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小説(転載)  インセスタス Last Incest 明日 3/7

官能小説
05 /11 2019
          4


 校舎裏は、まるでひと足先に夕暮れになったかのように薄暗かった。というのも
フェンスを隔てたすぐ先はちょっとした雑木林になっているからで、ことに日が傾
きかけたこの時間帯は、葉を大きく広げた木々に遮られて、まばらな光しか届かな
い。
 まるでここだけ時間の流れが早いみたいだ──、と自転車置き場を抜け、目指す
場所に差しかかろうとした正樹はぼんやりとそんなことを思った。あたりは水を打
ったように静かで、まるで人の気配というものを感じない。痛いくらいの静寂──
(ただ二人の息づかいをのぞいては──)に包まれた小さな世界を、冬の冷たい風
がそっと撫でた。
「…………」
 その風が、正樹の眼前に立つ少女の髪をふわりとはためかせた。少し赤みのさし
た瞳で、形のよい唇を固く噛みしめながら、矢のような視線をまっすぐ、正樹に向
けている。
 それは、正樹にとってもっともなじみのある少女の顔だった。乃絵美を別にすれ
ば、おそらく誰よりも多く見てきた顔。鏡でしか見ることのできない自分の顔より
も、多分ずっと親しみを覚えていたその少女の顔。
 その顔が、今は正樹が見たこともないような沈鬱さをたたえて、じっと視線を向
けていた。ろくに寝ていないのだろう、目頭はやや腫れているようで、シャギーの
入った艶やかな髪も、今日は少しぱさついているように見える。
「──菜織」
 重い沈黙を押しのけるようにして、正樹はその名前を呼びかけた。
 その声に菜織はなにかを答えようとして唇をひらきかけたが、それを思いとどま
るかのように右手をきゅっと握りしめて口をつぐんだ。痛いくらいに力が込められ
ているんだろう、固く握りしめられた拳が小刻みに揺れている。
 その時初めて、正樹は菜織の右手の甲が白い包帯で覆われているのに気づいた。
五重ほどに巻かれた白い布の先から細い指が見え、かなりきつくしばっているのか、
それとも鬱血しているのか──その指先は僅かに桃色に染まっている。
「菜織、どうしたんだお前、その手──」
 思わず呟いた正樹に菜織は強く頭を振ると、
「正樹」
 と小さく呟いた。──それは本当に小さな呟きだったけれど、ひどく鋭く、そし
て重みをもった響きに、正樹には聞こえた。
「……わたし」
 菜織は続けた。
「わたし、もうなにがなんだか、わかんない」
 言いながら、一歩足を前に踏み出す。それに合わせるかのように冷たい風が吹き
抜けて、フェンスの向こうの木々をざあっと揺らした。
「……なんだよ、急に?」
「乃絵美、言ってた」
 苦笑しようとする正樹の耳を、菜織の次の言葉が打った。心臓がどきりと鳴る。
言ってた? 何を?
「言ってた、あの子。わたしはお兄ちゃんが好きなんだ、って。そしてお兄ちゃん
も、その気持ちを受け入れてくれた、って──」
 そして、どこか救いを求めるような目で、正樹を見やった。
「ね、これってさ──なんかの冗談なんでしょ? もしかしてさ、9ヶ月遅れのエ
イプリルフールって奴? 去年あたしの嘘にまんまとひっかかった、その仕返し?」
 気が付くと、菜織の顔はすぐ眼前にあった。おびえと、戸惑いと、あるいは怒り
もだろう、複雑な色をたたえた瞳が、息のかかるほどの距離にある。
「菜──」
「答えてよ!」
 菜織が叫びながら、正樹のワイシャツの襟元を掴んで、強く揺すぶった。
「ねぇ? 冗談なんでしょ?! 二人して、あたしをからかってるんでしょ? 本
気なわけないよね? だって、だってあんたと乃絵美は兄妹なんだし、そんなこと、
許されるはずがないんだし、あっていいはずが、ないんだし──」
「菜織」
「ね、嘘なんだよね? 演技なんだよね? 乃絵美の話だって、昨日キスしてたの
だって、全部、全部、あたしを騙そうっていう──」
「菜織!」
 駄々っ子のように暴れる菜織の両腕を押さえながら、正樹は声をはりあげた。思
いのほか強い声だったのだろう、びくっと菜織が肩をすくめる。すでにその両目は、
涙で濡れていた。
「菜織、俺は……」
「……裏切るんだ」
 ぎゅ、とワイシャツの襟を掴む指に力がこもった。
「裏切るんだ、あんたは! あたしを! 真奈美を! 冴子を! ミャーコを! 
みんな、みんな、裏切るんだ! 真奈美になんて言えばいいの? 『正樹に恋人が
出来たみたい。乃絵美ちゃんだって』って? そんなの、納得できるわけない。だ
って、実の妹じゃない。そんなの、狂ってる。狂ってるよ──」
「それでも──」
 き、と菜織の視線を見つめ返して、正樹は答えた。
「それでも、一緒にいたいんだ。俺たちは」
「……!」
 その声に、まるでマイナスの磁力に弾かれたように、菜織は身をもぎ離した。そ
の顔が興奮で赤く染まり、そして冬の冷気と屈辱とでゆっくりと白く色が抜けてい
くのを、正樹は滲む視界のまま眺めた。
「なにもかもを、犠牲にして?」
「…………」
「陸上も、あたしたちも、全部全部捨てて、乃絵美を選ぶの?」
 救いを求めるような声と視線で、菜織が囁くような小さい声で言った。正樹は思
った。この声に、どれだけずっと、力づけられてきたことだろう。真奈美がいなく
なって、茫然自失の自分を、何くれとなく励まし、叱咤してくれたのは、紛れもな
くこの声だった。
 けれど。
 けれど今は、この声は、断ち切れなければならない。
「ああ」
 そして、正樹は答えた。
「それでも俺は、乃絵美といたい──」
「……!」
 ぱん、と乾いた音と熱が、頬のあたりで爆ぜた。続けて胸にどん、と軽い衝撃。
「あんたは……!」
 包帯から血を滲ませながら、菜織が何度も、何度も胸を打ち付けてくる。
「あんたは、あんたは、あんたは、あんたは……!」
 悲痛の叫びとともに、何度も、何度も。
「知ってるくせに! 真奈美の気持ちも、冴子や美亜子のことも、……あたしの気
持ちだって、全部、全部、知ってるくせに! それでもあんたは、乃絵美を、実の
妹を選ぶんだ。もう、普通じゃいられないんだよ? みんなが気持ち悪がる。みん
なが、怖れる。それでもあんたは、あんなに好きだった走ることだって諦めて、城
南のスカウトだって断って、乃絵美を選ぶの? あんたの人生全部捨てて、あの子
を選ぶの──?」
「捨てるとか、諦めるとか、そういうことじゃなくて──」
 強い風が吹いて、木々が音を立てて揺れた。
「ただ、俺は──」
 そして、正樹の言葉は、じゃり、という強く中庭の土を踏む靴音に遮られた。び
くり、と胸の中の菜織が身をすくませる。その顔がだんだんと蒼白になってゆくの
を、まるで遅回しのフィルムを眺めているようにぼんやりと、正樹は見やった。
 そして、弾かれたように振り返る。
「──今の話は、本当なのか、伊藤?」
 そこには、顧問の田山が立っていた。記録のチェックをしていたのだろう、薄茶
けた大学ノートを手にして、無精ひげまじりの顔に、鈍い怒りをたたえながら、じ
っと正樹を見据えている。
「あ……」
 呆然としたような菜織の声をどこか遠くに聞きながら、正樹はただ立ちつくして
いた。
 ──びゅう、と中庭に冷たい風が吹いた。


