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小説(転載)  インセスタス Incest.2 ショーペンハウエルのハリネズミ 3/3

官能小説
04 /30 2019
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 望んでいる?
 人は皆、インセストを望んでいると井澄は言う。愚にもつかない話だったが、な
ぜか正樹には頭ごなしに否定できない響きを、その言葉の中から感じた。
 あのときの乃絵美の表情。なにかを求めるような、苦しそうな、悲しそうな瞳。
 そして俺は──
 ──俺は、どうなのだろう?
 正樹の動揺をよそに、あるいは、と井澄は続けた。
 常の彼からは信じられないくらい、饒舌だった。頬が上気している。
「あるいは、それが特権だったからだろう」
「特権?」
「レヴィ=ストロースは、禁忌は禁忌それ単体のみでは論じることは出来ない。必
ずそれに付随する特権とともに考えねばならない──と言った。まさしく同感だよ。
知っているか? 古代──エジプトやインカの帝国は、王族の血統を神聖なものと
して崇めていた。血統崇拝だな。これだけならなんら珍しい例ではないが、彼らは
その神聖な純血を保つために、兄妹婚を神聖なものとし、王族のみの神事として独
占した。インセストは彼らにとっての特権となり、民間においては禁忌となった。
やがてそれら諸王朝は荒廃し──その禁忌だけが残った」
「…………」
「分かるか? まず特権がある。インセストを独占するという目的があって、禁忌
はそれを守るすべとして後から作られた。今はその禁忌ということだけが愚にもつ
かないモラリズムの中で生きているが、本来は──」
「井澄ッ」
 正樹はたまらずに口をはさんだ。
 止めなくてはならない。これ以上聞いていたら、俺は──
 俺は、狂ってしまう。
「…………」
 我に返ったように井澄は顔を上げた。
 その瞳に、熱病に似た色が浮かんでいる。
 あのときの、乃絵美のような──
「どうした、お前らしくもない。何を熱くなって……」
「──別に、何があったわけでもないさ。僕はいつもこんなことを考えている」
「お前の言うことも分かるさ。だがそれは全部物語や神話──それにずっと古代の
ことだろう? 今は今の法があるし、確実にその──そういうコトはモラルに反し
てる」
「…………」
 井澄は押し黙って地面を見つめ、不意に顔を上げて呟いた。
「だからこそ、じゃないのか?」
「え?」
「禁忌だからこそ──モラルに反しているからこそ、人は求めるものじゃあないの
か。人がまず、求めなければそもそも禁忌になどならないだろう」
「そりゃあ……そうかもしれないけど」
「君は──どうして僕に話を聞きに来たんだ?」
「え?」
「君が今どういう事情の中にいるのか僕は知らないし、知りたくもないよ。だがこ
こにいて僕の──僕なんかの話を聞きたがるんだ、多少の想像は出来る。まあ──
そういうことだろう」
「…………」
 そうだ、正樹は思った。
 俺は、どうしてここに来たのだろう。ひとりになりたかったはずなのに。気が付
いたら、ここに来ていた。井澄がいるかもしれないと期待していた。彼の口から、
何かを聞きたかった。
「君は僕に、否定してほしかったんだろう。インセストは病だ。生物として異常だ。
モラルの敵だ。もしそんな感情が芽生えているのなら、どうにかして取り除くべき
だ──とでもね。だがお生憎様だ。もう一度言おう。インセストは本来、禁忌でも
なんでもない。人間の心の奥底から沸き上がる、誰にでもある欲望の衝動だよ。そ
れに身を任せることは人間として何ら──」
「やめろ!」
 正樹は怒鳴った。
 そうだ、俺はこいつに否定してほしかったんだ。偶然あの本のことを井澄に訊ね
てから、何もかもが狂ったような気がする。まるで関係はないはずなのに、こいつ
が全ての元凶のような気がしていた。
 だから、来たんだ。こいつの口から否定してほしかったんだ。
 妹は、妹だ。それ以外の何者でもない、と。
 それなのに、こいつは──。
「俺は……そんなつもりなんて……」
 正樹は立ち上がった。
 なおも言い募ろうとする正樹を冷ややかに見つめて、ぽつりと井澄が言った。
「どうあれ、君はここに来た」
 諭すように。

「──それだけで、もう、答えは出ているじゃないか?」

 そう呟くと、井澄は正樹から視線をそらし、灰色に染まった冬空を見上げた。
 フレーム越しに見えるその瞳には、もういつも通りの、何とも取れない色が浮か
んでいる。
 正樹は脱力したように腰を下ろした。
「…………」
 俺は──。
 やっぱり俺は──を──?
 肩を落とす正樹に、井澄は複雑な視線を向けていた。
 同情だろうか。それとも──共感? 灰色の瞳は沈んだように、暗い。
「……なあ」
 メリーゴーラウンドのように回る思いを振り払うように、正樹が訊いた。
「あの本のラストって……どうなるんだ? ふたりは──」
 兄と妹は、恋をまっとうできたのだろうか?
 だが、返ってきた言葉は──

「死ぬよ」

 残酷なほど、簡潔だった。

「デュアンとユージニーの兄妹は、死ぬ。最後は妹が兄の子を孕んでいるのを領主
が知って──兄を殺そうとするんだ。ふたりは手をとって逃げて、ついに湖畔近く
の崖にまで追いつめられて──
 ──湖に身を投げて、自殺した」


