小説(転載) インセスタス Last Incest 明日 3/7
官能小説
4
校舎裏は、まるでひと足先に夕暮れになったかのように薄暗かった。というのも
フェンスを隔てたすぐ先はちょっとした雑木林になっているからで、ことに日が傾
きかけたこの時間帯は、葉を大きく広げた木々に遮られて、まばらな光しか届かな
い。
まるでここだけ時間の流れが早いみたいだ──、と自転車置き場を抜け、目指す
場所に差しかかろうとした正樹はぼんやりとそんなことを思った。あたりは水を打
ったように静かで、まるで人の気配というものを感じない。痛いくらいの静寂──
(ただ二人の息づかいをのぞいては──)に包まれた小さな世界を、冬の冷たい風
がそっと撫でた。
「…………」
その風が、正樹の眼前に立つ少女の髪をふわりとはためかせた。少し赤みのさし
た瞳で、形のよい唇を固く噛みしめながら、矢のような視線をまっすぐ、正樹に向
けている。
それは、正樹にとってもっともなじみのある少女の顔だった。乃絵美を別にすれ
ば、おそらく誰よりも多く見てきた顔。鏡でしか見ることのできない自分の顔より
も、多分ずっと親しみを覚えていたその少女の顔。
その顔が、今は正樹が見たこともないような沈鬱さをたたえて、じっと視線を向
けていた。ろくに寝ていないのだろう、目頭はやや腫れているようで、シャギーの
入った艶やかな髪も、今日は少しぱさついているように見える。
「──菜織」
重い沈黙を押しのけるようにして、正樹はその名前を呼びかけた。
その声に菜織はなにかを答えようとして唇をひらきかけたが、それを思いとどま
るかのように右手をきゅっと握りしめて口をつぐんだ。痛いくらいに力が込められ
ているんだろう、固く握りしめられた拳が小刻みに揺れている。
その時初めて、正樹は菜織の右手の甲が白い包帯で覆われているのに気づいた。
五重ほどに巻かれた白い布の先から細い指が見え、かなりきつくしばっているのか、
それとも鬱血しているのか──その指先は僅かに桃色に染まっている。
「菜織、どうしたんだお前、その手──」
思わず呟いた正樹に菜織は強く頭を振ると、
「正樹」
と小さく呟いた。──それは本当に小さな呟きだったけれど、ひどく鋭く、そし
て重みをもった響きに、正樹には聞こえた。
「……わたし」
菜織は続けた。
「わたし、もうなにがなんだか、わかんない」
言いながら、一歩足を前に踏み出す。それに合わせるかのように冷たい風が吹き
抜けて、フェンスの向こうの木々をざあっと揺らした。
「……なんだよ、急に?」
「乃絵美、言ってた」
苦笑しようとする正樹の耳を、菜織の次の言葉が打った。心臓がどきりと鳴る。
言ってた? 何を?
「言ってた、あの子。わたしはお兄ちゃんが好きなんだ、って。そしてお兄ちゃん
も、その気持ちを受け入れてくれた、って──」
そして、どこか救いを求めるような目で、正樹を見やった。
「ね、これってさ──なんかの冗談なんでしょ? もしかしてさ、9ヶ月遅れのエ
イプリルフールって奴? 去年あたしの嘘にまんまとひっかかった、その仕返し?」
気が付くと、菜織の顔はすぐ眼前にあった。おびえと、戸惑いと、あるいは怒り
もだろう、複雑な色をたたえた瞳が、息のかかるほどの距離にある。
「菜──」
「答えてよ!」
菜織が叫びながら、正樹のワイシャツの襟元を掴んで、強く揺すぶった。
「ねぇ? 冗談なんでしょ?! 二人して、あたしをからかってるんでしょ? 本
気なわけないよね? だって、だってあんたと乃絵美は兄妹なんだし、そんなこと、
許されるはずがないんだし、あっていいはずが、ないんだし──」
「菜織」
「ね、嘘なんだよね? 演技なんだよね? 乃絵美の話だって、昨日キスしてたの
だって、全部、全部、あたしを騙そうっていう──」
「菜織!」
駄々っ子のように暴れる菜織の両腕を押さえながら、正樹は声をはりあげた。思
いのほか強い声だったのだろう、びくっと菜織が肩をすくめる。すでにその両目は、
涙で濡れていた。
「菜織、俺は……」
「……裏切るんだ」
ぎゅ、とワイシャツの襟を掴む指に力がこもった。
「裏切るんだ、あんたは! あたしを! 真奈美を! 冴子を! ミャーコを!
