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小説(転載)  インセスタス Incest.1 クロニクル 4/4

官能小説
04 /28 2019

          10


 ─January.23 / Masaki's room─


 どさっ、とベッドに倒れ込むと、正樹は体を大の字に伸ばしてぼんやりと天井を
見上げた。
 体のふしぶしに、鈍い痛みが残っている。コンディションがいいからといって、
今日も少し飛ばしすぎてしまったようだ。
 ふと気づくと、がたがたと窓が鳴っている。どうやら、かなり強い風が吹いてい
るらしい。
(こりゃ明日は雨かな)
 どうやら、久しぶりにゆっくり体を休められそうだ。
 正樹は洗ったばかりの髪をタオルでわしゃわしゃとやりながら、足を延ばして器
用にリモコンを操作した。乾いたような笑い声が飛び込んでくる。なにかのバラエ
ティ番組らしい。
 ぼうっとブラウン管を見つめながら、正樹はなんとなく中庭での井澄の話を思い
出していた。
 “ユージニー”。
 今から100年ほど前の、ジェスリー・ラインコックというイギリスの作家が書
いた本らしい。今は英国本土でも絶版で、一部の好事家が極少に出版された稀覯本
を所有しているにすぎないという。井澄はどうやらそのひとりらしい。
『興味があるのか?』
 正樹が、本の内容を訊くと、井澄は初めて顔をあげて、正面から正樹の顔を見た。
 黒というより、ダークブラウンに近い深い瞳に見つめられ、正樹は思わず後ずさ
った。
『あ、ああ』
 正樹が言うと、井澄は無愛想に、そうか、とうなずいてまた本に視線を戻した。
 そのまま黙っている。
 数分、冬の中庭に沈黙が流れた。
 たまらずに正樹が声をかけようとしたとき──
『よくある話だ』
 と、ぽつりと井澄が呟いた。
『え?』
『よくある話だよ。世界中どこにでもある、ありふれたよくある話だ』
 本を閉じて、井澄は顔を上げた。
 それから少し考えるように校舎の方に目を向けた。
『ユージニーというのは、スコットランドのある領主の娘さ。彼女はある馬丁と恋
に堕ちる。もちろん父親の領主はそれを認めない。ふたりは引き裂かれる』
『へえ』
 正樹はうなずいた。そして少し苦笑する。身分違いの恋というやつか。どうやら
本当によくある話のようだ。 
『なるほどね』
 納得したように言う正樹を、井澄は一瞥してまた本に視線を落とした。
『ふたりが引き裂かれたのは、身分違いだからというだけじゃない』
『?』
『彼らはモラルの敵だった』
『モラル?』
 正樹は怪訝な顔をした。
 話がよく見えない方向へ流れてしまった。井澄はというと、そんな正樹の表情を
見ても何の色もその瞳に浮かべずに、抑揚のない口調で答えた。
『ユージニーとその馬丁は兄妹なんだよ』
『…………』
『その馬丁……デュアンは、領主の庶子なんだ。つまり彼らは兄妹で恋に堕ちた。
インセスト・タブーという奴だ。よくある──話だろう?』

 ──それって……おかしなこと、なのかなぁ?

 ブラウン管からどっ響いてきた笑い声に、正樹は思わず我に返った。垂れ流しに
していたバラエティ番組が、どうやら盛り上がってきたようだ。髪を掻きながらリ
モコンに手を延ばし、テレビの電源をオフにする。
 首に巻いていたタオルを掴みながら、正樹は息をついた。
(なに思い出してるんだ、俺は)
 わしわしとまだ濡れている髪を拭く。
 よくある話か。
「そりゃあ、昔話にゃよくある話だろうけどな……」
 タオル越しの視界に悟ったような井澄の顔が浮かぶ。しだいにそれがぼやけて、
あの装丁の少年と少女の形になる。
 その映像は、いつのまにかひとりの少女へと変化していった。
 生まれてきてから今までずっと、見慣れてきたひとりの少女。正樹の袖を掴んで、
上目遣いで見上げる顔。布団の中で上気した笑み。
 乃絵美。
(…………)
 頭の中を占め始めた映像を振り払うように、正樹は乱暴にタオルで髪を拭った。


          11


 ──コンコン。

 不意に、正樹の部屋のドアがノックされた。
「?」
 ドアの向こうで、小さく息を飲むような声がした。
「乃絵美か?」
 少し慌てたような声で、正樹はドアの向こうに声をかけた。別に何もやましいこ
とはないのだが、妙なタイミングに少し焦ってしまった。
「うん。ちょっと……いいかな?」
「おう、いいぞ」
 小さく咳ばらいして、正樹。
「…………」
 しかし、ノブが回される気配がない。
「どした?」
「ご、ごめん、お兄ちゃん。ドア、開けて」
 困ったような声が返ってくる。苦笑して正樹がノブを回してドアを開けると、ブ
ルーブラウンのパジャマを着た乃絵美が立っていた。
 ちょっとはにかんだような笑みを浮かべて、胸の前でカップのふたつ乗ったトレ
イを抱えている。
「お紅茶煎れたから……眠る前にどうかな、と思って」
「お、サンキュ。ちょっと待ってな」
 正樹は少し散らかった部屋の物を手際よく片づけると、壁に立てかけていた小さ
な折りたたみ式のテーブルを倒した。
「よし、いいぞ」
「うん。お邪魔します」
 どこか他人行儀にお辞儀しながら部屋に入ってくる乃絵美に、正樹は思わず苦笑
した。乃絵美も自分でおかしく思ったのか、微苦笑を浮かべながら、テーブルの前
に腰を下ろした。
 テーブルの上にトレイを置くと、ティーポットからカップにお茶を注ぐ。
 鼻の奥に抜けるような香りが、六畳間に広がった。
「はい、お兄ちゃん」
「ん」
 湯気をたてるカップを受け取り、正樹は舌をつけた。
「あ、ハーブか、これ?」
「うん、お父さんがね、出来がよければ今度お店にどうかなって。……どう?」
 そういえば伊藤父は最近庭でガーデニングの真似事を始めている。主にハーブを
栽培してるらしく、日曜趣味かと思えば商売転用を考えていたらしい。実に商魂た
くましいことだ。
「んー、結構いいんじゃないか? なんか落ちつくし」
 そう言うと、乃絵美は嬉しそうに笑って、ふうふうとカップに息を吹きかけた。
相変わらずの猫舌だ。見慣れた光景に、正樹も何だか和やかな気分になる。
(そうだよ、兄妹ってこういうもんだろう)
 正樹は思った。
 友人よりもお互いのことを知り、恋人ほど相手を意識しない。あくまで自然に、
気を許せる存在。そういう当たり前の関係。
 そんなものなんだろう。
 どこか頭の隅に井澄の言葉を引っかけながら、正樹は思った。
 そのまま、どこか自然な沈黙が部屋に流れた。
 ハーブティーを飲み終わっても、正樹は黙ったまま、ぼんやりと気だるい空気に
身をまかせていた。
 ふと見ると、乃絵美がじっと正樹の顔を見ていた。
 下唇を少し噛みながら、真剣な顔をしている。
「どした?」
「あ、う……うん」
 乃絵美は少し慌てたような顔をすると、ごまかすようにカップに口をつけた。だ
が、とっくにカップの中が空になっていることに気づいて、困ったようにうつむく。
「なんだ? 悩み事か?」
「…………」
 そう訊くと、乃絵美は小さく首を振った。
「乃絵美?」
「え、と……」
「ん?」
 乃絵美は意を決したように顔をあげると、どこかぎこちない笑みを浮かべて、
「あのね」
 と口を開いた。
「?」
「わたしなら、大丈夫だから」
「なにが?」
「お兄ちゃんの進学のこと。わたしなら、大丈夫だから。全然、心配しなくていい
から。お兄ちゃんが行きたいところに決めてね」
「…………」
「お店の方も大丈夫だよ。お父さんもいるし、そうだ、また菜織ちゃんにアルバイ
トをお願いすればいいし。うん、大丈夫」
 にこっと乃絵美は微笑んだ。
 その笑顔にどこか苦しいような感情を覚えながら、正樹はくしゃっと乃絵美の髪
を撫でた。
「ありがとな」
「……あ」
「俺、やっぱりお前に心配かけてたな。俺がなかなか答え出さなかったから、やき
もきさせちまったな」
「ううん、そんなことないよ」
 乃絵美は首を振った。
 正樹は乃絵美の髪を撫で続けながら、言った。
「乃絵美」
「……?」
「俺な」
 ごくり、と唾を飲み込む音。

