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小説(転載)  インセスタス Incest.4 優しい棘 3/3

官能小説
05 /03 2019
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 りぃん……りぃん……。

 今でも、憶えている。
 雪の日の、朝のことだった。窓の向こうに広がる一面の雪景色よりもずっと、ず
っと白かった病室。白いカーテン越しに差し込む、弱い朝の光。
 季節はずれの風鈴が、少しだけ空いた窓から吹く風で、静かに揺れている。
 淡い水色をしたその風鈴は、今年の夏に乃絵美が飾ったものだ。夏の間だけ、こ
の病室の中で響くはずだったその音色は、秋を過ぎても、冬になっても、鳴りつづ
けていた。
「ほんのちょっとの間だけだから、正樹、お家のことよろしくね」
 入院が決まった日の朝、家を出るとき、母さんは微笑んでそう言った。
 でも、来る日も来る日も、この病室で風鈴が音を奏でるたびに、正樹は幼心にそ
の言葉が嘘であることが分かった。すぐよくなるはずだった母さんは、日に日に痩
せていって、抜けるように白い肌はいっそう白さを増して。そして季節がめぐって
も鳴り続ける風鈴が、真実を正樹に告げていた。
 母さんは、もう、お家には、帰ってこない。
 そして、ある冬の日の朝のこと。──その日は日曜日だったから、うんと早起き
して乃絵美と一緒に、母さんの病室を訪れたのだった。母さんはもう起きていて、
ドアを開けて入ってきた正樹たちを見て、目を細めて笑った。満面の笑顔を浮かべ
て抱きつく乃絵美の背中に優しく手を回しながら、「おはよう」と囁く声が、正樹
の耳をくすぐる。
 その日も、いつもと同じように1日が過ぎるはずだった。正樹や乃絵美がする色
々な話を、相槌をうちながら耳を傾けてくれる母さん。その笑顔はとても穏やかで、
正樹は母さんのその表情が、何よりも好きだった。昼になったら父さんが来て、母
さんが検査を受けている間に一緒に食事をする。午後もまた、母さんの病室で飽き
るまで話す。昨日、学校であったこと。父さんの困った癖のこと。色々なことを話
す。そして日が沈み、乃絵美の瞼が重くなってくる頃、母さんに見送られながら病
室のドアを出る。そんな、新しい日常を、その日も繰り返すはずだった。
 けれど、その日はなにかが少し違っていた。いつも穏やかな笑みを絶やさない母
さんの笑顔が、その日はなぜだかひどく──儚げに思えた。話し疲れたのか、母さ
んのベッドにもたれかかるようにして乃絵美が小さな寝息をたてている。その髪を
優しく撫でつけながら、囁くように母さんは言った。
「乃絵美を守ってあげてね」
 思わず顔を上げた正樹の顔を、優しい瞳で見つめながら、母さんは続けた。
「乃絵美を、守ってあげてね? ──正樹は、お兄ちゃんなんだから」
 そのときのことを、正樹は今でも憶えている。
 白い病室。カーテンを揺らす風と、かすかな風鈴の音色。母さんの膝の上で、乃
絵美が小さな寝息をたてている。その頬に、なによりも大切な宝物のように優しく
触れる母さんの手。
 空気が、ひどく澄んでいるような気がした。
 そして、幼い正樹の耳には、母さんのその何気ない問いかけが──とても、とて
も神聖なもののように思えた。視線を落とすと、あどけない顔の乃絵美が、母さん
の膝の上で眠っている。白いシーツを握る小さな手。母さんと同じように、華奢で、
折れ飛んでしまいそうなほど、小さな妹。
 そして正樹はこくりと、穏やかなその視線を受け止めながら、しっかりとうなず
いた。そのときの母さんの微笑みを、正樹は今でも忘れない。それは心から愛おし
い者に向ける、空気に溶け込んでしまいそうなほどに柔らかな、天使のような微笑
みだった。
 そしてそれが正樹の見た、母さんの最後の笑顔だった。



 頬をつたう熱い感覚に気づいて、正樹は長い微睡みから目覚めた。顔に触れてみ
ると、掌が雫で濡れた。
(…………)
 懐かしい夢だった。母さんが亡くなってすぐの頃は毎日のように見ていた夢。け
れど、歳を経るにしたがって、やがてその記憶はゆっくりと、思い出の中に埋没し
ていった。時折思い出すことはあったけれど、今日のように夢として見ることはな
くなったはずの情景。
 無言のまま、唇を噛む。
 ふと、右腕に痺れを感じて、正樹は視線を向けた。“約束”が、そこにあった。
正樹の腕を枕にして、幼子のように寝息をたてている乃絵美。両手はしっかりと正
樹のシャツを掴み、リボンをなくした長い黒髪がシーツの上に流れている。
 自由な左手で、正樹はそっとその髪をすくった。
「気持ちよさそうに寝やがって……」
 苦笑しながら、乃絵美の艶やかな黒髪を弄ぶ。柔らかな感触。ふと、まだ、夢の
中にいるんじゃないかという気がした。今までのなにもかもが夢で、時間はきっと、
冬のあの病室で止まっているんじゃないか。本当は自分もまだ、母さんの傍でうと
うとしているんじゃないか。目が醒めればきっと、白いカーテンが揺れていて、季
節はずれの風鈴が音を奏でていて──。
 けれど、乃絵美のたしかな寝息と、しっかりと自分のシャツを掴んだ小さな手の
感触が、それを否定する。そう、たしかに俺は、昨日、乃絵美を──
 妹を、抱いたのだ。
(──乃絵美を、守ってあげてね?)
 母さんの声がする。母さんが生きていたら、なんて思うだろう? 自分が乃絵美
を、妹を愛してしまったと知ったら、母さんは、それでもあのときのように穏やか
に笑ってくれるだろうか?
 乃絵美を起こさないように気をつかいながら、正樹はゆっくりと身を起こした。
ぼんやりと、視線をベッドの中央に向ける。めくれたシーツの上に点々と、赤い染
みが出来ていた。乃絵美の破瓜の血。苦痛に身を引き裂かれながらも、健気に耐え
つづけた証。
「乃絵美」
 ぽつりと呟いて、正樹は乃絵美の頬にそっと触れた。
 その寝顔が、あのときの情景と重なる。幼い日、自分が守ると誓った小さな妹は、
今ひとりの少女として、自分の傍らで眠っている。あのとき、予想もできなかった
未来が、今、ここにあった。
 母さん、と正樹は小さく呟いて、もう一度乃絵美の頬を指でなぞった。
 
 母さん、俺、乃絵美を守ってやれてるのかな?


