小説(転載) インセスタス Incest.4 優しい棘 3/3
官能小説
6
りぃん……りぃん……。
今でも、憶えている。
雪の日の、朝のことだった。窓の向こうに広がる一面の雪景色よりもずっと、ず
っと白かった病室。白いカーテン越しに差し込む、弱い朝の光。
季節はずれの風鈴が、少しだけ空いた窓から吹く風で、静かに揺れている。
淡い水色をしたその風鈴は、今年の夏に乃絵美が飾ったものだ。夏の間だけ、こ
の病室の中で響くはずだったその音色は、秋を過ぎても、冬になっても、鳴りつづ
けていた。
「ほんのちょっとの間だけだから、正樹、お家のことよろしくね」
入院が決まった日の朝、家を出るとき、母さんは微笑んでそう言った。
でも、来る日も来る日も、この病室で風鈴が音を奏でるたびに、正樹は幼心にそ
の言葉が嘘であることが分かった。すぐよくなるはずだった母さんは、日に日に痩
せていって、抜けるように白い肌はいっそう白さを増して。そして季節がめぐって
も鳴り続ける風鈴が、真実を正樹に告げていた。
母さんは、もう、お家には、帰ってこない。
そして、ある冬の日の朝のこと。──その日は日曜日だったから、うんと早起き
して乃絵美と一緒に、母さんの病室を訪れたのだった。母さんはもう起きていて、
ドアを開けて入ってきた正樹たちを見て、目を細めて笑った。満面の笑顔を浮かべ
て抱きつく乃絵美の背中に優しく手を回しながら、「おはよう」と囁く声が、正樹
の耳をくすぐる。
その日も、いつもと同じように1日が過ぎるはずだった。正樹や乃絵美がする色
々な話を、相槌をうちながら耳を傾けてくれる母さん。その笑顔はとても穏やかで、
正樹は母さんのその表情が、何よりも好きだった。昼になったら父さんが来て、母
さんが検査を受けている間に一緒に食事をする。午後もまた、母さんの病室で飽き
るまで話す。昨日、学校であったこと。父さんの困った癖のこと。色々なことを話
す。そして日が沈み、乃絵美の瞼が重くなってくる頃、母さんに見送られながら病
室のドアを出る。そんな、新しい日常を、その日も繰り返すはずだった。
けれど、その日はなにかが少し違っていた。いつも穏やかな笑みを絶やさない母
さんの笑顔が、その日はなぜだかひどく──儚げに思えた。話し疲れたのか、母さ
んのベッドにもたれかかるようにして乃絵美が小さな寝息をたてている。その髪を
優しく撫でつけながら、囁くように母さんは言った。
「乃絵美を守ってあげてね」
思わず顔を上げた正樹の顔を、優しい瞳で見つめながら、母さんは続けた。
「乃絵美を、守ってあげてね? ──正樹は、お兄ちゃんなんだから」
そのときのことを、正樹は今でも憶えている。
白い病室。カーテンを揺らす風と、かすかな風鈴の音色。母さんの膝の上で、乃
絵美が小さな寝息をたてている。その頬に、なによりも大切な宝物のように優しく
触れる母さんの手。
空気が、ひどく澄んでいるような気がした。
そして、幼い正樹の耳には、母さんのその何気ない問いかけが──とても、とて
も神聖なもののように思えた。視線を落とすと、あどけない顔の乃絵美が、母さん
の膝の上で眠っている。白いシーツを握る小さな手。母さんと同じように、華奢で、
折れ飛んでしまいそうなほど、小さな妹。
そして正樹はこくりと、穏やかなその視線を受け止めながら、しっかりとうなず
いた。そのときの母さんの微笑みを、正樹は今でも忘れない。それは心から愛おし