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「あの……それじゃ、お世話になりました」
「無理しない方がいいわよ。もう少し、休んでいったら?」
「あ、いえ。……お家の方を、手伝わないといけないので……」
「そう? じゃ、お大事に。……本当に、無理しちゃダメよ」
「はい」
 失礼します、と行って乃絵美は保健室を出た。
 あったかくして寝なさい、という保健医の声に疲れた微笑を返して、乃絵美は保
健室の引き戸を閉めた。ぱたん、という扉が壁に触れたときのわずかな音が、いや
に大きく無人の廊下に響いた。
 まるで、夢の中にいるような気がする。
 足取りも、どこかおぼつかない。
 少し横になって、だいぶ楽にはなったものの、鈍い痛みは相変わらずだった。頭
もどこか、靄がかかっているようにぼうっとしている。
(疲れてる……のかな)
 そういえば、昨日はろくに寝ていなかった。
 せっかく作ったお弁当も、まるで喉に通らなかった。心配する夏紀に「なんでも
ないよ。ちょっと、疲れてるだけ」。そう微笑を返すたびに、罪悪感のようなもの
がのしかかってくるような気がした。
(なんでもないわけ、ないのに)
 そう思うたびに、涙が出るくらい苦しくなる。
 どうしてこんなことになってしまったんだろう? 乃絵美は、思う。
 乃絵美にとって、兄は──正樹は、男性そのものだった。病気がちで、家にこも
りきりだった乃絵美は、同世代の男の子はほとんど、正樹しか知らない。乃絵美の
中で、男性という言葉と、正樹という名前は、何の疑問もなくイコールで繋がるも
のだったろう。
 乃絵美にとって、正樹は理想の兄であると同時に、理想の男性像で、理想の恋人
像でもあった。
(いつか、お兄ちゃんみたいな人と……)
 というほのかな想いは、ずっと、乃絵美の中で温められてきた。
 けれど、その想いは、本当は乃絵美の心の最も深いところで、“みたいな人”と
いう言葉を否定していたのかもしれない。「いつかお兄ちゃんと」。いつか。
 どうして駄目なんだろう?
 どうして、お兄ちゃんを好きになっちゃいけないんだろう?
 そんな倫理の枠さえなければ、どれだけ楽だろう?
 好きな人が、好き。それでいのに。どうして? 血が繋がってるからだろうか。
それは、お兄ちゃんとわたしが、誰よりも近いことを、1番傍にいる人だってこと
の、証なのに。1番傍にいる人を好きになっちゃ、いけないの? わたしは、自分
の躰に、お兄ちゃんと同じ血が流れてることが、幸せで、嬉しくて──だから──
 だから、狂ってなんかいない。
 なのに、なんでこんなに苦しいんだろう?
「…………?」
 気が付くと、廊下の窓を打ち付ける音がした。
 校庭の灌木が、ぴたぴたと音を立てている。
 さっきまで青かった空はすっかりと灰色に染まり、大粒の雨が、降り出していた。
 まるで、涙のように。
(──雨)
 ふと、正樹の顔が浮かんだ。
 正樹のことだ、きっと傘など用意していないだろう。
 無意識に正樹の教室へ向かおうとした足を、乃絵美は静かに止めた。今、正樹の
顔を見たら。声を聞いてしまったら。
 どうなってしまうか分からない。
 胸をさいなむ熱が、吹き出してしまうかもしれない。
 今は少しでも、時間が欲しい。
 それでどうなるのか──それは、分からないけれど。
「ごめんね、お兄ちゃん」
 乃絵美は呟いて、重い足取りのまま、階段の方に向かった。
 窓の向こうでひときわ大きく、雨音が鳴った。



「雨……か」
 井澄と別れ、さして集中も出来なかった自主トレを終えて部室に戻ると、空はす
っかり分厚い雲に覆われて、雫のような雨がひたひたと地上を濡らしていた。ぽつ、
ぽつという間隔が次第に狭まっていったかと思うと、ざざあっという音のつながり
とともに、滝のような雨が地面を打ち出した。
「……参ったな」
 首の裏を手をやって、正樹。今朝はからりと晴れていたし、予報でも降雨確率は
10パーセント程度だったから、傘の用意などしていない。置き傘は……と思った
が、どうやら誰でも考えることは同じらしく、普段は四、五本の傘が無造作に置い
てある傘立には、一本の傘もなかった。
 乃絵美は、まだ校内にいるだろうか?
 正樹は思った。用意のいい乃絵美なら、きっと傘を持っているだろう。声をかけ
て、一緒に帰るか。
(いや)
 その考えを、正樹はすぐに振り払った。
 もう少し、時間を置いた方がいい。今はきっと、自分も、乃絵美も、気が高ぶっ
てるのだろう。時間を置いて、ゆっくり話し合えば──きっと。
「しょうがない」
 意を決して、濡れて帰る決心をかためたとき、
「正樹?」
 背後で、正樹を呼ぶ声がした。
 振り返ると、トレンチコートにグレーの傘を持った菜織が、きょとんとした顔で
正樹を見つめていた。
「どうしたの、こんな時間まで? 自主トレ?」
「ん? ああ」
「傘──ないの?」
「まあな」
 正樹の言葉に、菜織はくすっと笑った。
「じゃ、入ってく?」