          5


 どく──、と心臓が跳ねるような音がした。
 それは乃絵美には読めようはずもない、海も、時すらも隔てた遠い異国の文字で
あるはずなのに、不思議と奇妙な情感と重みをもって、どくん、と乃絵美の胸を強
く打った。
(──最愛の、姉に)
 そう呟く井澄の声が耳を打つ。少しずつ、心がかき乱されてゆくような感覚。握
りしめた手に、ふと力がこもった。
「愛して──いたんですか? その人は、……実の、お姉さんを?」
 乃絵美の言葉に、井澄は静かにうなずいて答えた。
「もちろん、そう明示する証拠はなにもない。けれど彼の著作、姉との間に交わさ
れたほんの僅かな書簡には──その端々から、行間から、彼の姉クローディアに対
する想いが溢れている。純粋な思慕。精神的・肉体的な欲求、その満たされぬ想い、
憤懣──彼の愛と苦しみがだ。彼の著作はね、そのすべてが、インセストの物語だ。
塔に幽閉された男とその娘の話、フリジアの老王と孫娘の話、そしてユージニーと
デュアン──死をたったひとつの寄る辺とせざるをえなかった、幼い恋人同士の兄
妹──彼はついに、姉と弟の物語は書かなかった。彼はいつも、時代を、場所を、
立場を変えて、姉への想いをペンにぶつけていたんだろう。迷宮じみていると知り
ながらも、いつも──」
 そう、想っていた。たぶん、子供の頃からずっと。「乃絵美は、本当にお兄ちゃ
んのことが好きなのね──」ぼんやりと覚えているお母さんの言葉。ランドセルが
取れる頃、そんな「好き」という気持ちにも色々と種類があることを知って、自分
の「好き」が兄妹愛というものに分類されるものだということを知らされた。
 けれど、思う。そんなカテゴライズに──本当にどんな意味があるというのだろ
う? ただ好きなのだ。本当に、ただ、それだけなのだ。そして、自分が思うのと
同じくらい、自分を好きになってほしい。ただ、それだけなのに──
(知らないの? 兄妹同士は、結婚できないんだよ? だいいち、そんなのおかし
いじゃん──)
 どうして、許されないのだろう。
「…………」
 ふと、視線を戻す。色褪せた本。寄り添って眠る、少年と少女の絵。そのあどけ
ない寝顔に不意に何かが重なって、乃絵美は思わず強く唇を噛んだ。
「だから、彼は自ら死を選んだのだろう。クローディアの結婚相手は土地の有力者
で、意に添わぬ相手だったが、弟の援助や、今まで親なしの姉弟を育ててくれた叔
父夫婦のために、彼女は承諾せざるをえなかった。世界の前に彼はあまりにも無力
で、彼はペンを折り、酒に溺れ、絶望し──そして死を選んだ」
 ああ、と乃絵美は思った。それは滑稽な死かもしれない。実の姉に熱をあげて、
挙げ句の果てにその姉が結婚し、他人の物になることに絶望し、現実を拒否し──
死を選択した。それは奇矯であり、異常であり、常軌を逸しているといえるかもし
れない。
 けれども──乃絵美は思う。
 どれだけ、想っていたのだろう?
 どれだけ、愛していたのだろう?
 姉と弟。けして結ばれようもないはずの相手なのに、押さえきれずに溢れ出す想
いに身を焦がしながら、いったいどれだけ、この人は声なき叫びをあげていたのだ
ろう。
 ふと、なにか熱いものが乃絵美の頬を伝った。それが涙であると気づいたのは、
こぼれた雫がぽたりとリノリウムの床を濡らした後だった。泣いてるんだ、わたし
──どこかぼんやりと乃絵美は思った。すべてが、緩慢に動いているような、そん
な感覚の中、ぽたり、ぽたりと幾つもの雫が頬を伝って冷たい床に流れ落ちた。
 不思議だった。読んだことも、聴いたことも、今まで名前すら見たことのない、
ひとりの作家の短い生涯に、なぜこんなにも心を動かされるのだろう? 井澄の話
はあまりにも唐突で、脈絡もなく、泥々とした感情をただぶつけられているだけな
のに、なぜわたしは涙を流しているんだろう。
 分からない。なにもかもがどろどろと煮えたぎった濁流になって、乃絵美の躰を
駆けめぐっているような気がする。ただひとつ感じているのは、それは狂おしいま
での共感だった。ジェスリー・ラインコックという作家に感じる、それは、身を切
るほどの。
(──最愛の、姉に)
 同じだ、と乃絵美は思った。
 このひとは、わたしと、同じなんだ──。
「何ものにも揺るがぬ、真実の愛というものが、この世界にあるとして──」
 涙まじりの乃絵美の視線を受けて、ぽつりと井澄が呟いた。
「僕らは本当に、その慨然性を信じていいんだろうか? ──愛は本当に、“絶対”
なのだろうか?」
 古びた机に腰を預けて、手にした本の装丁をそっと撫でつけながら、続ける。
「もし愛が絶対だというのなら、なぜジェスリーはその愛にこそ狂い──自ら死を
選んだのだろう? なぜそこには救いがなかったのだろう? なぜユージニーとデ
ュアンの二人は、死の奈落へと落ちねばならなかったのだろう? キリストがいう
ように、この世界の最も尊い感情が愛だというのなら──その愛にこそ殉じた彼ら
がなぜ、報いを受けねばならなかったのだろう?」
「…………」
「なぜだろう──なぜ? 愛が絶対なのなら、どうして“許されぬ”愛なんてもの
が、この世に存在するんだろう?」
 ──なぜ、と本を握る手を僅かに震えさせながら、井澄が小さく呟いた。それは
常の彼を知るものからすればあまりにも弱々しく、儚い呟きであるように、乃絵美
には思えた。そう、まるで幼子のような──
「わた、しは──」
 そして、乃絵美は答えた。掌をきゅっと握りしめ、うつむきそうになりながらも、
それでも顔をあげた。色素の薄い井澄の瞳が、図書室の灯に触れて淡くゆらめくの
を見ながら、まるで目の前の井澄が作家その人であるように、その小さな唇を開い
た。それでも、そう、それでも──
「難しいことは全然分からないけど、それでもわたしは──」
 ざん、と窓の向こうの樹が風に枝をたなびかせた。
「好き、なんです。好きになって、もらいたいんです」
 そうだ。愛というものがどんなものかなんて、全然分からない。これだけ人間が
いて、これだけの時を生きてきて、これだけ同じことを考え続けてきているのに─
─答えが出ないことなのだ。分かるわけがないし、そもそも答えなんて存在しない
のかもしれない。
 でも、これだけは分かる。正樹と一緒にいたい。一緒にご飯を食べて、「おはよ
う」と笑いかけてもらって、髪を撫でてもらって、手を繋いでもらって、頬に触れ
てもらって、抱きしめてもらって──同じ空間で、同じ時を過ごしたい。それが兄
妹愛なのか、恋愛感情なのか、そんなものはもう、どうでもよくて──
「ずっと一緒にいたいんです」
 そういうことなんだ。
「その想いが否応なく、自分を、相手をも傷つけるものだとしても?」
 井澄の問いに、乃絵美は頭を振った。分かっていたのだ。そしてその気持ちが、
どれだけ一方的で──自分勝手なものだったのか。正樹がどれだけの苦しみの中で、
「好きだよ」と言ってくれたのか。そしてその代償に、どれだけ多くのものを失う
のか。抑えなければいけなかったのだ、この想いは。春の雪のように、心の中でゆ
っくりと溶かしていかなければならなかったのだ。だけど、駄目だった。一緒にい
たかった。離れたくなかった。だって、こんなにも好きなのだ。どっちの気持ちも
嘘じゃないのに、正樹を想うその気持ちが、正樹を苦しめているという現実。アン
ビヴァレンツ。インセストの二律背反──。
「分からないんです、分からない。お兄ちゃんからなにもかも奪ってしまうことく
らい、分かってるのに、それでも一緒にいたいんです。わたしにはただこれだけし
かなくて、その気持ちに嘘なんてつきたくないのに、それがお兄ちゃんを苦しめて
る……!」
 それは、残酷なまでの二者択一なのだった。乃絵美と、それ以外のすべて。思え
ば、そんな残酷な選択を容赦なく、あの夜の自分は迫ったのだった。そして、結ば
れた。自分以外のすべてを捨て去ることを、正樹に選ばせた。陸上も、友人も、菜
織も、真奈美も、冴子も、美亜子も、何もかもを。
 今正樹がどれだけ苦しんでいるのか──乃絵美は痛みとともに思う。これが単純
なラブストーリーであるのなら、あの夜結ばれた二人は、そのままいつまでも幸せ
に暮らしていけるのだろう。でもこれは違う。始めてしまったのだ。エピローグで
はなく。昏い、インセストの闇の中を彷徨う物語を、あのとき始めてしまったのだ。
 なのに、どれだけ愚かなのだろう、自分は。
 それでも自分は、今の正樹とのこの時間を、なによりも愛しいと思っている──。
「インセストを貫くには」
 絞り出すような声で、井澄は呟いた。力無く、高い天井を見上げながら、息をつ
き、続ける。
「それはふたつの要因いずれかに頼らざるをえない。強大な権力、──もしくは孤
絶した環境、いずれかにだ。そのどちらも持ちえない君たちが辿る道は、限りない
苦難と、猜疑と、侮蔑と、排斥に満ちるだろう。それでもなお、進むだけの強さが、
君たちにはあるのか?」
 乃絵美はほんの少しだけ思った。正樹とふたりで、誰も知らないどこかの土地で、
静かに暮らすビジョン──(そしてその究極にある死、というものを、少しだけ思
った)──たぶん、現実が非現実的かは別として、それが最良の選択なのだろう。
二人以外誰も知らない世界に行けば、きっとすべてが上手くゆく。たとえそこが死
の奈落だとしても、二人でならば──
「……!」
 いつの間にか、痛いほど握りしめてしまった掌に気づいて、乃絵美は我に返った。
高ぶっていた感情がゆっくりと静まってゆく。そして思う。捨てさせたくない。正
樹から、あの笑顔を、夢を、奪いたくない。それを奪おうとしている自分が思うの
も烏滸がましいが、正樹には、今のままの正樹でいてほしいのだった。
 本当に、なにが本当に、“大切なこと”なんだろう?
 正樹の傍にいられること。正樹に、夢を叶えてもらいたいこと。そのどちらもが
本当の気持ちで、そしてそれはもう、相容れない。
 どうして、こんなことになってしまったんだろう。ただ、一緒にいたかっただけ
なのに。好きというこの気持ちを、伝えたかっただけなのに。
 どうして──
「わたしは──」
 乃絵美の次の言葉を遮るように、ポーン、と図書室のスピーカーが電子的な鐘の
音を奏でた。そしてどこか抑揚のない男性の声が、広い図書室の中に響きわたった。
『2年C組伊藤乃絵美さん、2年C組伊藤乃絵美さん、至急生徒指導室までお願い
します。繰り返します。2年C組伊藤乃絵美さん──』
「……あ……」
 放送がやみ、図書室はふたたび静寂が戻った。そしてどこか、場を支配していた
不思議な熱気も、はらわれたようだった。それを代弁するかのようにどこか気怠げ
な視線で井澄は乃絵美を見やると、
「ああ、もうこんな時間か」
 と呟いた。乃絵美が時計を見やると、長針はもう5時を幾分か回っていた。
「あの……」
「ああ、行くといい。戸締まりは僕がしておくから。──鍵は?」
「あ、はい」
 ポケットにしまっていた鍵束を取り出して乃絵美は井澄に手渡すと、鞄に手を延
ばした。それにしても、なんだろう。この前だした進路希望のプリントのことだろ
うか?(進学はしないという方に○を付けたのを覚えている)でも、あの声は乃絵
美の担任の声ではなかったような気もする。
 そしてふと、正樹のことに思い当たった。部活が早く上がれば図書室の方に来る
と言っていたから──もうすぐ来るかもしれない。どうしよう、井澄先輩に言付け
を頼んでおくべきだろうか?
「あの──」
「ん?」
「あ、いえ……」
 ふと、恥ずかしさがまさって乃絵美は口をつぐんだ。大丈夫だ。きっと、正樹も
今の放送を聞いただろうから、たぶん生徒指導室の方に来てくれるだろう。
「いえ、じゃああの、戸締まりの方、よろしくお願いします」
 ぺこり、とお辞儀をすると、鞄を抱えて乃絵美は踵を返した。そして、一瞬だけ
歩みを止めて、井澄の方を振り返った。
「あの──」
「どうした?」
「もうひとつだけ、いいですか?」
 鍵束を弄びながら、
「答えられることなら」
 井澄は答えた。
「その、井澄先輩の持ってる本の作者が好きだった、そのお姉さんは──その後ど
うなったんですか?」
 そうだ、物語にはまだ主役がいる。弟の死を受けて──彼女はいったい、どうし
たのだろう?
「どうもしないよ。彼女はその後、裕福な夫のもとで子供をもうけて、幸せな余生
を送った。ただ、それだけだ」
「……そうですか。あの、……」
 きゅ、とその小さな唇を噛みながら、ゆっくりと顔を上げて、乃絵美は微笑んだ。
「今日は、有り難うございました。──失礼します、先輩」
 丁寧に一礼して、踵を返した。ぱたぱたと、廊下を走り去っていく音を、どこか
虚ろに響かせながら。