い者に向ける、空気に溶け込んでしまいそうなほどに柔らかな、天使のような微笑
みだった。
そしてそれが正樹の見た、母さんの最後の笑顔だった。
頬をつたう熱い感覚に気づいて、正樹は長い微睡みから目覚めた。顔に触れてみ
ると、掌が雫で濡れた。
(…………)
懐かしい夢だった。母さんが亡くなってすぐの頃は毎日のように見ていた夢。け
れど、歳を経るにしたがって、やがてその記憶はゆっくりと、思い出の中に埋没し
ていった。時折思い出すことはあったけれど、今日のように夢として見ることはな
くなったはずの情景。
無言のまま、唇を噛む。
ふと、右腕に痺れを感じて、正樹は視線を向けた。“約束”が、そこにあった。
正樹の腕を枕にして、幼子のように寝息をたてている乃絵美。両手はしっかりと正
樹のシャツを掴み、リボンをなくした長い黒髪がシーツの上に流れている。
自由な左手で、正樹はそっとその髪をすくった。
「気持ちよさそうに寝やがって……」
苦笑しながら、乃絵美の艶やかな黒髪を弄ぶ。柔らかな感触。ふと、まだ、夢の
中にいるんじゃないかという気がした。今までのなにもかもが夢で、時間はきっと、
冬のあの病室で止まっているんじゃないか。本当は自分もまだ、母さんの傍でうと
うとしているんじゃないか。目が醒めればきっと、白いカーテンが揺れていて、季
節はずれの風鈴が音を奏でていて──。
けれど、乃絵美のたしかな寝息と、しっかりと自分のシャツを掴んだ小さな手の
感触が、それを否定する。そう、たしかに俺は、昨日、乃絵美を──
妹を、抱いたのだ。
(──乃絵美を、守ってあげてね?)
母さんの声がする。母さんが生きていたら、なんて思うだろう? 自分が乃絵美
を、妹を愛してしまったと知ったら、母さんは、それでもあのときのように穏やか
に笑ってくれるだろうか?
乃絵美を起こさないように気をつかいながら、正樹はゆっくりと身を起こした。
ぼんやりと、視線をベッドの中央に向ける。めくれたシーツの上に点々と、赤い染
みが出来ていた。乃絵美の破瓜の血。苦痛に身を引き裂かれながらも、健気に耐え
つづけた証。
「乃絵美」
ぽつりと呟いて、正樹は乃絵美の頬にそっと触れた。
その寝顔が、あのときの情景と重なる。幼い日、自分が守ると誓った小さな妹は、
今ひとりの少女として、自分の傍らで眠っている。あのとき、予想もできなかった
未来が、今、ここにあった。
母さん、と正樹は小さく呟いて、もう一度乃絵美の頬を指でなぞった。
母さん、俺、乃絵美を守ってやれてるのかな?
7
「ん……」
ぼんやりと乃絵美の頬を指で弄んでいると、小さく声を洩らして、乃絵美が目を
開けた。ぼうっとした瞳で、正樹を見つめる。
「おに……ちゃん?」
「……ごめんな。起こしちまったか?」
「うん……」
まだ微睡みの中にいるのか、乃絵美は寝ぼけたような声で返した。やがて、ぼん
やりとした瞳が焦点を確かにしてゆく。ん……、と舌たらずな声が洩れ、その視線
がゆっくりと上下した。正樹の顔。首筋。胸元。ゆっくり下がって、タンクトップ
1枚の自分の躰。それにつれて、おもしろいくらいに乃絵美の頬が赤く上気してい
く。
「…………」
「……?」
「……あっ……」
「?」
一瞬の後、我に返ったように乃絵美がばっ、とシーツをつかんで自分の躰を隠そ
うとした。すると、今度は下の部分がはだけてしまい、「あっ」とシーツを下にし
て隠そうとする。すると今度は上がはだけて……
