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小説(転載) 弱者の妖光 8/10

官能小説
05 /16 2019
『弱者の妖光』 (8)



 厚さ4センチの、間仕切壁。そこを一歩踏み出すと、明らかに七瀬の表情に
変化が表れた。目の焦点が合わず、半開きの口から熱い吐息が漏れているので
ある。
視界には、毎日社員が働いている空間。しかも、ほんの数時間前には、現実に
皆が働き、その余韻も少なからず残っていた。
その空間に、課長七瀬耀子は、照明の明りに照らされて、下着姿のまま四足歩
行を余儀なくされている。
非現実的…彼女に突きつけられた現実である。

「あぁ…山田くん、許して…許して下さい、あまりにも辛すぎるわ」
「…何言ってるんですか、まだニ、三歩進んだだけですよ。これ位の事で辛い
と言っていれば、皆からのお仕置きは我慢できませんよ」
「お、お仕置き? …あぁ、何をさせる気なの…」

 甚振る女性が落胆する姿を眺め、それを目にする度に山田には活力の血が流
れるのである。

「さあ、着きましたよ。ここは女子社員の栗田さんの机ですね。まずは…嘘の
出張についてお仕置きしてもらいますよ。ええっと、栗田さんは顔の手入れが
好きだから…」

 山田は、机の上にある小物を物色して、セロハンテープを取り出し、20セ
ンチ程切り取り、片方を七瀬の鼻につけると、鼻を押し潰すように片方を額へ
張り付けたのである。
筋の通った綺麗な七瀬の鼻が、まるで豚の鼻みたいに天を向いて、大きく鼻穴
を開かせてしまっているのだ。

「くっくっくっ…これがあの美形で評判の七瀬課長なのか? これじゃ、まる
で本当の豚だ! 牝豚そのものだよ!! 」

 大笑いする山田は、テープを張られて不安にかられている七瀬に、顔一面写
る鏡を目の前に差し出してみせた。
 
「課長、鏡をしっかり見て下さい。これが七瀬耀子の本性ですよ、さあ、しっ
かり見るんだ!」
「えっ? …い、、嫌っー!!」

 七瀬は、鏡に写る自分の顔を見て驚いた。鏡には、毎日化粧を施す綺麗な顔
ではなく、そこには豚鼻に加工され、前歯が出っ張り醜く、歪んだ顔が写って
いたのだ。

「課長の豚顔を見れば、栗田さんもきっと満足するでしょうね。毎日、課長の
美しい顔に嫉妬してたみたいですから…くっくっ」
「あぁ…お願い、お願いだからこれ以上醜くしないで…」

 必死に懇願する七瀬であるが、山田は、それを冷たく無視すると、次の場所
へと、課長の…いや、牝豚七瀬の鎖を引張るのであった。




 手錠を着けたままの移動は辛いものがあった。上手く、足と連携が取れずに
思わず転んでしまいそうにもなる。それに、最も辛いのは、脚を曲げる事を許
されず尻を突上げたまま歩かされている事であった。
それでも七瀬は、大きな尻を左右に振って歩くしかなかった。
山田は、その姿を後方から見て愉しんでいると、ある変化に気が付き確信する
ものをここで得たのである。

「おや…辛そうに歩いているのに、課長のあそこは何となく湿っているように
みえるぞ…SMの話しで聞いたが、Mは甚振る苦痛がよい刺激になり、膣口を
濡らせ感情を昂ぶらせるらしい…課長は、正真正銘のMなんだ…」

 そう思った山田は、一人含み笑いを浮かべ、新たな甚振りを考えるのである

 幾つかの机を回り、ある女性社員の机に辿り付いた。

「吉原さんは…メンソレータムを持っていたよな…結構、刺激が強くて思わず
目が覚めてしまうとか言ってたよな、おっ、これだ」

 山田は、軟膏のメンソレータムと鋏を手にして、七瀬に近づいた。
鋏に恐がる七瀬を押さえつけると、ブラの紐を切ってしまったのだ。フロント
部と左右の肩に掛かる紐である。
ぱしっぱしっ! っと、お互いの紐が弾けて切れると、おわんのような胸がぶ
ら下って揺れているのであった。
七瀬は、恥かしさで隠したい心境であったが、それを山田が許す筈がなかった。

 次に山田は、メンソレータムを大量に掬い取り、垂れ下がった七瀬の乳に塗
り回すと、更に、真中についている乳房にも塗りつけたのである。

 時間が経つにつれ、七瀬の乳は冷たさを増し、まるで氷の中に胸をつけてい
るように冷えているのである。更に、時間が経つと、冷たさに伴いキリキリと
した痛さが、胸部を襲ってくるのであった。

「あぁ…い、痛い…」
「ふふっ、堪らない痛さが襲ってくるでしょ? これに、風を当てると更に刺
激が増しますよ。丁度、下敷きがあったのでこれで扇いであげましょう」

 山田は、机の上に置いてある下敷きを手にすると、七瀬の胸を下側からパタ
パタと扇いだ。すると、七瀬は苦痛の表情を浮かべて、身体をクネクネと揺ら
し始めたのである。
風による刺激が、メンソレータムの働きを増し、ジンジンとした微妙な刺激を
広げるのであった。そして、風が止むと、今度は以前とは比べ物にならない痛
みが七瀬を襲うのである。

「ああっ、許して、お願い山田くん、許して頂戴」

 必死に懇願する七瀬。だが、山田はその七瀬の表情をみて改めて、七瀬の異
常な性質を確認していた。その表情には、痛みによる許しではなく、明らかに
刺激に狂い、感じている淫楽に染まるのを恐れて、これ以上、淫乱に変化する
自分を食い止めたい願いが浮かんでいるのだ。

「その願いとは、これ以上時間が経つと、気が狂いそうなくらい感じてしまい
そうだからですか?」
「えっ!? ち、違うわ…冷たいだけ、凄く冷たいからよ…」

「ふんっ! 気持ち良い顔して、まだ嘘をつくのか? よーしみてろよ…」
 
 山田は、素直にならない七瀬に、腹の中で憤慨した。そして、机の上の事務
用クリップを手に、七瀬に近づいたのである。

「そうか、冷たかったのか…それは気が付かなかったな。それじゃ、これを付
けたら熱くなると思いますよ」
「な、何をするの…」

 山田は、クリップを七瀬の左右の乳房に取り付けた。
すると、七瀬の円形の乳房が、見事に潰され充血しているのである。

「嫌ああっ!! あっあっああっ!! 痛い! 痛い!!」
「くっくっ、どうです、冷たさが消えたでしょ? 痛みに慣れたらその内、熱
くなってきますよ。まっ、それも気持ちよく感じてくる為の通過点ですから我
慢して下さい」

 四足で立たされ、髪を振り乱しながら身体を揺さぶり、クリップの激痛を味
わされている七瀬は、例え、正直になった所で、今の山田が許してくれる保証
など無い事を感じ取ると、必死に激痛と快楽に耐え忍ぶしかないのであった。


(9)へつづく・・・

小説(転載) 弱者の妖光 7/10

官能小説
05 /16 2019
すでに6話まで紹介済み。続きが見つかったので、読みなおしてみたが、こんな結末だったけかなあという感じだ。

『弱者の妖光』 (7)

第4話

-熟女の懺悔実施1-


 
 既に外は、真っ暗である。
事務室の部屋の照明が光々と、眩しく灯っていた。その一室の空間で、山田と
七瀬、二人の沈黙が続いていた。

「ふぅ… そう、出張の件…全て知っているのね。まあ、そういう場面も想像
はしていたわ…でも貴方も役者ね、私を安心させて、そして落胆させる…ふっ
私が不安を抱いていた顔を見て楽しんでいたのね」

 開き直った七瀬の表情が、徐々に血色を帯びていくと、山田は威圧されて逆
に、血の気を引いていくのであった。
予期していた事であるが、強気になっている七瀬を実際目の前にして、弱気な
性格が顔を出す山田である。

「えっと、その、そうだ、そうです、つい、課長が嘘の出張をしている事を
口外してしまわないかと、僕も心配で、です」
「何それ? 私を脅そうとしてるの…ふふっ、いいわよ、お金なら出すわ」
「えっ、お金? …ええと…」

 明らかに七瀬がペースを握り、山田はその上に乗せられてしまった。頭の中
が真っ白になり、言葉が出ないのである。その表情を悟った七瀬は余裕を取り
戻し、ソファーの上で腕を組むと、脚を何度も組み返してみせた。
だが、その姿勢を繰り返す事で、山田の心に潜んでいる悪魔を呼び起こす原因
を作ってしまうとは彼女も想像しないであろう。

 目の前で、七瀬のスカートから見える太腿の奥底。その奥の奥が、山田の記
憶を呼び起こしたのだ。

「課長の…太腿と太腿の間…そこからチラつく下着…その下着の中…下着のな
か… くくっ、そうだよ、俺はあんたのその下着の中の秘密を知っているんだ
よ。次郎、何も怯える事はないんだ!」

 心の中で唱えるとキリッと、山田の目付きが変った。

「ふふっ、お金? そんな安っぽい取引なんか希望しませんよ…内緒にしてい
て欲しいなら、もっと高価なものを僕は要望しますよ」
「ど、どうしたのよ急に態度を変えて…それに、お金より高価なものって…
何を言ってるいるの…」
「僕にとって高価なもの…ふふっ、それは貴女のプライドですよ。課長のプラ
イドと引き換えに、この件は内緒にしてあげますよ」
「私の…プライド? 何を言っているか、ますます訳がわからなくなったわ」
「それなら説明しましょう。内緒にしてほしいなら…ここで、土下座してお願
いして見せて下さい」
「なっ!! そんな事、出来るわけないでしょ!!」
「でしょ。そのプライドを僕は欲しいのです。そのプライドを僕に、預けさえ
すれば土下座くらいできるでしょ…そう言う事ですよ。」

 どうだと言わんばかりに、山田は胸を張ってみせた。一方の七瀬は、気弱だ
と見縊っていた山田を、唇を噛締めて睨みつけた。
しかし、今の山田にはその目付きさえも興奮を増すエキスとなっているのだ。

「それともう一つ… 知っていますか? 専務達が会社のお金を横領している
社員を調べ始めた話しを。事情調査を受けた時、僕はどうしたらいいのでしょ
う? 思わず課長の言葉を出してしまいそうで…くくっ、課長…」