「は、は」
 じゃら、と鍵束を弄びながら、井澄潤は乾いた笑い声を上げた。
「『有り難う』か──。まったく、本当にどこまでも……」
 右手で顔を覆いながら、息を洩らす。幸せに余生を送ったわけがない。クローデ
ィアは、ジェスリーが死んだそのわずか3日後に──命を絶ったのだ。夫の短刀で
胸を貫いて。
 そう、彼女もまた、実の弟を愛していたのだ。その弟が自ら命を絶ったと知った
時、彼女の悲しみはいかばかりだったろう。まして、その要因が自分にあったとす
れば。そして彼女は、弟の愛に殉じた。きらめく銀の短刀を、白い、白いその胸に
深く突き立てて。
『我々のこの壮烈な場面は、繰り返し演じられることだろう。いまだ生まれぬ国々
において、いまだ知られざる国語によって──』
 ぽつりと、『ジュリアス=シーザー』の一句を井澄は呟いた。そう、暗殺者たち
が何度もシーザーの肉体を刺し貫くように、インセストの物語もまた、繰り返すの
だろう。時を、場所を、フィクションの壁すらをも越えて、何度も、何度も、繰り
返すのだろう。
『そしてシーザーは繰り返し舞台に血を流すだろう──』
 悲しみと、苦悩と、そして血を生じさせながら、何度も、繰り返すのだろう──。
 伊藤兄妹を思う。それは、冷淡家の井澄の目から見ても、好ましい兄妹だった。
嫌味のない、それでいてしっかりと筋の通っている、誰からも好かれる兄妹。そし
て、その兄妹がひとたび恋に堕ちたとき、インセストの物語はひとしく、共通の結
末をふたりに与えるのだろう。
 じり、と額が痛む。その部分を指で押さえながら、井澄は思った。だのにその未
来が、自分にはひどく、ひどく羨ましい。
「姉さん──」
 閑散とした図書室に井澄の呟きが響いた。その呟きを耳にするべき相手がもう、
この世にはいないことを知りながら、それでも井澄は呟き続けた。