「あ、あ、あの、おに、あ……」
混乱気味の乃絵美に苦笑しながら、
「はい、深呼吸」
ぽんぽん、と正樹はその肩を叩いた。「すーはー」と乃絵美が言われたとおりに
胸を上下させる。大分力が抜けたのか、それでもしっかりとシーツを胸で抱えたま
ま、ぺたんとベッドの上に腰を落とした。
「…………」
耳たぶまで真っ赤にしながら、乃絵美はうつむきかげんに正樹を見た。昨晩のこ
とを思い出しているのだろう。上目遣いの瞳を見やりながら、正樹はたまらない愛
しさが胸に溢れてくるのを感じた。──それは多分に、罪悪感と背徳感がないまぜ
になったものではあったが。
ごく、と乃絵美が小さな唾を飲み込む音がした。
「あ、の……」
乃絵美は懸命に口を開こうとするが、うまく言葉にならないようだった。気恥ず
かしさと所在なさで頭がいっぱいになっているのだろう。
「乃絵美」
「は、はい!」
背すじをぴっと正して、乃絵美が返す。その仕草に苦笑しながら、
「問題です」
と正樹は言った。
「?」
「まず大事なことを忘れています。昼はこんにちは、夜はおやすみ。……じゃ、朝
は?」
「あ……」
何かに気づいたように、乃絵美が顔を上げた。そしてまた、上気した頬を少しう
つむきかげんにしながら、
「……おはよう、お兄ちゃん」
「ああ、おはような、乃絵美」
その言葉が引き金になったかのように、じわ、と乃絵美の瞳がうるんで、大粒の
涙がぽたぽたと溢れた。
「……お兄ちゃん」
「ああ」
うっ、と声が洩れた瞬間、
「おにいちゃん、おにいちゃん……!」
正樹の胸に顔をうずめて、乃絵美は幼子のように泣いた。
乃絵美の部屋の壁時計が、かちこちと音を立てていた。針は6時10分を指して
いる。ずいぶんと時間が経ったような気がしたが、どうやら数時間ほど微睡んでい
ただけだったらしい。
「…………」
ようやく落ち着いてきたのか、乃絵美はまだ頬に涙のあとを残して、(それでも
右手はしっかりと正樹のシャツを掴んだまま)うつむきかげんに視線をさまよわせ
ている。
「──あの」
やがて、意を決したかのように、ぽつりと乃絵美が呟いた。
「ん?」
視線を返す正樹に、乃絵美はまた視線を伏せながら、
「その……」
「?」
「……しちゃった……ん……だよね? その、わたしと……おにい、ちゃん」
「…………」
その言葉に、今度は正樹が顔を赤くした。
「さっきまでずっと、夢なんじゃないかなって、思ってた。もしかしたらずっと、
長い夢を見てたのかなって。でも、目を開けたら、こんなにすぐそばにお兄ちゃん
がいて、ああ、夢じゃないんだなって思って、そうしたら、そうしたら……」
ぽた、とシーツの上に染みが出来た。乃絵美の上気した頬を、また涙の雫が走っ
ていた。
「あ、ごめ……」
あやまろうとする乃絵美の髪をそっと撫でて、正樹は言った。
「夢じゃない」
「うん……」
「あれは、夢なんかじゃない」
「うん……」
こく、と乃絵美がうなずく。そして顔を上げて、涙を残したまま、くすっと笑っ
た。
「うん、夢じゃない。だって、憶えてるもん。躰がちゃんと憶えてる。お兄ちゃん
をいっぱいいっぱい感じたこと、ちゃんと」
「…………」
乃絵美の言葉に、耳たぶまで赤くして、正樹。そんな兄の仕草にくすくすと乃絵
美が笑った。何日ぶりかの、穏やかな笑顔。泣き笑いだったかもしれないが、それ
はたしかに、幼い日自分が守ると誓ったあの微笑みだった。