 社内の横領話しは、七瀬も知っている。それを切り出されては言葉もでない
であろう。立場が再度逆転した、そして明らかに、七瀬の敗北である。

「あ、貴方を甘く見ていた私がバカだったわ! …ど、土下座したら、それで
いいのね!!」

 興奮で顔を真っ赤に染めた七瀬は、立ち上がると、山田の目の前で膝まつい
た。更に、両手を床につけると、ついに頭を床に伏せたのである。

「こ、これで、いいでしょ! 内緒にしててくれるわよね!」

 歓喜の瞬間である。震えながら土下座をしているその姿を目の当たりにした
山田は、身体全体に漲る男の力を感じ取った。

「うおっ!! ついに、ついにやったぞ!! 美形で評判の七瀬耀子課長が、
この俺に屈した瞬間だ!! 誰も成しえない、いや想像すら出来ない課長の
惨めな格好を、この俺が製したのだ!!」

 と、腹の中で叫ぶと、まるで、天下を取った将軍のように腕組をしてみせる
山田であった。
それに比べ、七瀬は唇を噛締めたまま屈辱を味わっているであった。だが、こ
れはまだ序盤に過ぎない事を彼女は知らない。




 ついに七瀬が、背広を脱いで下着姿を曝す瞬間がきていた。

土下座をしたまま数分間が過ぎ、山田が一枚の写真を七瀬に差し出したのだ。
それを見て驚愕する七瀬。身体が固まり表情も強張って怯え出した。
その写真とは山田が湖で、七瀬と社長が寄り反って歩いている二人を撮影した
物であった。

「僕も驚きましたよ。偶然、シャッターを押した写真に、こんな画像が写って
いたなんて…」
「くっ…貴方って人は… こ、こんどは…何が、要望なのよ…」
「さすが課長! 頭の回転が速いですね。ええ、その要望ですが、やはりここ
は、部下の連中に嘘をついていた事を懺悔してほしいですね。一人一人の机の
前で謝ってほしいな… それも下着姿で」
「なっ! …何の意味があってそんな格好にならなくてはいけないの?! 仮
にここは会社よ!!」
「おやおや…課長達が遊んで過ごしている時間に、ここのみんなは汗水流して
働いていたんですよ。もし、遊んでいるのを知ったら、下着どころか素っ裸で
曝し首状態ですよ。下着だけでも着けさせてもらえて、有り難いと思わないと
いけないのではないですか?」

 更に、山田の話は続いた。そして、最後に社長の家族の話を持ち出されると
さすがの七瀬も降参せざるを得なかった。
全て計算された罠だと気が付いた時、心底から悔しさが込み上げてくる七瀬で
ある。

「これは…うぅ…貴方のただの…陰謀に過ぎないわ…うぅ…憶えてらっしゃい
…絶対に復讐してやる…やるんだから…うぅううぅ…」

 七瀬の瞳から、大粒の涙が零れ出した。そして、背広を脱ぎ捨てるとシャツ
のボタンを外すのであった。
しかし、強気な姿勢でボタンを外してみたものの、さすがに肌を露出する段階
になると、どうしても許しを得る七瀬であった。だが、山田はそれを許さず時
間を掛けさせてでも、一枚そして一枚と強制して脱がせるのであった。

 やがて、七瀬は最後の指定された一枚のスカートに手を添えると、足首から
抜き取ったのである。

 ふっくらとした弾力ある胸を包むブラに、大きな尻を包んでいるショーツ姿
を曝け出した七瀬は、口に手を添えて泣き崩れてしまった。 それを、感慨深
く眺め、満足している山田であった。




「薔薇の刺繍が施された、お揃いの黒い下着がとても似合いですよ課長。それ
にしても、36という年齢にしては、胸の張りや腰の縊れが崩れていないのは
何か特別な運動でもしているのですかね」
「厭らしいわ、そんな目付きで見ないでよ!」
「あれ、僕は誉めてあげたつもりなのに…まっ、いいでしょ、貴女にはもっと
似合いの物を準備してますので、これを受け取って下さい」

 七瀬は、身体の一部始終を、舐め回すような視線を浴びせる山田の視線に不
気味さを感じたのである。
すると突然、七瀬の両手首を持ち上げた山田は、隠し持っていた手錠を掛けて
手の自由を奪ったのだ。驚いた七瀬に、今度は長い鎖がついた赤い首輪を見せ
る山田である。

「貴女には、赤い首輪がお似合いだ…これを着けて牝豚になり、みんなに懺悔
してもらいますよ、いいですね。くっくっくっ」
「何を考えているの…そんなの嫌よ! 駄目よ!」

 必死に抵抗をみせる熟女。しかし、所詮女の力では山田の腕を振り切ること
はできなかった。

 赤い首輪を回し、鍵を掛けるとそこに一人の牝豚が誕生した。

「おおっ!! 僕の想像通り、課長には赤い首輪が凄くお似合いだ。早速、事
務室へ移動しましょう」

 山田は、意気盛んに応接室の扉を開けて、七瀬に繋がった鎖を勢いよく引い
た。

「い、嫌よ、 お願い、許して…こんな恥かしい格好でなんて歩けないわ」

 首輪を引かれて、思わず立ち上がった七瀬は、両手を合わせて懇願した。
すると、その姿を見た山田の顔色が変ったのである。

「何で、立ち上がるんだよ! 牝豚は四足で歩くんだろ!」

 そう怒鳴りつけると、取り出した鞭で七瀬の尻を、三発、四発と容赦無く叩
き続けた。

「痛っ! ああ、御免なさい! 御免なさい…分かったわ、四本足で歩きます
から…打たないで…」

 鞭の激痛に耐えられない七瀬は、手錠の着いた両手を床に置くと、わなわな
震えだした。下着姿で尻を突上げる何とも惨めな格好であった。
しかし、その震えは怯えているようには見えず、まるで興奮を憶えたかのよう
に、悶えているみたいに映るのである。

 まだその変化に山田は、気付いていないのだが、知らぬ間に七瀬のMの性質
を、呼び出していたのだ。


(8)へつづく・・・

中学教諭が高校生と車内行為

ひとりごと
05 /15 2019
 女子高校生にみだらな行為をしたとして、千葉県警千葉東署は13日、同県四街道市和良比、同市立の中学校教諭の男(41)を県青少年健全育成条例違反の疑いで逮捕した。
 発表によると、男は12日午後6時過ぎ、千葉市若葉区のパチンコ店駐車場にとめた乗用車の中で、県内に住む女子高校生に対し、18歳未満と知りながら、みだらな行為をした疑い。「気持ちが高ぶって性欲を抑えることができなかった」と供述しているという。
 巡回中の警察官が乗用車を見つけ、職務質問した。

素直に認めているようだが、そもそも相手はどこでみつけてきたんだろうか疑問が残る。「県青少年健全育成条例違反」だと罪が軽そうな気がする。警察も駐車場に止めた車にもちゃんと確認をしているようだ。

小説(転載)  インセスタス Last Incest 明日 7/7

官能小説
05 /12 2019
          10


 つらいこと、悲しいことがあったとき──乃絵美はいつも、あの高台にいた。
 桜美の街が一望できる、見晴らしのいい場所。“お兄ちゃん”が自分だけに教え
てくれた秘密の場所。
 乃絵美は、今でも昨日のことのように覚えている。お兄ちゃんが初めて乃絵美に
この場所を教えてくれたのは、ふたりが母親を亡くして間もない頃のことだった。
正樹は黙って乃絵美の手を引いて、切り立った崖と高台を隔てる欄干の前まで来る
と、「ほら」と乃絵美に顔を上げるよう促したのだった。
 そして乃絵美が言われるままに顔を上げ、正樹の視線の先を辿って、欄干の向こ
うに顔を向けたとき──
「うわあ……」
 広がるのは、一面のオレンジの世界だった。柔らかな落日が、空を、雲を、桜美
の街をゆっくりと橙色に染めていく光景。幼い乃絵美にも、それは本当に貴いもの
のように思えた。手の平に感じるぬくもりを、より強く握ることで確かめながら、
乃絵美は言葉もなく、ただ沈んでいく夕日を静かに見つめていた。繋いだ右手から、
斜陽の鈍い光を浴びる全身から、なにか温かいものが染み込んでくるような、そん
な感覚。
「ずっと、一緒にいるから」
 乃絵美は思った。呟くように言った、正樹のそのときの言葉を、自分は一生忘れ
ることはないだろう。
「俺は絶対、いなくならないから。だから少しでいい、元気、出せ」
 いつの間にか、乃絵美は泣いていた。その涙にはもちろん、母さんを失った深い
悲しみは消えていなかったけれど──もっと熱いものが、心の中に眠る、もっと熱
いものから流れているような、そんな気がした。
「うん」
 乃絵美は頷いた。涙混じりの声で、続ける。
「お兄ちゃんがいてくれれば──なにもいらない。我が儘も言わない。だから、ず
っと、一緒にいよう?」
 乃絵美は顔を上げ、涙に濡れた頬をほころばせた。
「お兄ちゃんがいてくれれば、なんだってできる気がする。お兄ちゃんがいてくれ
れば──」
 乃絵美は眩しそうに夕日に手を翳すと、
「──空だって、飛べるような気がする」
 静かにオレンジに沈んでいく世界を見つめながら、小さな兄妹はいつまでも、互
いの手を握り続けた──。