「──城南に行くよ」


          12


 どくん、と乃絵美の胸が鳴った。
 分かっていたことなのに。正樹がそう答えるだろうと、誰よりも知っていたのに。
 乃絵美は胸の動悸と、肩のふるえを止められなかった。
(笑わなきゃ)
 心の隅でそう思う。
 きっとなんでもないことなんだ。
 10年20年経てば、「なんであのときはあんなに思いつめてたんだろうね」そ
う、笑って話せるようなことなんだ。
 決めたのだ。
 笑顔で送り出してあげると、そう決めたのだ。
 だから顔を上げなければ。
 顔を上げて、言わなければ。
 ──うん、頑張ってね、お兄ちゃん。
 それだけ言って、微笑んで部屋を出よう。
「乃絵美?」
「うん……」
「おい……」
「うん、がんばって……ね」
「…………」
 いつの間にか、乃絵美の頬を熱い雫がつたっていた。
 瞼からとめどなく涙が流れ落ちる。頬をつたう雫がぽたぽたと膝を濡らす。膝の
上で握りしめた小さな拳に、当たって跳ねる。
「あれ、あれ……」
 乃絵美は困ったように笑って、頬をぬぐった。
「あれ、おかしいな、なんで……」
「乃絵美……」
 何ともいえない正樹の視線を受けて、乃絵美は胸の前で手をぱたぱたと振った。
「ちがうの、これ、全然ちがうから、大丈夫だから」
「どこが、大丈夫なんだよ……」
 正樹は頭の裏に手をやりながら、困ったように言った。
「乃絵美、俺はな……」
「大丈夫だから!」
 乃絵美は小さく叫んだ。
 こんなはずじゃなかった。こんな顔だけはしたくなかったのに。気持ちよく送り
出そうと思ったのに。頭ではそう思っていても、感情の方がついて来なかった。
「ホントに……大……」
 かすれた声は何かあたたかいものに包まれた。正樹が、力強く乃絵美を抱きよせ
たのだ。むずかる子供をあやすような、優しげな手で。
 いつものように大きな手が乃絵美の髪を撫でる。
 普段なら、これで心が落ち着いた。
 こうされることで、大きな安心感を得ることができた。
 なのに。
 今は嫌だった。                   ・・・・・
 こんな風に正樹に抱きしめてもらいたくなかった。こんな兄のような、親愛しか
ない気持ちで、触れられたくなかった。
 もっと、──のように──。
「乃絵美?」
「……だから」
「え?」
「もう、平気だから」
「あ、ああ」
 正樹が困ったように腕をゆるめる。
 乃絵美は顔をあげた。
 交錯する視線。正樹の瞳の中に、目を真っ赤に泣き腫らした、自分の顔が見える。
(そっか……)
 それを見たとき、乃絵美には全てが分かってしまった。
 青年の瞳の中に映る少女は、寂しがりやの妹の姿ではなかった。ひとりの、少女
だった。相手はひとりの青年。そして、世界共通の物語は、少女は青年に──。
「おい、乃絵美?」
 どこかぼうっとした視線で自分を見る乃絵美に、正樹は小さく乃絵美の肩をゆす
った。
 乃絵美の頬を、ひとすじの涙がつたった。
 まったく違った意味の涙の雫。
 それを見て、困ったように何かを言おうとする正樹の唇を──
「!」
 乃絵美は、小さな自分の唇でふさいだ。
 触れあうだけの、子供じみたキス。だけど、それは確実に家族の、親愛のキスで
はなかった。
 それはもっと生々しい、乃絵美とは最も無縁なはずだった、女としての。
 突然のことに硬直する兄の唇に、妹の唇はいつまでも触れていた。いや、それは
一瞬だったかもしれない。永遠と思えるほどに長い一瞬。
「の……」
 我に返った正樹が、もぎ放すようにして乃絵美の体を放した。
「乃絵美、お前……」
 言いかけようとした正樹の声は、喉を通る前に消えた。
 泣いていた。
 今までの、迷子の仔犬のような泣き顔ではなかった。伊藤乃絵美という、ひとり
の少女の流した涙。
 乃絵美はうつむいたまま、踵を返した。
 バタン、とドアの閉まる音。
 打ちつけられるように鋭く、窓が鳴った。
 外の風は、いつの間にか強い雨風になっていた。


 ──Begining “Incestace”