カーテン越しに冬の日射しが室内を照らす。空はもう、すっかり晴れていた。雨
は、やんだのだ。
「お兄ちゃん」
穏やかな沈黙の後、ぽつりと乃絵美が呟いた。
「ん?」
「おはよう、お兄ちゃん」
「? ああ、おはよう」
「もうすぐ、学校だね」
「……ああ」
「今日も、寒いのかな」
「そう、だな」
「じゃ、あったかいものが、食べたいよね」
「……どうしたんだよ、急に?」
正樹が戸惑ったように訊くと、ううん、と乃絵美は頭を振って呟いた。
「きのうも、おとといも、わたし、すごく遠回りしてた気がする。だから、いっぱ
い話したいの。きのうの分も、おとといの分も、いっぱいおしゃべりしたい。一緒
にご飯が食べたい。すごく簡単なことなのに、ずっと忘れてた気がする」
「…………」
正樹の沈黙とかぶるように、ジリリリリリ、と乃絵美の部屋の目覚まし時計が鳴
った。針は6時30分、そろそろ、父親も起き出してくる時間だ。
「そうだな」
ナイトテーブルの上の目覚ましに手を延ばし、スイッチをオフにしながら、正樹
が答えた。
「そんな単純なこと、……忘れてたな」
うん、と乃絵美がうなずく。
「だから、いっぱい話そう、お兄ちゃん。一緒にご飯食べよ? わたし、それだけ
で、しあわせだよ」
「…………」
乃絵美が笑う。それは不思議と、あの日の母さんの笑顔に似ていて、正樹は思わ
ず目を細めた。
「んじゃ、さしあっては、朝飯だな」
「──うん」
「夜は、鍋なんかいいかもな」
「うん!」
弾けるように笑う乃絵美の髪をくしゃくしゃと撫でて、正樹は立ちあがった。あ、
と乃絵美が顔を赤くする。Tシャツとトランクス1枚という姿は、さすがに格好つ
けれたものではない。
「っと、んじゃ、お互いぱっぱと着替えちまうか」
ぽりぽりと鼻を掻く正樹に、乃絵美がくすりと笑みを洩らした。ふたりの間に漂
っていた奇妙な重力が、もう、すっかりとその力をなくしてしまったように、それ
は自然な仕草だった。
ドアのノブに手をかけ、乃絵美の部屋を出ようとした正樹に、乃絵美が駆け寄っ
た。頬に、柔らかな感触。
「おはよう、お兄ちゃん」
唇を離して、乃絵美が笑った。
「何度目だよ」
正樹も笑う。
「さっきのは、昨日と一昨日の分。これは、今日の分」
その乃絵美の言葉にただ笑みを返して、正樹はパタンとドアを閉めた。
8
「…………」
とん、と廊下の壁に手をつきながら、正樹は天井を見上げた。そのまま、もたれ
かかるように背中を壁にあずける。
じく、と胸が痛んだ。胸の中で混沌としたなにかが渦巻き、弾け出ようとしてい
るような感覚。本当に、これでいいのだろうか? 互いの感情に嘘はなかった。乃
絵美にも笑顔が戻った。だけど、本当にこれで?
目を閉じると、昨夜のことを思い出す。全身を引き裂かれるような痛みに、必死
に耐えていた乃絵美。大丈夫だから、と健気に呟いた唇。そして、乃絵美から流れ
落ちた純潔の証は、ぽたぽたと腿をつたってシーツの上に赤い泉を浮かべていた。
(なにが大丈夫だから、だ)
正樹は思った。
結局俺の棘は──お前の体を抉って、二度と消えることのない傷をつけたじゃな
いか。二度と消えることのない破瓜の傷痕を、お前の躰に。
お前がこれから俺から離れて──どれだけ多くの恋をしても、俺が付けた傷は一
生お前の体に残るんだぞ。
それだけじゃない。
きっと、このままじゃ終わらない。俺たちのことを、いつか誰かが気づくだろう。
そうしたら? そのままそっとしてくれる?