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「で、ミャーコったらね……」
 いつもの帰路を、いつもの歩調で、いつものように何てことのない会話をしなが
ら帰っていく。菜織の口調は普段と同じように快活だった。春の風のように。まる
で変わらない。
 だけどその声が、正樹の耳にはどこか遠くに聞こえる。
 ひとつの傘に入って、右肩と左肩を触れ合わせているのに、どこか遠くに。
 ぼんやりと雨空を眺めながら菜織の言葉に相槌を打っていると、いつの間にか菜
織はしゃべるのをやめていて、複雑な表情で正樹を見上げていた。
「……なんだ?」
「やっぱ、聞かせてよ。今日の正樹、見てられない」
「え?」
 ととぼけた声を出しながらも、はっとした表情は、菜織には隠せない。
 それを敏感に察したのか、菜織は諭すような表情で笑った。
「ね?」
「…………」
「…………」
 無言のまま、雨音と足音だけが、響く。
 校門前の坂を下りきったところで、
「……進路のこと?」
 ぽつっと、菜織が囁いた。
「ん……」
 囁き返しながら、正樹。
「それも、あるかな」
 呟くように言う。
 ふたりはいつの間にか大通りの方にまで出ていて、語尾は過ぎる車のクラクショ
ンにかき消された。


          $


 三度目の交差点を曲がるところで、乃絵美はふと立ち止まった。
(やっぱり、戻ろう)
 正樹が、心配だった。
 もしかしたら、部活の誰かしらに入れてもらっているかもしれない。でも、正樹
のことだ。濡れるのを覚悟で、飛び出してきているかもしれない。
 さっきから、ひどく雨足が早くなっている。
 季節は冬だ。雪になってもおかしくないこの季節に、体を冷やしてしまうことが
どれだけ危険か、病気がちな乃絵美は嫌というほど知っていた。
 しかも、正樹にとって今は大事な時期だ。
 こんなことでコンディションを崩してしまったら、元も子もない。
(戻らなきゃ)
 お気に入りの白い傘をぎゅっと握りしめて、乃絵美は来た道を足早に駆けだした。


          $


「なるほど、ね」
 正樹の話を聞いて、菜織はうなずいた。
 もちろん、全てを話したわけではない。「家を出ることが決まって乃絵美が寂し
がっている」その程度のニュアンスで話したのだが、菜織は納得したようだった。
「お兄ちゃん子だもんね、乃絵美は」
 くすくすと笑う。
「覚えてる? 小学生くらいのときのことだけど、正樹の家の庭でさ、わたしと、
真奈美と三人で──雪だるま作ったこと、あったじゃない?」
「? いつの話だ?」
「真奈美がいた頃だから──もう8年くらい前かなぁ、あのとき、三人で汗いっぱ
いかきながら雪だるま作って、さあ頭を乗せようってときに、正樹ったらさ、『悪
い!』って言ったかと思ったら走って家に戻っちゃって。女の子ふたり残してさ」
 呆然としちゃったわよ、と菜織は笑った。
「俺、そんな薄情な子供だったか?」
「ふふ、まあ、でもすぐ理由は分かったんだけどね。二階の窓に手をつきながら、
じっとこっちを見てる女の子がいたからね。ああ、あの子のために戻ったんだなぁ
って。真奈美とふたりで顔見合わせて、笑っちゃったわよ。あ、思い出した。あれ
からひいこら言いながら、ふたりであの重い頭乗せたんだからね──」
 菜織は呟いて、悪戯っぽく正樹の肩を叩いた。
「あのとき、ホント思った。正樹って、本当に乃絵美を大事にしてるんだなってね」


          $


 ぱしゃ、ぱしゃとアスファルトに水音を立てながら、乃絵美は駆けた。
 色んな音がする。
 雨音。風音。踏み出す水しぶき。クラクション。列車の音。
 音の中を、ひたすら、乃絵美は走った。
 無意識に、正樹の顔が浮かぶ。
 笑っていた。
 そう、記憶の中の正樹は──いつも笑っていた。寂しがっていた自分を力づけよ
うと、安心させようと、いつも笑っていた。
 だから、自分も笑うことができた。正樹は、笑顔を教えてくれた。
 その正樹に──自分は──
 角を曲がる。
 雨が、ブーツに跳ねた。


          $


「わ、なに今の車。雨の日はゆっくり走りなさいよねー、あー、びしょびしょ」
「……たッ……」
「正樹?」
「なんか、ゴミ入ったかな、てて……」
「ん、見てあげるから、ちょっと屈んで」
「いいって」
「ダメだって、目に入ったゴミはほっとくと危ないんだから」
 近づく顔。
 くす、と菜織が笑う。
「なんだよ」
「なんか、ドラマとかでさ、あるじゃない? こういうシーンをヒロインに見られ
て、キスしてるのと誤解される、みたいなさ」
「……バカ言ってんな」
 憮然とした正樹の視線の先の、ずっと向こうで、ひとつの影が揺れた。


