のことが好きだ。でもそれだけじゃないんだ』
思い出すだけでも、自分の体温が下がるような恐怖。それを感じないようにしてくれるのは、兄だけだ。兄が戻ってきてから、あの日までは、恐怖を感じることは一度もなかったからだ。
『怖いんだよ、兄貴。あたしは兄貴といないと』
普通に友達と話をしていたりすると、恐怖に苛まれることはない。しかし、それは紛らわされているだけだ。癒されているわけではない。その証拠に、一人になったとき、香苗は恐怖に襲われる。
一人でいると、怖い。
もうその方程式は、香苗の心に定着してしまった。例外は、兄。
兄だけが、恐怖を忘れさせる。癒してくれる。
『必要、なんだ』
講義は淡々と進む。その中で香苗は、虚ろな目で空を眺め続けていた。
▼
「兄貴。開けるよ」
扉に手をかけ、開ける。
てっきりかかっているものと思っていた鍵は無く、扉はいとも簡単に香苗を迎え入れた。
香苗には鍵をかけていたのは自分だった様に思えた。
部屋の中は、酷い有様だった。薄暗い中でも、元々整理されていた本や調度品が散乱しているのが分かる。その中に兄はいた。
「兄貴」
香苗は微笑んだ。
「……どうして入ってきた」
「じゃあ、どうして鍵をかけなかったの?」
「……なんで僕を嫌いにならない」
「……あたしも」
香苗は兄を抱き締めた。涙が出てくる。
「あたしも兄貴が好きだから」
すぐに強い力で抱き締められる。狂ったように名前を呼ぶ兄に、香苗も兄を呼んだ。
一つ名前を呼び合うたびに、自らの中にある毒のような、悪いものが抜けるような気がした。
兄妹は自分たちが危うい綱渡りをしていることを認識していた。
はじめに落ちそうになったのは、兄だ。それを助けようとしているのは妹。
でも結果的に、先に落ちたのは妹だった。そして、助ける者がいなくなれば、兄もロープから落ちるのは当たり前だった。
紀泰は、流れる妹の涙を舐め取った。香苗はその兄の舌を追い、それは自然に兄の口へと辿り着いた。
~完~
初稿:00/08/09
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