そんなはずがない。正樹の中でビジョンが駆けめぐる。奇異の視線、嫌悪の声。
倫理的規範。それらはやがて巨大な圧力となって──
だん、と小さく正樹は拳で廊下の壁を殴った。
絶対、守らなければいけない。これからたとえどんな運命が待ち受けていたとし
ても、乃絵美だけは。たとえ自分がどうなろうとも、それだけは。
拳を固く握りしめて、正樹は強く唇を噛んだ。
天井を見上げる。切れかかった電球が、ちかちかと薄暗い廊下を照らした。
──乃絵美。
正樹は思う。
──お前は気づいてないんだろうな。
無邪気な乃絵美の笑みを思い出しながら、呟く。
──俺の棘がお前を抉って、血を流させたように、お前の優しい棘はいつか俺の
心臓に届いて──。
──きっと。
りぃん……りぃん……。
今でも、憶えている。
雪の日の、朝のことだった。窓の向こうに広がる一面の雪景色よりもずっと、ず
っと白かった病室。白いカーテン越しに差し込む、弱い朝の光。
季節はずれの風鈴が、少しだけ空いた窓から吹く風で、静かに揺れている。
淡い水色をしたその風鈴は、今年の夏に乃絵美が飾ったものだ。夏の間だけ、こ
の病室の中で響くはずだったその音色は、秋を過ぎても、冬になっても、鳴りつづ
けていた。
「ほんのちょっとの間だけだから、正樹、お家のことよろしくね」
入院が決まった日の朝、家を出るとき、母さんは微笑んでそう言った。
でも、来る日も来る日も、この病室で風鈴が音を奏でるたびに、正樹は幼心にそ
の言葉が嘘であることが分かった。すぐよくなるはずだった母さんは、日に日に痩
せていって、抜けるように白い肌はいっそう白さを増して。そして季節がめぐって
も鳴り続ける風鈴が、真実を正樹に告げていた。
母さんは、もう、お家には、帰ってこない。
そして、ある冬の日の朝のこと。──その日は日曜日だったから、うんと早起き
して乃絵美と一緒に、母さんの病室を訪れたのだった。母さんはもう起きていて、
ドアを開けて入ってきた正樹たちを見て、目を細めて笑った。満面の笑顔を浮かべ
て抱きつく乃絵美の背中に優しく手を回しながら、「おはよう」と囁く声が、正樹
の耳をくすぐる。
その日も、いつもと同じように1日が過ぎるはずだった。正樹や乃絵美がする色
々な話を、相槌をうちながら耳を傾けてくれる母さん。その笑顔はとても穏やかで、
正樹は母さんのその表情が、何よりも好きだった。昼になったら父さんが来て、母
さんが検査を受けている間に一緒に食事をする。午後もまた、母さんの病室で飽き
るまで話す。昨日、学校であったこと。父さんの困った癖のこと。色々なことを話
す。そして日が沈み、乃絵美の瞼が重くなってくる頃、母さんに見送られながら病
室のドアを出る。そんな、新しい日常を、その日も繰り返すはずだった。
けれど、その日はなにかが少し違っていた。いつも穏やかな笑みを絶やさない母
さんの笑顔が、その日はなぜだかひどく──儚げに思えた。話し疲れたのか、母さ
んのベッドにもたれかかるようにして乃絵美が小さな寝息をたてている。その髪を
優しく撫でつけながら、囁くように母さんは言った。
「乃絵美を守ってあげてね」
思わず顔を上げた正樹の顔を、優しい瞳で見つめながら、母さんは続けた。
「乃絵美を、守ってあげてね? ──正樹は、お兄ちゃんなんだから」
そのときのことを、正樹は今でも憶えている。
白い病室。カーテンを揺らす風と、かすかな風鈴の音色。母さんの膝の上で、乃
絵美が小さな寝息をたてている。その頬に、なによりも大切な宝物のように優しく
触れる母さんの手。
空気が、ひどく澄んでいるような気がした。
そして、幼い正樹の耳には、母さんのその何気ない問いかけが──とても、とて
も神聖なもののように思えた。視線を落とすと、あどけない顔の乃絵美が、母さん