          7


「ん……」
 ぼんやりと乃絵美の頬を指で弄んでいると、小さく声を洩らして、乃絵美が目を
開けた。ぼうっとした瞳で、正樹を見つめる。
「おに……ちゃん?」
「……ごめんな。起こしちまったか?」
「うん……」
 まだ微睡みの中にいるのか、乃絵美は寝ぼけたような声で返した。やがて、ぼん
やりとした瞳が焦点を確かにしてゆく。ん……、と舌たらずな声が洩れ、その視線
がゆっくりと上下した。正樹の顔。首筋。胸元。ゆっくり下がって、タンクトップ
1枚の自分の躰。それにつれて、おもしろいくらいに乃絵美の頬が赤く上気してい
く。
「…………」
「……?」
「……あっ……」
「?」
 一瞬の後、我に返ったように乃絵美がばっ、とシーツをつかんで自分の躰を隠そ
うとした。すると、今度は下の部分がはだけてしまい、「あっ」とシーツを下にし
て隠そうとする。すると今度は上がはだけて……
「あ、あ、あの、おに、あ……」
 混乱気味の乃絵美に苦笑しながら、
「はい、深呼吸」
 ぽんぽん、と正樹はその肩を叩いた。「すーはー」と乃絵美が言われたとおりに
胸を上下させる。大分力が抜けたのか、それでもしっかりとシーツを胸で抱えたま
ま、ぺたんとベッドの上に腰を落とした。
「…………」
 耳たぶまで真っ赤にしながら、乃絵美はうつむきかげんに正樹を見た。昨晩のこ
とを思い出しているのだろう。上目遣いの瞳を見やりながら、正樹はたまらない愛
しさが胸に溢れてくるのを感じた。──それは多分に、罪悪感と背徳感がないまぜ
になったものではあったが。
 ごく、と乃絵美が小さな唾を飲み込む音がした。
「あ、の……」
 乃絵美は懸命に口を開こうとするが、うまく言葉にならないようだった。気恥ず
かしさと所在なさで頭がいっぱいになっているのだろう。
「乃絵美」
「は、はい!」
 背すじをぴっと正して、乃絵美が返す。その仕草に苦笑しながら、
「問題です」
 と正樹は言った。
「?」
「まず大事なことを忘れています。昼はこんにちは、夜はおやすみ。……じゃ、朝
は?」
「あ……」
 何かに気づいたように、乃絵美が顔を上げた。そしてまた、上気した頬を少しう
つむきかげんにしながら、
「……おはよう、お兄ちゃん」
「ああ、おはような、乃絵美」
 その言葉が引き金になったかのように、じわ、と乃絵美の瞳がうるんで、大粒の
涙がぽたぽたと溢れた。
「……お兄ちゃん」
「ああ」
 うっ、と声が洩れた瞬間、
「おにいちゃん、おにいちゃん……!」
 正樹の胸に顔をうずめて、乃絵美は幼子のように泣いた。



 乃絵美の部屋の壁時計が、かちこちと音を立てていた。針は6時10分を指して
いる。ずいぶんと時間が経ったような気がしたが、どうやら数時間ほど微睡んでい
ただけだったらしい。
「…………」
 ようやく落ち着いてきたのか、乃絵美はまだ頬に涙のあとを残して、(それでも
右手はしっかりと正樹のシャツを掴んだまま)うつむきかげんに視線をさまよわせ
ている。
「──あの」
 やがて、意を決したかのように、ぽつりと乃絵美が呟いた。
「ん?」
 視線を返す正樹に、乃絵美はまた視線を伏せながら、
「その……」
「?」
「……しちゃった……ん……だよね? その、わたしと……おにい、ちゃん」
「…………」
 その言葉に、今度は正樹が顔を赤くした。
「さっきまでずっと、夢なんじゃないかなって、思ってた。もしかしたらずっと、
長い夢を見てたのかなって。でも、目を開けたら、こんなにすぐそばにお兄ちゃん
がいて、ああ、夢じゃないんだなって思って、そうしたら、そうしたら……」
 ぽた、とシーツの上に染みが出来た。乃絵美の上気した頬を、また涙の雫が走っ
ていた。
「あ、ごめ……」
 あやまろうとする乃絵美の髪をそっと撫でて、正樹は言った。
「夢じゃない」
「うん……」
「あれは、夢なんかじゃない」
「うん……」
 こく、と乃絵美がうなずく。そして顔を上げて、涙を残したまま、くすっと笑っ
た。
「うん、夢じゃない。だって、憶えてるもん。躰がちゃんと憶えてる。お兄ちゃん
をいっぱいいっぱい感じたこと、ちゃんと」
「…………」
 乃絵美の言葉に、耳たぶまで赤くして、正樹。そんな兄の仕草にくすくすと乃絵
美が笑った。何日ぶりかの、穏やかな笑顔。泣き笑いだったかもしれないが、それ
はたしかに、幼い日自分が守ると誓ったあの微笑みだった。
 カーテン越しに冬の日射しが室内を照らす。空はもう、すっかり晴れていた。雨
は、やんだのだ。
「お兄ちゃん」
 穏やかな沈黙の後、ぽつりと乃絵美が呟いた。
「ん?」
「おはよう、お兄ちゃん」
「? ああ、おはよう」
「もうすぐ、学校だね」
「……ああ」
「今日も、寒いのかな」
「そう、だな」
「じゃ、あったかいものが、食べたいよね」
「……どうしたんだよ、急に?」
 正樹が戸惑ったように訊くと、ううん、と乃絵美は頭を振って呟いた。
「きのうも、おとといも、わたし、すごく遠回りしてた気がする。だから、いっぱ
い話したいの。きのうの分も、おとといの分も、いっぱいおしゃべりしたい。一緒
にご飯が食べたい。すごく簡単なことなのに、ずっと忘れてた気がする」
「…………」
 正樹の沈黙とかぶるように、ジリリリリリ、と乃絵美の部屋の目覚まし時計が鳴
った。針は6時30分、そろそろ、父親も起き出してくる時間だ。
「そうだな」
 ナイトテーブルの上の目覚ましに手を延ばし、スイッチをオフにしながら、正樹
が答えた。
「そんな単純なこと、……忘れてたな」
 うん、と乃絵美がうなずく。
「だから、いっぱい話そう、お兄ちゃん。一緒にご飯食べよ? わたし、それだけ
で、しあわせだよ」
「…………」
 乃絵美が笑う。それは不思議と、あの日の母さんの笑顔に似ていて、正樹は思わ
ず目を細めた。
「んじゃ、さしあっては、朝飯だな」
「──うん」
「夜は、鍋なんかいいかもな」
「うん!」
 弾けるように笑う乃絵美の髪をくしゃくしゃと撫でて、正樹は立ちあがった。あ、
と乃絵美が顔を赤くする。Tシャツとトランクス1枚という姿は、さすがに格好つ
けれたものではない。
「っと、んじゃ、お互いぱっぱと着替えちまうか」
 ぽりぽりと鼻を掻く正樹に、乃絵美がくすりと笑みを洩らした。ふたりの間に漂
っていた奇妙な重力が、もう、すっかりとその力をなくしてしまったように、それ
は自然な仕草だった。
 ドアのノブに手をかけ、乃絵美の部屋を出ようとした正樹に、乃絵美が駆け寄っ
た。頬に、柔らかな感触。
「おはよう、お兄ちゃん」
 唇を離して、乃絵美が笑った。
「何度目だよ」
 正樹も笑う。
「さっきのは、昨日と一昨日の分。これは、今日の分」
 その乃絵美の言葉にただ笑みを返して、正樹はパタンとドアを閉めた。