          $


 大通り。
 行き交う車は、いっそう激しさを増している。
 乃絵美の視線の先──歩道のずっと向こうに、求める姿があった。
「あ……」
 けれど、正樹は寄り添うように、別の影と一緒に立っていた。


          $


 角の向こうから現れた乃絵美を、菜織の肩越しに正樹はじっと見つめた。
 雨煙の向こうに、ぼんやりと揺れる、見慣れた華奢な躰。
 呆然とこっちを見ている、16年間見慣れた、白い顔。
 上気した頬。熱病に冒されたような、瞳。
 心のどこかで、思う。
 もしかしたら、俺も──
(インセストは、禁忌でもなんでも──)
 井澄の声。違う。違う。チガウ。
 じゃあ、この熱は? 胸を犯すこの熱は。あのとき、乃絵美の唇に触れたときの、
動悸は。
 違う。否定しなければ。俺は兄で、乃絵美は妹で。
(君はもう、分かっているんだろう?)
 違う!
「って、顔上げないでって……ほら……」
 それでも雨は降り続ける。


          $


 乃絵美は、呆然と立ちつくしていた。
 もうひとつの影が誰なのか──そんなことは気にならない。
 ただ。
 16年間握ってくれていた手は、別の人に触れている。
 16年間見つめてくれていた瞳は、別の人に向いている。
 私ではなく。
 顔が上った。肩越しに、交錯する兄と妹の視線。
 やがて、正樹が苦しげにその視線を逸らした。何かを、断ち切るように。
 そして。
「あ……!」
 そして、正樹の腕が──菜織の肩に延ばされた。


          $


「はい取れた……って、きゃっ」
 突然抱きすくめられて、菜織は思わず声を上げた。
 いつの間にか厚く広くなっていた幼なじみの胸板は、奇妙なくらいに熱を持って
いた。
「ちょ……正樹?」
「頼む」
 喉の奥からしぼりだすような声で、正樹は言った。何かに、耐えているように。
「もう少しだけ、頼む」
 背中に回された正樹の手に力が込められるのを、肌越しに菜織は感じた。ほんの
わずかに──震えている。小さく、小さく。「もう少しだけ」。
「…………」
 無言のまま、菜織も、正樹の背に手を触れた。
 背も、熱を持っている。雨ではなく、びっしりと汗で濡れている。
 どうして、こんなに熱いのだろう? どうして、震えているのだろう?
 ──数秒の空白。
 やがて、ぱしゃん、という水を跳ねる音が、まるで別の空の下のことのようなほ
ど遠くで、鳴った。
 続けて、誰かが駆け去るような、足音。
 菜織が振り返ると、仰向けになった白い傘が、水たまりの上で雨にうたれている。
 持ち主の姿は、なかった。
「正樹?」
 まだ自分の肩を強く掴んでいる正樹に、菜織は問いかけた。
 どこか苦しそうな視線で、正樹は白い傘を見つめていた。
「正樹?」
 再びの問いかけにも、答えはなかった。
「…………」
 立ちつくす正樹の唇が誰かの名前を刻んだが、それはすぐに音の波に消し去られ
た。
 音だけが、響いていた。
 アスファルトの路面に、雨音が空しく。
 駆け去る足音が、どこかで。
 行き交う車のクラクションが。
 吐息が。
 そして、すべてを、洗い流すように、
 激しい雨。