みんな、みんな、裏切るんだ! 真奈美になんて言えばいいの? 『正樹に恋人が
出来たみたい。乃絵美ちゃんだって』って? そんなの、納得できるわけない。だ
って、実の妹じゃない。そんなの、狂ってる。狂ってるよ──」
「それでも──」
き、と菜織の視線を見つめ返して、正樹は答えた。
「それでも、一緒にいたいんだ。俺たちは」
「……!」
その声に、まるでマイナスの磁力に弾かれたように、菜織は身をもぎ離した。そ
の顔が興奮で赤く染まり、そして冬の冷気と屈辱とでゆっくりと白く色が抜けてい
くのを、正樹は滲む視界のまま眺めた。
「なにもかもを、犠牲にして?」
「…………」
「陸上も、あたしたちも、全部全部捨てて、乃絵美を選ぶの?」
救いを求めるような声と視線で、菜織が囁くような小さい声で言った。正樹は思
った。この声に、どれだけずっと、力づけられてきたことだろう。真奈美がいなく
なって、茫然自失の自分を、何くれとなく励まし、叱咤してくれたのは、紛れもな
くこの声だった。
けれど。
けれど今は、この声は、断ち切れなければならない。
「ああ」
そして、正樹は答えた。
「それでも俺は、乃絵美といたい──」
「……!」
ぱん、と乾いた音と熱が、頬のあたりで爆ぜた。続けて胸にどん、と軽い衝撃。
「あんたは……!」
包帯から血を滲ませながら、菜織が何度も、何度も胸を打ち付けてくる。
「あんたは、あんたは、あんたは、あんたは……!」
悲痛の叫びとともに、何度も、何度も。
「知ってるくせに! 真奈美の気持ちも、冴子や美亜子のことも、……あたしの気
持ちだって、全部、全部、知ってるくせに! それでもあんたは、乃絵美を、実の
妹を選ぶんだ。もう、普通じゃいられないんだよ? みんなが気持ち悪がる。みん
なが、怖れる。それでもあんたは、あんなに好きだった走ることだって諦めて、城
南のスカウトだって断って、乃絵美を選ぶの? あんたの人生全部捨てて、あの子
を選ぶの──?」
「捨てるとか、諦めるとか、そういうことじゃなくて──」
強い風が吹いて、木々が音を立てて揺れた。
「ただ、俺は──」
そして、正樹の言葉は、じゃり、という強く中庭の土を踏む靴音に遮られた。び
くり、と胸の中の菜織が身をすくませる。その顔がだんだんと蒼白になってゆくの
を、まるで遅回しのフィルムを眺めているようにぼんやりと、正樹は見やった。
そして、弾かれたように振り返る。
「──今の話は、本当なのか、伊藤?」
そこには、顧問の田山が立っていた。記録のチェックをしていたのだろう、薄茶
けた大学ノートを手にして、無精ひげまじりの顔に、鈍い怒りをたたえながら、じ
っと正樹を見据えている。
「あ……」
呆然としたような菜織の声をどこか遠くに聞きながら、正樹はただ立ちつくして
いた。
──びゅう、と中庭に冷たい風が吹いた。
5
どく──、と心臓が跳ねるような音がした。
それは乃絵美には読めようはずもない、海も、時すらも隔てた遠い異国の文字で
あるはずなのに、不思議と奇妙な情感と重みをもって、どくん、と乃絵美の胸を強
く打った。
(──最愛の、姉に)
そう呟く井澄の声が耳を打つ。少しずつ、心がかき乱されてゆくような感覚。握
りしめた手に、ふと力がこもった。
「愛して──いたんですか? その人は、……実の、お姉さんを?」
乃絵美の言葉に、井澄は静かにうなずいて答えた。
「もちろん、そう明示する証拠はなにもない。けれど彼の著作、姉との間に交わさ
れたほんの僅かな書簡には──その端々から、行間から、彼の姉クローディアに対
する想いが溢れている。純粋な思慕。精神的・肉体的な欲求、その満たされぬ想い、
憤懣──彼の愛と苦しみがだ。彼の著作はね、そのすべてが、インセストの物語だ。
塔に幽閉された男とその娘の話、フリジアの老王と孫娘の話、そしてユージニーと
デュアン──死をたったひとつの寄る辺とせざるをえなかった、幼い恋人同士の兄
妹──彼はついに、姉と弟の物語は書かなかった。彼はいつも、時代を、場所を、
立場を変えて、姉への想いをペンにぶつけていたんだろう。迷宮じみていると知り
ながらも、いつも──」
そう、想っていた。たぶん、子供の頃からずっと。「乃絵美は、本当にお兄ちゃ
んのことが好きなのね──」ぼんやりと覚えているお母さんの言葉。ランドセルが
取れる頃、そんな「好き」という気持ちにも色々と種類があることを知って、自分
の「好き」が兄妹愛というものに分類されるものだということを知らされた。
けれど、思う。そんなカテゴライズに──本当にどんな意味があるというのだろ
う? ただ好きなのだ。本当に、ただ、それだけなのだ。そして、自分が思うのと
同じくらい、自分を好きになってほしい。ただ、それだけなのに──
(知らないの? 兄妹同士は、結婚できないんだよ? だいいち、そんなのおかし
いじゃん──)
どうして、許されないのだろう。
「…………」
ふと、視線を戻す。色褪せた本。寄り添って眠る、少年と少女の絵。そのあどけ
ない寝顔に不意に何かが重なって、乃絵美は思わず強く唇を噛んだ。
「だから、彼は自ら死を選んだのだろう。クローディアの結婚相手は土地の有力者
で、意に添わぬ相手だったが、弟の援助や、今まで親なしの姉弟を育ててくれた叔
父夫婦のために、彼女は承諾せざるをえなかった。世界の前に彼はあまりにも無力
で、彼はペンを折り、酒に溺れ、絶望し──そして死を選んだ」
ああ、と乃絵美は思った。それは滑稽な死かもしれない。実の姉に熱をあげて、
挙げ句の果てにその姉が結婚し、他人の物になることに絶望し、現実を拒否し──
死を選択した。それは奇矯であり、異常であり、常軌を逸しているといえるかもし
れない。
けれども──乃絵美は思う。
どれだけ、想っていたのだろう?
どれだけ、愛していたのだろう?