小説(転載)  インセスタス Last Incest 明日 2/7

官能小説
05 /11 2019
          2


「いつか醒めるから夢なんだよ」
 ──そんな声を、心地よい微睡みの中で乃絵美は聴いた。今はもうタイトルすら
忘れてしまったけれど、子供の頃本当に大好きだった絵本。それはひとりの女の子
が妖精に連れられて夢の国へ行くというお話だった。そこは子供の楽園で、ほしい
ものや、ねがいごとががなんでも叶う世界。女の子はそこで無我夢中で遊ぶのだっ
た。三日月の上でブランコをしたり、ミルキーウェイを泳いでみたり。でも最後に
──女の子が遊び疲れて、銀色の葦の野原に座り込んでしまったその耳元で、今ま
でずっと見守っていた小さな妖精は言うのだった。「さぁ、もう時間だ。水色の太
陽が金色の海から浮かんでくる。君はお家に帰らなきゃ」。
 いやだよ、もっとここにいたいよ──そういう女の子に妖精は笑って首を振り、
呟くのだ。「──いつか醒めるから夢なんだよ」
 そして妖精がぱちんと指を鳴らすと、世界はくるんと一回転して、女の子の視界
は真っ白な光に包まれる。そして彼女がおそるおそる目を開くと、そこはいつもの、
ひなたの匂いのする柔らかいベッドで、女の子は自分を覗き込む、少し小じわのあ
るその顔に気づくのだ。
「ほらお寝坊さん、もう起きる時間ですよ!」


 ─January.27 / Libraly─


「あ……」
 どこかで本当にぱちんと指を鳴らす音がしたような気がして、乃絵美は、はっ、
と気だるい微睡みから目覚めた。一瞬、自分がどこにいるのか分からなくなって、
きょろきょろとあたりを見回すと、そこはごく見慣れた場所だった。少し薄暗い照
明、渋い色をした木のテーブル、そのテーブルの上に積まれた本、本、本。
 図書室だ。今日の書架整理は乃絵美の当番で、だから少し前からここで本を片づ
けていたのだった。ちょっとひと休みしようと椅子に腰に下ろしていたら、どうや
らいつの間にかうとうとと寝入ってしまったらしい。
 乃絵美は妙に気恥ずかしくなって、赤みのさした顔で周囲を見回した。だだ広い
教室の中には乃絵美以外の呼吸は聞こえない。ふう、とひと息つくと、乃絵美はあ
る大事なことに気づいて、ふと教室の壁掛け時計を見やった。4時30分。かちか
ちと秒針が音を立てて進む。
(よかった、まだ30分くらいある)
 ほっと息をはいて、乃絵美は念のために自分の左手首の小さな腕時計──去年、
誕生日に正樹にもらったものだ──の時間も確認した。うん、きっかりと4時30
分。お兄ちゃんと待ち合わせしているのは5時だから、それまでもう少し頑張らな
きゃ。
 とん、と背もたれに軽く身を預けながら、乃絵美は昨夜のことを思った。安らか
な、本当に安らかな夜だったと思う。お兄ちゃんと一緒に買い物をして、それから
お父さんも一緒に、3人でお鍋を囲んで──たぶん、今まで何千回くり返してきた、
それはほんのささいな日常なのだろうけど、今の乃絵美はそれが本当に特別な時間
に思えた。
 お兄ちゃんが笑うだけで。何気ないひと言をかけてくれるだけで──あふれるよ
うな気持ちが胸に広がっていく。たぶん、これが恋というものなんだと思う。むず
がゆさと、嬉しさと、そして確かな誇らしさがないまぜになったような、そんな、
気持ち。
 それは本当に、涙が出るくらい幸せな感覚で──。
「──────」
 乃絵美は思う。自分は、悪いことをしているのだろうか? 罪を犯しているのだ
ろうか? この安らかな想いに包まれる代償に自分は、取り返しのつかない罪を?
 けれど、けれどしょうがない──と、乃絵美は思う。好きになってしまったのだ、
わたしは、あの人を、お兄ちゃんを。その気持ちに嘘はつけないし、そしてそれは
もう、隠すことはできない。
 す、と自分の右頬に触れてみる。昨日菜織にはたかれた跡はもう、すっかりと痛
みはひいていたはずなのに──なぜだか鈍い痛みがした。「卑怯者」という言葉が
ナイフになって、胸をかすめるような。
 卑怯者、なのかもしれない。たぶんきっと、お兄ちゃんを好きな人たち──菜織
ちゃんやサエちゃん、それに真奈美ちゃん──にしてみれば、自分は、本当に許せ
ないことをしたのかもしれない。
 でも、でも、と乃絵美は思う。でも仕方がなかったのだ、この胸の奥から、とめ
どなく溢れてくるこの感情はもう、どんな言葉やルールでももう、押さえつけるこ
とはできない。どんなに罵倒されても、なじられても、もう仕方がない。卑怯者で
もいい。──神様、それでもわたしは、あのひとが誰よりも、
「好き、なんです」
 ──その呟きは静かな教室に不意によく響いて、乃絵美ははっと我に返った。き
ょろきょろとあたりを見回す。大丈夫、誰もいない。乃絵美はほうと息をつくと、
顔を上げた。時計の針はもう、4時35分を回っている。
(あ、急がなきゃ)
 部活が早く引けると思うから、終わってなけりゃ手伝ってやるよ、朝、そう正樹
が言っていたのを思い出す。でも、これくらいは自分でやらなければ。もう頼って
ばかりいては駄目だ、と乃絵美は思う。なぜなら自分はもう、守られるだけの妹で
はないのだから。
 ん、と小さく声をあげて乃絵美は立ち上がった。そして整理途中だった机の上の
本の山の方に向き直る。背表紙を一度全部揃えて、それから乃絵美は丁寧にテーブ
ルの上の本をより分けていった。バルザック、ランボー、ヘッセ、スタンダール、
ジョンソン、サッフォー、ラブレー、コクトー、アリストファネス──新旧詞話ば
らばらになった本を乃絵美は静かに分類していく。3時くらいから始めていたから、
整理はもうあらかた終わっていて、あとはこの西洋書架の棚を整理するだけだった。
このペースならもう20分もすれば終わるだろう。
「──?」
 不意に、見慣れぬ装丁が視界に飛び込んできて、乃絵美は一瞬動きを止めた。今
まで少し低い椅子の上に置いてあったから気づかなかったのだろう。灰色の鞄の上
に、古い装丁の本が一冊置かれている。褪せた皮のような表紙に、寄り添って眠る
少年と少女が描かれた、どこか印象的な感じのする本だった。そのタイトルには流
れるような筆記体で、誰かの名前だろうか、アルファベットが踊っている。
「E──」
 読み上げようとした乃絵美の声と、がら、と引き戸が開く音がしたのはほぼ同時
だった。乃絵美はびくりと肩を震わせて音のした方向に振り向いた。べつだん悪い
ことをしているのでもなかったが、なんだか妙にばつの悪い感じがする。
 教室に入ってきたのは、見覚えのある顔だった。きつそうな両目を縁なしの眼鏡
で覆っている(少し神経質そうな人だな、というのが乃絵美の第一印象で、第二以
後もずっとそうだった)、図書委員の井澄先輩。
「あ、ご苦労様です」
 自分がぼうっと立っていたことに気づくと、乃絵美ははっと我に返ってぺこりと
お辞儀をした。そんな乃絵美を一瞥すると、井澄は無言のまま乃絵美の見やってい
た本とバッグを手に取った。どうやら井澄の荷物だったらしい。
 なんとなく、広い室内に奇妙な沈黙が流れた。乃絵美は井澄の持ついかにも厭人
的な雰囲気に呑まれていただけだが、井澄の方はこういう態度が地なのだろう。
(その無愛想さがどうやら女子の一部には「たまらない」らしいのだが──現に夏
紀がそうなのを乃絵美は知っている──そのあたりの異性の好みのほどは乃絵美に
はよく分からない。まぁ、乃絵美にしてみれば、「お兄ちゃんみたいな人」という
のが幼い頃からの異性の理想ではあったので──)
 しかし、意外にもその沈黙を破ったのは井澄の方が先だった。
「独りで?」
 一瞬、何のことを訊かれているのか分からなかったが、すぐに今日の書架整理の
ことだと気づいて、乃絵美は慌てて答えた。
「はい、その、江崎先輩が今日お休みだったので──」
 書架整理は図書委員の通常としては二人一組のローテーションでやることに決ま
っている。けれども今日は乃絵美と一緒にやるはずだった先輩が風邪でダウンして
しまったので、独りでやることになってしまったのだった。といってもずれた本を
直す程度のことだし、普段からあまり利用者のいない図書室ということもあったの
で、面倒な作業ではあるが、そう重労働というほどのものでもなかったが。
「そうか」
 乃絵美の答えにさして興味もなさそうにうなずくと、井澄は踵を返して教室から
出ようとした。そのとき、井澄の手にしていた本の隙間から、ぱさりと何か紙のよ
うなものが落ち、乃絵美は慌てて呼び止めた。
「あの、なにか落ちました」
「──ああ」
 乃絵美は駆け寄って、床に落ちていた──それは萌葱色の栞だった──紙を拾う
と、井澄に手渡した。その瞬間、ふと井澄の表情が変わったような気がした。それ
はいつもの冷徹な表情ではなく、一瞬、ほんの一瞬だが──彼のなまの感情が垣間
見えたように乃絵美には思えた。
「? あの……?」
 押し黙った井澄を見やって、乃絵美が不安混じりに問いかけると、
「そうか、伊藤──というんだったな、君は」
 ぽつりと、今思い出したかのように井澄が答えた。その切れ長の目が、乃絵美の
制服のネームプレートに、静かに注がれている。
「あ、はい。伊藤──乃絵美です」
 図書委員を始めてもう2年になろうというのに、後輩の名前をろくに覚えていな
いというのも、実にこの先輩らしいと乃絵美は思った。おそらく、本質的にこの人
は他人を必要としない人なのだろう。『顔も頭もいいのに、性格がアレじゃね。乃
絵美のお兄ちゃんの方がよっぽどポイント高いよ──』クラスメートの誰かがそう
噂していたのをふと思い出す。(そのあと井澄シンパの夏紀の逆鱗に触れて授業が
始まっても言い争いをしていたが)でも、今の井澄の表情は、そんな印象とはやや
かけ離れた、どこかせっぱつまったようなそんな雰囲気を持っていた。
「じゃあ、伊藤正樹の?」
「は、はい、伊藤正樹は──兄、です」
 お兄ちゃん、と答えようとして乃絵美は言い直した。そういえば、目の前のこの
先輩と正樹はクラスメートだと、いつか正樹から聴いたことがある。けっこう、親
しい関係なのだろうか? ふと、自分の知らない正樹の生活を見る思いがして、乃
絵美は少し気になった。
 けれど、そう返した時の井澄の表情は、なんとも不思議なものだった。どう表現
すればいいのだろう? それは少し戸惑うような、それでいて哀れむような、ある
いは慈しむような──そんな幾つもの感情が一瞬にして錯綜した、表情。
 そして井澄は深くひとつ、大きく息をつくと、
「そうか、君が──」
 と、もう一度呟いた。