          8


「…………」
 とん、と廊下の壁に手をつきながら、正樹は天井を見上げた。そのまま、もたれ
かかるように背中を壁にあずける。
 じく、と胸が痛んだ。胸の中で混沌としたなにかが渦巻き、弾け出ようとしてい
るような感覚。本当に、これでいいのだろうか? 互いの感情に嘘はなかった。乃
絵美にも笑顔が戻った。だけど、本当にこれで?
 目を閉じると、昨夜のことを思い出す。全身を引き裂かれるような痛みに、必死
に耐えていた乃絵美。大丈夫だから、と健気に呟いた唇。そして、乃絵美から流れ
落ちた純潔の証は、ぽたぽたと腿をつたってシーツの上に赤い泉を浮かべていた。
(なにが大丈夫だから、だ)
 正樹は思った。
 結局俺の棘は──お前の体を抉って、二度と消えることのない傷をつけたじゃな
いか。二度と消えることのない破瓜の傷痕を、お前の躰に。
 お前がこれから俺から離れて──どれだけ多くの恋をしても、俺が付けた傷は一
生お前の体に残るんだぞ。
 それだけじゃない。
 きっと、このままじゃ終わらない。俺たちのことを、いつか誰かが気づくだろう。
そうしたら? そのままそっとしてくれる?
 そんなはずがない。正樹の中でビジョンが駆けめぐる。奇異の視線、嫌悪の声。
倫理的規範。それらはやがて巨大な圧力となって──
 だん、と小さく正樹は拳で廊下の壁を殴った。
 絶対、守らなければいけない。これからたとえどんな運命が待ち受けていたとし
ても、乃絵美だけは。たとえ自分がどうなろうとも、それだけは。
 拳を固く握りしめて、正樹は強く唇を噛んだ。
 天井を見上げる。切れかかった電球が、ちかちかと薄暗い廊下を照らした。
 ──乃絵美。
 正樹は思う。
 ──お前は気づいてないんだろうな。
 無邪気な乃絵美の笑みを思い出しながら、呟く。
 ──俺の棘がお前を抉って、血を流させたように、お前の優しい棘はいつか俺の
心臓に届いて──。