小説(転載)  インセスタス Incest.1 クロニクル 3/4

官能小説
04 /28 2019

          7


 かちかち、とシャープペンシルを鳴らして、乃絵美は黒板の文字を書き写してい
た。数字と記号が入り交じった羅列を、ゆっくりと丁寧に板書する。授業はもう、
二分も前に終了し、教師は職員室に帰ってしまっている。
(あ、急がなきゃ……)
 乃絵美にはどうもこういうところがあって、人からのんびり屋と言われて久しい。
乃絵美にしてみれば、どうしてみな授業を聞きながら、黒板の文字を書き写すよう
な器用な芸当ができるのか不思議に思っているのだが。
 それでも、さしもののんびり屋の乃絵美も、普段は授業が終わる頃くらいにはさ
すがに書き終えてはいる。だが、今日はなぜか──いつにもまして進みは遅い。
 いつもは真剣に聞いている授業の内容も、今日はほとんど上の空だった。心ここ
にあらず、というのが自分でも分かる。
「…………」
 九割ほど書き終えると、手をやすめながら、乃絵美はちいさくため息をついた。
 シャープペンシルを形のいい顎に当てながら、ぼんやりと窓の外を見る。校庭で
は、運動部らしいジャージ姿の生徒の影がいくつか見えた。
 乃絵美は無意識に正樹の姿を探した。
 だが、まだ陸上部は練習が始まっていないらしく──校庭に正樹の姿はなかった。
 また息をつく。なぜこんなに意識してしまうのだろう。
(やっぱり……寂しいのかな)
 乃絵美は思う。
 本当は喜ぶようなことなのだ。城南大から推薦の話が来るなんて、本当に大変な
ことなのだろう。
 けれど。
 ──よかったね、お兄ちゃん。
 その一言を言うのが、とても苦しかった。昨日城南大学からの手紙を正樹に手渡
したとき──自分はどんな顔をしていただろう。笑ったつもりだったけれど、きっ
とひどい顔をしていたにちがいない。
 なんでこんなに寂しいんだろう。
 なんでこんなに胸が苦しくなるんだろう。
 ──乃絵美ちゃんは、お兄ちゃん子だものね。
 子供の頃からずっとそう言われてきた。自分でもそう思う。正樹の袖を掴んで、
その温もりを近くに感じているときが、一番安心できた。乃絵美にとって、“お兄
ちゃん”は魔法の言葉だった。乃絵美が寂しいとき、苦しいとき──その名を小さ
く呼べば、“お兄ちゃん”はいつも傍にいてくれた。乃絵美が泣きやむまで、髪を
撫でていてくれた。
 だから、乃絵美は“お兄ちゃん”が誰よりも好きだった。
 LIKEだとかLOVEだとか──そんな手垢にまみれたような言葉では区分け
できないくらいに。
(子供のときと変わらない……のかな)
 乃絵美は思った。そういえば昔、正樹に連れられて縁日に行ったことがある。初
めていった縁日は、いつも誰もいない境内から想像できないくらいに人でいっぱい
で──乃絵美は片手だけじゃ足りなくて、両手で正樹の手を掴んで、恐る恐る人混
みの中を歩いていた。
 この手のぬくもりがあるかぎり、何も心配いらないんだ、そう信じていた。
 だから、雪駄の鼻緒が切れて、つまずいてしまったとき。
 正樹の手を放してしまって、人混みの中に放り出されてしまったとき──どうし
ていいのか分からなかった。ほんの一瞬のことだったのに、まるで地面がなくなっ
てしまったように不安で、悲しくて、たまらずに涙が零れた。
(あのときと同じ気持ち……なのかな)
 よく、分からない。
 自分の気持ちが──どうしても見えてこない。
 気が付くと、シャープペンシルの柄はじっとりと汗ばんでいた。
「のーえーみー。もう消しちゃうよー、いいのー?」
 教壇の方からそんな声がして、乃絵美は我に返った。
 見ると、黒板消しを手にしたショートカットの少女が黒板の前で手を叩いている。
「あ、ごめん、ナッちゃん……」
 慌てて乃絵美は残った文字を書き写した。
 目線を上げて、「ごめんね、もういいよ」と言うと、ナッちゃんと呼ばれた少女
はやれやれという顔で手際よく黒板を消し始めた。
 消し終わり、ぱんぱんとチョークの粉を手で払うと、
「もー、どしたの? ボーッとして。まあ、乃絵美がぼけぼけーっとしてるのは今
日に始まったことじゃないけどさ」
 苦笑しながら、乃絵美の席まで歩いてきた。
 野宮夏紀。乃絵美とは中学の頃からの親友だ。楽観的で活発、乃絵美を逆にした
ような感じの性格だが、それだけに気が合うのか、ずっと仲良くやっている。病弱
で、あまり友達の多くない乃絵美にとっては頼れる存在だ。
「わ、わたし、そんなにぼけぼけしてるかな?」
「ときどき。でもここんとこはずっと」
 夏紀は言った。
 明るい口調とは逆に、表情は少し心配そうな色を浮かべている。
「どしたの、なんか……悩み事? わたしでよかったら相談に乗るよ。うん。お金
のこと以外は」
 そう言って夏紀はくすくすと笑った。
 乃絵美も、つられるように少し口元をほころばせた。
「ほら、言ってみ」
「…………」
「こーいうときは、口に出しちゃえば楽になるもんだよ?」
「……うん」
 夏紀の優しい目に視線を返して、乃絵美はちいさくうなずいた。