小説(転載)  インセスタス Incest.2 ショーペンハウエルのハリネズミ 2/3

官能小説
04 /30 2019
          3


 ─January.24 / St.elsia Highschool ─


 1月末という微妙な時期の3年生の教室というのは、不思議な雰囲気に包まれて
いる。
 受験組はHR中でも参考書を片手に大わらわだし、推薦組は余裕とばかりに居眠
りしたり、同じ推薦組の仲間と次の休みはどこへ遊びに行くかなんて話をしている。
その楽しげな様子を受験組や未だ落ち着き先のない就職組がうらめしくも見ている
という構図。
(天国と地獄だなぁ)
 自分のことは棚に上げて、頬杖をつきながら正樹は思った。
『そうか、伊藤、決めてくれたか』
 今朝、城南の推薦を受けることにしたと、進路指導室まで報告しに行ったとき─
─なぜか同席していた顧問の田山が大声でそう笑ってばんばんと何度も正樹の背を
叩いた。推薦入学に際して試験のようなものはないが、3月前に大学の方の監督と
面接のようなものがあるだけだと言う。それは参考程度のもので、さほど重要なも
のではないらしい。
 要するに、すべては入ってから勝負だということだ。
 城南のスポーツ推薦は、結果を出し続けているかぎり、学費その他ほとんどに優
遇措置がある。だが、結局城南陸上のレベルについていけなくなって低空飛行を何
ヶ月も続けたり、怪我やコンディション調整の失敗で結果が出せないと判断された
ときは、容赦なく放逐される。他大と比べてよりリベラルに、よりシビアに、とい
うのが城南のモットーだ。
『迷いはないんだな?』
 熱弁を振るい始めた田山に少々辟易しながら、担任が正樹に訊いた。
 正樹は「はい」とうなずいた。
 ──もっと早く走りれるように、なりたいですから。
「…………」
 朝のことを思い出しながら、正樹はぼんやりと窓の方に視線をやった。
(迷い……か)
 自分の言ったことに嘘はない。もともと好きで始めた陸上だが、最近は走るのが
楽しくてたまらない。どうすればもっと早く走れるだろう? 気が付いたらそんな
ことばかり考えている。スタートの瞬間、プレートを踏み込む感触。ゴール手前で
他の選手達を抜き去り、誰よりも早くテープを切る快感。だから、もっと早く走れ
る場所へ。
 桜美に行けば、地元だし、先輩もいる。きっと居心地がいいだろう。それはきっ
と、城南にはないよさだ。
 要はフィーリングじゃない? と菜織は言っていた。自分は楽しくやりたいのか。
それとも、もっと早く走りたいのか? 答えは簡単だった。──だから、フィーリ
ングで決めた。迷いはない。
 ないはずなのに。
「…………」
 昨日の乃絵美の顔が、涙が、頭から離れない。唇がまだ、熱をもっている感じが
する。
 なんであんな顔をするんだろう? ただ寂しいと泣くだけなら、髪を撫でてやれ
る。抱きしめてやれる。けれど、乃絵美はそれを拒絶してなお──何かを求めてい
た。兄としての優しさ以外の、何か。
(何を?)
 正樹は自問した。
 いや、多分答えはもう、分かっているのだ。ただ、それを認めることができない
だけだ。もし、認めてしまったら。受け入れてしまったら。
 きっと、すべてが崩れるだろう──
「こら」
 ばん、と頭に軽い衝撃が走って、正樹ははっと我に返った。
 顔を上げると、呆れたような顔の菜織が、鞄を胸のあたりで抱えながら立ってい
た。
「ったぁ、なにすんだ」
「アンタがいつまでもボーッとしてるからよ。もうHRとっくに終わってるわよ」
「?」
 ぼんやりと教室の壁時計を眺めると、すでに長針は4を回っていた。
「あ、ホントだ」
「ホントだ、じゃないわよ。……なんか暗い顔してるけど、大丈夫? なんかあっ
た?」
 正樹の前の席に腰を下ろして、菜織。
「ん? ああ……」
 自分でも歯切れが悪いと思う返事。
「別に、大したことじゃないよ」
「……ふぅん」
 それだけで、菜織は「あんまり言いたくないことだ」ということを、即座に理解
してくれたらしい。あえて続けて訊こうとはしない。その心づかいが、今の正樹に
は有り難かった。
「ならいいけど。……あんまり、溜め込まないようにね」
「……ああ。心配すんなって」
「──ん」
 それだけ言って、菜織は席を離れた。その背中に向かって、
(悪い)
 と正樹は小さく呟いた。
 今は、もう少しだけ、ひとりになりたかった。


          4


 木枯らしが吹きすさぶ中庭は、いつも以上に閑散とした空気が漂っていた。
 春先には大勢の生徒が弁当を広げたり、キャッチボールをしたりと賑わうこの場
所も、季節柄か今は影ひとつ見えない。
 ──たったひとりを除いては、だが。
「井澄」
 真冬だというのに顔色ひとつ変えず、その生徒は中庭のベンチに腰をかけて、本
を片手に黒いコートをはめかせていた。冷たい眼鏡のフレームと黒のダウンコート
が、死神めいた印象を与える。
 死神。
 そう思えば、そのフレーズこそこの男に似合う言葉もない。黒い手袋をして、鎌
でも持っていたら後は完璧だ。
「……なんだ、気持ち悪い」
 相変わらずぼそっとした井澄の声に、正樹はああ、と頭を掻いた。どうやら、い
つのまにか笑ってしまっていたらしい。
「読み終わったのか?」
 井澄の隣のベンチに腰を下ろしながら、正樹は訊いた。
「その、本」
「……いや。だが、前にも一度読んだことがある。今は筋をなぞってるだけだ」
「そっか」
 それきり、ふたりは押し黙ってしまったように口をつぐんだ。
 だが、昨日ほど違和感はなかった。井澄の雰囲気がくだけてきているのか、正樹
の方が共感を持ち始めているのか、それは分からなかったが。
「……なあ」
 ぽつっ、と正樹が訊いた。
 井澄は首を動かさず視線だけをこちらに向けて、「なんだ」という目をした。
「その本、ユージニーだっけか。兄妹が恋に堕ちるとかって言ってたな。俺、あん
まり本とか読まないからよく分からないんだけど、そういう話ってやっぱり色々あ
るのか?」
「数え切れないくらい、ある」
 パタン、と本を閉じて、井澄は言った。
「兄妹にかぎらずインセスト・タブーという観点でみれば、無数だな。オイディプ
ス、ハムレット、セミラミス、ジークムント、ネロ、チェーザレ・ボルジア……君
も名前くらいは聞いたことがあるだろう。フィクション・ノンフィクションを問わ
ず、彼らないし彼女らは、皆──インセスタス(近親相姦者)だ。神話や民間伝承
にまで遡れば、世界のどの国をみてもインセスト・タブー的描写のないものは皆無
といっていい。聖書ですら、ロトは自分の娘に子を生ませている」
 珍しく饒舌に、井澄。
「だけどそれは──異常なことなんだろう?」
「異常というものの、定義による」
「普通じゃないこと、だろう」
「じゃあ、普通の定義は?」
 眼鏡のフレームをついと上げて、井澄は顔を上げた。その表情にいつになく厳し
さのようなものが漂っている。正樹は思わず、気圧されるように視線をそらした。
「…………」
「……普通と異常の境なんてそんなものさ。前に言ったろう? 『よくある話』だ
と。インセスト・タブーはなんら異常なことじゃない。心の病だとも言われるが、
ナンセンスだな。というより、心を病んでいない人間など、いやしないさ。インセ
ストはそのひとつの形だ」
「でも、遺伝っていうか、そういう問題があるだろう」
 反論しながら、どこか間違っているなと正樹は思った。こんな話をしに来たので
はなかったのだが。
「たしかに、血族結婚は優生学的に悪影響を及ぼすと古くから言われている。奇形
児が生まれる率も高くなる、と。だから古来から、人はそれを禁忌とした──そう
いう優生学が生まれる以前から、生物としての本能的嫌悪がそれを知っていたと」
「それが違うってのか」
「僕はそう考える。生物的というなら、近親相姦をする生物なんてこの世にたくさ
んいるだろう。ネズミは環境さえ整えてやれば、つがいを放すだけで爆発的に繁殖
する。本能というなら、子孫を残すという本能が近親相姦を嫌悪する本能に打ち勝
つわけだ。その程度のものだ」
「じゃあなぜ──」
 なぜ、禁忌なのだ。
「望ましいからだよ」
「望ましい?」
「誰もが心の奥底で、インセストというものに甘美さを感じているからだ。そこに
ユートピア性を見出しているからさ。人間は望ましいものには不思議と蓋をする─
─」