          ※


 「──お兄ちゃん」
 涙まじりの声で呟きながら、乃絵美は微睡みから目覚めた。すがるように延ばし
た手が空を切り、やがてぼんやりとした視界が戻ってくる。なにをしていたんだろ
う、自分は? たしか、生徒指導室に呼び出されて、そこにはお兄ちゃんと先生が
いて、それで──
 ああ、そうだ、そして夢を見ていた。子供の頃、お母さんに読んでもらった、大
好きだった絵本の夢。そして、お兄ちゃんとの大切な、“約束”の夢。
「おにい、ちゃ……」
 もう一度繰り返そうとした声は、かすれて消えた。
 胸が灼けるように苦しい。生徒指導室での正樹の横顔を思い出す。苦渋に満ちな
がら、それでも必死に前を向いていた。乃絵美を安心させるように、握ってくれた
てのひらに、暖かな力を込めてくれていた。
 どんなに嬉しかったことだろう?
 だって、この想いは──行き先がないものだと思っていたのだ。出口のない迷宮
に迷い込んだこの想いに、光なんてけして届かないのだと。そして、それでいいの
だと、思っていた。この想いは、“そういうもの”なのだと、けして言葉にしては
いけないものなのだと、ずっと、そう思っていた。
 なのに、お兄ちゃんは、ずっと欲しかった、言葉をくれた。
 禁忌を破った自分に、変わらない笑顔と、優しい手と、乃絵美がずっと求めてい
た言葉をくれた。困惑と苦渋を表情ににじませながら、それでも偽りのない想いを
くれた。
「おにいちゃん、おにいちゃん……」
 幼子のように、乃絵美は泣いた。
 嬉しかった。同時に、すごく、すごく怖かった。乃絵美を選んでくれたその代償
に、正樹はたぶん全てを失うだろう。生徒指導室での、吉井と田山の表情を思い出
す。正樹に好意的であった彼らの表情にも、隠しようのない困惑と、そして僅かな
嫌悪が──にじんでいた。乃絵美にはそう見えただけなのかもしれないけれど、こ
のことが明るみに出たら、きっと、正樹は癒しようのない傷を負うだろう。
 まだ鈍い痛みの残る額に手を当てながら、乃絵美は上半身を起こした。
 正樹に、会いたかった。とにかく、話をしたかった。髪を、頬を、撫でてもらっ
て、安心させてもらいたかった。なんていうエゴだろう、自分は正樹に傷を付ける
ことしか出来ないのに、自分ばかりいつも何かを求めている。
 乃絵美は思う。
 乃絵美を貫くたくさんの視線。涙で顔をぐしゃぐしゃにした菜織、何かを諦めた
ような井澄先輩、吉井先生の困惑した表情、そして田山先生の視線の先に感じた、
かすかな嫌悪。
「……っ、う……」
 乃絵美は胸を押さえた。嫌だ、負けたくない。こんなものではないのだ、多分。
これから先、この想いを貫くのなら、きっと、それは、“こんなものではない”。
 ふらつく躰を支えるようにして、ナイトテーブルの角に手をつくと、乃絵美はゆ
っくりと身を起こした。絨毯を踏む感触が、なんだかひどく頼りない。椅子の背も
たれにかかった白いカーディガンに手を延ばして、乃絵美は緩慢な仕草でそれを羽
織った。姿見に、水色のパジャマ姿の自分が映る。
「ばかな子、だよね」
 乃絵美は小さく、そう呟いた。
「ずっと、黙っていれば良かったんだよ。それだけで、きっと満足だったのに」
 熱いものが、頬を伝って、浅茶色の絨毯に染みを作った。鏡の中の少女は、泣い
ていた。目を真っ赤に腫らしながら、しゃくりあげるように、泣いていた。
 けれど、知ってしまった。想いが叶うことの嬉しさと、その喩えようもない幸せ
な想いを、知ってしまった。好きな人の傍に寄り添っていられること、口づけのぬ
くもり、受け入れることの喜びと、感じてもらえることの幸せを──知ってしまっ
た。
 もう、失うことなんて出来ない。諦めることなんて出来ない。どんなに苦しくて
も、辛くても、この想いを、失うことなんてできない。
(それが、伊藤の未来を閉ざすことになろうともかい?)
 吉井先生の言葉が蘇る。結局、すべてはそのジレンマなのだ。正樹を想えば想う
ほど──多分、正樹は傷ついていくのだ。乃絵美に口づけをするごとに、きっと、
正樹は大切なものをひとつずつ、失っていく。それでも、正樹は笑顔でいるだろう。
苦しみに頬をひきつらせながらも、優しく乃絵美の肩を抱いて、キスをくれるだろ
う。乃絵美の大好きなお兄ちゃんは、そういう人なのだ。
 乃絵美はふらつく足を、もう一歩、踏み出した。倒れ込むようにして、ドアのノ
ブに手をかける。会いたい、声が聞きたい。心の中でなにかがぐるぐると渦を巻い
て、無茶苦茶になってしまいそうだけれど、ただひとつの「たしかなこと」を求め
て、乃絵美は静かにノブを回した。


          11


「────」
 どれだけ、時間が過ぎたのだろう? そう錯覚してしまうほどの長い沈黙のあと、
父親は大きな溜息をついた。スラックスのポケットに手をやったあと、何もないこ
とに気づき、困ったように頭を掻く。(それが、随分前にやめたはずの煙草を探し
ている仕草だと、正樹は気づいた)
 なにかを言いかけようとして口を開こうとし──父親はまた髪に手をやった。わ
しゃわしゃ、と無造作に撫でつけ、視線をさまよわせる。胸に、じく、という鈍い
痛みが走ったような感覚がする。覚悟していたこととはいえ、父さんの、こんな困
惑した顔は──今まで、見たことがなかったので。
「その──」
 父親が発した声は、力なくかすれていた。
「なんと、いうのかな」
 もう一度、大きく息をつく。そして父親はようやく、さまよわせていた視線を正
樹に戻し、それからまたもう一度、深呼吸をするように息をついた。
「本当なら、殴らなきゃいけないんだろうな、俺は。殴って殴って、それで全部終
わりに出来たら、本当に楽なんだろうな」
 コツ、とテーブルの角に添えていた指が、音を弾く。
「なんて言えばいいんだろうな」
 力なくこうべを垂れて、父親は呟いた。
「お前に、なんて言ってやればいいんだろう。俺はさ──少し嬉しかったんだよ。
お前とこうやって面と向かって話をするのも久しぶりだし、お前は昔から自分でな
んでも決める奴だったからさ、正直、嬉しかったんだよ、さっきは。一度くらいは
お前に、“父親らしい”ことを言ってやれるんじゃないかと思ってな」
「…………」
「なあ、なんで乃絵美なんだ? 菜織ちゃんや、冴子ちゃん──だったか? お前
の周りには綺麗で優しそうな子、いっぱいいるじゃないか。 なのに、なんで、乃
絵美なんだ?」
「乃絵美だから、かな」
 正樹は答えた。多分、明確な理由なんてないのだろう、ましてやメカニズムなん
て分かるわけがない。だけど、思うのだ。髪を撫でてやった時の、くすぐったそう
に目を細める、乃絵美の表情、はにかんだような、穏やかな笑顔、そんな仕草を思
い浮かべるだけで、たまらなく幸せな気持ちになれる。いつまでもこの子に、こん
なふうに笑っていて欲しい──その想いほど、確かなものはない。そして、そんな
乃絵美をずっと傍で見続けていたい、という気持ちもまた。
 正樹の言葉以上に、その表情で察したのだろう、父親は力なく、ソファの背に身
をあずけ、呟いた。
「なんとなくな」
 苦笑まじりの声で、父親は続けた。
「なんとなく、そう言うだろうと思ったよ。理屈じゃないんだろうな、お前たちに
とっては」
 それからまた、リビングに沈黙が流れた。
 数分ほどの沈黙のあと、大きな息を吐き出して、父親が言った。
「一時の気の迷いだとか、そういうことを言うつもりはないよ」
 それどころか、と複雑な表情で父親は言った。正樹を見る視線が、どこか、ゆら
いでいる。
「それどころか、“あるべきところにあるべきものがある”そんな気すらする。乃
絵美は本当に母さんに似てきた。お前も俺に。だから、時々不思議に思うことがあ
るよ、俺は二十年も前の夢を見ているんじゃないかって。俺はいつの間にか、昔の
自分の夢の中に、迷いこんでしまったんじゃないかって」
「…………」
「だから──辛いんだ」
 父親は、自嘲するような笑みを浮かべて、続けた。
「辛いんだ、正樹。お前たちを見ていると、俺はもう何も取り戻せないことが、ど
んなに願っても、お前たちは俺と母さんじゃない、という現実を突き付けられてい
るようで、──辛いんだよ」
「……親父」
「いや、俺のことはいい。でもな正樹、それが“失うということ”だよ。お前が大
切に思えば思うほど、失ったときの傷ははかりしれない。ましてや、その相手は─
─乃絵美だ。この先、その想いを貫くのに、どれだけの痛みを背負っていかねばな
らないか、知れない──その行き着く先で、乃絵美を失うかもしれないことに、お
前は耐えられるか? いつか想いが貫けなくなる日のことを、想像したこともない
か? 傷ついて傷ついて進んだ未来のことを、考えたこともないか?」
 テーブルに突き立てた指に、父親は力を込めた。がり、と嫌な音が正樹の耳に響
く。
「分かるさ、大切だ、好きだと思う気持ちに理屈なんてない、でもな──」
 静寂。
「それでも、生きていくかぎり、押しつぶさなけりゃいけない想いは、あるんだよ」


          ※


 ──そのドアを開こうとした手は、目的を達することなく、力なく垂れた。まず
そうする必要がなかった。なぜならドアはすでに(僅かな隙間ではあるが)開いて
いたし──そしてその言葉が、どんな音よりもはっきりと、乃絵美の耳に飛び込ん
できたので。
(それが、失うということだよ──)
 言葉が頭の中をかけめぐる。覚悟していた、分かっていたつもりだった。でもい
つか、(それはあるいはそう遠くない未来のことかもしれない──)互いを失う日
が来るのだとしたら? どんなに愛しても互いを必要としても、どうしようもない
力で引き裂かれねばならない時が、来るのだとしたら?
 乃絵美の躰が、瘧のように震えた。
 多分、自分はもう二度と、立ち上がることは出来ないだろう。
(──いやだ)
 掻きむしられるような胸を押さえながら、乃絵美は後ずさった。
 揺らぐ視線が、ふと、廊下の先にある玄関──鈍い茶色のドアで向けられ、止ま
った。何かに続いているような、そんな不思議な存在感を湛えているように、今の
乃絵美には思えた。
(いつか想いが貫けなくなる日のことを、想像したこともないか? 傷ついて傷つ
いて進んだ未来のこと、考えたこともないか?)
 洩れ聞こえる父親の声が、乃絵美の耳を打つ。
 ふらつく足どりで、乃絵美はドアの前から離れた。一歩、二歩、よろめきながら、
玄関に向かって歩いていく。
 失いたくない。そんな未来のことなんて、考えたくない。たとえすべてが幻だっ
たのだとしても、今、この瞬間の想いは、隠しようもない真実なのだし、もしいつ
か、その想いを奪われなければならないことが運命づけられているのなら──
 わたしは、わたしは──
 スリッパ越しにひやりとした感触。靴を履き替えようという理性すら、多分、今
の乃絵美にはなかった。
 かちゃ、かちゃ、と上下の鍵を外す。
 そして、白い指が、真鍮のノブに触れ、
 乃絵美は、ゆっくりと扉を開き、頼りない足どりでその一歩を踏み出した。