          3


「ようし、じゃあ今日はもうあがれ! 2年は撤収作業、1年はグランド整備しと
け。解散!」
 田山の太い声がグラウンドに響いて、いつもより少し早く部活の終わりが告げら
れた。クールダウンを兼ねてゆっくりとトラックを流していた脚を止めると、正樹
はふうと大きく息を吐いた。見上げれば淡色の空。凍りついたように白い太陽が、
雲のきざはしから顔を見せている。
 ゆっくりとスポーツバッグの置いてあったベンチまで歩みよると、正樹はふと、
その上にかけてあったはずのタオルが消えているのに気づいた。練習前、たしかに
バッグの上に引っかけていたはずなのだが。
「? どこへやったっけな──?」
 という呟きにかぶさるように、正樹の背後で作ったような猫なで声がして、
「伊藤先輩、このタオル使ってください!」
 綿の柔らかい感触とともに、きゅっと首が絞められた。
「うわ」
 背中に当たる柔らかい感触をあわてて引き剥がすと、正樹はぼやき混じりに言っ
た。
「て、ミャーコちゃん、なにするの」
「えっへっへ。一度こーゆーのやってみたかったんだよ~」
 振り向いた先で、器用に編まれた2本のお下げをぴこぴこと揺らして笑っていた
のは、案の定美亜子だった。苦笑しながらも、その悪びれない表情に正樹は少し安
堵する。(どうして“安堵”したのか、自分でもよく分からなかったけれど)
「ん、でもあんまり期待してた反応じゃなかったナ~。もしかしてこういうシチュ
エーションは慣れっこ?」
「んな、まさか」
 正樹は苦笑して(でも、ミャーコちゃんの変な行動にはもう慣れっこだけどな、
とは内心しっかり思ったが)首を振った。そのまま首にからまったままのタオルに
手をやると、吹き出す汗をぬぐう。
 そんな正樹を美亜子は好奇心いっぱいの瞳で見やっていたが、
「でも、変わったねェ」
 やがて、少し感慨深そうに、そう呟いた。
「なにが?」
「んー、正樹くんの走り方、っていうか。いやいや所詮は素人のタワゴトなのです
がね?」
「──どんなふうに?」
 どうせまたなにか妙な答えを用意しているんだろう、と半ば予想しつつも、正樹
は訊ねた。しかし意外にも、美亜子は指を形のいいあごの下のあたりに当てて、
「んー」と考えこむような仕草をすると、少し真面目な顔つきになって答えた。
「うん、なんてゆーか、キレイになったと思う」
「キレイ? なにが?」
「だからぁ、走り方、ってゆーのかな? 前はなんかこう、「うおおーッ!」って
感じに前に突き進んでるカンジだったけど、さっきの見てたら、んー、なんてゆー
かなぁ、こう、「すーっ」って走っているカンジがしたよ」
「すー?」
「そう、すーっ」
 言いながら、美亜子は胸の前で手をすべらせた。
「うーん、分かるような分からないような」
 苦笑して正樹はタオルを顔から放すと、首に引っかけてバッグのチャックを締め、
地面に置いた。それを待っていたかのように美亜子がちょこんとベンチに腰を下ろ
す。
 それから少しの間、沈黙が流れた。空の高いところでは風の流れが早いようで、
幾すじもの白い雲がゆったりと南の方へと移ろってゆく。
 その様子をただぼんやりと眺めながら、思い出したように美亜子がぽつり、と呟
いた。
「もう卒業だねェ」
 ベンチに腰かけたまま、所在なげに脚をぶらぶらさせながら。いつもはただ子供
っぽいだけのその仕草も、その横顔だけはなぜだか今日は少し大人びているように、
正樹には見えた。
「あと2ヶ月もしたらみんな、ばらばらになっちゃうんだねー」
「……そうだね」
 呟きながら、でもさ、と正樹は続けた。
「でも、菜織と冴子は桜美だし、ミャーコちゃんは桜美駅前の専門学校に通うんだ
ろ? たしかに今みたいに毎日は会えなくなるかもしれないけどさ──冴子が言っ
たみたいに、結局このメンツはずっと変わらないんだと思うよ」
 正樹の言葉に美亜子は、ん、とうなずいて、それから少し考え込むような仕草を
したあと、囁くように口を開いた。
「でも、正樹くんは、どーするの?」
「え?」
「正樹くんは、これからどーするのかなって。城南の推薦断ったって話、もーかな
り噂になってるよ? て、まーそれを広めたのは主にワタクシの仕業なワケですが」
 てへへ、と美亜子は口元を笑みくずしたが、すぐにまた少し真面目な顔つきに戻
って、正樹の次の言葉を待った。
「俺は──」
 言葉を続けようとして、正樹は先を失ったように口ごもった。自分は、何と答え
ようとしているのだろう? 自分は、本当はどうしたいのだろう? 言葉は鎖がか
かったように重く、正樹はただ沈黙を美亜子に返した。
 強い風が吹いた。中庭の木々が大きく揺れ、その葉擦れの音がいやに強く耳に響
いた。何が本当に大切なことなんだろう──もう一度、正樹は思う。なにが本当に、
自分の中で?
 今ならば思える、それは間違いなく乃絵美で、あの子が笑顔でいてくれるなら、
自分はきっとなんでもするだろう。でも、その想いとは別の、胸のどこかで──陸
上に対するなにかがずっと燻っている。ベクトルを違えたふたつの感情。
「…………」
「ん……あ、そうだ!」
 押し黙った正樹を見て、美亜子は慌てて話題を変えるようにわざとらしく咳払い
をした。
「忘れてた、忘れてた。正樹くんに伝えなきゃいけないコトがあったんだった」
「俺に?」
 そ、と呟いて、美亜子はよっと身を翻しながら器用な仕草でベンチから降りた。
「菜織ちゃん、校舎裏のところで待ってるって」
「菜織が?」
「うん。けっこー深刻そうなカンジだったよ。──ほらほら、これはアレなんじゃ
ないですか? 俗に言う告白というヤツなのではー?」
「妙なコト言うなって。……分かった。行ってみる」
 うっしっし、と笑う美亜子を小突くと、正樹は足元のバッグを拾って、裾の埃を
払った。両脚はまるで鉛のように重かったが、逃げるわけにはいかない。いつまで
も、中途半端なままでは、いられない。軽く唇を噛むと、正樹はバッグを握る手に
力を込めた。
「もう行く?」
 美亜子の問いに正樹は、
「そうするよ。待たせるのも何だしね」
「そっか。……じゃ、バイバイ、正樹くん。また明日ね」
「ミャーコちゃんも。また明日な」
 そう言うと、正樹は踵を返して、中庭から校舎の方へと歩いていき、やがて渡り
廊下の中へと消えた。その後ろ姿をじっと見やりながら、美亜子はやがて嘆息に似
た息をついた。
「なーにやってんのかなー、あの二人は。さっさとくっついちゃえばいいのになぁ」
 もう一度ベンチに腰を下ろして、両脚をぶらぶらさせながら、美亜子は呟いた。
あの二人の仲が、このところどうもしっくり来ていないのは、傍目にも明らかだっ
た。正樹と菜織はべつだん彼氏彼女という間柄でもなかったから、無駄なおせっか
いといえばそうなのだが、彼女や冴子などはそう遠くないうちに二人はそうなるも
のだと思っていたし──むしろやきもきしていたくらいだ、多少の心の痛みととも
に。ま、それは主にサエだけどね──だからこのところの二人の足踏みにはなんと
も歯がゆいものがあったりするのだった。
「菜織ちゃんも、完全無欠の絶好のポジションにいるんだから、さっさと捕まえち
ゃえばいいんだよー。世話が焼けるんだよねー、ホント」
 キューピッド役というのも肩が凝る、と美亜子は思い、今朝の菜織のちょっと切
羽詰まったような表情を思い出して少し吹き出した。目を真っ赤に腫らして(これ
から告白するというのに)、どこか思い詰めたような顔で、「ごめんミャーコ、ち
ょっと頼まれてくれないかな?」なんて言うのだ。そりゃあ緊張するのは分かるけ
ど、菜織だったらもう、結果は決まっているようなものではないか。それこそ、ル
ール無視の大ハプニングでも起きないかぎり。
「9回裏、2死からの大逆転! ってワケには、やっぱいかなかったなぁ……」
 さっきの正樹の様子を思い出して、美亜子はちょっと笑う。菜織が呼んでるとい
う用件を伝えるだけだったのに、危うく変なことを口走るところだった。よかった、
よかった。まぁ少し胸は痛むけど、さしたるほどでもない──と、思う。やっぱり
あの二人はお似合いだし、そういう関係になってしかるべきなんだろう。さて、首
尾良くそうなったら、最初になんて言ってからかってやろうか。
「また明日、かぁ……」
 ぽつりと美亜子は呟いて、流れていく雲を見上げた。目には見えないけれど、時
間もああやって流れているんだろうな、と思う。雲がいつまでも同じ形ではいられ
ないように、なにもかもがいつかは、変化の時を迎えなければならない。
 でももうちょっと、と美亜子は思う。
「もうちょっと、この時間が続けばいいのになぁ」
 と。