 ──きっと。

小説(転載)  インセスタス Incest.4 優しい棘 2/3

官能小説
05 /03 2019
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 全てが、灼けつくくらいに、熱かった。
 唇から洩れる吐息が。触れあう肌が。──不思議なくらいに熱を持っている。ほ
のかに赤く上気した乃絵美の胸に口づけながら、正樹は感じた。
 この奇妙な安堵感は、なんだろう?
 背徳混じりの罪悪感が胸を苛む中で、たしかに息づくこの感覚はなんだろう。ま
るで、ようやくあるべき処へ還ったような──この感じは? ずっと求めていたも
のを、ようやくこの手に出来たような、この感覚は?
 安堵?
 そんなはずはない。安心とか、安堵とか、そんな言葉から最も無縁な行為を、自
分は今しているのに。実の妹に、兄が、泥々とした感情の全てを刻み込もうとして
いるのに?
 だのに、感じるのだった。
 乃絵美の白い肌が。驚くくらい細い腰が。ベッドに流れた艶やかな黒髪が。ささ
やかな双丘が。うるんだ瞳が。薄い唇が。なにもかもが、正樹を安心させる。
「おにい……ちゃん?」
 沈黙した正樹に、乃絵美が不安そうな声をあげた。右手で正樹に触れようとする。
儚げな手。
 自分の頬に添えられたその手をぎゅっと掴んで、正樹は苦笑まじりに口もとをほ
ころばせた。
 乃絵美が俺を求めてくれたから?
 乃絵美をこれ以上、傷つけたくないから?
 だから俺は乃絵美を受け入れた──? そんな思いは、合わさった肌から感じる
熱が、すべて焦がした。違う。俺が、俺自身が、乃絵美を求めていたんだ。いつか
ら? それは分からない。だけど、ずっとこうなることを望んでいた。自分でも分
からないくらい、心の一番深いところで、ずっと。
 ああ、そうだ、畜生。だから俺は安堵してる。この子が、俺を求めてくれたから。
俺がずっと求めていたこの子が、俺を好きだと言ってくれて、俺の傍にいることを
望んでくれたから。
 だけど。
 だけど、いやきっと、だからこそ、違う。
 だからこそ、こんなことをしちゃいけない。乃絵美が俺を好きで、俺が乃絵美を
好きなのなら、なおのこと、こんなことをしちゃいけない。待っているのは本当に
きっと──痛みと苦しみだけだ。誰がふたりを認めてくれるだろう? 誰が俺たち
を祝福してくれるだろう?
 視線がからむ。
 複雑な感情を滲ませた正樹の瞳を見て──乃絵美がくすりと笑った。儚げな、そ
れでいて幸せそうな笑顔。
「大丈夫だから」
 囁くように言う。大丈夫だから。微笑みを残したまま、乃絵美が自分の手を掴ん
だままの正樹の手を引き戻し、その甲に優しく口づけた。
「ばぁか」
 苦笑しながら、正樹。そんな無邪気に笑いやがって、本当にお前は。
 なにが──大丈夫なんだよ。
「ん……」
 幼子のように正樹の手をきゅっと掴んだまま、乃絵美。上目遣いに正樹を見上げ
る。胸をはだけたままの姿が、不思議とあどけなかった。
「うん……わたし、ばかだよ」
 乃絵美は笑う。違う、どうしようもないくらい馬鹿なのは、俺だよ。正樹は思っ
た。
 この先に待つものが何か。漠然とだが、正樹は感じている。井澄の言葉が頭の中
でリフレインする。モラル。倫理。規範。どんな理由があれ、ふたりの行為はそれ
ら高所から見れば、インモラルなものにすぎない。そう、そういった無言の力がき
っと──いつか、それは不可避なものとして──全てを押し潰すだろう。傷つくな
どという曖昧な言葉ではすまない何かがきっと、この先には待っている。守りたか
った。そういう苦しみから、痛みの全てから、乃絵美を。
 だのに──こんなにも。こんなにも、今自分は、乃絵美が欲しい。愛しくてたま
らない。今ならきっと、まだ戻れるのだ。そういう一線の前に、自分はまだ立って
いる。そう、今ならまだ。だのに。
 ふと、乃絵美を見る。
 大丈夫じゃないんだよ。全然、大丈夫じゃないんだ。きっと。俺も、お前も、こ
のままじゃいられない。なのに、馬鹿な兄貴だな、俺は。やっぱり、それでも、お
前が欲しいんだ。
「──ごめん、ね」
 ぽつりと、乃絵美が呟いた。
「ん?」
 見ると、何かを察したのか、不安そうな表情で乃絵美が自分を見上げている。心
細げな視線。表情に、出ていたろうか。正樹は自分の迂闊さに舌打ちした。
 が、
「…………」
「乃……」
「……わたし……」
 正樹が顔を覗きこむようにしながら言うと、乃絵美は上気した頬のまま、視線を
そらした。
「その、あんまり、なくて、その……」
 消え入りそうな声。
「?」
 その声に、正樹の視線がはだけた胸元に注がれる。ささやかな双丘が、そこにあ
った。
「…………」
「…………」
「……くっ……」
「……?……」
 瞬間、一拍の間をおいて、正樹は吹き出すようにして笑った。「え? え?」と
乃絵美がきょとんとした顔をする。乃絵美にしてみれば、正樹が自分のささやかな
体つきを見て、がっかりしているとでも考えていたのだろう。
「お、お兄ちゃん?」
「本当に、お前は……」
 目を細めながら、正樹。一瞬、なにもかもがぽっかりと抜けた。罪悪感も、逡巡
も、不安すら。そして唯一残った乃絵美への愛しさが、胸の中で膨れあがる。
 この子は、いつもこうだ。自分よりも、いつも俺のことを気にして、ひたすら純
粋に、思慕を向けてくる。そう、──痛々しいくらい。そんな妹に、自分は今欲望
をぶつけようとしている。
「あ……きゃっ」
 複雑な思いにとらわれながら、正樹は乃絵美の体を抱き起こした。乃絵美が、小
さく声をあげる。乃絵美の白く透き通ったような肢体をまじまじと見ながら、さっ
きの乃絵美の神妙な表情を思い出して、正樹はまた苦笑まじりの笑みを向けた。
「心配すんな」
「おにい──ちゃん?」
「まあ、正直お前はもうちょっと飯食った方がいいと思うけど──まぁその、俺の、
個人的嗜好としては、お前のはかなりいい線いってる……と思う」
「あ……」
 正樹の言葉に、乃絵美が頬を赤くしてうつむいた。小さく、「うん」と呟いて、
口元をほころばせた。その笑顔はひどく幼げで──なのにひどく大人びて見えた。
磁力に引かれるように、正樹は乃絵美のその小さな口元に、口づけた。ん、と乃絵
美が返してくる。
 そのまま、正樹は乃絵美の胸に指を這わせた。小さな膨らみ(掌の中におさまる
くらい慎ましげなそれ)が、正樹の指の動きに合わせて、形を変える。キスをした
まま、乃絵美がふっ、と息を洩らした。
「乃絵美──」
 唇を放して、正樹は呟いた。呟きながら、手をゆっくりと、下の方に下げていく。
「ん、ん……」
 体にめぐる熱い感覚に身を任せているのか──乃絵美は目を閉じたまま、声を殺
そうとしていた。夜の4時とはいえ、廊下を隔てた向いの部屋では、父親が寝てい
るはずだった。それを思うと、正樹の胸は痛む。あの無口な父親が、このことを知
ったら、どう思うだろう? 自慢の息子と娘が、自分の寝ているすぐ近くで、背徳
に身を任せていると知ったら?
 正樹は思った。そう、インセストの罪とは、しかるべくそういうことなのだ。善
悪の意志あるなしに関わらずに、否応なしに、周囲を巻き込む。無視しえぬものと
して。あの気さくで純朴な父親が、世間の好奇と軽蔑の視線にさらされる姿。伊藤
さんのお子さんたちの話もう御存じ? ふしだらよねぇ。ああ気持ち悪い、これだ
から片親は!
 それなのに──俺は。
 乃絵美の白い首筋に舌を這わせながら、正樹は呟いた。親父。母さん。菜織。真
奈美ちゃん。冴子。ミャーコちゃん。脳裏に浮かぶ幾つもの影。瞬間、きゅ、と乃
絵美の小さな手が自分の手を握った。思いにとらわれそうになった正樹を引き戻す
ような、真剣な瞳。
 乃絵美の肩は震えていた。けれど、その瞳はしっかりと自分を見つめていた。そ
うだ、乃絵美だって、いやむしろ、乃絵美の方が、俺の何倍も怖いに決まっている。
この先に何があるのか、乃絵美だって想像がつかないはずがない。だのに、だのに
それでも、乃絵美は俺を求めてくれた。体中の勇気を振り絞って、一歩、線を踏み
出してくれた。
 なのに、俺は──?
 自問しながら正樹は、乃絵美の手をそっと離し、その頬を撫でた。そして、ふと
気づいた。自分の指から感じる、かすかな血のにおい。
 正樹の小さな表情の変化に、乃絵美は気づいたのか、口を開こうとする正樹の唇
に指を当てて、
「大丈夫だから」
 と、もう一度、囁いた。さすがに少し不安げに、それでも微笑をたたえて。
 正樹は今度も、小さく笑った。なにが大丈夫なんだよ。こんな小さな体で、しか
もこんなときに、それでも、それでも、お前は俺を求めてくれるのか。必死に我慢
しやがって。大丈夫なはず、ないじゃないか。
 結局、臆病なのは俺の方なんだ。お前はこうやって、答えを出してくれてるのに。
俺はいつまでも優柔不断で、どうしようもないくらい、馬鹿だ。乃絵美、お前は自
分のこと馬鹿だって言うけど、やっぱ俺の方がずっと、馬鹿でどうしようもないよ。
「乃絵美」
 正樹は小さく呟いて、続けた。
「──至らない兄貴で、ごめんな」
 その呟きに、乃絵美は一瞬目を丸くして、それから、
「──ううん、そんなお兄ちゃんだから、好きだよ」
 と微笑んだ。
 正樹は苦笑して、今度は黙ったまま、そっと乃絵美の髪を梳いた。そして、自分
のシャツのボタンを外しながら、もう一度乃絵美にキスをした。乃絵美もそれを受
け入れながら、そっとブラウスを脱いだ。