          ※


 がたん、と玄関の方で鈍い音がしたような気がした。
 正樹は一瞬身を起こしかけたが、どうやらその音は父親の耳に届いていなかった
ようだった。風が何かを倒したのだろう、そう思って正樹はもう一度ソファに座り
直し、視線を父親に向けた。
「なにが本当に大切なことなんだろうな──」
 正樹は呟いた。本当に、なにが大切なことなんだろう。自分の中に溢れる想いの、
どれに答えをやれば良いのだろう? 乃絵美を愛している。大切だと思う。これは
何にも増して強い思いだ。多分、自分は乃絵美のためならなんでもしてやれるだろ
う。
 だからこそ、乃絵美には幸せになってもらいたい。幸せにしてやりたい。だけど、
自分にその資格があるのだろうか? 兄である自分が、妹を恋人として幸せにして
やれるなど?
 ふと、視線を上げて、父親は正樹を見た。複雑な感情がないまぜになったような、
そんな視線だった。
「親父の言いたいことは分かるよ」
 正樹は答えた。
「多分、それが俺達には一番いいんだろうってことも。全部なかったことにできる
んなら、それが一番いいんだろうなってことくらい、分かるよ」
 本当に、正樹は思う。本当に、そうできるのなら、どれだけ楽なことだろう?
「その気持ちが確かなら──」
 言いかけて、父親は言葉をそこで止めた。もう言いたいことは全部言った、そう
いう表情だった。
 父親は立ち上がり、手元にあったカップを引き寄せた。正樹のカップにも手を延
ばし、傍らにあったトレイに乗せる。コーヒーはまるで減っていなかったが、もう、
すっかり冷えていた。
「煎れ直してやるから」
 キッチンに向かいながら、ぽつりと父親は言った。
「乃絵美に持っていってやってくれ」
 その背中を見ながら、正樹はぼんやりと昔のことを思い出していた。
(お前が、決めるんだ)
 父さんはあの時、そう言っていた。
(お前が決めるんだ。なにが良いことで、なにがいけないことなのか。なにが正し
くて、なにが悪いことなのか。俺も母さんも、お前を信じる。──だけどな)
 ──どんな嘘も、他人は騙せても、お前自身だけは──騙せないんだぞ。


          ※


「乃絵美?」
 二度ほどのノックの後、正樹はコーヒーの乗ったトレイを床に置いた。きっと、
まだ眠っているのだろう、乃絵美を起こさないよう正樹はそっと扉を開くと、もう
一度小さく声をかけて、そっと部屋に入った。
 けれど、予想に反して、部屋は驚くほどに静かだった。僅かに開いた窓から、風
がカーテンを揺らしている他は、当然あるべきはずの息づかいが、そこにはなかっ
た。布団はめくれあがり、そこに寝ているはずの乃絵美の姿は、まるで、かき消え
たようになかった。
「────?」
 正樹は乃絵美の部屋を出ると、すぐに自分の部屋に向かった。もしかしたら、と
期待を込めて開いたドアの先に、求めていた姿はなかった。父さんと母さんの寝室、
階段を降りて浴室、もちろんリビングにいるはずもない。
「あ──」
 そしてようやく、正樹はそのことに気づいた。父さんと話していたときに、かす
かにした「がたん」という音。半ば開いていたリビングのドア。どうして、どうし
て思い至らなかったのだろう? 乃絵美が起きて、父さんとの会話を聞いていたか
もしれないという可能性に?
「あいつ──」
 正樹は玄関に走った。
 乃絵美の靴はある。けれど、しっかりと締めたはずの鍵は、上下ともに外されて
いた。
 扉を開ける。とたん、冷気を含んだ強い風が、吹き込んできた。この風と寒さの
中、靴も履かずに乃絵美は出ていったのだろうか? なんのために?
 言いようのない不安を押さえるように、正樹は唇を噛みしめた。
「乃絵美──乃絵美」
 胸にせり上がってくるような焦燥感に突き動かされるように、正樹は駆け出した。 


          12


 その高台──あのとき、オレンジの落日の光と柔らかな風に包まれていた世界─
─は、今は、冷たい風が吹いていた。切れかかった街灯の灯がちらちらと頼りなく
周囲を照らすほかは、月明かり以外に光源はない。
 それでも、正樹は躊躇なく、まっすぐに“その場所”に足を向けた。たとえどん
な暗闇の中であっても、乃絵美がそこにいることは強い確信があったし──事実、
乃絵美はそこにいた。十年前、幼いふたりが身を寄せ合いながら、沈んでゆく夕日
を眺めた場所。「ずっと、いっしょにいよう」と、約束を交わした、思い出の場所。
 乃絵美は、あの時は目線の高さほどもあった手すり(今は、胸ほどの高さだろう)
の上に、立っていた。白いカーディガンを風にはためかせながら、危なげなバラン
スで。多分、手すりの向こう側に足を踏み外せば(十メートルほどの高さだ)無事
ではすまないだろう、けれど、どこか決意を秘めたような表情で、一途に乃絵美は
立っていた。
「乃絵美!」
「来ちゃ駄目!」
 駆け寄ろうとする正樹の足を、乃絵美の声が止めた。四メートルほどの距離、二
歩、足を踏み出して手を延ばせば──容易に触れられる長さ。だのに、その四メー
トルがまるで永劫の距離のように思えた。なにかを象徴するような、長い、長い四
メートル。
 雲が晴れたのだろう、月明かりがわずかに力を増し、乃絵美の姿が照らされる。
いつもの青いパジャマに羽織った白いカーディガンが、下ろした長い黒髪が──風
に揺れていた。
「乃絵美、危ないから──」
 正樹の声に、乃絵美は幼子のようにふるふるとかぶりを振った。
「ごめん、ね」
 細い声が洩れる。
「ごめん? なにがごめんなんだよ」
 近付こうとした正樹を見て、乃絵美がびくっと身を震わせた。カーディガンの胸
元に手を当て、うつむく。
「好きになっちゃって、ごめんね」
 涙混じりの声で、乃絵美は続けた。
「だけど、止められないの。お兄ちゃんが苦しんでること、辛いこと、何もかもな
くしちゃうかもしれないこと、全部、全部分かってるのに──」
 しゃくりあげるように乃絵美は泣いた。記憶がフィードバックする。十年前、あ
の日も乃絵美はこうやって泣いていた。守ってやらなきゃ、そう思っていた。この
小さな妹を、俺が、ずっと笑顔でいさせてやれるように。
 なのに、どうしてなんだろう?
 母さん、俺は乃絵美を泣かせてばかりいるよ。
「乃絵美、俺は──」
 言葉を発しようとして、正樹は口ごもった。なんと伝えればいいんだろう。どう
すれば乃絵美を安心させてやれるのだろう。乃絵美が泣いているのは、多分、俺の
弱さにだ。押しつぶされてしまいそうな、俺の、弱さにだ。
「──お兄ちゃん」
 唇を噛みしめた正樹に、そっと乃絵美が笑いかけた。涙混じりではあったけれど、
その笑顔は、はっと正樹の胸をつくような──澄んだ、穏やかな笑みだった。一瞬、
正樹は母さんを思った。それは、あの時、最後に微笑みかけてくれた母さんの笑顔
に重なるくらい──
「夢、だったんだね」
 静かな高台に、少女の声が響く。
「夢だったんだ、きっと。長い、長い夢だったんだよ。わたしがお兄ちゃんの恋人
になれるなんて、そんな幸せで、残酷な、夢だったんだね」
 だから、と乃絵美は続けた。
「だから、醒めちゃうんだね。だって、夢なんだもん。ずっと夢の中にいることな
んて、できないんだよ」
「乃、絵美?」
 ざわり、と胸になにかが走った。それは、笑顔。なにかを決意したような、そん
な、混じりけのない、穏やかな笑顔。足元が急に頼りなくなる。なんだろう、この
不安は? 乃絵美は、何を、──。
「でもね、お兄ちゃん」
 乃絵美は、ゆっくりした仕草で、正樹に向かって手を差し伸べた。その指先は、
月の光を浴びて、抜けるように白かった。
「わたし、馬鹿だから。醒めたくないの。この夢から、醒めたくない。ずっと、ず
っと、夢の中にいたい。だから──」
「乃絵美、お前──?」
「ありがとう、お兄ちゃん。わたしね、お兄ちゃんがいてくれるから、なんだって
出来る気がするよ。ううん、きっと、なんだって出来る。お兄ちゃんがいてくれれ
ば、わたしは──」
 弾かれたように、正樹は飛び出した、思考真っ白になる。がむしゃらに、手をの
ばす。
 そして、乃絵美の躰が、ゆっくりと、手すりの向こうの暗闇の中に倒れて──
       ・・・・・・・
「──きっと、空だって飛べる」

 ────。

小説(転載)  インセスタス Last Incest 明日 6/7

官能小説
05 /12 2019
          8


「いつまでも、夢の世界にいれたらいいのにね?」
 どこか悲しげで、どこか切なげな──そんなかすかな声が、ずっと遠くの方で聞
こえたような気がした。「そう、この世界がずっと続けばいいのにね。なんにも悩
まずに、ただ好きな歌だけを口ずさむような、ただ好きな人の傍にだけいられるよ
うな、そんな夢みたいな世界が、ずっと、ずっと続けばいいのにね?」
 ああ、と乃絵美は思った。これは、あの本だ。幼い頃お母さんによく読んでもら
った絵本。ひとりの女の子が妖精の住む夢の国にいざなわれる、そんなごくありふ
れたおとぎ話。
「どうして、大人になんかなってしまうんだろうね。どうして、せっかく集めた色
んなものを、捨てなきゃならないんだろう? どうして、本当に好きな人を、好き
と言えなくなってしまうんだろう?」
 その言葉は、虚ろな乃絵美の心にゆっくりと染み込むように響いた。乃絵美は思
う。そう、どうしてなんだろう? どうしてみんな、駄目だと言うんだろう。私は
ただ好きなだけなのに。お兄ちゃんのことが、ただ好きなだけなのに。どうしてそ
れが“おかしなこと”なんだろう?
 だいすきなひとを、ただだいすきと想う“きもち”。
 だいすきなひとのそばに、ずっといたいという“ねがい”。
 どうしてそれが、なによりも重い“罪”だなんていうんだろう──。