          ※


「え、と──」
 どこか思い詰めたように押し黙った井澄を前に、乃絵美は困惑したように視線を
左右にさ迷わせた。井澄は何かを考え込むように強く唇を噛みしめていたが、やが
て視線を逸らし、少し落ち着きを取り戻したように表情を緩ませた。
 そして、呟くように言った。
「ジェスリー・ラインコックは──」
「え?」
「ラインコック──さっき君が見てた、この本の作者の名だよ。彼は1902年1
月29日、21歳でこの世を去った。泥酔して冬のテムズ河に転落し──溺死した
んだ」
 戸惑う乃絵美をよそに、井澄は続けた。
「彼がそうなるまで酒を飲んだ理由──ああ、彼は下戸で知られていたんだ──に
は諸説ある。新作が思うように進まず、執筆に苦悩していた、だとか、いや、原稿
はすでに完成していたが、契約していた出版社にその出来を酷評されたのだ──と
かだ。だが、最も有力な説はそのどれでもない」
 ゆっくりと、まるで自分自身に語りかけているように、井澄は言葉を接いでいく。
 そして、その言葉を静かに、噛みしめるように、呟いた。
「──その日は、彼の姉の結婚式だった」
 おそらくはそれが、唯一にして最大の理由だろう、と。そして、両目を細めるよ
うにして乃絵美を見やった。真冬だというのに、なぜだかひどく蒸し暑い感覚を乃
絵美は覚えた。
 何を言っているんだろう? 先輩は突然、何を話し始めたのだろう? だがその
困惑は、熱病に浮かされたような井澄の視線に音も立てずに吸い込まれてゆく。
 知っている、と思った。
 自分はこの目を知っている。理性ではなく、感覚のどこかが乃絵美にそう告げた。
そう、自分はこの目を知っている。そしてそれはまるで、鏡を見ているような感覚
で──
「でも……」
 沸き上がる不安感を必死に抑えながら、乃絵美は反駁の声をあげた。
「でもそれは、おかしいです」
 姉の結婚が弟の自殺の要因になったと、井澄は言う。けれどそれは祝福こそすれ、
そんな悲劇の要因になるべきではけしてないはずだ。まだ結婚というものに神聖な
イメージを持っていた乃絵美にとって、断片的ながら、井澄の言葉はにわかに首肯
しがたいものがあった。        ・・・・
「ラインコック姉弟が、世間一般でいう、ごく普通の姉弟であればね」
 井澄は答えた。その視線にふと、哀憐に似た感情が漂ったように、乃絵美には思
えた。
「ジェスリー・ラインコックはまだ物心つかぬ頃に、伝染病で両親をもろともに亡
くした。父親は移民だったから、寄るべき係累も少なく、彼は母方の祖父母のもと
で育てられた。その後長じるまで、幼いジェスリーの母親代わりになったのは、三
歳年上の姉、クローディアだった」
 一言一言、区切りをつけるように井澄は続けた。
「ジェスリーにとって、クローディアは姉であると同時に母親であり、盲目的なま
での思慕の対象だった。いや、クローディアは彼にとって、女性そのものであった
と言ってもいいだろう。彼はその短すぎる作家人生で3冊の本をこの世に残したが、
その全てはクローディアに捧げられている」
 そう呟いて、井澄は右手に手にしていた古い本をそっと胸の前で開いた。静かに
ページがめくられていき、やがて色褪せた紙の中央に、小さく文字が穿たれている
ページに差し掛かった。そこにはたった一行、曲がった釘のような古いラテンの文
字で、こう書かれていた。