          8


「じゃ、ここでな」
「ああ」
 部室棟の前で冴子と別れると、正樹は陸上部の部室に入った。冴子も正樹と同じ
く、もう進路が決まっているので、この時期でも後輩の指導を兼ねてハンドボール
部の練習に参加している。
 部室内に人の姿はなかった。
 あちこちに着替えが散乱しているところを見ると、みなもうグラウンドに出てい
るのだろう。
 正樹は手早くジャージに着替えると、タオルを片手に部室を出た。
 木枯らしが頬を撫でる。
(うわ、寒いな)
 正樹は思わず身をすくめた。
 今年は暖冬という話だが、ランニングとジャージ二枚でこうして外に出ると、ど
こが暖冬なんだといいたくなる。
(うー、早くアップ始めよう)
 そう思って気持ち早足にグラウンドへ向かおうとしたとき、
「ん?」
 グラウンドに抜ける中庭のベンチに、一冊の本が置き残されているのが見えた。
 近づいてみると、ところどころ褪せた皮で装丁された、ずいぶんと古そうな本だ
った。稀覯本というやつかな、とあまり読書と縁のない正樹は思った。
 ぺらぺらとページをめくってみると、びっしりとした英活字の渦が飛び込んでく
る。
「うわ、原書だ」
 英語は不得意ではないが、あくまでも学校レベルの話だ。
 原書特有の古典英語的な言い回しや、ラテン語やスラングが混じった英文など、
日本の高校生レベルの語学力で読めるような代物ではない。
 正樹は溜息をついて、表紙に目を戻した。
 そこには、繊細なタッチで描かれた、少年と少女が寄り添って眠る絵が挿しこま
れていた。少女は、少年の胸に身を預けて、安心しきったような笑みを浮かべて眠
っている。
 いい絵だな、とぼんやり正樹は思った。
 どこか、正樹の心を惹くものがある。
 左隅に、タイトルと作者名らしきものが筆記体で書かれていた。
 EUJINEE。
 そう書かれている。
「エウ……なんだ?」
 正樹が目を細めると、
「ユージニーだ」
 背後で声がした。
「うわっ」
 振り返ると、いつの間にかひとりの生徒が、缶コーヒーを片手に正樹の背後に立
っていた。美形といっていいくらいの整った顔立ちだが、目尻がするどく切れてい
る。わずかにウェーブのかかった髪が、風で揺れていた。
 顔みしりの生徒だったため、正樹は少しほっとした。
「なんだ、イズミか。驚かすなよ」
 笑いかける正樹に、男子生徒はふんと言いたげな顔つきで、正樹の手から本を受
け取った。
 井澄。下の名前は知らない。正樹のクラスメートで、たしか図書委員だか何だか
をやっている。成績はいつも学年順位一桁台をキープしている秀才で、顔もいいの
に、とことん無愛想な性格がわざわいしてか、異性にも同性にも、友人はまったく
といっていいほどいない。
 こうやって人懐っこいところのある正樹が、たまに声をかけるくらいだ。そうい
うときは、無愛想なりに、井澄も会話を返してくる。
 そのせいか、周囲から正樹は井澄の友人だと思われているのだが、さほどに仲が
いいわけではない。なにしろ、下の名前すら知らないのだ。
「お前、いつもそんなの読んでるのか?」
 正樹は訊いた。
 そんなの、というのは本の内容ではなく、原書、ということだ。
「仕方がない」
「え?」
「ラインコックは日本では訳出されていない。向こうでも絶版だ。だから仕方がな
い」
「ああ」
 正樹はうなずいた。
 ラインコックってのはなんだろうと思ったが、ふと考えて、ああこの本を書いた
やつの名前だな、と直感した。
「…………」
 じろ、と井澄は正樹を見た。
 思わず、正樹はたじろいだ。
「な、なんだ?」
「影になっている」
 呟くように井澄は言った。
 ああ、と正樹は気が付いた。正樹の体が、太陽の光をさえぎっているのだ。しか
し他にも言い方があるだろう、と苦笑しながら、正樹は体をずらした。
 井澄は正樹などそこにいないかのように、ぱらぱらとページをめくりはじめた。
 そのまま、黙々と読み始める。
 正樹はぽりぽりと頭を掻きながら、
「んじゃ、俺練習だから。邪魔したな」
 そう言った。
「ああ」
 面白くもなさそうに、井澄がうなずいた。目線は本の方を向いている。
 正樹はそのまま踵を返して、校庭の方に向かって歩き始めた。
 ふと気になって、足を止めて振り返る。なんとなく、あの本が気になっていた。
というより、あの繊細な挿画が、正樹の気をひいた。どういう物語なのだろう。あ
の少年と少女は、あの本の中でどういう運命を紡いでいるのだろう。
「なあ、井澄」
 そう呼びかけると、井澄は無言のまま、鬱陶しそうに「なんだ」という顔をした。
「その本さ──どういう、話なんだ?」
 井澄は本に目を落としてから、視線を正樹に戻した。
 相変わらず無愛想な声で、
「よくある話だ」
 と言った。
 それから少し考えるように、校舎の方に目を向けると、言った。
「兄と妹が恋に堕ちる──じっさい、よくある話だ」


          9


「なるほど、それで、お兄ちゃん子な乃絵美ちゃんとしては、お兄ちゃんが遠くに
行っちゃうのが、寂しいよー、ってわけだ」
「そう……なのかな」
 乃絵美は上目遣いで夏紀を見やった。
「乃絵美の話を総合するとさ、そういうことじゃない。まあ、ずっと一緒に暮らし
てきた人がある日突然いなくなっちゃったら、気も沈むわよ」
「ナッちゃんも、そう?」
 乃絵美は訊いた。夏紀にも、二歳上の兄がいると聞いている。
 夏紀はんー、と椅子をかたむけて、足をぶらぶらとさせると、
「あたしだったら、家が広くなって喜んじゃうけどなあ。アニキが出てくっていう
なら、どーぞどーぞ、って感じかな」
 と笑った。
「そんなもの?」
「兄妹なんてそんないいもんじゃないって。乃絵美のところはね、はっきりいって
特殊よ、特殊」
 特殊。
 その言葉に、乃絵美はぴく、と肩を震わせた。
 ──でも、クラスのみんなは、兄妹であんなに仲がいいのは、おかしいっていう
よ?
 やっぱり。
 やっぱりわたし、へんなのかな。
 乃絵美の小さな動揺をよそに、夏紀は続けた。
「最近は寂しいかもしれないけど、時間が経てば慣れちゃうよ、きっと。なにも一
生会えなくなるわけでもないんだし」
「そう──だよね?」
「それにさ、乃絵美にはピンとこないかもしれないけど、城南から推薦の話が来る
なんて、ホントすごいことなのよ? 先生たちの間ではちょっとしたお祭りさわぎ
になってるみたいだし。陸上部の田山なんてさー、もう鼻高々だよ。“私が伊藤を
育てたんです”って顔して。あはは、先輩かわいそー」
 夏紀の言葉に、くす、と乃絵美は笑った。
(やっぱり、すごいことなんだ)
 乃絵美は思う。
 先生たちがそうやって騒ぐくらい、お兄ちゃんにとってはすごいチャンスなんだ。
それをわたしのせいで──邪魔しちゃ駄目なんだ。わたしが暗い顔していたら、お
兄ちゃんの決心が鈍っちゃうかもしれない。
 それが、乃絵美にとっては何より嫌だった。
 病弱だった自分は──ずっと正樹に頼りきりだったと思う。もしかすると、枷に
なっていたのかもしれない。
 だから。
 だから、正樹におとずれたこの転機のときに──自分が足を引っぱっちゃいけな
い。
 乃絵美は思った。
(うん)
 乃絵美は、小さくてのひらを握りしめて、うなずいた。
 笑っていよう。後は正樹が決める。正樹が城南を選んだら、乃絵美は笑って、
「心配いらないよ。わたしなら大丈夫」元気にそう言おう。
 笑顔で、送り出してあげよう。
「ん?」
 夏紀が、乃絵美の顔を覗き込むようにして、訊いた。
「なに? ふっきれた?」
「……うん。やっぱり、ナッちゃんに話聞いてもらって、よかった」
 まだちょっと固さを残していたけれど、乃絵美は明るくそう言った。
「そうだよね。お兄ちゃんの問題なんだもん。お兄ちゃんが決めたことなら──ど
んなことになっても、わたし、がんばれると思う」
 乃絵美の言葉に、夏紀は、おーおー、とにっこり笑った。
「えらい、それでこそ妹の鑑」
 頭を撫でる。
「く、くすぐったいよ」
 肩をすくめながら、乃絵美も笑った。
(うん、笑わなきゃ)
 そう思いながら、──ちいさく目を細めた。

