掲載サイト「母親の香り 息子の匂い」は消滅。
私と妻がつきあい始めてから、つまり妻が大学に入学してから、 妻が実家に帰省したことは1度もない。 不思議に思って何度か尋ねてみたことはあるのだが、 妻が答えを返してくれたことは1度もなかった。 いつも悲しそうな顔をして視線を逸らせた。 やがて、私も意識的にその話題には触れないようになった。「『おめでとうございます』って言われちゃった・・・」
恥ずかしそうに報告してくれた。 私たちがつきあい始めてから6年目のできごとである。 「いずれは結婚するのだろうなぁ」と漠然と考えていた私たちに「きっかけ」ができた。 妻が妊娠したのである。
「いよいよ結婚だな・・・」
感慨深かった。 私には妻しかいないと思っていたし、おそらく妻も同じ気持ちだっただろう。
「産んでもいいの・・・?」
妻はまだ早いと思っていたのだろうか。
「もちろんだよ。結婚して一緒に育てよう。」
妻は笑顔のまま涙を流した。 妻の涙を見て嬉しかったのはこのときだけである。 晴れ晴れとした気持だった。 この結婚が「できちゃった結婚」だろうがなんだろうが関係なかった。 とにかく、私は両親に報告して、妻を紹介した。 幸い私の両親は妻を歓迎してくれた。 妻も両親と普通に会話をしていた。 笑顔を見せながらも、瞳が笑っていなかったところをみると、妻も妻なりに頑張ってくれたのだろう。 普通の女の子を演じるのに必死で、笑う余裕などなかったというのが本当のところだと思われた。 問題は妻の両親だった。
「うちはいいから・・・」
妻はかたくなに私が両親と会うのを拒んだ。 私が知る限り、妻は高校を卒業してから両親に会っていない。 おそらく電話もしていない。 その間に引っ越しをしていることを考えると、 妻の両親は妻が今どこに住んでいるのかも知らないのだろう。
「ダメだよ。会わないと結婚できないよ。」
私はいろんな意味でケジメをつけておきたかった。 もちろん妻の両親に対しても挨拶をしなければならないと思っていたし、 私と妻との関係においても両親の存在をうやむやにしておくべきではないと考えていた。
「今度の日曜日に帰るって電話した。」
妻はしぶしぶOKをしてくれたが、瞳だけではなく、声まで怒っていた。 これなら私以外の人間でも妻の気持ちを理解することができたであろう。 それから数日、妻はずっと機嫌が悪かった。
「ねぇ・・・やっぱり帰ろぉ・・・」
日曜日、妻は何度もこの言葉を繰り返した。 私のスーツの袖をつまんで、駄々をこねる子どものような顔をしていた。 家の前まで来ても覚悟が決まらないようだった。
「ここ・・・」
視線をあわせずに教えてくれた。 私はためらうことなくチャイムを押した。 妻が慌てて柱の陰に隠れる。
「いらっしゃい。」
妻の母親らしき人が迎えてくれた。
「あの・・・」
私があいさつをしようとすると、門の陰から妻の手が伸びた。 妻はいつもにも増して鋭い瞳で私を見つめている。
「この人がお母さん。」
それだけを言って指をさした。
「そんな言い方ないでしょ。」
久しぶりに会ったはずなのに、毎日見ている子どもを諭すような言い方だった。 妻の母親はいい人のようである。
「お義母さん。初めまして。」
私は姿勢を正して一礼した。
「あらどうしましょ。真紀子の母です。 ・・・愛想のない娘でごめんなさいね。」
愛想がないことは私もよく知っている。
「もう帰っていい。」
妻は帰る気満々である。 しかし、家にも入らずに簡単な挨拶をしただけで帰るわけにはいかない。
「待って。まだ結婚の話をしてないよ。」
私は根っからの体育会系の人間である。 ケジメだけはつけておかなければ気が済まない。
「ごめんなさいね。どうぞ、入って・・・」
妻がすぐに謝るのは義母に似たのだろうか。どこかで聞いた覚えのある言葉の使い方だった。
「おじゃまします。」
私は義母に続いて家に入った。 妻もしぶしぶついてきた。 瞳が完全に死んでいる。
「ちゃんと挨拶しないと帰らないからね。」
私が小声で告げると、妻はあきらめたように首を縦に何度か振った。
「座って待っててね。今、お茶用意するから。」
案内された和室で座らずに待った。妻は落ち着かな様子でうろうろしていた。
「お義父さんは?」
義母に聞こえないように妻に問いかけたが、 妻は視線もあわさず首を小さく横に振るだけだった。 知らないのか知りたくないのか、判断できなかった。
「待たせちゃって、ごめんなさいね。」
義母が謝りながら戻ってきた。
「どうぞ。座って。」
妻はちょこんと正座して座った。 早く終わらせて帰りたかったのだろうか。 しかし、私はまだ座るには早いと思っていた。
「あの・・・お義父さんは?」
私は敢えて2人が避けている話題に触れた。
「お父さんね・・・ちょっと用事があって出かけてるの・・・」
義母もあたふたしている。 よっぽど義父に会わせたくないのだろう。
「じゃあ、待たせていただきます。」
妻は信じられないものを見つめるような瞳で私を見上げていた。 義母もどうすればよいのかわからない様子だった。
「ちょ・・・ちょっと、なに言って・・・」
妻の顔から血の気が引いたとき、玄関で男の声がした。
「おい!誰か来てるのか!」
想像以上にガラの悪そうな声だった。
「あらイヤだ。帰ってきちゃた・・・」
義母が玄関に向かおうとしたが、義母が開けるよりも早く和室のふすまが開いた。
「なんだお前!俺の家でなにしてやがる。」
私よりも20cm以上は身長の低い年配の男性がそこにいた。 私は毅然とした態度でその男性と接した。
「真紀子さんのお父様ですか。」
義父はちょっと驚いた様子だった。
「真紀子?・・・真紀子が借金でも作ったのか?」
私が借金取りにでも見えたのだろうか。 ゴロツキのような目つきで私を上から下まで舐めるように見ている。 しかし、私が義父を恐れることはなかった。 野球部の先輩と比べればまったく恐れるに足りなかった。
「突然お邪魔して申し訳ありません! 今日は真紀子さんをいただきに来ました!お義父さん。真紀子さんを私に下さい!」
私は外野まで聞こえるような大きな声で叫んだ。 その声に押されたのか義父の態度が変わった。
「真紀子が欲しい?」
「はい!真紀子さんとの結婚をお許しください!」
私は間髪入れずに繰り返した。
「おう!真紀子なんかいくらでもくれてやる。さっさと持っていけ!」
明らかに義父は私を恐れていた。 妻にその姿を見せることができただけでも、ここまで来た甲斐があった。
「ありがとうございます!」
私は改めて一礼した。
「いちいち叫ぶな。鼓膜が破ける。」
義父は犬でも追い払うかのように手を振ると家の奥に消えていった。
「お義母さん。失礼します。」
私は妻の手を取ると妻の実家をあとにした。
「お父さんより恐い人、初めて見た・・・」
帰りの電車で妻が優しく微笑んだ。