『Amor Soror.(最愛の姉に)』

 ──と。

小説(転載)  インセスタス Last Incest 明日 1/7

官能小説
05 /11 2019
「結局、世界のすべてを敵に回してしまったわけだ──」
 苦笑まじりに、デュアンはそう呟いた。
「僕もよほどの馬鹿だし、ユージニー、君も相当なものだと思う。いくら愛を貫い
たとしたって、じっさい、死んでしまったら元も子もないのにね」
 その言葉にくすりと笑って、ユージニーは返した。
「でも、アジアの神のように、わたしたちの主は生まれ変わりを認めていないのだ
から──今この時は二度と訪れないでしょう? わたしは自分に嘘はつきたくない
し、そのことで後悔したくはないんです」
「それで、結果命を落とすことになったとしても?」
「それで、結果命を落とすことになったとしても──です」
 小鳥のさえずりのように柔らかな、けれど強い意志の響きを込めて、ユージニー
は答えた。
 遠くで馬蹄の音がする。追手はもう、すぐそこまで迫っているのだろう。ユージ
ニーの頬にそっと手を触れながら、デュアンは嘆息するように呟いた。
「どうして、僕は君を好きになってしまったんだろう──君は、僕の妹なのに?」
「どうして、わたしは貴方を好きになってしまったのかな──貴方は、わたしの兄
さんなのに?」
 二人は顔を見合わせて、そして小さく笑った。見上げると、ビロードのような黒
い空に細い上弦の月が浮かんでいる。そして、また馬蹄の音が迫る。今度はずっと、
大きく。
「もう時間だね」
 とデュアンは言った。うなずくユージニーの吐息に、ほう、と梟の鳴く声が重な
った。
「ああ、ブッディストに改宗しておくんだったな──! そうすれば来世こそ、君
と結ばれることが出来たかもしれないのに」
「髪を剃り上げた兄さんなんて、想像できないから、いいですよ」
 悪戯っぽい笑みを浮かべて、ユージニーはデュアンの手を取った。そして、静か
に一歩を踏み出す。眼前には、オークセンの澄んだ湖水が広がっている。
「死んだ後のことなんて分からないけれど──でも、最期の時をこうして一緒に迎
えられたことだけは、わたし、幸せです」
 白い頬にわずかな赤みをさして、ユージニーは言葉を接いだ。
「わたし、思うんです。貴方だから、わたしは貴方を愛したんです。貴方だから。
たとえ貴方が血の繋がった兄でも、同じ女の子に生まれていたとしても、ううん、
こうして人として生を受けていなかったとしてさえ──貴方が貴方であるかぎり、
きっとわたしは貴方を愛していたと信じます。……ありがとう、デュアン兄さん。
わたしの愛しいひと。貴方に出逢えて、貴方を愛するわたしでいられて──本当に、
幸福でした」
 デュアンは答えた。小さな掌を握りしめる手に、しっかりと力を込めながら。
「ありがとう、ユージニー。僕の愛しいひと。主の御心には反するけれど、来世っ
て奴が本当にあるといいね。そうしたら今度はもっと普通に出逢って、普通にお互
いを好きになろう。そしてのんびりと、静かに時を過ごそう」
 その声に、ユージニーはもう言葉ではなく、ただ静かに微笑みを返した。そして、
馬蹄が森の土を荒々しく踏みつけるその音が耳に響く、ほんのわずか前に──
 二人は、飛んだ。

                 ジェスリー・ラインコック 「ユージニー」



Last Incest 明日


          0


 例えば、人間の繁殖が無限に枝分かれする一本の樹木のようなものだとして──
その樹木を根本へ根本へと遡っていけば、一体どこへ行き着くのか? 何度も読み
終えたその本を閉じながら、井澄潤は考える。
 おそらく、それは原初のインセストなのだろう。人間という種が、たったひとつ
がいの交合からその全てを始めたと規定するならば、その最初の“枝分かれ”は、
どんなプリミティブな形であるにせよ──インセストの業でしかありえない。そう、
突き詰めれば誰しもが皆──インセストの子なのだ。結局は。
 そして──井澄潤は思う。
 そして、その仮定を──人はインセストより始まるという、その仮定を真とする
ならば。インセストという行為そのものは、あるいは原初への回帰といえるのかも
しれない。人間という種が、何百万年だか営々と築きあげてきた社会やら、モラル
やら、文化やらをすべてかなぐり捨てる、本能への回帰。求愛に垣根など必要なか
った時代への、ひたすらな回帰。だからこそ、人はインセストを怖れるのだろうか。
愛欲が原初へと立ち戻ることによって、人類社会が再び、とうに脱却し踏み台にし
てきたはずの、原初の闇へと引き戻されることを、怖れるのだろうか。
 く、と喉を鳴らして、井澄潤は笑った。
 ああ、何をそんなもったいつけた理屈をひねっているんだろう。物事の経緯や真
意に、いったいどれだけの価値があって、それが何の役に立つというのだろう。
 ──自分にとってもっとも近しい者を、ただひたすらに、愛してしまった。
 ただ、それだけのことなのだ。最も近い者を最も愛することが、なぜ罪に問われ
るのだろう? むしろそれはより自然な行為に思えるし、“愛してしまった”とい
うこと以外、答えなどどこにもない。だのになぜだろう。こんなにも世界はインセ
ストを認めず、疎外し、消し去ろうとする。
 補正なのだ、やはり。インセストを原初の回帰と規定するならば、それを阻もう
とする力──がむしゃらに前に進もうとする、停滞すること、後退することが何よ
りの悪と信ずる──はおそらく、そんな世界の補正なのだろう。
「結局、世界の全てを敵に回してしまったわけだ──」
 「ユージニー」の一節を小さく呟きながら、井澄潤はもう一度笑った。
 だから、決めねばならない。
 その想いが本当に確かなものなのならば、決めねばならない。
 どうしてインセストに至ったのか、そんなことを問題にするのではなく──
 本当に、──を、愛しているのなら──
 彼女を遠ざけることによって、世界から守るのか。
 それとも、どこか遠く、誰の手も届かない遠くへ逃げ──世界から隠れるのか。
 あるいは。
「──世界と、戦うのか」
 ただ、それだけを。