姉と弟。けして結ばれようもないはずの相手なのに、押さえきれずに溢れ出す想
いに身を焦がしながら、いったいどれだけ、この人は声なき叫びをあげていたのだ
ろう。
ふと、なにか熱いものが乃絵美の頬を伝った。それが涙であると気づいたのは、
こぼれた雫がぽたりとリノリウムの床を濡らした後だった。泣いてるんだ、わたし
──どこかぼんやりと乃絵美は思った。すべてが、緩慢に動いているような、そん
な感覚の中、ぽたり、ぽたりと幾つもの雫が頬を伝って冷たい床に流れ落ちた。
不思議だった。読んだことも、聴いたことも、今まで名前すら見たことのない、
ひとりの作家の短い生涯に、なぜこんなにも心を動かされるのだろう? 井澄の話
はあまりにも唐突で、脈絡もなく、泥々とした感情をただぶつけられているだけな
のに、なぜわたしは涙を流しているんだろう。
分からない。なにもかもがどろどろと煮えたぎった濁流になって、乃絵美の躰を
駆けめぐっているような気がする。ただひとつ感じているのは、それは狂おしいま
での共感だった。ジェスリー・ラインコックという作家に感じる、それは、身を切
るほどの。
(──最愛の、姉に)
同じだ、と乃絵美は思った。
このひとは、わたしと、同じなんだ──。
「何ものにも揺るがぬ、真実の愛というものが、この世界にあるとして──」
涙まじりの乃絵美の視線を受けて、ぽつりと井澄が呟いた。
「僕らは本当に、その慨然性を信じていいんだろうか? ──愛は本当に、“絶対”
なのだろうか?」
古びた机に腰を預けて、手にした本の装丁をそっと撫でつけながら、続ける。
「もし愛が絶対だというのなら、なぜジェスリーはその愛にこそ狂い──自ら死を
選んだのだろう? なぜそこには救いがなかったのだろう? なぜユージニーとデ
ュアンの二人は、死の奈落へと落ちねばならなかったのだろう? キリストがいう
ように、この世界の最も尊い感情が愛だというのなら──その愛にこそ殉じた彼ら
がなぜ、報いを受けねばならなかったのだろう?」
「…………」
「なぜだろう──なぜ? 愛が絶対なのなら、どうして“許されぬ”愛なんてもの
が、この世に存在するんだろう?」
──なぜ、と本を握る手を僅かに震えさせながら、井澄が小さく呟いた。それは
常の彼を知るものからすればあまりにも弱々しく、儚い呟きであるように、乃絵美
には思えた。そう、まるで幼子のような──
「わた、しは──」
そして、乃絵美は答えた。掌をきゅっと握りしめ、うつむきそうになりながらも、
それでも顔をあげた。色素の薄い井澄の瞳が、図書室の灯に触れて淡くゆらめくの
を見ながら、まるで目の前の井澄が作家その人であるように、その小さな唇を開い
た。それでも、そう、それでも──
「難しいことは全然分からないけど、それでもわたしは──」
ざん、と窓の向こうの樹が風に枝をたなびかせた。
「好き、なんです。好きになって、もらいたいんです」
そうだ。愛というものがどんなものかなんて、全然分からない。これだけ人間が
いて、これだけの時を生きてきて、これだけ同じことを考え続けてきているのに─
─答えが出ないことなのだ。分かるわけがないし、そもそも答えなんて存在しない
のかもしれない。
でも、これだけは分かる。正樹と一緒にいたい。一緒にご飯を食べて、「おはよ
う」と笑いかけてもらって、髪を撫でてもらって、手を繋いでもらって、頬に触れ
てもらって、抱きしめてもらって──同じ空間で、同じ時を過ごしたい。それが兄
妹愛なのか、恋愛感情なのか、そんなものはもう、どうでもよくて──
「ずっと一緒にいたいんです」
そういうことなんだ。
「その想いが否応なく、自分を、相手をも傷つけるものだとしても?」
井澄の問いに、乃絵美は頭を振った。分かっていたのだ。そしてその気持ちが、
どれだけ一方的で──自分勝手なものだったのか。正樹がどれだけの苦しみの中で、
「好きだよ」と言ってくれたのか。そしてその代償に、どれだけ多くのものを失う
のか。抑えなければいけなかったのだ、この想いは。春の雪のように、心の中でゆ
っくりと溶かしていかなければならなかったのだ。だけど、駄目だった。一緒にい
たかった。離れたくなかった。だって、こんなにも好きなのだ。どっちの気持ちも
嘘じゃないのに、正樹を想うその気持ちが、正樹を苦しめているという現実。アン
ビヴァレンツ。インセストの二律背反──。
「分からないんです、分からない。お兄ちゃんからなにもかも奪ってしまうことく
らい、分かってるのに、それでも一緒にいたいんです。わたしにはただこれだけし
かなくて、その気持ちに嘘なんてつきたくないのに、それがお兄ちゃんを苦しめて
る……!」
それは、残酷なまでの二者択一なのだった。乃絵美と、それ以外のすべて。思え
ば、そんな残酷な選択を容赦なく、あの夜の自分は迫ったのだった。そして、結ば
れた。自分以外のすべてを捨て去ることを、正樹に選ばせた。陸上も、友人も、菜
織も、真奈美も、冴子も、美亜子も、何もかもを。
今正樹がどれだけ苦しんでいるのか──乃絵美は痛みとともに思う。これが単純
なラブストーリーであるのなら、あの夜結ばれた二人は、そのままいつまでも幸せ
に暮らしていけるのだろう。でもこれは違う。始めてしまったのだ。エピローグで
はなく。昏い、インセストの闇の中を彷徨う物語を、あのとき始めてしまったのだ。
なのに、どれだけ愚かなのだろう、自分は。
それでも自分は、今の正樹とのこの時間を、なによりも愛しいと思っている──。
「インセストを貫くには」
絞り出すような声で、井澄は呟いた。力無く、高い天井を見上げながら、息をつ
き、続ける。
「それはふたつの要因いずれかに頼らざるをえない。強大な権力、──もしくは孤
絶した環境、いずれかにだ。そのどちらも持ちえない君たちが辿る道は、限りない
苦難と、猜疑と、侮蔑と、排斥に満ちるだろう。それでもなお、進むだけの強さが、
君たちにはあるのか?」
乃絵美はほんの少しだけ思った。正樹とふたりで、誰も知らないどこかの土地で、
静かに暮らすビジョン──(そしてその究極にある死、というものを、少しだけ思
った)──たぶん、現実が非現実的かは別として、それが最良の選択なのだろう。
二人以外誰も知らない世界に行けば、きっとすべてが上手くゆく。たとえそこが死
の奈落だとしても、二人でならば──
「……!」
いつの間にか、痛いほど握りしめてしまった掌に気づいて、乃絵美は我に返った。
高ぶっていた感情がゆっくりと静まってゆく。そして思う。捨てさせたくない。正
樹から、あの笑顔を、夢を、奪いたくない。それを奪おうとしている自分が思うの
も烏滸がましいが、正樹には、今のままの正樹でいてほしいのだった。
本当に、なにが本当に、“大切なこと”なんだろう?