          4


「!」
 ぱた、と近くで何かが倒れたような音に、菜織はふと目を醒ました。見ると、布
団の脇に立てかけてあったアルバムが横に倒れ、めくれたページがこちらの方を向
いている。一枚の写真が目に入る。7、8歳といったところだろうか。ひとりの少
年と、3人の少女の写真。
「…………」
 ふと、菜織は体をもちあげて、その写真を指でなぞった。少年の肩に手をかけて、
ボサボサの髪の健康そうな少女(これは自分だ)がカメラに向かってピースサイン
をしている。その隣で、大きなリボンをした少女がはにかむような笑顔を向けてい
る。真奈美だ。そして、少年の手しっかりと掴んだまま、上目遣いでカメラの方を
見やる、線の細い少女。
 ちく、と菜織の中でなにかが痛んだ。昨日の正樹の表情が、頭を離れない。その
せいか、普段は秒単位で寝つける菜織が(その代わり朝は弱いが)不思議と今日は
眠れなかった。さっきから、何度も目が醒めて、そのたびにアルバムのページをめ
くっている。
 ふう、と息をつく。自分は何を気にしているんだろう? 昨日の正樹はたしかに
変だった。あんな顔をした正樹は、7年前の真奈美との別れの日以来だったし、会
ってはいないが、乃絵美の様子もおかしかったらしい。今まで兄妹喧嘩らしい喧嘩
をしたこともなかったふたりが。
 そう、きっとふたりの間で、何かがあったんだろう。でも、それがどうしたとい
うんだろう? 多分、それは、ふたりにようやく訪れた、初めての兄妹喧嘩なのだ。
だからふたりとも戸惑っているのだ。あれだけ妹思いの兄と、兄思いの妹の間によ
うやく訪れた、小さな感情のすれ違い。遅すぎるほどの。はしかや水疱瘡を幼い頃
に経験しなかった子が、10代の後半になってそれにかかり、大変な思いをするよ
うな、そんな感じのもの。経験してしまえばどうということのない、せいぜい笑い
話くらいにしかならない、そんな類の──。
 そうに決まっている。
 けれど、と菜織は思う。
 けれど、思い出してしまう。あの雪の日のこと。目が醒めたらあたり一面の銀世
界で、はしゃいでしまった自分。さっそく真奈美を引き連れて正樹の家に押し掛け
て、『雪だるま、作ろうよ!』と叫んだ日。冬の冷たい午後、汗をいっぱいかきな
がら雪を集めて、大きな大きな、門よりもずっと大きな雪だるまをこしらえて、よ
うやく頭を乗せようとした、そのとき。
 無邪気に笑っていた正樹の顔に、しまったという表情が浮かんでいた。後悔を滲
ませた顔。『悪い!』ときびすを返して家に戻っていった少年を、呆然と見送った
自分。
 真奈美の声に視線を上げてみて、ああ、と思った。
 二階の窓から、ひとりの少女が手をついて、こっちを見ていた。水玉のパジャマ
を着た、お人形さんのような女の子。すこし気だるそうな表情を浮かべたまま、羨
ましそうな視線を送っている。ふと、その子が窓から視線を外し、部屋の方を向い
た。
 菜織は、そのときのその子の表情を、今でも憶えている。横顔だったけれど、そ
れは、とてもとても幸せそうな、嬉しそうな、きっと心の底から信頼と愛情を寄せ
る相手への、儚げだけれど、零れるような笑顔だった。思わず、菜織の小さな胸に
痛みを走らせるくらい、それは。
『乃絵美ちゃんじゃ、仕方ないよね』
 隣でそれを見上げていた真奈美がぽつりと言った。あのとき自分は何と返したろ
う? 『そうだね』と苦笑したような気がする。『しょーがないなぁ、じゃ、ふた
りで頑張って頭を上げよう!』とも。何事もなかったように。それから以後、あの
ときのことは菜織の胸の中に、小さな棘のように残っている。自分でも馬鹿らしい
と思う。乃絵美は正樹にとって大事な妹なだけなのに、だのに嫉妬してしまうこと
もそうだし、なにより菜織は乃絵美を本当に好きだし(今どきこんないい子は日本
のどこを探したっていないと思う)、下の弟妹がいない菜織には、乃絵美は菜織に
とっても妹のような存在だった。だからそんな感情はすぐに忘れようとしたし、現
に忘れたつもりでいたし、棘が刺さった小さな傷は、すっかり癒えたと思っていた。
 ──そう、昨日、正樹のあの表情を、見るまでは。
 菜織は思う。あの表情の奥にあったものはなんだろう? 正樹と乃絵美の間に、
何があったというのだろう? ただの喧嘩じゃない。それだったら、正樹も愚痴の
ひとつくらいこぼすはずだ。だのに、あのときの正樹は、何かを隠してるようだっ
た。知られたくない何かを。とすると、ふたりの間には、その“知られたくないこ
と”とやらが、起きたのだ。考えたくないが、それはきっと──
「って、バカみたい、あたし」
 菜織は苦笑して、そんな自分の馬鹿な考えを振り払った。結局、あたしはあの頃
となんにも変わっていない。妹相手に嫉妬して、勝手にあることないこと想像して、
本当、馬鹿だ。それに、乃絵美が悩んでいるんだったら、まっさきに相談に乗って
やるべきなのに、こんなことうだうだと思い悩んで、あんないい子を、ちょっとで
も疑ってしまった。
「あーあ」
 息を吐いて、菜織は布団の上にごろんと横になった。こんな夜に、あたしはなん
て馬鹿なこと考えてるんだろう? どうも、昨日の正樹の辛気くささが伝染したと
しか思えない。まったくあいつときたら、真奈美のときといい、苦労ばっかりかけ
て。
 よろしい、明日はあたしがひと肌ぬごう。乃絵美を捕まえて、じっくり話を聞い
てあげよう。極度のブラコンのあの子のことだ。正樹が家を出てしまうと知って、
気が気じゃないんだろう。正樹はそんな乃絵美と、自分の夢とが板挟みにあって、
苦しんでるに違いない。
 本当に、世話の焼ける兄妹なんだから、と菜織は思い、アルバムを乱暴に閉じた。
布団にもぐりこんで、目を閉じる。一瞬、7年前のあの情景が胸をよぎったが──
やがてそれはゆっくりと微睡みの中に消えた。