          ※


「少し、落ち着いたみたいね」
 柔らかい女性の声に、正樹はうつむけていた顔を上げた。白を基調とした部屋、
仄かな薬品の香り。目の前の白衣を羽織った養護教諭──たしか、築山という名前
だった──は、ずり落ちそうになった眼鏡に手を添えながら、穏やかな笑みを浮か
べた。
 乃絵美が倒れてからもう、1時間ほど経っている。今は呼吸も落ち着いているよ
うで、ベッドの上で静かに眠っていた。余程気が張りつめていたのだろう、白い頬
にわずかな赤みがさしている。2日前の風邪が──ぶり返したのかもしれない。
(もう一度、話をしよう、伊藤)
 乃絵美が倒れ、保健室まで付き添ったあとの、別れ際の吉井の言葉を思い出す。
自分が追い詰めたのだという罪の意識もあるのだろう。困惑と、罪悪感の混じった
ような表情だった。(田山は不快そうな表情で、ただ無言だった)
(当事者が何を、と不快に思うかもしれないが)
 ベッドに寝かせた乃絵美に一瞬視線を落として、吉井は続けた。
(耐え難いプレッシャーだったんじゃないのかな、今日のことは。妹さんにとって
──)
(…………)
(伊藤、君も含めて、いつか──潰れてしまう日が来るんじゃないのかな。今日み
たいなことは、この先何度だってあるだろう。誰もいない君たち二人だけの世界で
暮らすわけでもないかぎり、必ず)
 潰れてしまうよ、と吉井は続けた。
(だから、落ち着いたらもう一度、話をしよう、伊藤。まだ遅くはない。まだ間に
合うはずだ。だから、考えておいてくれないか? 本当に大事なのは──)
 吉井の言葉は、保健室に戻ってきた養護教諭の扉を開く音に遮られて、最後まで
聴くことができなかった。
 ──けれど。
 本当に大事なのは?
 本当に大事なのは──なんだろう。
 正樹は小さく息をする乃絵美の頬に、そっと触れた。本当に大事なもの。それは
言葉にするまでもないくらい、当たり前のようにここにいる。世界中の誰よりも、
もしかすると自分自身よりも、大事で、大切で、かけがえのない妹。だのに。
 固く拳を握りしめて、正樹は唇を噛んだ。どうしていつも、先に気づいてやれな
いんだろう、俺は。線の細い乃絵美のことだ、ただでさえ病み上がりだというのに、
こうなることは火を見るより明らかだったはずなのに。遅すぎる。いつも俺は、遅
すぎる。乃絵美の想いにだって、あいつが勇気を振り絞って告白してくれるまで─
─気づいてやることができなかった。
(乃絵美を守ってあげてね、正樹は、お兄ちゃんなんだから)
 そう約束したはずなのにな──。
 どうして俺は、乃絵美を苦しめてばかりいるんだろう?
「──こら」
 こつん、と額を弾かれたような感触に、正樹はふと我に返った。見ると、人差し
指を付きだした築山が目の前に立ち、小さく笑みを浮かべている。
「そんな顔しないで。心配ないわよ。ちょっとした過労みたいなものだから、ぐっ
すり寝て安静にしてれば、大丈夫」
「…………」
 押し黙る正樹を見て肩をすくめながら、築山はパイプ椅子を引き寄せて、腰を下
ろし、「それにしても今日は大変な日ね」と呟いた。
「え?」
「ああ、うん、こっちの話。──それで、君はええと……伊藤さんのお兄さん、な
のよね?」
 乃絵美はよく保健室を訪れているのだろう、築山の発音する「伊藤さん」という
単語には親しみの響きがあった。
「はい。3-Aの伊藤正樹です」
「……? ああ」
 小さく呟くと、築山は軽く微笑んだ。
「陸上部期待のホープの。そう、君が伊藤さん自慢のお兄さんだったのね」
「自慢?」
「そう。彼女、そんなに体の丈夫な方じゃないでしょう? だからまあ職業柄、色
々話す機会があるってわけ。そうかそうか、こんなお兄さんがいるなら、そりゃ話
したくもなるわよね。お兄さんのことを話すあの子、本当に嬉しそうなのよ。兄が、
兄が、って一生懸命気を付けてるんだけど、時々お兄ちゃんってポロッて出てしま
うのが、可愛くてね」
 いいわね、兄妹って、と築山は微笑んだ。
「私は一人っ子だったからね、君たちみたいな兄妹って、ちょっと羨ましいわよ。
どんなことがあっても切れない絆っていうかさ、そういう存在がいるっていうのは、
やっぱり素直に羨ましいわよね」
「羨ましい──ですか」
「だってそうじゃない? どれだけ深い仲になったとしてもさ──縁が切れちゃえ
ば、恋人なんて結局他人同士じゃない。でも、兄妹はずっと、兄妹でしょ? どれ
だけ時間が過ぎても、たとえ違う場所で、違う時間を過ごしたとしてもさ、兄妹で
あるっていう繋がりは、消えない。それこそ死が二人を分かつまで、って奴かな。
そういうの、やっぱり憧れたりしますよ。一人っ子歴二十……以下検閲、の私とし
てはさ」
 だからさ、と築山は続けた。
「だからさ、大事にしてあげなよ、お兄さん」
 トルルル、と内線の鳴る音がした。
 はいはい、っと、とステップを踏むように築山は内線のところまで行くと、軽い
仕草で受話器を手に取った。「はい、保健室、築山です」という声が正樹の耳を打
った。
 大事にしてあげなよ──か。
 もう一度、乃絵美の頬に指を延ばす。大事、にしてやれてるのかな? 俺は、お
前を。やっぱりただ、苦しめてるだけじゃないのかな? 「お兄ちゃんといられる
だけで、わたしは幸せだよ」──お前はそう言って笑ってくれてるけど、本当は、
苦しくて苦しくて、しょうがなかったんじゃないのか? 倒れるくらいに気を張り
つめて、胸をはって、お前は、本当に──
「伊藤君」
 築山の穏やかな声が、正樹の思考を遮った。視線を向けると、受話器をついつい、
と指さして、築山は続けた。
「親御さんからだって、吉井先生が連絡したみたいだけど。──外線4番。取り方、
分かる?」


          9


「でもね、駄目なんだ」
 少しずつその音を強くさせながら、その声は続いた。
「いつかきみは、目を覚まさなきゃならない。いつかこの国を、出ていかなくちゃ
いけない。いつまでもいつまでも、夢の世界にはいられないんだよ」
 おぼろげだった声がしだいにはっきりとしていく中、乃絵美を取り巻いていた虚
ろな世界が、やがてゆっくりと晴れていくような気がした。夢なんだろうか──乃
絵美は思った。今まで見ていたのは、少し長かったけれど、なんてことのないただ
の夢だったのだろうか? 目が覚めると私はあたたかい布団の中にいて──そのぬ
くもりに後ろ髪をひかれながら起き出して、お兄ちゃんがジョギングから帰ってく
る前に朝食を作る。そして「ただいま」という聞き慣れた声とともにドアが開いて、
「おかえり、お兄ちゃん。朝ごはんもう出来てるよ──」
 そんな風に、なんの含みもなく笑顔でいられたあの頃に、戻るのだろうか──?