正樹の傍にいられること。正樹に、夢を叶えてもらいたいこと。そのどちらもが
本当の気持ちで、そしてそれはもう、相容れない。
どうして、こんなことになってしまったんだろう。ただ、一緒にいたかっただけ
なのに。好きというこの気持ちを、伝えたかっただけなのに。
どうして──
「わたしは──」
乃絵美の次の言葉を遮るように、ポーン、と図書室のスピーカーが電子的な鐘の
音を奏でた。そしてどこか抑揚のない男性の声が、広い図書室の中に響きわたった。
『2年C組伊藤乃絵美さん、2年C組伊藤乃絵美さん、至急生徒指導室までお願い
します。繰り返します。2年C組伊藤乃絵美さん──』
「……あ……」
放送がやみ、図書室はふたたび静寂が戻った。そしてどこか、場を支配していた
不思議な熱気も、はらわれたようだった。それを代弁するかのようにどこか気怠げ
な視線で井澄は乃絵美を見やると、
「ああ、もうこんな時間か」
と呟いた。乃絵美が時計を見やると、長針はもう5時を幾分か回っていた。
「あの……」
「ああ、行くといい。戸締まりは僕がしておくから。──鍵は?」
「あ、はい」
ポケットにしまっていた鍵束を取り出して乃絵美は井澄に手渡すと、鞄に手を延
ばした。それにしても、なんだろう。この前だした進路希望のプリントのことだろ
うか?(進学はしないという方に○を付けたのを覚えている)でも、あの声は乃絵
美の担任の声ではなかったような気もする。
そしてふと、正樹のことに思い当たった。部活が早く上がれば図書室の方に来る
と言っていたから──もうすぐ来るかもしれない。どうしよう、井澄先輩に言付け
を頼んでおくべきだろうか?
「あの──」
「ん?」
「あ、いえ……」
ふと、恥ずかしさがまさって乃絵美は口をつぐんだ。大丈夫だ。きっと、正樹も
今の放送を聞いただろうから、たぶん生徒指導室の方に来てくれるだろう。
「いえ、じゃああの、戸締まりの方、よろしくお願いします」
ぺこり、とお辞儀をすると、鞄を抱えて乃絵美は踵を返した。そして、一瞬だけ
歩みを止めて、井澄の方を振り返った。
「あの──」
「どうした?」
「もうひとつだけ、いいですか?」
鍵束を弄びながら、
「答えられることなら」
井澄は答えた。
「その、井澄先輩の持ってる本の作者が好きだった、そのお姉さんは──その後ど
うなったんですか?」
そうだ、物語にはまだ主役がいる。弟の死を受けて──彼女はいったい、どうし
たのだろう?
「どうもしないよ。彼女はその後、裕福な夫のもとで子供をもうけて、幸せな余生
を送った。ただ、それだけだ」
「……そうですか。あの、……」
きゅ、とその小さな唇を噛みながら、ゆっくりと顔を上げて、乃絵美は微笑んだ。
「今日は、有り難うございました。──失礼します、先輩」
丁寧に一礼して、踵を返した。ぱたぱたと、廊下を走り去っていく音を、どこか
虚ろに響かせながら。
「は、は」
じゃら、と鍵束を弄びながら、井澄潤は乾いた笑い声を上げた。
「『有り難う』か──。まったく、本当にどこまでも……」
右手で顔を覆いながら、息を洩らす。幸せに余生を送ったわけがない。クローデ
ィアは、ジェスリーが死んだそのわずか3日後に──命を絶ったのだ。夫の短刀で
胸を貫いて。
そう、彼女もまた、実の弟を愛していたのだ。その弟が自ら命を絶ったと知った
時、彼女の悲しみはいかばかりだったろう。まして、その要因が自分にあったとす
れば。そして彼女は、弟の愛に殉じた。きらめく銀の短刀を、白い、白いその胸に
深く突き立てて。
『我々のこの壮烈な場面は、繰り返し演じられることだろう。いまだ生まれぬ国々
において、いまだ知られざる国語によって──』
ぽつりと、『ジュリアス=シーザー』の一句を井澄は呟いた。そう、暗殺者たち
が何度もシーザーの肉体を刺し貫くように、インセストの物語もまた、繰り返すの
だろう。時を、場所を、フィクションの壁すらをも越えて、何度も、何度も、繰り
返すのだろう。
『そしてシーザーは繰り返し舞台に血を流すだろう──』
悲しみと、苦悩と、そして血を生じさせながら、何度も、繰り返すのだろう──。
伊藤兄妹を思う。それは、冷淡家の井澄の目から見ても、好ましい兄妹だった。
嫌味のない、それでいてしっかりと筋の通っている、誰からも好かれる兄妹。そし
て、その兄妹がひとたび恋に堕ちたとき、インセストの物語はひとしく、共通の結
末をふたりに与えるのだろう。