          5


「あ……」
 しく、と腹部に鈍い痛みが走って、階段を上っていた乃絵美は手すりに体重を預
けるようにして、お腹をおさえた。
 乃絵美は軽い方らしく、その渦中でもそれほど辛いことはない。友人の話を聞い
ていると、もっとひどく痛む人もいるそうだ。それに比べれば、自分のは気楽な方
なのだろう。
 けれど、周期的にこの鈍い痛みに襲われるとき──自分は女なのだ、ということ
を実感する。
 妹ではなく、伊藤乃絵美というひとりの女なのだと。そして、伊藤正樹も、兄で
ある以前にひとりの男だということを、当然の事実を──衝撃的な真実のように、
再確認してしまう。
 どうして好きになってしまったんだろう、と思う。
 自分は未だに兄を慕う気持ちと、恋心とを取り違えているんじゃないか──そう
思ったりもする。
 だけど、嫌なのだった。
 小さい頃そのままに髪をくしゃくしゃにされたり、撫でてもらったり、そういう
のはもう嫌なのだった。
 かといって、触れてほしくないわけではない。それより、もっともっと──触れ
てほしい。髪だけではなく頬を、首筋を。イトウノエミを、愛してほしい。本当は
ずっとそう思ってきた。ただ、気づかなかっただけ。
 もちろん今まで、正樹以外の男を好きにならなかったわけではない。
 交際というにはあまりにも幼い付き合いだったが、中学の頃、1年上の先輩──
柴崎拓也と付き合っていたことがある。放課後──グラウンドがオレンジに染まる
までボールを蹴り続ける姿に、憧れていた。そのひたむきな横顔に、兄を重ねてい
た。
 そう、重ねていたのだろう。
 自分ではそうは思っていなかったけれど、きっと無意識にそうしていたのだろう。
それを、柴崎拓也も気づいていたに違いない。
 だから、まるで自然消滅するように──離れてしまった。
 去年の夏、真奈美が日本に戻ってきたとき。真奈美のことで、そして自分のこと
で──ふたりが殴り合いの喧嘩をしたとき。
 乃絵美はそのことに気づいてしまった。
(私は、お兄ちゃんが好きなんだ──)
 気づかなければ、もしかしたら別の道を進んでいたのかもしれない。柴崎ともも
う一度、面と向かって付き合っていけることができたかもしれない。正樹が城南に
行くことだって、心から祝福できたかもしれない。
 ──かもしれない。かもしれない。かもしれない。そればかりが頭の中でリフレ
インし続ける。
 だけど、気づいてしまった。
『お兄ちゃんが、私の恋……』
 あのとき、その先を続けていたら、どうなっていたろう。
 今とは違ったことに──なっていただろうか。あのときからずっと妹だというこ
とを意識し続けて、気持ちを押さえ続けてきて。今ほどは苦しくはなかっただろう
か。
 けれど、もう限界だった。
 正樹が遠くに行ってしまう──そう知ってしまったとき、昨夜、あれだけ堰き止
めいた自分の気持ちは、いとも簡単に決壊してしまった。
 離れたくない。
 ずっと、傍にいたい。
 後悔はしている。
 だけど、このまま一生口をつぐんでいたままだったら、きっともっと後悔してい
ただろう。
 そのはずなのに。
「…………」
 どうして、こんなに涙が出るんだろう。
 好きなのに。その好きという気持ちと同じくらいの苦しさと、罪悪感がないまぜ
になって、お腹の中に凝り固まっている気がする。
 正樹のあの表情。おびえに似た目。
 あんな視線を向けられたことは、初めてだった。
 好きだと思うほど、相手を苦しめる。身を寄せるほど、相手を傷つける。
 お腹が痛い。
 しくしく、しくしくと鈍い痛み。
 涙が止まらない。
 胸が苦しい。
 だけど、だけど。
「だけど、おさえられないよ……」