の膝の上で眠っている。白いシーツを握る小さな手。母さんと同じように、華奢で、
折れ飛んでしまいそうなほど、小さな妹。
そして正樹はこくりと、穏やかなその視線を受け止めながら、しっかりとうなず
いた。そのときの母さんの微笑みを、正樹は今でも忘れない。それは心から愛おし
い者に向ける、空気に溶け込んでしまいそうなほどに柔らかな、天使のような微笑
みだった。
そしてそれが正樹の見た、母さんの最後の笑顔だった。
頬をつたう熱い感覚に気づいて、正樹は長い微睡みから目覚めた。顔に触れてみ
ると、掌が雫で濡れた。
(…………)
懐かしい夢だった。母さんが亡くなってすぐの頃は毎日のように見ていた夢。け
れど、歳を経るにしたがって、やがてその記憶はゆっくりと、思い出の中に埋没し
ていった。時折思い出すことはあったけれど、今日のように夢として見ることはな
くなったはずの情景。
無言のまま、唇を噛む。
ふと、右腕に痺れを感じて、正樹は視線を向けた。“約束”が、そこにあった。
正樹の腕を枕にして、幼子のように寝息をたてている乃絵美。両手はしっかりと正
樹のシャツを掴み、リボンをなくした長い黒髪がシーツの上に流れている。
自由な左手で、正樹はそっとその髪をすくった。
「気持ちよさそうに寝やがって……」
苦笑しながら、乃絵美の艶やかな黒髪を弄ぶ。柔らかな感触。ふと、まだ、夢の
中にいるんじゃないかという気がした。今までのなにもかもが夢で、時間はきっと、
冬のあの病室で止まっているんじゃないか。本当は自分もまだ、母さんの傍でうと
うとしているんじゃないか。目が醒めればきっと、白いカーテンが揺れていて、季
節はずれの風鈴が音を奏でていて──。
けれど、乃絵美のたしかな寝息と、しっかりと自分のシャツを掴んだ小さな手の
感触が、それを否定する。そう、たしかに俺は、昨日、乃絵美を──
妹を、抱いたのだ。
(──乃絵美を、守ってあげてね?)
母さんの声がする。母さんが生きていたら、なんて思うだろう? 自分が乃絵美
を、妹を愛してしまったと知ったら、母さんは、それでもあのときのように穏やか
に笑ってくれるだろうか?
乃絵美を起こさないように気をつかいながら、正樹はゆっくりと身を起こした。
ぼんやりと、視線をベッドの中央に向ける。めくれたシーツの上に点々と、赤い染
みが出来ていた。乃絵美の破瓜の血。苦痛に身を引き裂かれながらも、健気に耐え
つづけた証。
「乃絵美」
ぽつりと呟いて、正樹は乃絵美の頬にそっと触れた。
その寝顔が、あのときの情景と重なる。幼い日、自分が守ると誓った小さな妹は、
今ひとりの少女として、自分の傍らで眠っている。あのとき、予想もできなかった
未来が、今、ここにあった。
母さん、と正樹は小さく呟いて、もう一度乃絵美の頬を指でなぞった。
母さん、俺、乃絵美を守ってやれてるのかな?
7
「ん……」
ぼんやりと乃絵美の頬を指で弄んでいると、小さく声を洩らして、乃絵美が目を
開けた。ぼうっとした瞳で、正樹を見つめる。
「おに……ちゃん?」
「……ごめんな。起こしちまったか?」
「うん……」
まだ微睡みの中にいるのか、乃絵美は寝ぼけたような声で返した。やがて、ぼん
やりとした瞳が焦点を確かにしてゆく。ん……、と舌たらずな声が洩れ、その視線
がゆっくりと上下した。正樹の顔。首筋。胸元。ゆっくり下がって、タンクトップ
1枚の自分の躰。それにつれて、おもしろいくらいに乃絵美の頬が赤く上気してい
く。
「…………」
「……?」
「……あっ……」
「?」
一瞬の後、我に返ったように乃絵美がばっ、とシーツをつかんで自分の躰を隠そ
うとした。すると、今度は下の部分がはだけてしまい、「あっ」とシーツを下にし
て隠そうとする。すると今度は上がはだけて……
「あ、あ、あの、おに、あ……」