じり、と額が痛む。その部分を指で押さえながら、井澄は思った。だのにその未
来が、自分にはひどく、ひどく羨ましい。
「姉さん──」
閑散とした図書室に井澄の呟きが響いた。その呟きを耳にするべき相手がもう、
この世にはいないことを知りながら、それでも井澄は呟き続けた。
校舎裏は、まるでひと足先に夕暮れになったかのように薄暗かった。というのも
フェンスを隔てたすぐ先はちょっとした雑木林になっているからで、ことに日が傾
きかけたこの時間帯は、葉を大きく広げた木々に遮られて、まばらな光しか届かな
い。
まるでここだけ時間の流れが早いみたいだ──、と自転車置き場を抜け、目指す
場所に差しかかろうとした正樹はぼんやりとそんなことを思った。あたりは水を打
ったように静かで、まるで人の気配というものを感じない。痛いくらいの静寂──
(ただ二人の息づかいをのぞいては──)に包まれた小さな世界を、冬の冷たい風
がそっと撫でた。
「…………」
その風が、正樹の眼前に立つ少女の髪をふわりとはためかせた。少し赤みのさし
た瞳で、形のよい唇を固く噛みしめながら、矢のような視線をまっすぐ、正樹に向
けている。
それは、正樹にとってもっともなじみのある少女の顔だった。乃絵美を別にすれ
ば、おそらく誰よりも多く見てきた顔。鏡でしか見ることのできない自分の顔より
も、多分ずっと親しみを覚えていたその少女の顔。
その顔が、今は正樹が見たこともないような沈鬱さをたたえて、じっと視線を向
けていた。ろくに寝ていないのだろう、目頭はやや腫れているようで、シャギーの
入った艶やかな髪も、今日は少しぱさついているように見える。
「──菜織」
重い沈黙を押しのけるようにして、正樹はその名前を呼びかけた。
その声に菜織はなにかを答えようとして唇をひらきかけたが、それを思いとどま
るかのように右手をきゅっと握りしめて口をつぐんだ。痛いくらいに力が込められ
ているんだろう、固く握りしめられた拳が小刻みに揺れている。
その時初めて、正樹は菜織の右手の甲が白い包帯で覆われているのに気づいた。
五重ほどに巻かれた白い布の先から細い指が見え、かなりきつくしばっているのか、
それとも鬱血しているのか──その指先は僅かに桃色に染まっている。
「菜織、どうしたんだお前、その手──」
思わず呟いた正樹に菜織は強く頭を振ると、
「正樹」
と小さく呟いた。──それは本当に小さな呟きだったけれど、ひどく鋭く、そし
て重みをもった響きに、正樹には聞こえた。
「……わたし」
菜織は続けた。
「わたし、もうなにがなんだか、わかんない」
言いながら、一歩足を前に踏み出す。それに合わせるかのように冷たい風が吹き
抜けて、フェンスの向こうの木々をざあっと揺らした。
「……なんだよ、急に?」
「乃絵美、言ってた」
苦笑しようとする正樹の耳を、菜織の次の言葉が打った。心臓がどきりと鳴る。
言ってた? 何を?
「言ってた、あの子。わたしはお兄ちゃんが好きなんだ、って。そしてお兄ちゃん
も、その気持ちを受け入れてくれた、って──」
そして、どこか救いを求めるような目で、正樹を見やった。
「ね、これってさ──なんかの冗談なんでしょ? もしかしてさ、9ヶ月遅れのエ
イプリルフールって奴? 去年あたしの嘘にまんまとひっかかった、その仕返し?」
気が付くと、菜織の顔はすぐ眼前にあった。おびえと、戸惑いと、あるいは怒り
もだろう、複雑な色をたたえた瞳が、息のかかるほどの距離にある。
「菜──」
「答えてよ!」
菜織が叫びながら、正樹のワイシャツの襟元を掴んで、強く揺すぶった。
「ねぇ? 冗談なんでしょ?! 二人して、あたしをからかってるんでしょ? 本
気なわけないよね? だって、だってあんたと乃絵美は兄妹なんだし、そんなこと、
許されるはずがないんだし、あっていいはずが、ないんだし──」
「菜織」
「ね、嘘なんだよね? 演技なんだよね? 乃絵美の話だって、昨日キスしてたの
だって、全部、全部、あたしを騙そうっていう──」
「菜織!」
駄々っ子のように暴れる菜織の両腕を押さえながら、正樹は声をはりあげた。思
いのほか強い声だったのだろう、びくっと菜織が肩をすくめる。すでにその両目は、
涙で濡れていた。
「菜織、俺は……」
「……裏切るんだ」
ぎゅ、とワイシャツの襟を掴む指に力がこもった。
「裏切るんだ、あんたは! あたしを! 真奈美を! 冴子を! ミャーコを!