          5


 薄暗い部屋の中で小さく、衣擦れの音だけが響いている。
 ボタンを外す、ぷち、ぷち、という音。ブラウスがベッドに落ちる小さな音。ジ
ッパーが降りる金属音。そして、息づかい。
 やがて、ゆっくりと兄は、妹の体の上に覆い被さった。ベッドに右手をつき、左
手は妹自身に触れながら、何度もキスをした。甘い。脳が痺れるような、甘い舌を
味わいながら。
「ん……ふ、う……」
 声を殺しながら、乃絵美はむずかるように息をもらした。その潤んだ瞳が、じっ
と正樹の瞳に注がれた。カーテン越しに月明かりが差し込む。7年前と変わらない
ベッド。いつも妹はこのベッドに寝て、傍らに座る兄の帰りを待っていた。階段を
昇ってくる足音が耳に届いたときのあの気持ち。ドアが開いて、待ち望んでいた笑
顔が視界に広がった瞬間。どれだけ、幸せだったろう──?
 そのベッドの上で、あのときの幼い兄妹は、月の光を頼りに、こうやって体を重
ねている。お互いを、より近くに感じるために。それはおかしなこと? ううん、
そうは思わない。だって私は今、こんなに満ち足りてる。あのときと同じくらい、
ううん、あのときよりもずっと。
「……っ……」
 ぴと、と兄の“それ”が、妹の小さな“その場所”に触れた。びくっと全身が強
ばる。
 無意識に、乃絵美は正樹の肩に手を回した。何度となくおぶってもらったとき、
いつも体温を感じていたあの肩。しっかりとしがみついていれば、どんなことがあ
っても怖くないと信じた背中。
「…………」
 正樹が何かを呟こうとして、唇を閉じた。言葉はもう、いらなかった。
 視線が合った。
 正樹の瞳の中に、自分の顔が映っている。それはあのときの、兄の帰りをじっと
待つ、幼い妹の顔。
(──後悔、しないよね?)
 その少女に、乃絵美は心の中でそっと囁いた。
 少女は静かに笑って、小さく、けれどたしかにうなずき、そして消えた。
 そして、乃絵美は正樹の背中に回した手に、きゅっと力を込めて──目を閉じた。
「……!……」
 瞬間、自分の下半身に、灼けつくような熱を、乃絵美は感じた。続いて、引き裂
かれるような痛み。つぐんでいた唇が、音を求めて開く。
「あ! あ! あ! あ! あ──!」
 自分が、思い切り正樹の背中に爪を立て、血を滲ませているのにも気づかなかっ
た。
 激痛。そして全身を駆けめぐる、凄まじい熱が、乃絵美の思考を犯していった。
「んう、あ、あ、あ……!」
 けれども、そう、けれども、ずっと前から乃絵美が思い描いていたように、その
痛みも、熱も、けして不快なものではなかった。
 かすれてしまいそうになる思考の中で、乃絵美は叫んだ。もう、何も考えられな
かった。唇が、ただひとつの言葉だけを刻む。今まで何度も、何千回も、様々な思
いをこめて刻んだあの言葉を、真っ白に染まっていく思考の中で、ただひとつ見つ
けた道しるべのように、何度も、何度も、叫び続けた。
「おにいちゃん、おにいちゃん、おにいちゃん、おにいちゃん……!」
 やがて、今までとは比較にならないほどの、圧倒的な熱が乃絵美の中を駆けめぐ
り──
 乃絵美の思考は、そこで途切れた。

小説(転載)  インセスタス Incest.4 優しい棘 1/3

官能小説
05 /03 2019
「いや、こういうわけなのだ、兄上の子よ」
 叔父は長い顎ひげをしゃくりあげ、
「こやつは──わしの息子だが──幼少の頃からおのが妹に恋焦がれておったのだ。
まあ、その頃はわしも取るに足らぬものだと思っておった。『ふたりともまだ子供、
大目に見てやるとしよう!』と。しかしそうではなかった。物心つく頃すでに、こ
のふたりはけしからぬ関係を互いの肉体に結んでおったのだ。それを聞き知ったわ
しは、とうてい信じることができなかったが、ともかく息子を呼びよせて叱責した
のだ。
『貴様がしたことは不届ききわまる所業だ。兄妹相姦など貴様の前に何ぴともした
ことなく、貴様の後も何ぴともしないことだろう。おお、我が一族の名は諸王の間
で恥辱と汚名にまみれるぞ! 貴様の悪徳は騎馬が千里を走りこの世のあまねく地
へ広めるであろう! 身を慎め、自戒せよ。さもなくば貴様はわしに呪い殺される
こととなるぞ!』
 そうしてわしはあやつから妹を遠ざけ、ふたりを隔てるように心を配った。しか
しどうだ、この妹までも──いや、この妹こそより強い愛でおのが兄を慕っていた
と思わねばならぬ。以後もふたりはわしの目を隠れ、悪魔の逢瀬に身を焦がしてお
ったのだから!
 この地下の場所は息子めがその逢瀬の場所にと密かに用意しておいたものに相違
あるまい。わしが狩りに行っておる間に、ふたりはここでかかる所業に及んでおっ
たのだ。しかし至高なる存在はけしてこのふたりを許しはせなんだ。アラーの雷は
地下もろともふたりを焦がしつくし、もろともに焼き殺した! けれども苦しみは
これでは終わるまい。かかる罪は未来永劫続くであろうから──」

                         千夜一夜物語 第十二夜




Incest.4 優しい棘



          1


 インセストは悪徳であるのか? ──という命題に、人はどう答えを出すべきな
のだろう。
 またもし、悪徳であると断罪するならば、人は過去犯してきたその事実をどう肯
定すべきなのか。人類の祖、楽園を追われたアダムとイブ。世界でたった二人の男
女。彼らはどうやっておのが子孫を増やしたのか? 神によってひとつがいだけ生
きることを赦されたノアの夫婦は? そして、明らかに父娘相姦の罪を犯したロト
を、神は、聖書は、弾劾したろうか?
 記録的信憑性のない聖書の時代を省くとしても、それが悪徳であるとするなら世
界はなぜこれだけ近親相姦者(インセスタス)を生んだのか。バイロンと姉オーガ
スタ、チェーザレ・ボルジアと妹ルクレチア、ニーチェと妹エリザベート、ワーズ
ワースと妹ドロシー、そして14歳の愛娘ベアトリーチェを監禁し陵辱したフラン
シスコ・チェンチ! ──それが罪であることを知りながら狂恋に身を任せた人々。
 人は、本当にインセストを嫌悪しているのだろうか? いや、嫌悪したがってい
るのではないか。嫌悪というヴェールに包んで、奥に潜む感情を隠しているのでは
ないか。それは恐怖であると同時に、羨望──。でなければ、人はあれほど美しい
インセストの物語を──ダレルやマンが書くように──紡ぐはずはない。
 パタン、と読んでいた本を閉じて、井澄潤は嘆息に似た息をもらした。皮で装丁
された表紙を、感情の読みとれない瞳で見やる。寄り添うように眠る、兄妹であり、
恋人である──少年と少女。
 井澄は思う。やはり──インセストは悪なのであろう。昼間伊藤正樹にはああ言
ったものの、公序良俗という人間社会を形成する規範にとって、やはりそれは悪で
しかありえない。そう、社会にとっては。
「…………」
 井澄は、今度ははっきりと表情に出して、深く嘆息した。社会にとっては悪、だ
から己にとっても悪──そう割りきれたら、人はどれだけ楽に生きていけることだ
ろう? だが、けしてそうではないことを井澄は知っている。インセストは個とい
う意味での人にとっては──けして悪ではない。人と人が求め逢うこと。どんな形
であれ、そこに悪という倫理が介在する余地があるだろうか? いや、そこに倫理
などない。あるのはただ、純然たる欲求だけしかない。
 そしてそこにこそ──インセストの悲劇があるのだろう。
 当人たちにとっては、自然な欲求によるものだとしても、社会はそれをけして善
しとはしない。悪と断罪され、有言無言の圧力によって必ず押し潰される。当人た
ちの想いが強ければ強いほど、それを押し潰そうとする見えない力は増大する。よ
り過酷な悲劇を伴って──
(──鉄の鎧戸のように、罪は落ちてくる)
 ダレルの言葉を呟きながら、井澄。おそらく、それは逃れようのないものなのだ
ろう。
 昼間、伊藤正樹と言葉を交わしたときのことを、井澄は思い浮かべた。戸惑いを
色濃く残した目。未だ自分の中に眠る感情の存在が信じられない(信じたくない?)
ような、そんな表情。まるで──鏡を見ているような気分だった。
 ふと、伊藤正樹のことを思った。奴はどうしているだろう? 全ての感情を押し
殺して、拒絶しただろうか。それとも全ての崩壊を覚悟して、何もかもを受け入れ
ただろうか?
 ふたたび、表紙に目をやる。微睡みに身を任せ、寄り添う兄と妹。社会という巨
大な圧力がふたりを押し潰し、やがてその命を奪うであろうことを、このふたりは
気づいていたのだろうか? この幸福に満ち満ちた寝顔は、すべてを知りつつもそ
れを受け入れ、束の間の幸福を享受する幼い恋人たちの顔なのだろうか?
 井澄は目を閉じた。
 奴はどうしているだろう? もう一度思う。
 奴はどう選択したのだろうか? 自らを偽ることを選んだか。それとも──。
 奴は──どうしているだろう?