          ※


 古びたドアが閉まる、鈍い音がした。
 乃絵美を部屋で寝かせたあと、リビングに戻った正樹の鼻孔を、香ばしい薫りが
くすぐった。子供の頃から嗅ぎ慣れてきた匂い。17年間、身近に感じてきた、ど
こかほっとするような、そんな香り。
「ブラックで良かったのか?」
 父親に問いに、正樹はうなずき返すと、テーブルについてミルク差しを引き寄せ
た。ブラックにひと垂らし、ミルクを入れるのが正樹の好みなのだ。
(そういや、親父のコーヒー飲むなんて何年ぶりだろう)
 カップに口を寄せて。ひとすすりしながら正樹は思う。それ以上に父親とこう、
面と向かって話をするのは何年ぶりだろう。喫茶店の経営者として、ずっと家にい
る父親だったが、最近は正樹の部活が忙しくなったこともあって、どこか疎遠だっ
た。店を手伝うことはよくあったが、仕事中に雑談を好まない性格からか、世間話
をしたような記憶も、ここ数年はまばらにしかない。(いつも優しい笑みを浮かべ
て、正樹を見守ってくれてはいたし、そのことを誰よりも、正樹は感謝していたが)
 だから、
(伊藤です、この度は娘が、大変ご迷惑をおかけしまして──)
 そう、築山に頭を下げた時の父親の表情を見て、正樹の胸はちくりと痛んだ。ど
こまで、聞かされているのだろう、この人は。吉井はどうやら、倒れた乃絵美を家
族に車で迎えにきてもらうより取りはからってくれただけらしが、どんな理由で乃
絵美が倒れたのかを知ったら、この人はどんな顔をするだろう?
「乃絵美、どうなんだ?」
「寝てるよ。──嫌な夢でも見てるのかな、ちょっと寝苦しそうだった。あとでも
う一度、様子を見てくる」
 そうか、と呟いて、父親は自分のコーヒーカップに視線を落とした。
「最近は、あんまりこういう話、なかったからな。あの子の躰も元気になってきた
のかなと思ってたんだが……」
 目を細めて、言う。
「なにか、無理をさせてたのかな……。正樹、なにか聞いてないか?」
「…………」
「正樹?」
「あの──さ、」
「うん?」
 言葉が、喉までせり上がってきた。言わなければ、と思う。いつまでも、隠して
はいられない。必ず、知られてしまう日が来る。妹がいつまでも妹であるように─
─父親も、いつまでも父親なのだ。
(正樹)
 あれはいつのことだったろう? たしか、小学生にあがる前くらいの、ことだっ
たと思う。あの時はまだ母さんも元気に笑ってて──そんな母さんの大事にしてい
たストールを、正樹がふざけて破ってしまった時のことだ。あの時の正樹は、ひた
すら怖かった。母さんに怒られるのが怖かったんじゃなく、失望されるのが、正樹
はこんなことをする子だったのね、そう思われるのが──怖かったのだ。
 やったのは自分じゃない、そう主張する正樹に、父親はただ穏やかな目で、言っ
た。
(お前が決めるんだ)
 正樹の頭に手をやりながら、父親は続けた。
(お前が決めるんだ。なにが良いことで、なにがいけないことなのか。なにが正し
くて、なにが悪いことなのか。お前が本当にやってないというなら、それでいい。
俺も母さんも、お前を信じる。──だけどな)
 父親は、穏やかに笑って、言った。
(どんな嘘も、他人は騙せても、お前自身だけは──騙せないんだぞ)
「正樹、どうした?」
「あ、うん。いや──さ」
 カップの残りに口をつけて、正樹は笑った。舌に残る感触は、どこかぬるくて、
苦かった。
「親父とこんな風に話するの、なんか久しぶりだな──って思ってさ」
「そう……だったかな。ああ、そうかもなあ」
 どこか苦笑気味に、父親は答えた。
「なあ親父」
「ん?」
「親父はさ、どんなことがあっても──それでも母さんを好きになれたと思う?」
「なんだ、いきなり?」
「例えばの話だよ。もし母さんが、親父にとって絶対好きになっちゃいけない相手
だったとしても──それでも、親父は──」
「…………」
 僅かな沈黙のあと、ゆっくりと、どこか寂しげに、父親は答えた。
「ああ、それだけは自信を持って言えるよ。幸い、なんの壁も紆余曲折もなかった
けどな、たとえどんな理由があったとしても、俺は母さんを好きでいられたと思う
し、絶対に結婚したいと、思ったろうな」
 そこまで言うと、父親は何かに気づいたように、苦笑した。
「なんだ正樹、変な話すると思ったら、そんな相手でもできたのか?」
「──まあ、ね」
「そうか。──なんだ、そうか、ははは」
 嬉しそうに父親は席を立って、カウンターを方へと足を向けた。コーヒーをもう
一杯、煎れにいくのだろう。
「親父」
「ん?」
 振り返らず、父親はどこか上機嫌な口調で、答えた。 
「間違いじゃないのかな? 本当に好きになったんなら、例えどんな相手だって─
─」
「お前が本気だってんなら、止める理由はなにもないさ。なんだ、なにを心配して
るんだ?」
「親父、俺は──俺はさ」
 喉の奥が、熱かった。それでも、それでも、これだけは言わなくちゃ、いけない。
「俺はさ、乃絵美が──好きなんだ」


          ※


 ──戻るのだろうか?
 ──何もなかった、本当にただの兄と妹だったあの日に?
 いやだ。
 乃絵美は思う。そんなのは、いやだ。
 やっと──伝えられたのだ。やっと好きと言えて、躰を重ねて──やっとやっと、
迷路のようなこの想いの、答えを見つけたのだ。
 だから、私は笑っていたい。どんなに苦しくても、「大丈夫だよ」って、微笑ん
でいたい。これは夢なんかじゃな
いよって、ずっとずっと、子供の頃から思い描いていた未来なんだよって、そう伝
えたい。
「きみもきっと、すぐに分かるんだ」
 けれど、どこか哀れむような響きをもって、その声は続いた。
 どこかで聞いたような声。その音に混じる、ほんの少しの違和感。そう、子供の
頃、カセットテープに自分の声をふざけて録音したものを再生した時のような、そ
んな作り物めいた自分の声。
 そして、知っていた。乃絵美には分かっていた。その声が、次にどんな言葉を続
けるのか。どんな言葉で、この虚ろな世界の終わりを告げるのか。乃絵美は誰より
も、その言葉を知っていた。
 そう、
「いつか覚めるから、“夢”なんだよ──」 
 

小説(転載)  インセスタス Last Incest 明日 5/7

官能小説
05 /12 2019
「血の繋がりなんて──人が人を愛するのに、なんの障害にもならない。兄さん、
私はそう思うんです。いいえ、むしろ私の中に貴方と同じ血が流れていることを─
─私は何よりも誇りに、そして幸福に思います。だって、それだけ貴方のことを、
深く、暖かく、誰よりも身近に感じることが出来るのですから」

                    J・ラインコック 『ユージニー』




          7


 差し出された手は、しっとりと汗ばんでいた。
 けれど乃絵美にとって、その感触と、その仄かな熱は──けして不快なものでは
なかった。正樹の心臓の鼓動が、触れあった肌から、絡み合った指先からゆっくり
と流れこんでくるような感覚。このぬくもりに守られている限り、なにがあっても
大丈夫だという、絶対的な安心感。
 だから、乃絵美は机の下で(前に座っている吉井と田山の視線からは、もちろん
隠れる形で──)、隣に座る正樹から差し出された手を、そっと、それでも彼女な
りにぎゅっと強く、握り返した。幼い頃から何百回と握ってきたその手が──何物
にも代え難い、ただひとつの宝物であるかのように。
「意志は固い、と、そういうことなのかな?」
 重い沈黙を破るように、テーブルの上に置いた両手を組み直しながら、吉井が口
を開いた。整髪料でぱらついた黒い前髪が、疲れたようにぱらりと額に落ちる。
「何を言いつくろっても、学園側の勝手な要求になるだろうから、この際だ、はっ
きり言おう。学園としてはね──伊藤、君と妹さんとのことは、正直問題ではない
んだ。というより、問題にできないというべきか。学園としての対面もあるし、父
兄の手前もある──この場合、困るのはむしろ学園側だと、ある意味言えるだろう
ね」
 それよりだ、と吉井は一度言葉を切り、厳しい視線のまま言葉を続けた。
「学園として問題なのはね──伊藤、君が“城南に行かない”ということ。“伊藤
正樹が城南大学のスカウトを蹴る”という、まさにその一事なんだよ」
 その言葉に、正樹がふと顔を上げた。同時に、乃絵美の手を握る指に、僅かに力
が込められる。
「有言不行だな、私は──。『好きなようにしなさい』なんてあの時教師ぶって言
ったというのに……すまない、伊藤。これはもう、学園全体の総意なんだよ。理事
長を始め、誰もが君には期待をかけている。元々運動にはさして名の知られてない
この学園にとって、君はもう、文字通り希望の星なんだ」
「けど──」
 反駁しようとした正樹を、吉井は仕草で押しとどめた。隣に座る田山は、ただ眉
をしかめて視線を宙に向けている。
「もちろん、選択の自由は君にある。君の人生だからね──ただ、不快だと思うだ
ろうが、これだけは言わせてくれ。君が拒否をするということ、まさにそれこそが
問題なんだ。我々は、報告しなければならないんだよ。その時こそ。君の決断を。
どうしてそこに思い至ったのかという、その理由を」
 そこでいったん、吉井は言葉を切った。瞬間、なにか冷たいものを落とされたよ
うな感覚が、乃絵美の背を走った。
「まさにその時だろう。この学園で、君と妹さんのことが、“問題”になってしま
うのは。そうなれば、──伊藤、城南に行く行かないは別にして、君の進学そのも
のに、事は及んでくるんだ。分かるだろう? そんな問題を起こした生徒を、学園
側が推薦できるわけがない。桜美にしたってどこにしたって──君の推薦の話はま
ず白紙になる」
「…………!」
 凍るような沈黙に、乃絵美は肩を震わせた。
 覚悟は出来ているつもりだった。この事実が白日の下にさらされようと──たと
え、どんな嘲りや非難を受けようと、覚悟は出来ているつもりだった。
 そう、お兄ちゃんがこうして、ずっと手をつないでいてくれるのなら。
 けれど。
 けれど、乃絵美は思う。何度も何度も考え、思い悩んできたジレンマに、心を浸
す。
 本当にそれで、いいのだろうか? それは、自分だけのエゴじゃないんだろうか?
自分はただ、正樹を苦しめて、その未来を全部、奪おうとしているだけなんじゃな
いんだろうか──。
(駄目だ)
 きゅ、と乃絵美は唇を噛み、そして顔を上げた。
 弱気になっちゃ駄目だ。もう、決めたのだから。どんな現実にだって負けないと、
そう心に決めたのだから。だから、こんな言葉くらいで、気圧されてちゃ、いけな
い。
「脅迫、するんですか」
 絞り出すような正樹の声。乃絵美はテーブルの下で触れあう指に僅かに力を込め
ると、視線を吉井の方へと向けた。
「違う」
 その言葉に吉井は眉をしかめて頭を振った。その表情は、どこか苦しげに、乃絵
美には見えた。
「いや、そう取られても仕方がないことなんだろうが──。いや、そんなことはど
うでもいいんだ。伊藤、もう一度言おう。君たちのことは問題ではないんだ、“現
時点では”。だから、考えてみてくれないか? 君の選択が、君と妹さんを、救う
ことになるんだよ」
 その目には、本当に脅迫めいた色はなかった。少なくとも、乃絵美にはそう思え
た。この吉井という教師は、本当に心から、正樹のことを気遣っている。
 田山にしてもそうだろう。あまり評判の良い教師でないことは学年の違う乃絵美
のクラスまで伝わってきているが(とかくスパルタで知られているので──)さき
ほどの怒号にも、粗暴さはあったが、悪意めいたものは感じられなかった。不器用
ではあるけれど、この教師もこの教師なりに、(もちろん指導者的な打算はあるに
せよ)正樹のことを案じているのだろう。
 そう、案じているのだ。
 吉井も田山も、そしてもちろん、菜織や冴子たちも──皆、正樹のことを案じて
いるのだ。正樹の未来が閉ざされようとしていることを、門をくぐる前に、みずか
らその扉を閉じようとしていることを──案じている。
(乃絵美ちゃんじゃ、仕方ないよね)
 乃絵美は思い出す。
 自分が風邪をひいてしまったり、体調を崩してしまったとき──正樹はいつも傍
にいてくれた。そして遊びに行こうと誘いに来た男の子の友達や、菜織や真奈美に、
困ったような笑顔で「ごめん」と答える横顔を、乃絵美はいつも窓越しに見ていた。
「ごめん、俺、ちょっと今日駄目なんだ。乃絵美の調子、あんまり良くなくてさ─
─」
 そう告げられた時の菜織や真奈美の表情を、乃絵美は今でもよく覚えている。遠
目ではあったが、そこには残念そうな表情の中に、確かに諦めに似た色があった。
「乃絵美ちゃんじゃ、仕方ないよね」と。そして──今にして思えば──その諦観
の中には、ほんのひとにぎりの懸念も混じっていたような気がする。「でも正樹君
は、本当にそれでいいの?」──ちょうど、今目の前にいる二人の教師のような。