混乱気味の乃絵美に苦笑しながら、
「はい、深呼吸」
ぽんぽん、と正樹はその肩を叩いた。「すーはー」と乃絵美が言われたとおりに
胸を上下させる。大分力が抜けたのか、それでもしっかりとシーツを胸で抱えたま
ま、ぺたんとベッドの上に腰を落とした。
「…………」
耳たぶまで真っ赤にしながら、乃絵美はうつむきかげんに正樹を見た。昨晩のこ
とを思い出しているのだろう。上目遣いの瞳を見やりながら、正樹はたまらない愛
しさが胸に溢れてくるのを感じた。──それは多分に、罪悪感と背徳感がないまぜ
になったものではあったが。
ごく、と乃絵美が小さな唾を飲み込む音がした。
「あ、の……」
乃絵美は懸命に口を開こうとするが、うまく言葉にならないようだった。気恥ず
かしさと所在なさで頭がいっぱいになっているのだろう。
「乃絵美」
「は、はい!」
背すじをぴっと正して、乃絵美が返す。その仕草に苦笑しながら、
「問題です」
と正樹は言った。
「?」
「まず大事なことを忘れています。昼はこんにちは、夜はおやすみ。……じゃ、朝
は?」
「あ……」
何かに気づいたように、乃絵美が顔を上げた。そしてまた、上気した頬を少しう
つむきかげんにしながら、
「……おはよう、お兄ちゃん」
「ああ、おはような、乃絵美」
その言葉が引き金になったかのように、じわ、と乃絵美の瞳がうるんで、大粒の
涙がぽたぽたと溢れた。
「……お兄ちゃん」
「ああ」
うっ、と声が洩れた瞬間、
「おにいちゃん、おにいちゃん……!」
正樹の胸に顔をうずめて、乃絵美は幼子のように泣いた。
乃絵美の部屋の壁時計が、かちこちと音を立てていた。針は6時10分を指して
いる。ずいぶんと時間が経ったような気がしたが、どうやら数時間ほど微睡んでい
ただけだったらしい。
「…………」
ようやく落ち着いてきたのか、乃絵美はまだ頬に涙のあとを残して、(それでも
右手はしっかりと正樹のシャツを掴んだまま)うつむきかげんに視線をさまよわせ
ている。
「──あの」
やがて、意を決したかのように、ぽつりと乃絵美が呟いた。
「ん?」
視線を返す正樹に、乃絵美はまた視線を伏せながら、
「その……」
「?」
「……しちゃった……ん……だよね? その、わたしと……おにい、ちゃん」
「…………」
その言葉に、今度は正樹が顔を赤くした。
「さっきまでずっと、夢なんじゃないかなって、思ってた。もしかしたらずっと、
長い夢を見てたのかなって。でも、目を開けたら、こんなにすぐそばにお兄ちゃん
がいて、ああ、夢じゃないんだなって思って、そうしたら、そうしたら……」
ぽた、とシーツの上に染みが出来た。乃絵美の上気した頬を、また涙の雫が走っ
ていた。
「あ、ごめ……」
あやまろうとする乃絵美の髪をそっと撫でて、正樹は言った。
「夢じゃない」
「うん……」
「あれは、夢なんかじゃない」
「うん……」
こく、と乃絵美がうなずく。そして顔を上げて、涙を残したまま、くすっと笑っ
た。
「うん、夢じゃない。だって、憶えてるもん。躰がちゃんと憶えてる。お兄ちゃん
をいっぱいいっぱい感じたこと、ちゃんと」
「…………」
乃絵美の言葉に、耳たぶまで赤くして、正樹。そんな兄の仕草にくすくすと乃絵
美が笑った。何日ぶりかの、穏やかな笑顔。泣き笑いだったかもしれないが、それ
はたしかに、幼い日自分が守ると誓ったあの微笑みだった。
カーテン越しに冬の日射しが室内を照らす。空はもう、すっかり晴れていた。雨
は、やんだのだ。
「お兄ちゃん」
穏やかな沈黙の後、ぽつりと乃絵美が呟いた。
「ん?」
「おはよう、お兄ちゃん」
「? ああ、おはよう」
「もうすぐ、学校だね」
「……ああ」
「今日も、寒いのかな」
「そう、だな」
「じゃ、あったかいものが、食べたいよね」
「……どうしたんだよ、急に?」