小説(転載)  インセスタス Incest.1 クロニクル 2/4

官能小説
04 /28 2019

          4


 ─January.23 / St.elsia Hichschool ─


「まーさきくーん、もう下校時間だよー」
 今日も一日、窓側の一番後ろという最高のロケーションで惰眠をむさぼっていた
正樹の耳元で、仔犬のように脳天気な声がした。
「まだおっきしないのかなー? おっきしないとくりくりしちゃうぞー。それ、く
りくりくりぃ……」
「ぶわっ」
 突然、右の耳に何か柔らかいものを差し込まれて、正樹はがばっと跳ね起きた。
「あっははー、ね、一発でしょ。ミャーコちゃん必殺、“寝起きのためにその1”
ナリ」
 まだ目をぱちぱちとさせていた正樹の視線の前に、自分のブラウスの裾をエンピ
ツのように細くした美亜子が、にゃはは、と屈託のない顔で笑っていた。
「ミャーコちゃん、心臓に悪いよ……」
「にゃはは、ごめんねー」
「ったく、ガキっぽいことばっかするなよな」
 美亜子の後ろで、冴子が活発そうなショートカットに手をやりながら、美亜子の
頭をちょんと小突いた。
 あうっ、と美亜子が頭を抱える。
「ま、グータラ君にはいい薬よね」
 いつの間にやら正樹の隣の机の腰をかけた菜織が、半分開いた窓から吹き込む風
に、シャギーの入った髪を揺らせながら、苦笑気味に言った。
「なんだお前ら、人が気持ちよく寝てるっつうのに……」
 正樹、菜織、美亜子、冴子。4人とも去年同じクラスになってからの仲の良いグ
ループだった。特に菜織とは、半ズボンの頃からの幼なじみで、腐れ縁というやつ
である。この時期受験やらなにやらで本来3年生はてんてこまいなのだが、皆早い
時期に進路が決まっているので、4人ともどこ吹く風という感じであった。
「それになんだよ、グータラって。俺は朝も夕方も練習練習でヘトヘトなの」
「もう大会もないのに?」
 くすくすと菜織が笑った。
 冴子も苦笑して、
「しっかし大会終わってからエンジンかかってどうするんだよお前。相変わらずピ
ーク調整の下手なヤツ」
「うるさい。俺は記録のために走ってるんじゃないんだよ」
「ほー。じゃ、なんのためだよ?」
「“愛”のため、だよねー。陸上に対する飽くなき愛! わーいマーくん、カッコ
いー!」
 茶化すように美亜子が笑った。
 へ? と場の空気が脱力する。
 美亜子はムードメーカーとしては最高の存在だが、ときどき妙な方向へ暴走する
のが玉に瑕だなあ、と正樹はこういうとき実感する。
 それにいつから俺はマーくんになったのだ。
「適当なことゆーな。なにが愛だよ、恥ずかしい」
 少し耳を赤くして、ごつ、と冴子が美亜子を小突いた。
「いたーい」
 また美亜子が頭を抱えた。
 そんなふたりを見ながら、正樹と菜織は顔を見合わせて笑った。
(この光景もそろそろ見納めかな)
 と思うと、妙に名残惜しい気もする。
「あ、そうだ」
 ふと、菜織が何かを思いだしたように、ぽん、と両手を合わせた。
「ね、正樹、真奈美から手紙来た?」
「ああ、来たぞ。お前のトコにも来たか?」
「当然じゃないの。ね、中身読んだ?」
「読んだ読んだ。次の夏だってな。もう半年もないよ」
「え、なになになに? 真奈美ちゃんの手紙がどーしたの?」
 興味津々、という顔で美亜子が言った。
 好奇心で目をきらきらさせている。
「今度の夏にね、真奈美、日本に帰って来れるみたい」
「へー、ホントか? こっちに戻ってくるのか?」
 冴子が口元をほころばせながら訊いた。
「少しの間なのかずっとなのか、ってのはまだ分からないみたいだけどさ、もしか
したら親父さんの転勤がもう終わるかも、って書いてあったぜ」
「へえー」
「わーい。じゃあじゃあ、またみんなで遊べるねえ」
 心底嬉しそうに美亜子が言った。
「そうだ、今度の夏なんだったら、7月に横須賀の方に新しいテーマパークがオー
プンするんだよ。ねね、そこ行こうよー」
 美亜子らしく、もう遊びの算段を立てている。気が早いっての、と隣で冴子が苦
笑した。
「そうよミャーコ、だいたい卒業式だってまだじゃないの」
「えー、善はいそげだよー。もう皆進路決まってるんだし、じゃ下見行こうよー」
「ばーか。建設中のテーマパークみて何が楽しいんだ」
 菜織たちの言葉に、ぶー、と美亜子が頬をふくらませた。
「そっか、お前ら桜美に推薦決まったんだよな」
「ああ。あたいはスポーツ推薦、菜織は学校推薦だけどな」
 正樹たちの地元の桜美大学は、レベルもそこそこ、スポーツも県内ではかなりの
名門で知られている。なにより自宅から歩いて通える距離、というのがいい。
「ミャーコちゃんは専門学校だっけ?」
「うん。服飾だよー。デザイナー目指してるのだ」
 桜美駅前にも分校がある、大手の服飾専門学校だ。桜美大は駅から歩いて5分の
ところにあるから、ほとんど隣同士といっていい。
「ま、結局メンバーは変わらないってことだな。腐れ縁もここまで来ると相当だよ」
 冴子が笑った。
(そっか、やっぱみんな桜美なんだよな)
 頬杖をつきながら、ぼんやりと正樹は思った。ん? と冴子が怪訝な顔をする。
「なんだよ、お前も桜美から話来てるんだろ? もう決めたんじゃなかったのか?
地元だから便利だとか言ってたじゃないか」
「ああ」
 最後の大会の少し前くらいから、県内、県外から正樹のところにはスポーツ推薦
の話はいくつも舞い込んできた。その中にはもちろん地元の桜美大の名前もあった。
大学に入っても陸上を続けられるのは願ってもない話だったから、推薦を受けるこ
とは正樹は早くから決めていた。
 それなら、地元の桜美大が一番いい。そう思っていたのだが──。
「んじゃ、そろそろ書類とか、手続きしないとヤバイんじゃないのか? 陸上の方
はよく分からないけどさ。もう2月になっちまうぞ」
「んー、まあ、桜美には週末までには返事することになってる」
「早めにしとけよ」
「ああ……」
 そう言いながら、正樹はちらっと菜織の方を見た。菜織はちょっと複雑な視線を
返した。
「なんだよ、煮え切らない返事だな」
「いやさ、……」
「ん?」
 正樹は一拍置いて、
「城南からも──話、来てるんだ」
 と、言った。
 へ、と冴子は一瞬ぽかんと口を開けて、
「なにいいい~!」
 素っ頓狂な声をあげた。
「城南? 城南ってあの城南か? 八王子の?」
「ああ」
「え、なになに、それってすごいの?」
 好奇心を全身から発散させて、美亜子が身を乗り出した。
「すごいもなにも、陸上の名門中の名門だよ、あそこは。あたいだって知ってるく
らいだ。国際強化選手なんてごまんといるし、オリンピック選手だって何人も出し
てるぞ」
 お前、そんなにすごいヤツだったのか、と冴子は感心したように言った。
「んー、けっこう前から電話とか来ててさ。──昨日、書類が送られてきた」
「全然知らなかったよ、なんだよ、水くさいな。菜織は知ってたのか?」
「うん。ちょっと──話はね」
 少し寂しそうな口調で、菜織は答えた。
「なんだよ、菜織には教えて、あたいたちには教えてくれなかったのかよ。友達甲
斐のないヤツだなー」
「ちっちっち、無駄よサエ。このふたりにはあたしたち新入りがおよびもつかない、
ふかぁーい絆があるのですヨ」
 口では茶化しながらも、美亜子もちょっと不満そうな表情をしていた。
 てっきりふたりとも、正樹は桜美に行くものだとばかり思っていたから、突然出
てきた対抗馬に驚いているのだろう。正樹が桜美大に行かないかもしれない、とい
うことより、なぜその対抗馬のことを教えてくれなかったのか、ということを詰問
しているような表情だった。
「なーに言ってんの。ま、コイツもいろいろ複雑みたいだったし、あんまり話広げ
ても、って思ったからさ。……でも正樹、そろそろ答え出さないと。いつまでも考
えてたって、先進まないよ」
「まあ、そうなんだけどな」
「橋本先輩もさ、誘ってくれてるんでしょ?」
「ああ」
 正樹の1年上で、去年卒業した陸上部の前キャプテン、橋本まさしは、スポーツ
推薦で桜美大に入り、かなりの有望株で、大学の競技会でも好成績をおさめている
らしい。この前電話をもらったとき、声がはずんでいた。桜美の陸上部で充実して
いるのだろうし、正樹が来るかもしれないということで、楽しみにもしているのだ
ろう。
(きっと、桜美に行けばのびのびやれるだろうな)
 正樹は思う。
 対して、城南の陸上部はとことんリベラルでありながら、徹底的な競争社会だと
聞いている。自大の陸上部の中で完全な競争社会が確立し、ついてこれない人間は
容赦なく脱落していく、という話だ。よくもわるくもシビアなのだろう、だからこ
そ、名門の上に立つ名門でいられるのだろうが。
「それに、城南に行くとなると、八王子だろ? 寮にしろひとり暮らしするにしろ
──家を空けなきゃならなくなるからな……」
 そう言いながら、正樹は昨日、乃絵美から城南大学からの手紙を受け取ったとき
のことを、ふと思い出した。