「……っ……」
 舌を離すと、つうと唾液の線がナイトテーブルの薄明かりに反射してきらめいた。
そんなはずはないのに、なぜだかひどく甘い味がする。乃絵美の背に回した手が、
かすかに震えるのを感じながら、正樹はその感覚を振り払うように乱暴に、乃絵美
を抱き寄せた。
「……あっ」
 乃絵美が小さく声をあげる。触れあう肌が灼けつくように熱い。体をめぐるその
熱さに身を任せながら、正樹は片手でひとつひとつ、乃絵美のワイシャツのボタン
を外した。最後のひとつで、手が止まる。ためらいがちに顔を上げると、乃絵美が
じっと自分を見やっていた。
「…………」
 絡まる視線。むちゃくちゃにからまった糸のような想いが、頭の中で暴れている。
物心ついた頃から、ずっと傍にいた妹。いつまでも笑顔でいてほしいと願った、大
切な妹。
(なのに、俺は──)
 正樹は唇を噛んだ。そんな妹を自分は今欲しいと思っている。これでいいはずが
ない。いいはずがないのに、強い磁力に引かれるように、視線を外すことができな
い。乃絵美の潤んだ瞳が、冷めかけた理性を焦がし、正樹は乃絵美を抱く手に力を
込めた。左手で乃絵美を抱き寄せながら、右手で最後のボタンを外す。正樹はブラ
ウスの上から乃絵美の胸を軽くなぞった。
「──んっ」
 乃絵美が、くぐもったような声をあげた。ささやかだが、確かなふくらみが正樹
の指に弾力を返した。今度はゆっくりと、てのひら全体で撫でる。ブラウス越しに
じっとりと汗ばんだ乃絵美の胸が、正樹のてのひらに合わせて健気に上下した。ど
く、どく、どくという早鐘のような乃絵美の心音が肌を通して伝わってくる。
(乃絵美──)
 正樹は思う。どこでなにが、狂ってしまったのだろう。どうして今自分は、実の
妹とこんなことをしているのだろう?
 滾るように熱をもった思考は、答えを出してくれなかった。ただひとつ分かって
いるのは、自分は誰よりも、今自分の腕の中で吐息をもらすこの小さな少女を大切
に思っているという事実。──どんな宝石よりも。
 泣かせたくなかった。ずっと笑顔でいてほしかった。そのためなら自分は何でも
するつもりで、ずっとこの幼い手を引いてきた。転んだら抱き上げて、涙を拭いて
やって──だから。
 だから、俺は──この子が、今、この瞬間を望んでいるのなら。
「あっ」
 乃絵美が声をもらす。正樹がブラウスの下に手を差し込んだのだ。上へとずらす。
小振りな乃絵美の白い双丘が露わになる。
「お兄ちゃん」
 乃絵美がうわごとのように言った。「お兄ちゃん」。繰り返す。
「…………」
 正樹は返事をする代わりに、乃絵美の首筋にそっと口づけた。
「……っ……」
 乃絵美が声を殺す。ぶるっ、と肩が震えた。
 そう、この子が望むなら。この子がずっと──笑顔でいてくれるのなら。
 正樹は乃絵美の胸にそっと手を触れた。薄いが、果実のように張りがあるそれを、
痛くないようにゆっくりとさする。
「おに……ちゃ……あっ」
 俺は──堕ちていける。