          ※


 乃絵美ちゃんは天使みたいな子だね、と近所の小母さんたちからよく言われるこ
とがある。それは自由に空を舞う無邪気な天使のイメージではなく──引っ込み思
案で、いつも兄の背中に隠れていた幼い頃の乃絵美を、なんとか周囲が元気づけよ
うとしてくれた一言なのだろうが、乃絵美は思う。
 たしかに、病気がちだった。少し冷たい外の空気にあたっただけで、すぐに体調
をくずしてしまう線の細い乃絵美だったが、それを武器にしたことだってある。
 正樹が休日の朝、嬉しそうに家族に友達とのことを話しているとき、「今日、河
川敷の方でサッカーやるんだ。人数集めるの、本当に大変でさ──」そんな言葉を、
横でぼんやりと聴いているとき。時々、ひどく切なくなることがあった。なんの理
屈も脈絡もなく、「行かないでほしい」と思うことがあった。そしてそんな時、乃
絵美はよく魔法を使った。難しい呪文なんていらない、ベッドにもぐりこんで、布
団を深く被って、そして呟くのだ、ただ一言、「お兄ちゃん」と。
 それは、本当に魔法の言葉だった。それだけで、正樹はもう足を止めてくれる。
あとはもう少し魔法を唱えればいい。「大丈夫だよ、お兄ちゃん。私は、大丈夫だ
から──」
 そして──この魔法が失敗したことは、本当に、ただの一度も、なかった。
 乃絵美は思う。何かの本で読んだことがあった。「魔法は呪いであって、呪いは
かけた分だけ、自分に返ってくるのだ」と。その言葉通り、罪悪感という名の呪い
はいつも、魔法をかけた後の乃絵美の小さな胸に返ってきた。正樹の存在を傍に感
じながら、乃絵美は罪悪感にかられていた。「乃絵美ちゃんじゃ、仕方ないよね」
──そう思われる自分を武器にして、正樹を傍にひき止めて──そんな罪悪感に押
し潰されるように、本当に体調を崩してしまうこともあった。なんて滑稽なんだろ
う、本当に、こんな、こんな天使がいるわけがない。
 ぐらり、と自分の躰が揺れたような気がした。進路指導室は不必要なくらいに暖
房が効いていたが、それでも鈍い悪寒が乃絵美の躰をじんわりと包んでいるような
感じがする。だのに、躰の芯は、不思議なくらい熱を持っているような、そんな、
感覚。
(──卑怯者!)
 菜織の言葉が耳朶を打つ。そう、本当に卑怯者なんだろう、自分は。妹という立
場を利用して、不当に正樹を縛っている。どんな言葉で飾ったところで、結局それ
はすべて自分のエゴであって、自分の想いも、この「大好き」という気持ちも、な
にもかも──それは正樹を苦しめる毒に他ならないんじゃないのだろうか?
 私は──乃絵美は思う。
 私は──魔女なのかもしれない。天使なんかじゃもちろんなく。そして本で読ん
だとおり、魔女の魔法はいつか終わりが来る。どんな呪いで現実をねじ曲げても、
いつか正義の力でうち倒される時が来る。
(駄目だ)
 乃絵美は必死でその考えを振り払った。
 駄目だ、駄目だ。そんなことを考えてしまっては。だって、好きなのだ。それだ
けは本当に理屈じゃなくて、この好きだという想いも、お兄ちゃんの傍にずっと居
たいという気持ちも、たとえ、どんなに苦しくても、お兄ちゃんを苦しめてしまう
としても──それだけは。
 魔女だっていい。天使になんかなれなくても、ずっと一緒にいられるのなら。
 それだけで、私は──
「妹さんの方の話も聞きたいな」
 押し黙ったままの乃絵美に、吉井がふと水を向けた。
「……私は」
 答えようとした声が、一瞬途切れた。目眩のような感覚。なぜだか、躰がひどく
重い気がする。それでも、乃絵美は精一杯顔を上げて、答えた。
「私は、なにも望むものなんて、ありません。ただ──」
「ただ?」
 吉井の問いかけに、乃絵美は僅かに正樹の横顔に視線を向けて、
「ただ、一緒にいられたら、それで」
 答えた。
「それが、伊藤の未来を閉ざすことになろうともかい?」
 溜息に似た声を、吉井は返した。
「…………」
「卑怯な言い方になるが、許してほしい。もし伊藤が、平凡な一学生だったら、君
たちのことは多少の噂になるだろうけれど、学生の内は大きな問題にはならなかっ
たろう。でもね、もし伊藤がまだ──城南に行かないにせよ──陸上への思いを捨
てきれないのなら、君たちの関係は必ず枷になる。伊藤に才能があればあるほど、
人はスキャンダルを望むものだよ。君は、本当にそれでいいのかな? 伊藤のアキ
レス腱になってしまうことを、本当によしとするのかな?」
「……そんな、つもりは」
「その意志に関わらず、だよ。君たちの思いが真摯であればあるほど──その傷口
は広がるだろう。もう一度訊こう、君は本当にそれでいいのかな?」
「あ──」
 乃絵美はうつむいた。分かっている。そんなことは、言われなくたって誰よりも
分かっている。誰よりもずっと、見てきたのだから。放課後、日没のオレンジがグ
ラウンドを染める中、ただひたむきにトラックを駆けてきた背中を、誰よりも自分
が、見てきたのだから。
「私は、」
 世界が揺れた。心臓が、早鐘のように高鳴っている。躰の芯が燃えるような感覚
──負けちゃいけない。こんなことで、あきらめちゃいけない。やっと、やっと─
─踏み出せたのだ。どんな深淵が待ち受けようとも、やっと、歩き始めることが、
できたのだから──。
(インセストを貫くには)
 井澄の言葉が脳裏に蘇る。
(それはふたつの要因いずれかに頼らざるをえない。強大な権力、──もしくは孤
絶した環境、いずれかにだ。そのどちらも持ちえない君たちが辿る道は、限りない
苦難と、猜疑と、侮蔑と、排斥に満ちるだろう──)
 どうしてだろう。どうして、こうなってしまうんだろう? ただ、好きなだけな
のだ。一緒に居たいだけなのだ。正樹に陸上で頑張ってもらいたいし、そんな正樹
を、自分は好きでいたい。たったそれだけのことが、どうしてこんなに困難なんだ
ろう。
 負けたくない。
 卑怯でもいい。なんと罵られても、詰られても、もうこの気持ちに嘘はつけない。
 視界が廻る。躰の奥はこんなにも熱を持っているというのに、どうしてこんなに
寒いのだろう?
「乃絵美?」
 正樹の声がする。その声に、乃絵美は声にならない答えを返した。「大丈夫だか
ら、お兄ちゃん。私は、大丈夫だから──」だから、もうお家に帰ろう? 暖かい
スープを作って、パンを焼こう。食事が終わったら、お風呂に入って──出来れば、
ほんの少しでいいから、抱きしめてくれると、嬉しいな──
 朦朧とした意識の中で、そんな日常を思いながら、乃絵美は微笑んだ。そして小
さく、呟いた。だから、だから、こんなことで、
「負けたく、ないんです」
 そして、その小さな躰がゆっくりと、左に傾いた。

小説(転載)  インセスタス Last Incest 明日 4/7

官能小説
05 /12 2019
          ※

 作為的ではなかった──といえば嘘になるだろう。
 菜織は知っていたのだった。今日、田山──正樹の部活の顧問──が施錠係であ
ったこと。そしてまだ、校舎裏の臨時通用門が未施錠であったこと。そして、おそ
らくはあの時間に、田山が施錠しに来るであろうことを。
 肩を強くかき抱きながら、菜織はずるずると力なく、校舎裏の冷たい土の上にへ
たりこんだ。息が荒い。駆けずり回った仔犬のように「はッ、はッ」と吐く息が、
目の前で白く霞んで冬の大気にふわりと溶けた。
 どうかしてた。
 どうかしてたんだ、あたしは──。
 こんな風に追いつめるつもりなんてなかった。ただ、正樹の気持ちを、あいつ自
身の口から聴きたかった、ただそれだけなのに。
 だのに、だのにこんなまるで、最悪の、形で──
「うっ、あッ……」
 身を切るような寒さと、内からわきあがるたまらない自己嫌悪に押し潰されそう
になりながら、菜織は爪を立てるようにして肩を掴む指に力を込めた。鈍い熱と痛
み。けれどそれも、全身を駆けめぐる震えにすぐにかき消される。
 ──なにをしてるんだろう。なにやってるんだろう、あたしは。どうして、こん
なことになってしまったんだろう──?
(正樹くんのこと、よろしくね)
 去年の秋──真奈美がミャンマーに帰る日の朝、正樹には聞こえないくらいの小
さな声で、真奈美が自分にそう囁いたのを思い出す。
 その「よろしくね」というひと言には、本当に、どれくらいの想いが込められて
いたのだろう。タラップを踏む真奈美の横顔は、ひどく寂しげで──でもそれでも、
最後まで笑っていた。
 どんな想いで、真奈美はあの時自分に、そう囁いたのだろう。どんな想いで、あ
の時真奈美はそれでも懸命に、微笑んでいたのだろう。
 それなのに。
 それなのに、あたしは──。
 熱い感覚が、頬を滑り落ちた。冷たい地面にへたりこみながら見上げる空は、そ
の乳白色をゆっくりと黒ずませていく。
「ごめん──ね」
 空を見上げたまま、力なく菜織は呟いた。その肩に、白く淡い結晶が静かに触れ
て散り、誰に向けるでもなく、ひたすら菜織は呟き続けた。