小説(転載)  インセスタス Incest.2 ショーペンハウエルのハリネズミ 1/3

官能小説
04 /30 2019
Incest.2 ショーペンハウエルのハリネズミ



 ─January.24 / Washstand ─


          masaki


 1月24日の朝は、いつもと変わらずに明けた。
 どこか重さの残る頭に手をやりながら、パジャマ姿のまま部屋を出て、とんとん
と正樹は階段を降りる。
 正直、よく眠れなかった。
 かすかなぬくもりが、まだ自分の唇に残っている。あのとき、たしかに乃絵美の
唇は──正樹のそれに触れた。
(ジョークに決まってる)
 とは思う。だけど、あの涙はなんだったのだろう。
 どうしてあんな目で、すがるような、求めるような、そんな情念のこもった瞳で
俺を見るのだろう。
 どうしてあのとき、自分の頬はあんなに上気していたんだろう。まるで、初めて
キスをしたような、中学生のように。
 どうして、どくどくと胸が鳴っていたのだろう?
「くそっ」
 頭の中が煮詰まったスープのようになった気がして、正樹は髪をかきむしった。
まだ、不透明感が残っているようだ。冷たい水で顔でも洗えば、すっきりするだろ
う。
 こんなごちゃごちゃと絡まった糸のような気持ちも、きっと消えてしまうはずだ。
 そう思いながら、正樹は洗面所のドアのノブに手をかけた。


          noemi


 1月24日の朝は、乃絵美にとって特別な朝だった。
 きっとこの16年間でこれだけ長い朝もなかったような気がする。どんな顔をし
て正樹に会えばいいんだろう。最初にまず、なんて言えばいいんだろう?
 洗面所に降りて、鏡に映る自分の顔を見ながら乃絵美は思った。
(……ひどい顔)
 と思う。布団を頭から被って目を閉じたけれど、昨晩は眠りにつくことができな
った。
「ごめんね、お兄ちゃん。昨日のあれはちょっとふざけてみたんだよ。……ちょっ
と困らせたくなっちゃって。ごめんね、あはは、笑えなかった……よね?」
 そんな自分らしくない言い訳が浮かぶ。
 すぐに頭から、そのセンテンスを振り払う。だって、あれはふざけてなんかいな
かった。
 自分の中のどこかの部分が、そう叫んでいるような気がする。
 その声に突き動かされるように、そっとひとさし指で唇に触れてみる。かすかな
ぬくもり。やっぱり、夢なんかじゃない。ジョークなんかでは決してない。あのと
きわたしは、
 ──お兄ちゃんに、キスしたんだ。
 蛇口をひねると、勢いよく水が溢れ出した。
 出水口にキャップを填め、水を張る。
 どうしてあんなことをしてしまったんだろう。ジョークじゃないなら、どうして。
……引き止めたかった? 正樹に遠くへ、自分の手の届かない遠くへ行ってほしく
なかった?
 じゃあなんで素直にそう言わなかったの?
 自分の中の、また別の部分がそうささやく。
 どうしてキスなんかしたの? 「行かないで」って、ひとこと言えばいいのに。
それじゃまるで、──みたいじゃない──。
 ばしゃっ。
 息を吹き込んだ風船のようにふくらみ始めたその声を押しつぶすように、乃絵美
は洗面台いっぱいに張った水に顔をつけた。
 水の冷たさが肌にしみこむ。でも、この熱はとても消えそうになかった。マラリ
アに似たこの熱病は、水なんかじゃ消せないのだ。きっと。
 そんなことを考えていると、かちゃり、と洗面所のドアが開く音がした。