          5


『乃絵美? どした、新聞──来てなかったか?』
『あ、ううん……はい、これ』
 乃絵美は慌てて、抱えていた新聞を正樹に差し出した。
『サンキュ。どれどれ……江藤G確定か? なになに……』
 スポーツ欄に目をやる正樹をじっ、と見つめながら、乃絵美は薄い下唇をきゅっ
と噛んだ。その視線に気づいた正樹が、ん? と顔をあげた。
『どした?』
『あ……なんでも、ない』
 取り繕うように、乃絵美はぱたぱたと胸のあたりで手を振った。
『あ、ほら、お兄ちゃん、真奈美ちゃんから、手紙が来てたよ』
 笑顔を作って、乃絵美は真奈美の送ったブルーの封筒を正樹に渡した。後ろ手で、
城南大学の白い封筒を握ったまま。
(どうしよう)
 そのまま、乃絵美は固まったように動けなくなった。
 気軽に、真奈美の手紙と一緒に渡せばよかった。だけど左手は──石のように固
くて、重くて、どうしても動かせなかった。
『ホントか? 先週来たばっかりなのに、真奈美ちゃん筆まめだなあ。なんかいい
ことでもあったのかな?』
 口元をほころばせながら、真奈美の手紙を受け取ると、正樹はサイドテーブルの
引き出しを開けて、ごそごそと中を探った。
『どれどれっと……ありゃ、乃絵美、ペーパーナイフってどこしまったっけ?』
『…………』
『おーい、あれ? ハサミもないぞ』
『…………』
『乃絵美?』
『…………』
『おい、乃絵美?』
『あ……』
 その声で、乃絵美ははっと我に返った。
 後ろ手に掴んだ封筒に、いつの間にか力が入っていた。
『どうした? なんかちょっとおかしいぞ? 調子悪いか?』
『あ、ううん』
 ぎこちない微笑を返しながら、乃絵美。
『そうか?』
『あ、ペーパーナイフなら、今朝お父さんが使ってたから、テレビのところのテー
ブルの上にあるんじゃない……かな』
 そっか、と正樹はテレビの方に移動して、お、あったあった、と声をあげた。そ
のまま、ペーパーナイフで器用に封筒を開けている。
(…………)
 乃絵美は唇を噛んだ。
 このまま黙っていようか──ふと、そんなことを思った。
 今週末まで黙っていれば。
 そうしたら……。
『…………』
 駄目だ。
 そんなこと、できるはずがない。
 乃絵美にはよく分からなかったが──正樹にとってみれば、今度の話は2度とな
い、本当に大きなチャンスなのだろう。
 自分ひとりの我が儘で──それを潰していいはずがない。
(言わなきゃ)
 手紙が来てるよ。
 一言そう言えばいい。後は正樹が決める。桜美大を選ぶにせよ、城南大を選ぶに
せよ、正樹自身の問題なのだ、これは。
 乃絵美は、深呼吸をした。
 そして精一杯の笑顔を作って──言った。
『お兄ちゃん、もう一通、手紙が来てるよ』


          6


 あのときの乃絵美は、なんともいえない表情をしていた。
 頬杖をつきながら、ぼんやりと正樹は思った。
 ひとりきりで置き去りにされて、どうしてよいのか分からない、迷子の仔犬のよ
うな表情。子供の頃行った縁日で、ふとしたことで連れていた乃絵美の手を離して
しまったときも──あんな顔をしていた。
「…………」
 ふう、と正樹は息をついた。
 早くに母親を亡くした乃絵美が、人一倍孤独に敏感だということは、誰よりも正
樹がよく知っている。実際のところ、兄妹なんて関係は本当はもっとドライなもの
だと思う。だがそれは、父親、母親、兄あるいは姉──愛情の対象が多くあり、兄
妹というのはそのつながりのひとつにすぎないからだ。
 けれど──乃絵美の糸は二本しかなかった。父親か、正樹か、その二本しか。
 正樹が東京へ行けば、また一本、糸が減ってしまう。
(まあ、もう寂しがるような齢でもないだろうけどな……)
 そう思いながらも、昨日の乃絵美の表情が、どうも頭から離れない。
「正樹?」
 傍らの菜織が怪訝そうな声をあげた。
「ん、ああ?」
 その声で正樹は我に返った。いつの間にか考え込んでいたらしい。
「どったの、黄昏ちゃってるよー」
 にゃっはは、と美亜子が笑った。正樹も、わるい、と苦笑を返した。
「まあ、あんまり考えすぎないことよ。自分が一番やりたい道を選べばいいんだし
……要はフィーリングじゃない? 案外パッと決めちゃった方がいい結果になるわ
よ」
 菜織の言葉に、そうだよな、と冴子が同意するようにうなずき、
「でも、城南を蹴るってのも、贅沢な話だぜ」
 そう付け加えた。
「そうだな……」
 正樹はうなずいた。行きたくて行けるところではない。城南に入りたくても入れ
ない選手だって、いくらでもいるのだ。
「……まあ、もうちょっと、ギリギリまで考えてみるよ」
「ああ、そうしな」
 正樹がそう言うと、菜織も冴子も少し伏し目がちにうなずいた。
 その選択によっては、正樹は桜美を出ていくことになる。いつかはこの居心地の
いい関係も、時間とともに疎遠になっていく。そうとは分かっていても、やはり寂
しさはぬぐえないものがある。
 そのまま、4人ともなんとなく黙ったまま、窓から吹き込む風に、制服を揺らし
た。長いようで短い3年間というが、本当にそうだった。その3年間が、もうすぐ
終わろうとしている。
 ずっと続くかと思っていた日常は、こうやってゆっくりと、あるいは唐突に──
変化を迎えるのだろう。
(もう2月か……)
 3年前の2月、自分は何をしていただろう、と正樹は思った。
 菜織と一緒に駄目もとでSt.エルシア学園を受験して、二人とも何とか合格し
て……乃絵美は自分のことのように喜んでいた。大人しい顔に決意をこめて、「わ
たしも頑張るね」と言っていた。
 来年の2月はどうしているだろう?
 正樹は思った。
 きっと走っているだろう。それだけは分かる。