          6


 色褪せて、すでに正確に時を刻むことのできなくなった古い壁時計が、それでも
健気にかちかちと秒針を鳴らしていた。重い沈黙。窓の外に見える雪空はもう、乳
白色から暗灰色に染まりつつある。時刻はもう、5時を周りつつあるだろう。
 正樹は拳を固く握りしめて、重い息を吐いた。生徒指導室には正樹と、静かな怒
気をたたえた陸上部顧問の田山の二人しかいない。担任の吉井も姿を見せていたが、
(乃絵美を呼び出すためだろう)5分ほど前にいったん教室を出ていった。
 正樹は強く唇を噛んだ。どうして──こんなことになってしまったのだろう。予
想していなかったわけではない。しかし、しかし余りにも、早すぎる。
『裏切るんだ──!』
 菜織の、悲鳴混じりの声が、頭の中で鳴る。『裏切るんだ、あんたは! わたし
を、真奈美を、みんな、みんな、裏切るんだ──』。報い、なのだろうか? 菜織
の言うように、みんなの想いを、期待を、結果的にせよ踏みにじった──これは、
報いなのだろうか。
 苦い味が、口中に広がる。少し唇を切ってしまったようだったが、今はそんなこ
とはまるで気にならなかった。
 ふと、鈍い音を立てて教室の扉が横引きに開かれた。顔を出したのは、四十がら
みの背の低い教師──正樹の担任の吉井だった。吉井は乱れた頭髪を撫でつけなが
ら教室の中に入ると、正樹の方に視線をやり、後ろ手に扉を閉めた。その後ろに乃
絵美の姿がないことに、正樹は一瞬安堵の息を洩らした。──もちろん、それが時
間の問題であることは分かっていたが。
「氷川は?」
 田山の鈍い声に、
「帰るように言いました。ひどく体調が悪そうでしたし。養護の築山先生に行って
もらってます。──彼女には、また後日、話をすればいいでしょう」
 吉井はそう返すと、溜息に似た仕草をしながらテーブル越しに正樹の前の椅子に
腰を下ろした。
「まあ、まずは座ろうか?」
 吉井の声に促されて、正樹は手近にあった椅子を引いて、腰を下ろした。季節柄、
ひやりとした冷気が臀部に伝わる。
 まず、なにをどう話したものか──そんな戸惑いを表情にひらめかせながら、吉
井がこほんと喉を鳴らした。田山の方は2メートルほど離れた教室の壁に寄りかか
りながら、ぶすっとした顔で宙を睨みつけている。
 やがて、意を決したように吉井が口を開いた。
「そうだね、私もまだ、田山先生からさわり程度しか聴いていないから事情を全て
理解している訳ではないんだけれど──込み入った話をする前に、まずこれだけは
言っておきたい。私たちは何も事を荒立てたいわけではないし、もちろん事を大き
くしたいわけでもない。まず、そのことだけは理解してほしい。──どうかな?」
 ひとつひとつ、言葉を選ぶように、吉井はゆっくりと時間をかけてそう言った。
まるで幼い子供に噛みふくめるように──いや、吉井にしたところで実際、どう対
処したものか判断に困るところだろう。『あるところにとても仲の良い兄妹がいま
した。兄は妹のことが好きで、妹もそんな兄のことが大好きでした──』そう、単
純な、言葉にしてしまえばたったそれだけのことから始まった問題なのだ。……だ
から、そんな小学生じみた問題に直面すればどんな教師だって戸惑い、差し障りの
ない言葉をかけることしかできないだろう。
 無言のままうなずく正樹を、困惑の残った表情で見やりながら、吉井は言葉を続
けた。
「じゃあ、そうだな、まず何から訊いたものか……伊藤、田山先生が耳にしたって
いう、氷川の話は本当なのかな? 妹さん──1-Cの伊藤乃絵美さんだったかな
──のために、城南の推薦をあきらめるというのは?」
「…………」
「伊藤は言っていたな、『考える時間をください』と。ということは、君は城南と
妹さんの、二つのものの間で悩んでいたということなのかな。そして、田山先生の
伝聞が正しいのなら、伊藤は城南を捨てて、妹さんを選んだ。そういうことになる」
 答えない正樹をちらりと見やって、吉井は続けた。
「城南進学と妹さん──どうして、この二つが、天秤にかけられる、対比する要素
となるんだろう。妹さんがあまり、体が丈夫じゃないということは聞いているよ。
けれどたしか、伊藤の家は自営業だったろう。だから、そのことはあまり、考慮の
内に入らない気がする。だから、単純に思うんだ。この桜美から、城南までは遠い。
寮に入らなければならないだろうし、妹さんの傍にいてやれることもできなくなる
だろう──伊藤は、それが嫌なのか? 単純に、妹さんと離れることが──」
 正樹は小さく唇を噛んだ。まったく、言葉にしてしまえば、本当に単純なことだ
と思う。軽く諭されて終わってしまうくらいの。そう、これが兄と妹という間のこ
とでなければ。あるいは、兄と妹の範囲にとどまる問題であったら。『あるところ
にとても仲の良い兄妹がいました。兄は妹のことが好きで、妹もそんな兄のことが
大好きでした──兄妹愛というよりも、肉欲さえ抱きあう、ひとりの少年と少女と
して。そして、兄はそんな妹を想うあまり、兄は自分の進むべき道が見えなくなっ
てしまっていたのです──』
「……俺は、」
 何かを答えようとして、正樹は言葉を切った。視線の先に、吉井の温和そうな顔
と、不機嫌そうな田山の顔が映る。何と、答えようとしているのだろう、自分は。
これから発する言葉は、どんな言葉であれ、もう戯言ではすまなくなる。本心から
であろうとも、偽りのものであろうとも、この場で発する言葉は、もはや。
 自分は、何を言おうとしているのだろう。何と言うべきなのだろう。
 ごくり、と無意識に喉が鳴る。
 瞬間、様々なものが脳裏に浮かんで──そして消えた。ひとつひとつ模様の違う、
まるで規則性のないカレイドスコープのように。『裏切るんだ!』と叫んだ菜織。
冷然としながら、眼鏡の奥に強く情熱を潜ませた、井澄の瞳。ミャーコちゃんの無
邪気な笑顔。冴子の心配そうな顔。フィールドに毅然と立っていた、片桐さんの姿。
そして──
(──そんなお兄ちゃんだから、好きだよ)
 そう、微笑んでくれた、少女。
 ああ、そうだ。結局は、本当に何よりも単純な、取捨選択なのだ。自分にとって
何が本当に大事で、大切なものなのか。何もかもが手に入らない以上、本当に傍に
あって欲しいもの、手ばなしたくないものは──なんなのか。
 答えるべきひと言は、本当に、なによりも簡単で。
 ふと、廊下の方から、コツ、コツと小さな靴音がする。その音の主を思い、正樹
は小さく笑った。そうだ。どうせ、世の中には万人が認めるたったひとつの正解な
んてのはなくて──そんなものがない以上、自分にとっての答えが、正解だと信じ
るしかないのだ。例えそれが他人から見てどれだけ滑稽で、奇妙なことであっても。
 正樹は、ゆっくりと顔を上げた。
 膝の上の拳に、力がこもる。
 そして、ゆっくりと──その言葉がすべり出た。
「俺は──乃絵美が、好きなんです。
 ──だから、あいつをひとりにしておきたくないんです」


          ※


 ノックしようとしていた手が、小さく震えた。
 扉の向こうの声が、優しく耳を打つ。聞き慣れた──何千回も、何万回も耳にし
てきたけれど、でも多分、一生色褪せることはないだろう──あの声が、求めてい
た言葉を紡ぎだしてくれたのを、乃絵美は確かに聞いた。
 温かな感情が、ゆっくりとせり上がってくる。けれど、その春の木洩れ日のよう
な感覚は、
「──馬鹿げたことを言うな!」
 野太い怒号に遮られた。
 聞き覚えのある声。たしか、田山という体育教師だった。正樹からよく聞いてい
る。融通がきかなくて、曲がったことが嫌いで、今時珍しい熱血漢。たしか、陸上
部の顧問だった。
「馬鹿げては、いません」
 正樹の声が返った。田山の怒号にも、声にひるんだ様子はない。
「どこが馬鹿げてないと言うんだ。妹が好き? ひとりにしておけない? そんな、
そんなくだらん理由で、お前は進路を諦めるというのか? 子供じゃあるまいし、
とち狂うのもいい加減にしろ!」
「まぁ、田山先生──」
 別の声が怒号と押しとどめようとしたが、それを振り払うように野太い声は続い
た。
「それとも何か、お前は氷川が言っとったように、実の妹に恋しとるとでも言うの
か。だからなにもかも捨てるとでも言うのか? どうなんだ?」
「──はい」
 一瞬の沈黙、続けて、がたんと机が倒される音が廊下にまで響いた。
「…………!!」
「──田山先生!」
 慌てて、乃絵美は扉を開いて、教室の中に飛び込んだ。無秩序に倒された机。正
樹は、半ば禿げあがった男性教諭の太い手に首根を掴まれながら、それでも毅然と
その目を見つめ返していた。
「馬鹿か? お前は──馬鹿か?! 一体全体、どういう思考回路をしていたらそ
ういう答えになるんだ!? どれだけ多くの人間がお前に期待してると思っとる─
─それを、お前はそんな気色の悪い、下らん理由で──」
「やめてください!」
 震える声で、乃絵美は叫んだ。ふと、正樹の首根をしめる田山の指が弱まる。そ
してその声に弾かれたようにして、三つの顔が乃絵美の方を振り向いた。
「……乃絵美」
 呟くように、正樹。田山の手が放されて、その躰が力なく椅子にもたれかかる。
乃絵美は正樹の傍に駆け寄って、寄りそうようにしながら、こちらを見やる二つの
視線に顔を向けた。視線のひとつは困惑。もうひとつは──嫌悪感。
「……遅れてすみません、その、伊藤、乃絵美です」
 正樹の肩に手をやりながら、乃絵美は視線を受け止めながら言った。指先が震え
ているのが分かる。けれど、肌越しに感じる正樹の暖かさが──ゆっくりとその震
えを溶かしてゆくような気がした。
 かち、かち、と古ぼけた秒針が、不規則な音を立てる。
 カーテン越しの窓の向こうに、ひらりと雪が舞っていた。
 

eroerojiji

小さい頃からエロいことが好き。そのまま大人になってしまったエロジジイです。