みんな、みんな、裏切るんだ! 真奈美になんて言えばいいの? 『正樹に恋人が
出来たみたい。乃絵美ちゃんだって』って? そんなの、納得できるわけない。だ
って、実の妹じゃない。そんなの、狂ってる。狂ってるよ──」
「それでも──」
き、と菜織の視線を見つめ返して、正樹は答えた。
「それでも、一緒にいたいんだ。俺たちは」
「……!」
その声に、まるでマイナスの磁力に弾かれたように、菜織は身をもぎ離した。そ
の顔が興奮で赤く染まり、そして冬の冷気と屈辱とでゆっくりと白く色が抜けてい
くのを、正樹は滲む視界のまま眺めた。
「なにもかもを、犠牲にして?」
「…………」
「陸上も、あたしたちも、全部全部捨てて、乃絵美を選ぶの?」
救いを求めるような声と視線で、菜織が囁くような小さい声で言った。正樹は思
った。この声に、どれだけずっと、力づけられてきたことだろう。真奈美がいなく
なって、茫然自失の自分を、何くれとなく励まし、叱咤してくれたのは、紛れもな
くこの声だった。
けれど。
けれど今は、この声は、断ち切れなければならない。
「ああ」
そして、正樹は答えた。
「それでも俺は、乃絵美といたい──」
「……!」
ぱん、と乾いた音と熱が、頬のあたりで爆ぜた。続けて胸にどん、と軽い衝撃。
「あんたは……!」
包帯から血を滲ませながら、菜織が何度も、何度も胸を打ち付けてくる。
「あんたは、あんたは、あんたは、あんたは……!」
悲痛の叫びとともに、何度も、何度も。
「知ってるくせに! 真奈美の気持ちも、冴子や美亜子のことも、……あたしの気
持ちだって、全部、全部、知ってるくせに! それでもあんたは、乃絵美を、実の
妹を選ぶんだ。もう、普通じゃいられないんだよ? みんなが気持ち悪がる。みん
なが、怖れる。それでもあんたは、あんなに好きだった走ることだって諦めて、城
南のスカウトだって断って、乃絵美を選ぶの? あんたの人生全部捨てて、あの子
を選ぶの──?」
「捨てるとか、諦めるとか、そういうことじゃなくて──」
強い風が吹いて、木々が音を立てて揺れた。
「ただ、俺は──」
そして、正樹の言葉は、じゃり、という強く中庭の土を踏む靴音に遮られた。び
くり、と胸の中の菜織が身をすくませる。その顔がだんだんと蒼白になってゆくの
を、まるで遅回しのフィルムを眺めているようにぼんやりと、正樹は見やった。
そして、弾かれたように振り返る。
「──今の話は、本当なのか、伊藤?」
そこには、顧問の田山が立っていた。記録のチェックをしていたのだろう、薄茶
けた大学ノートを手にして、無精ひげまじりの顔に、鈍い怒りをたたえながら、じ
っと正樹を見据えている。
「あ……」
呆然としたような菜織の声をどこか遠くに聞きながら、正樹はただ立ちつくして
いた。
──びゅう、と中庭に冷たい風が吹いた。
5
どく──、と心臓が跳ねるような音がした。
それは乃絵美には読めようはずもない、海も、時すらも隔てた遠い異国の文字で
あるはずなのに、不思議と奇妙な情感と重みをもって、どくん、と乃絵美の胸を強
く打った。
(──最愛の、姉に)
そう呟く井澄の声が耳を打つ。少しずつ、心がかき乱されてゆくような感覚。握
りしめた手に、ふと力がこもった。
「愛して──いたんですか? その人は、……実の、お姉さんを?」
乃絵美の言葉に、井澄は静かにうなずいて答えた。
「もちろん、そう明示する証拠はなにもない。けれど彼の著作、姉との間に交わさ
れたほんの僅かな書簡には──その端々から、行間から、彼の姉クローディアに対
する想いが溢れている。純粋な思慕。精神的・肉体的な欲求、その満たされぬ想い、
憤懣──彼の愛と苦しみがだ。彼の著作はね、そのすべてが、インセストの物語だ。
塔に幽閉された男とその娘の話、フリジアの老王と孫娘の話、そしてユージニーと
デュアン──死をたったひとつの寄る辺とせざるをえなかった、幼い恋人同士の兄
妹──彼はついに、姉と弟の物語は書かなかった。彼はいつも、時代を、場所を、
立場を変えて、姉への想いをペンにぶつけていたんだろう。迷宮じみていると知り
ながらも、いつも──」
そう、想っていた。たぶん、子供の頃からずっと。「乃絵美は、本当にお兄ちゃ
んのことが好きなのね──」ぼんやりと覚えているお母さんの言葉。ランドセルが
取れる頃、そんな「好き」という気持ちにも色々と種類があることを知って、自分
の「好き」が兄妹愛というものに分類されるものだということを知らされた。
けれど、思う。そんなカテゴライズに──本当にどんな意味があるというのだろ
う? ただ好きなのだ。本当に、ただ、それだけなのだ。そして、自分が思うのと
同じくらい、自分を好きになってほしい。ただ、それだけなのに──
(知らないの? 兄妹同士は、結婚できないんだよ? だいいち、そんなのおかし
いじゃん──)
どうして、許されないのだろう。
「…………」
ふと、視線を戻す。色褪せた本。寄り添って眠る、少年と少女の絵。そのあどけ
ない寝顔に不意に何かが重なって、乃絵美は思わず強く唇を噛んだ。
「だから、彼は自ら死を選んだのだろう。クローディアの結婚相手は土地の有力者
で、意に添わぬ相手だったが、弟の援助や、今まで親なしの姉弟を育ててくれた叔
父夫婦のために、彼女は承諾せざるをえなかった。世界の前に彼はあまりにも無力
で、彼はペンを折り、酒に溺れ、絶望し──そして死を選んだ」
ああ、と乃絵美は思った。それは滑稽な死かもしれない。実の姉に熱をあげて、
挙げ句の果てにその姉が結婚し、他人の物になることに絶望し、現実を拒否し──
死を選択した。それは奇矯であり、異常であり、常軌を逸しているといえるかもし
れない。
けれども──乃絵美は思う。
どれだけ、想っていたのだろう?
どれだけ、愛していたのだろう?