          1


「あっ、……と」
 洗面所のドアを開けて、中にいた乃絵美が視界に入ったとたん、思わず正樹は声
をあげた。
「今、使ってるか。悪い」
 取り繕うようにそんなことを言ってしまう。見れば分かるだろう、と自分で苦笑
してしまった。意識しているのがバレバレだ。
「あ、……うん。ごめんね、すぐ……あけるから」
 乃絵美もすこしあわてたように、かけてあったタオルを手に取って顔を拭いた。
そして、「もういいよ」、と消え入りそうな声で言い、正樹の脇をすり抜けて、逃
げるように洗面所を出ようとする。
「乃絵美」
 思わず、正樹はその腕をつかんだ。
「…………!」
 乃絵美が、はっとしたように顔をあげる。
 不思議なくらい、細くて柔らかい腕だった。
 掌に、なめらかな弾力と感触が返ってきて、思わずどきりと正樹の胸が鳴る。
「その……な」
 言葉に詰まる。どうも勝手が違う、と正樹は思った。何を意識してやがる、と自
分で突っ込みたくなる。そんな思いを振り払うように正樹は大きく深呼吸すると、
「おはよう、──乃絵美」
 と笑った。
 乃絵美が顔をあげる。小さな唇がわずかに震えた。
 そうだ、笑ってくれよ、乃絵美。いつもみたいに、「おはよう、お兄ちゃん」っ
て言ってくれよ。それで全部チャラだ。ラインなんか踏み出してない。昨夜のこと
は、ジョークで済むじゃないか。
 けれど。
 けれど、乃絵美はきゅっと唇を結んだまま──うつむいていた。前髪が揺れる。
その瞳は、何か言いたげに潤んでいるように見えた。
「乃絵美?」
 左手で、肩を揺する。
「なんだ乃絵美、朝は『おはよう』ってちゃんと挨拶しなきゃ駄目だろ。そんな悪
い子に躾けたおぼえは……」
「……お兄ちゃん」
 茶化そうとした正樹の声は、乃絵美の小さな呟きに阻まれた。
「あ、……ん?」
「痛い……よ」
「え? あ、ああ、悪い」
 最初何のことを言っているか分からなかったが、それが自分が掴んだ右手のせい
だと言うことに気づいて、はっと正樹は手をひっこめた。いつの間にか固く握りし
めていたらしい。正樹の掌はじっとりと濡れていて、乃絵美の白い二の腕にくっき
りと赤いあとが残っている。
「悪い、つい──。痛かったか?」
 さっき「痛い」って言ったじゃないか、と自分で思いながらも、正樹はそう訊か
ずにはいれなかった。ふるふると乃絵美は首を振る。嘘だと分かっていても、どこ
かほっとする。
 気が付くと、じっと乃絵美がこっちを見ていた。
 長いまつげ。薄い唇。母さんによく似た目鼻。母さんそっくりの長い黒髪が揺れ
ている。
 乃絵美の小さな唇が上下した。
「……よ」
 え?
 なんだ、なんて言った?

「ふざけてなんか、ないよ」
 
 もう一度、小さな呟きが正樹の耳を打った。
「え?」
「昨夜のこと。わたし、ふざけてなんか──ないよ。冗談なんかであんなこと、し
ないから」
「……乃絵美?」
「先……学校行くね。お弁当、テーブルの上に置いてあるから」
 語尾はドアの閉まるパタンという音に重なった。
 その乾いた音が1メートルも離れていないのに、まるで遠くの花火のように──
くぐもって正樹の耳に届いた。


          2


(なにやってるんだろう)
 逃げるように家を出て、一歩一歩、重い足取りを進めながら、乃絵美は思った。
 きっとあのとき、無理にでも笑って、「おはよう、お兄ちゃん」とそう言うだけ
で──戻れたのだ。いつもの日常に。きっと、何事もなく。
 だけど、どうしても言えなかった。
 本当は、嘘でもそう言うつもりだった。だけど、あの瞬間──正樹の大きな手で、
強く腕を掴まれたとき。
 なにもかも、真っ白になってしまった。
 こんなに大きな手だったんだ。優しいだけだったお兄ちゃんのてのひらは、本当
はあんなにも強くて、熱かったんだ。
 その熱い掌が、乃絵美の腕を掴んだ瞬間。
 縛られてしまったような気がした。頭の中に浮かんでいたいくつもの言葉は、肌
越しにしみこむ熱に全部溶かされてしまった。
 あのとき乃絵美は、このまま正樹の手に首をしめられて、殺されてしまってもい
いとさえ思った。
 もし、そうしていてくれたら、どんなに楽だろう──?
(わたし、どうかしてる……)
 たまらない自己嫌悪に、乃絵美は鞄を胸に抱いて、きゅっと唇を噛みしめた。
 ゆっくりと坂を登る。
 冬の冷たい風が電柱の隙間を抜けて、乃絵美の髪とコートを揺らした。
 高い空。
 見慣れている何気ない景色が、今はひどく遠くに感じる。

 ──ふざけてなんかないから。

 自分の言葉がどこかで響いた。
 じゃあ本気だったの? 自問の声がする。だとしたら、異常だよ。親愛でなく恋
情の気持ちなんだったら、それは、異常だよ──。
 少なくとも、正樹はそう感じているだろう。
 乃絵美は思った。
 あのときの正樹の顔。ただ困惑と──おびえに似た表情をしていた。
 どうしてあんな顔をさせてしまったんだろう?
 笑っている正樹が好きだった。まっすぐ前を見つめて、誰よりも早く走る正樹の
横顔を、どんな宝物よりも大切に思っていたのに。
 壊してしまった。
 正樹をあんなに困らせて、苦しめて。
 笑顔を奪ってしまった。
 堰を切った心から、どんどん感情の波があふれてくる。
 遠くで、チャイムの音がした。
 あんなに早く家を出てきたのに、もう予鈴の音がする。坂の向こうに見えるエル
シアの校舎をぼんやりと眺めながら、乃絵美は思った。
 ちくり、と何かが胸を刺した。
 ハリネズミだ。
 乃絵美は思う。
 身を寄せあいたくて、けれどもその針で相手を刺し傷つけてしまう、ちっぽけな、
ショーペンハウエルのハリネズミ。
 ぬくもりを求めるほど、深く相手の肌に針を差し込む灰色の鼠。
 霧のかかったような頭で、ぼんやりとそんなことを考えながら校門をくぐる乃絵
美の耳に、どこかで「きい」、という悲しい鳴き声が響いた。

eroerojiji

小さい頃からエロいことが好き。そのまま大人になってしまったエロジジイです。