 そして──誰が傍にいてくれるのだろう?

小説(転載)  インセスタス Incest.1 クロニクル 1/4

官能小説
04 /28 2019
一旦このカテゴリにしておく。保存したのは2001年。20年近く放おっておいた。すぐ読まずにいたのは、ちょっとめんどくさそうだと思ったからかもしれない。

Prologue



 ……。
 …………。


「こほっ、こほっ」
「どうした? 大丈夫か、胸、苦しいか?」
「うん……。こほっ、だいじょうぶ……」
「本当か? 顔青いぞ。今、親父に電話してくるから──」
「平気だよ、おにいちゃん。だいじょうぶ……」
「平気ったって……」
「おにいちゃん、それより早くしないと約束の時間、遅れちゃうよ」
「ばか。そんなこと言ってる場合じゃないだろ。ほらベッドに戻るぞ。歩けるか?」
「あ……うん」
「階段、気をつけろ」
「うん……」
「ほらっ……」



「……おにいちゃん」
「ん?」
「……ごめんね」
「なにが?」
「……今日、みんなと出かける約束だったって……」
「ばーか」
「……あっ」
「いいんだよ。お前はそんなこと気にしなくて。お前をほったらかして遊びに行っ
たって、心配で手につかないよ」
「…………」
「いいから、少し寝ろよ。もうすぐ親父も帰ってくるし」
「……うん」
「な?」
「…………」
「…………」
「……おにいちゃん」
「ん?」
「……ごめんね」
「……ばーか」



「少しは熱……さがったかな」
「おにいちゃんのおでこ……冷たいね」
「そうか?」
「……うん」
「…………」
「…………」
「また、笑われちゃうな」
「ん? 誰にだ?」
「クラスのみんな。わたし、いつもおにいちゃんに甘えてるから、って……」
「なんだ、兄妹なんだから、笑うことないのにな」
「……でも、クラスのみんなは、兄妹であんなに仲がいいのは、おかしいっていう
よ?」
「おかしくないだろう。普通だよ」
「そう……だよね」
「ああ」
「兄妹なのに、なかよくしちゃいけないなんて、変だよね」
「ああ、変だ。クラスのやつらの方が変だよ」
「でもみんな、おかしいっていうの。兄妹でけっこんしちゃいけないんだぞー、と
か」
「そりゃ、結婚はできないけどさ」
「……わたし、おにいちゃんのお嫁さんになりたいのに」
「…………」
「…………」
「……おにいちゃん」
「ん?」
「……それって……」
「…………」



「それって……おかしなこと、なのかなぁ?」


 …………。
 ……。

 ……Its a chonicle.





Incest.1 クロニクル



          1


 本当に大切なことは、いつも言えないで終わる。
 口にしてしまったら、とたんに色褪せて──空気の中に溶けてしまうんじゃない
か。
 そんな気がする。
 だから、言わない。大切な気持ちは、本当の想いは、そっとしまっておこう。
 胸の奥の、いちばん深いところに、そっと。
 ずっと、そう思っていた。

 ……ずっと。



 ─January.22 / Living─


「お兄ちゃーん」
 とんとん、とんとん、と乃絵美は正樹の部屋のドアを、軽く二度、ノックした。
 一階のダイニングの方から、香ばしい匂いがする。昼食の支度はもうできている
のだ。
「んー?」
 部屋の中から、気の抜けた声が帰ってくる。
「お兄ちゃん、ご飯できたよ」
「あぁ……もうそんな時間か」
 正樹の声の語尾は、ふああ、という欠伸にかき消された。
(しょうがないなあ)
 くすっ、と乃絵美は笑った。
「早くしないとのびちゃうよ。パスタ茹でたんだよ」
「んー、起きる……」
 もぞもぞと音がする。
 どうやら、ベッドから這い出てきているようだ。
 うん、早くね、ともう一度声をかけて、乃絵美は軽い足音をたてながらとんとん
と階段を降りた。
 ダイニングに降りて、網にあげていたパスタにさっとオリーブオイルとバジリコ
をまぶす。コンロにかけていたままの鍋を止めて、温めていたクリームソースを小
指の先でちょっと嘗めてみる。
(うん、ちょうどいいかな)
 ソースをパスタにからめている間、空いたコンロで紅茶用の湯を沸かす。
 普段はのんびり屋だと人にも言われている乃絵美も、こと料理に関する手際はい
い。
 机の上にパスタとサラダ、ミルクの入ったマグカップを並べ終える頃には──寝
癖まじりの頭をぽりぽりとやりながら、欠伸をかみ殺した正樹がリビングに降りて
くる。
 何千回とくり返されてきた日常だ。
「おはよ……ふあぁ」
「お兄ちゃん寝癖──ぴこぴこしてるよ?」
「ん……あ、ホントだ」
 ぺたぺたと頭に手をやりながら洗面所に向かう正樹の背中を見ながら、乃絵美は
もう一度、くすっと口元をほころばせた。