姉と弟。けして結ばれようもないはずの相手なのに、押さえきれずに溢れ出す想
いに身を焦がしながら、いったいどれだけ、この人は声なき叫びをあげていたのだ
ろう。
ふと、なにか熱いものが乃絵美の頬を伝った。それが涙であると気づいたのは、
こぼれた雫がぽたりとリノリウムの床を濡らした後だった。泣いてるんだ、わたし
──どこかぼんやりと乃絵美は思った。すべてが、緩慢に動いているような、そん
な感覚の中、ぽたり、ぽたりと幾つもの雫が頬を伝って冷たい床に流れ落ちた。
不思議だった。読んだことも、聴いたことも、今まで名前すら見たことのない、
ひとりの作家の短い生涯に、なぜこんなにも心を動かされるのだろう? 井澄の話
はあまりにも唐突で、脈絡もなく、泥々とした感情をただぶつけられているだけな
のに、なぜわたしは涙を流しているんだろう。
分からない。なにもかもがどろどろと煮えたぎった濁流になって、乃絵美の躰を
駆けめぐっているような気がする。ただひとつ感じているのは、それは狂おしいま
での共感だった。ジェスリー・ラインコックという作家に感じる、それは、身を切
るほどの。
(──最愛の、姉に)
同じだ、と乃絵美は思った。
このひとは、わたしと、同じなんだ──。
「何ものにも揺るがぬ、真実の愛というものが、この世界にあるとして──」
涙まじりの乃絵美の視線を受けて、ぽつりと井澄が呟いた。
「僕らは本当に、その慨然性を信じていいんだろうか? ──愛は本当に、“絶対”
なのだろうか?」
古びた机に腰を預けて、手にした本の装丁をそっと撫でつけながら、続ける。
「もし愛が絶対だというのなら、なぜジェスリーはその愛にこそ狂い──自ら死を
選んだのだろう? なぜそこには救いがなかったのだろう? なぜユージニーとデ
ュアンの二人は、死の奈落へと落ちねばならなかったのだろう? キリストがいう
ように、この世界の最も尊い感情が愛だというのなら──その愛にこそ殉じた彼ら
がなぜ、報いを受けねばならなかったのだろう?」
「…………」
「なぜだろう──なぜ? 愛が絶対なのなら、どうして“許されぬ”愛なんてもの
が、この世に存在するんだろう?」
──なぜ、と本を握る手を僅かに震えさせながら、井澄が小さく呟いた。それは
常の彼を知るものからすればあまりにも弱々しく、儚い呟きであるように、乃絵美
には思えた。そう、まるで幼子のような──
「わた、しは──」
そして、乃絵美は答えた。掌をきゅっと握りしめ、うつむきそうになりながらも、
それでも顔をあげた。色素の薄い井澄の瞳が、図書室の灯に触れて淡くゆらめくの
を見ながら、まるで目の前の井澄が作家その人であるように、その小さな唇を開い
た。それでも、そう、それでも──
「難しいことは全然分からないけど、それでもわたしは──」
ざん、と窓の向こうの樹が風に枝をたなびかせた。
「好き、なんです。好きになって、もらいたいんです」
そうだ。愛というものがどんなものかなんて、全然分からない。これだけ人間が
いて、これだけの時を生きてきて、これだけ同じことを考え続けてきているのに─
─答えが出ないことなのだ。分かるわけがないし、そもそも答えなんて存在しない
のかもしれない。
でも、これだけは分かる。正樹と一緒にいたい。一緒にご飯を食べて、「おはよ
う」と笑いかけてもらって、髪を撫でてもらって、手を繋いでもらって、頬に触れ
てもらって、抱きしめてもらって──同じ空間で、同じ時を過ごしたい。それが兄
妹愛なのか、恋愛感情なのか、そんなものはもう、どうでもよくて──
「ずっと一緒にいたいんです」
そういうことなんだ。
「その想いが否応なく、自分を、相手をも傷つけるものだとしても?」
井澄の問いに、乃絵美は頭を振った。分かっていたのだ。そしてその気持ちが、
どれだけ一方的で──自分勝手なものだったのか。正樹がどれだけの苦しみの中で、
「好きだよ」と言ってくれたのか。そしてその代償に、どれだけ多くのものを失う
のか。抑えなければいけなかったのだ、この想いは。春の雪のように、心の中でゆ
っくりと溶かしていかなければならなかったのだ。だけど、駄目だった。一緒にい
たかった。離れたくなかった。だって、こんなにも好きなのだ。どっちの気持ちも
嘘じゃないのに、正樹を想うその気持ちが、正樹を苦しめているという現実。アン
ビヴァレンツ。インセストの二律背反──。
「分からないんです、分からない。お兄ちゃんからなにもかも奪ってしまうことく
らい、分かってるのに、それでも一緒にいたいんです。わたしにはただこれだけし
かなくて、その気持ちに嘘なんてつきたくないのに、それがお兄ちゃんを苦しめて
る……!」
それは、残酷なまでの二者択一なのだった。乃絵美と、それ以外のすべて。思え
ば、そんな残酷な選択を容赦なく、あの夜の自分は迫ったのだった。そして、結ば
れた。自分以外のすべてを捨て去ることを、正樹に選ばせた。陸上も、友人も、菜
織も、真奈美も、冴子も、美亜子も、何もかもを。
今正樹がどれだけ苦しんでいるのか──乃絵美は痛みとともに思う。これが単純
なラブストーリーであるのなら、あの夜結ばれた二人は、そのままいつまでも幸せ
に暮らしていけるのだろう。でもこれは違う。始めてしまったのだ。エピローグで
はなく。昏い、インセストの闇の中を彷徨う物語を、あのとき始めてしまったのだ。
なのに、どれだけ愚かなのだろう、自分は。
それでも自分は、今の正樹とのこの時間を、なによりも愛しいと思っている──。
「インセストを貫くには」
絞り出すような声で、井澄は呟いた。力無く、高い天井を見上げながら、息をつ
き、続ける。
「それはふたつの要因いずれかに頼らざるをえない。強大な権力、──もしくは孤
絶した環境、いずれかにだ。そのどちらも持ちえない君たちが辿る道は、限りない
苦難と、猜疑と、侮蔑と、排斥に満ちるだろう。それでもなお、進むだけの強さが、
君たちにはあるのか?」
乃絵美はほんの少しだけ思った。正樹とふたりで、誰も知らないどこかの土地で、
静かに暮らすビジョン──(そしてその究極にある死、というものを、少しだけ思
った)──たぶん、現実が非現実的かは別として、それが最良の選択なのだろう。
二人以外誰も知らない世界に行けば、きっとすべてが上手くゆく。たとえそこが死
の奈落だとしても、二人でならば──
「……!」
いつの間にか、痛いほど握りしめてしまった掌に気づいて、乃絵美は我に返った。
高ぶっていた感情がゆっくりと静まってゆく。そして思う。捨てさせたくない。正
樹から、あの笑顔を、夢を、奪いたくない。それを奪おうとしている自分が思うの
も烏滸がましいが、正樹には、今のままの正樹でいてほしいのだった。
本当に、なにが本当に、“大切なこと”なんだろう?