正樹が戸惑ったように訊くと、ううん、と乃絵美は頭を振って呟いた。
「きのうも、おとといも、わたし、すごく遠回りしてた気がする。だから、いっぱ
い話したいの。きのうの分も、おとといの分も、いっぱいおしゃべりしたい。一緒
にご飯が食べたい。すごく簡単なことなのに、ずっと忘れてた気がする」
「…………」
正樹の沈黙とかぶるように、ジリリリリリ、と乃絵美の部屋の目覚まし時計が鳴
った。針は6時30分、そろそろ、父親も起き出してくる時間だ。
「そうだな」
ナイトテーブルの上の目覚ましに手を延ばし、スイッチをオフにしながら、正樹
が答えた。
「そんな単純なこと、……忘れてたな」
うん、と乃絵美がうなずく。
「だから、いっぱい話そう、お兄ちゃん。一緒にご飯食べよ? わたし、それだけ
で、しあわせだよ」
「…………」
乃絵美が笑う。それは不思議と、あの日の母さんの笑顔に似ていて、正樹は思わ
ず目を細めた。
「んじゃ、さしあっては、朝飯だな」
「──うん」
「夜は、鍋なんかいいかもな」
「うん!」
弾けるように笑う乃絵美の髪をくしゃくしゃと撫でて、正樹は立ちあがった。あ、
と乃絵美が顔を赤くする。Tシャツとトランクス1枚という姿は、さすがに格好つ
けれたものではない。
「っと、んじゃ、お互いぱっぱと着替えちまうか」
ぽりぽりと鼻を掻く正樹に、乃絵美がくすりと笑みを洩らした。ふたりの間に漂
っていた奇妙な重力が、もう、すっかりとその力をなくしてしまったように、それ
は自然な仕草だった。
ドアのノブに手をかけ、乃絵美の部屋を出ようとした正樹に、乃絵美が駆け寄っ
た。頬に、柔らかな感触。
「おはよう、お兄ちゃん」
唇を離して、乃絵美が笑った。
「何度目だよ」
正樹も笑う。
「さっきのは、昨日と一昨日の分。これは、今日の分」
その乃絵美の言葉にただ笑みを返して、正樹はパタンとドアを閉めた。
8
「…………」
とん、と廊下の壁に手をつきながら、正樹は天井を見上げた。そのまま、もたれ
かかるように背中を壁にあずける。
じく、と胸が痛んだ。胸の中で混沌としたなにかが渦巻き、弾け出ようとしてい
るような感覚。本当に、これでいいのだろうか? 互いの感情に嘘はなかった。乃
絵美にも笑顔が戻った。だけど、本当にこれで?
目を閉じると、昨夜のことを思い出す。全身を引き裂かれるような痛みに、必死
に耐えていた乃絵美。大丈夫だから、と健気に呟いた唇。そして、乃絵美から流れ
落ちた純潔の証は、ぽたぽたと腿をつたってシーツの上に赤い泉を浮かべていた。
(なにが大丈夫だから、だ)
正樹は思った。
結局俺の棘は──お前の体を抉って、二度と消えることのない傷をつけたじゃな
いか。二度と消えることのない破瓜の傷痕を、お前の躰に。
お前がこれから俺から離れて──どれだけ多くの恋をしても、俺が付けた傷は一
生お前の体に残るんだぞ。
それだけじゃない。
きっと、このままじゃ終わらない。俺たちのことを、いつか誰かが気づくだろう。
そうしたら? そのままそっとしてくれる?
そんなはずがない。正樹の中でビジョンが駆けめぐる。奇異の視線、嫌悪の声。
倫理的規範。それらはやがて巨大な圧力となって──
だん、と小さく正樹は拳で廊下の壁を殴った。
絶対、守らなければいけない。これからたとえどんな運命が待ち受けていたとし
ても、乃絵美だけは。たとえ自分がどうなろうとも、それだけは。
拳を固く握りしめて、正樹は強く唇を噛んだ。
天井を見上げる。切れかかった電球が、ちかちかと薄暗い廊下を照らした。
──乃絵美。
正樹は思う。
──お前は気づいてないんだろうな。
無邪気な乃絵美の笑みを思い出しながら、呟く。
──俺の棘がお前を抉って、血を流させたように、お前の優しい棘はいつか俺の
心臓に届いて──。
──きっと。