          1


 鈍色に黒ずんだ空が、まるで膿んだ傷跡のように、ぽっかりと口をあけている。
だのに、昏い雲間から降りゆく雪は、汚れを知らないかのように、眩しく白く、優
しく舞っていた。ひらひらと地上へ降りてゆく白い精は、やがて静かに、ゆっくり
と世界を覆う。空はただ、ひたすらに、灰黒い。
 さく、さく、とシューズが小さな音を立てた。吐息が白く染まり、空へと立ち昇
ってゆく。世界はこんなにも白く包まれているというのに──正樹は思う──どう
してこんなに、心は枷がかかったように重いのだろう。
 未練、なのだろうか。割り切ったはずだったのに──陸上よりも乃絵美の傍にい
ることを、あのとき誓ったはずなのに、心はこんなにも揺れている。
 体中が波打つような感覚。──まるで、世界が違った。あれが、“歴然”なのだ
ろう。「10秒と11秒の間を行ったりきたりする世界」と、あとわずかで、「9
秒の壁に手が届く10秒の世界」との間に隔たる、厳然としてそこにある“歴然た
る差”。おそらくそこでは、流れている空気すらも違うのだろう。体中を構成する
すべての要素が、粒子になって風に溶け込んでいくような世界。その世界に立って
あの人は──笑っていた。余裕の笑みでも、あざけるような笑いでもなく、ただ何
かを懐かしむような、そんな、微笑。あえてそれに言葉を与えるなら、なんだろう
──ああ、それはきっとおそらく、
(──本当に“歴然”だったかい?)
 そうか、まだ君もこのていどの差を、本当に“歴然”だと思っているんだね──
という、かつての自分を懐かしむような笑みだったのかもしれない。
 片桐隆史。
 日本人が9秒の世界へと到達できるのだとしたら、彼以外にはありえない、とま
で謳われた屈指の国産スプリンター。けれども、結局彼は一度も9秒への壁を越え
ることはできず、世界の表彰台に立つこともなかった。片桐と世界の間にはきっと
正樹が片桐に感じるよりも遥かに深い──それはおそらく絶望的な──差が、歴然
たる事実としてあったのだろう。「歴然、でした」と言った正樹に対して少し見せ
た、あの微妙な表情は、
「歴然? こんなものが?」
 という、自嘲にも似たものだったのかもしれない。
 絶望的。そう、おそらくそれは絶望的なまでの差なのだろう。正樹が片桐に感じ
る歴然と、その片桐が世界に感じた、長大すぎる“歴然たる差”。ほんの一握りの
人間だけがその地平に立つことを許され、わずか100メートルの曲線に絶対的に
君臨するその世界。
 遠すぎる。
 それはきっと、あまりにも、遠い、世界だ。
「…………」
 ──だのに、と正樹は思う。
 だのに、全身が痺れるくらいに疼いている。どれだけの可能性が残されているの
か──きっとそれは笑うしかないくらいに絶望的な数字なのだろうが──分からな
い。だのに、その世界へと辿り着きたいと思っている自分がいる。こんなものでは
ないはずだ、と両脚が叫んでいるような気がする。未知の感覚を、遠い地平を、全
身が求めているような──そんな、渇望。
(走りたい、速く──もっと速く!)
 いつから、こんなにも強くそれを願うようになったのだろう。走り去るあの電車
の影を追いかけようとしたあの日から? けれど、初恋の淡い想いが時の流れの中
に静かに埋没していくのと同時に、走ることへの渇望もゆっくりと燻っていったよ
うな気がしていた。どこかで線を引いていたのだろう。どれだけ速く走ることが出
来たとしても、過去へ逆送することは出来ないのだし、時計の針は、戻せない。
 結局、指向性を失った情熱は、空回りするだけだった。後一歩、が足りない自分
を、「まぁ上出来だろう」という中途半端な余裕で覆い隠していた。そう、なにも
かも中途半端なままで。
 ちく、と不意に左肩の下あたりが痛んだ。シャツの裏地にこすれたのだろう、ま
だ新しい傷口が、自分の存在を主張するように、ちく、と皮膚下を刺激する。
 小さな爪痕。
 それはたしかに、昨日の夜のことが幻でない証だった。中途半端、だったのだろ
うか? 正樹は思う。城南を捨て、乃絵美を選んだことは、中途半端な選択だった
のだろうか? 片桐隆史に完膚無きまでに敗れて、心はこんなにも揺れている。天
秤は左右に激しく揺れて、もうまるで判別がつかなかった。そんな軽い思いで、選
択したのだろうか? 自分は? 乃絵美を、──妹を、抱いたことを?
「────」
 粉雪の降り散る視界の先に、小さな人影を認めて、正樹はふと立ち止まった。息
が洩れ、そしてそれはまたたく間に霞になって、ふうっと空に立ち昇っていく。
 それこそ雪のように真っ白な傘を所在なげにさしていたその少女は、正樹の足音
に気づいたのか、ゆっくりとうつむいていた顔を上げた。
 その表情をなんと形容すればいいのだろう、──正樹は思う。その笑顔に、どん
な言葉を返せばいいのだろう? 混じりけのない、本当にただひとつの想いに貫か
れた、まっすぐな笑顔。想いの前に言葉はあまりにも無力で、正樹はただ、その名
を呼ぶことしかできなかった。
「乃絵美」
 その呼びかけに、乃絵美はもう一度、零れるように口元をほころばせた。随分待
ったのだろう、白い頬にはうっすらと赤みがさしている。
「待っててくれたのか?」
「うん、お兄ちゃん、傘忘れていったから、──困ってるだろうな、って思って」
「ん、ああ……」
 その時になって初めて、正樹は自分の全身がかなり降る雪にまかせていたことに
気づいた。粉雪とはいえ、髪やコートにまとわりつく白い結晶は、もうずいぶんと
体を濡らしている。
「悪いな、わざわざ」
「ううん」
 と呟いて、乃絵美はそっと自分の傘をさしだした。無言でそれを受け取って、正
樹は自分の傍らに乃絵美を招き入れた。寄り添う瞬間、少し目が合って、すると乃
絵美は照れたように「えへへ」と視線を下に逸らした。
 ふと思った。これがあの日の、あるべきことだったんだろう。
 あの雨の日、神様の予定としては、兄妹はこうやって仲直りするはずだったのだ
ろう。あのキスのことはまぁ、ちょっとした気の迷いという奴で片づけられて、二
人はなんの問題もなく、きちんと舗装された道に立ち戻るはずだったのだろう。だ
けど、今日はもうあの日じゃない。数量的にはきっと、人生の中でもたかだか2万
分の1くらいにすぎないだろう、たった1日──“昨日”という日が、多分兄妹の
すべてを変えた。
「それと、ほら、約束──したし」
「約束?」
「うん。今日、お鍋にしようって。だから、一緒にお買い物、したかったから」
「なんだ、そういう魂胆か。俺を荷物持ちにしようっていう腹なんだな」
 軽く乃絵美の額を小突くと、乃絵美は「ちがうよー」とくすぐったそうに笑った。
正樹も小さく笑みを返して乃絵美の髪をくしゃっと撫でると、
「ありがとな、乃絵美」
 と呟いた。
 乃絵美は「え?」という顔をして、正樹の顔を見上げた。
「ううん、違うよ。お礼を言うのはわたしの方だよ」
 わたわたと、乃絵美が言う。その姿がたまらなく愛しくて、正樹は思わずそっと
乃絵美の頬を指でなぞった。どれだけ、大事に思ってきたことだろう。この小さな
妹を、どれだけ? その妹が、自分を好きだと言ってくれた。自分にその体を委ね
てくれた。本当にそれは、どれだけ幸せなことだろう? 世界のどんな恋人同士が、
これだけの喜びを感受できるだろう? 誰よりも愛したこの子が、誰よりも自分を
好きでいてくれる、この喜びを?
「ごめんな」
 そう呟いて、正樹は乃絵美をそっと抱き寄せ、唇に触れた。それはほんの一瞬で、
人気のない校舎からはもう、見咎められることはないはずだったので。それでも乃
絵美は顔を真っ赤に上気させて、それを隠すようにうつむいた。正樹のコートを掴
む手に、きゅっと力が込められる。
 その仕草に目を細めながら、正樹は思った。ごめんな、ごめん。俺はまだ迷って
る。でも、絶対答えを出すからな。今度は絶対、中途半端じゃなく。
「じゃ、行くか?」
 その迷いを強くうち払うように、正樹は言った。「うん」とまだ赤い頬のまま乃
絵美はうなずいて、歩みを合わせるように二人は歩き出した。さく、さく、と二人
分の雪を踏む足音が、耳に響いた。
 雪はまだ、当分やむことはなさそうで──










 ──その校舎の影で、氷川菜織はどっと崩れ落ちるように雪のつもった地面に膝
をついた。両膝に痛いほどの冷気を感じたが、そんなことはまるで気にならなかっ
た。そんなことよりも今頭を駆けめぐっているのは、今見た、ほんの一瞬の光景だ
った。そう、一瞬のこと。でもそれはたしかに、恋人同士の甘い仕草だった。間違
っても兄が妹にするものではない、愛しい相手に対する、たしかなキス。
 右手がじんじんと痛い。でも、そんなものよりずっと激しい痛みが、菜織の胸を
苛んでいる。
 ああ、なんだかんだいって、自分はまだどこかで信じていたのだろう。乃絵美の
告白を受けても、自分はまだどこかで、それを受け入れることが出来なかったのだ
ろう。
 でも今は違う。
 今なら信じられる。二人はたしかに、互いを求めあって、そしてそれを受け入れ
たのだ。兄と妹ではなく、恋人同士になることを選択したのだ。
 そんなことが、許されていいのだろうか? そんなのは、ルール違反じゃないの
だろうか? 菜織の全身を、寒気に似た震えが駆けめぐった。外気のせいだけでは
ない、何かが。
 震える肩を必死に押さえようとして、菜織はようやく、自分が泣いていることに
気づいた。こんなの、ひどすぎる。こんなの──。

 ──雪はまだ、当分やみそうにはなかった。

eroerojiji

小さい頃からエロいことが好き。そのまま大人になってしまったエロジジイです。