正樹の傍にいられること。正樹に、夢を叶えてもらいたいこと。そのどちらもが
本当の気持ちで、そしてそれはもう、相容れない。
どうして、こんなことになってしまったんだろう。ただ、一緒にいたかっただけ
なのに。好きというこの気持ちを、伝えたかっただけなのに。
どうして──
「わたしは──」
乃絵美の次の言葉を遮るように、ポーン、と図書室のスピーカーが電子的な鐘の
音を奏でた。そしてどこか抑揚のない男性の声が、広い図書室の中に響きわたった。
『2年C組伊藤乃絵美さん、2年C組伊藤乃絵美さん、至急生徒指導室までお願い
します。繰り返します。2年C組伊藤乃絵美さん──』
「……あ……」
放送がやみ、図書室はふたたび静寂が戻った。そしてどこか、場を支配していた
不思議な熱気も、はらわれたようだった。それを代弁するかのようにどこか気怠げ
な視線で井澄は乃絵美を見やると、
「ああ、もうこんな時間か」
と呟いた。乃絵美が時計を見やると、長針はもう5時を幾分か回っていた。
「あの……」
「ああ、行くといい。戸締まりは僕がしておくから。──鍵は?」
「あ、はい」
ポケットにしまっていた鍵束を取り出して乃絵美は井澄に手渡すと、鞄に手を延
ばした。それにしても、なんだろう。この前だした進路希望のプリントのことだろ
うか?(進学はしないという方に○を付けたのを覚えている)でも、あの声は乃絵
美の担任の声ではなかったような気もする。
そしてふと、正樹のことに思い当たった。部活が早く上がれば図書室の方に来る
と言っていたから──もうすぐ来るかもしれない。どうしよう、井澄先輩に言付け
を頼んでおくべきだろうか?
「あの──」
「ん?」
「あ、いえ……」
ふと、恥ずかしさがまさって乃絵美は口をつぐんだ。大丈夫だ。きっと、正樹も
今の放送を聞いただろうから、たぶん生徒指導室の方に来てくれるだろう。
「いえ、じゃああの、戸締まりの方、よろしくお願いします」
ぺこり、とお辞儀をすると、鞄を抱えて乃絵美は踵を返した。そして、一瞬だけ
歩みを止めて、井澄の方を振り返った。
「あの──」
「どうした?」
「もうひとつだけ、いいですか?」
鍵束を弄びながら、
「答えられることなら」
井澄は答えた。
「その、井澄先輩の持ってる本の作者が好きだった、そのお姉さんは──その後ど
うなったんですか?」
そうだ、物語にはまだ主役がいる。弟の死を受けて──彼女はいったい、どうし
たのだろう?
「どうもしないよ。彼女はその後、裕福な夫のもとで子供をもうけて、幸せな余生
を送った。ただ、それだけだ」
「……そうですか。あの、……」
きゅ、とその小さな唇を噛みながら、ゆっくりと顔を上げて、乃絵美は微笑んだ。
「今日は、有り難うございました。──失礼します、先輩」
丁寧に一礼して、踵を返した。ぱたぱたと、廊下を走り去っていく音を、どこか
虚ろに響かせながら。
「は、は」
じゃら、と鍵束を弄びながら、井澄潤は乾いた笑い声を上げた。
「『有り難う』か──。まったく、本当にどこまでも……」
右手で顔を覆いながら、息を洩らす。幸せに余生を送ったわけがない。クローデ
ィアは、ジェスリーが死んだそのわずか3日後に──命を絶ったのだ。夫の短刀で
胸を貫いて。
そう、彼女もまた、実の弟を愛していたのだ。その弟が自ら命を絶ったと知った
時、彼女の悲しみはいかばかりだったろう。まして、その要因が自分にあったとす
れば。そして彼女は、弟の愛に殉じた。きらめく銀の短刀を、白い、白いその胸に
深く突き立てて。
『我々のこの壮烈な場面は、繰り返し演じられることだろう。いまだ生まれぬ国々
において、いまだ知られざる国語によって──』
ぽつりと、『ジュリアス=シーザー』の一句を井澄は呟いた。そう、暗殺者たち
が何度もシーザーの肉体を刺し貫くように、インセストの物語もまた、繰り返すの
だろう。時を、場所を、フィクションの壁すらをも越えて、何度も、何度も、繰り
返すのだろう。
『そしてシーザーは繰り返し舞台に血を流すだろう──』
悲しみと、苦悩と、そして血を生じさせながら、何度も、繰り返すのだろう──。
伊藤兄妹を思う。それは、冷淡家の井澄の目から見ても、好ましい兄妹だった。
嫌味のない、それでいてしっかりと筋の通っている、誰からも好かれる兄妹。そし
て、その兄妹がひとたび恋に堕ちたとき、インセストの物語はひとしく、共通の結
末をふたりに与えるのだろう。
じり、と額が痛む。その部分を指で押さえながら、井澄は思った。だのにその未
来が、自分にはひどく、ひどく羨ましい。
「姉さん──」
閑散とした図書室に井澄の呟きが響いた。その呟きを耳にするべき相手がもう、
この世にはいないことを知りながら、それでも井澄は呟き続けた。