          2


「ん、美味いなぁ、これ」
「ホント?」
 兄妹テーブルに向かい合いながらもくもくとパスタを食べていると、ようやく眠
気が晴れてきたのか、正樹がぽつっと言った。
「ああ、濃いめでさ。好きだなこういう味」
「よかった。お母さんのノートには、ホワイトソース作るときは牛乳を使うんだけ
ど、今日は生クリームを多くしてみたの」
「へえ、研究してるんだな」
 ずるずる、と正樹はパスタをすすりながら答えた。
 母親がいなくなってから、もうどれだけ経つだろう。まだあのときは乃絵美は赤
いランドセルを背負っていて──目を真っ赤に泣き腫らしながら、正樹の袖を握っ
て立ちつくしていた。
 ずっと泣き続けていた。
 このまま泣きやまずに、体中の涙を枯らして痩せ細って死んでしまうんじゃない
か──父親も正樹も、自分の受けたショックはそっちのけで、乃絵美のことを心配
した。
 だけど、母親の遺品の中から、何つづりもの色褪せた大学ノートを見つけてから、
乃絵美はちょっとだけ変わった。
 母さんの遺した料理ノート。
 どのページにも、どのページにも、優しい丁寧な字でたくさんの料理のレシピが
書き付けてある。
 ──これからは、あなたががんばらなきゃね。
 母さんに、そう笑いかけられてるような気がしたのか、ようやく乃絵美は泣くの
をやめた。
「これから、わたしがお料理、がんばるから」
 リビングで、小さな胸いっぱいにノートを抱えた乃絵美が宣言したとき、まだ両
目は赤かったが、もう涙はなかった。炊事台にも満足に手の届かない乃絵美が、伊
藤家の家事を取り仕切るようになったのは、そのときが最初だった。
(人に歴史あり、だよなぁ)
 あのときの乃絵美の真剣な表情を思い出すと、正樹は今でも口元がほころんでし
まう。
「でも、カロリーの方も大丈夫だよ。ここのところお魚が続いたから」
「ああ、そのあたりは信頼してるから」
 スプーンの中でパスタをくりくりしながら正樹は答えた。
 正樹は県下でも有数のスプリンターだ。スプリントというのは非常にデリケート
な分野で、ベストの体重から1キロ重くても軽くても、コンマ単位のタイムになっ
て返ってくる。だからコンディション管理というのはなにより大事なのだが、もと
もといいかげんなところのある正樹は、そのあたりは全て乃絵美にまかせきりだ。
「もうどのくらいになったんだ、ノート?」
「ううんと、11冊め、かな」
「お、大台だな」
 乃絵美は、最近では母親の遺したノートをなぞるだけではなく、自分でいろいろ
研究したりして、どんどんと新しいページを埋めていっている。熱心だなあ、と正
樹が笑うと、
 ──食べてくれる人がいるから。
 と、ちょっと恥ずかしそうな笑みを乃絵美は浮かべた。
 そんなこんなで、最初は6冊だった料理ノートは、今や二桁の大台に乗っている
というわけだ。
「まあ、乃絵美には感謝しなきゃな」
 食事が終わって、乃絵美の煎れてくれた紅茶を飲みながら正樹は言った。
「?」
「最近は体が軽いし、キレ、っていうのか? そんなのがすごくいい感じだよ。毎
日乃絵美が美味いもの食わせてくれるおかげだな」
「えへへ」
 照れくさそうに微笑む。
「あーあ、もう一度大会があったらなぁ。今のコンディションならコンマ3秒くら
い縮められそうな気がするんだけどな」
「お兄ちゃん、昔から大事なときは風邪ひいたりお腹痛くなったりするもんね」
 くすくすと乃絵美は笑った。
 正樹も苦笑する。どうも正樹は基本的に運のめぐりが悪く生まれついているらし
く、ピークの下降線で大会を迎えたりすることがしばしばだ。自己管理が下手だと
いえばそれまでだが。
「それでも大会記録まであとちょっとなんだから、やっぱりお兄ちゃんってすごい
なぁ」
 それでも、素直な乃絵美は変に感心してしまうらしい。
 正樹ももう3年の冬を終え、高校での公式戦は全て終わった。大学に入っても陸
上を続けるとしても、高校時代の夏は、もう帰ってこない。ときどき、ひどく寂し
くなるときがある。
 あれだけグラウンドで汗を流してきたのに、走り足りない、という気がどこかで
する。
 感傷なのだろう。意外に自分はセンチメンタルな奴だと、正樹は苦笑した。
「ん」
 マグカップを傾けながら、正樹はテーブルの上をきょろきょろと見回した。
 新聞がない。昨日の練習はかなりオーバーペースで、帰ってすぐ泥のように眠っ
てしまったから、この時期ペナントよりも激化するFA合戦の経過が分からない。
正樹としては贔屓にしている某スラッガーの去就が気になるところなのだ。
「乃絵美、新聞は? 親父が店の方に持ってったか?」
「ううん、お父さんは朝早くに出かけたけど……あ、まだ取ってなかった」
「ん、そうか」
 といって立ちあがろうとする正樹を、
「あ、わたしが取ってくるから。お兄ちゃんはゆっくりしてていいよ」
 と、乃絵美は押しとどめた。
「そうか?」
「うん。ちょっと待ってて」
 ぱたぱたとスリッパの音を立てて、乃絵美はリビングを出た。


          3


 1月も半ばをすぎ、冬の太陽はかすかにぬくもりを取り戻そうとしていた。
 けれど、吹き抜ける風はまだ肌に冷たく──ドアを開けたとたん、身を切る寒さ
に乃絵美は思わず肩をすくめた。
 一番手前にあった正樹の靴をつっかけながら、
(新聞、新聞……)
 と、ケンケンをするような足どりで乃絵美はポストに辿り着いた。
 ポストの中身は思いの外内容物で溢れていた。
 新聞が二誌。ダイレクトメールが3通。自治会の連絡紙。ごたごたと入っている。
 それらひとつひとつを丁寧に取り出しながら、乃絵美は一番奥に二つの封筒が残
っているのに気づいた。
(誰からだろう?)
 封筒を取り出してみると、上にあった封筒の方は赤と青のストライプで縁どられ
て、右斜め上に、
 AIR MAIL
 と綺麗な英字で書かれている。
(あ、真奈美ちゃんからだ)
 思わず乃絵美の口元がほころんだ。
 真奈美は、正樹の古い幼なじみで、父親の関係でずっとミャンマーで生活してい
る。去年仕事の都合で一度日本に戻ってきたが、またすぐに再転勤が決まってミャ
ンマーに帰った。それからは、ふた月に三度くらいの感覚で正樹やもうひとりの幼
なじみ、菜織と手紙のやりとりをしている。
 乃絵美にとっても、優しいお姉さんのような存在だ。
(お兄ちゃん、喜ぶだろうな)
 そう思いながらそれを抱えた新聞の上に重ねると、乃絵美は次の封筒に目を通し
た。
 官製品のような四隅の折り目正しい、きっちりとした白の封筒だった。
 伊藤正樹様
 達筆な楷書で、そう書かれている。
(誰からだろう)
 どこか後ろめたい気持ちになりながらも、乃絵美は少し嫌な予感にとらわれた。
恐る恐る封筒を裏返してみる。
 そこには、表と同じように丁寧な楷書で、

 城南大学 陸上部常任顧問 片桐隆史

 そう書かれていた。
「…………」
 乃絵美の手が、小さく震えた。 

eroerojiji

小さい頃からエロいことが好き。そのまま大人になってしまったエロジジイです。