          2


「伊藤正樹君、だね? 突然押し掛けてすまなかったね」
 あのときだった。乃絵美は思う。ひとりの人間の訪問が──あるいはひとりの人
間の言葉が、運命を変えてしまうことがあるのだとしたら、それは、あのときだっ
た。
 ある日曜日の午後──正樹の秋の大会のすぐ後だったから、10月の末くらいだ
った──伊藤家を訪れたその人物はそう言い、戸惑う正樹に右手を差し出した。
 片桐隆史。
 それが、その人物の名前だった。中肉中背の、少し鋭い目をした人。傍で聞いて
いた乃絵美はその名前について何の知識もなかったが、正樹は驚きを隠せないよう
だった。どうやら、陸上界では著名なアスリートらしい。そういえば、いつだか正
樹がテレビを観ながら口にしていた陸上選手のひとりが、そんな名前だったような
気がする。
 乃絵美は訪問客のために紅茶を煎れながら、リビングでのふたりの会話に耳を傾
けた。なぜか胸がさわぐ。この胸を走る言いようのない胸さわぎは、なんだろう?
そんな乃絵美の想いをよそに、正樹は身を乗り出すようにして突然の訪問者と、受
け取った名詞との間で視線をさまよわせている。
「片桐さん……あの片桐隆史さんですか?」
「ああ、よかった。実は『どちら様ですか?』なんて言われるんじゃないかと思っ
て、少し不安だったんだよ」
「まさか……! モントリオール国際競技会7位、サンフランシスコで総合5位、
スペイン大会も観ました。片桐さんほど海外で実績を残した選手を、知らないはず
がないですよ」
「有り難う。……スペインか、懐かしいな。予選落ちした大会なのに、よく覚えて
いてくれるね」
「そんな、あのアクシデントさえなかったら、片桐さんが決勝に行ってたに決まっ
てます。決勝に行ってたら、今度こそメダルだって無理な話じゃなかったはずです」
「そう言ってくれる人は多いんだけれどもね」
 苦笑めいた響きをにじませながら、片桐。
「結果がすべてとは言わないけれど、ほぼすべてであると僕は思うよ。隣コース走
者の転倒に巻き込まれて転倒──同情してくれる人は多いけれど、数字上の結果と
してみれば何も残せない大会だったな。少なくとも僕にとっては」
「…………」
「あ、すまない。君がそんな顔をする必要はないんだ。そう思ってくれていること
は素直に嬉しいよ。それに、今日は僕の話なんてどうでもいいんだ。今日は君の話
をしたくて、来たんだしね」
「俺の──ですか?」
 戸惑う正樹の声と、乃絵美が煎れた紅茶のカップを置く、こつ、という音が重な
った。片桐は「有り難う」と言ってカップを手に取り、話を続けた。トレイを胸に
抱えたまま、乃絵美はソファから三歩ほど離れたところに立った。
「知ってるかもしれないけど、僕は今は現役を退いていてね。後進を育てることに
専念してる」
「はい、たしか母校の城南大学でコーチをなさってるってなにかで読みました」
 城南。その名前くらいは乃絵美も知っている。陸上の名門中の名門。大学自体の
レベルも高く、リベラルな学風で知られ、八王子に大きなキャンパスを持つ私大。
「うん。まあ、引退しても情熱冷めやらずというかね。とにかくそんな仕事をして
るよ。陸上界に貢献──ってのは建前で、まあ、往生際が悪いんだな。自分じゃも
うあの舞台に立つことは無理だから、あの舞台に立ち、僕の代わりにテープを切っ
てくれる人間をひとりでも僕の手で送り出したい。それが正直なところさ」
 本当に突然な話で申し訳ないんだけれどね──片桐隆史という人がそう切り出し
たとき、乃絵美は一瞬、奇妙な不安感にとらわれた。無意識に、きゅっとトレイを
抱えた手に力がこもる。言いしれぬ不安。彼が次に用意しているひと言が、全てを
変えてしまうような──そんな予感がした。
「そうだね。単刀直入に言おう──」
 そして、その言葉がすべりでた。
「──伊藤君、城南に来ないか?」
「え?」
 正樹が驚きの声を上げ、同時に乃絵美の胸も強く鳴った。
「俺が……ですか?」
「ああ。正直に言ってしまえば、君のレベルは神奈川県下の高校生レベルからすれ
ば出色ではあるけれど、現在の城南のそれと比べればせいぜいが中の上と言ったと
ころだろう。けれどね、それは現時点での話だ。僕はね、実際──驚いてる。去年
から今年の頭にかけて意識的に君を見てたけど、フォームは荒いしストライドにも
ばらつきがある。いわゆる、荒削りの域を出ていないんだな。君の顧問の先生には
失礼だけど、君はスプリントのきちんとした指導を受けたことがないだろう? ほ
ぼ独学なんじゃないかな。極端に言ってしまえばそれが君が県下“一”になれずに
県下“有数”で止まっている最大の要因なわけだが……」
 片桐は言葉を切って、カップをソーサーに戻した。カチン、という音が乾いた部
屋に響き、乃絵美は僅かに身をすくませた。
「それだけに、驚いてる。君はセンスだけであれだけのタイムを出してるんだから
ね。私見だけど、まず間違いない。君の骨格、筋肉の付き方からみて、もう少しス
トライドを大きく正確に取って、フォームを整えれば、コンマ2秒、いや3秒は縮
められる」
 でもね、と片桐は続けた。ごくり、と正樹が息を飲む音が、乃絵美の耳に届いた。
「けれど、今のままでは無理だ。君にとっては今の状態こそが自然な常態であるだ
ろうからね。それを壊すことは、君自身の意志と努力では難しいだろう。どうして
も客観的な立場からの的確な指導、充分なスパンをもった計画的な練習が不可欠だ。
城南にはそれがある。君も色々なところから話が来ていると思うけど、他の大学で
は君の持ち味を殺すことを怖れて、それをしないだろうね」
「…………」
「どうだろう、少し考えてみてくれないか? 答えは今すぐでなくてもいい」
 穏やかな笑みを浮かべて、片桐。その言葉の端々から自信と、意志の強さが溢れ
ている。正樹は戸惑ったように中空を見やっている。迷ってるんだ、と乃絵美は思
った。正樹は今、岐路に立っている。スプリンターとしての岐路。しばらくして、
正樹はゆっくりと顔を上げた。
「しばらく、時間をくださいませんか?」
「ああ、もちろんだ。ゆっくり考えてくれていい」
 片桐の言葉に、正樹はうなずいた。迷いの中に、強い意志の光のともった目。ど
きり、と乃絵美の胸が鳴った。なぜだか、ひどく遠くに正樹を感じる。なぜだろう、
嬉しいことのはずなのに。祝福すべきことであるはずなのに。胸が不安と喪失感で
埋めつくされる。
 遠くへ行ってしまう。
 正樹が、自分の知らない遠くへ行ってしまう。
(どうして?)
 乃絵美は自問した。どうしてそれが怖いんだろう。寂しいから? ううん、それ
だけじゃない。──嫌なんだ。お兄ちゃんと離ればなれになるのが、嫌なんだ。ど
うして? どうして嫌なんだろう?
 ──どうして?



「ふ……はッ」
 答えは、もっとも近く──あるいはもっとも遠い場所にあった。何度目かのキス
とともに、乃絵美は理解した。子供の頃からずっと不思議に思っていた。どうして
お兄ちゃんを好きになっちゃいけないんだろう? 小学生の頃、クラスのわけ知り
の子が言った「兄妹は、結婚できないんだよ」という言葉に、乃絵美は強い疑問を
感じたことを思い出す。どうして、どうしていけないの?
 けれど──こうやって肌をあわせてみると、雪解けのようにすべてが分かる。た
とえどうであっても、わたしはお兄ちゃんが、この熱いぬくもりで自分を包んでく
れる、このいとしいひとが、好きなのだ。だから離れたくない。ずっと傍にいてほ
しい。キスをした夜にふと気づいたそのことを、今、体のすべてが確信している。
 だからこんなにも、胸がどきどきしている。
 こんなにも、体が熱をもっている──溶け合うくらい。
「……っ……」
 熱情が、体の中を駆けめぐり、思考すらやがて冒されていくような、そんな感覚
に乃絵美は身をまかせた。

eroerojiji

小さい頃からエロいことが好き。そのまま大人になってしまったエロジジイです。